
総合評価
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powered by ブクログここまで、ナメクジが這うように膨大な時間をかけて、断続的に『性の歴史』全四巻を読んできたが、残念ながら僕にはフーコーが何を言いたいのかピンと来なかった。というか、はっきり言ってつまらなかった。 ということで、以下の感想はほとんどの人にとって何の参考にもならないだろう。/ フーコーが何を言いたいのか分かっていないのだから、批判などできようはずもないが、それでも若干の不満が心に残った。 フーコーは、本書で「欲望の解釈学」を展開するにあたって、2〜5世紀のキリスト教教父たちの文献を分析しているが、それは何故なのだろう? 世界にはたくさんの宗教が存在し、その構成は次のとおりだ。 1. キリスト教:約24億人 (世界人口の約32%) 2. イスラム教:約18億人 (世界人口の約25%) 3. ヒンドゥー教:約11億人 (世界人口の約15%) 4. 仏教:約5億人 (世界人口の約7%) 5. 無宗教:約12億人 (世界人口の約16%) もちろん、フランスではキリスト教が一番多いだろうが、世界的に見れば、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などの歴史の分析も必要だったのではないか? あるいは、旧ソ連や現代中国の社会主義や共産主義国家における状況だっておさえておくべきだったのではないか? フーコーは、次のように書いている。 【真理の義務は、信仰として、そして告白として、キリスト教の中心にあるということだ。「コンフェッション」という語の伝統的な二つの意味〔罪の告白と信仰の宣言〕は、そうした二つの側面をカバーしている。(略) もちろん私は、キリスト教において信仰として理解された真理の義務の問題は脇に置いたままにして、告白として理解され、過ちと救済のエコノミーにおいてその効果を得る真理の義務のみを考察するつもりである。しかし、それら二つの側面のあいだの関係は、絶えず思い起こされねばならないだろう。そしてそれはまさしく、過ちについて「真を語る」ことが、キリスト教において、罪の告白を求める宗教(略)の大多数に比べておそらくはるかに重要な位置を占め、いずれにせよはるかに複雑な役割を果たしているということを、常に強調する必要が生じるであろうからだ。少なくとも、ギリシアおよびローマの宗教と比べて、キリスト教は、その信者たちに対し、自分自身について「真を語る」という義務を、その形式においてはるかに高圧的なものとして、その内容においてはるかに多くを要求するものとして課したのである。 そうした「真理陳述」の新たな諸規則を通じてこそ、キリスト教において肉に関して語られたことを理解しようと試みなければならないのだ。】/ フーコーはギリシア、ローマとは比較したと言うが、それならイスラム教やヒンドゥー教はどうなのか? キリスト教だって数多の宗派があるだろうし、それらの教義は千差万別なのではないか? 世界の戦争や地域紛争の多くが宗教に起因している中で、たかがヨーロッパだけの宗教の歴史を分析して、これが(世界の)『性の歴史』ですなどと、フーコーにだけは言ってほしくなかった。 同じくフーコーの『狂気の歴史』は「古典主義時代における」との限定がつけてある。 今回も同様に、「初期キリスト教における」という限定をつけるべきではなかっただろうか? ほらほら、おじいちゃん、解説読むのまた忘れてるよ。 「キタ――(゚∀゚)――!!」 だから、そこじゃないって!
4投稿日: 2025.06.16
powered by ブクログ【はじめに】 フーコーの死により未完に終わっていた『性の歴史』。第四巻の存在は知られていたが、フーコーの死後出版の禁止という遺志により永らく世に出されることがなかった。 フーコーの死後三十年以上経った2018年になり、フーコー研究者のフレデリック・グロが編者として遺稿の権利者の許可を取得し、ようやく出版にこぎつけたのが本書『性の歴史 IV ― 肉の告白』である。2020年12月ようやく日本語訳が出版された。『知の考古学』を翻訳し、わかりやすい解説本『ミシェル・フーコー』を書いた慎改康之さんが翻訳したものである。『ミシェル・フーコー』で、海外で出版されていることを知った『肉の告白』について、ブクログのレビューで「慎改さんに翻訳してほしい」と書いたら本当に慎改さんが翻訳してくれていた!なので、 『性の歴史』は、第一巻にあたる『知への意志』が1976年に出版された。1975年に出版された『監獄の誕生』に続き、新しい権力の構造である「生権力」の分析や、性に関する言説は古典主義時代抑圧されてはおらず、逆に饒舌であったという言明など非常に世の中に受け入れられる要素が含まれて社会現象にもなったという。その後、第二巻『肉と身体』、第三巻『少年十字軍』、第四巻『女性、母、ヒステリー患者』、第五巻『倒錯者たち』、第六巻『人口と人種』という形でシリーズ化していくという計画もその中では言及されており、その後の出版が待ち焦がれることとなった。 その八年後、フーコーの死の直前に出版された第二巻『快楽の活用』、第三巻『自己への配慮』は、第一巻で予言された計画とは大きく外れ、大きく時代を遡ってギリシア時代の性愛、ローマ時代の性技術について語られた第二巻、第三巻は読者を当惑させ、期待を裏切ることとなった。自分自身も第一巻は知的興奮を持って読み進むことができたが、第二巻以降はなぜフーコーがこの本を書こうとしたのかが理解できなかった。 第四巻『肉の告白』は、おそらくは第一巻執筆時点では第二巻『肉と身体』として構想されたもので、実際にはすでに1982年に手稿が出版社に手渡されていたのだという。しかし、フーコーがキリスト教世界の肉を巡る考察を行った結果として、それを理解するためにはそれ以前の古代ギリシア時代、ローマ時代にまで遡る必要があるとして書かれたのが第二巻、第三巻であった。したがって、第二巻、第三巻で感じた違和感は、この第四巻が出て初めて解消されることとなる。 【概要】 本書がターゲットとする時代は、二世紀から五世紀にかけての初期キリスト教社会における性の扱いである。当時のキリスト教神学を主導していたクレメンス、カッシアヌス、アウグスティヌスといった教父たちのテクストを参照して、当時の性倫理や聖書解釈の論理を辿っていく。そこで見つかるのは、自己の自己の新しい関係の確立であり、西洋に特有の法権利の対象となる主体だったのである。 まず、この時代に特徴的なものは教会における告白の儀式である。そこでは自己を見つめて真理を産出することが必要となってくる。全能の神は真実を知っているため、ここで必要なのは神に真実の内容を伝えることではなく、真実を告白するという行為こそが重要となる。 性道徳においては、神の国におけるキリストの花嫁となるべき処女・童貞性を守ることのキリスト教的価値の重要性に触れられる。ここで処女・童貞性を守って生活する修道制の確立が重要なものとなる。まず、自らの意志でもって修道院生活を選択することの論理的必要性が説かれる。そして、修道院生活で行われる徹底した第一の徳とされた従順さの強要、それによって個人の従属化と個人の内面の客体化が進められたことが示される。そしてその節欲であり客体化は、際限のない義務となっていくのだ。 処女・童貞性への価値付与が行われると、一方の結婚生活における性行為をどのように位置づけるのが神学的な問題となってくる。それまで、結婚生活における性行為は規範の対象となっていなかったものが、処女・童貞性の比較において語られるようになる。結果として、崇高なる処女・童貞性に対して、結婚はそれ自体は善であると位置づけられるが、善であるための要件として聖書の産めよ増やせよの言葉通り、子づくりのためであることがまず要請された。そして、意志の外から個人を襲いくる情欲を満たすための行為は小罪とされ、結婚は情欲を満たす行為をその相手とだけに留めるための仕組みとして想定されるようになったという。この教会との霊的結合である処女・童貞性に対置される結婚の倫理・道徳と告白の行為がこの後の西洋社会の主体を形作ることになるのだ。 そうした後に、性の問題は意志的なものと非意志的なものを巡る問題、意志の構造そのものを巡る問題に帰着し、欲望の主体と法権利の主体が一体として思考されることとなったという。過去、快楽と関係を中心となっていたものが、欲望と主体を中心にして再構成されることになったというのがフーコーの見立てである。 【所感】 訳者の慎改さんは、自著『ミシェル・フーコー』の中で、フーコー自身の中で変遷を遂げた『性の歴史』の目的を次のように位置付けている。 「西洋の人間が自分を欲望の主体と認め、その欲望に問いかけることで自分自身の真理を明らかにしようとするに至るまでの系譜を辿る」 フーコー最後の主著となる『性の歴史』は、第二巻以降それまでのフーコーの著作とは明らかに異なった文体と趣向で書かれている。また、考察の時代もこれまでの古典主義時代以降の近代から大幅に遡って過去のテクストを分析している。そのために、『性の歴史』の第二巻および第三巻は社会に受け入れらることはなかった。 三十年以上のときを経て出版された第四巻は、さすがにフーコーの名前が当時と比べて相当に落ちることもあって十分な注目を集めたとは言えず、またそのために社会に受容されたとは言い難い。その内容も一般の人が容易に理解することができるものではないだろう。このたび、慎改さんの『ミシェル・フーコー』を副読本として参照しつつ読んだが、なかなか歯ごたえがある本だった。 それでも自分の理解するところ、西洋社会固有の、主体や個人の内面化が行われた原因の一つとして、自然の性と聖書に記載された神学的論理、聖母マリアと処女性などから生まれきたことを示した『性の歴史』は、長く読み継がれるべきものであるというのが自分の結論となる。性が権力の介入の表面となるのが、西洋社会によらない帰結であるとするならば、日本における性の歴史や、イスラム社会における性の歴史が検討し書かれることがあってもよいのではないだろうか。そして、重ねがさねフーコーの夭逝は残念なことである。 ----- 『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学』 (慎改康之)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004318025 『知の考古学』(ミシェル・フーコー/慎改康之訳)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309463770 『監獄の誕生 ― 監視と処罰』(ミシェル・フーコー)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4105067036
1投稿日: 2021.09.26
powered by ブクログミシェル・フーコーの「性の歴史」第4巻が出たという事実をネットショップで発見したときは本当に驚愕した。「性の歴史」1巻から3巻については、今から30年も前に、20歳辺りの私が大事に読み返し、ことに第1巻は何度も何度も再読した当時の愛読書だったのである。フーコー自身の死によって未完の書物として打ち切られたものと思っていたのに、その続刊がまさか今になって発行されようなどとは、夢にも思わなかった。 本書の訳者解説を読んだところ、フーコーは死ぬまえに、未公刊の遺稿は勝手に出版しないように、などと指示していたということだろうか。それがよくわからぬ経緯によって2018年にフランスで結局刊行され、邦訳が昨2020年12月に出たのである。 本書「性の歴史」第4巻は、フーコーの死(1984年)の時点で既に書き上げられており、もうじき出版の筈であったそうだ。従って、本書はメルロ=ポンティの遺稿メモをまとめたようなものとは異なり、完全に記述された完成した書物である。 読んでみると、この第4巻こそが「性の歴史」のシリーズ名にふさわしい、と思わせるものであった。 3世紀から5世紀辺りの、初期のキリスト教のテクストを探索して、処女・童貞性とか結婚とかの概念の形成をとらえてゆこうとする。「文献学者」であったニーチェにヒントを得たと思われるフーコーの得意の「考古学」の手法である。 西洋文化の初期において自己および他者をいかに管理しようとしたかが探られているようだ。 この原初の状態の把握によって、実は現在の社会の諸事象に対峙するための知を得ようとしているのだと理解したい。 とはいえ、これは3ー5世紀の西ヨーロッパのキリスト教関係の言説プロセスを追うという極めて限定的な仕事であって、そうした「知の原初的形態」としては、フーコーが手がけなかった中国史、インド史、あるいはまた別の文化の歴史・・・といった膨大な各領域において探究が残されている筈だ。 こういうのを読むと、セネカなどもフーコー風の読解法で読み込んでみたくなってくる。と同時に、「性の歴史」の1巻から3巻もまた読み返したくなったのだった。
3投稿日: 2021.03.07
powered by ブクログ目次だけ。教父時代ぐらいでおわりっすか。おもしろそうではあるが、いまとなってはこの手のをまずフーコー先生で読む必要はないだろうな、みたいな。
0投稿日: 2021.02.18
powered by ブクログフーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。 「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。 この話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな?みたいな感じで、ちょっとはぐらされた感じがあった。 その後、コレージュ・ド・フランスなどでの講義録がでてくることで、76年の「知への意志」以降のフーコーの思考プロセスの一旦を知ることができ、ギリシャ、ローマ時代を検討していくなかで、フーコーが「主体」というテーマに関心を移して、スリリングな思考を繰り広げていたことがわかってきた。 それでも、結局、「性の歴史」はどうなっちゃたのかというのは、ずっと気になっていた。 それが、日本語で読めるのだから、これはやっぱりすごいこととしか言えない。 さて、内容であるが、正直言って、最初の100ページくらいまでは、ちょっと退屈な感じ。2〜3巻でのギリシア、ローマ時代における性の記述もそこまでエキサイティングなものではなかったけど、それでも、ヘ〜この時代はそんな感じだったんだね〜という興味はわく内容であった。が、キリスト教的な禁欲性が強まってくると、ギリシア、ローマの延長的なところもあるのだけど、読んでて、なんだか辛くなってくる。 それでも頑張って読んでいくと、「処女」「童貞」の話しになって、いわゆる夫婦間の性行為の関係の議論に展開し、徐々に話は面白くなってくる。 そして、最後は、アウグスティヌスの議論に流れ込んでいって、ここは、なんとも感動的というか、さすが、な展開。 細かい議論は、省略するが、ここではアウグスティヌスによる人間の「意志」ということ、そして「リビドー」といった概念についての議論が展開されていく。 なんとアウグスティヌスのリビドー論が、第1巻で議論されていた精神分析の話しに10数世紀を跨いで、繋がっていくんだ。 第1巻での議論が、こんな形で回収されていた、まさにここで「性の歴史」が完結したのだと感銘をうけた。 そして、アウグスティヌスの議論は、多分、ハンナ・アーレントのこれまた未完で終わった「精神の生活」の議論にも繋がっていくし、中動態、つまり文法的な主語=主体の問題にもつながるはずで最近の関心事にもずばり当たってしまった感じ。 まだまだ、理解できていないことも多い。第1〜3巻も含めて、読み直ししつつ、もう少しこの世界に浸っていることにする。仲正さんの「講義」も時を同じくして、出ていることだし。
1投稿日: 2021.01.05
