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2001:キューブリック、クラーク
2001:キューブリック、クラーク
マイケル ベンソン、中村 融、内田 昌之、小野田 和子、添野 知生/早川書房
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総合評価

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    『助けとなったのが、ジョゼフ・キャンベルの画期的な研究書「千の顔をもつ英雄」だ。(中略)キャンベルによれば、それには「出立・イニシエーション・帰還」がかならず含まれているという。この三位一体の構造は「単一神話(モノミス)の中核単位と名づけてもよい」とキャンベルは記している。(中略)キャンベルの研究の助けを借りて、キューブリックとクラークは、人間の神話の原型的作品を徹底的に調べあげ、そのひな型を拡張して、ただひとつの物語とただひとりの英雄どころか、ただひとつの種でさえなく、ヒトのたどった軌跡すべて―キューブリックが一九六八年に使った言葉を借りれば「サルから天使まで」を包含した。この点で、彼らはフリードリヒ・ニーチェが一八八五年に発表した哲学小説「ツァラウストラはこう語った」にも公然と言及していた。人類は変化の途上にある種にすぎない、みずからの出自が動物であることを理解できるほどには知的だが、まだ真の文明化はとげていないという思想に基づく小説である。それはふたりとも首肯できる考えだった』―『第1章 プロローグ――オデッセイ』 「2001年宇宙の旅」はもちろん観た。今はなくなってしまった銀座の外れに在ったテアトル東京で。本邦初公開から十年ぶりのリバイバル上映。高校二年生だった。それはスターウォーズのエピソードⅣが封切られた年。そしてまもなく最初のガンダムがテレビ放送される頃。世の空想科学小説好きで映画好きな若者たちで劇場はごった返していた。途中休憩で客席の灯りが灯った時の何とも言えない雰囲気のことを思い出す。皆それぞれに数々の疑問や感想を抱いているのに、それを口にすることが憚られる。つまり、オタクたちにいつもの饒舌さを失わせる程に映画は(そしてそれはまだ終わっていないのだ)圧倒的だったのだ。今のように簡単に映像に触れられる時代ではない。皆噂だけで妄想し期待して映画を観に来ていたのだ。そして映画は想像を遥かに超えるものだった。それは映像に限ったことではない。そこに流れていた音楽は、リゲティ。聞いたことのない音が頭の中を駆け抜けた。時はCDという媒体が世に出る前。もう一度聴きたくて、東京文化会館で楽譜とレコードを借りて視聴したことを思い出す。映画のサウンドトラックのLPもリゲティのレコードも在庫はないけれど、そこにならあると教えてくれたのは、秋葉原のこれまた今は無き石丸電気レコード館のクラシックフロアの店員さんだった。リゲティのLux Aeterna、永遠の光。 などと言うように、映画好きなら誰しも自分と「2001年宇宙の旅」との遭遇のエピソードを語るに違いない。本書の著者もまたそんな映画との邂逅のエピソードから本書を始めている。因みに「未知との遭遇」封切りもこの年の始め。そんなSF映画ブームの後押しもあって「2001年宇宙の旅」はリバイバル上映が為されたのかも知れない。 さて、この六百頁に及ばんとする大著の著者マイケル・ベンソンは本文中のエピソードからすると似たような年齢だなと思ったら一つ上。年端も行かない頃に初公開中のこの映画を観たという。その印象は強烈だっただろうけれど、思春期以降の映画鑑賞史はほぼ似たようなものであった筈だ(もちろんあちらはガンダムの初放送は観ていないだろうけれど)。なのでスターウォーズなどと比較しながら2001年宇宙の旅の凄さを噛み締めて来た筈だと思う。アーサー・C・クラークの小説も読み、何とかこの難解な映画を理解したいと思い続けてきたに違いない。その思いが、執念深い探索者が事実の影を追うように一次資料に当たり、直接の関係者に話を聞き、それらを映画が創り上げられる時系列に沿って整理し直したこの大著に結実し滲み出ている。翻訳者の解説にもある通り、今後これ以上のこの映画に纏わるドキュメンタリーは出て来ないのではないかと納得させられる一冊だ。 とは言え、この大著は映画に込められた意味や作家や監督の意図のようなものについて主観的な解釈を長々と書き記した本ではない。飽くまで著者は記録媒体の後に静かに佇みそれを差し出しているという印象を残す。本書を読めば解る通り、そもそもこの映画の意味を言葉にすることは不可能であり、二人の原作者にもそれが最終的に何を現すのか解っていなかった可能性すらあるとさえ思える。しかし作品には厳然と見たものを黙らせる力があり、言葉を用いない情報伝達手段でもって饒舌に「何か」を語る。その「何か」が虹のように追いかけても追いかけても捕まえかねるのが問題なのだ。本書もまたその轍を、ある意味、踏襲し、不必要に著者の言わんとしたことを解釈し言葉にしたりしない。ただ他人の言葉のコラージュの中にだけ、それはある。実際、映画の意味、あるいは物語性について言及されているのは冒頭に引用したプロローグくらいだ。尤も、この事実の掘り起こしは改めて作品中に散りばめられた色々なものを結び付け、四十年以上経ってから自分自身何か解ったような気にさせてくれるのに十分なものだったけれど。神話、キャンベル、モノミス、モノリス、サル、ヒト、ニーチェ、ツァラトゥストラ。なるほど。 原作者二人の意見の相違と言うのは有名な都市伝説であるけれど、それについてもこれ程真摯に中立的な立場を貫いて記載されたものはないのではないだろうか。そのあらましを知るだけでも読む価値が充分にある。実際、そんな都市伝説に感化されていた自分は、表紙をめくった最初の頁にあるカラー写真の中で二人が月着陸船アリエスのセットに微笑ましく並んで立つ写真を観て違和感を覚えたが、最終章まで読み切った後は、その写真を掲載した意図を感じ取れたようにも思えた。どちらか一方の公式見解もそれはそれで正しいが、お互いがお互いを認めていたという事実こそがこの傑作を生んだ要因であったのは間違いがない、そのことを著者は皆に言いたかったのだろう。 最後にこれはどうでもいいことなのだけれど、自分はHALと呼ばれる人工知能と誕生日が同じ。もっともHALの方が34年程年下ではあるけれども。HALが生まれたとされた日、自分はコネチカット州の雪深い街にいて、最寄りのモールに入っていた小さなブックストアに「2001: Space Odyssey」のコーナーがこじんまりと設えてあるのを見て、そのことを久し振りに思い出したのだった。

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    投稿日: 2024.09.28
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    映画「2001年宇宙の旅」という類い希なるマスターピース がいかにして生まれたかに迫るドキュメント。やはり観た ことのある映画だと楽しみが倍増するな。 この本を読んで思うのは、この映画が様々な才能によって 出来上がっていることは当たり前だが─原作に名を連ねる クラークやスリットスキャンのダグラス・トランブルは もちろんのこと、俳優のデュリアやロックウッド、リクター、 ウェストン、マスターズ、ラング、フリーボーンなど、数 多くの才能のどれ一つ欠けても仕上がらなかっただろう。 だがそれでもやはりこの映画はキューブリックという一つの 才能、あるいは狂気によって作り上げられたのだということ。 やはり映画はおしなべて監督のものなのだな。

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    投稿日: 2021.07.29
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    名作「2001年宇宙の旅」の製作過程が克明に記された文章は翻訳の具合で読みづらさは散見するも数々の資料に基づいた当時の雰囲気を垣間見れるので楽しくなる。ああ、あのシーンにはこんな苦労があったのか、キューブリック監督とスタッフやキャストの間に軋轢や親交が交錯する歳月が綴られる。もう一度観たい、もちろん大きなスクリーンで。

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    投稿日: 2020.01.31
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    「人生が無意味であるからこそ、人はみずからの意味を創りださずにはいられない。」スタンリー・キューブリック / 「ひょっとしたら、この惑星におけるわれわれの役割は、神を崇めることでなく、神を創りだすことかもしれない。」「ふたつの可能性が存在する - 宇宙にいるのはわれわれだけか、それともそうではないのか。どちらもおなじくらい恐ろしい。」アーサー・C・クラーク / 「十分に進歩したテクノロジーは魔法と見分けがつかない。」クラークの第三法則

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    投稿日: 2019.10.10
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    長年、この映画に関するドキュメントがあれば… と思っていたがその願いを十分に叶えてくれただけでも 十分なのに、見たことのない写真や初めて知ることが 満載で、映画のファンは読むべき一冊。

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    投稿日: 2019.01.06