
総合評価
(25件)| 9 | ||
| 6 | ||
| 8 | ||
| 0 | ||
| 0 |
powered by ブクログ対訳ではなく、「大意」が付されるのだが、よく読むと相当に省略されていることがわかる。特に13章は解題でも扱いかねている様子がみえる。
8投稿日: 2025.09.25
powered by ブクログ読んだのではない。、聞いた。情けないのだろう、わからない。どんな内容か調べてみた。 親鸞聖人の思想を記した「歎異抄」は阿弥陀仏の救いを信じる者の心情を描く書である。だがその言葉は一見簡明ながら深淵な意味を孕む。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という逆説的な教えは人間の罪深さと仏の慈悲を鮮やかに示している。その核心は自力ではなく他力に委ねる信仰の重要性だ。親鸞の教えに触れることで私たちは自己の弱さを見つめ直し、救いの意味を問う旅へと誘われる。この小さな書物は時代を越えて信仰の本質を問い続けているとある。
0投稿日: 2024.12.27
powered by ブクログさっぱりわかりませんでした!お恥ずかしい! 仏教の基礎から出直してきます。 私の知識不足ということで、評価できません(汗)
11投稿日: 2024.04.29
powered by ブクログ他力本願の本質を教えてくれる書物である。人間の持つ社会性について考えさせられた。仏教が高度な哲学を持つようになってしまい、民衆から離れていき、そのような中で生まれてきた新しい仏教の形なのであろうか。
0投稿日: 2022.11.04
powered by ブクログ21世紀の言葉で言えば、浄土真宗は『インクルーシブ』だなぁ、と言うのが第一の感想。 庶民に広く親しまれた理由がよく分かる。 (当然だけれど)日本史の中でもトップレベルの名著、古典。一文一語の重みが凄まじい。 歳を重ねる度に、この本の奥深さが分かっていくんだろうなあという生への"悦び"も感じられた。
0投稿日: 2022.04.07
powered by ブクログ親鸞の口伝の教えを弟子の唯円が門徒のためにまとめたもの 。師の存命中に異端論争が起きることから、真宗とは難解なものなのでしょうか。また、この書が明治の世まで秘されていたことは、どういう理由なのでしょうか。なんとも、不可解なテキストです。
10投稿日: 2021.08.14
powered by ブクログ親鸞を師とあおぐ唯円が、その教えに対する異説があるのを嘆いて書いたという『歎異抄』。 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 いわゆる悪人正機説で有名な親鸞。 とはいえ、善行を積まずとも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏して浄土に行くことができるという他力本願の思想は、当時においても違和感を持たれており、そうはいっても善行は大事だよね、というような他力本願思想の徹底さを欠く異説がたくさん出ていたという。自分がまさにその言葉を聞いたときに持った違和感は時代を越えておそらく多くの人が共有するものだろうし、そういった反応があったという状況は容易に想像できる。親鸞はその他力本願の思想のゆえに正式な弟子を取らなかったが、それは宗教的権力を保持し、宗派を維持しようとするものにとっては、そのままでは受け入れがたいことだったのかもしれない。 そこで唯円は、親鸞の言ったことを信じ、その言葉とはずれたことを言う輩に対して、親鸞はそんなことは言っておられなかった、と嘆く。これに対して、批判して相手の主張を変えるために戦おうとするのではなく、嘆くという行為が親鸞の教えに忠実なる者の行動らしい。なぜなら、親鸞の教えは、あるがままを受け入れる、という行為を是とする考えに行きがちであると思えるからである。 親鸞の教えは『教行信証』と呼ばれるものである。 「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(教)は、本願を信じ(信)、念仏をまうさば(行)、仏になる(証)、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」(第十二章)という適切な言葉がある。これが真宗の教義である。『教行信証』の説くところもこのほかにない。したがって、この簡単なる言葉を心にうけいれ、身につけることができれば、それで真宗の信者といわれるのである」 つまりは、念仏至上主義なのである。一心に念仏を信じること、救われるから信じるのではなく、ただ信じ行うのである。 「親鸞においては、その真実の道理として心にうけいれるべきことを「本願を信ず」といい、その道理を事実として身につけてゆくことを「念仏をまうす」というのである」 「有限者である衆生の知識では、無限者のあり方を規定することができない」 というとき、神の意志を個人の意志や行動で左右することはできないとして、救済されるかどうかはすでに決まっているとしたカルヴァンによる予定説とも相通ずるところがある。 「それは真如(人智を超越した真理)から、我らの上に現れ来るものというほかないものである。故にそれを如来という。阿弥陀とは即ちその如来の徳である。これによって、不安と苦悩とにある我らにかけられた大悲の願は如来の本願といわれ、また弥陀の本願といわれるのである」 そこには自力では救われないという認識がある。ゆえに他力本願の徹底が説かれるのである。それはカルヴァンがそうであったのと同じく、超越者の超越性を突き詰めて考えた場合には、論理的にたどり着く境地なのかもしれない。一方でカルヴァンの予定説は救われるのは選ばれた人であり、親鸞の他力本願はすべての人が救われるというものであるところが大きな違いであるように思われ、それが宗教としての性格にも大きな違いをもたらしているとも考えられる。 「されば老少善悪の人をえらばない弥陀の本願は、正しく「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(第一章)である。その本願による不安と苦悩のないところを浄土という。したがって如来の本願とは、衆生を浄土にあらしめたいということである」 それでは、最後に、なにゆえにそこまで念仏に信心を置くことができるのかという疑問が残る。それに対しては、「私は信じるから」との答えであり、それがたとえ間違っていたとしても後悔はないのだと言うのである。 「念仏は浄土へ生れる種であるか地獄におちる業であるか知らないと答える。それは信心は知識でないことを思い知らしめるものである。さらに「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という。そこに自信の現実があるかぎり、法然聖人に欺かれたとしても後悔はない。いのちをかけての信心である」 キルケゴールが「信仰の跳躍」と名付けたものが、そこにあるのではないか。信心は知識ではなく、行であるというのはそのことを指すのではないか。先ほど論理的に突き詰めるとそこには予定説や他力本願のように、超越者の無限性に対する人間の有限性を強調する教義と心性が生まれると書いた。その通りである。論理によって真実に辿りつくためには真なる命題から出発する必要がある。その帰依すべき真なる命題が、親鸞の場合は弥陀の本願であり、キリスト教プロテスタントの場合には聖書であったのだ。 「その煩悩の心も念仏になごめられ、その罪悪の身も本願の大悲にたすけられてゆく。それ故に念仏にまさる善はなく、本願をさまたぐる悪はないのである」 宗教が成立するためには、信仰の跳躍が必要なのである。その意味では、オウム真理教も正しく宗教であったのだと思わざるをえない。イスラム過激派も同じく正しく宗教であると思わざるをえない。無論、彼らが親鸞に似ているという意味ではない。ただ、宗教として存立するために何かに帰依するという段階をどこかで踏まざるをえず、そこには跳躍が必要であるということだ。そして、いつどこへ向けて跳躍したのかというのが、その宗教の根っことなるのではないのだろうか。 親鸞は日本における宗教改革者の一人であった。その過激さがゆえにこうやって宗教それ自体について考えさせる思想家でもある。その親鸞から興された浄土真宗が日本有数の宗派となっているのは日本の宗教観念の懐の広さというか何事もそのまま受け入れて内部化する力というのは相当なものだと思う。 --- 最近、『歎異抄をよむ』という本がそれなりのベストセラーになり、アニメ化までされていると聞いて、何がそうさせているのかとても不思議になった。必ずしも現代の趣向に会う宗教観とも思えないのだけれど。
9投稿日: 2020.11.09
powered by ブクログ読書会課題本。久しぶりに手にとったが、文句なしの名著。格段ごとに入れている解説も簡潔にまとまっていて、読みやすい。しかし仏教学の素養がないと理解しづらいかもしれない。
0投稿日: 2020.11.04
powered by ブクログ歎異抄。親鸞のお弟子さんとは言ってはいけないのかな。晩年を共にした唯円が著者という。歎異抄は異議者を嘆いているのであって、論破しようとしているのでは無い。なので歎異抄なのだと知る。嘆いているのだね。しかし難しい。一回読んでも分からない。だから解説本があるのかな。現代語のところだけを流し読んだからか。他力の念仏。仏教は深いね。
0投稿日: 2020.08.05
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
浄土真宗の開祖・親鸞の弟子である唯円によってまとめられた、親鸞の言っていたことをまとめた前半10章、後半は親鸞没後に浄土真宗内で乱立する間違った解釈を正す ため、陥りやすい間違いをまとめている。 なによりも、親鸞のラディカルさを感じる。 短い経典ながら、強いコンセプトがいくつか。 ・悪人正機(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや) 努力する→善人であるから救われる、といった公正世界仮説に似た直観にもとづく認識から転換、それはあらゆる人を救う阿弥陀の本願とは違う。悪人(=あらゆる煩悩を抱えた人=わたし)だからこそすくってくださるのだ、善人ならばなおさら。 仏教を救済型の宗教に変えた法然のコンセプトをさらに徹底させている。 ・いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし =地獄こそ私のすみかなのです 阿弥陀仏の本願を信じること(信心)をもつこと、救済されることを信じることが大切。結果として救われないとしても、その信心を疑うことはない。そもそも地獄こそが自分のすみかである。 ・慈悲始終なし そもそもこの世に本物の慈愛はない。阿弥陀仏の本願のみが慈愛。 なぜなら、自分のちから(自力)で救うことのできない人はたくさんいる。本願(他力)のみがあらゆる人を救うことができる。 ・唯円との問答 唯円が「救うことが約束されているとしても、心躍らない自分がいる」という告白にたいして、「あなたも同じことを思っていたのですか」と語る。 大昔からいままで流浪し苦悩していた旧里(現世)は捨てがたい、いまだ見ていない安生とされる浄土に恋しい気持ちはわかない。だけど、それこそが煩悩であり、だからこそ私たちの救済は約束されているのです などなど。 いま、アランの幸福論を読んでいるが、その関連で 「幸福でいることを誓う」というコンセプトが真宗の「信心」と似ている、となんとなく思う。 100分で名著の釈徹宗による解説・動画を見つつ理解をふかめる。 「唯円はよく聞いてくれたと思うんですと」とか、「しびれます」というような表現で思想を語っていたことが印象的。 そのなかで、こうした身を助けるコンセプトがある一方で、宗教・経典のなかにある、役立つコンセプトをパッチワークしてしまう現代の流れに危険がある、とも語っていた。宗教の役割は人々に現実・社会と違う世界を開き、人々を救うこと、だからこそ危険であり、そうした危険性を認識することなしに美味しいところどりすることは時に強い攻撃性を発揮することもある。オウム真理教がその例。宗教は攻撃性を肯定さえできる。
0投稿日: 2020.06.01
powered by ブクログ「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」 で有名な歎異抄を再読。あの司馬遼太郎さんが「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」と語り、映画化されたようだ。 正直、前半の「教義」で予習しても、よくわからない。ただ、鎌倉時代に革新を起こしたであろう平易な文章に、現代のブログ的な自然体を感じた。今後も読み深めたい。
0投稿日: 2019.09.16
powered by ブクログあまりにもモダンな考え方で衝撃を受けた! 歎異抄は親鸞(1173-1262)の教えを直弟子の唯円がまとめたと言われる書。親鸞の没後作られた。親鸞の教えをやさしく説明したもので、大きく分ければ前半が親鸞の言行録、後半がそれに対する唯円の解説となっている。 わたしにはどんな宗教に対しても信仰はなく、他力本願という言葉くらい聞いたことはあるけれども…… 「他力本願なんて、なんてテキトーで安易な教えなの。修業するとまではいかなくても、生活に気をつけるとか、よいことをするとか、そういうのはないの?」というふうに考えていたけれども、ぜんぜん違った。 ここからはわたしの読み。 「他力本願」とは、簡単にいえば「阿弥陀仏を信じてひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できる」ということで、やることといえば念仏を唱えることしかない。 やること自体は誰でもできて、断食とかもなくて簡単そうだが、実はこの“信じる”がポイントでかつ、究極的なクセものだ。 わたしの理解では「信じた」とか「理解した」とか言葉でいえる程度ではぜんぜん信じたことになってなくて、もう疑問にすら思わない、自分にとって常識化して、意識して思い出そうとしなり考えたりしない限り意識に上ることもないくらい、いやそれよりも上だな、二度と意識に上ることはないくらいにまで、“信じ切る”必要があるということを、親鸞は手を替え品を替え繰り返し言っている。 なにを信じるの? まあ表面上は「阿弥陀仏」ということになるんだろうけれども、おそらくそうじゃない。こういう言い方をすると自力──他力の反対。自分の意思で何かをおこなうことで、親鸞は自力の信仰を全面否定している──が混ざるので言い方が難しいけど、抽象的には「死後の世界は怖くない、もしくはどうであっても少なくともいまの自分に理解できることではないから、この世に生きるあいだはこの世で生きていること自体に完全な信念を持て」ということなのではないだろうか。 つまり、あなたが多少なにかで失敗したとしても、悪い事をしてしまったと思っても、そういうのをいちいち悔やんではいけない、死後の世界を気にかけるよりもいまが大事で、いまを生きていればその先は勝手についてくる(というか導かれる)、ということを完全に信じて、そのように生きなさい、と言っているように思える。 なるようになるというか、ケセラセラというか。そういうのに完全に身を任せよと。 なんだそんなことか、そんな無責任でいいのかって思うけど、でもねえ、それを自分の人生で完全に実践せよと言われても、たぶん難しいだろうな。
13投稿日: 2018.09.23
powered by ブクログラジオか何かでこの本が取り上げられており興味を持って手に取って見る。 親鸞に師事した唯円(ゆいえん)によって鎌倉時代に書かれた仏教書でとのことであるも、無学なワタクシには少々難解。五木寛之さんの著書から概念を掴んだ上で改めて読み直したい。
1投稿日: 2017.11.18
powered by ブクログ今ではウェブ上に様々な現代語訳の歎異抄をよむことができる。本書が出版された昭和33年当時も「現代語訳の優れたるものが続出している」とのことで、本書はあえて解題と解説のみ付したスタイルとなっている。歎異に書かれた思想が時を選ばず読まれていることを感じた。 近代につまずく時、人はたびたび親鸞を参照する。時にイエスと似通いながらも対峙する煩悶者として。時に西洋哲学に対する日本的思想の強靭な代表者として。現世における価値判断の欺瞞性の暴露や、近代的教育ではありえない絶対的な他力本願は、西洋思想に比する風格があると見なされてきた。 自らが内包する根元悪に対してどうしようもない絶望を感じ、それでも己の弱い心情として救われたいと涙ながらに執着するとき、人は「南無阿弥陀仏」を必死に唱えずにはいられない。これは絶望的な本願成就に対して絶対的他力以外にすがるものがない者たちのワラを掴む思いであり、また悪人こそ正機があるとするいわれである。 そんな状況におかれた者に対して歎異抄は語る。「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
3投稿日: 2017.09.26
powered by ブクログ私の能力では、一度読んだだけでは理解することが難しかった。 最後に書かれている「親鸞の語録と唯円の歎異とを結び付けての感懐」を述べている部分(本書岩波文庫の解題ではそう書かれている)を読んでみるだけでも良いかもしれない。
0投稿日: 2016.03.26
powered by ブクログ念仏唱えてれば救われるという通念が頭にあって、どうしても胡散臭く感じて手を出せずにいた。 ところが、親鸞のことばというものはそういうものでは決してなかった。彼のことばというものは、決して教えだとかそういう指導的なものでは決してなく、彼が思惟することで知ってしまった驚きから発せられたものだった。 念仏をひたすら唱えてれば救われるだなんて、彼は一言も言ってない。そんなの知らないとまで言い切っている。彼ならきっと、地獄に行ってもそこでも念仏を唱えているだろう。彼にとって念仏とは、それしかできないからそれをするより他ない、そういうものなのだ。 弥陀の本願という存在しない(知ることのできない)ものによって、この自分という存在が裏付けられてるというこの恐るべき逆説を知った時の彼の驚きは、カミュと異なり、反抗という形をとらず、信じるという形をとる。 自力・他力というのも肉体を指して、自分・他人というそんなちっぽけなものでは決してない。ひとは自分以外の何者にもなれない。この自分という存在なしには何も始まらない。念仏を唱えるのだって自分がいなければできない。人間の成すことはどこまでいっても自力なのだ。しかし、この自分という存在は、どうやっても自分ではない何かがなければ存在しえない。なんだこれは。この存在するはずのない存在に気付いてしまった以上、すべてが自力だと疑いえないのに、この存在がつきまとって離れない。知ることから考えることが起こる。ぽっかりと空いた宇宙に親鸞は投げ出されたのだ。 そして、この信仰はキリスト教の主が見せる熱情や怒りからくる畏れではなく、弥陀の悲しみから来るものだ。「甘え」と言ってもいい。だから、彼の信心はまるで弥陀に対して五体投地をせんばかりの強い力なのである。そうして彼は問いを問いとして生きることにしたのだ。弥陀に願をかけられる宿命として生きたのだ。念仏はそんな弥陀に縋り付く子どものようだ。 往生とは、どこかここではないあの世に生まれることではない。往生とは、弥陀が弥陀であること、理想が理想であることによって本願は実現しない。生きている限り死ねないことと同様に。だから、死ねと言っているのではない、死んでは本願は現実に実現されないからだ。本願は生きている人間にかけられたものだから。往生とは実現不可能なものによって実現を裏付けられてる。どうもこういう逆説的なものであるのだ。 そういう本願に支えられた人間の生だから、考えるということ、感じるということは人間に分け隔てなく与えられたものである。すべての人間が救われないというのはありえない、というのはこういうことなのだ。 善人なおもて往生というのは、自分で悪いと思うことはしないという当たり前を言っている。ひとの行うことは自分で善いと「思う」ことだ。この点で人間が行うことは無自覚に等しい。これが自力というものだ。 善は善だし、悪は悪というものすごく当たり前の話なのだ。 ところが真に悪人というのは、悪いと気づきながらも行動する、つまり悪いということに気付く存在がいるのだ。この瞬間に自分ではない存在に悪人は善人では気づきえないことを「知って」いるのだ。往生できないわけがない。善も悪もそれを善や悪とわかる存在があってのものだ。そうであるなら、この善や悪を知っている「この」存在は、善悪を包含・止揚した存在であるはずだ。この存在がなすことが善か悪かなんて、もうわかりようがないのだ。すべてが弥陀の本願によって許されている。そんな存在であるから、千人殺すことが逃れられない宿命とならば、せずにはおれないというだけの話だ。善く生きられねば死なねばならぬというソクラテスと同様に。 親鸞の場合には、念仏を唱えるということが善く生きることだった。ひとを殺したり、自ら世を嘆いて死んでしまっては、念仏を唱えられないし、弥陀の本願に気付き、念仏を唱えられる可能性のあるこの衆生を減らしてしまう。だから、しないのだ。だが、彼のように心から祈り念仏だけを行えるひとはそうそういないわけで。 真宗の教義書を読んだことがないのでわからないが、親鸞のこの信じて念仏を唱えよというのは、表面的なわかりやすさや、やりやすさが前面に出てしまい、弥陀の本願という存在に対する驚きへの気付きを体系化できなかったために、誤解されるのだ。 知らなければ経典をひもといて知ればいい。経典を読めなければ、とりあえず、念仏を唱えてみればいい、そうすればきっと気付くはずだ。彼がひとに求めるのはそういうやり方だ。各々、出来ることを各々やればいいと言っている。念仏か教義かなんて話ではない。 この点、禅というものは、そんなものをわけるなんて面倒くさいしややこしさを生むのだと一蹴したのだと思う。
1投稿日: 2016.03.08
powered by ブクログ親鸞の弟子唯円が、教えに出会った感激をあらわす。 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 の一節は有名。 もう、とにかくみんな救われる。 ポジティブすぎます。 完全他力の教えは自己の調和を目指す原始仏教とは全く正反対のものであろう。
0投稿日: 2013.04.23
powered by ブクログいい呪文がたくさんある(*^^*) 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」 「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」 「とても地獄は一定すみかぞかし」 「善悪のふたつ、そうじてもて存知せざるなり」 「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」 自分が悪人であるという実感に痛めつけられてどうしようもないころに目にした「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」という言葉。光って見えた。 「日月を切り落し、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。我輩は死ぬ。死んで太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」(『我輩は猫である』より)
0投稿日: 2013.03.04
powered by ブクログ善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。 外形的感想。 ひらがなが多いと頭に入らないです。そういう意味で結構辛い本でした。
0投稿日: 2013.02.25
powered by ブクログ浄土真宗の聖典。 読んで初めて分かったけど結構危険思想じゃないかこれ?? 念仏唱えてれば基本的に他力で往生できるし・・・。 そう思って色々調べてたらなんとベルギーでカルト認定されてたw 新興宗教じゃなくてもカルト認定ってされるのねw
0投稿日: 2011.12.10
powered by ブクログ浄土真宗の祖、親鸞上人没後、弟子の唯円が師の言葉をもとに編んだとされる書。 難しい仏典用語も無く、解説が付いているのにもかかわらず普段なじみがないせいか、よく解らないです。 なんとなく自力を誇らず、謙虚さが必要だと言われているような気がするのですが…。
0投稿日: 2011.07.06
powered by ブクログこれが一番薄くて良いです。「善悪はこの世の都合」みたいなセリフは、並の人間ではなかなか言えるものではありません。
0投稿日: 2009.09.13
powered by ブクログ専修念仏。 浄土を願い、ひたすら念仏を唱える。 すると他力で浄土へ参ることができる。 そこに善人悪人の区別はない。 ただただ仏を信じて念仏を唱えること、それが光明。 ということですかね。
0投稿日: 2009.07.22
powered by ブクログ鎌倉時代の書物ですが、意外と読みやすいです。そしてむちゃくちゃ面白い。善と悪って何か、とか、死ぬってどういう事か、みたいな問答が詰まっています。親鸞って人は案外アッサリ「わかりません」とか言っちゃうんだよな。その辺もすごく好きで。
0投稿日: 2008.07.29
powered by ブクログ唯円(1222-1289)の著。1300年頃刊。浄土真宗の開祖親鸞の直弟子である唯円が、親鸞の没後、真宗に対する諸々の誤解を払拭すべく、親鸞の言葉をまとめている著である。本文自体は非常に短く、すぐに読める。原文に加え、十分な解説が列記されていて非常に分かりやすい。「絶対他力」「悪人正機」「自然法爾」といった真宗の教義が非常によく分かる名著である。岩波文庫の売り上げランキングにおいても上位に位置しており、多くの人々に読み継がれている名著である。
1投稿日: 2007.07.22
