
総合評価
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powered by ブクログ三宅香帆さんがオススメされていたので読んでみました。 哲学的な要素も含まれていてまあまあ難しかったが、知ることができて良かった一冊。 この本の冒頭に書かれていた「〈大好きだ!〉攻撃」というタイトルの例が面白かった! (後半の答案含め) ボランティアの話はとても興味深い内容でした。
0投稿日: 2025.12.07
powered by ブクログ自分とは?わたしを定義するものは他者の他者であるということ 自分らしさ、自分探し、個性、内面と外面など、自分でありながらまた別の個が生じている。 他と比較して違いを見出すことで、自分という存在があらわれる。 わたしはだれ?という疑問のヒントにはなかなか結びつかないだろうし、正直言ってる内容は難しい。 私の目から見たもの(感じたもの・考えたもの)が私にとってのすべてであり、私の世の中である。 そこにどういう位置にいるのか、どういう効果があるのか。 ほぼ間違いなく世の中を変えるほどの力はわたしには持ち合わせていないのだが、半径数メートルを変えれたら、それらがさらに数メートルの範囲で何か変化を起こせたら・・ペイフォワードのような考えで世界が変わるかもしれない。 結局のところ何かはわからないが何かを考える時間を与えられた気分。 204冊目読了。
11投稿日: 2025.11.23
powered by ブクログ確固たる物語としてのじぶんを探せば探すほどただただ虚しくなる。自分とは独立して立ち上がる概念ではなく、その外側の世界、他者との関係性のネットワークの一結束点として、他者の眼差しの中に占めている景色のかけらの寄せ集めなのである。若かりし頃に多くの人が通るであろう悩みに、答えを与えるわけではないが、ただ自分という概念を解いて曖昧にすることで、世界の中で息するだけの心の隙間を与えてくれるだろう。
0投稿日: 2025.10.18
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
読書メモ&感想 わたしってだれ? 顔・身体こそ自分が1番知らない 性格や性の差異は社会の中で形成される 「わたし」という言葉も社会に認められて適応する →個人の私的可能性を捨て社会秩序の中に入れ込んでいる 成長で属性を身につけている訳ではなく、色々な可能性を失っているのでは。これが生きるということ 私たちは物事を解釈し区別して生きている 自分を他者ではないものと認識する 「ふつう」とは世界の解釈を共有していることにすぎない 自分は「非わたし」と差異化して分かることなのに、内部に問う 「アイデンティティはn個の属性によるn次空間上の座標」って良いね 他者にとって意味のある存在としてじぶんを経験する 「他者の他者」という認識によって自分が形成される ただ、目があったら目線を外してしまうようだとの一般論を立てているが、少し日本人的慣習に寄っているのでは?外国人は目が合うと声をかけてくるよ 「わたし」はどのわたしが使っても成立するので、唯一固有のわたしは死んでいるよね、ふむ。
0投稿日: 2025.10.04
powered by ブクログ鷲田先生による、じぶんとはなにか、わたしとは誰かという壮大な思考実験の一冊、と私は読んでそう解釈しました。 わたしとはなにかを考えるプロセスにおいて、他者の他者という概念から、じぶんとは何かという問いは自己の中に内在するわけではない、がしかし、わたしとする存在を決定づけるのは他者の認識によるとするなら、もはやわたしの生死は関係ないのではないか、固有名称すら必要ないかもしれないという話にまで至るが、やはりじぶんとは何かという問いに答えなどでない、というふうな感じで締めくくられている。 わずか170ページ超の薄いが骨太な新書は、立派な哲学書でした。久々に哲学してあたまが沸騰しています笑笑 余談ですが、題名がわたしとは誰か、としていない、曖昧という言葉で表しているところがまたいいなと、読み終えてそう思っています。
14投稿日: 2025.08.18
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
自分が存在するためには、他者に他者として認められなければならない。だから、親族のためにする家事、介護では、奉仕が当然と受け止められてしまい、自分の存在価値を認めることが出来ない。 しかしながら、自分という存在がぼやけることにはある種の快感があり、他者への異常な献身が例にあたる。(近年の推し活ブームもこれかも) じぶんになるということは、ありえたかもしれない自分を棄てること。 親に「子供とは気が合わない」と言われたら、親は子を他者として認めたということであり、こちらの勝ちである。 〜ここまで本の内容〜 人生というものを一貫したストーリーとして捉えるのは間違っているが(筆者の主張)、昨今自分の人生を壮大な物語にして、自分のアイデンティティを自ら作り上げたいとする人はかなりいるように思われる。進撃の巨人のイェレナとかこのタイプだと思う。
0投稿日: 2025.08.16
powered by ブクログ自分とは何か、大人になるとなかなか考える機会は無くなってくる中で、久しぶりに読んだ。 自分とは今までの人生のいきさつによって自分が確立していくという見方もあるが、逆にそれによって自由を奪われ、何者でもあり得た存在を脱し(死んで)、「じぶん」になっているという観点は、改めて考えさせられる。 難しく頭がこんがらがる部分もあったが、結論、卑しい考えなく、純粋に「他者」にとって意味のある存在になることが自分のアイデンティティの確立につながるのだと感じた。
0投稿日: 2025.07.24
powered by ブクログ私の頭では理解するのが難しかった。わたしってだれ?じぶんってなに?という人間の不安から生まれる問いに対して様々な具体例を織り交ぜながら説明をしているが、後半になるにつれ著者の考えが理解ができなかった。多分もっと大人になれば理解できるのかもしれない。前半はわかりやすく、共感できるところがあり、じぶんと他者に対する新たな観点を学ぶことができた。
0投稿日: 2025.06.22
powered by ブクログ自分とは何か?について考察する本。様々な体験や例え話が登場するが、メッセージは一貫しており、「自分とは、固有なものではなく他者との対比や社会の中に位置付けられることによって見出されるものである」いうもの。 自分らしさなどというものを自分の内部から見つけ出すことは不可能であり(そのようなものは存在するはずがない)、むしろ眼を外に向けて誰にとってかけがえのない人であるかを考えてみたほうがいいとする筆者の考えは、心を軽くしてくれる。 多くのエピソードや、他の学者の言葉を参照しながら、比較的客観な説明がなされているが、74頁の「人生を一本の線だけでイメージするのは、それだけ人生をもろく壊れやすいものにしてしまう」との記述は、自分とは何かについての単なる考察を超えて、鷲田氏の人生観が垣間見え、好感を持った。
0投稿日: 2025.05.26
powered by ブクログ高校の教科書に掲載されていたこの本の一部の文章。 なんか難しいなと当時も思ってたけど、改めて読んでもなんかわかるようでわからんなという感覚は変わらなかった。 でもいくつか自分なりに感じ取ったこともあったし、読んでおくと絶対得する本。 ・自分を形作るのは習慣である。それはどのような文化の中で育つかで受ける影響は変わってくる。 ・成熟するな、青二才であれ。 大器晩成型の生き方、ここまで自分は頑張ってきたんだからこの先にはこれがあると勝手に自分の道を決め込んでしまうと、それがもし叶わないと分かった時のダメージが大きい。 成熟していると自分で感じたら危険信号。新たな自分を持つために新たな環境に身を置くとよい。 ・自分は他者との関係において形づけられる。他者の他者となって初めて自分の存在が明らかになる。一番残酷なのは他者から他者と認められないこと。嫌な奴と思われるより存在を認識されないほうが虚しいということだろう。
0投稿日: 2025.03.30
powered by ブクログ古代ギリシャ、ソクラテスの時代には存在していた、「『わたし』とは何か」という問いに、易しい言葉で切り込んでいく、哲学的思考の入門書。 「わたしたちは普通、成長するということは様々の属性を身につけていくことと考えているが、ほんとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性をうしなっていくのではないだろうか」とは、宮崎駿先生も言っていた。 「わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中合わせになっている」とは、ソシュール先生の一般言語学講義に似ている。 「『自分らしさ』などというものを求めてみんなはじぶんの中を探し回るのだが、実際わたしたちの内部にそんなものがあるはずがない。」とは、内田樹先生も言っていた。 色々な本の中で語られていた言葉たちを、思い出しながら読んだ。 このように別の知を呼び出すことのできる言葉はまた、優れた知である。 鷲田先生の言葉は平明で優しく、鋭い。 私にとっての「自分」とは、「他者の他者」としてしか認識できないのであるから、その答えは、他者との関わりの中にしか見えてこない。自分の他者性を理解してくれる他者を見つけて、そのような複数の他者との関わりによって、「自分」の輪郭は少しずつ見えてくるのかもしれない。 ところで、僕はそんなに、自分を知りたいと思っているのだろうか。 こんなおぞましい者の輪郭を、そんなにくっきり見たいとは思わない。
10投稿日: 2024.02.26
powered by ブクログ自分って細かいこと気にしすぎなのかな?と自分の性格に悩んで買った本。「だれかのためにお茶をいれる」ただそのことが、これほど難しいこととは思わなかった。無理せず自分らしくあることは素敵なことだけど、それを追求しすぎて辛くならないようにしたい。
8投稿日: 2023.10.15
powered by ブクログ言われてみれば、体の内部で何が起こってるかわからないし、自分の背中なんて見たことないし、自分のことって思ったよりも分からないものだなと思った。
1投稿日: 2023.09.24
powered by ブクログ自意識についての考察は古今東西、多くのものがある。本書も同じ。ただ現代の大学生あたりの境遇に則して平たく解説されている。 筆者の感覚、感情が突飛な感じで次々に記載されており、読みにくいし、余計ではないか。 新たに得るところなし。 読了25分
0投稿日: 2023.07.06
powered by ブクログ自分探しといった簡単な話ではない。自分という存在、自分という何かの定義を考える事になる。人は誰しも自分て何者なんだろう、自分は必要なんだろうか、自分の存在価値について考えてしまう時がある。大体は仕事やプライベートで心配事ができた時にそういった感情に苛まれる。また、おかしな夢を見た朝も同様だ。夢の中では少なくとも自分の記憶のない場所でほとんど話したことの無いような学生時代のクラスメートや仕事で関わった人が現れて一緒に過ごしていたりする。一体全体何故?という不思議な気持ちがその日1日を支配する。 そうした時に他人と自分の関係性について暫く考え込むし、そもそも自分が何かについて考え始めてしまうのだ。答えは簡単。自分にも自分はわからないくらいだからハッキリとした答えは無いという事だ。 本書はこの自分という謎について他者との関係性によって成り立つ存在として捉える。他者から自分がどのように見られているか、例えば頭のいい人、スポーツができる人、読書が趣味、優しいなどの内面的なものといった属性的なもので形造られているものとする見方。また外見的な見映えや男性女性といった人としての形などもそうだろう。それらに程度の差こそあれ、他人と自分のを比べた際に出る差異が自分であると言える。あくまで他人の他人(他人からすれば自分は他人)として存在する実体である。自分が如何に内面的にどの様な存在として考えてもはっきりとした輪郭が見えないのは、この他者から見た自分が人それぞれに違ってくるし、自分の考えとも異なるからである。悪い印象なら自分で改善しようとするし、良い面ならもっとその様な人物像に近づこうとするから(これがよく言う自分探しの一つではなかろうか)、それにより輪郭がより鮮明になると共に自分の認識へと逆流する様に思える。 厄介なのは他人が感じた自分の印象が自分のそれとは異なるケースだ。好きでも無い他人から「(自分がその他人を)好きな事を知ってる」と言われたケースを用いて分かりやすく説明するが、このギャップは結末としては悲惨な状況を生み出す危険性を孕む。こういったケースでは激しく自分の自分に対する認識との差異が発生する一方で、自分の確固たる考え(相手を好きで無い)が自分を形造るのに役立つこともあるだろう。いずれにしても他者からの問いかけに対する自分の形である事には変わりない。 中々自分という存在ははっきり見えないのだが、間違いないのは外見だけ、性別だけ、テストの点だけでは語れない自分がいるのは間違いないし、例え人からどの様に思われても、自分の中に本当の自分はいる事には違いない。結論からすれば他人にも自分にもたどり着けない永遠の謎なのである。 本書読了時には漫然としない気持ちの一方で、よくわからないなら、楽しく生きればいいか、といった何か開放感に近い感覚で心がフッと軽くなることができる。
1投稿日: 2023.06.11
powered by ブクログ人は関わりの中でしかじぶんが分からない。人は人生のストーリーを考えては壊すことを繰り返すのだから、予想外は当然ある。このストーリーを語るには相手と文脈を共有している必要がある。
0投稿日: 2023.04.01
powered by ブクログ今の自分には難しかった。 他者の他者として自分は存在する。自分で自分をみることは一生できない。他者の中に自分がいないことが、一番苦しい。
0投稿日: 2022.11.23
powered by ブクログ1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲学者。現在も多くの著作を発表しています。 「私とは誰だろう」―― このような問いを耳にすると、哲学好きでもない限り、そんな考えても仕方がないことをよく考えるな、といった反応をする人が多い気がします。しかし、そういう人も、人生のさまざまな局面で、じぶんとは何かをじぶんに問うています。恋愛で、進学で、就職で、そして家族のあり方、そして人生のフィナーレで。ひとは、じぶんとは何かを問わずには生きていけない生き物ではないでしょうか。 じぶんという存在が、じぶんだけで成り立っているのではなく、他者によって成り立つものであることを知るならば、人生はより生き易くもなるかもしれません。じぶんという存在を頑なに保持しようとするよりも、変化するじぶん、変わり得るじぶんをいつも想定し、他者と関わる方が、むしろじぶんらしく生きることであるという逆説、そしてそのことこそが、倫理的な存在としての人間のあり方なのだということを、高校生の時期に本書で理解するなら、この本を読んだ意義は計り知れません。この本から、長く残る衝撃を受けてほしいと思います。(K) 紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年11月号掲載
4投稿日: 2022.10.06
powered by ブクログ゛自他は相互補完的である゛ 相互補完的とはお互いに足りないところや弱いところを補って、助け合うこと。 つまり、自己と他者は切り取っても切り離せぬ関係であると。その存在が持つ意味とは。 色々と考えさせられた。
1投稿日: 2022.09.21
powered by ブクログ前半では、「自分」は他人と関わって何らかの役割を持ち、「他社にとっての他者/誰か」でいる、ということを区分けなどを使って説明し、後半では、他者と自分の関わりについて深堀されていた。 作者いわく、「ふつう」とは、同じ区分けを共有している時に感じるものである。その例として作中では男女の区分けなどをあげているが、今はジェンダーというボーダーを超えた概念が生まれていて、それがきっと新しい「ふつう」にあたるのかなと思った。 「ふつう」という言い方はあまり個人的には好きではないが、それはきっと「ふつうじゃない」=「おかしい」と感じてしまうような感覚を自分が持っているからだと思う。「じぶん」を認識するために区分けが必要であるなら、それを「ふつう」というのはやめていきたいと思った。 また、パーツを入れ替えた時にそれが自分と言えるか?というところに関連して「テセウスの船」を思い出した。 テレビや雑誌などのマスメディアによって〈顔〉(顔面ではなく、作中では他者から自分に対する知覚。声や緊迫した眼差しなど)を見る機会が減っているとあったが、作品が書かれた1996年にも増して、まさに今のコロナの時代こそその傾向が強まっていると思う。リモートワークでコミュニケーションにおいて不満や不安を覚えることは、顔も見えず、他者が自分に話している(=自分を知覚している)かが伝わりづらいからだろうと思い、すごく腑に落ちた。 「おしゃれ」は自分がしたくてするものだが、そこを突き詰めると、作者が言っているように「自分が(他者から)どんな自分に見られたいか」を表すことにも繋がるのかなと思った。 「自分の本当の死とは、他者に忘れられたり認識されなくなったとき」とあったが、『リメンバーミー』を思い出した。「わたし」が「わたし」として「他者」から認識されていることって、当たり前のようで実はすごく自己肯定感をあげてくれていることなのかもしれない。 他者から知覚され、必要とされることは大切なことだが、それが行き過ぎて他人の望む自分になってしまうと、それは「じぶん」ではなく、「他者が求めるイメージをそのまま投影した存在」になってしまうこと。そのイメージの中に自分はどこにもいなくて、それは「じぶん」が存在しているとは言えないと同義だと思った。
1投稿日: 2022.03.05
powered by ブクログ>なにをもって「自分」と言えるのか? 身体、能力、行動、いずれも自分を定義するには不十分。本書での思考プロセスを経るとデカルトの我思う故に我ありもちょっと納得。じぶんとは何なのか?今生きているという実感をもっとも瑞々しく得られる生き方をしていくべき?自分を意味づけるために失っているものはないか? >「われわれにとって不可能でないものを不可能たらしめるのは習慣である」 水を飲むし、唾液も飲み込むけど、水と唾液をコップで混ぜて飲むことはしないよね、という例が私達の当たり前に疑問を呈してくる。ここで言う不可能はCanの否定ではなく、Willの否定ー意志を持たない、という意味だと思う。できない理由は能力にあると思っていたが、実は我々は意志に縛られていたのかもしれない。習慣と常識の不可能生を取り除けば目前に無限の選択肢が浮かび上がってくる。広く世界を眺めるべき >意味の座標系に自分を挿入し「ひと」になる、座標系の中で周りと相対比較する 座標系の中に身を置いてしまうから、他者と比較して劣等感やしんどさを感じてしまうのかもしれない。社会が構築した座標軸に身を置くのではなく、自分の価値観を基に座標軸を設定して、その中で動いていくべきか。はたまた、座標軸において図ることのできないシュレディンガーの猫となるべきか。 >「わたしの世界」は他人には触れられないもの この事実は改めて認識すると非常に意義深い。結局、どのような苦しみ・楽しみ・悩みを経ようとも、この自分の世界観は他者に対して共有されない。伝えたとしてもほんのほんの一部分だけである。 1.他人を理解するのはとてつもなく難しい。表面的な言動を見るのは簡単だが、その裏には広大なその人だけのUniverseが広がっている。真に他者理解や顧客理解を行うには注意深いプロセスが必要である。 2.自分の世界は自分だけのものであり、それをどう彩るかは自分次第である。この世界の構築において、他者に対して一切の遠慮は必要ない。この世界の唯一のオーナーである自分こそが主役として世界を創っていくべき
0投稿日: 2022.02.05
powered by ブクログじぶんとは他者との関わりの中に見つかるもの、と最初に結論づけられたときは小さく絶望した そんなことを言われちゃあ私を私たらしめる他者を失ってしまうときには私も失われるのか 「人生がきみとともにあると信じられたら、そうわかったのなら、別れることがまったく気にならなくなる。なんの犠牲も払わずにすべてと別れられる」 という文に何度も励まされている これは鷲田さんの主張と矛盾するように思えたけど、よくよく考えるとそれは軽率すぎた気がする きっと、あらゆるひとによって自分は形づくられているんだ、私の生活で多く関わると思っている数人だけではなく、あらゆる出会いとのなかに、それだけ私も見つけることができる 今の私はそう受け取った!
0投稿日: 2021.10.09
powered by ブクログ高校2年生の時に一度読み、 自分の価値観に影響を与えた本。 当時は不明確な箇所が多かったのを覚えている。 今回、久々に自分の成長を感じる期待も込めて再読。そして2周した。 内容としては『じぶん』とは何?という問いに対しての著者の思考の流れが描かれた本。 (以下、あらすじ) まず、自分の身体は自分ではよく分からない。医者や機械に診てもらわないと何が起きてるのか不明確。また、身体は他人や別のもの(義足など)と取り替え可能であるし事故などで喪失しうる、しかしその場合でも『わたし』は変わらない。では『わたし』とは物理的・身体的な特徴ではないのだろう。 (紆余曲折と少しの飛躍を行い)『わたし』とは社会的なルールを前提として『わたし』じゃない人との差分ではないだろうか。 つまり、『わたし』固有のものなんてなく、『わたし』は社会につくられた存在で、『わたし』とは他者にとっての他者である存在と言える。 他者との関わりの中でその人の自分への反応こそが自分であり、他人の他人として他人を鏡のようにしてでしか、自分を認識できないのである。、、、 と言った具合にかなり難しめのロジックが、優しい日本語で書かれている。一部理解不能な箇所もあったが、その部分を理解するには他の著書などを通じて著者の考え方を探る必要があると感じた。 以下の2点だけたまに思い出して生きていきたい。 ・自分とは他人の反応の集合体。 ・自分の認識している世界は自分だけのもので、死んでいる状態と実は同じではないか。(最終章のくだり) 以上
4投稿日: 2021.07.28
powered by ブクログ自分とは何者か?を語ること、定義することって今までも本当に難しいと思ってましたが、その難しい問題をとことん色んな角度から考察して突き詰めようとする試み。 とてもいい思考の練習になりました。 私って何?自分らしさって?とアイデンティティに悩んでいる人は読んでみるといいですよ。著者がとことんその悩みについて付き合ってくれます。 そしてきっと、ちょっと気持ちが楽になって、家族や友人や会社や社会の人間関係の中にまた笑顔で戻って行けるのではないかなと思います。 最後に、個人的に「お〜!」と思った箇所を一つだけ引用。 “ちなみにドイツ語では、「ある」ということを「それがあたえる」( es gibt)と表現する。”
0投稿日: 2020.06.14
powered by ブクログむちゃくちゃ面白かった。でも難しいテーマだから半分くらいは消化できてなくて、もう一度読んで、自分の中に落とし込んでいきたい。 いまのこのコロナの状況だったり、SNSの誹謗中傷の件だったりに通じる内容だと思った。1人では生きていけない、という考えに懐疑的だったけれど、初めて少し納得できたかもしれない。
2投稿日: 2020.05.29
powered by ブクログ「わたしってだれ?」と「じぶんってなに?」は種類の違う問いだと思うのだが、その辺を混同しているのでわかりにくい議論になっている。全体的には前者の問いに重点が置かれているし、著者には「<じぶん>とは徹底して社会的存在である」という大前提があるので、結果的には他者論になってしまっている。よって個人的には少々期待ハズレであった。また、エッセイ風の書き方が原因なのかあまり理論的ではなくボンヤリした印象を受けるのだが、人によっては読みやすいと感じるのかもしれない。 「わたしってだれ?」という問いから決別しない限り、他者論の周辺をウロウロするだけであり(コレはコレで大事なテーマだとは思うが)、「じぶんってなに?」という本質的な問いの探究は進まないように思える。
0投稿日: 2020.02.26
powered by ブクログ「自分とは他者の他者である」 他者にとって意味のある存在(ポジティブ、ネガティブニかかわらず)になって初めて自分‹わたし›を認識できる。 自分を理解するためには他者と距離を置き自分の内側を探索するのではなく、他者との距離を図る必要がある。 「あなたにとってわたしは誰なのか?」 というシンプルな問の答えが、紛れもない‹わたし›なのである。
0投稿日: 2020.02.24
powered by ブクログ自分らしさにこだわるのではなく、他者とどう関わるかが本書の問いである。 自分らしさに執着しすぎても、仕方がない気がした。
0投稿日: 2020.02.04
powered by ブクログ・“遠い遠いとこ、わたしが生まれたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能がまだ可能のままであったところ” (哲学者,九鬼周造) つねに一定のだれかであるために、ありえた自分をつぎつぎと捨てていくこと、特定の文化や社会的なイメージに自分を合わせていく作業が必要となる。それが、じぶんになるということである。 でも結局は、我々は自分を自分ではわからないし、顔は直接みることもできず、何をしたいかもわからず、自分は他人の中にしか存在しない。 それを証明できないと、不安になるけども、実はそれは自由の喪失ではないかもしれない。だれかであることをやめることによって、誰にでもなれる自由がそこにあるということ。”自分がぼやけることの心地良さ” 。 誰かと親密になる中で、その人の中の自分がぼやけることを畏れたり、どう思われるかを終始気にしているのはとても疲れてしまう。 誰かが定義する私が、自分になってしまうからだ。でも、その”わたし”はわたしが自分に語って聞かせるストーリーで、同じ人生でも、語り方によって、解釈のあたえかたで物語は変わる。ほんとはなんにでもないから、なんにでもなれる、そう思うと少し心が軽くなりました。
1投稿日: 2019.07.22
powered by ブクログ「アイデンティティの衣替え」という言葉が一番しっくりと腑に落ちた。「他者の他者」であるために、様々な他者に合わせて付け替えている面...。そのことによって自身の生を、存在を感じる感覚...。没個性的な自身を詰るのはもうやめよう。
1投稿日: 2019.04.14
powered by ブクログ「わたしとは他者の他者としてはじめて確認されるものだ」 私とはだれか、1人部屋の中で考えていても答えは見つからない。この本は繰り返し語る、わたしとは他者の他者である。言い換えてもおり、他人の中にじぶんが意味のある場所を占めているか、だそうだ。なかなか理解が難しい言葉だ。極端な例を挙げるとボランティアで肉体労働を望む若者たち、ヒモとなっている交際相手に身を削ってまで働き奉仕してあげる人、のような人で義務ではなく積極的にそれを行なっている人である、本書ではポジティブな受け身と呼んでいる。他人と積極的に関わっていく中で自分というものを規定できていくことだろう。
0投稿日: 2019.04.02
powered by ブクログこの本を理解できるほど頭が良くなかった。 背景となる考え方・知識のレベルが違うので言葉を辿ることができずふるい落とされてしまう。 読者の立場としてはもう少し歩み寄って来てくれたほうがありがたい。 話のまとまりが見えず、話すために話しているようだった。
0投稿日: 2018.12.25
powered by ブクログ【いちぶん】 《他者の他者》であるかどうかは、レインも言っていたように、他人のなかにじぶんが意味のある場所を占めているかどうかにかかっている。
0投稿日: 2018.12.16
powered by ブクログ胃の存在は普段は意識せず故障してはじめて意識する。わたしはだれか、という問いはわたしの存在が衰弱した時に際立つ。 自分がついにはだれの記憶からも消えて、存在したかしなかったかすらも定かではなく、さらにはそれが問題とすらならなくなってしまう。 人はひとそのものを愛するのではなく、その性質だけを愛している。 成長するということは様々な属性を身につけていくことと考えているが本当は逆で、年とともに色々な可能性を失っている。 そうありえたかもしれない自分を次々棄てていくことではじめて自分になる。 成熟というのは同一であることを願うひとにしか訪れない。未熟とはアイデンティティの不在、一貫性のなさ、持続性のなさ。節操なくあきっぽく、気まぐれでじっとしていない。 震災のボランティアについて:待機しているのを、せっかく来たのにぶらぶらさせられていると不満に思うのはお門違いである。予備軍がいてくれるからこそ我々は余力を残さず使い切ることができるのだ。 私達は顔を思い浮かべることなしに他のひとに思いをはせることはできない。
0投稿日: 2018.07.04
powered by ブクログ自分というのは他者との関係の中で見出すものだ、という考えは非常に明確。だって誰一人として、自分一人で生きている人なんていないのだから。
0投稿日: 2018.05.05
powered by ブクログ「わたし」とはだれか。 いくつもの見方、考え方が具体的に示されていて、興味深く読みました。 テレビの視聴の弊害、双方向ではない視線の持ち方が身についてしまうことについて、腑に落ちました。 私が経験した子どもの授業参観や学校行事のときの保護者の方々のおしゃべりは、テレビを見ながらお話する感覚なのだろうと思いました。 双方向性をどうすれば取り戻せるのか。 見られている自分という感覚をどうすれば取り戻せるのか。 考えるためのヒントはいくつも示されていて、その意味で日々に活かせる内容の一冊でした。
0投稿日: 2018.04.01
powered by ブクログ2017/2/19 高校の時の現代文の教科書に載っていた鷲田清一さんの書いた本の文庫を読んでみた。内容はすごく難しいと思う。私という存在は一体何なのか、という問いに対して、哲学的な要素も含めて解説や持論を具体例を交えて説明してくれるが、一周回って元の位置に戻ってくる。つまり結論は出ない。 わたしをわたしと定義してくれるものは何なのか、それはわたしではなくて結局のところ他者であることがほとんどであるが、そうすると、その他者の存在はわたしにとってどういうものなのか、何だか難しくて、途中で頭がこんがらがってくる。プライバシーという言葉がある。プライバシー、プライベート、などこれらを守ろう、尊重しようという動きが多く見られるが、プライバシーというのは語源をたどっていくと他者からわたしであることの意味を奪われた状態であると解釈することができるのではないか。やっぱり難しい笑
0投稿日: 2017.02.19
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
同じ線の上にいなくてはいけないのだろう 同一の存在でいなければいけないという脅迫観念が不安に駆り立てる わかりやすいって死ぬほどたいくつ 存在が不可解であるからこそ、それに魅かれる 自分の時間を他人のために失うことをポジティブに じぶんらしさは自分以外のなにかあるものを求めるプロセスの中で後からついてくるもの 自分の行動が他者に及ぼす効果によって自分が何者であるかを教えられる 他者の他者
0投稿日: 2016.12.25
powered by ブクログ120126-120126 結論じぶんとは何か、という問いに対する答えは無いよ、という本。 何度も解説してくれているが結構難しい。 あんまり受け入れたくないと感じる内容も多い。まあ勉強ですね。
0投稿日: 2016.09.27
powered by ブクログじぶんの独創性はどこから来るのか。 じぶんを見ることは出来ない。 じぶんの考えも人から与えられたもの。 他人から見た自分、人格。 哲学、 記憶、存在学。
4投稿日: 2016.01.31
powered by ブクログ「ほかの誰でもない私」は自分の内面の深奥に確固として存立しているものではなく、他者との関係性や距離感の間で規定されるという話。ひとつしかない道に自らを追いつめて身動きが取れなくなってしまった人には、周囲を閉ざす壁がバタバタ倒れるだろう。
0投稿日: 2015.11.08
powered by ブクログ書店で何の気もなく、鷲田さんの本だということで 手に取った本。しかし20年近く前の本でした。 しかし、なかなか読みごたえがあり、非常に本質的な 内容であり、鷲田さんの本質的な問いがある内容だと 思います。 「自分とは何か」という問いは、すでにこの年になった 自分にとってはすでにあまり問うことがなくなった 問いではあります。他者の他者である自分という 想いはすでに感覚的にあって。。 結婚して息子ができた時点で、自分とは何かという 問いに、素直に息子の父親であるという答えを 得た気がしました。 会社で回りの上司や部下と接しているときや、社会で 様々な人と接する時に、自分の意義や問いを積極的に 持っている人や、他者における自己の存在意義を強く 探しているのだろうなあと思える人が、多くいるなあと 思います。少し苦手です。 自分はというと、この問いが非常に苦手で。。 自分と他の境があいまいな感じがしたり、他者の他者で ある自分。他者の中に存在する自分というのが 気持ちの悪いものに思えたりしました。 ただ、上で書いたとおり、息子ができた時、素直に 自分の存在を認識できたと思ったことがありました。
0投稿日: 2015.08.30
powered by ブクログ「私とは何か?」という哲学の問題を、やさしい言葉で論じた本です。 著者は、固有の「私」というものを自己のうちに求めても、何も得られないと主張します。われわれはこの世界に生まれたときから、さまざまな他者とのかかわりのなかに存在しています。そうした他者とのかかわりを通して、ありえたかもしれない自分のあらゆる可能性を捨てていくことで、固有の「じぶん」は成立するというのが、著者の考えです。 著者は、R・D・レインの『自己と他者』から、ひとりの患者のエピソードを紹介します。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。ただ「誰かのために何かをする」ということ、そしてそれ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと著者は述べます。誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、相手は単なる行為の客体とされてしまい、他者は自己の内に取り込まれてしまうことになります。こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、自己もまた他者にとっての他者として遇されるような関係のなかで、はじめて自己と他者の双方が固有の存在になることができると著者はいいます。こうして著者は、自己の固有性とは「他者の他者」となることだと主張します。 ところで、自己の固有性は、ともすれば社会のなかで固定化されてしまうこともあります。しかし著者は、そうした状況から外へと出る可能性をさぐろうとします。ここで著者は、われわれの社会から、固有名や戸籍、国籍といった制度をいっさい廃止して、「私」「今」「ここ」のような状況次第で意味内容を変化させることばだけを使って会話する社会を想像するR・バルトの議論を参照しています。そこでは、われわれは固定化された「私」という檻から解放されて自由になるのだろうかと著者は問い、しかしそこでの自己とはいったい何者なのかという問題に直面します。こうして問題がふり出しへともどったところで本書の議論は打ち切られ、読者をさらなる考察へと誘います。
3投稿日: 2015.07.05
powered by ブクログ文章が下手なブログを延々読まされている感じ。 得るものも少なく、個人的には百冊に一冊のダメな本。 『買った本はとりあえず全部読まなければ』と言う気持ちが私の心の何処かに有り、空いた時間をドブに捨てる感覚で数ページづつ読み、数年がかりで読みきった。
0投稿日: 2014.11.11
powered by ブクログ鷲田さんの思想の概説書のような内容。とても平易な文章で分かりやすく書かれており、構成も綺麗なので入門として適当。 本書では誰もが抱く自己の存在への疑問に正面から挑戦している。年食ってもたまに自分とは?という苦悩に襲われる自分としては、悩みを代弁されている感じがして非常に心地よく読めた。
0投稿日: 2014.04.27
powered by ブクログじぶん、って何だろう? じぶんってどうしてここにいるのだろう? 考えても考えても答えが出ない問いかけを誰しもしたことがあるはず。この本を読んだからといって分かったということはないですが、所々 なるほど~と思いました。
0投稿日: 2014.04.26
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
鷲田さんは私の在学時の学長さんでした。 恥ずかしいことに、在学中はその著書をまったくよんでいなかったのですが、ここ数年は仕事柄、鷲田さんの文章に触れる機会が多く、おもしろい人だと感じていました。 鷲田さんはおもしろいです。 理解しやすい。 そして頭めちゃくちゃいいんだろうなあ、 そしてこういうことをずっと気にして、頭に留めて、アンテナをはって、生きているんだろうなあ。 生きることの意味に迷ったらまた読まなくてはいけない。 ひきこもることの無為さを感じる。 我々は生に、意味を求めるけれども、その答えはないのだと。 けれどもあるとすれば、それは他者のなかにこそあるのだと。 働くことの意味や、生きることの意味さえ、教えてもらいました。 ありがとう。 《他者の他者》としての自分を磨いてゆこう。 そしてじぶんを移すために《他者》を求めよう。
0投稿日: 2014.04.18
powered by ブクログ哲学者鷲田清一の本。 今盛んにアイデンティティの問題が取り上げられ、熱に浮かされたように"自分探し"だとか"自分らしく"なんていう言葉がよく聞かれる。 この本ではそもそも"じぶん"とはどういうことであるかを根本的に考えている。 自分らしさを探し求めることに意味はあるのか、 そもそも自分というものは本当に"ある"のだろうか。 自分を確認するためには他人の存在が必要というパラドクス。 比較的平易な文章で書かれているので、特に学生の方は一度読んでいただきたい。
0投稿日: 2014.04.10
powered by ブクログすごくわかりやすい文書で綴られていて、すぐよめた! 自分とは他者の他者としてはじめて確認されるものであること。アイデンティティが衰弱しているから、他者異物を排除しがちであるということ。わたしとはわたしにいって聞かせるストーリーのこと。 どれも興味深かったし、納得できた。高校生とかに読んでもらいたいな。 生き方みたいなものについて、大分勉強になりました。自分のストーリーを強固に守りがちだったな。更新していかなくては。 何事も手放しには否定しない文体に好感がもてた。
0投稿日: 2014.01.06
powered by ブクログ鷲田清一先生のメイントピックなのか、多くの本と共通したキーワードがたくさん出てきますし、内容の重複も多いです。 ただその都度語り口が微妙に異なってくるので、たくさん読むことである意味「立体的」に著者の思想を読み取っていける気がします。
0投稿日: 2013.12.25
powered by ブクログ私は誰か? 結局は、最終的な解は存在しないと言う所に行き着くのだけども、様々な思想や具体例を挙げて、じぶんとは何かを説明している。 ただし、例や引用を挙げることで、かえって解説が冗長となって、退屈しなくもない。 この本から僕が読み取れたことは ”他者の他者である”自分 という考え。 自己(わたし)の同定には、他者が他者として自分に視線を向けている必要がある。 他者の自分に向ける眼差しや意識が自己を同定する。 しかし、その他者も、自己(わたし)が生み出すのだとしたら・・・と話はこんがらがるんだけども。 終盤は言語における自己の特定について説明が加えられていたのだけども、頁が少なくて残念。言語と自己の同定について、もう少し説明を読みたかった。 ---------------- 【内容(講談社BOOK俱楽部より)】 わたしってだれ? じぶんってなに? じぶん固有のものをじぶんの内に求めることを疑い、他者との関係のなかにじぶんの姿を探る。 探せばどこかにじぶんはある?――「じぶんらしく」なりたい、じぶんとはいったいどういう存在なのかを確認したいと思って、じぶんのなかを探す。顔がいい? 走りが速い? 計算が速くて正確? 明るい? ……どれをとってもわたしだけに固有のものってありはしない。このような性質や能力はだれもが多かれ少かれもっているものだ。性別や年齢や国籍などというのは、それこそみんながもっている。だから、その1つ1つはだれもがもっているものであるにしても、それらの組み合わせにひとりひとり独自のものがあるのだ、というのは、そのときだれもが思いつく論理である。が、これがじぶんというものの、かけがえのない不二の存在を証しているなどというには、あまりにも貧弱な論理であるのは、だれもが直観的に気づいている。 ---------------- 【目次】 プロローグ 1爆弾のような問い 2じぶんの内とじぶんの外 3じぶんに揺さぶりをかける 4他者の他者であるということ 5<顔>を差しだすということ 6死にものとしての<わたし> エピローグ ----------------
0投稿日: 2013.11.24
powered by ブクログ鷲田清一(1949〜) 専攻は臨床哲学・倫理学。現象学・身体論が専門。 高校生のころに鷲田清一を読んだ時はふーーーーん、って感じだったんですが、今改めて手に取ると、結構響くものがあった。ここで書かれていることに驚くほどの目新しさがあったわけではないけれど、哲学の門のあたりで中を覗き込もうとしてみたり、やっぱり離れてみたり、うろうろしているわたしのような人間が読むにはちょうど良い本。
0投稿日: 2013.06.09
powered by ブクログ個人的にはあまり好きな感じの文章ではない(理解ができていないだけかも)が、わずか数ページのエピローグには本全体の内容が分かりやすくまとまっている。
0投稿日: 2013.04.26
powered by ブクログ受験期に何度か読んだのを再読。 「わたしは誰?」というあてのない問題を巡って、筆者が身近な事例と照らし合わせつつ、考える手伝いをする。 〈わたし〉は結局〈他者の他者〉という形でしか存在しえない、その事実に否応なく気づかされる。一人でいるのが好きで、一人が一番落ち着くというのに、その一人を保証しているのが紛れもない他者の存在であるということ。 誰かのことで悩んで悲しんでいるときこそ、他でもないこの自分が生きているという気にさせる。ひとはそういうものなのだろう。
0投稿日: 2013.04.24
powered by ブクログ推薦理由: 自分の個性とは。自分らしく生きるとは。そもそも自分はなぜ自分なのか。哲学、倫理学の学者として関西大学教授、大阪大学総長などを歴任した著者が、「他者の他者」としての自分という考え方を分かりやすく説いている。「自分らしさ」について悩む年頃の高校生に薦めたい。 内容の紹介、感想など: 「自分」とはなんだろう。「自分らしさ」とはどういう事なのだろう。誰もが自らに問いかけ、答えを見つけようとする。「本当の自分」を求める「自分探し」という言葉が流行ったこともあった。自分とは自分の中を探して見つかるものだろうか。そもそも「唯一無二の固有の存在としての自分」というものはあるのだろうか。性格、容貌、身体的能力、社会的地位などが自分らしさだとすると、それを失った場合は自分ではなくなるのだろうか。そう考えると、自分の存在には不確かな根拠しかないように思える。「自分」の中を探している限り「自分」を見つけることはできないだろう。 著者は、「自分」とは他者との関わりの中で見出されると述べる。「他者の他者」としての存在を意識することで自分の存在を確認すことができるのだ。自分らしさとは、他人との関わりのなかで問われることなのだ。 本書では「わたしはだれ?」という、人として根源的な疑問についてどう考えるかが具体的な例を挙げながら平易な言葉で論じられている。自らのアイデンティティについて疑問や迷いが生じた時に一条の光となり得る良書である。
0投稿日: 2013.01.09
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
自分だけで成り立つ〈わたし〉というものは存在せず、〈わたし〉の死の先にある「わたし」は「他者の他者」としてしか定義されないということを述べている。他者の中に自分を投影しての能動/受動の関係でなく、他人と存在を与えあう関係を目指すことで、自分に対して語りかけるストーリーを考えていくヒントが得られるのだろう。テレビや広告などが窃視症的であるから“顔を失う”という洞察は理屈付けは弱いが面白かった。
0投稿日: 2012.12.01
powered by ブクログ中途放棄していたのを再読。 彼の後年の著作である『死なないでいる理由』に直接的に繋がっていく著作と感じた。そこではこの地点からすこし考えが進んでいるようにも見える。 高校現代文の入試題に出ていたような記憶があって、懐かしかった。 今では彼の主張が「当たり前のこと」に感じるが、僕を構成するよい養分になったとということかなあ。
0投稿日: 2012.11.01
powered by ブクログエピローグにも書いてあるが、不完全な地図、と言った感じ。あちこちに話が飛んでいるような構成でちょっとわかりにくい。
0投稿日: 2012.09.15
powered by ブクログ読み始めました。 (2012年9月4日) 読み終えました。 素晴らしい。 (2012年10月27日)
0投稿日: 2012.09.05
powered by ブクログ哲学的イシューだが,語り口は難しくない.むしろやや易しすぎるように感じる.切り込み方が弱い感もある.ところどころ面白い記述あり. ・<わたし>という存在のもろさによって,純粋が異質なものの排除へと転回していくのだとすれば,クラスで誰かが「バイキン」と呼ばれていじめられたり,「不潔」であるとして忌避されたりする.つまりそこには,いじめたり差別したりする側のアイデンティティの衰弱が読み取れる. ・隠居という慣習がリタイアするというよりもむしろアイデンティティの別のステージへの乗り換えを意味したように,つまり隠居とはなにもしなくなるということではなく,別のことを開始するということだった. ・レインの母子の4つの出会い方. ・ひとがそれぞれに痛いと感じる箇所,自尊心が傷つく箇所はみなまちまちであり,そこに自分の生存の譲渡しがたい根拠をかけている. ・銃殺の現場で顔を隠す理由. ・「ひとには,じぶんがだれかから見られているということを意識することによってはじめて,じぶんの行動をなし得る」 ・プレゼンスの中井流の訳「その場にいてくれること」
0投稿日: 2012.08.27
powered by ブクログ「わたしはだれ?」「自分とは何?」「何のために生きているんだろう」 そう考えたとき、私たちは1つの「自分のストーリー」を紡がざるをえない。これと決めたストーリーに自分を当てはめ、他の可能性を忘れること(エクスタシーの放棄)で、自分で自分を支えるのだ。そしてそのストーリーが無効になるような事態に落ち入った時は、また新たなストーリーを紡ぐ。 ただ、そのストーリーはたった一人部屋の中に閉じこもっていても完成しない。自分の存在意義を見出すには、「他者の他者」であることが必要なのだ。 これは他者に身を捧げ、自己放棄することとは異なる。それは結局のところ自分の中に「自分が身を捧げる他者」像をつくっていることに他ならず、自己イメージに埋没している。 他者に自分の他者としての存在を贈るということは、「他者にたがいが傷つくまでかかわることであ」るらしい。私たちは互いに異なる「他者」である、ということを認め合うことで生き延びることができる…のか?
0投稿日: 2012.06.13
powered by ブクログ身体論の入門書 とても優しくとてもわかりやすい これ読んだの中学生ぐらいだった気がする 身体論も今もう流行らなくなっちゃったしねぇ
0投稿日: 2012.05.27
powered by ブクログ「あなたってなに?」と人に聞かれたときに何と答えるだろうか? とっさに思い浮かぶのは自分の名前だけど、それは属性であって、その人そのものを指すわけではない。 自分はなんだという問いに対して、自分だけで考えても答えは出なくて、他者との関わりあいの中で自分を見つけることが出来るという。 冒頭で取り上げられている「大好きだ!攻撃」の部分は、読んでてなるほどなあと思った。
0投稿日: 2012.05.16
powered by ブクログ高校生のときの課題図書。 今では、とても大切な本になりました 自分、他者、世界、確立。 結局は曖昧だけれど、この本はとても役立つのだとおもう。
0投稿日: 2012.04.10
powered by ブクログそもそも自分探しを内的にやっても無駄。 自分は他人を通してやっとわかるもの。ただ、それは自己放棄ではないことに注意が必要。 だとしたら、家族、友達、恋人に見せる顔が違って当然じゃないかなと思う。 そのどれか一つが本当の自分なわけじゃなくて、そのすべてが本当の自分だとおもいます。 本書ではそこまで触れてなかったとおもうけど、、、
0投稿日: 2012.02.09
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
本書のテーマはシンプル。それは「わたしってだれ?」「じぶんってなに?」である。 九〇年代に流行ったのが「自分探し」。探せばどこかに自分の個性が存在するという前提で、ひとつのブームになった。しかしそんなものが本当にあるのか。 教育動向の影響もあって、私達は「じぶんらしく」あることばかりめざしてきたのがここ20年。 しかし、「じぶんらしく」あらねばならないという強迫観念から自由になる方法について考えてみることも大切だと著者は指摘する。 自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎない。なぜなら、固有な個性を表すのが形容詞だから。それは真にオリジナルな個性を表現できないことを意味している。そして「じぶん」という名詞だって一般名詞にすぎない。。 自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、単なるフィクションだ。 だとすれば、どこにその契機を見出せばよいのか。 著者は、「他者の他者であること」に注目する。 「他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば」。(146項) 著者の文体は、専門書においてもエッセイのような柔軟さがあるが本書も非常に読みやすい「考える」本。できれば、中学生、高校生のうちに読んでおきたい一書。 「自分探し」の落とし穴か抜け出すヒントが沢山ありますよ。
1投稿日: 2012.01.15
powered by ブクログわたしたちはじぶんがいま、ここにいるというしっかりした感覚を どうしたら抱くことができるのだろう。 <わたし>というものは≪他者の他者≫としてはじめて確認されるものだ、 わたしたちの「だれ」はむしろ、他人との関係のなかで配給される。 わたしがわたしじしんであるためには、彼(あるいは彼女)が必要である、 他のひとが彼(あるいは彼女)じしんであるためにはどうしてもわたしが 必要となる。 レインによれば、ひとはじぶんの行動が<意味>するところを他者に 知らされることによって教えられる、いいかえるとじぶんの行動が他者に 及ぼす<効果>によってじぶんが何者であるかを教えられるものである。
0投稿日: 2011.11.04
powered by ブクログ友人より。 自分とは何か?という問いに対する答えはないんだなあ、と確認出来た本。 電車で化粧をする女性の話が印象的。なるほどと思わされました。 文章自体はそう難しくないものの論理の展開が少し難しい。しかしページ数はあまり多くないので、思ったよりあっさり読めました。
0投稿日: 2011.09.13
powered by ブクログ【読了:☆3】 (要約) 「自分とは他者から見た他者である」 (感想) 小難しくなく、悲観的でなく、自分とはなにかをシンプルに語る一冊。 人に意見を言うことで、自分の考えや気持ちに気づくことがままある。 これこそ、他者を通して自分を見つめることなのだろう。 「人は自分を映す鏡」という概念を思い出した。
0投稿日: 2011.07.21
powered by ブクログ今週末に参加予定のシンポジウム、演者の一人だったので予習的に買ってみた本。 うーん、哲学的な話。 じぶんとは自分の中にあるものではなく、他者との関係の中でこそ存在するものなのだ、ということか。 人間とは人と人の間で生きているもの、平たく言うとそういうことかもしれない。
0投稿日: 2011.06.09
powered by ブクログ読書レポート用に購入。 私の考えとは方向が異なっていたため、読みにくかった。 あと例えが多すぎて何について話しているのか分からなくなったりした。
0投稿日: 2011.06.09
powered by ブクログ<要旨> 自らは元々複数の可能性を持っている、それが、次第に失われていく。人を模倣することで、そしてそれを自らとして吸収していくことで、自らが固まり、可能性が失われる。しかしあるときふと気付く。自らってなんだ?自らの内を探しても、自らはそう簡単には見つからず苦しい。なので、関係をリセットする?しかし、そもそもそれは繰り返しにしからない。うまく自分の納得のいく自己を獲得できるかもしれないが、しかしその自己すら他者との比較においてしか成立しない。なぜなら、明確なる自己などないからだ、少なくとも自分の内側にはない。つまり、明確なる自己などないと諦めることこそが一つの解答なのだろうか?更に言うなれば、自分は他者によって定義される以上、相対する他者によって自分自身も異なってくる。つまり、そこに同一性を求める必要はなく、同一性を求めることでむしろ自分が壊れそうになる。なので、同一性の縛りから解けることが重要。睡眠はそのための一つの手段。また、以上のことからもっとも危険な状態は他者がいない状態で自分が切り替わることと言えるだろう。 ⇒このことが延々と違う言葉で繰り返されている。だが、哲学書とは元来こういうものなのかもしれない。同じことを延々と繰り返す、誤解がないように延々と。なので、本当に言いたいことは大した分量でもないはずが、なぜだか長くなる。長ければ長いほど内容を誤解しにくくなる。無論、著者がしっかりと自分の哲学を固めていなければならないけれど。 <考察> 自分と他者についてこのひとはかなり本気で迫っているように思われる。そのために、無意識的に生じる行為にまで原因を求めようとしているあたりにこのひとの努力を感じずにはいられない。反面で、このひとは合理主義者なのだとも感じる。つまり、この構図は神対人であり、現在は他者対自分である。哲学においても、実用性を求めるタイプの人と、そうでない人がいる。実用性を求める人はおそらく他者を重視する。そうでない人は自分を重視する。実用性のある哲学は間違いなく他者を重視する哲学であろう、そうでなければ、日常には還元できないからである。そして、苦痛のようなものを取り去る意味においても、他者を重視するのが間違いなく必要だろう。だが、苦痛を肯定する立場から言えば、必ずしもこうはならない。俺は苦痛肯定派なので、やはり自己を重視する。 <感想> 正直なところ、このひとの言っていることは正しいのかもしれない。真理なんてものはないのだろうけれど、しかし、真理により近しいと言える。けれど、言っていることは酷くつまらない。ある人には革命的な変化やらをもたらしうる一冊ではあるものの、反面で、芸術を否定してしまいかねない一冊である。つまり、芸術は評価されてこそ芸術であるとばかりに……。良くも悪くもそういう意味で非情に現実的な哲学であるとも言える。その分、日常に還元できる力は大きいが、自己を追及する人を馬鹿にしているような気もしてくる。現象学にしてもそうなのだけれど、なんだかすっきりしないのだなぁ。個人的に哲学は最終的に好き嫌いだと考えているので、これはあんまり好きになれない考え方である。ただ、<他者>自己<自我>とまぁ、こういうふうな仕組みになっているということなのだが、自我の中に自分はいないのかな?とは思うのだけれど。自我の中に。確かに、自己を自己足らしめるには他者が必要だけれど、その素養は間違いなく自我の中に含まれている。さもなければ、みんながみんな同じ人になってしまいはしないか?同じ人に。 <追記> 実は、途中までしか読んでいない状態で、上記の要旨、考察、感想を書いているので、いくらか解釈に誤謬があったかもしれないが、あまりずれてはいないのではないか?だが、著者が言おうとしていることは徐々にぶれてくる。それを著者も自覚していると思う。だから、著者ができるのは精々が問題提起くらいのものになってしまっていって、根本解決とはなりえない。つまり、最初に戻ってくる。ぐるぐる、ぐるぐる、ここまで読むと、ああ、この人は哲学をやっているのだなと感じる。ただ、やはりスタンスが違うのだ。確かに、他者に埋没してはいけない、他者の他者であらねばならない。そうして、自分を他者から切り離すと同時に、他者を自分に取り入れてもならず、しかし、自分はあくまで他者との線引きでしか生じないのだから、他者と接していかなければならない。他者にとって切り取られた顔こそが自分なのである。自分の内を探しても自分はいない。では、いかに他者と接するのか?しかし、俺は思うのだ。「薄っぺらい客観主義者よりは、気持ち悪い主観主義者になりたい」無論、気持ち悪がられることも他者から線引きされていることなのだから、それによって自分となりうるのだと著者は言うかもしれないけれど、俺たちは経験から、「こうあれば気持ち悪がられる」ということはうすうす感づいている以上、他者がいなくとも自分を形成できるような気もする……つまり、他者と接した経験さえ持っていればいいのではないか?難しい。けれど、こう立派な答えを書くひとよりも、考えに考え抜いてわからんと言っている人のほうが好きだし、よっぽど哲学してるなぁと感じる。ただ、文句をつけるなら言葉があまりにも平易すぎる。平易なのはいいことだけれど、平易すぎるとなんだかうすっぺらくなるというあたりは要注意なのかも……。しかし、自分が自分でなくなることの自由。拡散。なんだか、エヴァの人類補完計画みたいじゃないか……。私が私でなくなる、そこに人はそれを直感的に否定する。それが答えなんじゃないかな、この問いについては。
0投稿日: 2011.05.18
powered by ブクログ「じぶん」というものの存在、考え方のストレートな答えを私は期待していた。しかし、この本を読み進める内にそのようなものは存在しないということに気が付いた。しかもそれは社会・文化、また色々な環境・条件によって変容していくもので、脆弱でもあり強固な制約でもある。 本書は私にとって「じぶん」について思いを巡らすその道しるべとなりました。
0投稿日: 2011.04.11
powered by ブクログ101120by著者@阿武山 --- 『自己と他者』 志貴・笠原訳 71 『旅する人間』 山崎庸一訳 110 『ことばがひらかれるとき』 竹内敏晴 138 『だれのための仕事』 鷲田 (岩波書店) 144 :ボランティア 野田正彰 150 :ボランティア 『1995年1月・神戸』 中井久夫 150 :ボランティア 『人間の条件』 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 157 阿部公房 小説 箱男 168 --- 146, 156:privateについて
0投稿日: 2011.03.16
powered by ブクログ自分のなかを掘り下げてもなにもでてこない。これがわかっただけでも、すんごく楽な気がする。他人の心のなかに存在する自分でありたい。そんな人間になれるように努力したいって思います。
0投稿日: 2011.01.21
powered by ブクログじぶんってなに?という疑問に じぶんの中にじぶんを探しても見つからないよ 他者にとってじぶんはどんなわたしであるか じぶんがあるとしたら他者との関係の中にあるよ そんな感じのお話 具体例が多く分かりやすいのだけど でも、でも、でも、で結論が見えなくてよくわからない 結論がないからなのですが。 ゼミで 自己あっての他者か、他者あっての自己か、 という議論で先生の予想に反して後者が多かった だから鷲田さんの言ってることも分かるけど なんかもやもやするよねっていう話になりました そもそもじぶんって何?なんて考えたこともあまりないし 時代が変わってきたのかな~なんて先生は言ってましたが 私にはよくわかりません 一年前の課題図書。再読。
0投稿日: 2010.12.27
powered by ブクログ[ 内容 ] わたしってだれ? じぶんってなに? じぶん固有のものをじぶんの内に求めることを疑い、他者との関係のなかにじぶんの姿を探る。 [ 目次 ] 1 爆弾のような問い 2 じぶんの内とじぶんの外 3 じぶんに揺さぶりをかける 4 他者の他者であるということ 5 「顔」を差しだすということ 6 死にものとしての「わたし」 [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
0投稿日: 2010.11.21
powered by ブクログようこそ、不思議の世界へ!という感じです。 読めば読むほど、頭の中が混乱してきます。 自分の日本語能力に自身がなくなります。 でも、最後の章は分かりやすい。
0投稿日: 2010.11.01
powered by ブクログ初わっしー。もちろん、入試問題その他では読んだことあるけども。彼は、とにかく、広い。彼が総長を務める大学のウェブペイジでは、2ヶ月に1度程度、動画のメッセイジが配信されるが、その中でも「たこ八郎さんが・・・」とか、「井上陽水さんが・・・」とか。この本の中でも、「「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものだということを、わたしはマドンナの『SEX』から学んだ。」(p.88)とあったので、何かと思ったら、ヌード写真集であった。何事も勉強ですね。そういう感じで、彼の話は具体例を挙げ,実生活に即して説明してくれて分かりやすいのだけど、あんまり面白くなかった。ところどころはなるほど、と思うところもあるのだけど、全体としては。別に,答えの無い問に答えを求めているわけではないのですが、なんか物足りなかった。面白い、面白くないっていう問題ではないのだけど。「だけど」ばっかりだ。若干文字が大きいので気づいたのだけど,現代新書には、「ジュネス」なんてシリーズがあったんですね。背表紙に小さなマークがある。でもカヴァーが新しくなって、外からでは全く区別がつかなくなった?
0投稿日: 2009.12.08
powered by ブクログなんていうか、ちょっと良くわからない。他人を排他するって当り前のことじゃないの?私は自分には自分の世界があって、そこに他人を入れることは絶対に出来ない。 友達であっても、彼氏であっても、無理。 自分という存在に疑問なんてない。ただ私は私であってそれ以上でもそれ以下でもないでしょ。私の体は私だけのものでもあるし、私だけのものでもない。 私という存在は他の人が居てこそ成り立つけど、そこには一枚の薄い幕見たいのがある。 私は完全に他人を受け入れることは絶対に出来ないし、したくもない。 どんどん進むにつれて、??になってしまって読むの止めてしまった。
0投稿日: 2009.11.23
powered by ブクログ言葉は易しいし、具体例もふんだんにつかってある。しかし、哲学者の言葉の引用が分かりにくい。 ただ、本書の言わんとすることは、以下に引用するエピローグに集約されている。 「さて、わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。問題なのはつねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」 このあとにも続くのだが、ここがほとんど全てあろうと思う。
0投稿日: 2009.11.21
powered by ブクログ哲学書。言葉自体は易しいものの、内容が難しい。 具体例・引用文がかなり多く、電車で化粧をする女性の話などは納得できた。人間は可能性を捨てながら生きているというのにも頷ける。 しかし、「“じぶん”は他者との関係でしか存在し得ない」というのにはいささか疑問が残る。 確かに現代の私たちは他者に影響を受けながら生きているが、元を辿ればそうでもなかった時代や人があったのではないだろうか。本書には、過去を交えての論拠が見当たらなかったので説得力に欠けていたと思う。
0投稿日: 2009.11.09
powered by ブクログ3章末尾の そこでこんなふうに考えられないだろうか.わたしは「なに」であるかと問うべきなのではなくて, むしろ,わたしは「だれ」か,つまりだれにとっての特定の他者でありえているかというふうに, 問うべきなのだと. というとこが,一番覚えてる. 自分の中をいくら見つめても,自分をそこに見つけられない経験は, 某自己分析的な行いで経験していたので. 他にも「女の子は『女装』によって女になる」とか 「じぶんがぼやけることの心地よさ」とか, おもしろい. でも読みやすいようで意外と読みやすくはない.たぶん
0投稿日: 2008.11.28
powered by ブクログ大好きな鷲田先生の本です!☆非常にわかりやすく書かれていたと思いますが、わかりやすくても内容をつかむのに途中から苦労しました(><)。先生も、この本ではまた”答え”を見つけてらっしゃらなかったです。いつかその謎を解いて下さるまで、自分も努力しながら先生の本読みま〜す☆☆☆
0投稿日: 2008.11.21
powered by ブクログ身体論というと触れたことが無い人が多いと妄想しているのだが そんな人のための入門書としては良くかけていると思う。 哲学というものに興味がある人にとっても触りとしては良いであろう
0投稿日: 2008.11.03
powered by ブクログ「じぶんらしさ」などというものは、わたしたちの内部にはない……とは、実に簡潔だ。あまり注意深く、かつ念入りには読まない方がいいかもしれない。一応きっちり読んだつもりだけど、ぼくはそう思った。
0投稿日: 2008.09.12
powered by ブクログじぶん探し なんて無い。 誰もが一度は問いたくなる、じぶん について。何だろう。誰なんだろう。 この本は私が高校一年の時に課題図書として配られたものである。当時はデカルトなどの近代哲学な実存的な在り方に傾倒していたが、 最近になって読んでみると、見田宗介の言うような「関係性」やその始まりであるミクロなレベルでの<他者>についての視座から俯瞰する事が出来た。 鷲田清一氏は、多角的に じぶん の問題について身体や他者との関係に則して 例示も踏まえてわかりやすい文体で鮮やかに<じぶん>についての関係性を抉出している。 鷲田氏は皮膚や身体、嗅覚 触覚 視覚 などのいわゆる五感から哲学する 「臨床哲学」とよばれる哲学を研究されており、コムデギャルソンや山本耀司を初めとする日本のファッションもモード論として哲学している、非常に興味深い哲学者である。 この本は、冒頭の大学生の女の子の回答からして、惹かれたし、一日で読めた。 じぶん探しなんて無い。 でも、じぶんを考えることをはじめるきっかけをこの本は与えてくれる。 ハンナアーレント、レイン、クリプキ、レヴィナス、ラカンを読む前に読めて良かった。
0投稿日: 2008.08.15
powered by ブクログ高校入学時に課題として出され、初めて読んだ新書。そのときは何が言いたいのか全然わからなかったけど、今改めて読んでみると、自己と他者に関してもっともなことが書いてあります。
0投稿日: 2008.01.16
powered by ブクログ?年以上も前に読んだもので記憶が飛んでしまったが、ずいぶんいろいろ考えさせられたように思う。 自己分析してるひまがあったら他人のことを考えろという指摘を人様にもらい、それもまあ当時の自分にとっちゃもっともだと思ってそれ以上の思考は停止させておいたが、何かの分岐点にに気になったらまた読みたい。
0投稿日: 2008.01.15
powered by ブクログ「他者の他者」としてでしか<わたし>はありえない、ということを主題とした本。よく大学入試に取り上げられるほど優れた文章であるらしいが、それゆえに、洗練された思考力を要求する。僕はムリだった。
0投稿日: 2007.10.24
powered by ブクログ中学の時読んで、しばらくぐるぐる考え続けた。そんで鷲田(てゆーか身体論)にはまった(はまるようなもんか?)
0投稿日: 2006.09.25
powered by ブクログ期末テストのレポートにてお世話になった本。アイデンティティ問題について分かりやすい文章で書かれているので、興味のある人は是非一度読んでみてください。
0投稿日: 2006.09.16
powered by ブクログ大阪大学副学長・鷲田清一著、『じぶん・この不思議な存在』は今から10年前に書かれたもので、内容はタイトルを読んだとおりのもの。『じぶんとはなにか?』という問いかけを様々な視点から検証し、考えている。読めば読むほど、考えを深めれば深める程に坩堝にはまり抜け出せなくなる。『じぶん』とは何か。何者なのか。『じぶん』とは果たして自分一人で形成されているものなのか?始まりは?終わりは?『じぶん』はいつから『じぶん』だと認識するのか。『どこ』からが『じぶん』なのか。色々なことを考えさせられます。書き方も難しくないし、厚くない本なので何度でも読み返すことが出来ます。むしろ、読み返さないと見えてきません。『じぶん探し』をしている方必見です。何かヒントが見つかるかもしれません。
0投稿日: 2006.08.09
powered by ブクログ大学入試でよく取り上げられる文章。 「自分ってなんだろう?」という、誰でも一度は考えるテーマについての本。 自分の中で、新たな発見とめぐりあえる。 同じことの繰り返しだが、説得力がある。 鷲田氏の文章は、ゆっくり読むと味があっていい。
0投稿日: 2006.02.25
