Reader Store
宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」
宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」
マルティン・ルター、深井智朗/講談社
作品詳細ページへ戻る

総合評価

4件)
5.0
3
0
0
0
0
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    神聖ローマ帝国は、教会の支配者であるバチカン教皇主義者との複雑な政治的駆け引きに巻き込まれていました ルターの「男気ある発言」は、自国の経済成長を目指し、新しい政治思想の下で権力を皇帝に求めるようになっていた領主や帝国自由都市の人々の野望を後押しすることにもなりました 教皇は、ペトロの大聖堂建設のために、「最も汚れたお金」、すなわち多くの魂を騙し取ったお金を使っていると批判されています ローマ主義者と呼ばれる聖職者は、自分たちが世俗の権力から免れていると主張しており 教皇の権力は不遜であり、神は教会を支配するためではなく、改革するために権力を与えた 教皇は高く上げられたキリストの代理人ではなく、十字架につけられたキリストの代理人であるべき 一年中の最も良い金蔓である聖職禄がローマの手に渡る ローマの飽くなき貪欲 教皇が自らの権力を大罪を贖うためでなく、それらを擁護するために用いるなら、キリスト教界で何の役にも立たない 聖職禄を持つ者がローマで死ぬと、その聖職禄はローマ教会のものになるという方法を「強盗の掟」と呼んでいます これは修道院の破壊であり、礼拝の停止であるのに、ローマでは「空位聖職禄管理」や「修道院維持命令」と呼んでごまかしています ローマ主義者は、かつて異教徒がキリストの服を取り合ったよりも卑劣な方法で聖職禄を取り合っています 叙階の保持(Mandata de Provisio)という考え方は許し難い悪行であり、キリスト教界を辱めています 「コンスタンティヌスの寄進状」もこのような虚構の一つ ローマを「サタンの巣窟」と呼び、パウロが述べた「不法の者」がそこに顕在していると述べています 教皇制度はバビロン王国であり、ニムロドのような狩猟者(力によって支配する者)の力のようなものだ 信仰のみが人を救う 実体変化説(Transubstantiation) ミサは供犠ではなく、罪の赦しと永遠の命という神の約束が言葉(キリストの制定の言葉)によって与えられるサクラメント(契約)である 洗礼は死と復活を意味し、完全な義認を表します 一人の兄弟が一人で罪を告白するなら罪は赦される 魂に関する「内的人」は、信仰によって完全に自由であり、誰にも何にも仕える必要はない 信仰のみが人を義とする 善行によって神の前で義とされるのではない 真のキリスト者の生き方 自由に仕えるため 死と死後への関心 「キリスト教界の改善について」「教会のバビロン捕囚について」「キリスト者の自由について」 「信仰のみ」 「基礎工事」 徹底的に、完全に作り直す キリストこそが救済者である パンとワインが、その見かけ(偶有)を残しつつ、実体としてはキリストの体と血に完全に変化する 信仰は全ての戒めを成就し、信仰を持つ全ての者を十分に義とします 肉体を制御し、欲望を浄化し、体を魂に服従させる パウロは肉体を欲情や欲望もろとも十字架につけよと述べている 「義」とは「神によって正しいと認められること」 神によって正しいと認められること 信頼するのが信仰である ルターが教皇庁から破門勧告を受け、翌年に破門され、帝国追放令を受けた

    0
    投稿日: 2025.04.27
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    「九五箇条の提題」 「キリスト教界の改善について」 「教会のバビロン捕囚について」 「キリスト者の自由について」 の邦訳が掲載。 「教会のバビロン捕囚について」のみ、飛ばした。 西洋思想を追いかけていくにあたって、ルネサンス期が何か、を少しでも知るには、ルターは通らなければならない、と思って読んだのだけども(あと、本屋に並んだタイミングがまさに僕の読むべきタイミングだったのだ)、全部読むにはかなりの量があるのと、読みたい本はまだまだあるけども人生は限られているので、省略した。 とはいえ、得るものは多く。こういう本は解説をサラッと読んでおいて悪くはない。 「九五箇条の、、、」については、意外と教皇を否定してないところに驚いた。これは遠慮なのか?そこの意図を知るには、もっと色々なルターを読み込まねばならないのだろう。 でも、そこはいい。 「キリスト教界の改善について」では、ローマに搾取される神聖ローマ帝国たるドイツの目線で、書かれている。これも驚いた。そういう目線をもつか。もっと、特定の視点になってしまわない思想なのかと思っていた。これも、この書物の目的に応じて解釈すべきものなのかもしれない。とにかくローマ・カトリックの腐敗の凄まじさが描かれる。 「キリスト者の自由について」では、うってかわって、キリスト者はいかにあるべきか、という話である。驚いたのは、他力本願に、親鸞に通ずるようなところを感じるところ。聖書には、戒めと契約がある。戒めにより、人は戒め通りには生きれない、という自覚に至る。そこで、救いの契約がある。という。だから、人は行いではなく、信仰によってよいとされる。という。信仰は、自分を義とするもの。行いは、他者に仕えるためのもの、と、僕は理解した。これはなかなかシンプルだがその分強固な真実であり、素晴らしい。行いでは自らを義にすることはできない、というのが素晴らしい。そんな行いはできない、もしくは、有り得ない、と。 カトリックが、ローマ主義者がめちゃくちゃにしたキリスト教を、聖書によってReformationしよう、というシンプルさ。 そんなことは聖書には書いてない。そんなことはキリストは言ってない。 密教に対する鎌倉仏教のような。

    0
    投稿日: 2019.04.08
  • ルター

    愛国者であり、稀代の理論家であり、熱心な信仰者であったルター。 色々と述べたいことはありますが、近代西欧の勤労精神として宗教改革と大公宗教改革を準備した一人として今なお読むべき一冊でしょう。 特にプロテスタントなら聖書を通読した後、読むべき一冊として今後上がるべきものでしょう。 聖職者の妻帯に眉を顰めるのはキリストも使徒も子孫を残さずに死んだ影響もあるのでしょうが、結果としては、プロテスタントが牧師の妻帯を認めたことにより、オイラー、リーマンなどの稀代の人物の登場する地盤として高度知的従事可能層を拡大したことは歴史上意義深いことです。 活版印刷の登場後、歴史を動かした重要な著作群と言えるでしょう。 星5つ。

    0
    投稿日: 2018.02.11
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    当時のローマの腐敗っぷりがルターの言い方から分かる。 ルターは教派を立ち上げようとしたのではなく、カトリック教会の改革を訴えたのであった。 また、贖宥状も当時の人民が死後の世界の安寧のために求めていたものであった。

    0
    投稿日: 2017.10.29