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powered by ブクログ最後に提起された、今後の大学像は難解であった。が、中世、近代ドイツ、近代アメリカで生まれた大学のモデルと折衷型が独自進化してきた日本の大学について歴史的な経緯から明らかにされており、この点は理解しやすい。教育という、皆がある程度知識を持ちつつ、ゆえに経験をベースに語ってしまう話題について、本書を読むことで客観的な知識を得て、より責任ある議論ができるようになるのではないか。
0投稿日: 2025.07.05
powered by ブクログ『一高帝大』って何って思ってたんですよ。 明治や大正、昭和初期の文豪の作品や経歴を見てると、一高-東京帝国大学出身者が異様に多い。『一高』で検索すると後の東京大学教養学部って出てくるけど、一高から東京帝国大学に進学するんじゃないの?東京帝国大学=東大じゃないの?一高があるんだから二高や三高もあるよね?と次々と疑問が湧いてきます。おまけに、専門学校や高等師範学校、予備門とか高等女学校とかもあって、どういうパスで進学するのかとか、それぞれの学生が何歳なのかとか分からないことだらけでした。 本書は近代大学の歴史として、第一章で中世ヨーロッパ型、第二章でアメリカ型、第三章で帝国大学型の3種類の大学制度を紹介し、さらに第四章で戦後の帝国大学解体〜大学改革の流れについて解説します。 海外の大学の歴史などほぼ興味はないので前半は流して読みましたが、後半の日本の大学の歴史は意外と面白かったです。前述の僕の疑問は第三章四章を読めばほぼ解決しました。 著者が大学に求めるものが高邁すぎる気はしましたが、意地悪な見方をすれば、その高邁な理想と現実とのズレが面白かったです。
9投稿日: 2025.03.23
powered by ブクログ中世都市の発祥と大学の関係から国民国家と大学、日本に目を転じると帝国=天皇制官僚養成機関としての(帝国)大学、そして、私立大学の隆盛と国立大学独法化という流れで論じられていました。大学にいながら「大学とは何か」といわれ一言で回答できませんが、本書からは、大学は知のメディアであるとの回答が引き出せるのかもしれません。それにしても大学内では古典的には法学が重視されていたはず(学問的に?)。いまの低落感はどうしてでしょう。
0投稿日: 2025.02.02
powered by ブクログ非常に高度かつ、専門的な内容 ただ新書でわかりやすくされている分理解はできる 大学の成り立ちや、帝国大学の勃興などについて知れた。
0投稿日: 2024.11.12
powered by ブクログ世界(欧米)の大学の歴史と日本の大学の歴史。それぞれに国家や宗教,産業,民衆との関係が表れる。 日本の学校制度(大学)も始めから今のような仕組みではない。江戸時代→明治維新→産業殖産・富国強兵→世界大戦→アメリカ占領→学生運動→人口動態に合わせた対応→グローバル(米国)スタンダードへの表面的追随→? 本書は大学とは何かについて大学教育に関わる人が知っておくコモンセンスかも。
0投稿日: 2023.03.21
powered by ブクログ半分が西洋の大学の歴史で、残り半分が東大中心の帝国大学の話である。教員養成大学についてはほとんど説明していないので、東大生向きの大学の説明となろう。
0投稿日: 2022.05.29
powered by ブクログ大学の系譜的解説。実は大学も多義的なことが理解できた。かなり中身が厚いので再読の価値あり。一応世界史、メディア、リベラルアーツの軸があるらしい。 ①中世大学 欧州経済圏の中の自由都市に流浪の知識集団が定着したのが始まり。ボローニャに代表されるように法学(医学)が優越するが、アリストテレスのイスラム再輸入で神学(学芸諸学)のパリも発展。しかし托鉢修道会の浸透と宗教・領主による分割で大学が硬直し衰退。 ②国民国家による再発見 専門学校・アカデミー(実学研究)・印刷革命による出版(知識人網)産業の中、独でカントの「理性と有用性の峻別(哲学の理性の自由)」と共にフンボルトのナショナリズムを背景とした主体的国民育成の為の「研究と教育の統合(=文化)」による個人陶冶が大学を甦らせた。英国では「リベラルな知」として哲学が文学(シェイクスピア)と理学に分割され、米国は大学院(学位制度)を作った。 ③帝国大学 啓蒙ナショナリズムから儒学国学に代わって洋学が導入し、実学中心の官立専門学校を統合した「天皇=帝国」の大学として帝大が設立された。主導者森有礼の思想に天皇制とプロテスタンティズムの結合体のもとで国民は主体化する事があったのは面白かった。帝大が広がるにつれ、東大は管理、地方帝大は社会設計、植民地帝大はその両方の分科大学が設立された。また、福沢諭吉の流れを汲む私学や岩波中公の出版業が帝大システムと結合し、教養読者層に支えられた創造知空間(吉野作造等)を形成した。 ④戦後大学 南原繁は専門知と総合知の統合を目指し、旧制高校を廃止した。が、大学モラルは崩壊し、対抗運動としての学生闘争も潰えた。高度成長に伴う大学大衆化と理念の矛盾は46答申以後も規制緩和やサービス産業化に於いて継続し、公社構想や法人化、大学院の問題、「学生が大学を選ぶ」などでも噴出した。底流には大学の意義問題があった。筆者は、国家・企業社会に次ぐものは何なのか問題提起している。キーワードは国民国家の退潮とデジタル化(→空間的拘束からの解放・中世大学への再移行)、卓越性(→思想的拘束からの解放?)である。 終章が非常に難解(特に脱指示化あたり)だった。エクセレンスとリベラル知の関係は表裏一体と感じたが、違うのだろうか。 自分はコスモポリタニズム的な考えに懐疑的なのだが、一方で多国籍企業・大学を含めた一大市場が形成されているのは理解できる。しかし、教える側と一部の知識層はその波に乗れるだろうが、大衆はどうなるだろうか。大衆教育という役割を大学が担ってしまった以上、トップ大学とその他で分断が生じてしまわないだろうか(G型L型)。国民国家が希薄になったとして、世界規模の新階級が形成されたらそれはそれで怖い。そうしたときに中世大学の結末が気になりもう一度最初に戻り、歴史の循環性を疑うのもなかなか面白いものである。2021/1/23 (注:その後丸山眞男の議論を読み、本書の議論の流れが丸山の議論を踏まえていることがわかった)
0投稿日: 2022.03.23
powered by ブクログ「大学」という定義が歴史的にいかにゆらぎ、崩壊し、形を変えてきたのかを概観できる。「大学とは何か」に答えることではなく、この問いが成り立つ複数の地平の歴史的変容を捉えた本。 あとがきでは、大学は自由を基本原理に据えたメディアだと定義。 Keyは、「自由」やキリスト教思想、大学と出版文化の関係、にありそう。 印象的な問いは「大学は誰のためか」。
0投稿日: 2021.11.23
powered by ブクログhttps://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB0624029X
0投稿日: 2021.10.30
powered by ブクログ大学の歴史を俯瞰して、大学とは何か、という問いに迫る。 大学は中世ヨーロッパに端を発し、都市を基盤にして発展する。 しかし、16世紀以降に印刷技術が発展し、越境的な知のネットワークを構築する。大学はこれに取って代わられる。 19世紀になると、ナショナリズムを背景に研究と教育の一致という理念をかかげた国民国家型の大学が誕生する。翻って日本では、明治維新期に分野を先導する各国の学者を呼び、ひたすらに学知を移植する。そして戦後の複線化されていた高等教育機関の大学への一元化、大学紛争の混錬、文科省の大綱化、大学院重点化、国立大学法人化の施策について触れる。 これらを踏まえ、大学とは何かといことを考える際、筆者は1.国民国家が退潮する方向に向かっていること、2.今後数十年、数百年にわたり人類が取り組むべき重要課題は、もはやどれも国境を越えていることを指摘する。大学とは自由の意志であるが、資本主義もグローバル化も重層的な一元的でない知的運動を旋回させている中で、開発や発見だけでなくマネジメントにも注力する専門知の在り方の模索を説く。 この本が執筆されてから10年を経ているが、コロナ禍により大学の在り方がまた大きく変容した。早いうちに『大学は何処へ』を読もう。
0投稿日: 2021.09.19
powered by ブクログ中世ヨーロッパからの大学の起源から、歴史的な大学の成り立ちや変遷を、その時々の時代背景や多大な影響を与えたキーマンなども含めてしっかりと述べられています。中世はさすがにイメージしづらいですが、後半の明治維新以降の帝大や私大の成り立ちやその後の臨教審・大学審議会を受けての環境変化は興味深く、そして今の大学が抱える問題は簡単なものではないことがあらためてわかりました。 自由を基本原理として、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介するメディアが大学であり、自由の空間を創出し続けなければならない、と述べられています。 大学を取り巻く状況は危機的ですが、それを乗り越えていくこともまた、大学の使命だし、大学に関わる人だけに任せるものでもないという気がしました。 読破はかなり難解でした。
3投稿日: 2021.08.13
powered by ブクログ大学の歴史をなぞるのに役立った。大学は普遍的なようであって実はそうではなく、時代や環境の変化とともに変わっていることは大事な事実だと思う。これからの大学がどうあるべきかは過去の延長上からは定義できないことだけはハッキリしたかも。
0投稿日: 2020.08.09
powered by ブクログ・読み終わって感じたこと 中世と現代が似ている点について、人の動きやグローバル化の視点から考えるることは面白く感じた。浅い感想になってしまうが、少しずつ変わりながらも大きな流れとしては歴史が繰り返されているように思えた。 様々な国・時代で理想とした教育や国家像があったことを知ることができた。 人類的普遍性への意志、というものが、大学を始めとする学問の本質だと理解した。 ・面白かった点 大学という機関を軸に、中世から近代、近代から現代にかけてのヨーロッパやアメリカ、日本の歴史を知ることができ、歴史物としても面白かった。 学生運動により、学生が真面目になったという話も面白く感じた。 ・好きな文章 大学再生の原点に位置するカントは、〜神学部、法学部、医学部の三つを上級学部、哲学部を下級学部と名付け、〜その両者の間にある緊張感ある対抗関係が存在しなくてはならず〜 今後数十年、それどころか数百年にわたり人類が取り組むべき重要課題は、すでにどれも国境を越えてしまっている。〜地球史的視座からこれらの人類的課題に取り組む有効な専門的方法論を見つけ出すことや、それを実行できる専門人材を社会に提供することが、ますます大学には求められていくであろう 次世代の専門知に求められているのは、まったく新しい発見・開発をしていくという以上に、すでに飽和しかけている知識の矛盾する諸要素を調停し、望ましき秩序に向けて総合化するマネジメントの知である。 ・おすすめする人 文系や理系というくくりにもやもやを感じている人 日本の大学に疑問を持っている人
0投稿日: 2020.05.16
powered by ブクログ「~とは何か」と問う人間にロクな人間はいない。という蓮實重彦に抗いつつ、究極の答えを追求するのではなく、定義の変遷を歴史的に解明する事を試みた力作である。 大学の歴史とはすなわち、人類が知や教養をどのよう捉え、扱い、関わってきたかの歴史でもある。中世型(アリストテレス)→近代型(カント)→帝国型(森有礼)→アメリカ型(南原繁)と大学のあり方が変化する中で、没落・復活等々を繰り返しているのだが、これは大学が政治と宗教の間で揺れ動きながら攻防してきた歴史でもある。また、その歴史過程では科学技術(印刷革命やIT革命)が知の広がりやネットワークに大きな影響を与えてきたという事も考慮すべきである。 著者は国民国家の退潮(資本主義の隆盛)による今後の大学のあり方を課題として上げている。しかしながら、本書出版後は、反グローバリズムに伴うナショナリズムの勃興により、国民国家が復活しつつあるように思える。また、コロナ騒動により大学の講義は全てオンライン化されるという科学技術による大きな変化や影響もある。他方、9月入学論といった、グローバルスタンダードへの準拠という流れも生じつつある。このような情勢中、大学のみならず、知や教養のあり方がどのように変容していくのかを注視していきたいとあらためて思う次第である。
0投稿日: 2020.05.08
powered by ブクログ大学とは何か、タイトル的に大きなテーマだと思う。11〜12世紀に大学が誕生して以来のヨーロッパでの大学の歴史、そして日本の大学の歴史を振り返る。中性的モデルの発展、印刷革命と宗教改革などの近代モデル、帝国大学モデルを説明してきた。そして、今後の大学の展望を語る。 知識の基盤として大学教育が成り立っていた過去と違い、現在ではテクノロジーの変化もあり、大学という場所に限らず、いくらでも存在する。本当に大学とは今後どんな意味を持つのかが問われている。著者的には大学は必要だが、個人的には知識を学ぶ場所という点では大学という場所はもう古いと思う。
0投稿日: 2019.02.17
powered by ブクログ中世のボローニア、パリ大学に始まり、イギリスのオックスブリッジ、そして19世紀のドイツでナポレオンの仏に押される中で、知の先進国としてのフンベルト大学の隆盛、そして20世紀はジョンズ・ホプキンス大学から米国の時代に。中世から近代にかけて大学が衰退し、近代知のパラダイムが浮上した時代があった!大学が学問的想像力を失い、古臭い機関に成り下がった時代があった!デカルト、パスカルスピノザなどが大学と縁があったのか!との指摘は興味深いものがある。日本の大学がドイツのフンベルト型大学をモデルに帝国大学を導入したとのこと。森有礼の理想、そして戦後は南原繁の考え方とプロテスタンティズムが日本の大学の方向性決定づけたと言うことは興味深い。市立大学の全盛から今日の市立大学の危機の時代を迎え、このように原点に立ち返って大学を考えることは重要なことだ。
0投稿日: 2017.05.30
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
大学を「コミュニケーションメディア(=媒介)」の一種と捉え、大学再定義を試みる。しかし、大学は「何々である」という普遍的な定義ではない。中世の都市、活版印刷(出版)の出現、近世の国民国家の出現と共に大学の定義は揺らいできた。ネットの出現により、メディアとしての大学の位相も劇的に変化しつつある。現在の最も大きな位相の変化は「国民国家の退潮」である。そして、国民国家の中で設立された旧制大学(特に帝国大学)モデルは、大きな転換が求められている。そのキーワードは「マネジメント力」であるようだ。 教育面でのマネジメント力の強化のキーワードは、「リベラルアーツ」である。従来の「教養」とは異なる、「リベラルアーツ」を中世のそれをモデルにして再構造化するというものある。つまり、上級学部である「神学も法学も医学も秩序の知で、様々な矛盾がひしめき合う中で、いかに秩序を保ち、その状態をマネジメントしていくかという問いに対する答えを、神の秩序と社会の秩序、そして人体の秩序の3つのレベルで提供してきた」が、ここで生じる「諸々の矛盾する要素を総合的に結びつけ、安定的な秩序を創出するマネジメントの専門知」としてのリベラルアーツに注目し、次世代の専門知として求められるのは、「すでに飽和しかけている知識の矛盾する諸要素を調停し、望ましき秩序に向けて総合化するマネジメントの知」であり、その再構造化としてのリベラルアーツの必要性を訴える。確かに中世の大学では、学生や教師の移動性や共通言語を有していた点も、現代の大学に通じる。グローバルな社会の中で、中世の大学の成功と失敗から学べる点は多い。
0投稿日: 2017.04.29
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2011年刊。著者は東京大学大学院情報学環教授。◆内容は、転換期を迎える日本の大学をキーワードに、大学の世界史的な起源、変遷、日本への移入、日本国内での変遷を分析し、大学の将来像を提示。大学が人・情報等の知のネットワークの媒介(ハブステーション?)役を果たす指摘は、興味深い。また、よき主権者となってもらうための国民教育は現代普選下では大学までの教育で賄うべき。一方、大学教育の期待が官僚・給与所得者養成にあるとはやや時代錯誤で、知の行き着く先が国内に止まらない点、研究者養成が大学機能の一部にすぎない。 大学の現代的な機能を先のように解釈するのは、やや理想主義にも感じるところであるが、大規模講義形式の打破という意味でも納得の結論である。
0投稿日: 2017.01.20
powered by ブクログ骨太な大学の歴史。世界と日本に大きく分けられるが、特に日本の歴史がリアルだ。自由に問いを発する大学の存在は稀有。それを制度的、財政的な、裏付けを持って、長期的な計画を立てることが必須。
0投稿日: 2015.11.04
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• P14 カント:神学部、法学部、医学部を「上級学部」/哲学部を「下級学部」 ○ 下級学部が理性と真理にだけ従い、「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由はもたないが、すべての命令を判定する自由をもつ ○ 大学が大学としてあるためには、両者の間に緊張感ある対抗関係が存在しなくてはならない ○ 上級学部は外部の要請に応える他律的な知/下級学部は外部から独立した自律した知 • P50 大学の知の根源的な普遍主義 ○ アリストテレスの哲学体系による ○ 水平的な普遍主義とアウグスティヌス以来のキリスト教の超越的な普遍主義の矛盾 ○ トマス・アクィナスによるアリストテレス哲学とキリスト教進学の総合 § 理性と信仰の絆 • P60 オックスブリッジの瀕死状態 ○ 貴族的な規範を選ばれた若者に教える • P62 都市の時代→国民国家 • P66 つまるところ、大学は宗教によってひきさかれ、国家のなかに取り込まれることによって「自由」を失ったのであり、グーデンベルクの「銀河系」が、新たな「自由な学知」を大学以上に過激に実現していく基盤として浮上していったのだ • マーシャル・マクルーハン:出版が最古の資本主義 手工業が機械工業に先行 • P71 16世紀以降、このようにして出版社に媒介される知のネットワークが、中世以来の大学をも凌ぐ知的創造性の拠点となり始めたことは、そうした創造を担う主体が、都市から都市へと遍歴する学生から、むしろ書斎や書庫で大量の本を読み比べる「読者」に変化しつつあったことと対応している ○ イスラム地域からのアリストテレス哲学の流入→欧州内の知識の流通と蓄積 • プラトンの教育の場であったアカデミー • 自律によって判断する能力、すなわち自由に判断する能力=理性 ○ この理性の自由故に、下級学部としての哲学部は大学にとって必須である ○ なぜなら理性の自由こそが大学の自律性の根本だからであり、それゆえに哲学部は、自由であることしか望まないという謙虚さから、上位の三学部にとって有用なものとなり、それらを統御するのである • P88 フンボルトは,知識がすでに定まった不動のものであるという考えを否定し、知識は教師と学生の対話のなかで絶えず新たに生成されていくものだと考えた ○ 内容としての知から方法としての知 • 帝国大学=天皇の大学 • 消費社会文化の傾向を強める70年代以降の大学生文化からすればはるかに真摯に大学を求めていた。少なくとも当時は、大学が企業への就職のための通過点にすぎないとは考えられてはいなかった。大学はそれ自体で何等かの価値合理性を有するべきであると信じられていた。 • P222 大学のレジャーランド化 ○ もはや自由な対話やエリート養成の機関とは程遠く、学歴獲得をほとんど唯一の目的に就職前の若者たちが束の間の急速を楽しむ通過点 ○ お客様たる学生を店に誘い込む客引きとなり、彼らに教育サービスを提供する労働者になった • P236 大学は誰のものなのか ○ 人類的普遍性 ○ 社会に適応した法人の持続可能なマネジメントと普遍的価値への奉仕、この両面を未来の大学はいかに組み合わせていくべきなのだろうか まとめ • 大学とは何か ○ ①キリスト教的世界と中世都市のネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世的モデルの発展 ○ ②印刷革命と宗教革命、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場 ○ ③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築 ○ ④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデル • 大学の再定義する上で、根底的で持続的な位相は何か ○ 国民国家の退潮 • 新たなリベラルアーツ=学問上の結合と離反が繰り返す、一種のリズム • 無条件的で前提を欠いたその議論の場を、何かを検討し再考するための正当な空間を見出さなくてはならないのであり、それは「この種の議論を大学や《人文学》の中に閉じ込めるためではなく、逆に、コミュニケーションや情報、アーカイブ化、知の生産をめぐる新しい技術によって変容する新たな公共空間へと接近するための最良の方法を見出すため • 大学とは、自由への意志である
0投稿日: 2015.08.03
powered by ブクログ大学の誕生と死、その再生と移植、増殖といった世界史的な把握により、大学とは何か、あるべき大学とはいかなるものか、を考察している。また、コミュニケーション・メディアとしての大学という場を考えるところや、リベラルアーツと専門知の関係についての新しい認識の地平を提供するところに本書の特色がある。 大学の歴史を世界史的に振り返ることにより、本書では、「中世的大学モデル」、国民国家を基盤とした「近代的大学モデル」、「帝国大学モデル」、近代的大学モデルから派生した「アメリカの大学モデル」といった大学の理念型を抽出する。そのうえで、国民国家の退潮が進む現代においては、国境を越えた普遍性への指向を持ち、横断的な知の再構造化をはかる場としての「ポスト中世的国家モデル」が大学のあるべき姿ではないかと主張している。そして、エリート主義の「教養」ではなく、専門知をつなぐリベラルアーツが重視されるべきとしている。 著者の考える「大学とは何か」という問いへの答えには、共感するところが多いが、その理念を、今、爆発的に増殖している大学のすべてに適用しようというのは無理があるのではないかと思う。G型大学、L型大学の議論はいきすぎとしても、今よりも数を絞った本来のあるべき姿の「大学」を目指す大学と、職業訓練に主眼を置いた大学(大学という名称を残すかどうかは検討が必要)への分化を軸に高等教育機関の再編成が必要ではないかという感想を持った。 本論とは外れるが、本書で紹介される大学の歴史におけるエピソードには興味深いものが多かった。例えば、東京大学の前身となりうる組織には、儒学を主とした大学本校、洋学を主とした大学南校、医学を主とした大学東校があったが、本来、メインとなるはずの大学本校は、儒学派と国学派の内部抗争で自滅して、大学南校と大学東校の合同だけで東京大学が誕生したといったエピソードといったものだ。 本書は大学について考えるうえで、なかなかの良書だと思うが、やや議論が観念的・理想論的に過ぎる気はした。本書の議論を実際の大学改革などに活かそうとすれば、もう一段階のブレイクダウンが必要だろう。
0投稿日: 2015.06.27
powered by ブクログ今更ながらに読了。大学成立の歴史から、現代の大学に至るまでの歴史的な経緯を分かりやすくまとめている。特にメディアとしての大学という観点は、これからの大学の在り方を考える時に必須の視点ではないか。大学にかかわるすべての人に読んでもらいたい。
0投稿日: 2015.01.25
powered by ブクログ中世ヨーロッパを起源とする大学の歴史をコンパクトに解説.全4章構成で前半2章がヨーロッパ,後半2章が日本の大学を取り上げる. 具体的には1章が中世ヨーロッパの古典的大学モデルを提示し.2章が近代ドイツを舞台として,フンボルト理念とそれに基づく近代型大学の誕生を描く. 一転して3章では明治維新により近代化を目指す帝国日本が,当時先進国であったヨーロッパからいかにして学術体系,いいかえると知を輸入しようとしたのかを,帝国大学の誕生から叙述する.4章では敗戦によって崩壊した帝国日本がいかにして新生民主国家として再生するのかを,その一方で大学が戦前からの連続性を維持し,結果60年代末の大学紛争において事実上の解体を迫られていたことを指摘する.
0投稿日: 2014.08.05
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
中世の大学の起源から、フンボルト型大学、帝国大学、戦後型大学と、その設置形態、目的、理念の変化をたどる。現代の大学がいくつかの改革を経てなお、70年代に提起された問題に完全に答えられていない、という指摘に頷かされる。
0投稿日: 2014.03.16
powered by ブクログ中世の大学の起こりから、現在に至るまで、大学の歴史を知るには情報がコンパクトにまとまっていて良かったです。天皇の大学、「天皇のまなざしと国民の知性が遭遇する場所」としての帝国大学の「帝国」が、明治初年岩倉使節団が日本に招聘した学監が日本のことをエンパイアを読んだことがきっかけでそれを文部省が「帝国」と訳して定着してきたという話にはへえと思いました。グローバル人材育成の文科省のかけ声が大きくなる以前の出版ですが、今日的な人類の課題(環境、エネルギー、貧困…)が、国境を越えた課題であるがゆえに、国民国家と一体の大学からこれらの課題解決に貢献する大学へ変わる必要がある指摘を覚えておきたいと思います。おわりににある「大学とは、メディアである。」のとおり、大学とは何かと問いは、その時代と課題と大学の持つ実験の場において出てきたものにより答えが変っていくものなのかなと思いました。
0投稿日: 2014.01.13
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
中世の大学の思想的核心がアリストテレスにあったとするなら、近代の大学の思想的核心をその発展に先駆けて示したのはカントである。カントは1798年、晩年に書いた「諸学部の争い」で、その後の近代的大学に長く影響を与えることになる未来の大学についての見取り図を示した。彼によれば、大学とは、神学部、法学部、医学部という「上級学部」と、哲学部という「下級学部」の弁証法的統一体である。三つの上級学部は、大学外に、そこで教える内容を方向づける上位の審級を持つ。すなわち、神学部は教会を、法学部は国家を、医学部は公衆医療を目的に成立している。「聖書神学者はその教説から理性ではなくて聖書から、法学者はその教説を自然法からではなくて国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学ではなくて医療法規から汲みとる」のだ。これに対して哲学部は、「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由は持たないが、すべての命令を判定する自由を持つような学部」である。(「諸学部の争い」)つまり、三つの上級学部が営むのは外部の要請に応える他律的な知であり、下級学部が営むのは外部から独立した自律的な知である。p81 19世紀の後半になってもドイツの大学に比べるべくもなかった米国の主要大学だが、その半世紀後には経済力を背景にドイツの諸大学と並ぶ水準となる。そしてやがて、あれほど世界の知の中心であったドイツは、その座をすっかり米国に明け渡すのである。つまり、19世紀末から20世紀半ばまでの数十年間で、高等教育の中心はドイツからアメリカに移動したのだ。 この変化を大学制度の側からみるならば、米国の大学に決定的革新が起きたのは、1876年、イェール大学出身のダニエル・ギルマンが、新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し、より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を、新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば、それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が、ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが、「大学」と「大学院」に分けてしまえば、旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ、しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていけば、米国全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることができたから、まさに一石二鳥のアイデアであった。p104 60年代末の学生叛乱で問われたのは、高度成長に同調して事業拡大路線をひた走る私立大学の利益第一主義と、総力戦期に由来する理工系の研究体制、さらには旧套から抜けだそうとしない大学アカデミズムの権威主義であった。p207 《終章 それでも、大学が必要だ》p237 ①キリスト教世界と中世都市ネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世モデルの発展 ②印刷革命と宗教改革、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場 ③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築 ④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていくなかで、どのような矛盾や衝突、混乱が生じてきたか。 <メモ> 「国民国家」と「大学」は一蓮托生なわけではない。 【ポスト中世的大学モデルへ】p240 Cf. 「ボローニャ・プロセス」 今後、ナショナルな認識の地平を超えて、地球的視座からこれらの人類的課題に取り組む有効な専門的方法を見つけ出すことや、それを実行できる専門人材を社会に提供することが、ますます大学には求められてくるだろう。 Cf. マックス・ウェーバー『職業としての学問』 【あとがき】p258 大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのである。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。 本書は、「大学」という領域へのメディア論的な介入の試みである。大学を、所与の教育制度として捉える以前に、知を媒介する集合的実践が構造化された場として理解すること。
0投稿日: 2013.08.17
powered by ブクログ「大学は今後とも意味を紡ぎ続ける。それが可能であるためには、大学は「エクセレンス」と同時に「自由」の空間を創出し続けなければならない」(256p)。 「大学とはメディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのだ」(258p)。 18歳人口の5割が大学など高等教育機関に進学する時代。それをユニヴァーサル時代と呼ぶらしい。 その大学が揺れている。デジタル情報時代を迎えたこと、学生の習熟度が低下したこと、少子化時代を迎えたのに大学の増設が続いていること、大学教育が私学によって支えられながらも多くの大学が定員割れで存続の危機にあること。 大学の現状を肯定したうえで「大学の未来」を論ずるのではない、書いている。 そのうえでキリスト教との緊張のうえに誕生した中世の大学は、一度、死んでのち復活したのだと、述べる。 その契機をルネッサンスと広範な印刷術の普及のその後で、出版を教官が書き、学生が読み、大学のもつ専門的な図書館が出版の半永久的収蔵庫となる役割、さらには大学自体が出版社をてがける(246p)ように、大学の存在と出版は密接な関係を構築している、とする。 そのうえで、圧倒的なデジタル情報時代に転換する時代の局面で、多チャンネル情報時代に研究・教育・地域貢献は大学のみの専管事項でありつづけるのか、どうか。大学人である著者自体が自問自答しているように思える、が(岩波書店 2011年)。
0投稿日: 2012.12.23
powered by ブクログ新書を読んで、知的好奇心を味わいたい人には ぜひ読んでもらいたい作品です。 僕自信、新書を読んで久しぶりに興奮しました。 「大学」の歴史的な変遷を丁寧に辿りつつ、 いま現在抱える問題、その未来像まで語られた本書。 いわゆる「大学問題」自体はメディアを通じて得る程度の知識しかない 僕のような人間でも分かりやすく、かつ面白く読みました。 特に、中性以降、存在意義を見失ってゆく大学が 近代国家成立とともに価値を見いだされ、復活してゆくくだりや、 大学の没落と新しいメディアの誕生の関係性などの部分が とても印象に残ってます。 また、僕はこれまで、なんとなく今自分達の目の前にある 大学のスタイルが古くから連綿と続いているイメージを 持っていました。なんの疑問も持たず。 本書を読んで、同じ「大学」という言葉でも それが現す状況というものは時代・地域によっても 違うという、極めて当たり前なことに気付きました。 安易に言葉のイメージに流されてはいけない、 ということも、本書を読んで得た教訓でした。 今年読んだ新書の中では有数の面白さでした。 おすすめです。
0投稿日: 2012.10.19
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
吉見俊哉『大学とは何か』岩波新書、読了。大学を知のメディアと捉え、中世における誕生と衰退、近代国家による再生、近代日本の移植と戦後の再編を概観することで、大学の理念を再定義する。懐古趣味的教養主義への回帰や社会へ阿る安易な対処療法を退け、見通しを提案する刺激的な論考。お勧め。 7割程度が大学史に当てられているが、200ページ程度でよくその概要をまとめたものだと感嘆。ヴェルジェやクリストフを紐解く時間がない人やざっくり概要を知る上では便利。知のコミュニケーション場=「メディア」として大学の歴史を俯瞰するのは現代的で面白い。 個人的に興味深かったのは、新制大学を創造するなかで、最大の抵抗勢力が、旧制高校を温存しようとする教養エリート。しかし教養エリートのひとり・南原繁がそれを退け、教養エリートの差別的「教養」主義ではない、新しい「一般教養」を立ち上げていくというところ。 付記。 吉見俊哉『大学とは何か』岩波新書、吉野作造への言及あり。かつて私学にあった「民権と出版の学知」が東京帝大に内在化していく象徴的人物として(大正デモクラシーと『中央公論』)。以降、出版と大学が相互依存へ、ただこの蜜月は治安維持法後、「自由の余地」は縮小していく。
0投稿日: 2012.07.06
powered by ブクログ図書館で借りた。 大学という仕組みはどのように始まったかからスタートし、日本への導入、大学の置かれている状況を説明して、大学に求められていることや大学とは何かを考えている。 大学がもともと建物ありきの発想でないことを知り驚いた。師と弟子のような感じで先生のもとに学生が集まり、各都市を渡り歩いていたらしい。その後、学生が多くなり、学生の組合のようなものが先生を雇うところもあった。地元住民と大学との対立はこの時代からすでにあり、大学に建物がなかったため、全員別のところに移るという言葉で大学に有利な条件を得ていた。 大学は印刷革命が起きたときにうまく対処できず、学問の主体を本の著者に奪われたらしい。それが今のネットワークの発展した状況と似ていると指摘していた。 アメリカ型の大学、フンボルト型の大学というような各国の大学のあり方の歴史も概観できる内容だった。
0投稿日: 2012.05.13
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
最初は非常に難しい(とわたしは感じた)昔の海外の大学の出来かたやいまの日本の基礎になった帝国大学のできかたなどについて非常に学問的に解説している。 戦後の大学改革について、筆者は「たくさんの分野を結びつけるのが真の教養主義」と言っていて、現在の日本の大学のもとになった部分を痛烈に批評している。つまり「大学は真の大学の体をなしてないのではないか?」ということを読み取った。 大学紛争と最近の大学改革についても言及している。 それでも大学は必要、でももっと頑張らなきゃね、という筆者の言葉には、もっと頑張らなきゃなと思わせてくれる。大学に関わる中級者向けかな。
0投稿日: 2012.03.19
powered by ブクログ中世から現代に至る高等教育の歴史を辿った本。 大学について語るためにまずは歴史から知りたい人にオススメ。 特に日本の現代史を綴った四章が面白かった。
0投稿日: 2012.03.08
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
岩波書店でこのタイトル。 しかも著者は教育学者ではない。 興味津々で読んだ。 目次だけ見ると「大学の歴史を振り返るのか」と思われたが、「メディアとしての大学」の視点があるため、これまで知らなかった大学像が立体的に浮かびあがってくる。 ・キリスト教は、日本の大学システムの形成期と転換期の二度にわたり、ペリー提督やマッカーサー元帥以上に大きな役割を果たした (P186) ・(国立大の法人化について) 財務構造にすでに劇的な変化が生じているのに比べ、組織運営のあり方があまり変化していないように見える最大の理由は事務組織や職員の意識と能力が新しい体制に追いついていない点にある (P231) ・現在の状況に有効に介入しうるような新しい大学概念を、歴史と未来の中間地点に立って再定義していく (P239) ・ グーグルやアップル、フェイスブックといった新たなネット上の知識システムに対し、大学という相対的に古い知識形成の場が何を固有にできるのかを明らかにせざるを得ない時が来ている (P249) など、多くの箇所を備忘録に留めた。
0投稿日: 2012.01.15
powered by ブクログ限られた紙幅のなかで大学の起源と変遷の歴史がコンパクトに概観された上で、深い洞察と重たい問題提起がなされている。「未来に向けて命がけの跳躍をしなければならない」(p239)との言葉には痺れた。大学関係者必読の書。
0投稿日: 2012.01.04
powered by ブクログ読むのに時間がかかりましたが大変勉強になる一冊でした。 大学4年である今更になって、もっと早くこの本に出会いたかったと思います。(もっとも、出版自体今年ですが) なぜ大学に来たのか、なぜ今いる大学を選んだのか、なぜ今いる学部を選んだのか。 そもそも、なぜ大学はあるのか、大学とは何なのか。 そういったことを考えさせられます。 大学生必読の書だと思います。
0投稿日: 2011.10.20
powered by ブクログ本書は2つの読み手によって異なる印象を持つだろう。高等教育の入門の段階で読む場合は、「より抜いたポイントの集約」かなと。多少高等教育をかじってから読む場合は、「いつまで先行研究のレビューまで続くのか、と思っていたら終章になってしまった」と思うかもしれない。 新書1冊に日本大学史を総覧した価値はある。参考文献リストも学習者に役立つ。ただ、筆者の考える新しい主張が終章の一部くらしか見当たらないのは、少し寂しい。教育学を専攻としない情報学環の先生だからこそ、このような本が書けたのかとも思う。2時間で日本の大学の誕生から今日までをかけ抜けることができる意味は大きい。 印刷技術の発展に伴う書物の爆発的な出版、インターネットによる知の洪水という各メディアが大学に与えた影響に触れられている。メディア論としての大学論を今後期待したい。
0投稿日: 2011.09.21
powered by ブクログ研究とも関連して興味あるテーマなので面白く読んだ。 ヨーロッパにおける大学の成り立ち(1章)から国民国家と大学の再生(2章)、舞台を日本にうつして帝国における大学(3章)、戦後日本の大学改革(4章)という今までの、最後の章では「それでも、大学が必要だ」とのタイトルで今後の大学のあり方に関する提言が書かれている。 今後の日本に置ける大学の形を考える時、既存の大学概念の中で中世の都市ネットワークを基盤にしたポスト中世的大学モデルが参考になるのではないかと提言している。その理由として、1、世界で多数の大学が国境を越えて都市間で密接に結びついていること、2、高等教育のアメリカ化の中で 学術言語としての英語の世界化がおきており、北東アジアなどの近隣諸国の学生と知的交流をすすめるのにも英語でのコミュニケーション能力が必須であり、それを単純な英語支配と捉えず共通言語以上の可能性を持ったものとして認識することが重要であること、3、今後人類が取り組むべき課題はすでに国民国家の枠組みを越えており、ナショナルな認識の地平を超えて地球史的視座から人類的課題に取り組む専門人材を社会に提供することが大学に求められていること、などを挙げている。(pp.240-243) 面白いのだが、取り立てて目新しいものではない。 それよりも、未来の完全なインターネット社会で大学が生き残ることができるのか、との懸念をぶっこんでたことには、その懸念は理解できるもの、もう少し大学がキャンパスをもち、人と人との直接的な交流が生まれることの意義を聞きたかったなあと思う。最近のキャンパスの国際化や、地域連携などの点についても触れてほしかった。そして、すべての大学教員がマイケル・サンデルのような「白熱」議論ができるわけじゃない、という部分には素直に笑ってしまった。
0投稿日: 2011.09.16
powered by ブクログ「メディアとしての大学」をテーマにしたカルスタ的大学論.中世の大学から最近の日本での国立大学独法化まで,概説
0投稿日: 2011.08.25
powered by ブクログこの新書版一冊で、中世の大学誕生から、アリストテレス、カントから・・・、またまた1960年代の大学紛争、さらに国立大学の法人化まで、なんと、すべてが網羅。これ一冊で、大学のことならわかる・・・という本。大学とはメディアである。これが著者の結論。共感を覚えますねぇ。
0投稿日: 2011.08.09
powered by ブクログ中世の印刷革命において、大学での学問の幅は大きく広がった。 哲学であれ、人文学であれ、リベラルアーツであれ、自由の理性の場を大学の学部として制度的に確保した場合、果たしてそのような確保が自由の維持の自己目的化、つまり新しい大学で理性の自立性の組織的維持が自己目的化されるのか? 理性の大学から、文化、教養の大学に変貌しつつある。 文化=教養である。 感との哲学から、ニューマンらのリベラルな知への大学の理念のイングランド的展開において重要なのは、やがてこのリベラルな知の中核が哲学ではなく、むしろ文学へ移行していったことである。
0投稿日: 2011.08.06
