
総合評価
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powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
横山宏章氏の積読シリーズを読破した際、最後に読んだ対談における話者であった王雲海氏の積読本に手をつけた。前回の対談シリーズでもその時々、違和感を覚えるものの捉え方をしているが、着眼する対象・状況は非常に興味深く読んだ。ただそれぞれの事象を説明するには、サンプルが非常に限定的であることと、”らしく”はありつつも、それが証明となるかと問われると微妙ではある。また特に中国側の説明を公的見解をベースに話すが、そこは建前的なものも多分に含まれているのではないか。そこにある美辞麗句をベースにするのは少し無理があるように思えた。一方、先の対談本では日本が中国を日本的な観点からしか見ていないと何度も言及していたが、まさにそれが中国側からの見方にも出ているのだろうなと感じさせるものだった。日本が中国を日本的見方から外して見ることができないと言い切る割には、中国にはそれに惑わされず見られているといったトーン(厳密に書いてはないが)を感じる。そういえば自分が中国の友人と話している時も同じような感覚に陥ったことを思い出す。 着眼する項目は興味深かったので、もっと色々と理解が進んだら、また読んでみよう。そう思った。 P.24 社会の原点は何かという点から見ると、中国社会の原点は国家権力にほかならず、国家権力こそが中国社会における至上的なもの(原理・力・領域)である。あらゆる社会現象は、何よりもまず国家権力によって決定される。(中略) 法律と権力の関係から見ると、中国社会では、古い時代から法律というものがあり、「法治主義」まで現れたことがある。しかし、そこでの法律は、本質的には、国家権力が民衆を統制するための、また上級の権力者が下級の権力者に自分の意思を忠実に実行させるための規則にすぎず、国家権力を超越し、それから独立し、それをも支配下に置くような普遍的な「法体制」としてのものではない。法律は、いわば「権力あっての法律」であって、常に国家権力に従属し、その支配下に置かれている。例えば、中国の歴史上、国家権力は常に法律を自らの統治の「道具」の一つとして考え、統治によって都合がよければ法律を使うが、「邪魔」であればそれを捨てている。 P.27 20数年前までの中国は、革命を通じ、経済的には「公有制」、政治的には「党の指導」を基本内容としたマルクス主義的社会主義体制を導入し、堅持していた。西洋社会で生まれたマルクス主義は、なぜ西洋諸国でなく遠く離れた東洋社会の中国で導入され、実践されたのであろうか。それは、マルクス主義が中国を必要としていて、中国がその理論に合っていたからではなく、むしろ、中国がマルクス主義を必要としていて、マルクス主義が「権力を原点とする」中国社会に合っていたからである。いい換えれば、マルクス主義が、国家権力を社会の原点とする中国の社会特質に理論的正当性を与えることができたからあである。 実際、中国でマルクス主義に基づいて作られた社会主義は、いわば「中国的特色のある社会主義」であって、「権力社会的社会主義」である。その最大の特徴は次のようなものである。 つまり、「社会体制」が権力を規定するのではなく、権力が「社会体制」を規定する。権力が「社会体制」のなかにあるのではなく、「社会体制」が権力の下にあるのである。結局、権力は、自らの判断で「社会体制」を選択することのみならず、「社会体制」の具体的な紙を決めることもできるのである。 P.28 毛沢東の「政治中国」においては、私有制を撲滅することをその主な内容とする「階級闘争」という政治原理が至上原理とされて、中国社会がそれに従って統治されていた。それなのに、鄧小平の「経済中国」に変わると、いかに経済を発展させるかが至上原理とされて、そのために共産党が進んで私有制の導入やその拡大を進めるようになった。そして、いまの江沢民・胡錦濤の「法治中国」になると、毛沢東時代と鄧小平時代の両方の原理を取り入れながら、法による統治を強調している。(中略)著名なフランスの中国研究家のバラージュ(Etienne Balazs)は、かつて次のように指摘したことがある。つまり、中国では「官僚制の天下であるか、そうでなければ無政府の状態というのが、例外のないルールでもあった」というのである(『中国文明と官僚制』エチアヌ・バラージュちょ、村松裕次訳、みすず書房、一九七一年) P.44 今の中国は、世界でもあまり例を見ないような貧富の差が認められているように、経済面などにおいては、もはや「社会主義」ではなくなり、むしろ資本主義以上の、「原始的資本主義」である。しかし、政治面においては、社会主義体制の基本である「共産党の一党支配」が、以前として憲法上の原則として堅持されている。これは共産党が直接的な選挙を経ずに国家権力を掌握することを意味する。 そこで、選挙を直接行わないのに、なぜ共産党だけが「一党支配」原則に従って国家権力を掌握することができるのかという、共産党政治の正当性・正統性の問題が常に浮かんでくる。これに対して、中国共産党は、革命を成功させたことや、中国をかつてないほど統一していること、経済的にも社会的にも中国がかなり発展していることなどの歴史や現状をあげて、中国共産党こそ中国人民の意思をもっとも代表しており、中国人民のために最大限の利益を追求していると強調して、そこから、直接的な選挙を通さなくても「一党支配」には正当性・正統性があると主張している。 P.47 少なくとも近代以来の中国では、民衆は、先に触れた「何でも信じる」と「何も信じない」という二つの極端な局面と並んで、「媚外」(外国に媚びる)と「憤外」(外国に憤る)というもう二つの極端な局面のどちらかに走ってしまいがちである。同じ民衆でも、時期や場面の違いにより、「媚外」になったり「憤外」に変わったりするのである。その変わり目は、基本的に、民衆の心理が「自信喪失」にあるのか、それとも「自信過剰」にあるのかである。民衆は「自信喪失」状態に陥っていれば、「媚外」という極端な局面に走る。逆に、民衆が「自信過剰」状態になると、「憤外」というもう一つの極端な局面に転じる。 P.64 中国政府が日本との国交回復に乗り出した時の論理・戦略は、まさにこの「三つの世界論」という発想であった。(中略)日本と国交を回復して友好交流を展開するkとおの必要性に関しては、「第一の世界」であるソ連と米国、とりわけソ連が覇権主義を実行して中国を滅ぼそうとしており、ちゅごくにとっては最大かつ緊迫的脅威となっている。それに対抗するためには、「第三の世界」の国々のみならず、中間派たる「第二の世界」の国々を「味方」にすることが有利である。 P.80 当時の中国の権力は、政治的戦略を貫こうとするあまり、日中の一部でしかない有効の部分だけを国内に向けて今日調子、そのほかの部分を大いに捨象したわけである。日中国交回復に伴って形成された中国社会における日本象は、まさにこのような一面的で断片的な知識に基づいた擬似的で一面的なものであった。 P.102 「権力社会」である中国においては、権力は、ほとんどの場合、いわば「破旧立身」(「古きものを壊して新しきものを建てる」という意味)を内容とした革命を通じて、統治者になったわけである。そのために、権力はつねんに「悪い」過去を否定して、将来についてよいビジョンを示すことで自らのいまの統治を正当化し、今の政策に正統性と喚起力をつけようとせざるを得ないのである。 P.174 中国の人々は権力によって一応の「一体性」を作り上げられるものの、そのような「一体性」はあくまでも外見的で一時的なものであって、権力がすこしでも届いていなければ、その「一体性」はすぐ消えて、それぞれがばらばらの本当の「我」に返って、「個体」としての存在に戻るのである。
0投稿日: 2026.01.12
powered by ブクログ[ 内容 ] 日本と中国の政治的関係は、なぜ悪化しているのだろうか。 これまで歴史認識の違い、靖国神社参拝問題等々多くの理由が挙げられ、またさまざまな論が出されている。 しかし、そこでは重要な点が見落とされてきたように思われる。 それは日本と中国の社会特質の差である。 日中の社会特質はかなり異なっており、そこに誤解の根本要因があると思われるのだ。 この新しい視点から、冷却した日中関係を読み解き、さらに共存への未来を探る。 [ 目次 ] 壁は「社会体制」だけではない 壁の原点は「社会特質」にある 「権力社会」対「文化社会」 「政治的外交」対「文化的外交」 「戦略型友好」対「情緒型友好」 歴史問題は本当に重要なのか 南京大虐殺の有無がなぜ議論されるのか より「愛国的」なのは中国人か日本人か ODA、円借款は感謝すべきか 脅威になるのは中国か日本か 皆が同じ被害者か A級戦犯だけが許されないのか 壁を乗り越えるために [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
0投稿日: 2010.05.08
powered by ブクログ中国と日本の違いについて。 特に服の色とか小さいころの夢とかがわかりやすくてよかった。中国の人は服の色は派手な色、小さいころの夢は大きな夢、日本はその逆らしい。(大きな夢を持っている人も一部はいるらしいけど)
0投稿日: 2008.01.20
powered by ブクログこの本あんまり人気無いだろうなぁ。 が、著者による日本の「文化社会」と中国の「権力社会」という用語による分析は、一定の賛意が持てる。日本は文化によって政治を語る傾向(例えば三島由紀夫の文化としての天皇論)があるから、加害者と被害者という感覚が「責任」については阻却し、優先して、戦後の歴史も語られることが多いのだろう、とも思う。 ま、この本は、中国の知識人で、また日本に住み、その文化にも慣れ親しんだ王 雲海 によるエッセイとして寛容に読むのが妥当だろう。 日本と中国の関係の是非を観るために読むには、早計な判断が求められてしまうために理にかなった読み方ではないだろう。しいて言えば、靖国の参拝での知識人的中間層の中国の言い分を知るには丁度いい本ではある。参拝について中国の知識人的中間層の眺め方、言い分にも一理はある。 中国の権力社会については、その延長上で論理を組み立てると、社会主義的市場主義が、中国を席巻しているが、「市場」万能主義は、行き着くところ政府の権力究極なまでの排除という「幸福追求権」に裏打ちされた「自由」主義、すなわち米国モデルと全く同一の方向を目指している。権力社会に対する自己の主張は、米国の自由モデルと同じような社会を作るのではないのだろうかと思える。以下愛国についての本書からの引用。かなり参考になる。 「愛国」の違う形 中国と日本の間にある「鮮明さ好き」対「曖昧さ好み」という論理方式上の差は、日中の相互認識や日中関係自体に大きな影響をおよぼしているように思われる。 二〇〇五年春に中国で発生した大規模な「反日デモ」を見て、それを中国政府が行った愛国主義教育の結果であると批判する日本人の研究者は多かった。また、それをきっかけに、中国人、特に最近の若者の愛国心がとても強くて怖いものであると危惧したり、日本人は愛国心があまりにも弱くて困ると襲いたりする日本の政治家や国民も少なくなかった。 確かにここ数年の中国は、愛国教育に力を入れており、学校などの公共の機関や場所で賑やかな愛国教育行事を催したり、最新のIT技術を取り入れて愛国教育のための教材を作ったりしている。また、マスメディアも愛国の素材をよく取り上げている。しかし、精力的に展開されているこのような愛国教育は、果たして日本で理解・想像されているはど「怖い」動機があって、大きな効果を上げているかというと、まったく別である。 まず、愛国教育自体が、最近になって新たに始まったのでは決してなく、中華人民共和国が成立して以来ずっと続けられてきていることであって、いわば新しい中国政権の「定番劇」である。その動機としては、「外国向け」というよりむしろ「国内向け」の方が大きくて、「愛国」を訴えること自体が、多くの民族、膨大な人口、広大な国土を有する「大国」を統一、統治し続けるための必要不可欠な手法となっている。 次に、中国は「権力社会」であるが故に、「中国」という国に最も責任を持ち、一番「我が物」として意識しているのは、ほかならぬ権力である。社会や民衆にとって外在的存在であるこの権力こそが、政治活動の一環として「愛国」を呼びかけて、愛国教育の先頭に立っているのである。そのために、中国でいう「愛国」とはまず政治的概念であり、常に「愛政権」と一緒で、両者が未分離の状態にある。愛国教育も、常に大衆政治のなかで政治的に行われるのである。このような「外在的存在による主導」と「政治活動の一部」という二つの性格を有する 中国での「愛国」は、どうしても鮮明さ・賑やかさを伴わざるを得ず、「愛国」かどうかは、中身よりまずそうした鮮明さ・賑やかさで判断されるのである。 最後に、鮮明さ・賑やかさを先行させている中国の「愛国」は、多くの場合、個々人にとって建前または表の意義をまず有しており、そのまま自分の本音または真にまですぐには到達しないのである。二〇〇五年の「反日デモ」を報道した番組を見た人は、まだ記憶にあるかもしれないが、日本製品のボイコットをスローガンとしたデモが終わった直後に、参加者の一部に「日本製品はもう買わないか」と聞いたら、「品質がよくて値段が安ければやはり買うよ」と答えていたのである。 一方、日本は、果たして一部の政治家などが嘆いているように、国民は皆愛国心が弱く、「日本」という国をもはや愛していないのであろうか。筆者にはとてもそうは思えない。確かに、中国におけるように、権力が先頭に立って、政治活動として賑やかに愛国教育の行事を催すことも、個々の国民が大声で「愛国」をロにすることもあまりない。しかし、これは、日本において愛国教育が一切行われていないこと、日本人の愛国心が弱いことを、決して意味しな い。逆に、日本における愛国教育は中国以上に巧妙に展開されており、日本の国民の多くが中国人以上に確実な「愛国心」を持っていると見るべきであるように思われる。なぜなら例えば 次のようなことがあげられるからである。 まず、もともと「曖昧さ」「ぼんやりさ」を好む日本は、特に戦前の軍国主義という経験があったことによって、「愛国」などを語るにあたって、一層「曖昧さ」「ぼんやりさ」に徹するようになりがちである。しかし、これは、愛国教育を行っていないことや「愛国心」がないこ まず、愛国教育自体が、最近になって新たに始まったのでは決してなく、中華人民共和国が 成立して以来ずっと続けられてきていることであって、いわば新しい中国政権の「定番劇」で ある。その動機としては、「外国向け」というよりむしろ「国内向け」の方が大きくて、「愛 国」を訴えること自体が、多くの民族、膨大な人口、広大な国土を有する「大中国」を統一、 統治し続けるための必要不可欠な手法となっている。 次に、中国は「権力社会」であるが故に、「中国」という国に最も責任を持ち、一番「我が 物」として意識しているのは、ほかならぬ権力である。社会や民衆にとって外在的存在である この権力こそが、政治活動の一環として「愛国」を呼びかけて、愛国教育の先頭に立っている のである。そのために、中国でいう「愛国」とはまず政治的概念であり、常に「愛政権」と一 緒で、両者が未分離の状態にある。愛国教育も、常に大衆政治のなかで政治的に行われるので ある。このような「外在的存在による主導」と「政治活動の一部」という二つの性格を有する 中国での「愛国」は、どうしても鮮明さ・賑やかさを伴わざるを得ず、「愛国」かどうかは、 中身よりまずそうした鮮明さ・賑やかさで判断されるのである。 最後に、鮮明さ・賑やかさを先行させている中国の「愛国」は、多くの場合、個々人にとっ て建前または表の意義をまず有しており、そのまま自分の本音または真にまですぐには到達し ないのである。二〇〇五年の「反日デモ」を報道した番組を見た人は、まだ記憶にあるかもし れないが、日本製品のボイコットをスローガンとしたデモが終わった直後に、参加者の一部に 「日本製品はもう買わないか」と聞いたら、「品質がよくて値段が安ければやはり買うよ」と答 えていたのである。 一方、日本は、果たして一部の政治家などが嘆いているように、国民は皆愛国心が弱く、 「日本」という国をもはや愛していないのであろうか。筆者にはとてもそうは思えない。確か に、中国におけるように、権力が先頭に立って、政治活動として賑やかに愛国教育の行事を催 すことも、個々の国民が大声で「愛国」をロにすることもあまりない。しかし、これは、日本 において愛国教育が一切行われていないこと、日本人の愛国心が弱いことを、決して意味しな い。逆に、日本における愛国教育は中国以上に巧妙に展開されており、日本の国民の多くが中 国人以上に確実な「愛国心」を持っていると見るべきであるように思われる。なぜなら例えば 次のようなことがあげられるからである。 まず、もともと「曖昧さ」「ぼんやりさ」を好む日本は、特に戦前の軍国主義という経験が あったことによって、「愛国」などを語るにあたって、一層「曖昧さ」「ぼんやりさ」に徹する ようになりがちである。しかし、これは、愛国教育を行っていないことや「愛国心」がないことであるというより、むしろ、大げさなやり方や表現様式で愛国教育をやらない、愛国心を示 そうとはしないこととして理解すべきである。スポーツの試合の湯で相手国の国旗にものを投 げたり、国歌の演奏にプーイングを鳴らしたりするような、中国の一部の若者がかつてとった 無教養なやり方を日本の若者がしないことは、日本の若者に「愛国心」がないことを決して意 味しない。 次に、日本は「文化社会」であるが故に、「日本」という国から「日本人としての正統性」 を最も多く求め、我が身をそれに合わせようと絶えず努力する必要があるのは、性かでもない 文化とその担い手である民間である。内在的存在である民間こそが、目の前の慣習、慣行、常 識(いわば「文化」)として愛国教育を遂行しているのである。小さいところでは、個々の幼稚 園や保育園や小学校などでの教育活動と行事活動は、事実上愛国教育に通じている。大きいと ころでは、民間の新開やテレビ、雑籠などの出版・報道活動は、事実上愛国教育の内容を多く 含んでおり、そのような機能を大いに発揮している。しかも、近年、一部のメディアではその ような傾向がますます強くなってきている。いってみれば、日本での愛国教育は、「愛国」と いう明白な政治的な形こそとらないものの、民間主導で静かにしかも確実に行われているので ある。 そのため、日本でいう「愛国」とはまず文化的概念であって、それは「政治上、特定の政権 を愛する」ことと完全に無関係ではないが、やはり特定の政治態度そのものではない。むしろ、 日本でいう「愛国」は、「愛自己」「愛家族」「愛保育園」「愛学校」「愛会社」などの「愛」と 同質のものであって、それらの「愛」の延長線上にあっての、「政治的でもあれば、政治的で もない」「公的でもあれば、私的でもある」ような文化姿勢の一種になっている。そのために、 日本でいう「愛国」は、「曖昧さ」「ぼんやりさ」を好むという日本文化の一般的特徴に常に同 調しており、人々はいくら「愛国的」であっても、それをそのまま表に出して、大げさにする ことをしないのである。 最後に、文化的な姿勢としての日本の「愛国」は、常に個人と社会、民間と国家の混合牲・ 一体性を反映しており、また、個々人の姿勢の表と真の一致性をも表している。そのために、 個々人の「愛国心」は、内面的でありながらも、人々の慣習、慣行、常識に潜んでいる長期的 な姿勢として、安定して存在し続けているのである。
0投稿日: 2006.09.11
