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高層建築物の世界史
高層建築物の世界史
大澤昭彦/講談社
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    1320 500頁 大澤昭彦 1974年、茨城県生まれ。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了。博士(工学)。財団法人土地総合研究所研究員を経て、現在、東京工業大学大学院総合理工学研究科人間環境システム専攻助教。専門は、景観・都市計画、建築・都市計画法制史。2009年、日本都市計画学会論文奨励賞受賞。著書に『高さ制限とまちづくり』(学芸出版社)がある。 高層建築物の世界史 (講談社現代新書) by 大澤昭彦 高層建築物は、都市文明とともに生まれた。  メソポタミア文明ではジッグラトと呼ばれる都市神をまつる神殿を載せた巨大な建造物がつくられ、古代エジプト文明ではファラオ(王) のもとピラミッドが建造された。これらは、高いだけでなく、ボリュームに特徴があった。高層建築物というよりは巨大建造物と表現した方が適切かもしれない。しかし、こうした巨大建造物は、後につくられる大聖堂や鐘楼、電波塔、高層ビルといった高層建築物に多大な影響を及ぼすことになる。したがって、本章ではいわば高層建築物の前史として巨大建造物の歴史を見ていく。 本章では、古代オリエント(メソポタミア、エジプト)、古代ギリシア、古代ローマの地中海文明と、日本の弥生から古墳時代を中心に取り上げる。多種多様な神々をまつる都市文明のなかで、どのような巨大建造物がつくられてきたのだろうか。 まずは、文明のはじまりと称される古代メソポタミアの巨大建造物を見てみたい。  メソポタミアとは、ギリシア語で「川の間の土地」を意味する。その名が示すように、この文明はティグリス川とユーフラテス川の二つの大河に挟まれた流域で誕生した。大河の水を引き込んだ 灌漑 農業の発達が安定的な農作物の収穫をもたらし、定住社会の 礎 となる。定住は紀元前五〇〇〇年頃にはじまり、前三五〇〇年頃には都市国家へと発展していった。 クフ王のピラミッドには、平均二・五トンの石灰岩が約二三〇万個も用いられている。石材の運搬には、定期的に訪れるナイル川の氾濫が利用されたという。氾濫によって浸水域が広がるため、石を 筏 に載せれば建設現場近くまで運ぶことができた。採石場がナイル川沿いに分布しているのはそのためである。「エジプトはナイルの賜物」というヘロドトスの「歴史」にも記述された有名な言葉があるが、ナイル川は大地を肥沃にしただけでなく、ピラミッド建設にも恩恵をもたらしていたわけである。  ピラミッドの建設には、自然の力だけでなく、当時最先端の測量技術や天文学の知識も結集された。たとえば、四辺の長さの数値を見てみると、それぞれ東二三〇・三九一メートル、西二三〇・三五七メートル、南二三〇・四五四メートル、北二三〇・二三〇メートルで、その誤差は数十センチにとどまる。また、四辺は正確に東西南北を向いており、東側の辺と真北方向の軸のずれはわずかに〇度五分三〇秒であるという。ピラミッドの美しさは、巨大かつ無数の石を精緻に積み上げる技術によってもたらされたのである。 二本一組のオベリスクは、神殿の正面を飾る「門」としての機能を果たしていた。塔門自体、門ではあるが、その前にオベリスクが建っていることで、門の奥に人びとの視線を誘い、神殿の求心性を強調する役割があったとされる。市井の人びとは塔門より内側には入ることはできない。しかし、塔門の壁面やオベリスクの表面には、ファラオや神を称える碑文や彫刻が刻まれており、それらを目にすることはできただろう。オベリスクは、天空へ向けて伸びる高さとあいまって、ファラオの威光を国民に示す格好のモニュメントとなったにちがいない。  ギリシアの建築は、比例原則や装飾を重んじたものであったために、ピラミッドやジッグラトのような巨大な建造物はつくられなかった。アクロポリスの丘の上に立つパルテノン神殿は、どこからも見ることができるランドマークとなったが、建物自体の高さは突出したものではない。大きさよりも、デザインの秩序や、人間の尺度で把握可能であることを重視したギリシアの建築は、その後、地中海世界を制して一大帝国を築き上げた古代ローマに継承されていくことになる。 共和政期のローマの建築は、古代ギリシアと同様に人間の尺度で把握可能な建物が中心であった。しかし、帝政期に入り、圧倒的な軍事力を背景に版図を拡大するにつれ、首都ローマでは、壮麗な宮殿やフォルム(公共広場)、神殿、凱旋門など、モニュメンタルな大規模建造物が建設されていった。一方で、ローマ市内の人口は増加の一途をたどり、市民の住宅として、インスラと呼ばれた高層アパートが建設されていく。 英語のmuseum(博物館) の語源でもあるムーセイオンは、現在の大学のようなものであるが、教育機関ではなく、あくまでも研究のみを行う場であったという。一方の大図書館には、世界中から集められた五〇万冊の蔵書が存在し、これらの 厖大 な資料を用いてギリシアの研究者たちが研究に 勤しんでいた。ムーセイオンには最先端の数学や科学の知識が集積していたわけである。つまり、ファロスの大灯台は、ムーセイオンに集まった研究者たちの英知の賜物であり、アレクサンドリアを象徴する建造物であった。「アテネがパルテノンによってそれと知られ、サン・ピエトロ寺院がローマを指すのとちょうど同じように、当時の人々の想像力の中では『ファロス』がアレクサンドリアになり、アレクサンドリアはファロスであった」のである(E・M・フォースター『ファロスとファリロン/デーヴィーの丘』)。  本書では、各章の終わりに、同時代の日本の状況についても、述べていきたい。  この時代、日本においても農耕定住社会の誕生にあわせて巨大建造物がつくられるようになる。縄文時代の三内丸山遺跡の大型掘立柱建物や、弥生時代の吉野ヶ里遺跡の環濠集落における物見櫓などが代表的なものであった。また、古墳時代に入ると、国を司る王や地域を取り仕切る首長をまつる巨大な前方後円墳が造営され、その大きさが日本の王を中心とする政治的秩序や権力の大きさを表現していく。 もう一つの理由は、首長などの権力者が一般の民とは異なる崇高な存在であることを意識させる意図が込められていたためとされる。首長は死後、神となり共同体を守ると信じられていた。前方後円墳とは、葬られた人物の神格化を図る宗教的な装置としてつくられた墳墓であったのである(松木武彦『古墳とはなにか』)。先代首長の偉大さを巨大な墓の建造によって視覚化し、現首長が先代の正統な後継者であることを誇示する狙いもあっただろう。  塔をつくるためには、経済的・技術的な裏付けが欠かせない。九~一一世紀以降には、大開墾運動による収穫量増大を背景とする人口増加や都市の復興・発展が、塔の建設資金の確保を可能にし、技術の開発を促した。  高さの追求と危険は隣り合わせである。崩壊、倒壊、落雷などのリスクを抱えつつ、さらなる高さを求めていった時代でもあった。 高台の上にそびえる石造りの城は、中世ヨーロッパの面影を今に伝える巨大建造物の一つである。周囲を 睥睨 するように立つ主塔(日本の城で言う天守) や、それを取り巻くように巡らされた濠や城壁、そして城壁に沿って等間隔に設置された見張り塔などが一般的な城の構成である。もちろん城塞は、中世になってはじめて誕生したものではなく、古代オリエントやローマなどでも築かれていた。しかし、垂直性を際立たせた主塔や見張り塔が築造されるようになったのは、九世紀以降のヨーロッパでのことであった。 一一世紀に入ると、木造であった城が石造につくり替えられていく。例えば、イングランドのウィンザー城は、もともと典型的なモット・アンド・ベイリー式であった。当初は木造塔が建っていたが、一一七〇年代にヘンリー二世によって円筒形の石造塔に建替えられた。 防衛の機能面から見れば木造より石造の方が優れているのは言うまでもない。それまで石造の城がつくられなかった理由は、費用や技術の問題にあった。石材の切り出しは、木の伐採よりも高度な技術を要した。また、重い石材を用いるには、運搬や切り出しなどで労働力が必要で、費用もかかった。これに対し、木材は豊富に存在し、扱いやすく、安価でつくることができたために重宝されたのである。 大聖堂は、単に大きな聖堂(教会堂) のことではない。「司教典礼」によると、司教座が置かれた教会のことを指す。人口二〇〇人に対し一つの聖堂があったというが、この範囲を司教区と呼んだ。司教区(教区) 内を監督する役職が司教であり、祈り、説教し、ミサを執り行う。そして、複数の司教区を束ねる役割を担う教会が司教座聖堂、つまり大聖堂となる。大聖堂は司教の権力の象徴であり、信者たちを束ねる統合の象徴ともなる。司教座聖堂が管轄する区域は、現在のフランスにおける県とほぼ重なるエリアであることから、司教座聖堂は県庁のようなものだったとも言えるだろう。 なお、大聖堂をフランス語でカテドラル(cathédrale) というが、これは「司教座のある」を意味する形容詞が名詞化したものである。英語のキャシードラル(cathedral) もラテン語のcathedraを語源とし、これはもともとギリシア語の「kathedra=座席」を指す。司教の座る椅子をカテドラと呼ぶことから、「司教の座る椅子のある聖堂」に由来するとも言われる。また、ドイツ語ではドーム(dom)、イタリア語でドゥオモ(duomo) と呼ぶ。いずれもラテン語で家を意味するドムス(domus) に由来する。大聖堂は、神が自分の民(信者) を集める家、つまりは「神の家」を意味するわけである。 「神の家」でもある大聖堂の特徴は、大きな内部空間を持つことである。大聖堂には多くの市民が入れるようにつくられていた。信者の礼拝場所であるだけではなく、集会、祝祭行事、おしゃべり、食事、睡眠などに自由に使われた。第一章で触れたジッグラトやピラミッドが、市井の人びとが立ち入ることのできない聖域… 「神の家」としての大聖堂は、神の崇高さを表すものとみなされた。町の中に 屹立 する姿は、教会が神と人間(聖と俗) とを媒介する唯一の存在であることを示した。教会に従順に従うことこそが、天国に入る近道であることを人びとに知らしめる効果があった。神の崇高さをより視覚的に表現するために、高さが追求されていった。 光はキリスト教にとって特別な意味を持っている。キリスト教の聖堂は、すべて東西方向を向いている。西に入口、東に祭壇が配置され、太陽が昇る東の方向に向けて人々が祈りを捧げる形式をとる。キリスト教にとって光とは「不安を消し去り、悪に対する善の、悪魔に対する神の、死に対する永遠の、確かな勝利を宣言する」ものであった(ジョルジュ・デュビィ『ヨーロッパの中世』)。 他都市の大聖堂を凌駕するために、豪華な装飾はもちろんのこと、身廊の天井や塔を高くすることに力が注がれていった。塔の高さは「実際的目的などほとんどもたない純粋に感情の産物」であり、「人間の熱望が最高だった時代に、人間の熱望を典型化したもの」(ヘンリー・アダムズ『モン・サン・ミシェルとシャルトル』) であった。 ここで、フィレンツェにおける政治抗争の中で、塔がいかに大きな意味を持っていたかを見てみたい。当時のフィレンツェは、政治的には、神聖ローマ皇帝(フリードリヒ二世) を支持する「ギベッリーニ派(皇帝派)」とローマ教皇を支持する「グェルフィ派(教皇派)」に二分されていた。前者は主に旧来の封建貴族(農村に土地を所有する騎士階層など)、後者は交易や金融で財を成した新興商人を中心とするポポロ(非封建階層) であった。 モスクとは、ムスリム(イスラーム教徒) が礼拝をするための建築物であるが、そのほかにも宗教教育(学校)、憩いの場、政治活動の場など多様な機能を有している。誰でも入れる公共的な空間であるという点ではキリスト教の聖堂とも共通すると言えよう。 ミナレット(光塔)  モスクの中で、とりわけ高さを印象付ける要素が、モスクに付属するミナレットと呼ばれる塔である。ミナレットは、アラビア語の「マナーラ(manāra)」に由来し、「光の場所」を意味する。そのためミナレットを日本語では「光塔」とも表記する。 このミナレットの形状は、旧約聖書に記されたバベルの塔を模したものとの説もあるが、第一章で見たように、ミナレットとバベルの塔とされるジッグラトの形はまったく異なる。話はむしろ逆で、旧約聖書をモチーフに描いた画家たちが、メソポタミアの地に屹立するサーマッラーのミナレットに想像力を刺激され、「バベルの塔」を描いたのではないか。ピーテル・ブリューゲルのバベルの塔が有名であるが、これはローマのコロッセウムに着想を得たと言われている。だが、のちにブリューゲルの影響を受けたバベルの塔の絵画の中には、よりサーマッラーのミナレットに似ているものが少なくない。いずれにせよ、見渡す限りの平野にミナレットがそびえるさまは、古代のジッグラトと同じように、遠くからも見えるランドマークになったことだろう。 逆にキリスト教の聖堂がモスクに変えられた代表的な存在がアヤ・ソフィアである。一四五三年、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、オスマン帝国の首都イスタンブールと改称された。その際、オスマン帝国のスルタン(皇帝)、メフメト二世の命により、アヤ・ソフィア大聖堂がモスクに改修、転用されたのである。 仏塔はもともと仏舎利(釈迦の遺骨) をまつるインドのストゥーパを起源とする建物で、釈迦を象徴している。ただ、ストゥーパは円墳であって、いわゆる塔ではなかった。仏教が、シルクロードを通じて中国、さらに朝鮮半島、日本へと伝わるにつれて、ストゥーパの呼称が卒塔婆、塔婆、塔へと変わり、その形状も高く伸びていった。日本の仏塔は五重塔や三重塔のような多層建築ではあるが、なぜ舎利の安置に多層建築である必要があったのかは定かではない。しかも、多層建築であるにもかかわらず、内部には人が登れるような空間がほとんどない。つまり、外から見られることを意図した建築であった。伽藍の中でもとりわけモニュメンタルな建築とみなされるゆえんである。 一方、中国の仏塔の内部には、階段が設けられ、人が上がれるようになっている。理由として、中国の仏塔は、中国における高層建築の原点と言える漢代の楼閣建築の影響を受けていることが挙げられる。仙人は高い場所に住むことを好んだとされ、仙人、仙界への憧憬が楼閣建築へとつながっていったという。それゆえ仏塔も中に入れる形式になったと考えられる。また、見張り塔としての軍事的な目的を兼ねていたとの説もある。 日本と中国の仏塔の違いはそれ以外にもある。日本の仏塔が、木造で軒が深く、平面形状が四角形であるのに対し、中国の仏塔は、石造もしくは 塼造(煉瓦造) で軒が浅く、平面形状も四角形だけでなく、八角形や十二角形といった多角形が多いことも特徴である。  日本における最初の本格的寺院は、飛鳥寺とされている。飛鳥寺は、蘇我馬子によって発願された蘇我氏の氏寺として現在の奈良県 明日香 村付近に建立された。  天皇に重視されたとはいえ、蘇我氏の氏寺である飛鳥寺は、あくまで私的な寺であった。しかし、国家が仏教を保護するようになると、国が直接的に寺の造営に関与していく。それが大官大寺などの国立の寺、つまり官寺である。 フランスの作家ヴィクトル・ユゴーが『ノートル゠ダム・ド・パリ』の中で、「建物ははるかに堅固で、持ちのよい、じょうぶな書物なのだ!」と述べたように、大聖堂はいわば「石の聖書」であった。中世においては大聖堂の絢爛豪華なステンドグラスや堂内の彫刻、絵画が、聖書の代替的な機能を果たしていた。そして天を志向した大聖堂の高さは、カトリックの威光を人びとに知らしめる役割を担った。前章で述べたように、教会は神と人とを結ぶ媒介であり、大聖堂はそのシンボルであった。 当時のフィレンツェ人には、ゴシックを乗り越えたいという欲求があり、そこには「ナショナリズム(国家主義、国粋主義) の心理」が働いていたという(酒井健『ゴシックとは何か』)。具体的には、隣国であるミラノ公国への対抗心である。ミラノには高さ一〇八メートルの尖塔(小尖塔の数は一三五、彫刻数三四〇〇以上) を有するゴシック様式のミラノ大聖堂があった。 当時のサン・ピエトロは老朽化が著しく、巡礼者を迎え入れる聖堂の機能を十分に果たしているとは言えない状態だった。そこで、教皇ニコラウス五世(在位:一四四七~一四五五年) によって建直しが提案された。ニコラウス五世は次のように語っている。「堅実で安定した確信を与えるには、目に訴えるものがなければならぬ。教義だけで支えられた信仰は、つねに弱々しく揺れ動く……もし教皇庁の権威が壮麗な建物として目に見える形で示されれば……世界中がそれを受け入れて尊敬するだろう。趣味がよく美しく堂々とした広さのある高尚な建築物は、サン・ピエトロの椅子をはなはだしく高めてくれるだろう」(バーバラ・W・タックマン『愚行の世界史』上巻)。 パリの大改造に際しては、交通、衛生、治安の改善、人口分散などの目的に加えて美観も重視された。街路を移動のための手段としてだけではなく、歩く人が見て楽しむ存在につくり変えた点も大きな特徴であった。 一九世紀半ばのパリは、人口過密、交通渋滞、貧困、不衛生、病気、犯罪、暴動などの問題を抱えていた。一九世紀初頭には五〇万人ほどであった人口は、半世紀後には約一〇〇万人に倍増していた。しかし、都市の構造は、ほぼ中世以来のままで、狭く曲がりくねった街路に沿って、高いアパートが建ち並んでおり、陽は当たらず通気もよくない劣悪な環境であった。汚物を窓から街路に捨てている人も多く、悪臭もひどいものだったという。 それに対し、まったくの更地に一からつくりあげたのが、アメリカの首都、ワシントン D. C. である。アメリカの独立宣言から一五年後の一七九一年に、フランス生まれの軍人のピエール・シャルル・ランファン少佐が作成した首都計画をベースに建設された。この計画の特徴は、直線的な大通りの主要な交差点に、連邦議会議事堂、大統領官邸(ホワイトハウス)、ワシントン記念塔など象徴的な建造物や広場を配していることである。 一五七九(天正七) 年、琵琶湖の近くに位置する安土山の山頂に築かれた安土城は、外観五層で、建物の高さは三二・四メートル、土台となる石垣の高さも含めると、計四五・九メートルあったとされる。安土山は標高一九〇メートルであるため、天守からは、琵琶湖を見下ろすことができると同時に、周囲のどこからでも見ることのできるランドマークとなったことだろう。 一九世紀、ロンドンやパリの平均的な建物の高さは、五~六階程度であったが、これは、人々が階段で登ることのできる限度から自然に決まったものであった。その限界を、エレベーターの発明が打ち破った。上下方向の移動手段であるエレベーターがあってこそ摩天楼は実現した、と言っても過言ではない。  動力を使った最初のエレベーターは、一八三五年にイギリスで誕生した。蒸気機関を用いたもので、工場での荷物運搬用に設置されていたという。 一方、嫌悪感を抱く人びとも少なからず存在した。塔が完成する二年前の一八八七年二月、四七人の芸術家や文学者など知識人が建設反対の陳情書をパリ市役所に提出し、エッフェル塔は「その野蛮な大きさによって、ノートル゠ダム、サント゠シャペル、サン゠ジャック塔、など、わが国の建造物すべてを侮辱し、わが国の建築物をすべて矮小化して、踏み砕くに等しい」と厳しく非難したのである(ベンヤミン『パサージュ論』第 1 巻)。この陳情書に名を連ねた作家のギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔の真下のカフェを好んだと言われるが、その理由は、唯一エッフェル塔を見なくてすむ場所だからというものであった。また、イギリスの詩人・デザイナーのウィリアム・モリスは、「パリに立ち寄るときはいつでも、エッフェル塔が見えないように塔のできるだけ近くに宿をとる」ことを公言したという(レルフ、前掲書)。 シカゴで摩天楼が誕生した理由としては、経済的な成長が著しい都市で大きな建物が求められたことや、鋼鉄という新しい材料が普及しつつあったこと、大火で街全体が焼き尽くされた後であったために新しい試みが受け入れられやすかったことなどが挙げられる。 つまり、フロンティアラインの消滅と同時期に、摩天楼は本格的に発展していった。西方のフロンティアの開拓が終わり、フロンティア追求の欲望が空へ向けられた結果として生まれたのが摩天楼とも言えるだろう。アメリカ人にとって摩天楼とは、「平面的な開拓が終わったあと、いわば立体的な方向にのびた開拓の夢」だったのである(亀井俊介『摩天楼は荒野にそびえ』)。なお、アメリカの平面的な開拓は、一八九八年の米西戦争を皮切りに海外での植民地の獲得という形で継続されていくことになる。 スイス出身の建築家ル・コルビュジエはこのように述べ、ニューヨークの摩天楼に新しい時代の都市の可能性を見出していた。その一方で、「ニューヨークの摩天楼は小さすぎ、そして多すぎる」(同) と批判した。現実の摩天楼は彼にとって決して満足できるものではなかったのである。彼は自らの理想を「デカルト的摩天楼」と名づけたが、それはどういったものだったのかを見てみよう。 ル・コルビュジエ自身も関わったCIAM(近代建築国際会議) が、一九三三年に公表したアテネ憲章では、近代都市計画の理念や手法が提示された。そこでは、「現代技術の高度の応用によって、高層建築を建てることを、考慮に入れるべきである」( 28 条) とした上で、「広い間隔を置いて、高く建てることによって、広い緑地帯のための地面を開放すべきである」( 29 条) と記された(ル・コルビュジエ『アテネ憲章』)。  こうした近代都市計画の理念は、のちに高層建築物の周りにゆったりとしたオープン・スペースをとる「タワー・イン・ザ・パーク」型建築物の普及に大きな影響を与えることになる。 ル・コルビュジエと並び二〇世紀の近代建築を牽引したのが、ドイツ生まれの建築家ミース・ファン・デル・ローエである。  ミースは、"Less is more(少ないほど、より豊か)"の言葉に代表されるように、装飾を排したシンプルなデザインを追求した建築家である。その彼が一九二一年と一九二二年の二度にわたって提案したのが、鉄とガラスで構成された二つの高層建築物であった。 セント・ポール大聖堂の建築技師、ゴッドフリー・アレンは、大聖堂のシンボル性が損なわれることを懸念し、テムズ川の南岸や橋などの主要な場所からこの大聖堂への眺めを守るために、建築物の高さ制限を提案した。地元当局はアレンの案を採用し、一九三八年から実施されることとなった。これが「セント・ポールズ・ハイト(St Paul's Heights)」と呼ばれる高さ制限である。 セント・ポールズ・ハイトが開始された一九三〇年代は、前述のようにニューヨークではクライスラー・ビルやエンパイア・ステート・ビルなどの摩天楼が林立した時期にあたる。建物高さの「図」と「地」の関係で言えば、ニューヨークでは「地」の高層化が進んだが、ロンドンでは高さ制限によって「地」の高層化を抑制し、ランドマークであるセント・ポール大聖堂を「図」として際立たせる選択をしたわけである。  オベリスクと言えば、ムッソリーニは、フォーロ・ムッソリーニという新たに開発した地に、自らを称えるオベリスクを建立した。  また一九三六年にエチオピアを併合した際には、戦利品として、かつてのアクスム王国のオベリスクを略奪した。エジプトからオベリスクを持ち帰らせたアウグストゥス帝に倣ったのであろう。なお、このオベリスクは、長らくローマ市内に置かれていたが、二〇〇一年にエチオピア政府が返還の打診を行い、二〇〇五年に返還された。返還時には各大臣をはじめとする要人が空港で出迎え、記念式典が催された。オベリスクの返還は、エチオピア国民のアイデンティティを回復させる試みであったと言えるだろう。 南北道路軸の南端には、ベルリンの玄関口となる南駅が置かれた。その前には長さ八〇〇メートル以上の広場を挟んで高さ約一二〇メートルの凱旋門が計画された。この高さは、パリのエトワール凱旋門の二倍を超えた。鉄道でベルリンを訪れた人が、駅を出て最初に目にする風景は広場の正面に立つ巨大な凱旋門であり、さらにその視線は、凱旋門のアーチ越しにそびえる高さ二九〇メートルの大会堂へと導かれるはずであった。 シュペーアによると、ヒトラーは常に大きな建造物を求め、「大きいこと」に最大の価値を見出していたという。これは実際にヒトラーが語った言葉にも現れている。政権獲得前の一九二〇年代には「強いドイツには優れた建築がなければならない。建築は国力と兵力を如実に示すものだからだ」(ディヤン・スジック『巨大建築という欲望』) と語り、さらに一九三九年の建設労働者に向けた演説では「なぜ常に最大であらねばならないのか? それは、一人一人のドイツ人に自尊心を取り戻してやるためである。すべての領域にわたって、一人一人にこういうためである。我々は劣ってはいない。それどころか、他のどの国民にも絶対に負けないのだと」(シュペーア、前掲書、上巻) と述べている。 ヒトラーにとって巨大建造物とは、第一次世界大戦の敗北で失われた国民の自信を取り戻し、自尊心を回復させる手段であった。 一方、シュペーアは「その巨大さが彼[引用者注:ヒトラー] の功績を称え、彼の自尊心を高めてくれるのがねらいであった」(シュペーア、前掲書) とも語っている。つまり、巨大な建造物は、ヒトラー自身のためのものでもあったのである。 ニューヨークで摩天楼が本格的に発展していく一九一〇年代から二〇年代にかけて、東京では東京海上ビル旧館(一九一八年)、丸ノ内ビルヂング(一九二三年) などのオフィスビルに加え、先に見た三越などの百貨店の高層化が進んだ。東京駅と宮城(現在の皇居) を結ぶ行幸通り沿いに一〇〇尺(約三〇メートル) 程度のビルが建ち並ぶ様子は、「一丁 紐育」と称された。 タワーについては、西ドイツを中心に発展していく鉄筋コンクリート造のテレビ塔をはじめ、共産圏や北米、日本におけるタワーの展開を見ていく。  なおこの時代は、高層建築物がもたらした負の側面が顕在化していった時代でもあるが、本章では、その点についても述べたい。 父から建築家の選定を任されたランバートは、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウス、ルイス・カーンなどの名だたる候補者の中から、最終的にミースを選んだ。かつて「我々は新しい課題の本質から新たな形態を生み出すべきである」と語っていたミースこそが、ジッグラト型を脱却した新しい時代の高層ビルの設計者に 相応しいとランバートは考えたのである。  こうしてミースの手によって設計されたシーグラム・ビルは、高さ一五九・六メートル、三八階建ての超高層ビルとして誕生した。レヴァー・ハウスと同じようにガラスと金属で構成されたビルであるものの、いくつか相違点がある。 シーグラム・ビルのシンプルなデザインは、ミースの設計思想である"Less is more(少ないほど、より豊か)"を体現したもので、新しい高層建築物のあり方や都市像を示していた。後にこのビルを模倣したビルが世界中につくられていくことになるが、これらは「概してミースの繊細な感性を捉えきれていない」(ケネス・フランプトン『現代建築史』) として、必ずしも肯定的に評価されることはなかった。その結果、ガラスと鉄でできたモダニズム建築は箱型の無味乾燥なものの代名詞となり、"Less is more"ならぬ"Less is bore(少ないほど退屈)"と揶揄されることにもなる。 有楽町にあった旧東京都庁舎と同じく、建築家の丹下健三が設計を担当した。「都庁というのは、 日本の シンボルだ」(平松剛『磯崎新の「都庁」』) と語っていたように、丹下はシンボル性をとりわけ重要視した。そこで考え出された形が、パリやアミアンのノートルダム大聖堂を想起させる双塔状の高層ビルであった。実際の大聖堂と比べるとかなり巨大な双塔ではあるが、象徴性を際立たせるためにはその大きさが必要だったのであろう。 これらのタワーの大半には、市の中心からやや離れた場所に立地しているという共通点がある。市の中心部に土地を確保することが困難であったことに加え、タワーが歴史的景観に与える影響から反対意見が少なくなかったためである。西ヨーロッパのテレビ塔は、市庁舎や聖堂などのシンボルに置き換わるものというよりは、あくまで控えめなランドマークとして、都心部から外れた場所でその存在を主張したものであった。 「我々は常に一番でありたい。二番目にエベレストに登った人や月へ行った人なんて誰も覚えていない。人々の記憶に残るのは一番だけだ」ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム・ドバイ首長国首長(二〇一三年の「政府サミット」での演説) 現代の超高層ビル建設の担い手は、アメリカではなく、アジアや中東である。金融・経済拠点をめぐる世界の都市間競争や、新興国による自国の権威付けの手段として超高層ビルは用いられていくことになる。 中国は社会主義国家であるために、生産手段の一つである「土地」は当然ながら公有財産である。憲法には「都市の土地は国家所有、国家所有以外の農村と都市郊外の土地は集団所有」と規定されている(集団とは、村や農村集団経済組織といった団体を指す)。しかし、一九七八年一二月に鄧小平が実権を握って以降、いわゆる「改革・開放路線」へと転じた中国は、社会主義体制を維持しつつも、自由経済を導入していった。 ここまで見てきたように、人類は、さまざまな動機で高層建築物をつくってきた。建物の高さには、意識的にせよ無意識的にせよ、多様な意味が込められてきた。  建物の高さや高層化が持つ意味は、次の二つの観点に分けることができるだろう。  作り手(「高さ」を生み出す側) にとっての高さの意味と、受け手(「高さ」を享受する側) にとっての意味である。 破壊ではないが、以前の為政者がつくった巨大建造物の高さを超える建築物をつくることで、自らの権力、権威を誇示しようとすることもある。  ナポレオン一世によるエトワール凱旋門(高さ五〇メートル) は、古代ローマの凱旋門より高いものをつくらせたと言われている。ヒトラーがベルリンに計画した凱旋門は、さらにその二倍以上の約一二〇メートルであった。北朝鮮の首都平壌にある金日成の凱旋門は、エトワール凱旋門を一〇メートル上回ることが観光の「売り」となっている。 イスラーム国家であるオスマン帝国は、支配下にあるキリスト教国に対して、聖堂にドームや塔、鐘楼を設置することを認めなかったばかりでなく、モスクの高さやムスリムの住宅の高さを超えてはならないと命じた。これも建物の「高さ」が支配者と被支配者の関係を象徴する要素であったことを示している。なお、オスマン帝国から独立したブルガリアでは、学校や聖堂、鐘楼、時計塔のような公共的な建物は高台に建てられ、意図的にモスクの高さを超えるものがつくられたという。この例では、「高さ」が、旧権力からの脱却を象徴していたわけである。 イスラーム世界にとって光は重要な意味を持つが、その光を象徴させたミナレットは、モスクに欠かせない象徴的な建築物である。モスクに複数のミナレットが設けられることもあるが、その数は聖地メッカのミナレットの数を上回ることができなかった。これなどは、メッカを頂点とするイスラーム権力のヒエラルキーを視覚的に表現したものと言えるだろう。 しかし、こうした心理的な反発も、時がたてば慣れが生じ、親しみが生まれる場合もある。たとえば、エッフェル塔に対しては、当初、知識人を中心に拒否反応があったが、いまやパリのランドマークとして欠かせない存在になっている。作家、フランス文学者の松浦寿輝が「今日、エッフェル塔の『イメージ』とパリの『イメージ』は、互いに互いを支え合いながら、その実物を体験したことのない全世界の文化圏を横断しつつ、生成し流通し、更新され消費され再生産されつづけている」(『エッフェル塔試論』) と指摘するように、パリといえばエッフェル塔、エッフェル塔といえばパリといったイメージの補完構造を形成するまでになっている。  このように、高層建築物の意味は「見られるもの」から「眺望の場」へと拡大したのである。鳥の眼で都市を一望する体験が、「都市のイメージ」にも変質をもたらした。  また、超高層建築物の存在が高所からの眺めに対する欲望を喚起するとともに、眼下を見下ろす経験がさらなる超高層ビルを求めるという循環をなしており、それが都市の活力の源泉となっているとも言えるだろう。 高層建築物は、都市のランドマークとして、様々な場所から見える目印となり、都市のスカイラインを形づくる重要な景観要素ともなってきた。  ただし、高ければランドマークになるわけではない。ランドマークは、その周囲にある建物との関係に依存する。都市計画家のケヴィン・リンチが指摘するように、「明瞭な形状をもち、背景との対照が著しく、またその空間的配置が傑出したものであれば、ランドマークは一層見分けられやすい」(『都市のイメージ』) ものとなる。つまり、周りの建物が高くなれば、全体の中で埋没することになる。クフ王のピラミッド、シャルトルの大聖堂、エッフェル塔などを見れば分かるように、これらがランドマークとなっているのは、周りに高い建物が存在しないためである。 また、地形と一体となることでランドマークとして際立つ建造物もある。アクロポリスの丘の上に立つパルテノン神殿、海に囲まれた岩山につくられた修道院モン・サン・ミシェル、山の上に築かれた日本の天守のように、山や丘の上に立つことで傑出したランドマークとなっている。 フランスの作家ヴィクトル・ユゴーは、こう述べている。『一つの建物には二つの要件がある。建物の効用と、建物の美しさである。効用のほうは、建物の所有者に帰属するが、建物の美しさはすべての人に帰属する』(ジョセフ・L・サックス『「レンブラント」でダーツ遊びとは』)。 ユゴーは、「美しさ」という言葉を用いて、建物が単に私的な所有物ではなく、公共的な存在であることを強調しているのである。特に高層建築物は、都市の上に広がる空を占めるため、土地の記憶に多大なインパクトを及ぼす。これからの高層建築物は、いかにして公共性を獲得していくべきかが問われている。とりわけ、人口減少が進むわが国では、闇雲に高層ビルをつくる必要はない。その役割や意義を問い直すことが求められるだろう。本書が、都市における街並みの高さや高層建築物の意味、ひいては今後の都市の姿を考えるきっかけとなれば幸いである。

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    投稿日: 2024.05.21
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    ・東京は羽田空港の離着陸安全のため、都心部で高さ制限がある ・摩天楼は、鋼鉄、ガラス、エレベーターによってできた ・高層建築物は、権力、高さを求める本能、景観、経済性、競争、ランドマーク、復興や発展のシンボル ・高層建築物は不況のシグナルとなってきた。好況期に立て始め、できた頃には不況期 ・ヒトラーは高さよりも広大さを求めた ・1914年に日本橋三越ができたときは、高さ51mで、スエズ以東他に比無し、などと謳われた

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    投稿日: 2022.10.23
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    東工大の、景観・都市計画、建築・都市計画法制史を専門にされている先生が、古代から現代に至るまでの高層建築物の歴史を纏めた本。構造や材料的なお話ではなく、背景や意味合いを中心に書いているので、ド文系の私でもとっつき易く読めました。 新書の割に400ページ超と、物量がハンパ無いのですが、写真もちょこちょこ入っていて文章も読みやすく、スーッと入ってくる感じです。 例えば、ローマ時代の高層アパート(紀元一世紀で6~8階建てって…)のエピソードや、WTCの設計者が高さではなく、ツインタワーであることそのものに重きを置いていた、というそれぞれのエピソードも興味深く読めました。 終章は「高層建築物の意味を考える」と題して、人々が高い建物を作る動機を7つの視点を挙げて整理していたのですが、これが面白かった。 読みながら、今後日本に高層建築ブームが再来することはあるのかな?なんて考えていたのですが、7つの視点のうちせいぜいありうるのは経済性とアイデンティティの2つくらいでしょうか。高くなればなるほど地震対策も必要になるし、厳しい道かもしれません。 体系的に纏まっていて、終章も非常に意義深いと感じました。この分野を勉強してみたい、という方には良著ではないでしょうか。

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    投稿日: 2016.08.08
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    ピラミッドからブルジュ・ハリファまで,「技術」ではなく「文化」に焦点を当てた建築物の「高さ」の歴史。 扱う建造物は古代から現在まで幅広いが,特に鉄&ガラスという材料革命を経てシカゴやニューヨークに摩天楼が林立するようになる19世紀末からの記述が厚く,中でも第二次世界大戦以降にその「文化」が世界各地に拡がっていく様が詳しい。単純なデータの羅列・スペック比較に終わらず,権力や経済性,景観をめぐるあれこれなど,建てる者,使う者,見る者の立場から高層建築の歴史を考察している最終章も興味深い。 新書にして400ページを超えるという結構なボリュームだったが,楽しく読めた。

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    投稿日: 2015.05.25
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     高層建築物をめぐる世界史。高層建築物というと、20世紀や21世紀につくられたアメリカ、日本、シンガポール、台湾、ドバイなどの高層ビルが浮かんでくる。この本では古代メソポタミア、古代エジプト、イスラム建築、日本の城など様々なものが取り上げられている。その分、通常の新書よりも1.5倍程度の厚さになっている。  高層建築物の意味を考えるとして著者は以下の7つの視点を取り上げている。   1.権力 2.本能 3.経済性 4.競争 5.アイデンティティ 6.眺め 7.景観  人間、お金があり権力を持つと派手なことをして人に見せびらかしたい見栄っ張りになるのは古今東西を問わず共通しているようだ。「俺ってこんなにいけてるんだぜ」と自己顕示欲のかたまりとして高層建築物を建てているのが見て分かる。  とは言っても、眺めがよく街並みに合っていれば高層建築物もなかなか捨てたものではない。除夜の鐘を聞いても取れない人間の欲望がある限り、どこかで高層建築物が建てられてニュースで話題になり続けるだろう。

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    投稿日: 2015.05.09