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不可能性の時代
不可能性の時代
大澤真幸/岩波書店
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総合評価

46件)
3.6
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4
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    戦後から時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」の三つにわけてその時代の特徴や人々が何を求めていたのかを分析していました。 社会学の新書ということもあって専門的な言い回しが多く難しく感じられましたが、映画や小説、アニメや漫画など身近な作品が紹介されていて楽しく読めました。 その時代の事件から加害者の心理を分析し、生活を豊かにすることや社会的な地位などの「理想」を求める時代から、現実では起こり得ることのない「虚構」を求める時代への移行を経て、現実への逃避と極端な虚構化といった全く異なるものを求める「不可能性の時代」への疑問点を提示して、その複雑さを説明するといった内容でした。

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    投稿日: 2021.10.02
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    読み進めてくうちに今の時代の感覚に近づいてきてる感ありました。すべて理解できたわけではないのでまたちょくちょく読み返したいです。

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    投稿日: 2019.11.14
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    「現実」に逃避しているとして挙げられる「現実」の例が、リスカ、リアリティショー、アニメオタク。作者は一体どんな環境に日頃身を置いてるのか。Twitter?馴染みのない身からすれば、せめて全人口の何割がそれぞれにハマっているのか数字が出されてると分かりやすかったと思う。

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    投稿日: 2019.10.06
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    『社会学史』があまりに面白かったので、大澤さんの別の著作にも手を出してみた。 戦後日本を、理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代、と遷移してきたと論じる。『虚構の時代の果て』で、オウム真理教事件を分析して、その時代の限界と終焉を論じた著作を継いで社会学的に現代を分析したものだという。 著者は、二つの少年犯罪を異なる時代の背景を反映したものとして、大きく取り上げる。一つが、永山則夫であり、もう一つが少年Aとして知られる神戸連続児童殺傷事件である。二つの少年事件の対照性を語り、時代の変遷を語る。この二つの少年殺人事件の類似と相違点が理想の時代と虚構の時代を分ける鍵となると結論づけるのである。 そして、宮崎勤による殺人事件を語り、オウム真理教の地下鉄サリン事件を虚構の時代の終わりと位置付ける。東氏や北田氏を引きながら、オタク文化や2ちゃんねるなどのアングラ文化を語り、美少女ゲームなどにも触れる。 しかしながらオタクについて「オタクという現象には、さまざまな逆説と謎が詰まっている。本章は、そうした謎を解いたわけではない。まずは、謎を謎として提起したのである」とすることで済ましてしまうのである。 そこに村上春樹の『羊をめぐる冒険』などを放り込んでくる。 「軽さ」、決して良い意味での軽さではない「軽さ」が前に出ている。 時代の考証を、神戸やオウム、宮崎勤などの個の事件によって語るやり方が自分が思う社会学的な姿勢ではないように思う。フーコーはそうではなかったし、本書で時代考証の素晴らしい実例として引かれたジョン・ダワーのやり方とも異なっている。 『社会学史』を読んで高まった期待に沿うものではなかった。残念。 ---- 『社会学史』(大澤真幸)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062884496 『敗北を抱きしめて(上・下)』(ジョン・ダワー)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244205 https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244213

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    投稿日: 2019.07.15
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    戦後から現在までを社会学的に丹念に分析したのち、現代の閉塞を突破する門を見出す。新書レベルでは中々お目にかかれない密度の高さ

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    投稿日: 2018.12.31
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    このレビューはネタバレを含みます。

    同著者『虚構の時代の果て』とセットで読むのがいいと思う。『虚構の時代の果て』でまず筆者の言わんとする「虚構」の概念、枠組みを捉えた上で、「虚構」がどのようにして「不可能」へとすり替わる・移行するのか、その過程に目を向けた本『不可能性の時代』であるという印象。 実例として取り上げられているのが子供時代のわたしにも強く印象に残った(かつ多くの人も覚えているであろう)かつての少年犯罪の数々なので、理解しやすい。時代の変遷に伴い、少年犯罪の加害者の心理、動機が全く反転しているという指摘が面白かった。 「オタク」をめぐる様々な概念についても、オタクの社会の捉え方、他者との関わり方等々、言われてみれば思い当たるようなふしも多いし、自分が感じていたことや違和感を平易に言語化してもらえたようで、頭がすっきりした。 この本が出版されたのはちょうど10年前の2008年。今でも「不可能性の時代」が続いているのか、また別のフェーズに来ているのか、「今」がどんな時代である(あった)かというのはやっぱり10年くらいは待たないと解説できないものなのかな。「振り返る」形でしか社会学は機能しないものなのかと思えば限界を見るようでさみしいし、でもそれもそうだよなとも思う。難しい。

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    投稿日: 2018.10.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    2008年刊。著者は京都大学大学院人間・環境学研究科教授。◆理想(45~60)→夢(60~75)→虚構(75~90)という戦後時代変遷に関する見田宗介の分析を肯定的に継承し、地下鉄サリン事件(95)が虚構時代の終焉を顕わにしたとしつつ、以降を「不可能性の時代」と見て、90年代~の時代相を解読する。◆相当面白いが、幾許かの疑問も。◆社会構成者の一部で、購読層・愛好者も限定されるサブカルチャー。これへの批評を社会批評につなげられるか、社会全体への評に拡散できるか。この種の議論の根本的疑問は解消されず。 ◇持って回った言い方だが、現代政治思想は、実は先祖返りに過ぎないとの疑念。◇リスクに関し、マイナス面を地球が負担するのか(温室効果ガス・核廃棄物)、社会が負担するのか(大気汚染等の公害)、地域が負担するのか(嘉手納爆音問題)、個人が負担するのか(交通事故)による差があるのに、リスクを選択・決定のみに相関させる立場(著者が引用し前提とするルーマン)の持つ甘い分析への配慮がない。モータリゼーションは社会選択の帰結だが、そのリスクの及ぶ歩行者の選択下にはない。社会選択と個人選択を混同したままの議論。 ◇表現の自由と名誉権との対立に同値の問題提起(241頁)につき、対立止揚の手法(害悪の具体的分析を通じて、場合に応じて優劣決定)において、本書は余りにも大鉈過ぎな論。◇グローバル資本主義の志向はルール一元化、多元的文化主義とは非整合的。が、これを整合的とする本書の説明(225頁)が意味不明。◇監視社会の容認を「見られることへの欲望」に依拠する本書。が、監視によるメリット享受(安全・簡便な情報取得等)+監視に伴う害悪の不可視化や監視者自体の透明化・不可視化に帰着なだけ(ストーカーの監視は欲しない)。

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    投稿日: 2017.01.24
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    戦後という時代を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」の3つに区分し、それぞれの時代における「第三の審級」のあり方について考察しています。 オウム真理教事件やオタク文化が現代の日本社会のある側面を示していることは間違いないとしても、それらに焦点化する形で戦後日本社会の総体を把握することができるのか、という疑問はもっともだと思います。ただ本書は、戦後日本社会を包括する試みではなく、見田宗介の『現代社会の理論』や『社会学入門』(ともに岩波新書)から、オウム真理教事件を中心に現代社会を論じた著者の『虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)への展開を改めてたどりなおし、同時に『虚構の時代の果て』から東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)への展開に対する応答の試みとして理解するべきだと思われます。 個別の議論では興味深いところも多くあるのですが、本書の議論の背景をなしている理論的な枠組みは、第三の審級をたえず繰り込んでいく資本主義の運動に対する否定神学的な解決なので、既視感は否めないように思います。

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    投稿日: 2016.09.06
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    人間の一つの精神的活動の出発点であり終着点でもある〈現実〉へのコミットが不可能である現代において、どのようにして不可能性に挑み、その〈現実〉へと至る道を獲得するか。 最終的には、イコール憎しみとなる愛、信仰の徹底による無神論を解決とする。けど、私たちは、そうした情動の極限に耐えうるのか。不可能性の不安に立ち向かう術として私たちはその〈分裂〉を経験しなければならないのだとすれば、もう〈現実〉などいらないのではないか。

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    投稿日: 2015.10.05
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    社会学も哲学も専門外の身としては全体の論旨の展開がやや難解だった。 とくに、結びの部分への展開が読めなかったが、諸所に織り込まれる例によって最後まで読み通すことができた。 隅々まで理解できているとは思えないので、また読み返したい。

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    投稿日: 2015.02.24
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    大澤「先輩」の書. 随分昔に読んだので詳細は覚えていないのだが,今の自分の思想の根本にはこの本があるといっても過言ではない. 今生きる時代を考えるのには不可欠の書であるといえる.

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    投稿日: 2014.11.11
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     図書館より  理論としてはどれも面白かったです。戦後の復興期を「現実と理想の時代」高度経済成長期の頃を「現実と夢の時代」それ以降のオウム事件の頃までを「現実と虚構の時代」と区分しそれぞれの時代における社会思想を読み解きつつ、虚構の時代以降はどんな時代が訪れるのか、という論の展開になっています。  人に見られることを嫌悪しつつもどこか期待している、という話や自分と似た他者との交流を望んでいるという話が自分にも当てはまっているような気がしました。特にブクログでの自己開示や談話室やコメントの交流などはまさにそのまま当てはまっています。あんまり対面では本の話はしないのですが……  結の部分が少し物足りなかったかな。結局言いたいことはそれなの? という感じが無きにしもあらずでした。

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    投稿日: 2014.03.21
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    全体として非常に勉強になったんですけれども、まあオタク当事者として頂けない記述が散見されましたね。笑 あとは結論。これほどまでに不可能性の時代を捉えておきながら、ほとんど現実味を感じられない希望を述べて終わるのは、どうなんでしょうか。倫理が不可能であることを直視した先にある倫理というものをわたしは見たいんですが。第三者の審級、真幸が常に言うことですが、オタク論とも関係して(類似性を基礎にしないコミュニケーションって?っていう)、自己と他者と超越者の関係についてもっと突き詰めて考えていくことが、倫理や理性の話にも、コミュニケーションの在り方の話にもつながるのかなあと。そのへんを自分なりに追求しようとおもいました。

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    投稿日: 2014.03.18
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    このレビューはネタバレを含みます。

    アメリカに管理され、高度経済成長を理想の時代から 凶悪な犯罪事件などに代表される虚構の時代を経て、 不可能性の時代に突入した今。 不可能性の時代とは、「現実への回帰」と「虚構への耽溺」という、 2つのベクトルを持つ時代という。 政治の世界でいえば、 「現実への回帰」は原理主義 「虚構への耽溺」は多文化主義 に対応する。 また、この時代は神のような 『第三者の審級』(全能者みたいなもの?)がいない。 そのため自己責任で意思決定をしていかなくてはいけない。 最後に市民参加型の民主主義は 小さい社会集団の中でしか機能しないことに対して、 『6次の隔たり』、『ランダムな線』で解決の糸口を見つけようとしている。 その根拠に著者の知り合いである中村氏、河野氏を紹介している。 正直、時代を語るのに、エポックメイキングだからって オタクとか宗教団体を引き合いに出されても、世界が狭すぎて その時代、社会を本当に言い表していると思えなかった。 最後の結びも性急で市民型民主主義に不可能性の時代の突破口を 見出そうというのは理解できるが、それが現実に根付いていないのに 著者の知人を二人紹介されただけでは、納得できない。

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    投稿日: 2014.01.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    オビの文句「なぜこんなにも息苦しいのか?」と「不可能性の時代」というタイトル。これらにある種の救いを得ようと本書を手に取る人も多いのではないかと思う。しかし個人的には、「理想の時代」、「虚構の時代」そして「不可能性の時代」という戦後を3期に区分する発想と、その画期としての1970、1995という年を想定することに、「なんとなく」「あいまいに」うなずかされる以上に、得られるものはなかった。そもそも時代を象徴する事件の特殊性にその時代の空気を見出そうとする発想は、それ自体あまりにも陳腐であり、気鋭の社会学者たるもの、その手法の有効性を疑うところから出発べきではないのだろうか、という疑問もつきまとう。何故「オウム真理教」ごときに時代を区切られなければならないのか?という問いに対して、まず「オウム」が鏡のように照らし出す「オウム」以外の日本を掬いとる態度を確立すべきなのであって、いまさらにオウムの省庁構成やホーリーネームの意味を云々する発想にはそれこそ可能性を見出すことは出来ないと感じた。良く出来たお勉強の成果、とは認めるが、それ以上でも以下でもない。

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    投稿日: 2013.12.23
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    自分には早かったかも。 意図的にそうしているのかもしれないが、使っている言葉が難しいのと、文章が回りくどく、何を言おうとしているのかがいちいち分かりづらい。 また、本やアニメ、小説など、非常に多岐に渡るジャンルの作品から時代背景を読み解くといった議論が多く、たまに「おっ」と思うような主張はあるのだけれども、全体としては大変雑多な印象で、全体の論理展開が分かりづらく、常に道に迷っているような感じだった。 5章の途中くらいまでは読んだが、こんな嫌々読んでいても残るものは少ないだろうな、という思いに勝てず、投げてしまった。 戦後を理想→虚構の時代とに分けて、それぞれの時代の作品等を通して、社会や人間心理の変化を読み取るというアプローチは好きだった。 戦後、日本人の心理に混乱が起きなかったのは、天皇の位置にアメリカが綺麗に収まったからで、そこから理想の時代が始まり、アメリカの権威の衰退とともに人々が絶対的な指標を失い、虚構の時代に入ったというところまでは結構面白かったが、その後のオタク論辺りから、急激にどこを目指しているのか分からなくなる気がした。

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    投稿日: 2013.01.15
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    ※ 超単純化した、独断的な説明です。 本書のテーマは、終戦から現在までの「戦後日本」の時代の移り変わりです。 日本人が時代ごとにどんな生き方をしてきたか?また、今どんな生き方をしようとしているのか? この疑問に答えてみた、という本です。 本書の内容に関して、まず人が生き方を決めるときの「基準」・「指針」について考えてみます。 かつて日本では、その基準や指針の典型的なものは「親父」でした。 これについては、今NHKでやってる『梅ちゃん先生』なんか見てると、少しはイメージできるかと思います。 「親父」が家族の生き方について、これは良い・あれは悪い、と決めるポジションに就いている。 だいたい昭和の間は、子どもは「恐い親父」の目を気にしながら怒られないようにする。 それが大人になると、「あの親父だったら、私がこんなことしたら絶対に反対するだろうな」「あの会社に就職するなら、父や家族も悪く思うまい」と自分でいろいろ考えたりして、あまり周りと不和にならないようにしながら、どう生きるかを決めたりするわけです。 あと、他にわかりやすいのは「世間」。 「自分の子どもが悪さしたら、世間様に申し訳が立たない」と言って、やっぱり世間の目を気にする。 また、仕事をクビになったり離婚したりした時も、「世間体」が悪くなって非常に居心地が悪くなる。 付け加えると、「末は博士か大臣か」みたいな言葉が通用していた背景もそうです。個々人が偉いと思うがどうかは無関係に、「世間で偉いと思われてるから博士や大臣は偉いんや」といったカンジで、世間の評価で物事をみるようになる。 さらに言うと、欧米では基本的に、キリスト教の「神」が生きる指針になってますね。 熱心な信者の親に教えられる、聖書に書いてある、教会で牧師の話を聞く、そういう子どもの時からの経験で、「神様は、これは正しい・これは悪いというに違いない。じゃあ、正しいことをして、悪いことはしないようにしよう」と考える。 このように、例として挙げた「親父」、「世間」そして「神」。 私たちの中には、どうやらこういった「生きる指針」みたいなものがあるのではないか。これが本書のひとつのベースとなっています。 何かの指針に従って、私の行いが良いか・悪いか、判断する。 良い行いをずっと繰り返して行けば、自分はどんどん「認められた」存在になっていく。 だから、もっと「認められる」ように、疲れていようがしんどかろうが頑張り続ける。 いつもとは言いませんが、私たちは誰しも、そんな風に生きていると実感する時がないでしょうか。何かの生きる指針があり、その通りに進んでいれば「良い結果」が待っていそうだ、と考えて生きていたりするわけです。 (しかしながら日本では、昔ながらの「親父」や「世間」のチカラは今や地に落ちていますし、そもそもキリストのような絶対的な「神」も存在したことがありません。) さて、そこで次にくる本書のテーマは、「現在、私たちはどんな指針をもって生きているのか?というか、そもそも今、そんな指針を本当にもっているのだろうか?」という疑問です。 かつては、多少なりとも“皆で共有できる”ような「生きる指針」らしきものがあった。 今はどうか? 見渡してみると、個人レベルでは多種多様な「指針」をもってはいそうです。しかし、かつてのように“皆で共有できる”ような「指針」は、今やどこにも見当たらないのではないか。そして、仮にどこにも見当たらないとすれば、①そのような「指針」がないことで何かの問題が発生しないか?②仮に問題があったら、私たちはどう対処すればいいのか? これが本書のメインの問題意識と言えます。 では、①“皆で共有できる”ような「生きる指針」が無いことで何かの問題が発生しないか?これを考えてみましょう。 第一に、皆が共有できるような指針・誰しもが認めるような指針が無く、「まっとうな生き方」が一体何なのかわからなくなってしまったら、私たちは自分の「生き方」を自分で決めるしかありません。 こう言うと、「いや、昔から自分で自分の生き方を決めてたはずだろ?」と思う方もいるでしょう。しかし、これは単に私の直感ですが、昔は「良い学校」に入って「良い会社」に入れば一生安泰、みたいなわかりやすい「生き方」の人生モデルがあったのではないでしょうか。 もちろん、成功とみなされる「良い学校」「良い会社」への入学・入社は、誰しもが出来るものでは無かったわけですが(というか、良い学校・良い会社みたいな考えには明らかに差別的な意識が含まれているので、非常に不愉快な考え方ですが・・・)、少なくとも「目指すべきもの」はあったわけです。学生時代も社会人になってからも。 さらには、人生のモデルケースが一つでも確定していれば、その「まっとうな生き方」(もちろん今となっては幻想ですよ)をチラチラ確認しながら、「自分はまだマイホームは持てないな」「社長は無理でも部長には何とかなりたいな」とか考えられるわけです。なぜなら、確かな人生モデルがあれば、目指すべき「指針」がわかりやすいですからね。 しかし、今やそれが無い。「こうすれば無難」というような生き方の指針は、どこにも見当たらなくなってしまいました(それに気づくかどうかはさておき)。 そこで、「生き方は自分で決めるしかない!」と思い至ることになるわけですが、こうなるとまさしく自己責任の重みがずしりと私たちに圧し掛かってきます。まず、「何が良い生き方なのか」わからないのですから、どう生きたらいいのか途方に暮れたり、決められなくて悩んだりする人が多くなります。次いで、結局決められず、ただ時間だけが過ぎて行ってしまう人も増えますね。 一方で、いったん「こう生きよう!」と決めて就職したり結婚したりしたとしても、「いや、実はまだ他に自分の歩むべき道があるんじゃないか!?」「もっと素晴らしい他の生き方があるんじゃないか!?」という思いが、いつまで経っても消えなくなります。 さらには、自分が自由に決めたその結果として、不幸にも将来、「人生、失敗した・・・」と思う境遇に陥ってしまったら、それは、自己決定したがゆえにまるまる自己責任となります。悪いのは自分だとはっきりしてますから、精神的ダメージも以前に増して大きいものとなるでしょう。 つまり現在、人生のわかりやすいモデルを失ったがゆえに、生きる上でどうしても「不安」につきまとわれるようになったわけです。生き方を決めることは、他の選択肢を捨てるリスクを必ず背負うわけですから、不安になるのも至って当然と言えます。 また、人生のわかりやすいモデルの喪失により、生き方は「人それぞれ」になります。ライフスタイルや「幸せって何か?」といった価値観など、かつてないほど多様化します。共通点がないのが普通になり、個々人がどんどんバラバラになっていきます。 そうして価値観がバラバラになってくると、深刻な機能不全に陥るのが「政治」。皆の考え方がバラバラになると、当然ですが「何を正しいと考えるか」一致点を見つけることが困難になります。 このような段階に至ると、個人レベルでも社会レベルでも、どうにもし難い「閉塞感」に悩まされることになります。現代をそのような時代であると認識するのが、本書の議論の一つです。 そしてその「閉塞」から、さらに困難な問題が生じます。例えば、「何かを生み出そう」とするのではなく、「とにかく今のこのどうしようもない現実をぶっ壊そう」と考える人が増えていくということです。 「ぶっ壊そう」と考える人が増える。これは少しわかりにくいと思いますが、政治の世界でみるとよくわかります。 昨今の政治家で、稀に見る高い支持を得たのは、「小泉純一郎」と「橋下徹」です。この二人は、明確に「この政策が正しい」「この政策でもっと国は良くなる」と言って、人気になったのではありません。 そうではなく、「自民党をぶっ壊す!」「大阪府庁と市役所をぶっ壊す!」。これらのスローガンに私たちは熱狂したわけですよ。 この理由は、明確ですね。「何を正しいとするか」は人それぞれで支持を集められない。しかし、私たちに共通するのは「でも、現実はひどい状態だ」という思いですから、「その現実をぶっ壊して、変えましょう!」という叫びには大いにうなずくわけです。かといって、「壊してその後どうすんの?」という疑問は皆スルーしてしまうわけですが・・・。 そして、「破壊」の後も相も変わらず「閉塞感」が待っている。でも、私たちは「ぶっ壊す」と言ってる人たちにばかり引き付けられてしまいます。そこに「希望の未来」は無いのに、です。 ここまでが、①の問題です。では最後、②問題があったら、私たちはどう対処すればいいのか? 3.11という苛酷な現実、つまり圧倒的な「破壊」を経験してしまった私たちは、とうとう「とことん何かが壊れても、私たちの生活や現実は良くならない。むしろどんどん悪くなる」と知ってしまったわけです。(もちろん、それに気づかないふりをしてる人たちは、世間に大勢おりますが・・・) そこで、どうするか?それは、もはや既存の「生きる指針」を“超えて”、「正しいと思うこと」を自己判断してやり遂げることです。 例えば、私たちが就職やバイト等で働き始めたら、まずは職場の「上司」を手本にして仕事を覚えたり、「上司」に良い評価をもらえるように仕事したりします。 しかし、そんな「上司」でも出来ない仕事を自分がしたいとき、どうすればいいか。 そのときは、もはや手本にはならないわけですから、仕事上の能力で「上司」を超えるしかありません。それまでの仕事上の経験を生かしながら、自己責任・自己判断で仕事するしかないのです。 「閉塞」を打破するために、誰かに守ってもらったり保証してもらったりすることなく、ただ現実に対応すること。本書の結論に照らすと、さしあたって私たちに出来ることはそれくらいではないでしょうか。(了) なお、「第三者の審級」「物語る権利」「真理への執着」「ムーゼルマン」等といった難解な用語は、速やかにスルーさせて頂きました。もちろん明示してないだけで、それらを意識してレビューしておりますが。

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    投稿日: 2012.09.02
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    ん~、難しかった。オモシロイことを言っているような気はするが、消化できずに終わった。結局、不可能の時代とは何だったのだろうか。。東さんの「一般意志2.0」の流れで手にとった本書だったが、撃沈。

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    投稿日: 2012.01.24
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    「家族ゲーム」松田優作、食事のシーン、テレビ V 不可能性の時代 3 反復というモチーフ 「終わり」の回復 このようにして第三者の審級を逆説的に回帰させることによって初めて、偶有的であった選択に関して、「必然性」の感覚をもつことが可能になる。選択したことに関して、「これでよい」「これしかない」という感覚をもち、それを引き受けることができるようになるのだ。 p.213 VI 政治的思想空間の現在 1 「物語る権利」と「真理への執着」 「物語る権利」と「真理への執着」 「物語る権利」を擁護するのは、典型的には、多文化主義である。「真理への執着」として現象しているのは、たとえば、原理主義だ。 p.221 原理主義の「真理への執着」は、あの「現実」への衝動と、指向を共有していないだろうか。少なくとも、「現実」への逃避は、物語=虚構からの逃避、つまり多文化主義が「真理」の代わりに置いた多様な物語からの逃避である。それは、物語へのーーそれぞれが抱懐する世界がただの虚構であることへのーー根本的な欲求不満の表現だ。前衛的な哲学や思想においてすら、「現実」への衝動が支配的であったことを思うならば、多文化主義の優位は、一見そう思えるほどには自明ではない。 p.221-222 5 無神論への突破 憎悪における愛 逆に、もし「完全に均整の取れた美人」がいたとすれば、「とても知的で道徳的にも完全な男」がいたとすれば、彼/彼女はどこか魅力を欠き、情熱を引き出すきっかけや手がかりをもたないという印象を人に与えるのではないか。つまり特異的な欠点がない者を、われわれはかえって愛することができないのだ。 p.259 それゆえ、こう結論できる。憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを孕んだ愛こそが、われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないか。ところで、これこそ真の無神論であろう。正義を基礎づける「超越的な第三者の審級=神」が与えられているなかで、その神への愛を神への裏切りーー神の存在の否定ーーと等値することが重要だからだ。 p.264 結 拡がり行く民主主義 活動的な民主主義は小さい? 神的暴力の要諦は、神の無能を、つまり超越的な第三者の審級の不在を引き受けることにある。だとすれば、現代社会は、神的暴力にとって好機であると同時に、障害でもある。 p.272 統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。 だが、しかし、ここで、われわれは、技術的な困難にぶつからざるをえない。このような意味での民主主義は、ごく小さな集団、ごく小規模な共同体においてしか、実現できないように思えるからである。集団の規模がある限度を超えると、被治者の意思は、不透明なものとなる。あるいは、多様な意見や価値観、利害関心を有する多数の個人を内部に含むがために、そこに被治者の統一的な意思を見出すことが不可能になる。その結果、被治者である人民とその意思が、その実際とは独立に実体化されることにもなるだろう。言い換えれば、「人民」が(現実の人民とは独立の)第三者の審級として機能し始めるのである。このとき、特定の指導者や特定の機関(たとえば党)が、われこそは「人民」の代理人であると僭称し、あるいは自分は「人民」の純粋な手足、純粋な道具であると宣言し、人民を支配することが可能になる。 このように、統治者=被治者の関係が成り立っていると見なしうる民主主義は、小規模でローカルな共同体においてしか成り立ち得ない、と一般には考えられている。 p.273-274 ※パットナム、草の根民主主義、ソーシャル・キャピタル、日常的な社交で維持される、… ※東浩紀『一般意志2.0』出版に際しての佐々木俊尚氏との対談(現代ビジネス Ustream)の問題意識とほぼ同じ。 民主主義への希望 小規模で民主的な共同体が分立しつつ、他方で、それらのどの共同体にも、外へと繋がる、外の異なる共同体(野メンバー)と繋がる、関係のルートをいくつかもっているとしよう。そうすれば、共同体の全体を覆う、強力な権力などなくても、何億、何十億もの人間の集合を、個人が直接に実感できる程度の関係の隔たりのなかに収めることができるのだ。この直接の関係の上にこそ、述べてきたような活動的な民主主義を築き上げることができるのだとすれば、市民参加型でありつつ、なお広域へと拡がり行く民主主義は十分に可能だ、ということになるのではあるまいか。 p.283-284 ※一般意志2.0、Twitter、Facebook ※ペシャワール会、現地へ行く、近づく、河野義行氏、松本サリン事件の被害者、オウム信者と交流、「ランダムな線」は敵対しあっている者同士の間にもひかれうる、希望 30分で読んだ メモ10分

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    投稿日: 2011.12.23
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    戦後の時代区分について、 「理想の時代」 ↓ 「虚構の時代」 ↓ 「不可能性の時代」 とし、その区切りと何故なのかを論考する。

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    投稿日: 2011.11.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    まさっちー先生一冊目。 友人に勧められて。 戦後は理想の時代。敗戦後、アメリカを理想とする時代。 そして、虚構の時代。高度経済成長後、現実と虚構の境目が曖昧になった時代。 これらをなぞって分析して、では現在は何の時代なのか、というのが本書のテーマ。 筆者曰く、不可能性の時代なのだと。 「不可能なもの」から逃れるための、二つの対象的な動きがある。 一つは虚構への逃避。これは虚構の時代の動きを引き継いだものだ。 もう一つは、現実への逃避。暴力と言う現実へ。 繰り返されるハルマゲドンの予言。同時多発テロ。イラクでのアメリカ兵のビデオ。 では、その「不可能なもの」とは何なのか? それは他者である、と著者は語る。 他者性のない他者。 つまり、家族以上に直接的で親密な間柄であるような他者。 その他者を求める傾向は、「幼馴染」「前世」といったものに見られる。 この分析が正しいかどうかはともかく、なるほど、と思わせる語り口。 オタク系に知識があれば、物語として面白く消化できる。 「Always三丁目の夕日」のくだりは明快で良かった。 ロールモデルのない不幸、というのは言われているけれど、 それをはっきり実証していてすんなり入ってくる。 あとは、詐欺師本人が自分の詐欺に囚われる、というのもなるほど。 ただ、分析対象がいわゆるオタク系文化に偏り過ぎな印象。 せっかくこれだけの物語を描くのだから、政治や経済にもっと寄ればおじさん受けするのにな、と個人的には思いました。 あと、ムーゼルマンと「六次の隔たり」は無理やり感が強い。 最後に救いを…という気持ちはわかるが、ものすごく消化不良で困る。 後に解消されていくものなのか、他の作品で見てみたい。

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    投稿日: 2011.10.10
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    難しかった。 けど、なかなか面白かった。 けど、結局なんについての本だったのかよくわからない。 「不可能性」という単語の意味が、そもそもよくわからないので、なんかもっと、わかりやすい概念の言葉に置き換えられないか…と思う。

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    投稿日: 2011.09.19
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    このレビューはネタバレを含みます。

    [ 内容 ] 「現実から逃避」するのではなく、むしろ「現実へと逃避」する者たち-。 彼らはいったい何を求めているのか。 戦後の「理想の時代」から、七〇年代以降の「虚構の時代」を経て、九五年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る。 大澤社会学・最新の地平。 [ 目次 ] 序 「現実」への逃避 1 理想の時代 2 虚構の時代 3 オタクという謎 4 リスク社会再論 5 不可能性の時代 6 政治的思想空間の現在 結 拡がり行く民主主義 [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]

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    投稿日: 2011.04.24
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    目次の「結」は拡がり行く民主主義である。 その「結」を導くため、見田宗介氏の提示した戦後の時代区分「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」をものさしとし、書き綴った書である。 「オタクという謎」「リスク社会再論」「不可能性の時代「政治思想的空間の現在」という項目を設定し、色んな角度で論じている。 時代時代の社会現象、知識人のテーゼなどを持ち出しながら、著者の考え方を披瀝している。 最後、インターネット社会となり、唐突に「六次の隔たり」「小さな世界」理論が飛び出してきたりしたが、それはそれなりに楽しい読み物であった。

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    投稿日: 2011.02.06
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    見田宗介氏の戦後史区分を発展させ、1995年以降の日本の現状を「不可能性の時代」と規定した論考。高度経済成長以降から現在に至る日本の歩みの枠組みを説得力ある筆致で論じている。現代文化を研究する際に、時代背景を抑えておく必要を覚える学生には最適な著作である。 (2010年:清水均先生 推薦)

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    投稿日: 2011.01.24
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    近代文学演習Cでの発表作品。 発表を通じて、わかったふりをしながら読書をしていることが多いことを痛感した。ただ、それにしてもなかなかに難解な本だった。「結局不可能性の時代ってなに」なんて質問されても、今でもスパッと答えられない……。

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    投稿日: 2011.01.10
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    このレビューはネタバレを含みます。

    難しかったなぁ。 だから、進みが遅かったよ。 途中、イマイチ興味が持てなくて頭に入ってこなかった。 とくに「オタク」の章は議論の意義がよくわからない。 美少女ゲームを議論の柱に持ってくるなんて・・・、これが現代日本社会の分析といえるのかどうか非常に疑問。 「不可能性の時代」といっても、何が不可能なのかイマイチわからない・・・。 そんな部分もありつつ、最後の「六次の隔たり」のくだりはナルホドと思った。 「六次の隔たり」は以前にテレビか何かで見たことがあったけど、活字で読んでその意味をネット調べてみると 改めて驚いた。 確かに、これを元に民主主義の概念を見直すというのはおもしろい。 ただ、民主主義そのものの妥当性は議論しないの?民主主義って手放しに受け入れてイイものなの? って疑問はあるが・・・。

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    投稿日: 2010.12.22
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    図書館で借りた。 見田宗介の戦後の見方「理想の時代1945-60」「夢の時代60-75」「虚構の時代75-90」の次の時代は何かを論じている。 テロなどの激しい暴力を現実への逃避、アルコール抜きの酒のような危険性を排除した現実を虚構化する方向、この2つを併せ持つようなものを「不可能なもの」と呼んで現在の現実を秩序づける準拠点になっているのではないかと著者は述べている。 また、それを乗り越える方法を最後に示している。 神という考え方があって見られている、という感覚があるのではなく、ただ見られているという感覚が先にあり、そのままでは不安だからその見ているものを神と名付けた、という部分があり新鮮だった。 第三者の審級、という言葉を初めて知った。

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    投稿日: 2010.10.07
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    「現実」の反対を意味する言葉とは何だろう。 ある人は、「理想」と指摘し、またある人は「夢」や「虚構」と表現する。見田宗介はこれらの概念を人々の心性として、戦後社会の歴史的区分を行った。 本書は大澤が、虚構の時代以降、すなわち00年以降に布置する時代について分析する歴史書である。そして現代を生きる人々の心性こそ「不可能性」なのである。「不可能性」を解釈する上で、大澤は現代思想の泰斗、鬼才スラヴォイ・ジジェクの次のような言説を援用する。 「カフェイン抜きのコーヒー」 この言説は、存在を規定するべき要件となる要素の否定を指す。コーヒーを「コーヒー」足らしめるのは本来ならばカフェインである。換言すると、コーヒーにカフェインは「欠くこと」ができない。この存在(コーヒー)を規定する要件(カフェイン)の否定が現代のトレンドだという。(他にも、アルコール抜きのビール、危険抜きのセックス) 大澤が指摘する「不可能性」とは次のように要約できる。一方で極度に具体化された「現実へ逃げ込み」、他方で「現実を虚構化する強い力」が働くという背反するベクトルの同位相での含有。 私自身、「不可能性」は現代固有のものではないと考える。「戦い抜きの戦争(冷戦)」といったものが存在したようにそれは歴史を俯瞰した際、多分に見受けられる現象だからだ。しかし、そのような時代性が個人の生活世界において決定的な意味を持つのが近代であるという大澤の指摘には部分的には同意できる。ニートや引きこもり、格差、拡大する失業率と先の見えない不安、そういったものを考える際の一助になるだろう。

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    投稿日: 2010.09.03
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    見田宗介をうけ、さらに現代に対応している。 がっかりする新書ではない。 前半、「現実への逃避」が印象的。 後半の実践に関する記述に、「責任と赦し」とのつながりがある。

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    投稿日: 2010.08.16
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    不可能性という言葉にグッときて買ってはみたものの、後半になるに従って、合点がいかない箇所がたくさん出てきて、頭の中で反論してるうちに論旨が分からなくなってしまった。

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    投稿日: 2010.04.11
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     「あなたはすべての仮面ライダーを破壊するものです。創造は破壊からしか生まれませんからね。残念ですが…」  突然だが、この「仮面ライダーディケイド」第一話「ライダー大戦」で紅渡が主人公の門矢士に言った台詞が、やけに本書が示唆する時代背景の一面を表している。  今までいろいろ電車やバスの中でちょくちょく読んでいたものの一冊が、大澤真幸(2008)『不可能性の時代』(岩波書店[岩波新書1122])。  人は人生や社会など、身の回りのものや現象に意味づけを行いながら生きている。その意味づけを組み合わせて、大きな意味づけを作り出すことができる。  大澤は本書で1945年から現在までの様々な事象を意味づけして思想的な展開を繰り広げる。それは、敗戦後のアメリカを理想とした「理想の時代」、1970年代以降の理想的な価値観が喪失し始め、相対化が進む「虚構の時代」、1995年(オウム真理教事件)を境とした「不可能性の時代」と変遷する。  現在の「不可能性の時代」では、直接性のコミュニケーションを強要され、自己の行為の正当性・正統性を担保する価値基準を与える(と自己が想定している)「第三者の審級」なるものが立ち表れてこない。その「第三者の審級」から「見られていない」ことへの不安が、リストカットなどの極限のリアルを求める更なる<現実への逃避>とバーチャルな世界とデータベース消費に進む<極度の虚構化>の二極化を同時に進行させている。この状況下で「第三者の審級」を見ようものならば、二極化の徹底的な貫徹、即ち<破壊>するしかない。  大澤は「Six Degrees of Separation(六次の隔たり)」のような<間‐直接的>な関係の構築にこの「不可能性の時代」を乗り越える視座を見出そうとするが、逆に言えば、そうでもしない限り、<破壊>による新たな世界の創造しか、乗り越えることが難しいのだろう。

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    投稿日: 2010.01.10
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    「アイロニカルな没入」 ある対象が幻想=虚構に過ぎないことを充分に承知の上で、不動の現実であるかのように振舞うこと。「よくわかっている、それでも・・・」

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    投稿日: 2010.01.03
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    この本が主張したかったことは? 戦後という時代区分を、反現実についての把握を経て、 「理想の時代」→「虚構の時代」→「不可能性の時代」 という流れで、説明できる。 ①「不可能性の時代」と「虚構の時代」を隔てるものと、移行へのメカニズムは? ②「不可能性の時代」とはどのような時代なのか。 ③現在を「不可能性の時代」と認識することで、どのような意味があるのか。 このあたりが重要なポイントだろうか。 読んだ勢いでまとめてみると、 ①隔てるもの、移行へのメカニズム 象徴的な出来事として、地下鉄サリン事件をあげている。このあたりがポイントで、 この事件を考えてみても、虚構の時代はすでに解消されているという。その解消の仕方として、「現実の中の現実」への回帰と、虚構への没入の強化という二つの方向性がある。 この両極端な2つの流れを統一的に理解しようと考えると、多重人格を参考にして、何か重要な、本来的なものが隠されているのだとする。その隠されているものをxとおくと、、それは、認識や実践には決してたちあらわれることのない「不可能なもの」である。 だから、「不可能性の時代」と定義するのだ、と。 では、xとは何か?? ②xとは? に変更!! それは、一種の第3の審級であることは間違いない。 それは他者性を排除した<他者>のこと。 xが認識の前に立ち現われてきてしまったぞ!! よくわからんねぇ。 ③現在が「不可能性の時代」であることの意味すること ・リスク社会 ・第三の審級のあいまいさ ・反復 ・オタク ・終わりの不在 うーん、 今の自分では一読しただけではとても内容を整理しきれないよう…。 近いうちにもう一度読んで、話を理解せねば。

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    投稿日: 2010.01.03
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    戦後をその時期の特徴によって分類し、それをもとに現代社会の普遍的な連帯の可能性を分析した書。 見田宗介の『社会学入門』における分類をもとに、理想の時代・虚構の時代・不可能性の時代と時代を分け、それぞれの特徴を描いているのが非常に興味深い。 ただ、批評よりの社会学研究全般に感じることだが、特徴付けようとするあまり、普遍性への視点をやや欠いているのではないだろうか。 私が現在、学問の世界に身を置いているからよけいにそう感じるのかもしれないが。

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    投稿日: 2009.12.19
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    様々な論者、議論への目配せの良さは評価するけれど、それだけ。議論展開はムリクリ感があるし。具体例をもって論じてるけれど、表層的な比較にしかなってなくて…読み進めるのにストレスがたまった。

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    投稿日: 2009.12.15
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    戦後、理想の時代、虚構の時代と来て、今は不可能性の時代に来ている、という話。 全体としていろいろな事件・小説・美少女ゲームなどが引き合いに出されていて読みやすい。納得できない部分も色々あるものの(特にオタクの分析は?でした)、ところどころにきらりと光るものがあって「ああ、あれってこういうことだったのか!」と思う部分がある。 個人的には、「みんな他者性を欠いた他者を求めている」というところがぐっときました。あとは暴力的な現実を求める「現実への逃避」であるとか(リストカットや犯罪に走るなど)、人々は実はもともと見られている感覚を持っているんじゃないか、そして見られたい欲求もあるのではないか(だからまなざしの欠如が地獄に化しうる)、というあたりがなるほどと思ったかな。

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    投稿日: 2009.11.11
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    高校の先輩の社会学者大澤真幸。 彼の本は、以前『恋愛の不可能性について』(ちくま学芸文庫)を紹介した。 この人は、サブカルチャーと呼ばれる部分に造詣が深いと思われる。すごく真面目な社会学の本ではあるのだが、有名な「エヴァンゲリオン」とかKeyのアダルトゲーム「Air」といった名詞が出てくるような真面目な本ってなかなかないぞ。 非常に読みやすく、引きこまれる文体。個人的には非常に好きな本の一つである。 考え方はすべてがすべて納得できるわけではないが、一つの方向として見ることはできる。 もうちょっと精緻な論証を見てみたいですね。 そうなると私ももっと社会学の勉強をしないといけないことになりそうですが。

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    投稿日: 2009.05.09
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    この本の時代区分をすれば、 1.戦後〜70年代「理想の時代」 2.70〜80年代「虚構の時代」 3.90年代「リスク社会」(=大澤『虚構の時代の果て』(ちくま新書、1996年) 4.2000年以降「不可能性の時代」。 って感じになるのかな。 どちらかというと、「理想の時代」から「虚構の時代」までが説得力を持つが、これは後付論であるし、基本として見田宗介の論を敷衍しているから、まあ、定着した当然の道筋のような気がする。 全体としては、「腑に落ちた」感が少なく、ここのところの社会の「不全感」が「不可能性の時代」にネーミングされちゃうのは当然過ぎてオドロキがないと、思ったり。 それでも、本旨とはあまり関係ない2、3箇所が気になったり、感心したりしたので引用してみる。 1.リスク社会 「(リスク社会は)システムの再帰性の水準が上昇し、システムにとって与件とみなされるべき条件が極小化してきた段階の社会である。このとき、ときに皮肉な結果に立ち会おうことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化石燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合には、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体が、あらたなリスクである。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである」(P.132) リスク社会の、二律背反をここではよく分析されていて、リスク社会の予想されている「リスク」は極めて大きく、破壊的な結果をもたらすことと、しかし、そのリスクは判定不能であること、リスク社会におけるリスクに対しては中庸と言う対策が効果をもたず、全か無かの極端な選択をせまられること。 さらに、リスク防御のための行動がすべてまたあらたなリスクになりえること。 それを「自己準拠的」というコトバでまとめている。 2.ポストモダンにおける自由の規範化について 「かつて、自由とは、第一義的には規範からの自由であった。言い換えれば、規範は、第一義的には禁止であった。そして、快楽は、規範への侵犯の内に宿るものであった。たとえば、婚前前の性交は、禁止されていることによって、快楽の度合いを高めたのである。だが、今や、こうした古典的な関係が逆転してしまった。自由そのものが規範化されてしまっているからである。そして、まさに規範と合致したその行為が快楽そのものでなくてはならないからである」(P.142-143) 卑近な例をだすと、自由恋愛は快楽そのものじゃなくてはならないとか、愛のあるセックスはすべて快感じゃなければならない、というような規範に私達は脅かされすぎてはいまいか。逆に言えば、快楽のない恋愛には愛がない、快楽をともなわないセックスはセックスではないというような。 自由が規範化される、というのは、自由に選択したはずだから、楽しいはずだという強迫観念のこと。自由業は必ず楽しいか? 3.不可能性の時代 「『現実』から逃避するのではなく、『現実』へと逃避する者たちがいある。現代社会を特徴付けているのは、伝統的な前者(「からの逃避」ではなくて、後者(「への逃避」)である。この場合、『現実』というのは、日常のそれではない。それは現実の中の現実というべきもの、つまり激しく、ときに破壊的である現実である。現代の大衆社会の中では、このような破壊的な『現実』への嗜好や期待が、広く共有されている」(P.218) 確かにつねに論者達は、悲観的なトーンをもって、現代社会(や日本)が破局へと傾斜していく、と警鐘をならしている。まるで「破局」を待ち望んでいるかのように。 その欲求とはいかなる精神的バックグラウンドをもっているんだろうか。 4.ムーゼルマンの境位 「アガンペンは、強制収容所のユダヤ人たちを特徴付ける基本的な感情について述べている。それは羞恥である。(中略) 羞恥とはなんであろうか?(中略)わたしが恥ずかしさを覚えるためには、まず、それは私自身だ、と見なす他ない内密なものが暴かれ、<他者>に現前している。たとえば、この裸は私自身である、と。同時に、―それは私にとって奥深く親密なものであるにもかかわらず―私はそれを引き受けることができないとも直観している。要するに、私にとって徹底的に内密なものが、究極の疎遠性を払拭できないままに、<他者>のまなざしにさらされているとき、私は恥ずかしいのである。収容所のユダヤ人たちは、ムーゼルマンとしての己の身体が、そのような内密性と疎遠性を同時に備えていたのではないか」(P.245-246) 羞恥には「疎遠性」と「内密性」の双方が必要とされる、というのは、言われてみりゃ当然でも、実は目からウロコである。自分がゲイであることを認められなかった時は、それは羞恥であった。バレることは何よりも恥ずかしかった。自分そのものでありながら、もっとも自分が疎遠にあつかってきた部分。自己であり他者であるような。あるいは他者の中に認めがたい自己を見るような。ホモフォビアとは羞恥の別名である。 そうした「羞恥心」というものが、「ムーゼルマン」(=収容所のあまりに過酷な環境の中で、人間性の零度まで到達したユダヤ人)、すなわち、気力も体力も感情も失って、一切人間的な感情を示さなくなった人々から、唯一取り出しえる感情というのは、一体どういう摂理によるものなのだろう? 大澤は実はここに究極的な絶望を見るほかに、われわれに内在する普遍的・偶有的な可能性を見ている。 4.「不可能性の時代」の希望 「愛は、特定の<他者>を囲い込む、排他性を持たざるを得ない」 「愛と憎悪は随伴関係にあるのだが、極限のケースにおいては、愛の対象と憎悪の対象とがまったく同一の<他者>になりうるのではないか、と」 「人は特定の身体や装置に具体化され尽くされない不定の他者に見られている―見られたい(※羞恥)という感覚を持っている。この不定の他者への感受性を帰結する作用と、愛の内に憎悪(の萌芽)を孕ませる作用とは、まったく同じものである」 「それゆえ、こう結論できる。憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを含んだ愛こそが。われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのはないか」(P.260-263) この本の結論部である。 排他性をともなう愛よりも、憎悪の方が排他的側面をもたない。だからこそ、普遍的であり、遠いものとも連帯ができる、という(かなり乱暴な要約だが)結論である。アクロバティックのように見えるが、大澤はそこをホッブズ、ベンヤミン、ジジェクなどを引きながら、論証していく。 愛より憎悪の方が開かれているっていうのには、ある一定の説得力はあるんだけれど、憎悪によって暴力をともなわない「連帯」が可能かどうかは自分にはわからない。確かにもっとも敵対しなわなければならない相手にこそ、最も多くの関心を払ってしまう、ということはある。ペシャワール会にしろ、オウムの被害者河野義之氏にしろ。しかし、その前に「憎悪」を暴力に結び付けない、何がしかのコントロール装置が必要なのではないか。 好きな相手のことよりも、苦手な相手のことを常々考えてしまい、結果的に、「自省」を生み出してしまう時のような。

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    投稿日: 2008.10.23
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    まだ3ヶ月以上あるのでまだ言い切れない部分がありますが、今年一番といっても良いほどの読み応えがある本です。新書と侮るなかれ。価格と読みやすさから得られる新しい地平の広さを思えばこそ言えます。社会科学系の本において今年一番の衝撃的な指摘と解説をふくんだ本でした。恥ずかしながら著者である大澤真幸氏の名前はこの本で初めて知りました。 バブル経済崩壊後に長引き、「失われた10年」と比喩されたり、閉塞感や不景気に対して突破感をもてない戦後最長の拡大成長期をへて、たどりついた2008年という今の時代。しかし、著者・大澤真幸氏は現在の日本がなぜこうした状況にあるのかを経済の拡大か停滞かと関係なく、日本が戦後の数十年間にどのような社会的変遷をへてたどりつき、そこでなぜ私たちがこうした閉塞感や不安や不満に囲まれているのかを、著者は鮮やかに解きほぐしていきます。 社会学を勉強したことのない私にとっては「オタク」という言葉が、いまだにかなり狭い分野に異常なまでに固執して専門知識を積み重ねていく、閉鎖的な社会で悦楽を見いだすアキバ系を想像してしまいます。しかし、今ではまったく異なり、自分たちの好む世界が、狭く、その狭さゆえに同じ関心を持つものとは融和しやすい。それが、現実世界での物理的な生身の人間関係で当然とされる「差異性」が排除されていると著者は指摘します。 ★《印象的文章》①   「オタクが交際を求める他者は、一般に、同じ「趣味」を共有するオタク仲間である。つまり、それは、類似性ーそれぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性ーを、本質とする他者である。ところで、他者の他者たる所以は、差異性にこそある。他者についての経験は、何であれ、差異をめぐる経験である。そうであるとすれば、オタクが欲求している他者とは、他者性を抜き取った他者である。」(P.110) この指摘が私にはショックでした。そうであるならばSNSの基幹的な機能であるコミュニティもオタクと同じではないかと思い、そこから考えを広げていけば、バーチャルな世界だけでなく、専門知識による即戦力性をもとめる組織(政府や企業など)でも暗に求められているのも、差異性を当然とした他者ではなく、他者性のない他者なのではないかとさえ思えてきたからです。しかも、大澤氏の指摘は人間が一番敏感である人間関係だけでなく、日常生活の何気ない一幕にもこうした「当然存在すべきモノの排除」が垣間見られることを列挙します。 ★《印象的文章》② 「われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビールなど、「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き取った、「××」の超虚構化の産物である。こうした「××抜きの××」の原型は、〈他者〉抜きの〈他者〉、他者性なしの〈他者〉ということになるのではあるまいか。〈他者〉が欲しい。ただし、〈他者〉ではない限りで、というわけである。」(P.193) この文章が、私たちは生きながらえる上で日々書かすことのできない食料をいただく「食べる」という行為と密接に関連していることを明らかにします。確かに××抜きの××って多いんですし、それに魅了されて消費している自分もいるのです。筆者の文章に登場するオタク像とは縁遠いと思っていた自分が、実はこの本に描かれている現代人そのものであることと驚かされたのです。 人間が求めるものが「××抜きの××」という点で類似性があることを人間関係においても、生存の密接する食品への嗜好性にも、それらの底流をなす発想にも見いだせることを指摘した著者である大澤真幸氏。本の後半にすすむにつれて、「問題」だと指摘した現代社会を包括的にみて分析するものから、問題を解決して閉塞感のただよう日本社会を個々人がどのような理解をもとに突破していけるのかという一大仮説の構築にむかっていきます。 人間関係から生じる恐怖や不安へのおそれから類似性を他者にもとめつつも、リストカットや格闘技番組が視聴率をとるなど生身の肉体を傷つけ、それを実感する行動ももつ現代人。一見、驚異的なスピードで実現したIT社会によって仮想現実が切り開いた市場もある一方で、まったくベクトルが正反対である自傷行為や肉体の衝突という身体性をかなりつよく意識できることが併存していること。それに対してどうあるべきかと一つの答えを見いだせないもどかしさを著者は、リスク社会を引き合いに出して述べます。 ★《印象的文章》③  「リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかないーいく傾向すら見せないからである。たとえば、地球が本当に温暖化するのか、どの程度の期間に何度くらい温暖化するのか、われわれは通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至は曲に連なるのか、いかなる科学的予想も確定的ではない。  学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しをみせるどころか、全く逆である。時間をかけて討論すればするほど、見解はむしろ発散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向にある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。  さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏付けをもっているという幻想を持つこともできない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛躍によってしかなしとげられないのだ。」(P.135) さまざまな問題に対して、だれをも説得させ、理論的に屈服させることのできるほど強烈な通説をてにいれることができない問題が多く、ひとつの解や決断に到達することができない。こうした社会問題が多いことからこの本のタイトルである「不可能性」の意味が不気味に浮かび上がってきます。そして、大澤氏は社会を俯瞰していた高い視点から、一気に個人個人の間に存在する人間関係のレベルにまで降下してきて、次のように言います。 ★《印象的文章》④ 「〈不可能性〉とは〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。」(P.192) 最終的に〈他者〉とのつながりをどのようにつくりだしていくのかを体験できない人々が増えているのであるとすれば、ヒトが〈他者〉に関心を抱く瞬間にはどのような勘定が存在するかをもう一度確認してみなくてはなりません。大澤氏は、愛と憎悪という相反するかにみえる勘定の同居が、不可能性を突破する方法である解説しています。自己愛や家族愛など、広大な社会の中において一個人の関係性を内向きにとじこまる方向に作用する「愛」と、攻撃的なまでに関係性を放射する「憎悪」。 ベクトルがまったく真逆であるこの2つの同居がなしえる行動を、著者は、河野義之氏(松本サリン事件被害者)と中村哲氏(ペシャワール会代表)に見いだします。それまでに語られてきた問題の絶望的な新国際に比べ、突破口となるであろう事例紹介としてはやや力が弱い気もしますが、それだけ問題が深刻であるなか、効果的な行動のともなう療法を、発見しきれていないとも読み取れます。 この本には、マンガやアニメ、テレビゲームなどから社会の動向やゆるやかな変化を読み取っている部分があるため、そうしたものに触れる機会がさほど多くない人にとっては心に落とし込むまでに時間がかかる部分もあるかもしれません。しかし、そうした狭く小さな分野を一世界として没入するオタク的世界が無数に寄り集まってできているのが、私たちの生きている社会であることもまた事実です。そのことを知るだけでも、そして自分がそうした世界に生きていることでなぜ閉塞感や限界を感じるのかをさぐるてがかりを得ることも、この本を読むことでできると思うのです。 大学時代に、坂本義和氏の『相対化の時代』を読んで世界を見る目が広がった感覚を覚えることがありました。それから10年を経て、仕事に追われることで世の中で起きている個々の事件をしることはできても、それらの出来事を流れと解釈する視点は無くしてしまっていました。そうした俯瞰できる視野を与えてくれたことに、いまはただただ感謝です。 【印象的文章】(番外編) あげればキリがないほど、説得力ある文章がならぶ本作ですが、その中でも抜きん出たインパクトを持っていたものを書き出しておきます。 ●「東条(英機)は、MPが逮捕に来るとピストルで自殺を試みるも、死ねなかった。おまけに、「東条、これを持って」とピストルを握らされて写真を撮られる無様さであった。彼は、氏名不詳のGIからの輸血で一命を取り留める。(中略)「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓諭していたこの軍人が自死しなかったこと、しかも未遂に終わった自殺は刀ではなく、ピストルによるものだったこと。(中略)東条の身体を走る米人の血液が、敗戦という断絶が、いかに自然な連続性の中で生じているかを象徴してはいないだろうか。」(P.25) ●「「格差社会の到来」という不吉な時代診断に説得力を与えているのは、格差という現状そのものではなく、来るべき救済を読み取りうる視点の不在である。」(P.128) ●「イスラム世界の原理主義に、西洋近代の反対物ではなく、西洋近代の真実の姿を見るべきではないか。だが、両者は、どのような意味でつながっているのか。どのような意味で、原理主義が西洋近代の真実なのか」(P.230) ●「軍は、途中で、ある老女に出会った。彼女は、右手に火を、左手に水をもってさまよい歩いていた。何をしているのかという問いに対する彼女の答えはこうであった。火は天国を焼き尽くすためにのものであり、水は地獄の業火を消し去るためのものだ、と。「なぜなら、私は、人が天国での報酬への期待や地獄での恐怖から善を成すことを望まない。ただ、神への愛のためにのみそうして欲しい」と。天国と地獄を無化してしまっているのだから、老女の態度は無神論的である。だが、それは信仰の否定によってではなく、信仰の徹底かによってこそ導かれてもいる。」(P.256)

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    投稿日: 2008.09.22
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    この本は戦後日本が、理想→虚構→不可能性 の時代という変遷をたどってきているという主張をしていて、今は不可能性の時代と呼ばれるらしい。所々自分たちになじみの具体例についても言及されていてとてもおもしろかった。酒鬼薔薇聖斗の事件やオウム真理教、ニコニコ動画やオタク、オタクの漫画やアニメ、エロゲなどについても触れられていて、そのいろいろな社会現象に大澤なりに意味を与えていた。最後の結論の部分でネットワーク理論という理系の学問分野を利用して締めていたのが新鮮だった。言葉の綾の空虚な胡散臭い学問になりがちな社会学に科学という裏づけをしたのが面白く、新鮮だった。

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    投稿日: 2008.08.09
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    「戦後○○年」というような時代区分を使用するのは世界の国々を見渡しても日本ぐらいである。著者はその戦後を理想・虚構・不可能性の時代に分けて論じる。他者性をキーワードに、理想を貫徹し、虚構の時代に至り、現在の不可能性への時代を迎えた過程がとてもわかりやすく論じられる。

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    投稿日: 2008.08.03
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     2008年4月に発売された本だからかなり新しい。戦後から、理想の時代、虚構の時代と進んできて、現在の不可能性の時代に至るという話。なんだか、ところどころうまく身に入らない部分があって、著者に付いていけてないと自ら感じたりする時もあったが、以前この著者が書いた本に関連づけて考えると非常によくわかる部分がけっこうあったため、たぶん、大澤真幸の今までの本とかをだいたい読んでたら、もっとよく身体化されるのだろう。とても興奮した。特に、酒鬼薔薇聖人のくだりと、最後らへんの思想分析の部分が、大変おもしろかった。大澤真幸を読んだことのない人でも楽しんで読める本だと思う。色々なアイディアや興味深い社会的事件が本の中に散りばめられていて、知的興奮を与えるだろう。2008.7.9-11(3d).

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    投稿日: 2008.07.12
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    僕の大澤真幸の出会いは、この一冊からだった。 要するに、つい最近なのだ。 この本から大澤真幸の本をいくつか読んできたが、 ダントツにこの本は読み易く書かれている。でもその中にも大澤社会学のキーワードである「第三者の審級」だったり「アイロニカルな没入」だったり<他者>といったものが 散りばめられていている。そして何よりも、興味が湧くような具体的な話題の数々から論を発展させているので、読んでいて飽きない。 大澤真幸入門に最適な一冊だと思う。

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    投稿日: 2008.06.18
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    時代を描くことのうまさ。社会学者というより哲学者だと思うし、思想家だと思う。さすが「社会学の社会学」という文章を書いただけある。

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    投稿日: 2008.05.30
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    戦後史を遡及しつつ、「現在」を照射する社会学のスリリングな論考。少年犯罪・愛・ライトノベル・家族・政治思想など多岐に渡るテーマを考察の対象としての「現在」へ、そこにおいて希求される自由へと収斂させていく。 対立する「二項」の外へ、またそれらを統べる超越的な第三者の審級の「外部」へ。要再読。

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    投稿日: 2008.05.01