
総合評価
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- 9678"powered by"
養老先生の書評から手に取りました。脳梗塞からのリハビリの様子、心情が書かれています。養老先生と同じ位、頭脳明晰な方なので、随筆は難解なところがありました
2投稿日: 2024.04.15 - ぶちき"powered by"
60代半ばにして脳梗塞に倒れた免疫学者は、右半身の自由と言葉を失う。倒れる瞬間のこと。動かなくなった体のこと。病室のベッドでのこと。リハビリ。科学者は自分の体でさえ、ここまで客観的に観察し言葉にできるのかと驚く。と、同時にこの国での障がい者の暮らしにくさを思う。闘病記でありエッセー。
0投稿日: 2023.04.26 - nobiko"powered by"
2001年に脳梗塞に倒れ、右半身付随と嚥下障害に苦しむ東大名誉教授の著者。倒れた直後の状態からリハビリの様子が当事者目線で語られる。 障がい者の苦しみや不自由さは想像することでしか理解できなかったけど、その理解がほんの少し深まった気がする。同じく右半身麻痺と言語障がいがある義父を思い浮かべながら読み進めた。理学療法士に比べ、言語聴覚士、作業療法士の育成が進んでいないと書かれていたけど今(本書発行から15年後)はどうなんだろう。 障がいを抱えながら執筆活動を続けたことは大変に素晴らしい。この方自身も非常に努力されたのだと思う。こうして当事者目線の本を残してくれた事もありがたいと思う。でも元東大名誉教授、妻が医者、自宅をバリアフリーに建て替え、大学病院まで徒歩数分の住まい…言い方はアレだけど上級国民である著者。何度も死にたい気持ちになったと書かれていたけど、本当に自死に至ってしまう側の人も世の中には沢山いるんだろうなぁ…と考えずにはいられない。
2投稿日: 2022.05.21 - 近現代史と組織論"powered by"
尊敬する経営事務幹部職員さんから「社会科学の目と構え」を学ぶ上で、参考になる1冊があるとの紹介を受け購読した。本来、人に薦められた本を読むことはほとんどないが、今回の3冊は全て紹介書籍であり、自分でも珍しいと思っている。 国際的な免疫学者であり、能の創作や美術への造詣の深さ、文学や詩集にも広い知識をでも知られた著者。2021年に脳梗塞で倒れ、右半身麻痺、言語障害、嚥下障害に対してリハビリテーションの日々を綴る。常に自死念慮にとらわれながら、日々関わるセラピストや家族・知人との交流もあり、深い絶望の淵から這い上がる。リハビリを続け、真剣に「生きる」うち、病前の自分への回復ではなく、内なる「寡黙なる巨人」へ目覚めていく。病後の充実した人生の輝きを放つ見事な再生を、全身全霊で綴った壮絶な闘病記と日々の思索が感銘を受ける。特に、2006年に起きた小泉構造改革による疾患別リハビリ日数制限への憤りと改善運動に傾注した著者の人権意識は、受け継ぐべき倫理観であると確信する 私見 理学療法士である自分が、30年以上患者・利用者の声をナラティブに聞いてきたつもりではあったが、こうやって文章として読んだ時に、まだまだ患者・利用者の声を聞き切れていない自分が恥ずかしい。若くして片麻痺となった主婦。子育て・家事の中で、明るく振る舞われているが、気づけばうつむき加減になって麻痺した右手をみて涙されるシーンを幾度見てきたことだろうか?セラピストとして働く時間は極端に少なくなったが、セラピストの後輩のために、共に学ぶ月1回の「脳の勉強会」を再開する。2000年9月にスタートして20年以上、コロナ禍で2年間の休止期間を余儀なくされたが、2月から感染対策をしながらテキストを用いて、私の生涯の課題である片麻痺・神経疾患セラピーの学習の再開は、嬉しい限りである。共に学ぶ意思を持って10名以上の職員が忖度して参加してくれるのには、申し訳ない気もするのですが… なお、本書にはセラピストへの不満も遠慮なく記載されているのだが、一部誤認、もしくは病院によるセラピーの質の問題提起がなされる。著者発症した2001年当時の嚥下リハビリテーションで言えば、1990年代より当時の聖三方原病院の藤島一郎先生が嚥下リハビリテーションを確立し、多くの著書を書き、嚥下リハビリテーションは全国的に随分普及していたと記憶している。1990年後半には言語療法士が国家資格として言語聴覚士となり、2002年の診療報酬改定では、PT・OTと同じ点数になった。しかし、1990年代後半のいわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」等に代表される金融不祥事と省庁再編(厚生省と労働省が合体して、厚生労働省など)と共に、小泉構造改革による医療費抑制政策は極限となり、我々リハビリテーションの分野では疾患別リハビリテーション料の導入に伴う、疾患別リハビリ日数制限問題は、大きな社会問題となり、短期間で40万を超える署名と共に、異例の2007年リハビリ診療報酬改定となり、逓減制の導入などで迷走して、2008年に診療報酬改定で期限越えの医療的リハビリテーションは月13単位(1単位20分)が認められ、小児リハビリは18歳まで無制限などとなった。この経過を患者側として運動を牽引して頂いた多田先生には、感謝しかない。
0投稿日: 2022.01.10 - 小野不一"powered by"
多田富雄は脳梗塞で右麻痺となり言葉を失った。嚥下(えんげ)障害の苦しさを「自分の唾に溺れる」と記している。感情の混乱についても赤裸々に書いており、妻への感謝を表現できずイライラばかりが募る様子に身体障碍(しょうがい)の現実が窺える。それでも多田は表現することをやめなかった。本書は左手のみのタイピングで著した手記である(柳澤桂子)。 https://sessendo.blogspot.com/2020/07/blog-post_30.html
0投稿日: 2020.07.30 - kaze229"powered by"
凄いものに 触れてしまった! お前は ちゃんと 生きているのか お前は それで いいのか お前は そんなこと 言えるのか むろん 多田富雄さんは そんなことは 一言もおっしゃらない 読んでいる方が 自ずと 自分の「これまで」と「いま」を 勝手に思い、勝手に考えさせられてしまう だけである 折に触れて 手に取ってしまう一冊が またできました
3投稿日: 2020.07.15 - forestin"powered by"
このレビューはネタバレを含みます。
再読。知の巨人が、脳梗塞による半身不随を得て新たなる巨人として生を得るまでの魂の記録。 倒れて、動くことも話すこともできなくなった中で、再び生きることへの希求を見いだすまでの記録、後半はそんな新たな巨人の視点で過去を振り返り、国を動かし、「生きる」姿を描き出す。 初めて読んだ10年前は、前半の闘病記の印象が強く、後半はさらっと読んだが、年を重ね後半の方が心に残った。
0投稿日: 2020.04.11 - ukaiya"powered by"
文句なしの名著。 半身不随、しゃべれないし、 ヨダレを垂らしながらも頭脳明晰な大学者が 豊かな言葉で、臨死体験や介護される側からの 視点で日々を語る。 再読したい。
0投稿日: 2018.08.04 - 養老まにあっくす"powered by"
死よりも過酷な運命があるとすれば、まさにこのことではないか。 著者は65歳で脳梗塞を患い、半身不随となった。身体の自由を奪われ、声を上げることもできず、食事や飲水さえ自力で飲み込むことができない。 もし同じことが自分の身に起きたら、果たして生き続けようとすることができるだろうか。だが著者は生きた。いや、むしろ病を得たことで真に「生きている」と感じるようになる。 つらいリハビリの中である日、麻痺した右足の親指がピクリと動いたとき、著者の目から涙がこぼれる。自分の中で新しい何かが生まれた。著者はその感動を「物言わぬ鈍重な巨人が目覚めた」と表現する。 9年間に渡る闘病生活で、著者はそれまで触ったことすらないパソコンと格闘しながらいくつもの本を書き、新作の能を発表した。生きるとは何か。われわれは本当に「生きて」いるか。 解説・養老孟司
0投稿日: 2017.06.06 - Raf"powered by"
これは凄い。開始10ページで、もうガツンとやられる。脳梗塞による麻痺。痰を除去する看護婦の上手い下手。このもどかしさや不安に触れる事自体、入院患者のリアルな関心事を反映しており、臨場感がある。臨場感があって、絶望感があって、無力感があって。それで、もう開始早々にガツンと来てしまう。嗚咽。感情失禁。まるで海藻に囲われた海の底のような孤独。心や思考はそこに存在するのに、自分の身体が動かない。麻痺。自らが栄光を勝ち得た巨人。 病気になってはじめて、生きる感覚を味わうような。その事は感覚的にわかる。生きる感覚。考えさせられる一冊である。
0投稿日: 2016.08.29 - Conano"powered by"
著者の多田富雄は、野口英世記念医学賞などの内外多数の賞を受賞し、国際免疫学会連合会長も務めた世界的な免疫学者。 本書は、2001年に脳梗塞で倒れ、右半身不随になるとともに声を失ってからの約1年の闘病生活を自ら記した『寡黙なる巨人』に、その後6年間に綴ったエッセイを加えた作品集である。2008年の小林秀雄賞受賞作。 著者は、“その日”に起こったことを、「all the sudden」、「あの日を境にしてすべてが変わってしまった」、「カフカの『変身』は、一夜明けてみたら虫に変身してしまった男の話である。・・・私の場合もそうだった」、「あのおそろしい事件」・・・と言葉を替えて言い、「私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった」と記している。 著者の、免疫学者・医師であるが故の、臨死体験とも言える経験、半身不随による痛み、嚥下障害の苦しさ、言語障害の辛さ、リハビリの効果と限界などについての記録は、冷静かつ緻密である。しかし、“その日”を境に“変身”してしまった、ひとりの人間としての絶望感、孤独感は(きっと)他の患者と変わることなく、その感情を飾ることなく著すとともに、「リハビリを始めてから徐々に変わっていったのだ。もう一人の自分が生まれてきたのである。それは昔の自分が回復したのではない。前の自分ではない「新しい人」が生まれたのだ。・・・その「新しい人」は、初めのうちはまことに鈍重でぎこちなかったが、日増しに存在感を増し、「古い人」を凌駕してしまった」と、「新しい人」の目覚めを繰り返し描いている。 全く異なるシチュエーションながら、1998年の富士スピードウェイでの事故による死の淵からの生還を描いた太田哲也の『クラッシュ』が思い浮かぶが、いずれも著者の、折れそうになりながらも、絶望を乗り越えて新しい自分を見い出していく、強い意志には感服するばかりである。 自分が同じような状況になったとしたら、と考えずにはいられない。 (2011年1月了)
0投稿日: 2016.01.11 - takeshishimizu"powered by"
多田先生が亡くなられてしばらく日がたつ。10年ほど前に倒れられて、半分体が動かず、声も出ないということは知っていた。けれど、新聞ではしょっちゅう名前を見かけるし、本も書かれる、能もつくられている、それほど不自由されているとは思っていなかった。テレビでも見たはずだったのだけれど。おもしろいというと失礼だけれど、多田先生のおかれた状況がテレビで放映されると、たくさんの方から励ましやら余計なお世話があったそうだ。その中で、これは免疫機能を高めるからなどと言ってこの免疫学の第一人者に何か怪しげなものを持ってくるなんていうのは、まことにシャカに説法で、その辺が宗教でも何でもほかに何も見えず信じ込んでしまっている人のやっかいなところだ。やっと病院から退院して、移り住んだバリアフリーのマンションで、隣の部屋が火事になった。身体は自由に動かない。奥様だけでも先に逃げてほしい、その思いもことばにできない。消防署員がかけつけて、何とかその場から逃れることができたわけだけれど、そのとき、死への恐怖がなかったという。いったん死を見て帰ってきたからなのだという。そして、倒れたあとの方が自分の生を生きているという実感があるのだそうだ。
0投稿日: 2014.12.10 - tosyokan175"powered by"
圧倒されました。本文中に「私のように日の当たるところを歩いてきたものは、逆境には弱い。」との行がありますが、とんでもない!寡黙なる巨人は、鈍重な巨人かもしれませんが、不屈の巨人であり、明晰なる巨人であり、饒舌な巨人であり、そして戦う巨人でもありました。日の当たる道、とは免疫学という学問の道であり、能という芸の道であり、いかに知性いう太陽が人間の強さを育むのか、と驚愕しました。脳梗塞を始め、自分の体の機能が自分でコントロールできなくなるのが当たり前になるのが高齢化社会の我々です。その日が来た時に、著者のように自分の思うにならない身体の中に「新しい人の目覚め」を見出し、希望を託すことが出来るか?本書は、とんでもない勇気がわく人間礼賛の書です!
0投稿日: 2014.07.11 - RANI"powered by"
柳澤桂子さんとの往復書簡を読んでいた時、ちょうどテレビで多田さんがテレビに出られていた。 自作の能が舞台になったときの、多田さんの晴れやかなお顔や、この著書で小林秀雄賞を受賞されたときの姿を拝見した。 今は亡くなられ、しかし精一杯生きたその人生に、新たに敬意をもった。 読んでみて、”巨人”の意味するところが理解できたが、そのときの目が開かれる思いは、簡単に、感動という言葉に置き換えるにはあまりにも軽く、多田さんの冷静で熱い決意に言葉がない。 多田さんが、懸命に尽くしてくれる奥さんに、ありがとうと言えることができない・・・という箇所に胸が詰まった。 脳梗塞など、突然倒れ半身不随になったりすることは、誰にでも起こりうること。自分がもしそうなってしまったら、その時自分は何を思うのだろう。
0投稿日: 2013.06.15 - ひーら"powered by"
脳梗塞で半身不随になった学者の素晴らしいエッセイ集。 前半は、発作の直後から、死に近づいた瞬間のようす、その後の思うに任せない苦しいリハビリの様子が、読み続けるのが怖く、辛くなるほどの克明さで綴られる。 後半は、発病前の自分ではない「新しい人」として生まれ変わっての暮らしの様子を軽妙に。 どんなに時間をかけて書き上げたのだろうか。不自由さを全く感じさせない美しい文章が並ぶ。 あとがきに記された、リハビリ中の患者を置き去りにする保険診療改悪に対しての主張と怒りには、強い説得力があった。
0投稿日: 2013.05.14 - yoi520"powered by"
著者の脳梗塞との闘病記が半分と、その病を得てからのエッセイ集が半分の文庫本。 昨日は長嶋茂雄がスピーチの前にひとりぶつぶつと口を動かして、懸命にこれからしゃべることの練習をしていたかのように見えた。 スピーチに感動できる理由は、言葉の内容よりも、「話す」というプロセスそのものが懸命に「生きている」姿をうつしているからじゃないだろうか。 病を得た長嶋茂雄が「歩く」「話す」「手を振る」。 もうそれだけで人々を感動させることができるのです。
0投稿日: 2013.05.06 - ussieb"powered by"
本の冒頭部分を表紙に印字する紀伊国屋のフェアで購入。恐らくこのような企画がなければ手にとることはなかったと思う。フェア企画者に感謝。突然の病魔に襲われた著者の闘病記。著者が医療の専門家であるためか記述は淡々と時にはユーモラスな表現も。それが逆に著者の病魔への衝撃と生への思考することへの執着を感じさせる。何度も読み返すことになると思う。
0投稿日: 2013.02.24 - toobook"powered by"
このレビューはネタバレを含みます。
知性とは言葉に裏打ちされたものである。 では言葉を失った者に知性はないのか? 多田富雄の「寡黙なる巨人」は、そのことを考えさせてくれる本だ。 2010年4月に亡くなった世界的免疫学者の多田富雄は、2001年に脳梗塞に倒れて半身不随となり、声を失いながらも懸命のリハビリで文筆活動を再開させた。その闘病記と半身不随になって後につづられたエッセイを集めた本。 第7回小林秀雄賞を受賞している。 この本を読みながら、多田が恐ろしいまでの冷静な目で、自分の混乱や絶望を凝視している姿勢の根源になにがあるのかという疑問だった。 とにかく、冷静なのだ。たとえば本書の冒頭の一文、「はじめに」は、こんなことが書かれている。 「一時は死をかくごしていたのに、今私を覆っているのは、確実な生の感覚である。自信はないが私は生き続ける。なぜ? それは生きてしまったから、助かったからには、としかいいようはない。 その中で私は生きる理由を見出そうとしている。もっとよく生きることを考えている。 これは絶望の淵から這い上がった私の約一年間の記録である。」 「自信はないが私は生き続ける。なぜ? それは生きてしまったから、助かったからには、としかいいようはない」という部分。これは死にかけた人だけの感覚ではないはずだ。私たちは、すべて自分の意思にかかわらず「生きてしまった」=生まれてしまった存在だ。ただそれだけで、「自信はないが生き続け」なくてはならないのだ。 一度、死の淵を経験した者は、その根源的な人間の在りよう、存在の根拠にいやでも自覚的にならざるを得ない。たぶんそれは、病であったり事故であったり、あるいは戦争などの局面で生じる。 その生きてしまった自覚を持った者に強靭な知性があるとどうなるか? 「それより私が心配したのは、脳に重大な損傷を受けているなら、もう自分ではなくなっているのではないかということであった。そうなったら生きる意味がなくなる。頭が駄目になっていたらどうしようかと心配した。それを手っ取り早く検証できるのは、記憶が保たれているかどうかということだった。」 なんという冷静さ。多田はこのあと、掛け算九九を試し、さらに趣味である能の謡「羽衣」を歌ってみるのだ。 知性が保たれていることに安心したのもつかの間、多田は自分が言葉(発声)を失ったことや、体が不自由になったことへの孤独感にさいなまれていく。 そんなある日、あるひらめきが多田に訪れる。それは神経細胞は一旦死んだら再生しないという医学的知識から得た推論だ。 「もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを掴んだとしたら、それは私ではない何者かが掴むのだ」 多田はそうして自分の中で生まれようとしている新しい存在に期待し、その目覚めを待望する。 こんな強さを、自分も持てるだろうか。 果たして、病を得て、弱っていく自分を、このように冷静に観察できるだろうか。 そんな自問自答をしながら読み進んだ。 まぎれもない名著。 最近、父が体調を崩した。それまで健康体で、毎日家の外に出ていた父が、24時間酸素を吸入しなくてはならなくなった。 最初にこの本を読んだのは6月。今、この文章を書くためにあらためて読み返して、父の胸中を想像しながら、胸に迫る物があった。 この本を読んだきっかけは、2011年7月に沖縄で上演された新作能「沖縄残月記」の作者の多田を知りたいと思ったからだ。 ちなみに、この新作能は1945年の沖縄戦を素材に、戦争がもたらす悲しみや、人の心に残される傷を描いた作品。7月の上演では、不覚にも涙してしまった。 もともとは文学青年で、大学生のころには評論家の江藤淳らと「位置」という同人誌を出していたという多田。 「寡黙なる巨人」には、中原中也についての文章などもある。 「沖縄残月記」に流れる「生」への思いは、その文学的素養から来ているのかもしれない。
0投稿日: 2011.12.31 - あー、どんまい"powered by"
このレビューはネタバレを含みます。
『私は昨日までは健康だった。定期健診を受けても何もひっかかるところは無かった。それが一夜にして重度の障害者となり、一転して自力では立ち上がることもできない身となった。何をするにも他人の哀れみを乞い、情けにすがって生きなければならぬ。』 死の淵をさまよい、目覚めると重度の障害者になっていた。 毎日自死しようとするが、それすら叶わぬ。 その心情をありありと綴る。読むのがつらいページもあった。 障害者にとっての最悪の法改正についても記述している。 発症後180日以上たったあとはリハビリを受けることができないというものである。 リハビリすることを毎日の糧としている人がいること。 構音障害については、1年リハビリしてもやっと少し効果が出るくらいのものであること。 これらを考えると、このような法改正はありえないはずである。 あるいは正しく例外を定義しておくべきである。 そのようなことが蔑ろにされた法改正がなされてしまう現実についても記述している。 またそのような法改正に対して、44万人の署名を集めて政府に立ち向かうなど、すさまじいまでの行動力も見せている。 『重度の障害を持ち、声も発せず、社会の中では再弱者となったおかげで、私は強い発言力を持つ「巨人」となったのだ。 言葉は喋れないが、皮肉にも言葉の力を使って生きるのだ。』 もし突然障害者になったら僕はこのように行動できるだろうか。
0投稿日: 2011.09.04 - だんだん"powered by"
とても読みやすい文章。描写されるからだの機能的な部分と、語られる言葉、それ自体がもつ端正さのバランスが、身体と心、あるいは脳のあり様を考えさせる
0投稿日: 2011.06.22 - comecome-do"powered by"
身体が麻痺するとはどういうことか。 血を吐くかの如くの身体感覚の記述に言葉をなくし、自分が、今は動くこの身体を得ている事の奇跡を思い知る。
1投稿日: 2010.09.10