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街道をゆく 41
街道をゆく 41
司馬遼太郎/朝日新聞出版
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総合評価

6件)
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    苹果(ぴんいん)中国語 弘前では明治初頭 米国から輸入したリンゴを苹果(へいか)と呼称;定着しなかった 家刀自(いえとじ)女主人 吉田松陰は宮部鼎蔵と共に弘前の伊東家を訪問している、竜飛岬も行った 伊東家から今東光の母がでている

    0
    投稿日: 2025.08.07
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     はじめの方の、津軽藩成立の話のあたりだけを興味深く読んだ。弘前城から望む岩木山という景色をいつか見てみたい。

    11
    投稿日: 2025.01.30
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    私は大の太宰治と縄文のファン。 津軽と南部、それに斗南のこと・・・ この本を読んで「北のまほろば」の意味がよくわかりました。 本当にいい本です!

    0
    投稿日: 2023.12.04
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    青森は、一見地味な存在ではあるが、三内丸山遺跡など縄文時代の遺跡、津軽、南部、下北の歴史、または、太宰治や棟方志功などの芸術、また岩木山等の自然、浅虫温泉等々、大変な無形資産を抱える県であることが、この本を読んで実感する。 司馬遼太郎の「街道をゆく」をずっと読んでいるが、読後にどの地域も訪れたいと思うのだが、まだ訪れたことのない青森に対してより強い気持ちを抱かせる。 以下抜粋~ ・明治維新後の津軽弘前における最大の事項は、この東奥義塾の建設だったといえる。 実質的には英語習得を主とし、漢学を学ぶ学校だった。教師には、慶応義塾出の人が多かった。 何人かの外国人教師も加わった。 ・むかし、井上ひさし氏と東北について語り合ったとき、 「会津は東北じゃありません」 といわれたのがおかしかった。 早い時期に”脱東北”した。 弥生式の稲作文化も、関東地方とさほどかわらない時期に会津盆地に入った。 ・江戸期、大坂や若狭に運ばれた昆布は、主として北海道のものだったが、陸奥湾の昆布も、日本海まわりで上方へ運ばれたのである。 昆布は、上方にとってふしぎな食品である。煮物や吸物の味をつけるのに欠かせないものでありながら、地元ではとれない。 ・「会津若松市に、薩摩の鹿児島市だったか、仲直りしよう、といってきたそうですが、断ったといいます」 申し入れたのは薩摩ではなく長州の萩市だったようである。 「その断り口が、斗南の人達の意向もあることだから、ということだったそうです」 そういってくれるのがうれしい、と山僧めいた星さんがいう。

    7
    投稿日: 2023.09.23
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    司馬さんの人物評には根底に優しさがあってとても好き。青森(弘前・津軽半島・下北半島)を旅した北のまほろばにも、意固地だったりちょっと捻くれているけれど愛すべき人たちがたくさん出てくる。 伊藤重や陸羯南をめぐる人々、今兄弟、棟方志功も皆、目の前で生きているよう。

    0
    投稿日: 2019.04.25
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    著者は、1990年代初頭、正月からの2週間足らずを雪一色の青森で過ごしている。青森に対する溢れるような愛情を再認識。

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    投稿日: 2017.01.28