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野がも
野がも
へンリック・イプセン、毛利三彌/論創社
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総合評価

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    このレビューはネタバレを含みます。

    製材工場主で豪商ヴェルレの家でパーティが行われている。息子のグレーゲルスが山の製材工場勤務から戻って来るのだ。グレーゲルスは学生時代の親友ヤルマール・エクダルを招待した。 ヤルマールの父の老エクダルは、かつてヴェルレの共同経営者だった。だが老エクダルは法律変更を理解せず木材伐採が詐欺となって刑務所に入れられた。刑期を終えた(短期の刑みたい)老エクダルは、ヴェルレの事務所に筆耕として雇われている。 息子のヤルマールは、ヴェルレ夫人(グレーゲルスの母)の看護師だったギーナと結婚して、もうすぐ14歳になる娘ヘドヴィクがいる。結婚の資金と、写真家事務所資金は、ヴェルレが援助してやった。だがヴェルレは、パーティでヤルマールを見かけると一言の嫌味を投げつける。 醜男のグレーゲルスにとって、元美青年で聖書を引用して弁舌振るうヤルマールは大切な友人だ。彼は豪商ヴェルレへの反抗心を隠さない。父が母につれなかったこと、詐欺に関わっていたのに全責任を老エクダルに押し付けたのではないかとの疑い、そしてギーナは豪商ヴェルレの元愛人だったんじゃないかという疑いからだ。 一幕目で出ていたヴェルレ親子、エクダル親子の関係、過去と現代のこと。 グレーゲルスとヤルマールは16,7年ぶりの再会だ。 詐欺事件が起きたのが17年くらい前。 ヤルマールがギーナと結婚したのは15年くらい前、翌年には娘のヘドヴィクが生まれて、もうすぐ14歳になるいる。 グレーゲルスとヤルマールは30代後半くらいですね。 豪商ヴェルレは詐欺事件以降、老エクダルの生活費、ヤルマールの結婚や写真事務所設立を援助している。 ヤルマールは詐欺事件で自分の前途が閉ざされた!と世を嘆いて17年間を過ごしているようにみえる。パーティではグレーゲルス以外の人とは話さないし、事務所に出入りする父に対して他人の振りをするし、言葉は聖書とかから引用しているので、なんかカッコつけの小心者だなあと感じてしまう。 豪商ヴェルレに援助してもらっているけれども家に招かれたのは詐欺事件以降初めてみたい。豪商ヴェルレも、援助しながらもヤルマールがパーティにいることをあからさまに嫌味を言うし、どんな関係だ。 なお、解説によるとこのパーティは「ディナー」なのだが「一日の中心となるディナーとは、午後1時から午後時頃の間に取られる昼食のこと」なんだそうです。 そして執筆当時のノルウェーは、ナポレオン戦争ののちにデンマーク領からスウェーデン領になり、自治権はあったが経済的にも政治的にも混乱していた。経済も、成功者と社会から外れて浮かばれない者の差が多かった時代、ってことです。 二幕目以降の場面はエクダル一家の住居。 エクダルの一家は、下宿屋と、写真事務所を構えている。 その日粗末な食事を済ませたヘドヴィクは、父が美味しいものをお土産にして帰って来る!と楽しみにしている。だが帰ってきたヤルマールは「それどころでなかった」と言って、その日の食卓のメニュー表を渡して「どんな味だったか解説してやろう」とかいう。 ダメおやじ、ダメ亭主ーー。 そんなところへグレーゲルスが訪ねて「父の家を出たし、仕事も辞める。この家で下宿させてほしい」と言う。昔ヴェルレ家で働いていたギーナはあからさまに嫌な顔をする。 引っ越しの様子でグレーゲルスの生活能力のなさが垣間見えるので、山の工場での仕事も経営者の息子の特別扱いだったんだろうなあ。 そしてエクダル家の暮らしぶりも、写真事務所で働いているのは妻のギーナで、ヤルマールは「写真技術に関する発明」とかいうやつに掛りっきりです。「芸術としても科学としても素晴らしい発明で自分は全身全霊を捧げているんだ!」とかいってるけど、なんかもうグレーゲルスもヤルマールも口先ばっかりで頼りにならないなあ。 グレーゲルスが家を見せてもらうと、老エクダルやヘドヴィクが面倒を見ているウサギや鳥を飼っている裏部屋があった。中でも自慢は野ガモ。この野ガモは豪商ヴェルレに撃たれたので水の底に潜り、水草にしがみついていたところを水に潜った猟犬に引き上げられた。その野ガモを老エクダルは譲ってもらった。怪我は治ったがもう野生には戻れない。そんな野ガモを特にヘドヴィクが「私の野ガモ!」ととても大切にしている。 ヤルマールはグレーゲルスのことを「きみは沼の底に沈み込んで水草に沈み込んでいる野ガモのようだ」という。<きみは一撃を受けて傷ついたとは思わない。だけど、毒された沼に沈んでいるんだヤルマール。体中泥にまみれて、真っ暗な沼に沈んでただ死ぬのを待っている。(P103)> そんなグレーゲルスを「ぼくが上まで引き上げやる」という。…かっこいいんだけど、どうしてもヤルマールは口先だけ、というイメージが固まるばかり(-_-;) そしてグレーゲルスは「ヴェルレの名前はぼくには十字架だ。ぼくは賢い犬になりたいんだ」という。 そして老エクダルは、かつては中尉で経営者で狩りの名手だった栄光を引きずり、裏部屋のウサギや鳩を撃っては過去に浸っている。(野ガモだけは撃たない) そういえば、ヘドヴィクはダメ親父のヤルマールを「大好きなパパ!」と慕っているし、グレーゲルスとも妙に気が合ってます。そしてグレーゲルスにその野ガモの孤独さ、哀しさを語ると、グレーゲルスは「あの野ガモはうなばらの底にいる」という。するとヘドヴィクは「あの裏部屋全体がうなばら(海原)の底みたい」という。 さて。エクダルの下宿屋には、医師レリングと元神学生モールヴィクがいる。医師レリングは以前山の製材工場にいて、グレーゲルスとも知り合いだ。だが明らかに嫌な様子をみせる。どうやらグレーゲルスは小作人たちに「理想の要求」を解いて回っていて、医師レリングはそれに批判的。 この二人の信条がこの先の物語展開に影響するのでまとめてみます。 ●グレーゲルス「理想の要求」:人はどんなに厳しくても真実を知るべき。そしてそれを受け入れることにより人間は新たな高みに登る。それこそが全人類の理想の姿だ。 ●医師レリング「生きるための嘘」:現実と向き合うことができない絶望を持つ人々には自分を守るための嘘が必要だ。 レリングは実際にこの「生きるための嘘」を処方している。自分自身に絶望した元神学生モールヴィクには「悪霊が取り付いているんだ」と言ってやる。老エクダルには「裏部屋を作って小動物を飼い、それを撃ちなさい」と導き、人生を嘆くヤルマールに「きみには人類を導く発明ができる」と言う。 医師レリングはグレーゲルスを「厄介な正義感と、崇拝熱に浮かされている」と、ヤルマールのことを「美貌と弁論でチヤホヤされた軽薄な男」と評しています。 物語に戻って。 グレーゲルスは己の「理想の要求」のために、ヤルマールに「ギーナはかつて父ヴェルレの愛人だった」という真実を伝える。絶望してギーナに「家を出る」と告げるグレーゲルス。ヤルマールは「きみたち夫婦は、この真実の上に新しい理想の人生を送っていくはずだろう。きみたちの夫婦から指す目も眩むような後光が見えると思ったのに、なぜこんなに重苦しい雰囲気になっているんだ?」とか言います。 さらに物語の展開上次々にヤルマールに「真実」が告げられます。  自分が養っていると思っていた一家の生活費は、全て豪商ヴェルレからの支援だったこと(写真スタジオはほとんどギーナが働いてるんだから、どっちにしろ養ってないじゃん…(-_-;)  そしてヘドヴィクは、実は豪商ヴェルレの子供だということ。  豪商ヴェルレは、ヘドヴィクに一生お金を支払うつもりだということ。 父を慕うヘドヴィクに「近寄るな!あの野ガモも処分してやる!」とかいうダメ親父ヤルマール。ギーナには「こんな家は出ていく!この家では何も食べない!」とか言いながらも、ちゃっかりバターたっぷりのパンを食べたり、荷造りや後片付けさせようとしたり…。めんどくさい亭主だなあ、もう。 秘密と人生の嘆きを持ちながらも表面的には平穏に暮らしてきたヤルマールとギーナ夫婦とは対象的なのが、豪商ヴェルレと再婚相手のセルビー夫人です。セルビー夫人はずっとヴェルレ家で家裁を取り仕切って、ギーナとも仲が良い。そして「自分の過去は全てヴェルレさんに話してあって、理解の上で再婚するの」という。なかなか気持ちの良い女性だが、今はタイミングが悪いよ…(-_-;) 状況を理解できないヘドヴィクは深く深く傷つく。 混乱のもとであるグレーゲルスだが、彼の目的は「真実を知ったうえで、人間としての高みに上がること」なので、ヘドヴィクに「お父さんにきみの愛情を示す素晴らしい手段があるぞ!きみが大切にしている野ガモをきみ自身が処分してお父さんに捧げるんだ!」と目を輝かせる。ヘドヴィクは「お父さんを失うなら、おじいちゃん(老エクダル)に野ガモを撃ってもらうわ」と言う。 だが、裏部屋から響く銃声に皆が駆けつけてみると、そこに倒れていたのはヘドヴィクだった。 彼女は自分で自分の胸を撃ったのだ。 === えええ、グレーゲルスとヤルマールがダメダメ過ぎて、終盤の悲劇が「こいつらならなあ…(-_-;」という気持ちになってしまう… 一番無垢で一番守られるべきヘドヴィクの死を受けてもまだグレーゲルスは「こんなことは全く望んでいなかった!しかしこの結果がヤルマールの聖なる成長に繋がるだろう」とか言って、医師レリングに言下に否定される。それならグレーゲルスの最後の望みは「十三人目の客になること」(キリスト最後の晩餐を踏まえて)というが、これも軽くあしらわれる。 物語としては、ヘドヴィクが大好きなお父さんヤルマールへの誠意として野ガモではなく自分の命を差し出そうと決意したのはどこでなのか、グレーゲルスの「十三人目の客」とは?という疑問が。グレーゲルスは特権階級の理想主義者なのでこの結末は全く望んでいなかった。かつて自殺も考えたんだ!とか言ってるので「十三人目の客」であれば考えられるのは「死」であって、このあと今度こそ自殺…、しようとしてやっぱりできないんじゃないの(-_-;)  医師レリングの「貧乏人の戸口に突然やってきて、理想の要求とかなんとかありがた迷惑をつきつける連中から逃れられれば、人生は十分素晴らしいものだ」という言葉には、現実も人間の感情も無視した理想だけ唱えて、人々がその理想通りに動かないからこの世がうまく行かないんだ!というような発言を思いましたよ。

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    投稿日: 2025.10.03