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伝授! 哲学の極意 本質から考えるとはどういうことか
伝授! 哲学の極意 本質から考えるとはどういうことか
竹田青嗣、苫野一徳/河出書房新社
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総合評価

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    https://claude.ai/public/artifacts/a8b24f41-5b3b-4d2e-9bb2-d77d5ca4f70f

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    投稿日: 2025.06.12
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    やっと師弟対談が出来上がった。竹田青嗣の話が難しくなったり、端折った説明のため誤解を生みそうになったりすると、間髪入れずに苫野さんがフォローしている姿が微笑ましい。苫野さんのVoicyをずっと聴いてきたので、何とか話についていけたような気もするが、やはり難しいことに変わりはない。科学は没価値的にこの自然界における事実を探究するが、哲学は価値の本質を追究する。このあたりは最近読んだ湯川・梅棹対談の話が頭をよぎる。Voicyでルソーやヘーゲルからリレーでつながれてきた「自由の相互承認」「一般意志」「一般福祉」という考え方の大切さは嫌というほどたたき込まれてきた。完全に受け身で、スマホでお昼を食べながら聞いているだけなのだけれど。それが本書でも文章としてしっかり確認できた。しかし、こんなこと言うと養老先生にしかられそうだが、だから結局どうすれば良いのか分からないままなのだ。養老先生は直下型地震のようなカタストロフィがないと変わらないだろうと言っている。柄谷行人は向こうからやってくるのを待つと言っている(たぶん)。だが、本書では柄谷の考えは理想論でそれでは解決しないと言っている(たぶん)。僕なんかは、せっかくある国際連合をもうちょっと何とかできないものかと思うが、そういう議論はどこにもなかった。(先日、新聞に岩井克人先生のことばが載っていたが、ドルではなくケインズの言うような国際的な通貨ができると少し状況が変わるのかもしれない。)では、この世界に生きている当事者として自分にできることは何なのか。うーんと考えると、とりあえず本質観取はしていこうということくらいか。飲み会なんかでテーマを決めて、たとえば「あなたにとって幸せとは」というような話をしたこともある。大変興味深かった。感じ方は人それぞれである。自分の勤務校での会議で「良い授業とは」なんていうのもしてきた。それを自分の授業に取り入れたりもした。今年度は「人生談義」と称して「善く生きるとは」ということを考えながらぼちぼち書いている。書くことで思わぬ方向に考えがまとまることもありびっくりする。これも一人本質観取と言えるのか。誰かと話し合える方が良いが、そういうグループに後から入って行くのはなかなか勇気がいるし、自分で立ち上げるのも億劫だ。でもまあ、定年退職後の社会貢献ということにでもして何か始めてみたい。さて、竹田青嗣の「おわりに」にもあるが、哲学の認識問題はニーチェとフッサールによって完全に解かれているのに、そのことに気付いているのは世界中で自分たちだけだという(たぶん)。本当にそんなことがあるのか。竹田青嗣の本の英訳が進んでいるそうだが、それが刊行されれば世界は驚くだろうと苫野さんも言っていたはず。竹田青嗣の周りにいる人だけで盛り上げっているのではないのか、などと勘ぐってしまう。苫野一徳のことは99%信頼しているので、たぶん間違いはないのだろうと思っているが、師匠と弟子以外の人の話も聞いてみないとちょっと不安である。そのあたりどうなんだろう。斎藤幸平と苫野一徳の対談とかおもしろそうなんだけど、すでにあったかな。ちょうど最近スマホで対談を読んだけれど、國分功一郎と中島岳志なんかも交えるとおもしろそう。内田樹先生と苫野さんは確かしゃべっていたような記憶があるけど、養老先生とはしゃべってないかな。まあ、早いうちに、いろんな人としゃべって、公開していってほしいなあ。で、心配なのが、苫野さんのVoicyが最近全然更新されないこと。単に忙しいだけならいいのだけれど、また体調を崩したりされていないでしょうか・・・(敬称は気分でつけたりつけなかったりですみません)

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    投稿日: 2025.05.05
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    竹田青嗣先生と苫野一徳さんの初の対談本、 一気に読んでしまいました。 普遍暴力をいかに逓減するか、という問いかけ。 ずっと頭にこびりつきながら問いかけていたことは、 「ではどうやったら具体的に、日常においてそれが可能か」 ということ。 仕事や、家庭、あるいはそれぞれの共同体の中で、 「場」を創設していくには? あるいは確かによくできた原理かもしれないが、 覇権主義の現在の世界システムで、「相互承認」の感度を世界的に育んでいくことはできるのか? 人間には理性とは別のエゴイズムの原理があって、道徳はおろか法をも掻い潜ってそれが制御不能なものになるのが人間の常ではないか。 (いじめや学級崩壊やパワハラの現場や無秩序な街を前にして、 私たちは「原理」を確認し「対話」をできるか) 現代社会の強固なシステムと欲望、 あるいは、「そもそも」を振り返り考える思考回路が形成されていない人が多数ななか、 「対話のテーブル」をつくることはどこまで可能なのか。 一部の天才たちがギリギリまで考え抜いて宝石のように残った「原理」は果たして本当に暴力と経済の原理で動く現場や社会を動かす力になりえるのかどうか、ということです。 さて、 哲学というのは、 物事の「そもそも」の本質を、誰もが納得できる言葉で見つけ出していく営みです。 世界の説明には、 物語の方法か、原理の方法か二通りしかありません。 それぞれに長所と短所があります。 前者の代表が「宗教」「神」(スピリチュアル含む)ですが、 決して普遍的なものにはなり難いのです。 他方、後者の営みは誰にも疑えない出発点から思考をスタートさせていきます。 哲学は「真理探究の学問」とよく言われますが、そうではなく「言葉はそもそも真理を言い当てることはできない」ということが、常識です。 「正しい絵」ではなくて「万人がなるほどと納得できる絵」が描けるかどうか、なのです。 哲学の方法は、科学の方法も生み出し、物質の最小単位、構造、動因、全体像という現代物理学に至るまでの枠組みを作り上げているのです。 私自身は、キリスト者であり、世界の根源には「大いなる意志」が働いていると直感し、確信し、それに賭ける立場でありますし、 「認識」以前に「存在」が先立つ、と「思う」、わけですが、 これは客観的には証明不可能です。 だからと言って「ない」「別の何かだ」とは「わからない」。 哲学は、「欲望相関性」の相で還元していく。 これはつい「真理」を巡って議論しがちで何千年決着が永遠につかない宗教の世界でも「これは確かにいいやり方だ」と思える知恵です。 現象学では、 「リンゴがあるから、わたしはそれが見える」 ではなく、 「わたしは、リンゴが見えている、と確信している」 という立場から議論をはじめていくわけです。 現代の世界をどうしていくか、という問題に対して。 世界とはこういうものだと言い切る体系化された説明が挫折した後、 なんでもかんでも相対化し、「人それぞれ」「ただしさなんて人それぞれ」「要するにみんな見えない権力」というポストモダン思想も座礁した中、 すでに葬り去られたと思われていたヘーゲルやフッサールの中に現代にも通用する普遍的な思考法があると言います。 対談の中で、興味深かったのが、 「権力をなくしてしまえ」「資本主義を解体してしまえ」「国家を揚棄せよ」 というのではなく、 「どういう権力であれば正当であると言えるのか」 「国家同士の自由の相互承認」の可能性を現実的に追求している点です。 「哲学対話」「本質観取」 また身近なところで定期的にやってみたいと思います。

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    投稿日: 2025.05.03