
総合評価
(2件)| 0 | ||
| 1 | ||
| 0 | ||
| 0 | ||
| 1 |
powered by ブクログ中高生のときに「華麗なるギャツビー」を読んで、それから「雨の朝パリに死す」を読んで、なんとなくフィッツジェラルドという作家の醸し出す雰囲気みたいなのを背伸びしていいなぁと思おうとしているようなところがあった。 なんか人間の切なさみたいなのを絶妙に掬い上げるような感じの印象があって、それ自体がなんかすごくわかるような感じでいることがカッコいいことのように思っていた。太宰の「人間失格」を読んで、自分はこの感じわかる、と言いたいようなああいう感覚。若い時特有の。 それで今大人になって、だいぶ久しぶりにフィッツジェラルドを読んだら、わかる気がするというより、分かってしまう、という感覚だった。でも本当は人生、この感じはわからないほうが幸せなんだろうということも含めて。大人になって分かってしまうそれは、人間のカッコ悪いところだったのだ。そしてそのカッコ悪さがあるところが、どうしようもない人間くささで、フィッツジェラルドという人は、自分が多分にそのカッコ悪さを抱えていることを分かりながら、そんな自分をどこがで愛おしいと思ってること(=自分のことを愛おしいと思うというより、人間のその性質を愛おしいと思っている)を隠さず示している人なのだと感じた。それはなんというか壮大な励ましで、この人がそういうならそうなんだろうっていう、生き様も合わせた迫力のある存在の人なんだ、な。
1投稿日: 2025.10.30
powered by ブクログ若い頃はフィッツジェラルドが好きでした。グレートギャツビーも何度も読みました。しかし今この本を読みましたが、心が揺さぶられる事はありませんでした。私の存在そのものがあの頃の細胞は1ミリも残っておらず、全くの別人であります。よって同じフィッツジェラルドの本を読んでも、ここまで受け止め方が違うものかと驚きです。私は進化しているのかそれとも退化しているのか、一体どこへ向かっているのか?感性が研ぎ澄まされていっているのでしょうく?それとも感性が鈍ってきたのか、年齢とともに価値観が大きく変わっているのでしょう。
0投稿日: 2025.10.13
