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花魁の家計簿
花魁の家計簿
永井義男/宝島社
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    吉原遊廓の成立と変遷: 吉原遊廓は、徳川家康による江戸の都市計画の一環として、公許された遊廓として成立しました(元和4年(1618年))。当初は日本橋人形町付近にありましたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火後に浅草・千束村へと移転し、新吉原として発展しました。 初期の吉原では「太夫」を中心とした格式高い遊興が行われていましたが、「宝暦末までに、徐々に妓楼のシステムに変夏が加えられ、『太夫』や『揚屋』は姿を消していき」ました。これにより、「客が龍 接に妓楼で遊ぶ仕組みへと変わり」、『今の店舗型の風俗店になったのです』。 引手茶屋が客と妓楼の仲介・紹介役を担うようになり、「まさに風俗の案内所」としての役割を果たしました。 遊女の生活と境遇: 吉原で働く遊女の多くは、「借金のカタに売られた女子たち」であり、「妓楼と契約を交わし、借金を返し終わるまで拗かされるわけですが、それは実質的な人身売買でした」。最長27歳までの年季奉公でしたが、「多くの女性が年季明けまで勤め上げらず、病気などで命を落としていた」のが実情でした。 遊女には禿(かむろ)、新造、そして上級の遊女である花魁といった階級があり、それぞれ待遇や揚代(遊興料金)が異なりました。「高級遊女『呼出し昼三』揚代は1両1分(12万5000円)」にもなりました。 遊女の生活は決して華やかではなく、「昼見世と夜見世にわたって働き、客を相手にすることも」多く、「食事も粗末な内容だった」とされています。 厳しい規則や罰金制度の下で、遊女たちは「なるべく長く客を誘惑」するよう努めました。また、祝儀や贈り物などが収入源の一つでしたが、着物や化粧品などの出費も自己負担であり、借金が膨らむこともありました。 「どんなにエンタメ化されようと、吉原遊廓の本質はあくまでも光春街。そこで働く遊女は娼婦です」という認識を持つことの重要性が強調されています。 遊客の遊び方と経済: 元禄期までは裕福な大名や豪商が主な客層でしたが、時代が下るにつれて町人や庶民も訪れるようになり、「町人相手に大衆化せざるを得」なくなりました。 宝暦以降は、客は直接妓楼へ行くか、引手茶屋を介して遊ぶのが一般的になりました。「大見世は引手茶屋を必ず通す」という慣習があり、引手茶屋が料金の立て替えなども行いました。 遊興には揚代のほかに、遊女や妓楼の奉公人への祝儀(階花、惣花など)が伴い、「遊女への祝儀だけで30万円の散財になった」という例もあります。 吉原には独自の遊び方やしきたりがありましたが、「『吉原の花魁は3回目でないと体を許さない』というのは実は嘘だった」とされています。初回の遊びは「初会」と呼ばれ、3回目の登楼で馴染みとなるとされました。 吉原を支える人々: 妓楼では遊女を中心に、若い者(男性奉公人)、遣手(遊女の指導役)、番頭などが働いていました。「遊女を中心とする妓楼では、遣手の存在は大きい。容赦ない指導は、時に残忍な折檻にも及んだ」。 遊女の美貌を飾るため、髪結、呉服屋、小間物屋など様々な職人が妓楼に出入りしていました。「遊女が着飾る紅や白粉を扱う小間物屋や、華やかな髪結を作るために欠かせない呉服屋も妓楼に出入りしていた」。 音楽や舞踊で遊興を盛り上げる芸者も重要な存在でした。「音曲は芸者が担うことになった」。芸者には妓楼に住み込む内芸者と、吉原内に住む見番芸者がいました。 吉原の文化と娯楽: 吉原は単なる遊興の場ではなく、江戸の文化の発信地でもありました。遊女の高い教養(読書き、芸事など)が求められ、様々な稽古が行われました。「格式の高い吉原の遊女は、太夫時代からそれなりの客を相手にするため、読み書きはもちろん、一定の教養を身につけることが求められた」。 貸本屋も遊女にとって重要な娯楽であり、情報源でした。「吉原の遊女の多くは、読み書きができたため、説 害が最大の敵であった」。 喫煙も遊女の間で広まり、「遊女の色気を表現するアイテム」として重要な役割を果たしました。 吉原の年中行事: 吉原では、仲之町の桜や玉菊灯籠、八朔、俄など、独自の年中行事が盛んに行われ、「非日常を演出し、最上の遊興を提供」していました。「3月3日の節句の花見」は特に賑わいました。 紋日(節句や祭礼など)は揚代が倍になるため、遊女にとっては大きな負担となりました。 吉原の終焉と近代化: 幕末の開国と明治維新を経て、吉原も近代化の波に晒されました。明治5年(1872年)には芸娼妓解放令が出されましたが、その後の遊女の生活保障はなく、一時的に衰微したものの、貸座敷として営業を続けることとなりました。 大正時代の遊女の生活も、依然として厳しいものであったことが、「光明に芽ぐむ日」などの記録からうかがえます。 遊女の死と供養: 病気や過労で亡くなる遊女も多く、「吉原で亡くなった遊女は悲惨である。遺体は菰に包まれて、三ノ輪の浄土宗浄閑寺に投げ込まれた」とされています。浄閑寺には「生まれては苦界 死しては浄閑寺」という句が刻まれた供養塔があります。

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    投稿日: 2025.04.08