
総合評価
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powered by ブクログ同じ事物を見たとしても、それを知覚する身体の内受容感覚、その形成にも影響する〝日常の経験“によっても認知世界は揺らぐ。よく用いる例えで言えば、〈鯛の姿造りをグロいと思うか美味しそうと思うか〉、これは食文化にも絡んだ経験と身体的なもの、お腹の空き具合による。 フッサールは、「世界も科学もすべて、意識の中で意味づけられた現象である」という立場を明確にする。ただしこれは「世界は君次第だ」という相対主義ではなく、「世界が現象として成立する条件」を明らかにする作業である。 ー まずヨーロッパの「認識問題」とそれが大きな難問であることの理由からはじめよう…とくにゴルギアスは三つの興味深い論証をおいた。これを私はゴルギアス・テーゼと呼ぶ。①存在はない。なぜなら誰も存在を証明できないから。②仮に存在があるとしても、誰も認識できない。③仮に存在の認識があるとしても、誰もそれを正しく言葉にできない。 常に言葉が出口になる必要は本来ないのだが、人は、言葉以外で思考することに慣れていない。絵画や音、匂いを複雑に構成しながら予測をする行為は案外無意識にやっているが、それを他者に伝える段階では、言葉が一番便利だからだろう。 ー ヴィトゲンシュタインの直接の意図とは別に、ここからつぎのような「間主観性」の基本構図を読み取ることができる。各人が頭の中の箱に「かぶと虫」をもつが、誰も自分の「かぶと虫」しか見ることができず、他者の「かぶと虫」を見ることは決してできない。つまり誰もが自分の主観の中に、つまり自分の「世界確信」の中に閉じ込められているのだ。誰も自分の主観の世界(主観の風船の中)以外を生きることはできない。よく考えるとその通りだ。しかし、人間は言語によって自分の世界経験(世界確信)を互いに交換しあっている。この世界経験の相互交換が、自分は他者たちと同一の世界を生きているという自然な共同世界の確信(間主観的確信)を作り上げているのである。 ー 数により自然科学は共通了解を作り出すが、人文領域は、同一性を形成できず、むしろ認識論上の一つの「原理」として観取される。ただ、この領域では一切が「相対的である」という考えは素村すぎる。ここでも構造的な相同性は形成される。善悪、美醜の基準は、文化、社会、個人の感受性などで少しずっ差異をもつが、しかしあらゆる文化で善悪や美醜の秩序は存在し、その構造には相同性がある。この構造的な相同性が、人文領域における普遍的認識と呼べるものが成立しうる根拠なのである。 ここで、エポケーだ。断定を保留せよというくらいの意味で考えるが、つまり、あなたの主観を意識するための「一呼吸」。主観世界から距離をおくためには、意味を決めつけない事を前提にすべきというのがフッサール的現象論の正しい態度なのだろう。鯛の姿造りで言えば、魚の死骸であり食材であり、価値であり、文化である。
59投稿日: 2025.08.14
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
「100分de名著」で取り上げられたのをきっかけに、積読になっていた本書を読んだ。 確かに難解で、解像度が無駄に高い独特な言い回しと用語でくどくどと語っているが、主張自体はシンプル。 白黒映像に男の子の笑顔が映し出される。ズームアウトすると、男の子は戦場に立っていた。側に倒れている人もいる。 でもさらにズームアウトすると、そこは映画のセットの中だった。 このように体験は何が見えるかによって意味が変わってくる。映画の撮影所の外で火事の炎が近寄ってきていた、といった具合に後から意外な情報が加わる可能性も否定できない。このように、ある現象が変化しながら組織化されていくメカニズムを「現象」と呼び、その意識における構造を哲学的に探究することを「現象学」という。 この他、エポケー(判断保留の姿勢)、ノエマ(意識に現れる対象の与えられ方)、ノエシス(行為としての意識)——この4つを押さえれば、日常会話レベルでは十分だと思う。 「あとがき」で著者らが「フッサールの言葉を足しも引きもせずに書いた」と述べているので、本書は初学者向けではないんじゃないかな。「改めて向き合うフッサール」というタイトルの方がピッタリ来る。 でも時々、この哲学的な「無駄に解像度の高い」文章に触れて、緩みまくった自分の思考や曇りまくった視点とのギャップを感じることは必要だと思う。中途半端に学んだ者ほど自信過剰に溺れ、達人ほど「自分は何もわかっていない」と無力感を噛みしめる「ダニング=クルーガー効果」は、この「現象学的還元」の良い実例と言える。フッサールの厳密さは、普段の雑な思考を引き締め直してくれる良い薬になった。
2投稿日: 2025.07.23
powered by ブクログ1. 認識問題の重要性 - フッサールは自然科学と人文学の認識問題の違いを強調し、普遍的な認識が自然の領域では成立するが、人文学の領域ではそれが不可能であることを解明する必要性を示した。 - 現象学的還元の方法によって、自然的視点から哲学的視点へのシフトが求められる。 2. 自然主義と現象学 - フッサールは「事実の認識」と「本質の認識」の違いを明確にし、特に人文学の領域においては主観が客観と一致することが無効であると指摘。 - 自然科学の認識は、仮説と実証データの検証によって成り立つが、それでも最終的な結論には至らない。 3. 本質と本質認識 - フッサールは「本質学」と「事実学」を区別し、認識の根本問題として「本質の認識」を位置づけた。 - 本質観取と個的直観の関連性が論じられ、個体から理念への移行が強調される。 4. フッサールとハイデガーの対比 - フッサールの現象学が誤解されてきた理由として、ハイデガーがその根本動機を受け取らず、存在論哲学に変形させたことを挙げる。 - ハイデガーの「存在の意味」を探求する姿勢は、フッサールの認識論の解明とは異なる。 5. 認識の構造と確信 - フッサールは認識を主観の内で形成される「確信」と見なす。 - 確信の成立条件を解明することは、普遍的な認識の可能性を探求する上で重要である。 6. 経験と直観 - 知識は「原的な直観」に根ざしており、これが認識の基盤となる。 - 経験に基づく自然な確信と、哲学的な確信の違いを明確にすることが求められる。 7. 現象学的還元 - 現象学的還元によって、自然的な世界確信を一時的に中止し、対象の本質に迫ることができる。 - これにより、認識の主観的な成立とその普遍性の探求が可能になる。
0投稿日: 2025.01.24
