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楽園の夕べ ルシア・ベルリン作品集
楽園の夕べ ルシア・ベルリン作品集
ルシア・ベルリン、岸本佐知子/講談社
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総合評価

13件)
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    読んだことないタイプの本で衝撃だった いろいろ出来事が書いてあったがなんとなく常にゾッとしながら読んでた

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    投稿日: 2025.10.20
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    ポットキャスト<翻訳文学試食会>で取り上げられたので。 評判通りすごい作家だなあ。色や光が感じられる。 作者は自分の経験を元にして、編集し、拡大したり縮小したりして、物語にしている。 解説や小説からは、精神的に幼いまま世界に出て、自由奔放、といえば聞こえは良いが無茶苦茶とか自堕落と言われるような生活で人生を渡ったみたい。 でも小説からは恨みも強がりも感じない。ただ、生きている。 長男によるあとがき「母の思い出」も小説のようで、ルシア・ベルリンが飲んで歌って踊っている姿が目に浮かんだ。 『オルゴールつき化粧ボックス』 五歳のルーチャ(ルシアのあだ名)とホープは、不良ティーンエイジャーたちの「オルゴールつき化粧ボックスが当たるくじ」を売る仲間に入れてもらった。屯してるだけの兄ちゃんたちから「五分五分だぜ」と認められた二人は大張り切りでくじを売りまくる。不良たちからも見直される。二人は張り切って作戦を立てて売りまくる! でもだんだん見えてくる。 髪の毛ぐしゃぐしゃで半ばボロ着のまるで浮浪児のような少女たちが訪ねてきたら、がんばってるねーって小銭をくれる。 そしてこのくじはただのインチキで、不良たちは当たりの品を持ってもいないし、自分たちにも分前はくれない。 ちっくしょー と荒れるホープだが、二人はかなり遠くの飲み屋に辿り着いて自分たちのやり方でくじのルールも作ったら大盛りあがり! 真夜中になっちゃったから、お店の人がタクシーに乗せてくれた。 家族に怒られたり、祈られたり大騒動だったけどその日は眠りましたとさ。 ルーチャの状況の説明文章はない。それでもわかったことは、父が第二次世界大戦に従軍している(沖縄に駐屯)ために、母といっしょにテキサス郊外の祖父母の家で暮らしているようだ。横暴な家長の祖父、祖母のメイミーは家の中の片付けは苦手だが庭は整える、母、叔父は数人居るが出入りがあるのはジャン叔父さん。 向かいにはシリアから来た一家がいて、ルーシャと同じ年のホープとは親友だが、ルーチャの祖父母は中近東の人々を嫌っている。 これは色鮮やかな小説だなあ。 『夏のどこかで』 ルーチャとホープは七歳になっている。二人が住んでいるのは製錬所の近くの通りのようだ。大雨が降ると通りは川のようになって、子供たちは流される。 ある日ルーチャの家に金持の車から出てきた男の人が、見たこともない1ドルコインをくれた!どうやらずっと前の家族が困窮しているときに祖父・祖母・きょうだい(母や叔父たち)を見捨てて飛び出していったフォーチュナタス叔父さんが、経済的に大成功したようだ。でもおじいちゃんも、おかあさんも、ジャンおじさんも、あいつが家族を見捨てたせいで自分たちは困窮を極めたんだ!!!と激怒して追い返す。 それでもルーチャは、メイミーおばあちゃんの表情から、叔父さんとこっそり会って喜んでるんじゃないかな、って考える。そのことがおじいちゃんやお母さんにバレて思いっきり怒られた。 その夜、ジャンおじさんがルーチャとホープを外に連れ出し、空から落ちてくるかのような星空を見せてくれたことを覚えてる。 『アンダード あるゴシック・ロマンス』 アメリカ人ローラは、父の仕事(CIAの仕事!?)でチリの学校に通っている恋に憧れる14歳の少女。どうやら母は体調が…というより精神を病んでいるようだ。 ローラはこの夏父の仕事仲間のドン・アンドレス(彼も肩書がすごい)の農園で過ごすことになっている。ドン・アンドレスの長男ハビエルは上流階級だが社会主義で斜に構えた伊達男の「革命家気取り」。婚約者のテレサがいる。次男ぺぺは神学校に進む前の最後の家族で過ごす夏だ。お屋敷の召使は年配のピラールと、ローラの面倒を見ることになった同じ年頃のローラ。 両親と離れての夏休み、ローラは素敵な大人のドン・アンドレスに恋をする…。 この「少女ひと夏の出来事」の背景にはチリの社会不安が感じられる。ローラの父とドン・アンドレスをチリの左翼派が「帝国主義のヤンキーと鉱業族の議員」という目で見ているとか、上流階級お坊ちゃんのハビエルとぺぺが彼らなりに「社会を変えなくては」と思っているとか。これって1973年のピノチェトのクーデターの直前の時期?だとしたら彼らは悲惨なことになるのでは…。上流階級そのもののようなドン・アンドレスもその気配は感じているようだ。 しかし物語はローラのひと夏の出来事。アクシデントにより恋するドン・アンドレスと二人きりになった彼女は…。 …ドン・アンドレスの「君を汚してしまった」という言葉に戸惑う。私は汚れたの?何が起きたのかもわからないのに? 夏が終わるとローラは家に帰る。 ローラは成長して多くの男性と付き合ったけれど、主導権を渡したのはドン・アンドレスだけだったのだった。 『塵は塵に』 チリで暮らす少女と、同じ年の友達ジョニーは、ジョニーの兄のマイケルを崇拝していた。彼は英国空軍砲撃手として勲章をもらい、チリに帰ってからは複数のスポーツでチャンピオンになった、チリのスターでヒーローだった。 そんなマイケルも、戦争から帰ってからはまともな職に就かず酒・ギャンブル・女性でトラブルばかりだった時期があった。それでも彼の輝きは人を引き付けていた。 そんなマイケルはバイクレースで事故死した。 少女は家族席で葬列に加わる。悲しみと華々しさを備えた憧れの人のお葬式は、少女の目には悲惨さよりも美しさ、気高さを感じた。 『旅程表』 (『アンダード 』のローラの数年後のようなお話) 以前はチリからニューヨークへは海路で一ヶ月かかった。ローラがニューメキシコ州の大学に入学が決まったときには航路があった。 そのローラがサンチャゴ⇒リマ⇒パナマ⇒マイアミ⇒アルバカーキと、飛行機を乗り継いで、町を見たり、父の仕事仲間に会ったり、初めての親戚に会ったり、飛行機から風景を見たりしながら、「まだ何も理解せず大人になったわけではないのに、年を取って手遅れになった気がした」というその経験。 『リード通り、アルバカーキ』 同じアパートに住むシャーリーとマージョリーはそれぞれの夫も含めて仲良くしている。芸術家仲間のレックスが結婚して引っ越してきた。レックスは才能あふれるが嫌な奴。奥さんはまだ17歳で南米育ちのアメリカ人マリア。アメリカの男たちが朝鮮戦争に徴兵されたこのころ、「子供がいる男は徴兵されない」と聞いて結婚したという。 シャーリ、マージョリー、マリアは同じ頃妊娠した。 この物語ではマリアが作者ルシア・ベルリンのモデルなんだろう。女友達シャーリーから見たマリアは、精神的にも幼く、両親とはうまくいかず、赤ちゃんの扱いも恐る恐る。 夫のレックスはマリアに対して今の言葉なら「モラハラクズ旦那」。マリアはレックスを崇拝しているが、レックスはマリアを支配し侮辱し、自分は好き勝手に暮らしている。それでもマリアは懸命に赤ちゃんのお世話をして、「生きているって素晴らしいわ」と目を輝かせる。 だがレックスが仕事とか言って長期家を離れたその直後、マリアはついに抑え込まれていた自己を開放する。しかしその姿をレックスに見られてしまい…。 この短編集では、マリアのように、両親とうまくいかなかったようで、精神的に幼いうちに結婚し、モラハラクズ男と結婚して母親になって、手探りで生きる女性がよく出てきます。 『聖夜、テキサス 一九五六年』 ああそうさ、あたしは屋根の上にいる。亭主のタイラーのやり口についに我慢がならなくなったのさ。 この口調は読んでいてなんだか気分がいい。亭主に悪態つきながらもやっぱり愛していて、そんな亭主も妻を愛しているってわかる。 こんな日々の繰り返しでいつか本格的に破局思想ではあるけれど、これを読んで「生きているなあ」と感じた。 『日干しレンガのブリキ屋根の家』 マヤはポールと再婚した。ポールは前夫との二人の幼い息子のことも愛してくれている。一家は、都会から離れて荒れ地の中に建つ「建って百年は経つ家」に引っ越してきた。 鳥小屋、家畜用囲い、屋外便所、日干しレンガの小屋、ブリキ屋根の母屋。水道も電気もない。全部自分や近所の人達と造ってゆくのだ。 自分たちで造る家だが不便が多い。突然訪ねてくる元の持ち主一家、女連れで訪ねてきては大騒ぎする友人たち、夫の留守に口説いてくる男友達、仕事で家にいないポールにはこの苛立ちは分かってもらえない。 やがてポールの仕事でこの家からも離れることになった。 <たくさんの植物、ハゴロモガラス、友人たち、きっとここには二度と戻らないだろう。きっとこの結婚もだめなのだろう。フランシスはそれから何年かして死んだが、ピートとロムロはまだあの家に住んでいる。(…略…)コラーレス・ロードを走っていけば、その家が見える。きれいな日干しレンガの、建って百年はたつ家だ。真っ赤なノウゼンカズラが咲き、いたるところバラに囲まれて、その家はある。P175〜> 『霧の日』 リーサの夫のベンジャミンはレストランのピアノ弾いている。年上で、セックスがうまくて、とてもリーサを愛している。でも話はできない。口下手だっているけれど、自分がここにいるって気にさせてくれない。リーサは男友達(ですよね??)ポールと過ごす時間に安定を感じていた。そして口のうまいトニーに口説かれる。 ベンジャミンとリーサはニューヨークに出た。環境は変わっても、心は変わらない。 『桜の花咲くころ』 カサンドラは二歳の息子マットを連れていつものお散歩コース。出版社勤めの夫デーヴィットに聞かれれば「楽しかった!」と答える。 いつも同じところで会う郵便配達夫、いつもおなじ公園の同じ遊具、同じ木の下でのお昼。次に起きることが分かってしまうくらい。 デーヴィットはカサンドラの言葉遣いを直すだけ。話なんか聞かない。自分だけ忙しいと思っている。それ以外の話もしない。 「お願いだから、私と話をして」 ==これは多くの女性が思って、多くの男性には伝わらないことだろう…。 『楽園の夕べ』 おお、初めての男主人公。 エルナンはメキシコの海辺の観光地ホテルのバーテンダー。昔浮浪児だったころ彼のような子供を引き取ってくれたオーナーのセニョール・モラレスを父のように慕っている。今は同じホテルに雇われていたソコーロと結婚して二人の娘がいる。(おお、主人公の子供が「娘」も初めて。) ホテルには、観光客、地元の若者たち、地元の常連たち、そして今はハリウッド映画撮影隊がいる。 昼は観光客に取り入ったり金目の物をかっぱらったりして、夜はバーで過ごすビーチボーイズ。観光地で観光客や地元の「野良犬」とアヴァンチュールを求める女性客たち。繰り広げられる男女の修羅場。薬。家出。 喧騒を見つめながらエルナンは家に帰る。まだ美しい妻と、娘たちの家に。 『幻の船』 マヤは子供たちと、二番目の夫バズと一緒にメキシコにいる。バズは麻薬をやったり、辞めたり。今は辞めて引っ越しもして、このまま安定するかもしれない。 しかし売人ビクトルに居場所を突き止められた。二人で強い麻薬を試して二人とも倒れた。ビクトルはそのまま死んだ。 バズが意識を戻さないうちにマヤはビクトルの死体を海に捨てようと力を尽くした。 翌朝、壊れたボートはみつかったし、バズに「ビクトルは死んだ」と告げたけど、それ以上の追求は免れた。 でもこの恐怖も惨めさも、かつてから味わっていたもの。きっとまだまだなくならない。 『わたしの人生は開いた本』 教師のクレアは30代で四人の息子のシングルマザー。牧場近くの家に引っ越してきた。近所の人はよそ者の彼女を見張っている。 彼女は町の若い不良と付き合ったり、家族同士で子供を預けたり。ある夜、クレアは一人で出かけて朝まで男と共に過ごした。 その頃、彼女の四人目の末っ子が行方不明になって大騒ぎになっていた。クレアの家には、仕事仲間、近所の友人、近所の野次馬、警察、二人の前夫たちまで現れる。 男のベッドで目を覚ました彼女はニュースを聞いてびっくりして家に戻る。そして彼女の車に、末っ子が隠れて乗っていたのだ。 家に集まった人たちは、呆れたり、中途半端な結果にがっかりしたり。「こんなイカれた家にいられない、とっとと帰ろう」と戻っていった。 『妻たち』 同じ男マックスと結婚していた二人の元妻のローラとデッカは、その後時々相手を呼び出して飲んだくれる仲になった。 世界中を移動して、本を書き、サックスを吹き、闘牛をやり、レースに出る男。 自分といた時のマックスは…、そのあとであんたが…、マックスがまた結婚するって。あんた子供はどうすんの? 妻たちは「マックスがこうやって触れた」なんて触れることもあるけれど、結局悪態つき合ってベッドで背中を向けて眠る仲。 『聖夜、一九七四年』 マギーの家に、別れた亭主の姉のゼルダが来た。マギーの家だってごたごただ。家主に立ち退きを脅かされ、狭い家に折り重なるように息子たちや、彼らが連れて来る友達が寝泊まりしている。 そんなクリスマス前後の一家のゴタゴタがとても賑やかな物語。 『ポニー・バー、オークランド』 短いつぶやきのような。 完璧な音の描写、日常のちょっとしたこと、よそ者気分でバーで隣どうして、り合った男と軽口悪口言い合ったこと。 『娘たち』 医療局?で働く女性が見たあるクリスマス前後の患者、その家族、医師の一コマ。 『雨の日』 アル中路上生活者の留置所でのボヤキ。 『われらが兄弟の守り手』 掃除婦の女性の友人セアラは殺された。犯人はわからない。死んでも忘れられない女性。社会主義者で人々のためを思い政治家にははっきり抗議したセアラ。60歳で暴力男に恋をした。いい人は退屈な人。一人で自立っていうけれどロマンスは必要。 お掃除探偵おばさんになってみる。犯人は恋人?社会主義の同士?セアラを嫌っていた息子の彼女?彼女に施しを受けていた窓拭き? 考えてもしょうがない。私にだってアリバイはないんだから。セアラは何年経っても忘れられない女性なのだ。 『ルーブルで迷子』 自分が眠る瞬間を捕らえたことがある。しあわせな気持ちで目覚めた。人の死の瞬間を感じたことがある。日常から地続きの不意打ちだった。 『陰』 夫と別れて子供も独立しているジェーンは昔住んでいたメキシコを訪れた。 闘牛場のざわめき、色合い、血生臭さ、美しさ、闘牛士たちの個性、見学者たちの個性、「めくるめくカオス」のなか、突然の…。喧騒とその突然失われた物のコントラスト。 『新月』 海辺の観光地。 「女」と「老女」が言葉を交わす。 人生の苦労があった。これからだってあるだろう。 でも今は水は暖かく、吹く風は優しい。

    43
    投稿日: 2025.08.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    登場人物の名前とか関係性がごちゃごちゃで集中できず、なにが面白いのか分からず、リタイアしてしまった…。 色々な経験を積んでから再チャレンジしたい。

    0
    投稿日: 2025.04.06
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    情景描写も話の締め方もクール。どれも良いが、特に「日干しレンガのブリキ屋根の家」「幻の船」「陰」「新月」がお気に入り。

    0
    投稿日: 2025.02.24
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    短編集 作家自身の生い立ち感情が見え隠れする作品集.ロクでもない夫,アルコール依存や薬物依存,子供達への愛,生活の厳しさなどが自然の情景描写の中に溶け込んでいる.短い物語の中に漂う臭いまで感じられる,そんな作品の数々.

    1
    投稿日: 2024.12.18
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ルシア・ベルリンの短編集、三冊目(これで最後かな)。やはりすごく良い。相変わらず酩酊とドラッグとセックスと死にまみれていて、それでいて繊細な描写でむせかえるようなにおい、音、色彩に包まれる感じにぐっと引き込まれ、読みだすと止まらなくなってしまう。 悲惨な境遇も破滅的な出来事もあっさりと、からからしたユーモアとともに書かれていてそこには同情や好奇の視線を寄せ付けない強さがある。彼女の小説をどう表現すればいいか難しいのだが、起こるできごとも町のたたずまいも感情も一人一人の生も全部まるごと、むきだしになっているのだ。読むとあまりにリアルに目の前に迫ってくるから、その存在感にはいつも圧倒させられてしまう。 好きな短編を選ぼうと思ったが、今回は特にお気に入りが多くて難しい。メキシコやチリの、危険と明るさの裏表がくるくる回っている感じが良かった。「アンダード──あるゴシック・ロマンス」「日干しレンガのブリキ屋根の家」「楽園の夕べ」なんかが好きなんだけど、「幻の船」の最後には痺れたな。「すべては灰」。彼女の小説は大体、希望がない。希望はないんだけど人生は可笑しくて、人々の生は続いていくのだ。

    4
    投稿日: 2024.12.16
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    アラスカに生まれ、鉱山技師の父親とともに各地を転々としてきた著者。 学生時代、チリで成熟していった彼女の人生の一片が、この短編集に匂う。 そこから始まった3回の離婚とシングル混ざ^としての苦渋に満ちた人生を足下に持つからこその、彼女の文体イメージだと思える。 「掃除婦の為の・・」「すべての月・・」に続く3作目の読書。 やはり❣ベルリンだと思う作風に満ちている・・中南米の空気感の中での豊穣に満ちた人々の生活感。 生活は苦しかったり、悲惨な内容もあるだろうに、余計な感情は微塵も伝えぬ、短いセンテンス。 日本人のウエット気味の感覚からすると両極端の様なほどに,乾いた・・それでいて真理を突くような場面はドキッとする。 ルシアならではの語彙のチョイスが好きなので、今作品も~ ♯雪化粧した広大なアンデスの端にサンゴ色に罹っている・・太陽 #夜空に満月が出ている中での‥声のファルセットの響き ♯ルーヴルのそぞろ歩きの私的散策のあとにはメキシコの闘牛場のシーンも・・バラとカーネーションと帽子が宙に舞う・・それは暗く空を覆うほどに。 ♯オークランドの崖~マゼンダ色の空は海に玉虫色に映っている。。。。。 ルシアンならではの経歴と筆力が岸本さんの名訳で楽しい世界旅行へ誘ってくれた。

    4
    投稿日: 2024.12.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ルシア・ベルリンが彼女の生きてきた道のりを書いた短編集。とても興味深く読み始めた。各短編の内容から彼女の起伏の激しい人生を想像してみるが、私の想像を遥かに超えた人生だったのだろうな。

    1
    投稿日: 2024.12.06
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    このレビューはネタバレを含みます。

    子どもの頃よりあちこちに住み、結婚離婚✖️3、息子4人、シングルマザーにして職業をいくつか、そして大学教師、アルコール中毒と、これでもかの人生経験。日本の私小説作家が書いたら、恨みや悲しみのお涙頂戴にも出来そうなのに、彼女の場合、全く、微塵も湿っぽくなく、ドライなのが素晴らしい。『リード通り、アルバカーキ』『桜の花咲くころ』わたしの人生は開いた本』が特に気に入りました。

    9
    投稿日: 2024.11.03
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    「ルシア・ベルリンの書く文章はほかの誰とも似ていない。(中略)読んだときは文字であったはずのものが、本を閉じて思い返すと、色彩や声や匂いをともなった「体験」に変わっている」 (あとがきより) 『掃除婦のための手引書』で度肝を抜かれて以降、 『すべての月、すべての年』に続く3冊目の本書でも、まだ、ルシア・ベルリンの文章には驚かされることばかり。参りました。(好き)

    10
    投稿日: 2024.10.28
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    『波瀾万丈というには余りに過酷なシチュエーションなのに、自己憐憫やウェットさは微塵もない。初期レイモンド•カーヴァーとも違って、ストーリーとしてよりカラフルだけれども、一切無駄のない言葉選びと細部に注がれる視線の鋭さは共通している。』ー掃除婦のための手引書 『いつだって彼女の視線はクールだ。どの物語も、安易な同情や温かい眼差しが入り込む余地がないくらい研ぎ澄まされ、結末ではすっぱりと断ち切るように放り出される。 それでも愛としか呼びようのない人間臭さが、読了後に心に残る。』ーすべての月、すべての年 自分が書いた書評を再度載せるのもなんだが、陳腐であれ本書を読んでも、浮かぶ想いは同じだ。 だが、本書を読んで改めて思うのは、収められた短編たちはルシア・ベルリンの人生を下敷きにしていても、そこに留まらない普遍的な豊かさを差し出しているということだ。 抱え込んだ悲惨さとドタバタな下世話の中に、ユーモアがある。ジョークにしないと吐き出せないことがある。目を背けてやり過ごしていても、足元には、馴染み深い奈落が昏い口を開けて待ち構えていることにハッとする瞬間がある。 そして同時に、むせかえるような生きる悦びがある。 凝縮された人生の一場面に、真理とも啓示とも名付け難い何かが差し込んで、ふっと照射したのち、通りすぎてゆく。それをはっきりと捉えることはできないが、忘れられないシーンが胸に刻まれる。 幼い手で橋の欄干から投げられる硬貨。 七色に燃える精錬所の煙は友の瞳に映り込み、夏夜の端から溢れんばかりに星が流れる。 家族から離れて独り立ちした旅立ちの日に、飛行機から見たコーラルピンクに染まった砂漠の寂寥。 “ストーリーがすべて”というルシアの言葉通り、ここには心を掴んで離さない、短編小説を読む愉しみが詰まっている。

    13
    投稿日: 2024.10.20
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    目で文字で読んだのに、 映画をみたように思い出すのが、ルシア・ベルリンの小説だ。 どの話も匂いに満ちていて、息苦しくなるくらいなのにそれこそが生だし、人生だと思わさせてしまう。苦しいし苦いのに、どこか甘美なのだ。 「オルゴールつき化粧ボックス」の幼き日の犯罪まがいのこと。(最後、家に帰ってきて「メイミーがカスタードとココアを運んできた。病人や罪人に与える食べ物だ。」そんな風にこのできごとを振り返る。まだ未就学児なのに。 「リード通り、アルバカーキ」や「日干しレンガのブリキ屋根の家」で、若い妊婦や母がたくさんの植物や花を植え育てる様の異様さ。(もちろん話の主体は夫の振る舞いであり、隣人の苛烈さではある)

    1
    投稿日: 2024.10.20
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    『人が表立っては言わないことが世の中にはある。愛とか、そんな深刻なことではなく、もっと体裁のわるいことだ。たとえばお葬式はときどき面白いとか、火事で家が燃えるのを見るとぞくぞくするとか。マイケルのお葬式は最高だった』―『塵は廛に』 ルシア・ベルリンの三冊目の短篇集。三冊目の翻訳が出版されることはとても嬉しいことだけれども、これ以上翻訳される原本がないという淋しい気持ちも同時に去来する。読みたい、けれど読み終えたくない。届いた本を後回しにするべきか否か。結局手に取り、一つひとつ、いつも以上に丹念に読む。 岸本さんが言う通り、ルシア・ベルリンの文章は誰かに似ているという思いを抱かせない。いつもいつも本を読めば、ああ、これは誰々の小説を思い出すなあ、という印象に絡め取られてしまうものだけれど(極端な例では、川上弘美を読みながら村上春樹の口調を思い出したりもするのだが)、この作家の文章を読んで誰かのことを思い出したりしない。もしかすると、どこかでほんの少しだけレイモンド・カーヴァーの静謐さ(それは中毒症状の果てに辿り着く地獄と隣り合わせの境地なのか)のことがちらりと過[よぎ]る気もするけれど、カーヴァーにはルシア・ベルリンの陽気さや切実さを感じない。そしてどこか人生に対する諦めのようにも見える(けれど決して諦めている訳ではない)斜に構えた台詞。神様が意地悪なら私も神様に意地悪になってやる、といった態度。それが唯一無二の文章となって綴られている。 『あとの心配は時間だけだった。その家に人がいるのか留守なのか、すぐにはわからなかった。ドアベルの把手をこつこつ鳴らして、あとは待つ。最悪なのは、わたしたちが"久しぶりのお客さん"だという人たちだ。かならずうんと年とった人たちだった。みんなあのあと何年もしないうちに死んでしまっただろう』―『オルゴールつき化粧ボックス』 どの短篇も作家と作家の家族の話が脚色されているのだろうことは、ルシア・ベルリンの長男による序文を読まずとも三冊目の短篇集を読むものには自明だろう。そしてそのことが少し余計な感情を呼び起こす。だが、この作家の物語は常に過去形の物語。それが余計な感情に対する救いとなる。そんな風に読むことは、もしかすると邪[よこしま]すぎる読み方なのかも知れないけれど、ルシア・ベルリンを読むということは、畢竟彼女の人生を知るということなのだと覚悟するしかない。それでもそこには四人の子どもたちを守り抜いた強さがあり、作家自身のチャーミングさがあり、単に私小説を読むという地平を越えた読みがある。読みとは解釈ではないと、これ程強烈に教えてくれる作家も余りいないように思う。 『砂漠が濃いコーラルピンクに染まっていた。自分が歳をとった気がした。大人になったというのではなく、ちょうど今のわたしと同じ気分だった。自分にはまだ見てもおらず理解してもいないことがたくさんあって、でももう手遅れなのだ。ニューメキシコの空気は澄んで冷たかった。迎えは誰もいなかった』―『旅程表』 ルシア・ベルリンを読むことは彼女の目に写った風景の意味を「理解」することではない、ただその風景を並んで見ることなのだ。そしてフランスの片田舎で作家が出逢ったおばあさんのように「J'arrive!」と叫ぶのがせいぜいなのだ。

    5
    投稿日: 2024.10.17