
総合評価
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アリストテレスはキャラクターより出来事のほうが創作に芸術的技巧を要し、観客にも大きな影響を与えると考えていた。この考え方は二千年にわたって幅を利かせていたが、セルバンテスの『ドン・キホーテ』以降は小説がストーリーのおもな表現媒体へと進化し、十九世紀末になると、執筆に関する本の著者たちがアリストテレスの上位ふたつを入れ替えて、読者がほんとうに求めているのは印象に残るキャラクターだと主張した。彼らに言わせれば、プロットにある一連の出来事は、作家がキャラクター達を並べて掛けておく物干し綱にすぎない。 この考え方では、プロットを物理的、社会的な平面で展開する数々のアクションやリアクションと見なす一方、キャラクターを意識や無意識の球のなかにある思想や感情にのみ結びつけている。しかし実際には、それらの領域は互いに影響し合っている。 キャラクターが目撃した出来事は知覚を介してすぐに心に伝わるので、キャラクターのいる世界で何か出来事が起こると、ほぼ同時にキャラクターの内面でもそれが起こる。逆もまたしかりで、決断をくだすという内面の出来事は、キャラクターがそれを行動に移すことによって外界の出来事になる。内外の出来事は知覚を通って階層から階層へ、内から外へ、そしてまた内へと移り、互いに影響し合う。プロットを外で起こることに限定すると、人生で起こることの大半を見落としてしまう。プロット主導とキャラクター主導の論争は見せかけだけのもので、そのことはアリストテレスがリストを作ったときからずっと変わっていない。 プロットとキャラクターの創作はどちらがむずかしいか、芸術においてどちらが重要かという問いかけは、分け方そのものがおかしい。そのふたつは本質的には同じものだから、比較するのは論理的ではない。プロットはキャラクターであり、キャラクターはプロットである。ふたつはストーリーという一枚のコインの裏表だ。 作家が人生で学習や経験や想像を重ねて集めた知識の切れ端やかけらは、すべて潜在意識のなかで渦巻いている。有能な右脳はそうした断片を無作為にふたつ拾いあげて、そのあいだにつながりを見出すことで両者をひとつにまとめ、それを左脳へ渡して利用できるようにする。しかし、そのせいで作家にとっての永遠の問題が浮かびあがる。創作に使えるのはすでに心にあるものだけなので、考えてもいないことから作品が生まれることはけっしてない。 知識や経験が少ないほど、自分の才能が独創的なものを生む可能性は低い。逆に、理解や洞察が深いほど、新しいアイディアを見つける可能性は高い。ごく短い作品なら、才能があれば知識がなくてもなんとかうまく描けるかもしれないが、複雑な長編を書くためには幅広く深い知識が必要だ。 魅力的だがなじみのないキャラクターを思いつくと、急に自分の知識不足を実感するものだ。知識がじゅうぶんになることなど、ぜったいにない。実力以上の才能を発揮するためには、知識による嵩あげが不可欠だ。作家は偽善者でも文学界の詐欺師でもなく、広く深い理解力と、真実を狙い撃ちする頭脳を持った人物である。作家は唯一無二のキャラクターを書くために想像力を調査で補強する。 あらゆる執筆作品は自伝的なものだ。内からあふれ出る珠玉の即興も、外から訪れる着想のきっかけも、すべてあなたの心、あなたの想像力、あなたの感情のフィルターを経て紙へたどり着く。ここで言いたいのは、キャラクターがあなたの分身だということではなく、自己認識がキャラクターを創作するうえでの根幹となるということだ。 あなたのことを広く知っているのは、自分自身だけだ。客観的に観察できる主観は、あなた自身の主観しかない。自己と会話するときも、自分の内なる声を相手にするしかない。あなたは自分の心という独房に住んでいて、他者とどれほど長く親密で個人的な付き合いをつづけようと、その内面で何が起こっているかを知ることはけっしてできない。推測はできても、知るのは無理だ。 知ることができる自己は自分のものだけだが、それすら限界がある。自己認識は自己欺瞞によってゆがめられるから、自分自身のことについては、思うほどには理解していない。自己認識は完璧ではなく、さまざまな面で不正確だ。とはいえ、あなたにはそれしかない。 では、自分のことすら部分的にしか知らず、他者についてはほとんどわからない状態で、どうすれば独創的で複雑なキャラクターを作れるのだろうか。こう問いかけるといい――「もし自分がこのキャラクターで、こういう状況に置かれたら、何を考え、感じ、おこなうだろうか」と。そのあと、自分の素直な答えに耳を澄まそう。その答えはつねに正しい。あなたなら、人間らしくできるだろう。自分の謎めいた人間性をより深く見通すことで、他者の人間性もより良く理解できる。 人々のあいだには明確な違い――年齢、性別、人種、言語、文化のちがい――があるものの、似ている部分はそれよりずっと多い。われわれはみな人間で、人としての基本的な経験は同じだ。だから、自分が心のなかで考え、感じていることは、前から道を歩いてくるすべての人々もそれぞれの形で考え、感じている。 書くことは人生を探求することだ。作家は船乗りのように自分のストーリーの海へ出航するが、どこへ向かうのかも、たどり着いた先に何があるのかもよくわからないままだ。それどころか、水平線の向こうになんの驚きもなければ、使い古された航路を進んできたことになる、新たな進路をとる必要が生じる。 やがてクライマックスの転換点で、登場人物と出来事が結びつく段になって、作家は自分のストーリーの意味を理解する。言い換えれば、ストーリーが作家に理解をもたらすのであり、作家が物語の意味を決めるわけではない。では、その意味とはなんだろうか。 古代の神話から現代の風刺小説まで、巧みに語られたストーリーが共通して表現しているのは、人生はどのように、そしてなぜ変化するのか、という重要な問題だ。それは、ストーリーの核となる価値要素をマイナスからプラスへ、あるいはプラスからマイナスへ変化させるような根本的な原因から生じるもので、人間の本質について語られた無数の物語にある、憎しみから愛へ、愛から憎しみへ、自由から隷属へ、隷属から自由へ、無意味な人生から有意義な人生へ、有意義な人生から無意味な人生へ、といった重大な変化が起こる。作家がストーリーを追求していくと、社会の内奥や登場人物の潜在意識に隠れていた原因が突如として明らかになる、キャラクターの深みが生まれる。それは作家が即興でしか見いだせないものだ。 しかし逆に、作家がある信念から出発して、それを証明するためのプロットや登場人物を作りあげると、自発性は柔軟さを失い、予想通りのものしか発見できない。信念に固執する作家は、自分の主張を証明したいという燃えるような熱意ゆえに、ストーリーを図解入りの講義へと、登場人物をただの代弁者へと変えてしまう。これは中世の道徳劇のような古くさい手法だ。中世の道徳劇では、普遍的な人間やありふれた人間を主人公にして、それを取り巻く役者たちに、美徳と悪徳、慈悲と悪事、美と知識、生と死といった概念に出くわす場面を演じさせた――すべては道徳心のない人間を啓蒙するためだ。 アイデイアからストーリーへと逆行することは、昨今の社会派ドラマの残念な傾向だ。このジャンルは、貧困、性差別、人種差別、政治腐敗など、社会に蔓延するさまざまな悪弊からテーマをとっている。 外側から書く場合の最後の取り組みとして、こんなことをしてみよう。自分が書いたキャラクターと向き合ってすわり、自己紹介をしたあと、相手に身の上を語らせる。もちろんキャラクターは実在の人物ではないから、声を聞くことができるのはあなたの想像力だけだ。つまり、自分が作りあげた自己と会話をすることになる。 身の上話は、その人物が自分の人生についてどう考え、自分を取り巻く現実をどう見ているかを表現するものだ。最良のとき、どん底のとき、転換点、成功、失敗、その他の重要な瞬間について尋ね、キャラクターの身の上話を引き出そう。キャラクターが自分について語る話はほとんど事実ではないが、自分をどう見ているかがはっきりと見てとれる。その説明が真実なのか嘘なのか、あるいは両方が混じったものなのかは、あなたが判断しなくてはならない。 キャラクターが話すとき、忘れてならないのは、自分自身についての発言はすべて自分にとって都合がよいものだということだ。人間にはそれしかできない。たとえば、一人称代名詞ではじまる台詞は、深遠なものであれ、些細なものであれ、すべてある程度のまやかしや誇張が付き物だ。登場人物が悪行を告白するときでさえ、言外には「おのれの欠点を見つけ、人前でそれを認める勇気があるなんて、自分はなんと繊細で、正直で、聡明な人間だろう」という多少の自画自賛があるものだ。シェイクスピアの『ハムレット』で主人公が「ああ、わたしはなんというやくざか、卑怯な男か」と自分を罵るときですら、自己認識に対するある種の誇りが含まれている。 どんな場合でも、自分について語る内容には、見かけとちがって、字面通りの意味を超えた目的がある。真実かでたらめか、自己認識か自己欺瞞か判断でできるかどうかは、あなた自身にかかっている。キャラクターが話すことと、それを聞いて自分が感じたこととを、つねに比較しなくてはならない。 どんな人間も見かけどおりではない。だれもがみな表向きの人格(ペルソナ)を身につけている。それは、できるだけ摩擦を起こさずに日々を乗り切るために考え出した仮面だ。その仮面の下を見るためには、最大のジレンマ、難局でおこなった選択、重大な危機に直面したときにとった行動について、あなたのキャラクターに問いかけるしかない。 たとえば、原因と結果が一致し、変わらぬ目標をめざす価値観が伝わる身の上話からは、しっかりと落ち着いた心境のキャラクターが浮かぶ。一方、原因と結果が一致せず、複数の矛盾した目標をめざすような一貫性のない身の上話では、その反対だ。 内なる矛盾が、そのキャラクターに多面性を与える(第9章参照)。だから、キャラクターの身の上話を聞くときには、心に秘められた矛盾に注意するといい。人はしばしば、共存できないふたつのものを求める。たとえば、出世の階段をのしあがる一方で、同僚からのあたたかい激励を期待する。無茶な話だ。キャラクターが人生で望むさまざまなものを語るとき、それは首尾一貫しているか、それとも矛盾しているか、どちらだろうか。 そこで理由を問いただそう。キャラクターの真の動機は潜在意識のなかにあるものだが、それでも、自分が望むものを得るために揺るぎない正当な理由を示そうとするはず。あなたは大人を質問攻めにする五歳児のように、しつこく理由を尋ねなくてはならない。なぜその行動をとるのか。自分の行動をどう説明するのか。何を求めているのか。求めるものを手にするためにどんな計画があるのか。人生の戦略をもう立てているのか、それとも行きあたりばったりに動いているのか。 最後にどんな信念か尋ねよう。信念は人間のすべての行動の裏づけとなるものだ。神の存在を信じているのか。ロマンティックな恋愛が存在すると信じているのか。善とは何か、そして悪とは何か。信頼している組織はあるのか。それは民間のものか、公的なものか。そんなものはないのか。命を懸ける対象はあるのか。自分の世界を作りあげているのはどんな深い信念なのか。 信念は行動を形作るものだが、突然変わることもある。たとえば、狂信者がイデオロギーを覆して対立側に加わること――共産主義者がファシストになり、ファシストが共産主義者になること――は珍しくない。本物の信者にとっては、信じることの意味よりも、信じる情熱のほうが重要だ。 こうして得られたものから、キャラクターの立体感や内面の複雑さを作りあげるための着想を得てもらいたい。 人間は社会的動物として、他者に与える自分の印象をうまく切り回す必要がある。そのために、人間は実にさまざまな役割を演じている。進化論の視点から考えると、ひとりで何役もこなすこうした独演会の目的は、他者とうまく付き合うこと、成功すること、異性をつかまえることだ。生き延びるためにはすぐれた演技が必要だったので、われわれの祖先は創意工夫を重ねて、模倣と表現のための完璧な技術を進化させた。つまり、人間は古代からずっと何かを演じてきた。 これは、われわれが不誠実だということではない。状況の変化に応じて、ひとつの自己から別の自己へ微妙に変化することを常識としておこなっているにすぎない。神父と告解者、上司と部下、妻と夫、他人同士など、そのときどきの関係に合わせているわけだ。人間は、子供のように、恋人のように、さらには洗練されたニューヨーカーのようにふるまうことができる。その三つを同時に演じることも可能だ。 役割がひしめく銀河を一周したあとは、それぞれのキャラクターに命を吹き込む必要がある。この章では、はじめから継続して強い印象を読者や観客に与える、生気あふれる社会的・個人的自己の組み合わせについて探っていく。表向きのふるまい、行動パターン、性格の特徴を寄せ集めたものが、その役柄の性格描写となる。 創作活動を整理するために、複雑なキャラクターを性格描写と実像というふたつの側面に分けて考えてみよう。 実像とは、内なる自己――中核の自己、行動する自己、隠れた自己――の総体であり、目に見えない心のなかに住む。これについては、つぎの章でくわしく取りあげる。 性格描写とは、社会的自己と個人的自己の組み合わせであり、目に見える特徴と推測できる特徴の総体である。こうした自己を通して表現される多くの特徴を発見するのは、困難で想像力を要する。そこで、自分のキャラクターを二十四時間つねに追いかけてみよう。やがて、名前、年齢、性別、家とその調度、職業とそれによって得られる生活など、はっきりとした特徴が見えてくる。身ぶり、顔の表情、声の調子、雰囲気、たたずまいなど、ボディランゲージの基本もわかるだろう。 キャラクターのことばに耳を傾け、人との接し方を注意深く観察することで、能力や知性、信念や態度、気分や希望など、内在する特徴を感じとることができる。それこそがキャラクターの表向きの姿であり、世間が見ている姿だ。 作家が最も恐れることはなんだろうか。読者や作品を退屈だと思われることだろうか。自分が描いたキャラクターがきらわれることだろうか。アイディアに賛同してもらえないことだろうか。どれもありうる。だが、最大の恐怖は不信感ではないかとわたしは考える。 キャラクターの行動に疑問を持ち、ストーリーに興味を失った読者や観客は、「あの女性があんなことをするはずがない」などと考え、本を投げ出したり、リモコンで電源を切ったり、劇場の出口へ向かったりすることになる。 信頼性を持たせることは性格描写からはじまる。読者や観客は、キャラクターの精神的、感情的、身体的な特徴と、発言、感情、行動とのあいだに納得できるつながりを感じたとき、ストーリーに引きこまれていく。納得できる性格描写あれば、どれほど奇想天外な筋立てであっても、読者や観客は現実であるかのようにその世界に浸ることができる――ハリー・ポッターとルーク・スカイウォーカーはその代表的な例だ。 どの程度の特徴を書きこむのがいいのか。視覚芸術においては、何もないキャンバスを0、完全に書きこまれたキャンバスを1とすると、最も見やすい密度は0.3、つまり三割が埋まった状態だ。これはキャラクターにもあてはまるだろう。主人公の七割の部分は謎のままにしておくといい。作者が書いた三割の部分をもとに、読者や観客が残りを想像力で埋めていく。登場人物の特徴をすべて書きつくすと、話が長くなりすぎて役柄が理解しにくくなり、読者や観客の手に負えない。一方、特徴がたったひとつ――たとえば外国語訛り――しかないと、キャラクターは脇役へ追いやられる。 個別のキャラクターについて、どの程度の特徴があるのが理想かは、作者にしかわからない。その特徴が必要かどうかは、取り除くことでどの程度の変化があるかで決まる。特徴を足し引きしたい場合は、「取り除いたり付け足したりできるものがあるとしたら、それは何か」と考えてみることだ。 キャラクターの社会的自己と個人的自己が結びついて生み出されるのが、表向きの姿である性格描写だ。一方、内的自己と隠れた自己から生まれるのが、内なる姿である実像だ。あるキャラクターにはじめて出会うとき、われわれはその表向きの顔の奥にある内面へ無意識に目を凝らし、初対面の人間に対してつねにいだく疑問――ほんとうはどういう人間なのか――の答えを探す。キャラクターが対立や葛藤のなかで行動を起こすとき、その答えが見えてくる。 希望に満ちたときにキャラクターが選ぶ行動は、表現するものがほとんどない。何も犠牲にしていないからだ。しかし、絶望的な状態にあるとき、敵対する強大な力に直面したとき、最大の危機にさらされたときにとる行動は、真実を明らかにする。ほんとうはどんな人間なのか。正直なのか、嘘つきなのか。愛情深いのか、冷酷なのか。寛大なのか、利己的なのか。強いのか、弱いのか。衝動的なのか、冷静なのか。善なのか、悪なのか。人に手を差し伸べるのか、邪魔をするのか。励ますのか、懲らしめるのか。自分の命を投げ出すのか、人の命を奪うのか。どれが本当の姿なのだろうか。 もちろん、キャラクター本人がそのように自問することはない。他者が自分をどう思っているかと推測することはあるだろう。自分の潜在意識で何が起こっているかと思いをめぐらすこともあるかもしれない。だが、すべてを知っているのは作者だけだ。キャラクターの創造主である作者は、そのキャラクターの社会的自己、個人的自己に精通し、キャラクターが自分自身のなかの直視できないものから身を隠すために使う、あらゆる自己欺瞞の手法も知りつくしている。 「どんな人間なのか」という問いに答えるために、作家はキャラクターの内なる世界の自覚的思考と、潜在意識下の隠れた衝動を融合させる。やがて、試行錯誤と即興を繰り返したのち、ふたつの自己が融合して、これ以上削れない実像が作りあげられる。 あるキャラクターの内と外の性質が結びついて、ひとつの機能を形作ると、その役柄は類型的なものになる。看護師、警察官、教師、スーパーヒーロー、悪役、相棒などだ。一方、矛盾によってひとつにまとまった役柄は、完全で複雑さを具えた魅力的なキャラクターとなる。相反するものが対立要素を形成するのだ。 多元的なキャラクターが我々の好奇心を刺激するのは、ひとりの人間のなかに矛盾したふたつの側面が存在するからだ。それによって予測不可能で魅力的なキャラクターになる。それは一瞬ごとに、どんな面が表れるのだろうかと思わせる。 ストーリーテリングの技巧には、作家にルールを強いるものはない。ジャンルは指示を押しつけるものではなく、伝統の慣例通りに型にただ従っている。音楽や絵画と同様に、読者や観客は気に入ったジャンルを見つけ出し、その型を期待して楽しむようになる。もちろん、同じ体験をまた味わいたいのだが、毎回変化を求めてもいる。 たとえば、そうした出来事が起こりうるジャンルはこの三つだ。 1 犯罪ストーリー (a)犯罪が実行される。(b)犯罪が発覚する。(c)主人公が犯人の特定、拘束、処罰をめざす。(d)犯人が罪の発覚と処罰に従う。(e)主人公が正義を取り戻す場合も、取り戻さない場合もある。 2 ラブストーリー (a)恋人同士が出会う。(b)ふたりが恋に落ちる。(c)強い力がふたりの恋路を邪魔する。(d)ふたりがその力に立ち向かう。(e)ふたりの愛が勝利する、あるいは破綻する。 3 啓発プロット (a)主人公が実りのない人生を送っている。(b)むなしさと無意味さがのしかかるが、なす術もない。(c)主人公が「指導者キャラクター」と出会う。(d)そのキャラクターが主人公を導いたり励ましたりする。(e)主人公が新たな理解を得て、人生に意味と目的がもたらされる。 法廷がどのように犯罪を定義づけるか、家族がどうやって恋愛を応援したり邪魔したりするかは、時代によって変わる。社会の通念が変化するとき、ジャンルにおける約束事は、そういった変化を表現するために新たな方法を生み出す。身の回りの変わりゆく世界に敏感な作家は、このような約束事を維持したり、削除したり、再発明したりする。だが、どんな発明も一般の人々の期待を見こむ必要がある。読者や観客は、それぞれ気に入ったジャンルに愛着があるので、約束事を曲げたり破ったりするなら、ストーリーに斬新で明解な意味や感情を加えなくてはならない。 適切に理解されたジャンルの約束事は、表現を制限するのではなく、むしろ可能にする。ラブストーリーは、恋人同士が出会わなければはじまらない。犯罪ストーリーは、犯罪が発覚しなればはじまらない。啓発プロットは、主人公が不幸で不満をかかえた人生を送っていなければはじまらない。約束事がなければストーリーの技巧は存在しない。 ジャンルは、大きくふたつに分類できる。 1 基本ジャンル キャラクター、出来事、価値要素、感情による分類 2 形式ジャンル 喜劇か悲劇か、散文的か詩的か、実話かファンタジーか、表現の形による分類。 基本ジャンル ①自己対自然(物理的葛藤) ②自己対社会(社会的葛藤) ③自己対親密な人物(個人的葛藤) ④自己対自己(内的葛藤) 十六の基本ジャンル 十の運命プロット ①アクション ②ホラー ③犯罪 ④恋愛 ⑤ホームドラマ ⑥戦争 ⑦社会ドラマ ⑧政治ドラマ ⑨モダン・エピック(ファンタジー) ⑩出世 六つのキャラクタープロット <道徳プロット> ①贖罪プロット ②堕落プロット <心理プロット> ③啓発プロット ④幻滅プロット <人間性プロット> ⑤進化プロット ⑥退化プロット 十の形式ジャンル ①コメデイ ②ミュージカル ③SF ④歴史 ⑤ファンタジー ⑥ドキュメンタリー ⑦アニメーション ⑧自叙伝 ⑨電気 ⑩ハイ・アート(芸術映画・実験演劇) どのシーンにおいても、キャラクターをつき動かすのは現在と未来のふたつの欲求だ。登場人物は、(1)即時に効果があること(いま起こって欲しいこと)を望むが、(2)長期的な野望(人生のバランスの調整)へ向かって一歩を踏み出すためのものだ。現在の望みがかなわなければ未来は暗転し、実現すれば人生は上向きになる。俳優たちは、自分たちが演じる当面の欲求をシーンの目的、全体の願望を究極の目的と呼んでいる。 転換点を中心にシーンを構成するには、まず主人公の目的、つまり、究極目標へ向かうステップとしていますぐ達成したいことを見つけ出す必要がある。そして、その直近の目的を念頭に置き、主人公の視点に立ってアクションを起こさせるといい。 善のバランス マリオ・プーゾ脚本の『ゴッドファーザー』三部作を考えてみよう。ギャング、悪徳景観、汚職政治家といった犯罪の世界を描いた作品だ。しかし、コルレオーネ一家にはひとつのプラスの資質、すなわち忠誠心がある。一家は結束し、互いを守る。裏切りの連鎖のなか、ほかのマフィアファミリーは卑劣なやり口で互いを陥れるので、「悪い悪人」となる。一方、ゴッドファーザーの一家は忠誠心があるので、「よい悪人」だ。そのプラスの資質を感じると観客は共感を覚え、コルレオーネ一家に同化する。 善の中心はさらに深く考察するために、トマス・ハリスの小説『羊たちの沈黙』の人物設計を見よう。読者は主人公のクラリス・スターリングに共感の中心を見いだすが、「一番目の円」に属するハンニバル・レクターにも共感する。作者のハリスはまずレクター博士を穢れた世界で取り囲む――FBIはクラリスを操りながらレクターにも嘘をつき、施設の精神科医と看守はサディストで世間の注目を浴びるのを好み、レクターが殺す警官たちは愚か者ばかりだ。ハリスはつぎに、レクターの内側から放たれる強烈な光を描写する――レクターはきわめて知的で、クラリスに同情を寄せ、辛口のユーモアは痛快で、みごとな計略を立て、それを冷静沈着にやってのける。地獄のような施設に収容されているのに、驚くほど落ち着いて紳士的である。レクターのなかに善の中心が形成されると、読者はレクターと自分を重ね合わせ、こんなふうに考えて肩をすくめる。「だからレクターは人を食べるんだ。世の中にはもっとひどいことがある。すぐには思いつかないが、きっとあるに違いない。もしも自分が異常者で、人肉を食う連続殺人鬼なら、レクターのようになりたい。すばらしい男だ」
0投稿日: 2025.06.19
powered by ブクログ物語造りにおいて、おそらくとても大事なことが書いてあるのだろう。しかし難解過ぎて字面を追うだけで内容が全く頭に入ってこなかった。
0投稿日: 2023.12.20
powered by ブクログレビューはブログにて https://ameblo.jp/w92-3/entry-12793226938.html
0投稿日: 2023.03.11
