
総合評価
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powered by ブクログユング自身の文章を各書、各論文、自伝、書簡から引用し、テーマ別に編集した本である。ユング自身の本が読みたいにもかかわらず、何から手を付けるべきか分からない読者にとって、本書は非常に有用である。色々調べたが、ユングには「包括的な主著」と呼べるものはなさそうだ。編者によるやや長い『序』と、ユング自身の文章の直前に付された短い解説が理解の役に立つ。自伝からの引用もあり、理論の発展とユング自身の問題意識の結びつきを知ることができるのも優れている。 特に、フロイトを読んでみて、無意識を扱う深層心理学に衝撃や感銘を受けながらも、全てを性の欲動に還元する点に納得できなかった人に読んでほしい。そういう人が読みたかったものが、ここに書かれていると思う。フロイトの精神分析は理解に苦しむ汎性欲論であり、それにもかかわらず広く知られている。同じくらいユングが知られてもよいと思う。 ユング心理学の一貫したテーマは、編者の言葉を引用すると『精神衛生が人格の調和によってもたらされ、精神疾患がその不調和によって特徴づけられる』ことである。またユングは自身の立場を『心的なものはそれ自体、一つの現象界であって、脳にも形而上学にも還元できないものである』という言葉で端的に表明している。 『コンプレックス』が『比較的高度な自律性』を持つという指摘は示唆的で、そうであれば『自我』と『コンプレックス』の間には量的な差異があるだけで、質的な差異はないということになる。こう考えると、統合失調症のような極端な事例はもちろんだが、ごく健常な心にも、不可解な感情や記憶の連想のような事例があることも理解できる。 随所に見られるフロイト批判は説得的である。私もフロイトを読んだとき、多くの人と同じように、症状の全てを性的欲動に還元するのは無理があると感じた。フロイトの患者層であるウィーンの神経症の女性たちにはよくあてはまる理論だったのだとは思うが、それで統合失調症まで説明できるとは思えない。 『集合的無意識』と『元型』については、なかなか受け入れられない人が多いのも理解できる。神秘的な雰囲気に胡散臭さを感じるのだろう。しかし私は妥当だと思った。世界各地の神話の共通点を見るまでもなく、人類の思考や感情に一定の傾向があるのは事実だ。歩き方はみな同じ、走り方はみな同じ、それと同じことではないだろうか。私はここで「フロイトが唯一認めた元型がエディプス・コンプレックスである」という理解も可能だと思った。『影』は人格の否定的側面であり、不快な性質をもったものの集合であり、自分を知るうえで欠くことのできない本質的条件である。これがフロイトの想定する無意識に相当する。『ペルソナ』は外部に向けられた仮面である。より深い無意識の層に、外的な態度を補償するものとして、男性にとっての『アニマ』、女性にとっての『アニムス』があるとされる。そこには『意識的態度に欠けているものすべて』が含まれている。両性の関係について、『アニマ』(または『アニムス』)の投影が問題になるときに、『激しい愛の対象となったり、あるいは逆に憎しみや恐怖の対象』となるような、『熱烈でほとんど魔術的とも言えるような関係』が存在するという指摘は、非常に考えさせられる。それは『彼のたましいの投影を躊躇することなく引き受けることのできる』相手であるとされるが、いわゆるファム・ファタールがこれだろう。 『タイプ論』は、もしかしたら普通の人に最も分かりやすい部分かもしれない。少し前に流行したMBTIの理論的基礎である。ユングの書き方は『内向』タイプに肩入れしているように見える。これはユング自身が『内向』タイプだからだろう。『タイプ論』の目的は、安易に人を分類することではなく、自身の劣化機能を正しく認識し、対人関係における過ちを回避することである。このあたりの考え方は受け入れられやすいだろう。 『個性化』についての記述には、ユングの目的論的な考え方が分かりやすく表現されている。人は『個性化』プロセスにおいて、無意識の内なる声に耳を傾け、それを統合し、人格を発展させ、意識の新しい水準にて問題を乗り越えなければならないと主張される。そのようにして、真の人格、あるいは人格の全体性が達成される。ユングはこのプロセスを、民衆からの逸脱を恐れないごく少数の者の企てとしているが、このあたりの感性はニーチェに近いのかもしれない。 キリスト教、グノーシス、錬金術に関する記述は極めて理解しにくい。私が思うポイントは2つである。(1)ユングはそれらの概念を、個性化プロセスおいて現れる諸象徴を含む心的現実として理解している。(2)ユングはそれらの心的現実としての側面のみを扱っているのであり、実在するしないについては何も判断していない(と本人が主張している)。しかしながら(2)については、ユング本人の文章を読むと、どうしても実在として扱っているとしか思えないような部分も多々ある。心理学者として書く姿の後ろに、信仰者としての姿が見えるように思う。とりわけユングが重要だと考えた、1950年の聖母被昇天の教義については『宗教改革以来もっとも重要な宗教上のできごと』だと評されている。ユングによれば、それは三位一体に代わる『四位一体』であり、『ヒエロスガモス(聖なる結婚)』であり、『神の受肉プロセスの継続』であり、民衆の『敵同士の間に平和をもたらす調停者』を待ち望む気持ちの現れであり、『集合的無意識』の作用と『個性化』プロセスを象徴するものである。私はこのような部分に、信仰者の情熱を感じるのである。 『共時性』、いわゆるシンクロニシティ、つまり意味ある偶然の一致においては、『物質的性質とこころの性質を同時に兼ね備えた未知の基層』、『こころと相関関係をもつ時空間連続体』が仮に想定される。そのようなものがあれば、確かに『共時性』と呼ばれる現象の理解は容易になる。しかし、私にはそれを素直に肯定できないことも事実だ。 最終章では社会状況についての論評が置かれている。これは1957年の公刊で、ナチスの記憶と冷戦による世界の分裂、核の脅威を念頭に書かれたものである。ユングという精神科医による時代の診断は、最近読んだアーレントによる説明よりはるかに説得力を持っているように感じ、この本の中で一番の驚きだった。ユングの主張を要約してみると次のようになる。 西側は混沌とした方向喪失感に脅かされた世界、東側は自由が完全に放棄された世界である。科学的合理主義は、概念的な平均値では表現されない個人の尊厳を見えなくする。一見正常ながら『無意識』の影響により病理的で逸脱した要因を持った人たちが、他の大勢の正常の人々の潜在的な動機や憤りを表現する。意識が危機的状況にあるとき、『無意識』は活性化されるのである。彼らが感染源となり、集合的な憑依現象が引き起こされる。個人の道徳的責任は国家政策に取って代わられる。高位の人々ですら、自身のつくり上げたフィクションの奴隷となる。排除された宗教の位置に、国家が取って代わり、救済を約束する。善と対をなす悪は人間性そのものの中に存在し、『無意識』のままになっている。その悪を他者に『投影』して、恐ろしさをただ増幅させている。このような集合的抑圧に抗することができるのは、『個性化』された個人だけである。『自我』は、恐怖感を引き起こしかねない『無意識』の諸要因を経験し、それを知り、そうして自分自身を知らなければならない。『無意識』の『時代精神』が、意識の一面性を補償してくれることが期待される。 ユングは『幸せと満足、こころの平安、生活の意味と充実、こういったものは国家が経験することではなく、個人にしか経験できない』と書いている。これはそのとおりだろう。だからこそユングは、国家や集団よりも、個の絶対性を手放さないことが重要だと主張するのだ。
1投稿日: 2024.11.29
powered by ブクログ私はストー著の「ユング」という本も読みましたが、その中でストーはユングの「タイプ論」や「共時性」などを批判していました。 このエセンシャルユングでは、批判的な感じは見受けられず、ユングの文献から重要な文章を選出して解説することに専念しているようです。素人がユングの長文を読む機会はないと思うので、その点では、貴重な本だと思います。 (これは当然ですが)河合隼雄さんの本によく出てくる話の元ネタが、ユングだったことが随所でわかります。 河合さんがよく「自分はなんにもしない、話を聞いているだけで、患者は自然に治っていくんや」と言いますが、これは河合さんが体験的に学んだことだとは思いますが、ユングも「私は理論的な見解はすべて避け、単に患者が自分自身で夢のイメージを理解しようとするのを援助し、そして法則とか理論は適用しないように努めた」と同様のことを述べていました。 最後の8章は人類を滅ぼすことが可能な核爆弾の解釈について言及しています。ユングが人類の未来の社会論まで述べていたとは知りませんでした。 また、「精神的でない性質をもって顕現するもののなかに、精神的性質が潜在していることを信じる「十分な根拠」がある」などと「量子もつれ」のような話題が出ていたのには驚きました(実証されたのは2022年でつい最近なのに)
0投稿日: 2024.10.04
