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ツイッター哲学 別のしかたで
ツイッター哲学 別のしかたで
千葉雅也/河出書房新社
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総合評価

6件)
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     TwitterがXに改名されてから、本書を手に取った。  読み終えてXをインストールした。  書き手の語る3,11以前の、“牧歌的でアングラな”「ゼロ年代」のTwitterは知る由もなく、“ストレスフルな”空間にダイブする。  何というか、自分でも書いてみたくなった。  多分だけど、牧歌的だったTwitterは、それぞれが読者を想像して書いていなかったのだろうと思う。  それぞれが自分の畑に種を蒔き(ツイートし)収穫を吟味し、たまに誰かが通りすがりに見ていく。   だが、長閑だったTwitter村も、都市化を迎え、約束された混沌に飲み込まれていく。  参加者の拡大と政治化が相互作用的に働き、プロモーションなる広告塔が乱立。  パンパンに膨れ上がった密度がご近所トラブル的な炎上を発生させる。  いわゆる"市民"が、話題やトピックという街を作り、積極的な市民活動を開始。  ハッシュタグやリツイート、引用、リプライ。 人口に対して、警察官も行政も少なすぎる無法地帯で、誹謗中傷、強姦、強盗が多発する地帯に早変わり。  著者のゼロ年代Twitterへの郷愁が悲しいほどに伝わってくる気がする。  まるで都市開発に飲み込まれた、一軒家のように、既存ユーザーは迷惑を被っていると言わんばかり。  最後には立ち退きを強制されなければいいが。  難点もあるが、やっぱり現実とは隔離されたひとつの空間であることに変わり無く、その利点は大きい。  年月日何時何分までが記載される、一連のセルフメディアもとい土地としては魅力的だ。  他者と近づく機能から離れて使うことにしてみる。(乱痴気騒ぎも鍵のかかった部屋には入れない)  フォローなし。何というか、電子的で私的でリアルタイムな雑記みたいな感じ。  高級ホテルのスイートルームや、過疎地体に立てたアトリエに住むように。      書き手のツイートは、詩のような軽やかさで、きっと、紙で読むのに近い温度を持っている。  リプライを使った紐付けもあるが、基本的には散文。  だからこうして書籍化されたのかな。    Twitterから書籍へ。その流れが素敵。  「別のしかたで」の実践は口に出すよりもずっと難しいなぁ。  「一旦そうであること」にしたことについて、蒸し返して考える暇というか余裕は、ほとんどの人に用意されてない。  それに、思考的にも身体的にも移動し続けないような環境下で、次の〈固定〉へと次々飛び移って行くのを強制されている。  マリオの左画面が消えていくステージにいるようなもの。ほとんどの人は激しいスクロールの波に身動きが取れない、けど結果的に移動させられているという状況。  そうではくて、今の認識の別のあり方を考えるには、動く歩道で、逆走しながら反対に向けて出力しなくちゃいけないみたいだ。  そんな社会では何が起こっているのか。  問題が埋まった上を、環状線が走っており、問題は解決はおろか発見もされない。  ある分断と接続の仕方で固定され、個人の生成変化が止められる。  著者の男と女の枠組みがほのいい例だも思う。  “「男と女」というフレームがないと安心できないんだろう。そこが問題(p,171)”    同性愛のカップルに男役と女役がどちらかと見るのは、そのふたりの間にある複雑なメモリを削り取ってしまう。  寧ろ多様さを保つために数多くあった接続可能な切断面が、この大きなフレームで切り取られなくなってしまった。  LGBTは切断して社会的に抹殺した、点としてのマイノリティーセクシャルに限定的な市民権を与えようという動きに見える。  ただこれも、部分としての組替えであって、ひとつの措置の範疇に留まっている。  メモリを引き直し、男、女、レズ、ゲイ、バイ、トランスとどんどん種類を増やして、それに対応するシステムを構築することはしても、結果男と女という根本構造の変化はしない。  差別の上に違う差別が乗っかるだけ。  これを本書の別例で言えば、初代Macintoshだ。それだけで完結できる仕組み。  閉鎖的で、排他的。円環的。  対するappleⅡは接続、拡張媒体。  社会に例えると、持続可能なのは後者だろうか。  その後macはOSを使って、拡張機能を手に入れている。  光速のアップデートで、何が問題だったのか、問題に触れる機会を失い、問題は周知されず、別の形に変形されるか、なかたことにされていく。提起も議論ももはやユーザーの手を離れ別の次元に引き上げられる。(ユーザーが引き落とされたと言ってもいい)  電波の加速は止まらず、頸をつけられたユーザーは引きずり回され続けている。    だから動きすぎてはいけないを、自分なりにアップデートすると、動かされすぎてはいけないになるのだろう。  すると、問題になるのが意識だ。  意識は連続的であろうと、常にプレッシャーをかけてくる。  非連続的の存在の実態とはかけ離れて。  実際に、自分は生成変化の流れから外れることはないないので、変わってく自分を別のしかたでパッケージし(捉え)直すことを恐れないというのはどうだろうか?    だけど、変わりたくないと現状維持を望む(変化を嫌う)意識が、加速する社会の循環運動に奇跡的にマッチして「別の仕方での接続と分断を阻む」のが現状だろう。  とすると動かされないためには、結果的に手足脳を動かすことになる。結果として、動きすぎていない状態になる。    そこで著者は外部=他者性を登場させた。  今を強制的に変えてくれる外部のことだ。  “別のしかたでの諦めへと、許しへと、旅立つことができる(p,11)”  ここで言う去勢=切断は、ワープに近い気がする。    形式からの離脱。  雑に書く、リゾーム状に書く。  形式から外れる。  従来の一直線、一方通行では生まれてこなかった有機性に出会える。それは生成変化=別の仕方を積極的に促す方法論じゃないか?  「仮である」ことを一旦受け入れて、世界を仮化していきたい。  接続と切断の在り方をいじり、分解して、別のものどうしを異なる文脈に入れてみる。  そのためのアトリエとしてのTwitter、もといXとして活用したい。  『動きすぎてはいけない』も読んでみよう。  

    5
    投稿日: 2023.09.29
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    私の学力の問題が大きいと思いますが、正直何を言っているのか分からないところもありました。 でも千葉雅也さんの感覚なので、無理に分かろうとはしなかったです。分かるものだけを吸収すればいいかなと。 私は「〜するべきだ」って表現が嫌いです。未来なんて誰にも分からないし、私のことを想ってくれているような口ぶりで、道を外れないように今あるレールに乗せる。それによって自分を守る大人が使っていたからです。 でも気づかないといけないのは、無意識に自分も誰かに使っていること。後輩とかに「絶対そっちの方がいいよ」っていうのも「〜すべきだ」の言い換えになる。 言葉をどう捉えるかは人それぞれ。 だから大切に紡がないといけないって再認識しました。

    7
    投稿日: 2022.01.19
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    ツィッターは、人が目一杯喜んだり、怒ったり、疲労困ぱいする場。人の生き様の断片が現れる場。それが好きという筆者の気持ち、なんか分かるかも。 本文中に引用されてるツイートが面白くてつい読んじゃう。 ツィッターを見てネガティブな気持ちになることが多かったけど、この本を読んでそうでもなくなった。

    5
    投稿日: 2021.02.08
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    2009年から約10年間の著者のツイッター投稿からの選集。文庫化を機に2014年の単行本刊行以降のツイートが加えられ、メインタイトルとサブタイトルが入れ替わっています。序文も文庫版向けの内容となっています。巻末の解説は著者と同じく、立命館大学大学院先端総合学術研究科所属で哲学者の小泉義之氏です。 本文は選ばれたツイートを10のテーマに分類して章立てられています。ところどころ、その後の著者の心境の変化が補足されているのも特徴です。専門的な内容を含みますが(飛ばした)、日常的な話題や出来事を題材にした投稿も多く選ばれていて、そのあたりを中心に面白く読めました。空いた時間に適当に目に留まった箇所を読むタイプの本なので、文庫化が嬉しいです。

    5
    投稿日: 2020.11.21
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    140字(Twitter)にしぼることによって、中身が凝縮されていた。わかる文章なのにわからない、純文学や詩を読んでいる感じだった。

    2
    投稿日: 2020.11.20
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    千葉雅也(1978年~)は、フランス現代哲学及び表象文化論を専門とする、立命館大学大学院教授で、2013年に発表したデビュー作『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で表象文化論学会賞を受賞した、現在注目される現代思想家のひとり。 本書は、2014年に単行本で出版された『別のしかたで~ツイッター哲学』の新版で、元版に含まれていた2009~2014年のツイートに、2019年までのツイートを加え、内容と配列を修正したものである。元版は、配列のせいか、正直なところ雑然とした印象が拭えなかったのだが、新版は、章立てになっていて、とても読み易くなっている。 著者は、「ツイッター哲学」とは「非意味的な有限性の哲学」である、即ち、ツイートは、明確な意味はない140字という制限(有限性)で個体化・輪郭化されるが、それは決定的なものではなく、別のあり方へ生成変化していく途上の「仮の輪郭」に過ぎないにもかかわらず、取り敢えずその輪郭でいいとすることによってのみ成り立ち得るもので、それは、あらゆる行動や思考の元となる、非意味的に切り取られた「仮の輪郭」の典型的なフォーマットのひとつであるという。 収められたツイートは、いずれも著者の思考(哲学)の断片であり、示唆に富むものもあれば、(私から見ると)他愛のないものもあるのだが、私が最も気になったのは、元版にはなかった「はじめに」で、著者が最近のツイッターを取り巻く状況について語った部分であった。 「「ゼロ年代」と呼ばれた時期のツイッターはもっと牧歌的で、アングラなものでした。状況が大きく変わったのは、震災と原発事故、3.11以後でしょう。・・・それ以後ツイッターは、「○○はどうあるべきか」について誰かが何かを言いすぎては「炎上」して批判が殺到し、また再批判が起こり、立場の違いが明確化されていく、というひじょうにストレスフルな空間になってしまった。民主的な政治空間になったのだからいいのだ、という見方もできます。が、僕は、社会のあちこちで分断が過剰に可視化されてしまったと感じています。ツイッターでは、この人がそういう価値観だとは知りたくなかった、というケースが多々起こります。ある時期から僕は、名刺交換代わりにツイッターやフェイスブックでフォローし合うのをやめました。知らなくていいことを知ってしまうからです。・・・ちょっと休憩時間に覗くと、誰か友人が仕事について何か言っている。自分の部屋から出て、茶の間やコモンルームに行くと、同僚がいてちょっと立ち話ができる感じ。他の人が何かに取り組んでいる姿を見ると、もうひと仕事するかという気持ちになる。他の人が飲み始めている姿を見ると、そろそろビールかなと思う。これこそがツイッターです。」 著者のツイッターを使うスタイルを意識しつつ、パラパラ漫画のような、著者の「(人生の)仮の輪郭」を楽しみたい一冊である。 (2020年11月了)

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    投稿日: 2020.11.09