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終わりなき日常を生きろ ──オウム完全克服マニュアル
終わりなき日常を生きろ ──オウム完全克服マニュアル
宮台真司/筑摩書房
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総合評価

48件)
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    宮台はこれで十分 青い鳥になろうという本ではあるがこれに救われた人は少なくはなかったはず 著者の不倫はらしくなく悲しいニュースだった やはりXをするのはよくないと思い自分はXを辞めた Xを辞めたら宮台の説く幸福を手に入れたのはなんとも皮肉な話だが

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    投稿日: 2025.01.21
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    ■ 生き生きとした生命の実感をもたらす決戦のときもない世界。 過ちは永遠に記憶され、絶望は希望に変わらず、未来は単なる今日の延長。 ■ 全面的包括要求そのものを放棄 ■絶対的な善悪がわかりづらい(存在しない)昨今、相対的に善く、まったりと生きる。 ■私たちの課題は、社会の内側で見捨てられる人たちに対して、どうやって承認していくか。 そして、論理なき自由な社会で、共同体的コミュニティを復活させていくか。  

    0
    投稿日: 2023.03.30
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    終わりなき日常の退屈さに耐えかねた若者たちが 非日常を求めてオウム真理教に集い やがてはテロ行為を引き起こすに至った なんでそんなことになったか それは彼らに「終わりなき日常」を生きるだけの 柔軟性がなかったからである …という主張を掲げた本なのであるが それで単純に「終わりなき日常を生きろ」なんて アジテーションに走ってしまうところが まあなんつうか あんたも教祖になりたかったんだろ?って感じです そもそも「終わりなき日常」が錯覚なのである そういうのはサザエさん時空だけだ ビューティフルドリーマーだって要は夢の話だろう 人は年老いて死ぬ 未来惑星ザルドスじゃみんな死にたがってるぐらいさ そこから目を背けて永遠はあるよ、なんて そんなのエロゲーの中だけにしておいたほうがよいと思います 言いたいこと伝わるだろうか 「終わりなき日常」の円環は、人の成熟を無効にする錯覚だ その錯覚に怯えて世界を見失った人々と 錯覚に安住して自分を見失った人々がいた すなわちブルセラとオウムは共にノスタルジア …終わりなき幼年期を生きるものたちだったんですよ じっさいオウムは麻原の入った風呂の水とか売ってたんだし 似たようなもんだろう 作者はブルセラで古着を売る少女たちを特権的存在にしたかったらしく 両者をムリヤリ相対化しようとして 破綻した感がありますね 麻原みたいな奴に純粋な少女が騙されてしまうことへの憤りは そりゃ僕にもあったけどね だからってブルセラ≒売春を美化推奨することは 遅効性の毒と言わざるをえない

    0
    投稿日: 2022.12.20
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    一見、オウム事件についての本かと思いきや…良い意味で裏切られました。地に足つけて、現実見据えて泥臭く生きる、そんな「かっこいい」生き方マニュアル。

    1
    投稿日: 2021.05.04
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    面白かったが、20年以上も前になると忘れ去れたら古い理論やアイデアに感じた。アカデミズム、社会学的なものにもある時を機会に断絶があるように感じた。

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    投稿日: 2020.07.06
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    僕が今生きる地平はどのようになっているのか。 とりわけ戦後からの日本。現代日本とは何なのか? 失われた30年 日本が停滞していたことしか経験として知らない僕にとって過去の世代の断念がどのようなものなのか オウムに魅せられた当時の若者 全共闘の終わり、シラケ世代、60年代生まれ 終末思想 アニメや漫画で描かれる終末後の共同体 あるいは現代の終わりなき日常 80年以降の生まれは世代としての断念を知ることなく、ゆっくりと衰退していく日本で終わりなき日常を生きている。 積極的な未来の希望があるわけではない。 むしろ未来をしっかり直視するのであれば、日本の将来は不安だらけだ。しかし、なまじ今の緩くて悪くない生活を感受していると、わざわざ大それたことを考えなくもいいと思えてしまう。 断念という経験すらないのだから、それは悲劇には成り得ない。共同体も最初から存在しない。あるのは学校や職場で作られる人間関係とSNSだけだ。 かつての若者がオウムに共振したのは、共同体の破壊と、未来への断念、終末思想、そうした背景があったからだろう。オウムの教えにあったような、破滅からの救済。 リセット願望。 追記 オウム以後。酒鬼薔薇聖斗事件についても触れられている 再びオウムのように宗教団体が力を持つかは分からないが、今の日本を見渡せば、失われた共同体、将来への不信、それらは何一つと解決されていない。 私たちが問題に慣れすぎて、むしろ問題を問題として十分に捉えることはなくなった。 終わりなき日常の適応化を果たしたといっても、将来は暗いばかりだ。いずれテロは起きるだろう。湯は冷めるのだから、ぬるま湯にいつまでも使ってはいられない。 社会の変化は水面化で起こり、私たちがそれを実感する時は急激な変化として見える。 それがテロによって引き起こされる可能性は無視できない

    0
    投稿日: 2020.03.21
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    「終わりなき日常を生きろ」宮台真司著、ちくま文庫、1998.03.24 206p¥609C0136(2019.06.14読了)(2019.06.06購入)(1998.10.05/2刷) 【目次】 はじめに 第一章 「オタク論・連赤論・二重組織論・邪宗論」はデタラメ 第二章 「さまよえる良心」がアブナイ 第三章 「終わらない日常」はキツイ 第四章 コミュニケーション・スキルという知恵 あとがき 文庫版あとがき (「BOOK」データベースより)amazon 「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。

    0
    投稿日: 2019.06.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

    私にとっての90年代は0歳から7歳までの間だけで、しかし私は年賀状に「21世紀」と手書きで何度も書いた記憶があるので、90年代のことはうっすらと覚えている。不景気・そして社会不安・凶悪犯罪により、幼い娘を持つ両親は私に「知らない人は何をするか分からないから絶対に信用しては駄目だ」と教え込んだ。私はこの社会はディストピアであり、見知らぬ他人は容易に殺人犯に変容し、そして日本は永遠と不景気なんだと幼心にインプットしたおかげで、90年代は非常に灰色の記憶になっている。(あとから記憶を上塗りしているかもしれないけれども) という、その私の90年代と地続きになっているはずの、オウム事件から日をおかずに出版された本らしく、内容は今読むとかなり雑多で幅広い。途中にコラム・写真なども入り込んでいて、本全体としては論として時間をかけて練られたものという印象はなく、気鋭の若手社会学者が事件に応答をすべく動いた即応性を感じさせ、また宮台真司という人物の幅を見せる面白みにもなっている。「過渡的な近代」から「成熟した近代」への移行プロセスで共同体が空洞化し、承認が得にくくなった社会で、承認から見放された人間たちがどこに承認を求めていったのかというフローを、オウム事件だけではなく、その後の事件も含めて分析したあとがきが、とてもクリアで良い。「終わりなき日常」は、21世紀に突入して早19年もたってしまった現在でも非常に示唆的なワードな気がしてぞっとする。おそらく「成熟した近代」への移行に失敗したままである日本社会の「承認の供給不足」という事態は変わっていないはずで、社会の外はますます肥大しており、コミットすべき現実との乖離は拡大しているように見える。私の友人などは「会社にいるときの自分は自分ではないようだ」とまで言い出す始末だけれども、オタク的な消費行動に熱をあげることは「まったり生きる」ということに繋がるのだろうか?などという疑問はおそらく『制服少女たちの選択』などを読めば少しスッキリするのでしょう。

    1
    投稿日: 2019.02.11
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    日経エンタムックでお勧めされていたのを見てから気になっていて、ようやくそれをゲット&読了。何となく、オウムの歴史的な読み物を思い描いていたけど、全然違いました。オウムを通して見る現代社会の病巣というか、あくまで作者の論文でした。当時、社会とは隔絶された環境に生きていたこともあって、マスコミでどんな取り上げられ方をしたとか、擁護派も少なからずいたこととか、当時の雰囲気を味わえた点では良かったですが、読み物としては、やっぱり古臭さが否めず、結構読み飛ばしてしまいました。

    0
    投稿日: 2015.11.10
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    本書はオウム完全克服マニュアルとなっている。内容はなぜ1995年当時にオウムという悪夢が発生したか?を問う。以下に詳しい感想が有ります。http://takeshi3017.chu.jp/file6/naiyou23001.html

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    投稿日: 2015.09.27
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    このレビューはネタバレを含みます。

    オウム真理教の一連の事件にあまり関心を抱かないのは世代だからなのか、同時期に読んだ斎藤美奈子、姫野カオルコ、中村うさぎ、そして宮台に手を伸ばすきっかけだった上野千鶴子が、揃いも揃って「東電OL事件」をネタにしていてそっちに強い関心を持っていかれたからなのか、それとも単純に頭が弱くて意味が全く浸透してこない社会学の専門用語の羅列とオウム関係の写真に付されたわけわからんポエム的なものがうっとうしくてあまり読む気にならなくてポイしちゃったからなのか、いったいどれなのか。 ③だな。

    0
    投稿日: 2015.02.22
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    『14歳~』を借りた時に隣にあって面白そう♪と思い背表紙借り。 よって、家に帰って初めてオウムと知った(^^; あとがきに、緊急声明的な本…と書かれてたけど、充分普遍的。とっても興味深く読んだ。 『透明な存在の不透明な悪意』に先に出会ってる自分としては文庫版あとがきが、特に面白く感じた。

    0
    投稿日: 2014.06.23
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    ポストモダン的な90年代解釈。終わりなき日常は戦後を通じた日本全体の前提として存在していたが、世代によりその対処方法が異なっていた。高度経済成長、全共闘世代、しらけ世代、新人類、オタク、そしてオウムなどの宗教、ブルセラ。 日本の大きな物語は東西冷戦構造共に崩壊したのではなく、戦後常にそこに存在し、個人をより小さな物語へと突き動かしつつあった。

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    投稿日: 2014.03.30
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    著者は、もはやユートピアを思い描くことが不可能になった「終わらない日常」を生きるために自意識を持たない道を選んだ女子高生たちの実態を解明した社会学者です。本書では、「終わらない日常」の閉塞感から逃れるためにオウム真理教にのめり込んでいった信者たちの軌跡をたどることが試みられています。 速水由紀子のコラムや、オウム真理教の村井邦夫と著者の架空の対談などもあって、興味深く読むことができました。ただ、著者が長く考察をおこなってきた女子高生の「終わらない日常」を生きる戦略とオウム信者たちの姿を対比させるという構成に、最初から結論が決まっているのではないかという印象もあります。

    0
    投稿日: 2014.03.30
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    表現が理解できてない部分が多々あったものの、なかなか楽しく読めた でもオウムを肯定することはできないし、自分がオウム側の立場に立つ可能性、これに限っては絶対にないと断言できる

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    投稿日: 2014.02.11
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    読後に読んで面白かったブログリンク http://blog.goo.ne.jp/interpret-story_around_us-0624/e/67060dbb2efeec324b3edad547e7bd6b http://misoshiru.ko-me.com/本/宮台真司「終わりなき日常を生きろ」読了。

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    投稿日: 2013.12.23
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    ここではないどこかを求めて煮詰まっちゃうと、現状への不満に対してその原因と解決策をぽんと出してくれちゃう宗教にはまっちゃいやすい、今楽しけりゃイイじゃん的なちゃらんぽらんはそういうのに絶対はまらない、みたいなはなし

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    投稿日: 2013.03.26
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    このレビューはネタバレを含みます。

    アダルトチルドレンが良い子になるのは家の中にセキュリティがないから 失敗しても帰るところがないので予測可能なことをやる オウム信者は失敗したり薄汚れた自分に耐えられない<アダルトチルドレンぽい 幸せになれるかどうかは個人のコミュニケーションスキルにかかってくるのは難しすぎる 勉強できてもコミュニケーションスキルがないと生きていけないということか… (勉強もできないが) 恋愛はアダルトチルドレンをリカバリーする 子供の頃からやり直せる より多くの人間が等身大のコミュニケーションを享受するようになれば、それが出来ないものは、そのコミュニケーション「からの」自由を求めるようになる<だから自分は人と関わりたくないのだろうか? お金もなく勉強もできないから不幸だと思うよりも、お金もあり勉強もできるがコミュニケーションスキルがなく一人だというほうが追い詰められるほどに不幸 コミュニケーションスキルがなくても、そのままで大丈夫と言ってくれるのが宗教と恋愛 永久に輝きを失った終わりなき日常でそこそこ腐らずまったりと生きていく修行が必要 終わりなき日常を生きるとは何が良いのか悪いのかもわからない世界で腐らず生きること

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    投稿日: 2013.03.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    あの震災の日、津波で流されゆく建物や燎原の火に焼かれていく家々を、遠い九州の地からワンセグで見ながら抱いた妙な感情。明らかに「日常ではない」光景に対する、恐怖にもワクワクする気持ちにも似た気持ち。 その後様々な言論誌で見た、「『終わりなき日常』が終わった」という言葉。 例えば東浩紀は、「震災で僕たちはばらばらになってしまった。それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に帰られてしまったということだ。」という(思想地図βvol.2 11頁より)。 その意味するところは、私にはわからなかった。しかしその言葉には、強烈に引きつける何かがあった。 震災以前に私がなんとなく過ごしてきた「終わりなき日常」って何だろう。そんな疑問にかられて、私はこの本を手に取った。 宮台真司は本書で、共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常こそが「終わりなき日常」であると主張する。 自分の生き方が肯定されない、何が正しいのかが分からないという、空洞となった良心には、「ハルマゲドンによる救済」という使命をオウムに植え付けられてしまう。だからサリンをばらまかないためには、何が良いことなのかという問いを一旦棚上げにして(深く考えすぎずに)、「まったり生きる」ことが必要なのだと言う。 なるほど、わかったようなわからないような。 本書を読んで、別の疑問も生まれた。 宮台が本書でその存在を喝破したような、「共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常」と、近年流行した日常系アニメの描写に見られるような、何の変哲もないぼんやりした日常とは、本当に同一なのか、ということである。 両者に同一性がない場合、震災後の問題に「終わりなき日常の終焉」を引き寄せて立論するあらゆるサブカルチャー言論は、一種のこじつけの操作を行っていることに他ならないのではないだろうか。 結局、「終わりなき日常」という言葉をアドホックに運用すると、私のように混乱する人が出てくると思う。 (余談) 自己同一性について浮動的な若者は現代に多い。そんな若者が、終わりなき日常の断絶を奇貨として、自らを社会の中に定位させようと試みる。 多くの学生が被災地ボランティアに向かうのも、そういうところに意図があるのかもしれない、といえばあまりに斜に構えた見方であろうか。 (抜粋) 『私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。その知恵を探るために、私は「終わらない日常」に適応したブルセラ世代を調べてきた。その私を「不道徳だ。非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた。あなたのような知恵のない人たちが、「偽物の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ。』(114頁)

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    投稿日: 2013.03.01
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    とても面白くて読みやすかったです。 永久に輝きを失った世界のなかで、将来にわたって輝くことのありえない自分を抱えながら、そこそこ腐らずにまったりと生きていく知恵を身につける……酷だなぁ。私たちニート世代はどうなんでしょね。でもFBやTwitterで承認欲求を満たしてるひとは多いんじゃないかな。。 宮台さんが、後半の対談の中で「ひとは大人になっていく過程でそこそこの自分とそこそこの世界に耐えていくことができる。それを阻む装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。」って言ってるのがカッコいい。 3.11は、ハルマゲドンだった? あと、「コクリコ坂から」を観たときに抱いた憧れのような、もう永遠に手に入らないような気がしたものが一体何だったのか良くわかった。全てが暴かれてしまう前の、あの希望に満ち溢れたかんじ!まだムラ的な共同体が根付いているかんじ!全てが羨ましい。

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    投稿日: 2013.02.26
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    地下鉄サリン事件直後に書き下ろされた一冊。1998年を終わりなき日常を生きることへの恐怖と闘うという観点から解き明かした。『まわるピングドラム』と絡めて読み始めたが、あのアニメを読む為の手段にもなる。

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    投稿日: 2013.02.26
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    読んだきっかけは、「東日本大震災、そして原発事故によって、『終わりなき日常』はもう終わった」という記載を読んでいたから。何で読んで気になったかを忘れてしまったのが残念… その後もたびたび「終わりなき日常」という表現を見かけたこともあり、そもそもの定義、どういう本なのかを知りたくて、手に取った。 オウム、連赤、SF、コミュニケーション・スキル… 今読んでも、古くないと思う内容。 もう1年か2年くらいしたら、また読み返そうかな。

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    投稿日: 2013.01.29
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    オウムの事件から見る現代社会の「終わりなき日常」を指摘した本である。 奇抜なファッションの写真にあるコメント、コラムなど、読んでいてユニークさもある本だったと思う。 日常から逃げて、最後まで純白であり続けたいという想い、 工場の排水が汚す河や、金や欲で汚れた人の心を憎むことで自分の中に純白を保とうとして、サリンを撒くことでそれは達成させられる。 著者は、「終わらない日常を生きる知恵」が必要であると主張する。 すなわち、すっきりしない世界を生きるということ。 ファンタジーの世界を生きることでありえない外部を想定してしまう。 最後に、著者は「本書の予言的中は学問の勝利」であるとしている。 確かに私たちの人生も、小学校時代から、会社に入るまで、死ぬまでが何も面白いことのない「日常」に縛られて、汚れた心や、金銭の問題と向き合っていかなければならないというのも事実だろう。 我々は、束縛から逃れることができない生を死ぬまで生きなければならない。 その「終わりなき日常」に穴を開けようとする動きが、たとえばオウムであったり、尾崎豊であったり、「完全自殺マニュアル」だったりするのではないか。 どこか、現実と違う世界に逃げ込もうとすることで救いを求めようとしていたのではないか。 我々の多くはオウムの問題に対して、自分とは関係のない日常を離れたおかしな集団が起こした異常な事件くらいにしか思っていないのだろうが・・・。

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    投稿日: 2012.12.18
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    タイトルになっている「終わりなき日常を生きろ」というフレーズはとても共感するし、素晴らしいものだと思う。ただ、本の内容からすると、筆者はこの「終わり無き日常」に永遠の若さが前提となっているような気がして違和感を感じる。 終わり無き日常が本当に何も変わらない日常であるならば、そこから抜け出すためにハルマゲドンを願う人がいるのは想像の範囲内だろう。しかし実際の「終わり無き日常」は毎日少しづつ変わってゆき、数年もすれば多くの場合すっかり様変わりしているものだ。なぜなら、時は公平に流れてゆくものだから。その中で多くの人は変化に翻弄されながら生きてゆく。「終わり無き日常」が実は同じもののように見えて少しづつ流転してゆくものだと感じながら。もしかすると「終わり無き日常」を本当に終わりのない繰り替えしとして生きたがるのはオウムのような集団なのではないだろうか。 オウム後を生きる我々には、このようなメッセージが必要なのではないだろうか。 「終わり無き日常を生きろ。なぜなら、日常はかわってゆくものだし、その中には美しいものもきたないものも色々あるけど、その日常を自分の人生として生きることができるのは自分だけなのだから」

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    投稿日: 2012.08.05
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    何かにすがって生きていかなければならないという状況自体は、特に珍しい現象ではない。むしろ、資本主義というある種のイデオロギーで生きて行き易い人たちの存在も居るだろう。特に、この本で描かれているようなブルセラ少女、ナンパ族とは、一体何処の誰で、どういう属性を持ち合わせているのかが重要になってくるだろう。例えば、援交少女という現象を一つ取っても、それ自体には、「少女」や「女性」といったような集合的な主語を使う事は無意味だろう。なぜなら、いくら学校制度が、外部の学者によって、その制度が批判されようとも、幾分かの生徒には、その制度に適応し、無事平穏な生活を営む事が出来るだろうからだ。つまりは、この本でいわれているような「終わりなき日常」という集合的な主語の使用による、二次的な暴力性が露呈する事もあり得るという事だ。この本でいわれているような「終わりなき日常」とは、何処にあるのだろうか。この本に登場する人物達の素性は、何処までが、その汎用性という観点に置いて、有効性を発揮するのだろうか。終わりなき日常という現象自体は、珍しい事ではないように思われる。歴史を見渡してみれば、そもそも仏教や、その他の宗教にも、個人という閉鎖された場所からの解放や、他人という異世界との結合、そして、「頭」という器官から生み出される、「無間地獄」という概念も、「終わりなき日常」を模写したような意味合いを含意しているような気がするからだ。では、なぜ、「終わりなき日常」という現象が、一部の人には、苦しくて辛いものなのだろうか。それは、既存社会という「集合的な主語」的な環境によって、社会から弾かれ、裸身になった事による寒さに耐えられないという事態が引き起こすものではないか。つまりは、「繋がり」や、「安堵」「居場所」の喪失により、自分という存在を相対化出来ずに、自己の絶対性から逃れられない、そういう事態が、辛く堪えられない現象を生み出すのではないだろうか。自己を絶対化する事によって、無限の自我の連鎖を生み出す。無限の自我という現象は、いわば、「不動」という固持を意味する。何処まで行っても何も見えないのは、逆にいえば、その部分から、一歩も進歩していないという事である。人間は、物理概念的に、思考を「空間」として、認識してしまう癖がある。それは、人間という生物が、三次元の物の見方をする所からの、一種の癖である。それを、意識的に、思考的にも「三次元」的な見方をしてしまうのだろうと思う。本来思考や、思想というのは、ある意味での「自己完結性」なのだと思う。そこに意味を見いだすのも、救いを見いだすのも、総ては、ベクトルを持たせるという意味に置いて、三次元的であるといえる。そもそも、何かに意味を見いだしたり、救いを見いだすというのは、それに置いても「自己完結性」である筈だ。しかし、その自己完結性が、総てを統括する「全体性」になってしまうとすれば、本来の意味で「自己完結性」という、「個人」または少数に分類されていた概念が、「暴力的な汎用性」を生み出す事になる。この暴力的な汎用性の被害者が、この本で描かれているブルセラ少女達なのではないか。

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    投稿日: 2012.06.25
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    このレビューはネタバレを含みます。

    震災が起こればボランティア活動が活発になる。多くの人が現地に出かけるが、不思議なことには地元では活動しない。彼らが必要としているのは「廃墟の中の」ボランティア活動である。非日常の中に彼らは自分を映し出す鏡を見る。 宮台は言う「終わらない日常を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。私たちが生きている社会は、条件次第で評価されるしかない。しかし、条件は不透明だから、何が良いのか悪いのやら、よく分からない」 私たちは、そうしたよく分からない世界に生きている。終わりなき日常を何となく忙しそうな装いをして。

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    投稿日: 2012.06.24
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    アダルト・チルドレンと宗教の関連性はもっと掘っていきたい。例えば八王子に創価学会があるのもその関係と言えるのだろうか?

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    投稿日: 2012.02.09
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    15年後の今だから分かることもあったり。終わりなき日常という概念はイマイチ感得できなかったのだが、コミュニケーションを全面的に背負わされる環境というのはやはり卓見だったと。テレクラ、ブルセラ、援交という宮台の初期の仕事は、出会い系にSNSそしてツィッターという流れのなかで、読み返してみる価値があるのかないのかw

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    投稿日: 2011.08.09
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    僕らの生きている日常は決して終わりそうにない(それにたぶん、近々終わることはないと思う)。 そこから逃避することは各々の自由だが、それによって救われるかどうかは人それぞれである。しかし、逃避したくなる気持ちや、何らかの救いを求める想いは、多かれ少なかれ僕たちの中にあるのだろう。人がそんな心境にあるとき、社会(=私たち)はどんな反応を示すであろうか。「あの時代」を振り返るとともに自分を見つめ直すのにはよい本かもしれない、と思う。

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    投稿日: 2011.06.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    宮台先生のM2で宮台教に入信 触発されて、これまでの読書で引用が多かった(批判的な引用)この本を読んだ。 副題の通りオオム真理教・サリン事件の社会学的考察 時代的な系譜学としてサリン事件を位置づける。連赤から新人類〜ブルセラ〜オウム〜酒鬼薔薇聖斗 そしてその原因を社会学者・若者フィールドワーカーとして、宗教学等の豊富な知識を引っ張ってきて説明している。 今の所それらは説得的に思える。 本書に対する反対する本もあるし、余裕があったら読んでみようかしら。。 僕は何故彼に憧れるのか?? 彼が僕の人生を知るのに役立ちそうだから?天才という超越の香りするからか。それ以上にもありそうである。言葉の端的さに惚れてるのかもwwww あと僕の論理トレーニングとしても読んだ、途中で寝たり、中華食いに行ったりして、断絶したけど最後まで読めた。しかし、僕の国語能力は低いな。この書物から知識を得たい、これが知りたいと心から思って読書した事ってないな〜 宮台氏的に言う「試行錯誤の身につけさせる」教育が僕の国語教育では決定的に失敗してるな。。 まあ、いいや 内容は 最初に事件のキーワード「終わらない日常」「さまよえる良心」の提示 第一章で これまでのオウム分析批判 (宮)連赤との差異・オタク文化が要因となる条件にこそ注目すべきだ(ここは流石!!唸った)・宗教学者がオウム>幸福科学だったのは自我が弱かっただけ。 第二章 「さまよえる良心」:善き事をしたいという良心への志向が強ければ強い程、「何が善き事なのか分からない」という不透明感が切迫し、透明な真理への希求が高まる ↓ 「善きこと」が不透明な理由 内面的な「倫理」がもともと存在しない日本に置いて、共同体的な「道徳」が共同体とともに喪失。 「良心」の空洞化・・・(良心ー(倫理+道徳)=?) ↓ 神政政治の出現   世代問題 第三章 「終わらない日常」と「核戦争後の終末性」という終末観 前者:輝かしい進歩もおぞましき破滅もない、日常のかでの永遠なる戯れしかない。→ディストピアに映る 後者:廃墟の中での団結や共同性というファンタジー 革命→輝かしき未来→脱力→ 終わらない日常を生きる知恵という解決策の提示 第四章 終わらない日常が一番堪えるのは? ①外部がより必要な人②コミュニケーションスキルのより無い人 恋愛も宗教の代替物足り得ない ↓ 全体的包括要求を放棄 「まったり」生きる これが「終わらない日常」を生きる知恵・・・農村的な自意識の自足時給 あとがき 社会比して無我複雑になればななるほど、コストの低い認識方法を人々(各人各システム)は選ぶ 予言的中:①援助交際②AC(エヴァ)③親父(マッタリ生きられない)の迷走(失楽園、歴史教科書?) 酒鬼薔薇聖斗は反社会ではなく「脱社会的」。

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    投稿日: 2011.05.11
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    オウムを知るというより、オウム真理教の構成員の中でとりわけ人数の多かった、 新人類またはバブル世代が、どうしてこの「神秘主義」主体の宗教に惹かれてしまったのか。彼らの生まれ、育った時代背景の雰囲気がよく描かれている。 流行の宗教の背景には、かならず時代の持つ特有の雰囲気があり、 今でこそ、宗教学の流れでは、新しい「分類」にわけれられるオウムだが、 16年前の著作である本書は、まだ生々しさを残しながらも、適切な分析をしていると感じる。この時代に宗教にハマッってしまった人は多いのではないかと思う。 オウムに限らず、この世代を理解するのにはとても判りやすいと感じる。 ☆が3つなのは、もう少し掘り下げた内容でも充分読み応えがあったとおもう、という残念票。

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    投稿日: 2011.04.16
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     オウムの問題を切り口に、当時の社会を分析する。共同幻想が崩壊した後のどのように生きていくかを述べている。要所々々で挟まれるコラムは意味不明だけど、当時の空気をよくあらわしている・・・ように思える?

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    投稿日: 2011.03.23
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    いまさらオウム真理教ですか?という印象を持つだろうけれども、いやいや、読む価値はある。「制服少女の選択」に続いて読んだので、目新しさはなかったし、あまりに世代論が出過ぎる気もするが、よい本。 自分自身の中にあるものも含めて、若者の感覚に近づくことができたように思う。

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    投稿日: 2011.03.18
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    90年代を考える上でオウム外せない。そしてオウムを含む90年代論を考える上でこの本を欠かすことは出来ない。終わりなき日常をまったりと生きることは許されなかったわけだが、そう断言させる空気が90年代にはあった、ということがわかるだけでもこの本にはとても意味がある。

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    投稿日: 2011.02.20
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    オウムのような新興宗教にハマる人たちは、いったい何に惹かれているのか、自己啓発やヒーリングといったブームも根底は同じであり、終わりなき日常を生きる知恵を持たないものが引き寄せられる。 70~90年代のSFの変遷などと絡めた内容は、10年前の著作ながら、 今でも十分な説得力をもっていると思う。 現在のスピリチュアルブームも同じように理解できそうだ。

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    投稿日: 2011.02.16
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    これまた納得できる。 コミュニケーションする際の大きな前提(宗教、共同体)が、弱まっている現代。コミュニケーションは難しくなり、そのスキルの差が開いていく。 どう生きれば良いのか。 「脱力」がひとつのキーワードになっていた。 確かに、深刻になる過ぎる人、真面目な人よりも、テキトーな人の方がコミュニケーションに長けていたりするもんな。 あとは時間はかかるが、相対的に分析、判断をしていくということ。これは納得の反面、非常に大変な作業だなと思った。。。

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    投稿日: 2010.12.14
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    いまさらwwwですが読んでみたい。 「終わりなき日常」そうなんだよねー。そんな気分ですよ。 でも、その中を生きてゆかなければならないのであって。 世界は多分、変わらないんだと思っています。

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    投稿日: 2010.05.23
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    虚無的な思想に覆い尽くされた一冊。道徳や規範までも相対化してしまい、あまつさえそれを正当化するという点に、90年代以降の思潮を如実に反映していると言えよう。別の意味で興味深い内容だった。

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    投稿日: 2010.01.02
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    終わりなき日常というモデルはまだ有効なのか。 じり貧の日本を耐える、または不感症に生きることも終わりなき日常と呼べるのか

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    投稿日: 2009.12.13
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    最初から私には合わなかった。 「この人、一体何が言いたいんだろう…」と思いつつ読み続け、 最後の最後(p.183)で著者の目的が判明。 自分が悪いか世界全体が間違っているか、の二者択一から そこそこの自分とそこそこの世界に耐えていける様になる事を阻んだ各種装置(観念や制度)を、 徹底的に破壊し尽くす事…らしい。 しかし今回の「破壊」が、『「薄ぼけた自分」を抱えたまま生きろ!』という結論とは… 二者択一の価値観を持つ人は、曖昧に終わりなき日常を生きる事が出来無いから 「そこそこ」の両者を肯定出来ないのでは? 「虚無感」やら「閉塞感」が冠される現代と、その中に在りながら その現状にうっすら疑問を抱える個人のもやもやを体系立てて説明し、 名付けている所がこの本の感心ポイント(=彼の「破壊」)なんだろうか? でも、私にとって彼が説明しているものは自明だったので感心する事も出来ず。 だからこそ彼なりの解釈による一旦の結論を求めたものの、 回答が回答になっていないと感じた上に何度も同じ様な事を話された所が「私に合わない」と思った所以だと思う。 複数のレビューを見た所、「結論を言わないのが宮台流」という意見も有ったので、 それも確かめるべくまだ数冊宮台本を読んでみようと思います。 信者が何故オウムの世界に入っていったか、の考察は興味深かったです。 以下、本文からのメモ。 *『朝まで生テレビ』でオウムが話題に(幸福の科学幹部と麻原教祖を含むオウム幹部が出演も) *阪神大震災後のボランティアブームを受け、「終わらない日常」が震災の廃墟によって打ち破られる時に人は改心して正しき道を生き直す――という期待は、「ハルマゲドン“による“救済」を願うオウムの心そのもの p.53 l4~6 トップは「自明ではない輝きを自明だと信じる」確信犯。末端は集団的な力学の中で「生き残るためには疑念を捨てるしかない」兵士。枢軸圏に生きる私たちはいったい何度同じ構図をなぞり直せばいいというのか? p.53 l末2~p.54 l3 私たちがここで注目するべきなのは、彼らが少なくともその出発点においては、救済という「良きこと」に向けて強く動機づけられているのに、何が良きことなのかについての判断がグルに委ねられているという、私たちの誰もが直面しがちな一般的な条件である。 p.64 l7~8 「良心の呵責を感じずにサリンをばらまけるのは、救済につながると信じればこそです」。 p.88 l末4~3 だが、「終わらない日常」はキツイ。ユートピアであると同時にディストピアでもある。 p.111 l8~10 ユートピアはディストピアである。科学技術によってすべてが照らし出されたユートピアは、とても辛い。たとえ瞑想生活をしていようが同じこと。ドラッグも日常化すればつまらない。 p.113 l3~7 ・戦間期のワイマール共和国の爛熟→ナチスの輝かしき「第三帝国」 ・大正・昭和のモダニズムの爛熟→輝かしき「大東亜共栄圏」 ・平成の「終わらない日常」→輝かしき「オウム帝国」 に共通な構造 ↓ (1)「母」や「自然」によって象徴される「共同体」が崩壊した後の輝かしき「虚構の共同体」である (2)「父なる神」の不在を埋め合わせる、「偽物の父親」を頂点に頂く (3)神なき社会で共同体が失われた時に生まれる「さまよえる良心」の空白を、「偽物の父親」が唱える「善悪図式」が埋め合わせる p.183 l3~6 速水 結局、世代的な要素というのは、社会が消えたせいで、自分が悪いか、世界全体が間違っているかの、二者択一になったということですか。 宮台 確かに僕らの世代は若いうちはそうなりがちだったけど、たいてい大人になっていく過程で、そこそこの自分と、そこそこの世界に、耐えていけるようになるんだけどね。だから問題は、そういうふうになるのを阻んだ各種の装置でしょ。そういう装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。 p.185 l1~2 「終わらない日常」を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。 1009-1010 ///// 「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。 「終わらない日常」を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。

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    投稿日: 2009.11.07
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    高2の夏に初めて見た…井上嘉浩(オウム真理教最年少幹部)の中学校3年のころの詩が偶然載ってた…。 宮台さんの言うとおり、終わりなき日常の中で漠然と「正しいこと」を考えてたら、いたずらに逡巡して、迷走を繰り返すだけなのかもしれない。 人って学ばない。ただあまりにも可塑的なだけ。

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    投稿日: 2009.05.01
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    厄介なことに、私の中にある宮台さんのイメージっていうのは彼の著作からではなくて、ゴー宣とかで小林よしのり氏が批判的に語ってたような宮台さん像が強固であって(ああ小林さんの漫画の持つ影響力・インパクトって、中高生にとって、でかかったんだなあ・・・って今更ながら思いますが・・・)宮台さんの著作にちゃんと目を通す度に、そんな自分を猛省しています。 私はこの『終わりなき日常を生きろ』が、連赤とオウムの比較を試みていることなんて、本開くまで全く知らなかったので、自分の勉強不足を恥じています。

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    投稿日: 2009.04.23
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    一時期この言葉が自分の中の合い言葉になっていた時期があった。 「終わりなき日常を生きろ」 そうやって世界の端っこからものを見ている感じに憧れていた。 だけど、終わりなき日常はもう乗り越えた。 日常はそんなに、泣きたくなるほど空虚ではない。 日常は終わらない。 だけど「生きろ」というほどの未成年的な激しさを乗り越えた。あるいは乗り越えてしまった。 制服少女にいい本だ。

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    投稿日: 2009.01.29
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    『そのような過剰な単純化や一般化は、実は、現実にはありえないような架空の条件を夢想することを抜きにしては、ありえないものだ。確かに、認識ににもコストがかかる。環境を認識するとき、できるだけ低いコストで認識したいというのは、理由のあることである。(中略)ところが、社会システムが複雑になればなるほど、そうした環境認識を前提にしてふるまうことは、自分や他人を危険にさらす確率を高めることになる。』

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    投稿日: 2008.06.26
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    95年のオウム事件、今となっては相当古いテーマだなぁ、と思ってしまいがちだが、その内側にある、「反社会性から突き抜けた脱社会性」というテーゼは、現代においても用いることのできる図式であるように思う。 しかし、上祐とか、懐かしいな。

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    投稿日: 2008.04.21
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    宮台氏の一連の著作は読んでいたのでこれはいらなかったかな。 「まったり革命」を叫んでたころの意図が読み取れる。 今後、女子高生は一部メンヘラ化したらしい。

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    投稿日: 2008.03.31
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    90年代の時代の指南書として良くも悪くもまとまってる本。これとポストモダンを押さえれば現代がいかなる時代か俯瞰出来ると思う。むしろこれよりも「まぼろしの郊外」の方にまとまった記述があるのでそちらもぜひ

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    投稿日: 2007.08.23
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    個人的には古さを感じない。批判は多いかもしれないが、やっぱり時代の本質をまっすぐ切り抜いた、エポックメイキングな名作だと思う。

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    投稿日: 2005.07.26