
総合評価
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powered by ブクログ伝道師・兼・言語学者の著者が、数や左右の概念もない少数民族の村に赴く。 直接証拠を重視する民族・言語を研究するうち、著者も無神論に導かれる。 マイナーと思ったけど、24刷まで行っててびっくり。
0投稿日: 2025.11.16
powered by ブクログメモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1984587276328779780?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
0投稿日: 2025.11.02
powered by ブクログ半分から六割くらいまではアマゾン奥地に住む少数民族ピダハンとの交流記。残りの三割が言語学、人類学から見たピダハン、および主流派のチョムスキー批判。と言う感じの構成。 冒険記が好きな人間としては前半は楽しめたが、後半の言語学パートは興味深いものの難しさがあり読みすすめるのに苦労した。 ピダハンとの交流は、キリスト教の伝道師でもあった著者に信仰と家族を捨てさせてしまった。 冒頭に出てくる妻の名前と作中に出てくるつまりの名前が違うので、何だろうと思ってたがしっかり伏線回収される。
0投稿日: 2025.10.19
powered by ブクログピダハン自身の生活も興味深いが、西洋人である著者がアマゾンのジャングルで体験した話は示唆に富んでおり、この本を通じて精神的に豊かに生きるヒントをもらった。特に、キリスト教の伝道師だった著者が20年の心理的葛藤ののち無神論者になったところの記述が味わい深く、読み終わった後もずっと余韻が残った。
0投稿日: 2025.10.18
powered by ブクログピダハンが教えてくれたこと、それは「生きる」とは何か、「幸せ」とは何か、ということ。 言語学研究にとって貴重な進展をもたらしてくれたこと、のみならず人間としての在り方についても教えてくれた。 まず、本書ではピダハン語の研究によって、チョムスキーが提唱した普遍文法の説を否定している。 普遍文法説とは、すべての言語が普遍的な文法で説明でき、それは私たちの脳、遺伝子にあらかじめそのようにインプットされているからで、わたしたちは育った環境に応じて最低限のルールに従って(英語や日本語)言語を発話しているというもの。 どの言語にも共通の品詞があるなどの共通のルールがあることや、リカージョンといわれる現象がみられることが理由としてあげられる。 リカージョンとは、たとえば「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」という文を見ると、ダンが買ってきた針が●●の針の中に入っていて、さらに●●を持ってきてに入っている、というように入れ子構造になっている文のことだ。 この仕組みによってわたしたちは深く考えることなく、無限に文を生成することができる。 たとえば「サトシが疲れたってミサトが言ってたってシンジが言ってた」みたいな感じで。 しかし、ピダハンはこれを「おい、パイター、針を持ってきてくれ」「ダンがその針を買った。」「同じ針だ。」とわけて表現する。 これは文自体にリカージョンが見られず、物語のように文をつなげるとリカージョンになっているというもので、あきらかに思考して発話していることになる。 そして、ピダハンの言語がこうなっているのは、彼らの文化が「直接体験性」を重んじる文化で、その制約を受けてリカージョンという機能を文の中で発現しないようにしている、つまり文化が文法に影響を与えているのではないか、ということ。 文法が文化に影響を受けるならば、遺伝子にインストールされているとする普遍文法説はちょっとあやしいぞ、となってくる。 こういった個々の言語研究を受けて、普遍文法も中身を少し変えているようだが、これは著者から言わせると「プロクルステスの寝台」のようで、理論に合わせて事実のほうを引き伸ばしたり切り詰めたりしている、という。 そのほか、本書では言語を学ぶうえでその文化と切り離して考えることはできない、ということ。 それは認知心理学においても言えるのではないか、ということがあげられている。 アメリカ文化での知識体系を持っている著者が川を流れてくるアナコンダを流木と見間違えるように、わたしたちは、少なからず文化の影響を受けている。 ピダハンには抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業化の進んだ世界でよくみられる、私たちにおなじみの症状はないそうだ。 それは、語彙や概念が存在しない、ということと関係しているだろうし、そういった語彙が生まれる必要性のない文化だともいえるのではないか。 私たちには、なんとネガティブな語彙や観念の多いことか。 過ぎ去った過去や、まだどうなるかも分からない未来のことなんて考えず、今この瞬間を大事にして、まいにち笑って暮らす。 いったい、人間らしい暮らしとはなんなのか。
1投稿日: 2025.07.29
powered by ブクログ「ピダハン」というアマゾンの部族と暮らした人の言語と文化の研究本。 言語が思考を形作るという前提を持つ彼らの暮らしは、日本語と英語少ししかわからない自分にとっては、当たり前だと思っていた内容が全然違い、ぶっ飛びました。 多くの言語学者は、文化と言語を切り離して考えるが、ピダハンの喋る言葉は彼らの文語と密接に絡み合っている。という前提があります。 ・例えばピダハンの言葉には左右がない ジャングルを冒険していて、行きたい方向を支持し合う場合、「上流(下流)へ行け」と指示をする。 これは川という彼らの生活圏の中で絶対的な場所があるからこそ辻褄が合うし、 だからピダハンが初めて来た街では、その絶対値となる場所を知るたび「川はどこだ?」と尋ねるそうです。面白い。 ・ピダハンは自分が見たものベース、体験したものベースでしか物事を話さない。 なので知らない誰かの物語を語ることはない。けれど夢で見たことも「体験の一つ」なので、夢の中で出会った精霊などの話も実際にあったこととして話をしたり、 例えばジャングルで枝が揺れていたら、それを動かしている精霊がいると考える。 常に笑顔であるという彼らでも、もちろん野蛮なところも恐ろしいところもあり聖人では全然ない。(そこは部族に関わらず、どの国の人でも同じでしょうが) 作者自身の生活エピソードの中でそういう部分も語られていて面白かったです。 ちなみに「働かないふたり」という大好きな漫画の中でこの本が「ぶっ飛びますよ」と本好きの主人公が別の人に紹介しているシーンがあり、興味を持ちました。 (タイトルが出ていたわけではなく、表紙絵が再現されていた)面白い本に出会えてありがたい!
6投稿日: 2025.06.28
powered by ブクログ2025年5月23日、グラビティの読書の星で紹介してる女性がいた。「今日の本と花。そろそろアマゾンの旅も終わりに近づいている...」 コメント欄にて「試験管の中のアマゾネス!ピダハン読みたい!!」投稿主「ピダハン絶対好きよ」 すごい評価高くてびっくり。
0投稿日: 2025.05.23
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
先進国と呼ばれている日本の社会人が、便利な暮らしに囲まれているにもかかわらず、環境汚染に苦しみ、ストレス社会に苦しんでいる。 一方で、アマゾン原住民であるピダハンは、我々の価値観でいうところの便利さ・快適さとは程遠い生活をしている上に短命だが、自分達は最高に幸せだと言いきってしまい、キリスト教宣教師である筆者でさえ無神論者に変えてしまうパワーを持っている。 生きるのに必須の食べ物すら自分で調達する能力を失ってしまった先進国民と、衣食住の全てを自然の恵みから自分で賄える知恵のある原住民と、一体どちらが優れていると言えるだろう。 色々と考えさせられる本だった。 Googleマップでアマゾン流域を見ながら読むと面白さが倍増した。
1投稿日: 2025.03.26
powered by ブクログ面白い 言語学の本だけど小説っぽく読める 不思議文化に触れられて刺激的だった 言語学パートは専門的でむつかしい
0投稿日: 2025.03.17
powered by ブクログストレスフリーの秘訣は、過去でも未来でもなく今を生きることなのかな。 あと、殺人未遂や殺人には、一定の文明を持った側の人間が関与しているという現実がある。文明の発達は人を幸せにしたのか。考えさせられる。 インパクトのあるエピソードはいろいろあったが、川での出産がひとりで乗り越えられずに命を落とす女性の話は妙に印象に残っている。幸せと、死が隣り合わせというのも、複雑な気持ちになった。
0投稿日: 2025.03.01
powered by ブクログピダハンは直接体験と観察しか信じない。 ピダハン語には心配するという語彙がない。知らないことは心配しない。 ピダハンは自分たちの環境に順応しきった人々である。 ピダハンは慌てない。有用な実用性に踏みとどまる。 ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーをこぐこと、子どもと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬこと。 ピダハンとは一度に一日ずつ生きること大切さを独自に発見している人々。 ピダハンは自分の後始末は自分でつける。人の手など借りずとも、自分のことは自分で守れるし守りたいと思う。 ピダハンは物事をあるがままに受け入れ、死への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。 2025.2.20
1投稿日: 2025.02.22
powered by ブクログ現在起こっていることしか伝えない価値観。 子どもが包丁を使っていても危険と言って遠ざけない、切り傷ができても手当てをしてしかる。自律して生きていく。 川で出産して、子どもが出てこなくて苦しんでいても親の助けがなければまわりは助けないで亡くなっていく。 それでいて幸せに過ごしているという、価値観とは何か、幸せに生きるとは何かと考えさせられる本でした。
1投稿日: 2024.11.24
powered by ブクログhonzで名著と紹介されていたので借りる。 ある部族の言語から彼らの生き方を知り、 翻って現代社会を批判するって感じの‥等現代日本人らしく俯瞰しちゃえば知った顔で批評できるが 著者が命や人生の大半を賭けて得た知的でワイルドな体験を、安全な家でたった数時間で追体験させてもらえるのを素直に感謝し楽しむという姿勢で読めた。 オチも含めてフィクションでも面白い話。 個人的に持ち帰った学びとしては、「人は生まれ育った環境で得たアイデンティティを、人生から完全に切り離せると思わない方が良い」という思いが強まった。
0投稿日: 2024.11.16
powered by ブクログチョムスキーの言語理論に真っ向から異を唱える本書は、特に言語学を学ぶ人皆さんに読んでほしいと思います。絶対一読の価値があります。
0投稿日: 2024.10.06
powered by ブクログ「キーフレーズ」 今を生きるということ。 ピダハンの人々は過去も未来もなく、今を、今、出来ることを忠実に行なっていく。 ある意味消費的な生き方ではあるが、それでも幸福論の一つとして、比べない。人は死ぬ。やれることをやる。そんなことを伝えてくれる本だった。
1投稿日: 2024.09.16
powered by ブクログチョムスキーやウォーフの説があたかも完全であるかのように捉えていたかもしれない。ピダハンの文化も、"ダン"とその家族たちの文化も私に馴染むそれとは異なるなぁと考えながら読んでいた。いまはピダハンはどう暮らしてるのだろう
0投稿日: 2024.09.15
powered by ブクログ自分自身がクリスチャンとして、伝道師である著者が無神論者になった経緯と影響を与えたピダハンについて詳しく知りたくて本書を手に取った。 文化人類学は学生の頃の専門分野だったので読むだけでドキドキワクワクが止まらなかった。彼らの価値観や文化は実に興味深いものだった。 また、著者が最後に無神論者になった経緯を書いていたが相当の葛藤があった事が目に浮かんだ。自分自身も信仰に揺らぐ事もあるので生まれた場所・価値観・文化でイエスを受け入れてなかったかもしれない。信仰とはなんなのか、改めて考えていきたい。 そしてこれを機にまた文化人類学系の本を手に取っていきたいと思った。
1投稿日: 2024.07.03
powered by ブクログアマゾンに暮らす少数民族ピダハンの言葉を研究するキリスト教伝導師の話。面白い言語的な特徴を紹介するにとどまらず、彼らの価値観ー直接体験の原則ーを紐解く。巻末、エピローグに入る前の一節にこうある。「(ピダハンは)自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、あるいら未知のことをすべて知り得るとも思わない。その延長で、彼らは他者の知識や回答を欲しがらない。」 ピダハンはアマゾンに居住する民族に珍しく、ほほ笑んだり笑ったりする時間が非常に長いらしい。出会った中で最も幸せそうな人々とも書かれている。直接体験の原則は、私たちに幸せになるヒントを教えてくれているような気がする。
2投稿日: 2024.06.23
powered by ブクログ面白かった!言語学の基礎知識をあまり知らないので難しい部分もあったが、ピダハン族との交流の記録が多く書かれていたので楽しく読めた。 ピダハン族の言語研究を通してキリスト教信者から無神論者になった、という前情報(あらすじに書いてある)を最初に見た時、言語研究をしているだけで?と不思議に思ったが、読了後はなるほど……と納得した。 そもそも言語研究の仕方を知らなかったので、どのように現地の人から言葉を採取して理解していくかの方法が面白く感じた!多くの言語に見られて当然だと思われていることがピダハン語に存在しないと分かるのは相当大変だっただろうなぁと思う。その何年もかかったであろう過程を本で読ませてもらえるのって本当に贅沢!ありがたいな〜
2投稿日: 2024.05.21
powered by ブクログゆる言語学ラジオで紹介されていたのをきっかけに手に取った。 誰にでも読みやすいタイプの本ではないと思うが、独自色の強いピダハンの世界に触れることは、新しい視点に気付かされることに繋がると思う。
3投稿日: 2024.05.08
powered by ブクログ30年以上アマゾンの一部族ピダハンとともに暮らして学んだことをまとめた本 数えたり計算したりしない 色もない 遠い過去も未来も空想も話さない 左右もない
1投稿日: 2023.12.29
powered by ブクログ赤ちゃん言葉がなく子供も大人も対等に扱われ、親族が死にかけていてもそれが運命と助けることをせず、自分の目で見たものしか信じず、それでいて先進国の我々よりは精神的に豊かで幸せな民族。 常に進化や物質的な豊かさを追い求めることが本当の幸せかを考えさせられる。 ただし言語学的な考察がしっかりしている分、教養を求めて興味本位で読む一般人には辛い部分も多い。
0投稿日: 2023.11.10
powered by ブクログこの本をこれだけの人が読んでいるということ自体に驚くけど、その方面では有名なんかな。 言語の研究でありつつも、部族、文化の研究で、やっぱりこういう異文化を知るというのは面白い。全く新しいものを受け入れない頑固さが、キリスト教やらを押し付ける西洋人ならではのアイデンティティとぶつかり合うさまは小気味よく読める。これが200年前に起きてたら、日本もまた違う未来を進んだんだろうか。 ともあれこの強烈な虫どもと共存できる力は分けてほしい。アマゾンで上半身裸ってヤバい。誰か科学者がこの遺伝子を解明して薬作ってプリーズ。
0投稿日: 2023.10.04
powered by ブクログアマゾンに住む少数民族のピダハンの言語と文化について。 聖書をピダハンの言語に翻訳するために彼らの言語を研究し、その中で今まで普遍だと思われてた人間の言語に関する常識が覆されていく。 彼らは実際に見た事しか信じず、自分たちの生活が豊かだと感じているから、他の文化や言語を取り入れる事なく暮らしている。言語として抽象化が極端に少ないため、色や数、左右を表す単語がないことは驚いた。 伝道師としてピダハンの言語を元気してた著者が、ピダハンと関わることで信仰を捨ててしまうのも驚きだった。未来や過去なんかの抽象的な事を考えるから不安を抱くのであって、現在しか考えなければ信仰に頼る必要もないんだな。
0投稿日: 2023.09.15
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ピダハン(Pirahã)というブラジルはアマゾンの中で暮らす少数部族。20年以上にわたって、何度も村を訪れては生活を共にし、学んだ著者の記録である。 ピダハンへの理解が進むにつれ、自身の信仰に揺らぎが出る、人生が大きく変わって行く著者の物語でもある。 ゆる言語学ラジオで特集されていたのが面白かったので、読んでみた。結果、すごく面白かった。このあたりのジャンルの本、もっと読んでみようかなぁ。 ・ 宣教師として、家族とともにピダハンの村で暮らしはじめる。が、まずは言葉を覚えなければ何もできない。言語学者でもある著者は、彼らの言語・文化を調べ始める。 ピダハンの人々は、みんながみんなそれはそれは幸せそうで、どの顔も笑みに彩られ、ふくれっ面ややふさぎ込んだ顔はいない。大人も子供も、著者に興味しんしんだ。 辞書も文法書も、なんならYouTubeなどの動画素材まで充実している言語ですら、外国語というのは習得がなかなか難しいのに(私だ、、)、文字すらない未知の言語をイチから調べあげるなんて、想像しただけで気が遠くなる。 でも、その過程を私は著者とともに、ただ本を読むだけでたどって行くことができる。言語学者のフィールドワークを追体験できる貴重な本なのだ。 彼らは名前が長い。もっともよく登場するいちばんの言語の師匠は、コーホイビイーイヒーアイ。そして、何かの節目で名前を変える。彼はティアーアパハイと変えた。精霊から名前をもらうのだそうだ。全く別の人間に生まれ変わるのだ。前の名前で呼びかけても返事をしてくれない。 ピダハン語には、関係節がない。また、修飾語は1つ。2つ以上になると、文を分ける。 「おい、パイター、針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ。」という。 英語なら「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」のひと言で済む。 この、関係節で文を入れ子構造にできることを、リカージョンと言う。ピダハン語にはリカージョンがない。 ピダハンは、直接体験したことしか信じない。これは、ピダハンの生活、言語を体験して行く上で著者がひしひしと感じていたことだ。 ピダハン語にも慣れ、聖書の翻訳にとりかかり、いくつかピダハンに説教を試みる。 聖書は、大昔に起こったとされる奇跡・物事が伝聞された書物で、実際に今の人々が体験したことではない。なので、やはりピダハンはいくら信じた方が良いと説得されても信じようとはしなかった。 そういったことに著者は心を揺さぶられた。そして、キリスト教の伝道師たる自身の信念にも疑念を抱きはじめた。それから20年もの間、隠れ無神論者として過ごし、打ち明けた結果は、家族を失うこととなってしまった。 言語と文化はセットで互いに影響を及ぼしている、と言うのがこの本の大まかな主張(だと思う)。 ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない。著者は過去30年あまり、アマゾンの他の部族の調査も行ってきたが、ピダハンほど幸せそうな様子の部族は他にない。ピダハンの村にきたMITの研究グループも、これまで出会った中でもっとも幸せそうな人々だ、と評する。 著者が当初宣教しようとしていたキリスト教の教徒より、他のどんな宗教の人々より、ピダハンは類をみないほどに幸せで充足し切った人々だ。 そんな締めくくりで終わった。 ピダハン語の音源をYouTubeで見つけて聞いてみたが、めちゃくちゃ難しそうだ。これを聞き取れるようになる気がしない。著者の根気に改めて敬服する。 本の途中、言語学的観点から難しい文章が延々と続く章があるが、その辺は目が文字の上を上滑りしているだけだった。。。何もわからん。日本語さえ。。。 しかし、とにかく面白かった!
2投稿日: 2023.08.11
powered by ブクログとても面白く読んだ。 ピダハンの強固な世界観に驚く。 進取の気性というのが全くなく、自分たちの生活を良いものとして続けるというのは、なかなか稀な事だと思う。ひょっとしたら老子の言うユートピアかもしれない。 毎日を楽しく、肯定的に生きるということが幸せなのかも。うまく行くならそれは正しい、、というフレーズを思い出した。 言語学者としての考察も面白い。 文字に関しては余り記述が無かったが、おそらく使わないのだろう。 その事は世界観に強い影響があるのではないかとと思った。
0投稿日: 2023.05.10
powered by ブクログ過去回のゆる言語学ラジオで聴いて、なんか面白そう!と思ったので、夫からのお誕生日プレゼント資金で購入。 著者のダニエル・L・エベレット博士は当初キリスト教福音派の伝道師として、アマゾン川流域の一部族であるピダハンの村に赴く。1970年代から30年がかりのフィールドワークで、ピダハンの言語と文化、認知世界を解き明かしていくのだが、結論から言うととにかくめちゃくちゃ面白かった。 まずピダハンの言語、文化が面白い。 数がない。色がない。左右がない。 創世神話もないし、自分たちのために食糧を備蓄することもしないから、お腹が空いても狩りに行かず、今踊りたければ一晩中でも踊る。 自分の常識はアマゾンの奥地ではまったく通用しない。 第1章ではそんなピダハン族の生活について描かれているのだが、まったくわからない言語を1から習得するという苦労、異文化を知るって簡単に言葉にするけど、その中で生活するとなると、当たり前ながら全然簡単じゃなくて、著者の奮闘ぶりにすごく引き込まれる。 マラリアで死にそうになったり、交易商人に唆されたピダハンに命を狙われたり、普通にエンタメ系な読み物としてもとてもエキサイティングだった。 第二章はピダハンの特殊な言語から、現在の言語学の主流であるチョムスキーの生成文法理論との齟齬を語っていて、 うーん、…正直めちゃくちゃ難しい。 チョムスキーって名前、ゆる言語学ラジオでは聞いたことあったけど、どんな理論を言っている人だとかは知らなかったので、wikiで調べたよね。 よくわかんなかったけど笑 ところどころ、おっ!と思うところもあったけど、一章よりページ捲るペースは遅くなった。 そして第三章。 これは素晴らしかった。 読み始めの頃からぼんやりとあった問いに一定の解を得たような、さらに大きな問いが生まれるような結びで、 少し高価な本だったけど、買ってよかったと思わせてくれた。 有用な実用性に踏みとどまり、未来を憂うことのないピダハンにとって、この民族の言語や文化を継続させようという外部からの意思というのは是か、非か? その意思とは誰のものなのか? …面白いなぁ。 実はこの本にも登場したエベレットの息子さんの、最近出た本も一緒に購入したので、そちらを読むのも今から楽しみ。
1投稿日: 2023.03.31
powered by ブクログ過去や将来を考えない。その日一日を生き延びていく生活。独立した一人でありながら、集団の中の仲間意識は強い。 美しくて、優しい自然と人に囲まれているから充足していて、神話も民話も必要がない。 だから、不安や心配はない。 必要のないものを無理に取り入れない。発展せず、程よいところで維持するということこそ幸せが続くコツなのかもしれない。 文化的なところに面白さを感じたので、言語学や旅行記的な部分より文化の比重がもっと重めだったらよかったな〜、と個人的には思う。
1投稿日: 2023.02.06
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
・ピダハン→ブラジルの先住民 ・ピダハン語以外を使う気がない。 ・赤ちゃん言葉がない→大人も子供も対等、メンバーとして責任を負う。 ・抑うつ、疲労、不安、パニック障害等がない→心配という言葉がない。 ・苦しみ、死が当たり前→悲しんでも誰も狩りを代わってくれない。 ・未来より今を楽しむ→食料や道具の保存がない。 ・自分で自分の人生の始末をつける。 ・自分の住む土地に誇りを持っている、美しい土地、美味しい水。 ・直接体験する事しか信じない→神を信じない、他に心配がない。
2投稿日: 2023.01.15
powered by ブクログ同じ言語でもその人の見てきたものや置かれている環境によって、言葉に内包された意味やイメージは変わってくる。今まで経験した会話の中にも危ういものがないか反芻する機会を得た。定説を再考察する言語学として、また作者の冒険記として(どんでん返しあり)の読み応えもあった。 ※追記 筆者がピダハンと共に過ごしたこれだけの時間も費やしても、人間同士の関係性は研究対象の域を越えれないのであれば、隣の人を理解することも到底困難であろう。 良い関係を築くために大事なことは、双方向で研究対象であり続けることなのかもしれない。
1投稿日: 2023.01.09
powered by ブクログ左右の概念、数字の概念がない民族に興味を持ち読んでいたが、想像以上に興味深かった。ピダハンが重んじるのは現在の直接体験のみであり、見えないものやわからないものについてあれこれと心配をしない。その結果なのか鬱や自殺といった精神的な疾患が見られない、というのは興味深い。 過去や未来に捉われず、今見えているものに集中する、という考え方は仏教にも通じる考え方だと感じた。
0投稿日: 2022.12.10
powered by ブクログ前半は作者のエッセイのような冒険記。後半は言語についてだった。 言語学者なのもすごいけど宣教師もすごいな…。作者の熱意とタフさにずっと感心していた。 面白い。ドキュメンタリーの方も見てみたいな。長期的な視野はなく今この瞬間を大事にしていて無理に人を助けない。死ぬべき人は死ぬべきという受け入れ方は世界的には珍しい。作者が異なる文化や価値観を下に見たりうけつけないからと拒否するような姿勢がなくてよかった。 ゆる言語ラジオから気になって読んでみたけど前から有名な本らしく最近の本でもないのに平積みされていたりメルカリでも価格が落ちていなかった。
0投稿日: 2022.11.10
powered by ブクログ2/3はピダハンとの暮らしを綴ったもの。 残りは言語/文法/文化がそれぞれに与える影響の考察と、著者の考え(信仰の変化)について述べている。 若干冗長。
0投稿日: 2022.10.30
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
○ピダハンには左右を表す単語がない。位置は上流下流で表す。 ○裏表紙のコメント読めば中身読まなくてもいいような気がする。
0投稿日: 2022.09.18
powered by ブクログアメリカ人キリスト教伝道師による、ブラジルアマゾンのピダハンのフィールドワーク、言語研究 言語学に関する部分など難しい部分もあるが、 非常に貴重な文化について、そしてそれに接触することによる起こる驚きと考察を味わうことができる 無神論者となった告白が、これまた鋭い!
0投稿日: 2022.09.12
powered by ブクログ「「つながり」の進化生物学」で紹介されていて興味を抱き読んでみた。 言語学者であり伝道者である著者が、アマゾン奥地の少数民族とともに暮らしながら消滅危機言語にある彼らの言語について研究した記録。面白かった。生活や民族性の描写には以前読んだ「ヤノマミ」「ノモレ」を思い出しつつ、彼らの考え方や精神世界が言語という切り口から明らかになっていくのはとても興味深くて、目からウロコが何度も落ちた。 ただ、後半の言語学の専門的な部分が不勉強な身には難しかったことと、いかにもな翻訳口調が慣れなくてなかなか読み進まなかった。
0投稿日: 2022.05.16
powered by ブクログボスのお薦めにて読了。ビジネス書ではなく言語学ノンフィクション。なかなかこの本をお薦めしてくれる人はいないなぁ。。貴重な読書経験でした。 本著、アマゾンの奥地に暮らすビダハンという少数民族の言語研究を30年以上してきた著者によるエピソードから、ピダハンの文化論、言語学からの考察等々、少し学術的なくだりもありますが、概ね読みやすく、楽しく読めました。 読了して強く感じたのは「言語を解明していく大変さと面白さ」「『幸せ』の定義の難しさ」の2点です。 前者「言語を解明していく大変さと面白さ」について、全世界で400人ほどの話者しかいない、現存するどんな言語にも似ていないピダハン語を、現地で暮らしながら手探りで少しずつ解明していくことの面白さ。これを著者自身の視点から臨場感を持って味わうコトができるのは本著の素晴らしいポイントだと思います。 ピダハンたちは「経験の直接性を重んじる原則」として、自分たちが実際に見るものしか信じない。このため口承伝承の入る余地がなく、つまり、元々キリスト教をピダハンたちに布教しに来た著者は「お前が実際に見た人や物事の話じゃないんだろ?」と聖書の内容を相手にしない。この布教はしんどいなぁ。。 また、ピダハンの言葉、左右もなければ色も無い。数の概念もちょっと違う。ただ、それには暮らしに根差した必然性があって、例えば左右ではなく上流の方/下流の方といった指し示し方をする。ある意味合理的です。 後者「『幸せ』の定義の難しさ」について、ピダハンたちはジャングルの中に裸足&上半身裸で暮らしていて、平均寿命も短く、危険に囲まれていて、文明的な快適さとは程遠い環境な訳です。 ただ、それでも彼らは幸せそうに笑っていて、「心配する」意味の言葉すらなく、MITの認知科学の研究チームも「これまで出会った中で最も幸せそうな人々だ」と太鼓判を押す。 著者はキリスト教の布教で現地に行ったのに、最後にはピダハンたちの生き方の方に惹かれて、無神論者になってしまう。 うーん…ここまで来ると「人間はどう生きるべきなのか?」という問いすら浮かんできます。 幸せに自然の中で生きて死んでいく姿と、不満の中で都会に住んで長生きする姿。もちろん、短く生きるのが良いコトだとは言わないものの、地球に生きる存在として、どちらが本当にサステイナブルなんだろう?と思ってしまいます。 (かと言って、明日から森の中で自給自足しろ!と言われても能力的にも心情的にも無理ですが…) 上記以外にも、言語と文化との関係に関する考察などもあって、ここは個人的にはちゃんと感想を述べられるレベルではないですが、考えさせられました。 あと、本著のような著作を邦訳するにあたっての訳者さんのご苦労と言ったら並大抵ではないだろうと思いました。(訳者あとがきでも少し触れられていましたが) これだけ読みやすかったのは翻訳のおかげも大きいと思います。 毛色の違う本を読んでみたい、という際には良い1冊だと思います。良著でした。
11投稿日: 2022.05.08
powered by ブクログ傑作だが何度も挫折した。冒険譚を期待していたので言語学の部分がミスマッチになっていたと思われる。とはいえ言語学の部分もめちゃくちゃ面白く、なぜ挫折するのか自分でも疑問だった。モチベーションの立て方を間違えなければすんなり読めただろうに。
2投稿日: 2022.05.05
powered by ブクログ30年以上にわたってピダハンの村に出入りした経験にもとづいている。ライフワークを一冊の本に凝縮しているわけで読み応えあり。単純にちょっとした冒険譚・異文化見聞録としてすでに面白い。それに、われわれとかなり隔たった文化・価値観を持ったピダハンの人々についての深い観察が加わる。 もともと言語学者としてはチョムスキーの系列に学んでいたようだが、ピダハンとの経験をもとに普遍文法の学説と袂を分かっている。そもそも普遍文法をよく理解できていないのだが、文化が言語に影響を与えるというアイデアのほうが素人には理解しやすい。 気になるのは、ピダハンのような文化が孤島的な例外なのか、それとも探せば普通にあるものなのか。本書の中で類似した文化・言語がありそうなことも示唆されるが、そこは掘り下げられていない。
0投稿日: 2022.02.11
powered by ブクログまず、この本が生まれたことに感謝。 日本語で読めることもありがたすぎる。 自分がいかに小さな世界で枠にとらわれて生きているか気付かされる。 より良く生きるとは、幸せとは… 素晴らしい体験だった。
1投稿日: 2022.02.02
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ゆる言語学ラジオで紹介された回がすごく面白かったので、本も読んでみた。 前半は、ピダハンの言葉や文化、筆者がピダハンの村に住んでいた時のエピソードが紹介されている。 後半は、ピダハン語から考える言語学について説明されている。 前半は面白かったが、後半はある程度の言語学の知識が求められ、私にとっては少し辛かった。 ゆる言語学ラジオで内容を知っていても、十分面白い作品だと思う。
0投稿日: 2022.01.31
powered by ブクログ著者のダニエル・L・エヴェレットは、ピダハン族にキリスト教を伝えるためにアマゾン奥地へと派遣された福音派の伝道師だ。400人しか話者のいないピダハン語に聖書を翻訳するために、まずは言語の研究を始める。このピダハン語が、英語や日本語とはかなり異質のものであり、それを知るだけでも大変面白い。「数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない・・・」と帯にも書いてあるが、他にも、「おはよう」や「ありがとう」といった交感的言語使用がなく、他にも、”and”や”or”に対応する接続詞も、関係代名詞もない。 エヴェレットは、ピダハンと生活を共にしながらピダハン語を研究する中で、ピダハンの言語の特性と生き方や文化の間に密接な関係を見つけていく。そして、最後は、ピダハンにキリスト教は必要なかったということを発見してしまう。だけではなく、自分にも神もキリストも必要ないことを自覚し、無神論者に転向してしまうのであった。 後半は、言語学にとどまらず、人間とは何なのかという根源的なテーマまで追求する、考えさせられる1冊であった。
0投稿日: 2022.01.29
powered by ブクログ著者を伝道師から無神論者へと変えることになったピダハンの人々は実に興味深い。 "西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えないだろうか。" 言語学の説明の部分がちょっと難しすぎたかな。
2投稿日: 2021.12.13
powered by ブクログゆる言語学ラジオの紹介から 未知の言語の理解のプロセス、その中で体得したピダハン文化への理解、他の言語論との衝突、衝撃の終章 まさに目から鱗の連続だった。 文明文化への適応が人の悩みの源泉ではという著者の指摘はすごく納得するけれど、おいそれとその枠から出る勇気のない自分にとっての解はどこにあるのか。。 ただ、この一冊からも著者がいろいろありつつもピダハン同様生き生きと暮らしている雰囲気を感じ、これが本の力になっているのだと思う。ピダハン同様、直接体験に裏打ちされた力強さ
0投稿日: 2021.12.11
powered by ブクログ面白かった。 自分探しの旅を成功させた人。 前半は小説を読んでいるようなワクワクを感じ、後半は言語学に関してなんとなく知ることができた。 前半を読んでいて、キリスト教も出張歯医者もピダハンには不要ではないか?と思った。彼らは今の状態で満たされていて、豊かになったり賢くなったりする必要性を感じていないのではないか?むしろ、中途半端に知識が入ってくることで不幸になるんじゃないか?と不安だった。 けれど、後半で、ピダハンでの経験からキリスト教を信じられなくなったのは驚いた。ピダハンには必要ないどころか、自分にとっても必要ないと思う程の経験だったということだ。 筆者も書いているが、豊かだけどストレスフルな生活と、必要十分だけどストレスフリーな生活、どちらが良いんだろうと月並みなことを考えてしまう。 日本の便利な生活を知っている私はアマゾンで暮らせないけど、都心から一度くらい離れてみるのも人生に必要かもしれない。
0投稿日: 2021.10.12
powered by ブクログ文句なしの★5 好奇心がこれでもかと刺激され,学びがあり,読み物としての面白さも確立している. ピダハンはアマゾン奥地で暮らす少数(400~500名)・狩猟採取民族であり,ピダハン語という独自の言語を使う. ピダハン語には数字や数量詞,左右,色といった概念がない.一見不可思議で不自由に見えるピダハン語の背景にあるものは”直接経験”.彼らは自分が実際に見聞き,体験したものでないことには触れない文化をもつ. 概念的な左右や数字はもちろん,未来,過去完了といった表現も持たない. あまりにも特徴的な言語に”直接体験”という一つの本質・軸があることに気づいた筆者には脱帽だし,これをきっかけにピダハンの文化や慣習に対する謎を解いていく展開がとてもよい.言語の理解にはその土壌たる文化や慣習の理解が必須なんだとわかる. 西洋文明に浸った我々からピダハンの人たちを見たら,その原始的・不衛生・危険・生活物資の物足りなさを嘆くだろう.だが,彼らはこれに満足をしており日々を大変幸せそうに暮らしている. ”自分たちが知らない事は心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のこと全てを知り得るとも思わない。その延長で、彼らは他者の知識や回答を欲しがらない。” ”ピダハンは断固として有用な実用性に踏みとどまる人々だ。天の上のほうに天国があることを信じないし、地の底に地獄があることも信じない。あるいは、命をかける価値のある大義なども認めない。彼らは私たちに考える機会をくれる。絶対的なる者のない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。” ”ピダハンには食料を保存する方法がなく,道具を軽視し,使い捨てのカゴしか作らない.将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ.だからといって怠惰ではない.” ”将来よりも現在を大切にするため,ピダハンは何をするにも,最低限必要とされる以上のエネルギーを一つのことに注いだりしない” ”ピダハンの若者からは,青春の苦悩も憂鬱も不安も伺えない.彼らは答えを探しているようには見えない.答えはもうあるのだ.新たな疑問を投げかけられることもほとんどない” ストア哲学や「森の生活」のヘンリーDソローにも通じるようなミニマリズム,現実主義,ないものを見つけて嘆くのではなく,あるものに満足を見出す力を感じる.そしてとても幸せそうなのが何よりも魅力的だ. だからといって彼らは怠惰なわけではない.凶暴な獣がうようそするジャングルではぐっすり眠ることもできず,日々狩猟・採取をこなさないと生きていけない. その強かさが表れていると感じたのは子供に対する取り扱いだ.彼らは生まれた子供に赤ちゃん語を使って話しかけることはしない.体格は違えど一個の人間として認め,それ相応の扱いをしようとする.幼い子供が刃物を触っていても母親はそれを取り上げようとしない.乳離をした子は家業の手伝いに入る必要がある.こういうことを通じて,幼少の頃から自分のことは自分でやるという強かさが身に付くんだろう. 筆者の体験も物語として興味深い.家族でジャングル奥地に移住したのは良いものの,妻や子供がマラリアにかかり絶体絶命に陥ったこと,また,言語学者と当時に宣教師という一面を持っていた彼が,”直接体験”を価値とする彼らの言語や文化,幸せそうな日々の暮らしを見てきた中で無心論者になり家族の崩壊を招いてしまったエピソードはそれだけでもコンテンツ性が高い. また,ピダハンの生活を通じて見える「言語と文化と認知の相関」も大変興味深い.私たちは普段自由に物事を考えていると思うかもしれないけど,実は文化や利用する言語が私たちの認知に何か影響を,つまり,文化や言語は認知と独立しておらず,寧ろそれらがフィルターになってしまっている可能性が示されている. これは日々の生活でも留意に値する.フラット・ラディカルに物事を考えたつもりになっても,思考の枠組みが文化や言語の影響を受けていると知っておけば,自分が抱く認知や考えに対して謙虚になれるかもしれない.またこういう気づきをもたらしてくれるということが文化人類学として消えそうな部族やその言語を研究することの価値を表している. まだまだあるだうろが総じて以下の教訓,気づきを得られた. 大変満足.こういう本をもっと読みたいね. ・”直接体験”という概念. 左右や数字といった生活に不可欠と思われるものも含め,我々の生活には非直接体験な概念に囚われすぎているんじゃないかという気づき(その際たる例が宗教,卑近な例としては老後問題等) ・人類学やその対象になる少数部族の価値. 彼らの文化や言語は文明で圧倒的な差をつけた現代社会に対し深遠な教えをもたらしてくれること. ・自分に染み込んだ文化,言語,それらが認知にも影響を与えており,異なる言語や文化の人と接するときは感じている世界がまるで違うかもしれないということ.知的謙虚さ. ・とても幸せそうに暮らすピダハンという人たちが徹底的な現実主義で一方日和見主義的な日々を送っていること. ・子供を一個の人間として認めること. =================================== (ピダハンでは)西洋医学なら簡単に治せる疾病であったとしても,その人物が命を落とす可能性は高い.ピダハンの葬式には,当座の食べ物を料理してとってきてくれる隣人も親戚もない.母親が死んでも.子供が死んでも伴侶が死んでも,狩をし,魚を捕り,食糧を集めなければならないのだ.ピダハンが,必要なときには世界中の誰もが自分を助けるべきであると言わんばかりに振る舞ったり,身内が病気か死にかけているからといって日課をおろそかにしているところを見たことがない.冷淡なのではない.それが現実なのだ. ”科学者として客観性は私が最も重んじる勝ちだ。かつて私は努力しさえすれば互いに世界を相手が見ているように見られるようになり、互いの世界観をもっとやすやすと尊重できるようになると考えていた。しかし、ピダハンから教えられたように、自分の先入観や文化、そして経験によって、環境音を感知するかと言うことさえも、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場面があり得るものなのだ。” 声調言語→私 と はいせいぶつがおなじ単語 ピダハン語には比較級がない 色もない 文化人類学 物質的・社会的特徴ー>伝統,文化ー>精神世界 神話 信仰 直接経験の原則.ー>口承伝承や儀式が入る余地がない ネックレス→悪霊を取り払う 長期的に役に立つ道具を作る技術があっても作らない.人の動きにものを合わせる.外部からそういう知識や習慣を取り入れない.肉の保存方法を知っているが,自分たちのためには使わない(客用) 1日3食の静養習慣に驚く「まだ食べるのか?」 ”ピダハンには食料を保存する方法がなく,道具を軽視し,使い捨てのカゴしか作らない.将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ.だからといって怠惰ではない.” ”将来よりも現在を大切にするため,ピダハンは何をするにも,最低限必要とされる以上のエネルギーを一つのことに注いだりしない” ”ピダハンの若者からは,青春の苦悩も憂鬱も不安も伺えない.彼らは答えを探しているようには見えない.答えはもうあるのだ.新たな疑問を投げかけられることもほとんどない” →ピダハンの人みなは自分のことは自分で始末をつけ,人生に満足を感じる人の社会. →宣教師もそんなピダハンのよさに憧れてきたんだろ.と見られている.ここも大変皮肉だ. →時間選好が極端に高い. 自助・他者への寛容(酔っ払った人に愛犬を撃たれても相手を非難しない) ”誰もが1週間に15時間から20時間程度「働」けば良いということになる” ”産業化の進んだ文明では,ある意味でテクノロジーの進歩が成功を意味する.ピダハンのはそうした進歩はないし,望んでもいない” →西欧を起点に発達した現代の資本主義・社会制度に対する大変な皮肉だなあ. マニオク(キャッサバ):青酸を含んでいるため虫や動物がつかない.解毒処理できる人間だけが食べる炭水化物 ピダハンには赤ちゃん言葉というものがない→ ”ピダハンの社会では子供も一個の人間であり成人した大人と同等に尊重される価値がある”ー>子供が刃物で遊んでいても取り上げようとしない.=>適者生存のダーウィニズム (乳離れしたばかりの子供)"多少の空腹はピダハンの世界では苦労のうちに入らない。だが初めて大人の世界に足を踏み入れた幼児には衝撃だ" ピダハンにおける社会がもたらす強制力→村八分、精霊 イビピーオ:直接体験 知覚経験の内外の行き来を体験 睡眠中に見る夢も現実の体験 左右も数もない、色、数量詞もない →直接体験ではない普遍化が必要な概念だから ”叙述的ピダハン言語の発話には,発話時点に直結し,発話者自身,ないし発話者と同時期に生存していた第三者に西大口よって直接体験された事柄に関する断言のみが含まれる. ”ピダハンの神話には現存する目撃者のいない出来事は含まれていない” ピダハンには創造神,絶対神はいない.精霊はいるが,それはピダハンの人は確かに実際にそれを見聞きし,経験していると考えている.=超自然の体験 →スピリチュアル系にハマったアレな人も,当人はそれを経験しているという自覚があるから考えを覆すのって容易じゃないな ピダハンは川やジャングルといった外的環境で位置,方向を判断する 右,左といった主観的な判断軸は持たない ー>左右か,東西南北か ソシュール→情報のやり取りに必要なもの 構造と意味 ハチはダンスという形で餌の方向という意味を伝達する 修飾→話題にされていることの意味を絞る 聡明な人も私たちの話し方は考え方に影響する サピア=ウォーフ仮説 →言語と文化と認知には相関がある "私たちが日常目にしたり耳にしたりするものは、私たちが世界について語る方法によって決定付けられる" "サピアはさらに、私たちが世界をどう見るかは言語によって構築され、我々が見ているものは何であれ、それが何を意味してるか教えてくれる言語と言うフィルターなしに感じることのできる「現実世界」なるものなど存在しないとまで言っている" リカージョン(再起)もない 創世神話の存在を確かめようとマイクをピダハンに向ける若者に対し、ピダハンが「おいダン(著者、このとき現地にいない)薬をくれ、服をくれ!」というシーンめっちゃシュールで面白いな(その若者はこれを創世神話だと息巻いて著者に聞かせた) p342 "知識とは、経験が文化と個々の精神を鏡にして解釈されるものだ" "私たちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどもし、文化に引きずられて私たちの使用が制限されるとするなら、その試合は役に立たない環境においては、文化が世界の見方を歪め、私たちを振るな状況に追いやることになる" →日常生活でも起きている。人間を養分にする諸々は植え付けた観念で現実をはぐらかすものばかりである。 プロクルステスのベッド、理屈至上主義、疎外 信仰告白→非直接体験の指摘→"ピダハンは自分たちが実際に見るものしか信じない" "もし人々が自分たちの生活に何か深刻に満たされていないものを感じていなければ、あなたの信仰を受け入れるとは考えにくいし、まして神谷救いを求めようとするはずもない。 →宗教は心の隙見を埋めるとも言えるしマッチポンプともいえる。 "1つ言えるのはピダハンのところに持っていった申請のメッセージが世界のどこに行っても通じるものだときめこんでいた私の自信には、実は根拠など全くなかったと言うことだ。" "ピダハンは、新規な世界観を切れる市場ではなかった。人の手などを借りずとも、自分のことは自分で守れるし、守りたい人々だ。 私が大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れももいいところだった。ピダハンからすれば単なる迷信であり、それが私の目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた。私は信仰と言うものの本質を、目に見えないものを信じると言う行為を、真剣に取り始めていた。聖書やコーランのような聖典は、抽象的で、直感的な信じることができない死後の生や処女懐胎、天使、奇跡などなどを信仰する事を称えている。ところが直接体験と実証に重きを置くピダハンの価値観に照らすと、どれもがかなりいかがわしい。彼らが信じるのは、幻想や奇跡ではなく、環境の産物である精霊で、ごく正常な範囲の様々な行為をする生き物たちだ(その精霊を私が実在と思うかどうかは別として)。ピダハンには罪の観念はないし、人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないと言う必要性を持ち合わせていない。おおよそ物事はあるがままを受け入れられる。私への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。 私が自分の信仰に疑いを挟んだのは実はこれが初めてではなかった。ブラジルの知識人や、日々暮らし、それにたくさんの読者の声で亀裂が入っていたので。ピダハンはその最後の一石になった。" トマス・ジェファーソン 「精神の専制者」ー自分の理性よりも外部の権威に従うことー 人間を往々にして、鼻だけを見て像の全体像を知ることができると早とちりする愚か者であり、単に明るいからと言うだけで、落としたはずのない場所で落とし物を探そうとする買い物だ。ピダハンは断固として言うような実用性に踏みとどまる人々だ。天の上のほうに天国があることを信じないし、地の底に地獄があることも信じない。あるいは、命をかける価値のある大義なども認めない。彼らは私たちに考える機会をくれる。絶対的なる者のない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。 ”信仰と真実と言う支えのない人生を生きることが可能だろうか。ピダハンはそうして生きている。もちろん私たちと同じような心配事も書いてはいる。私たちが抱く心配事の多くは、文化的文脈とは関係なく、生物としての人間だからこそ生じる心配事であるからだ。〜 だがピダハンはたいていはそうした生物としての心配事にもとらわれずに生きている。なぜならいちどに1日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているからだ。ピダハンはただ単に、自分たちの目を凝らす範囲動く直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席捲している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。” "ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子供たちと笑いあうこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。そういう間 彼らは原始的な存在だろうか?人類学ではそのように考え、だからこそピダハンが神や世界、創世をどのように見ているか懸命に探ろうとする。しかし面白いことに物事には別の見方もある。西洋人である我々が抱えているような様々な不安こそ、じつは文化を原始的にしていると言えないだろうか? どうか考えてみて欲しいー畏れ、気をもみながら宇宙お土産、自分たちは宇宙の全てを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神は真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが力を極めているかを。 ピダハンは、自分たちの生存にとって有用なものを選びとり、文化を築いてきた。自分たちが知らない事は心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のこと全てを知り得るとも思わない。その延長で、彼らは他者の知識や回答を欲しがらない。彼らの世界観ーいまわたしがここでで簡潔に要約したようなものではなく、普段の日常生活の中から培われてきた生き生きとした世界観は、私が自分の人生と、たいした根拠もなく抱き続けていた信念と振り返ってみたときに、途方もなく役に立ち、また得心"させてくれるものだった。 "ピダハンには「心配する」に対応する語彙がない。ピダハンの村に来たMITのノート認知科学の研究グループは、ピダハンはこれまで出会った中でも最も幸せそうな人々だと表していた。"
0投稿日: 2021.09.20
powered by ブクログかなりおもしろい。 「ゆる言語学ラジオ」で取り上げられており、読んだ。 不安や心配やしんどいことを思い悩むときに、読むといいかもしれない。それくらい、常識というものを吹っ飛ばされるので、ついでに悩みも吹っ飛んでくれるかもしれない。 アマゾンの少数民族ピダハンと30年以上ともに暮らしながら、その言語と文化を研究した男の、研究成果といった本である。著者は言語学者であり、キリスト教の伝道師でもある。 言語学として、宗教学として、人類学として……。さまざまな観点から書かれているのでひとまとめに感想を書くのが難しい。学術的な用語も出てくるが、めちゃくちゃ難解というわけではない。 しかし、やはりとにかく、特筆すべきはピダハンたちの文化だ。いや、彼らの文化と、われわれの文化の相違に、感じ入るところがある。 わたしたちが常識と思っているものが、どれだけ地域や時代にとらわれた一時的なものであるのかを教えてくれる。 ピダハンの文化や美徳とするものを端的に表すと、「直接体験のみを重んじる」ことだ。会ったことのない人間から聞いた話は信じないし、そもそも関心がない。外部の知識も聞くことは聞くが、自分たちの生活に真剣に取り入れることはない。 (その点が、一般的に想像できる人間集団と大きく異なるところだろう。普通、自分たちの文化を大切にしながらも、外部の知識や便利な物品は手に入れたいと考えるものだ) だから、著者がイエス・キリストの素晴らしさを説くとき、ピダハンたちは「会ったことがなく顔も知らない人間の言葉を信じているの?」と言う。 彼らは福音や奇跡の内容を理解できないわけではない。むしろ、説明するとしっかり理解している。その上で、「それはあくまで、あなたたちのストーリーだ。ピダハンには必要ない」と一貫した態度をとる。 著者は言語学者でもあるので、「実証」の大切さを身に染みて知っている。あるとき彼は気がつく。実証の大切さを重んじてきた自分が、こと信仰においてのみ、実証を軽んじていたことに。 天使も奇跡も処女懐胎も、そのどれもが、実証とはかけ離れたものであった。 著者はこれまで、無神論者や不可知論者たちとも、多く対話をしてきたという。シカゴのストリートで説教したこともあるという。きっと、神なんているわけないよ、という言葉も多く聞いただろう。それでも彼は自分が信仰によって救われた直接体験をもとに、アマゾン奥地へ赴き、ピダハンに信仰を説く。そして引き裂かれる。心の奥底にあった小さな疑問が、アマゾンで爆発したのだろう。 「イエスって誰やねん、会ったことないんやけど」。このシンプルな反応に対し、著者はついに反論できなくなる。 ピダハンには「心配する」にあたる語彙がないという。いま食べるものがないことを嘆かない。それは、自らの狩りの技術や、良質な狩場を知っていることの自信の現れでもあるだろうし、人生をあるがままに受け入れることの美徳を信じているからだとも思う。 著者自身、ピダハン以外でも20以上の部族を調査したらしいが、ピダハンたちほど幸せそうな人たちはいなかったという。 ただし、「ピダハン最高」と一方的に断定する本ではないし、ピダハンが完璧な存在であると言っているわけでもない。 彼らは数字や計算を用いないので、たまにやってくる交易商人にうまく騙されているのではないかと疑っているし、商人にもらった酒を飲んで暴れ回ったりもしてしまう。また、医療技術がほとんどないので、マラリアにかかればほとんど死ぬしかない。赤子の死亡率は西洋人に比べてかなり高いし、平均寿命はずっと短い。 文化や価値観は一長一短だ。しかしそれらを差し引いても、彼らの幸福そうな様子というインパクトは大きい。 単純な物差しで文化や価値観を比較することの浅はかさを、あらためて理解させられる。 まだまだ書きたいおもしろいエピソードが大量にあるのだが、キリがない。 たとえばピダハンは、空の世界、地面の世界、地面の下の世界、いう風に、宇宙を「スポンジを重ねたケーキ」のように信じており、その境界を「ビギー」なる言葉で表現するのだが……やはりキリがない。 本を読むのが面倒な人には、ゆる言語学ラジオをオススメする。
0投稿日: 2021.09.18
powered by ブクログ70%くらいまでは、アマゾンでの生活・トラブル・ピダハンの生活様式や言葉の特徴等についての章が続く。 個人的に文化人類学は好きな分野でもあり、とても読みやすかったのと、エヴェレットの描写が具体的で自分もアマゾンに居る事が想像できるくらい読んでいて楽しかった。 70-90%あたりは、ピダハン語を言語学観点から分析し、今までチョムスキーが述べている論旨を覆すことになるのでは?という話や、音声学の話が詰め込まれている。少しは言語学には興味はあったものの、言語学の知識があまりなかったため、完全に理解し、楽しむことができなかった。(いつかチョムスキーのことも調べた後にリベンジしたい。) 90%以降の部分は、エヴェレットの本来の目的であるキリスト教布教についてのエピソード。ここも、文化の違いによりエヴェレットが感じることがありありと書かれていて、とても楽しかった!
0投稿日: 2021.09.08
powered by ブクログ文化と言語によって自分(人間)の思考回路が作られているというのは感じていても、この本の中で何度も自分の言語に関する常識をひっくり返された。 「直接体験の原理」。ピダハンが未開の地の原住民族ではあっても、彼らを魅力的にするのは全てこの原理なんだって最後にストンと来るのはとても面白い。 言語学としても面白いし、前半のピダハンの文化も面白い。ずっと著者の話に爆笑させられながら読める。 まだ自分の言葉に落とし込めるほどこの本を理解しきれてないのだと思うけれど、信仰や文化などと言語の関係性など、自分の思考原理となる大部分を理解するヒントがこの本にあるって思ってるし何回も読みたい。
2投稿日: 2021.08.17
powered by ブクログアマゾン奥地の人が、どんな生活をして何に価値を置いて、どう生きているのか。 私の知らない世界があるということ、 不便な生活なようで、実は彼らは本当の幸せを手に入れているということ。 私たちは便利なものを手に入れた代わりに失っているものがあることに気がつかなければならないのかもしれません。 言語学の専門的な内容が多く、素人の私には難しい部分もたくさんありました。
0投稿日: 2021.08.02
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
宣教師であった著者が、アマゾンのジャングルに住むピダハン族の生活、世界観、言語について語っている本。後半はピダハン後が言語学に与えた大きな影響、その特異性について取り上げられている。 儀式もない、神や創造神話もない、生活を向上させる意欲も、罪の意識も、数や左右の概念も、過去形・未来系の語りもない、彼らにはただ眼前のジャングル生活の現実がある。超自然的な観念が一切ないというわけではなく、聖霊の存在は認めるが、それも実際に見えている・言葉で交流をする現実のものとして実在しているのである。過酷ながらもその生活は笑いに満ち、不安にさいなまれるものはいないという。まるで、聖書の「野のゆり」のような暮らし!福音を一切必要とせずに幸せに生きるピダハンと暮らすことで、著者は最終的に無神論者になってしまうのだから、皮肉な話だけど。 福音は苦しむ人間を救うものではあるが、彼らには救われるべき不幸はそもそもなかったし、信仰なしに隣人愛と喜びの生活を実践できていた。神の意思によってピダハンに「遣わされた」はずの宣教師が自らの信仰の意義を見失ってしまうのも無理のないことではあるだろう。 困難は自分自身の力で切り抜けることが当たり前という価値観で、難産の産婦を見殺しにしてしまったりもするのだが、誰かに依存したり人を妬み恨んだりということもない。でもピダハン同士は村全体がとても親密であり、(助かる見込みがあるのなら)窮地にある同族を助け合うのも当然のこと。この辺りのバランスがすごい。もちろん手放しでピダハンは素晴らしい民族だなどと言うことはできないけど、精神の安定がこんなに強靭な暮らしがあるんだなと驚いた。 後半で触れられている、言語は文化と切り離せないものであり、文法的事項も言語が使われている・いた文化の制約と人間の認知とが生み出したものである…という言説も今では違和感なく受け取られるような印象だが、それもこのピダハン論争あってのことなのだろう。
0投稿日: 2021.07.14
powered by ブクログ著者がアマゾンの奥地で体験するピダハンとの日々はリアルなドキドキワクワクの冒険話。また言語や文化という観点から世界の見え方、幸せとはなんだろうと考えてさせてくれる哲学とか宗教的なな話にも繋がってくる。哲学とか宗教は人生の苦難を知ってる人が諭してくれるもののイメージがあるが、人生に満足しているピダハンとの体験を通じて幸せってこういうことなのかなの思えることが、変に身構えずそうかぁって思えるので爽やかで現実的なことに思える。
0投稿日: 2021.07.11
powered by ブクログ【感想】 「言語が人の認知に影響を与える」という学説は、今や広く知られている。 では、「右」と「左」の概念が無い人々は、いったい世界をどのように見ているのか? 本書は、言語学者であり宣教師でもある筆者が、アマゾンに住む民族「ピダハン」と生活し、彼らの特異な文法から生活様式と価値観を紐解いていった一冊である。 ピダハンは非常に原始的であり、実際に見たものしか信じない。それは「論より証拠」の範疇を超えており、文法と思考そのものが「実際に見た」ことしか語れなくなっているのだ。そのため、ピダハン語に未来完了形はなく、「左右」「数字」「色」といった、原風景を抽象化する概念も存在しない。 人間の歴史は空想と物語によって発展してきた。神、王、国、人権、生存権、貨幣と信用などのように、物質的には存在しない概念に言葉と定義をつけることによって、個人が集団に、集団が国に、国が世界に統合することが可能になった。こうした名づけがなければ、人間が自分の手の届く範囲以上に発展することは不可能だったであろう。 ピダハンは、そうした人類の進歩の初期段階に位置する手つかずの人間達である。 では、彼らはわれわれに比べて劣った民族なのだろうか? 筆者はこれにNOと答える。「文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。」 私たちは自然と、原始的民族は私たちより劣った人間であるとみなす。その思いは物質的豊かさの違いから来るものだけではなく、知識の多寡と文化的な重層感から来るものでもある。早い話が、「われわれは複雑な社会だからエライのだ」という感覚を持っているからである。 しかし、社会の複雑さを捨て去って、抽象的概念、つまり「未来についての心配」を思考そのものから取り払っている彼らは、周りまわって幸福な人々ではないだろうか。これ以上進歩しない代わりに、これ以上未来を知ろうとする必要もない。身の周りのことのみを考えて、一瞬一瞬を懸命に暮らすというのは、盲目ではなく一種の諦観だと言えるだろう。 言語とはなにか、文化は言語に規定されうるか。 ピダハンの価値観の珍しさに触れながら、筆者のフィールドワークの結晶を楽しんでいただきたい。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 【本書のまとめ】 1 ピダハン語の特異性とピダハン語話者による認知 ピダハン語:ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの人々岳が使用している言語で、現在4,500人しか使用者がなく、消滅の危機にさらされている。 ピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がない。 ピダハン語には、言語学で言う「交感的言語使用」が見られない。交感的言語使用とは、こんにちは、さようなら、ご機嫌いかが、といった、新しい情報を提供するものではなく、人間関係の維持や対話の相手を和ませるものだ。ピダハン語にはありがとう、ごめんなさいに相当する言葉はなく、気持ちを態度で表現する。 同様にピダハン語には、多くの言語に見られる要素が欠けている。比較級、色、数字を表す言葉もないのだ。それでいて文章のつなげ方が恐ろしく難しい。 極めつけは方角である。ピダハンには右や左という概念がなく、方向を「上流」と「下流」で表す。ピダハンは常に自分と川との位置関係を把握しているのだ。 環境をどう感知するかということさえも、自分の先入観や文化、そして経験によって、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場合がありうるのだ。 ピダハンの言語は、世界についてわたしたちとは異なる視点を使い手に要求している。では、我々とは違った世界の見方をしている「ピダハン」の文化とはどういうものなのか? 2 民族的ふるまい ピダハンは俗にいう「部族」らしい部族ではない。儀式やボディペインティングをせず、アマゾンの他の部族のように、目に見える形で文化を誇示しない。 ピダハンの生活は物質とは無縁だ。家は天候から身を守るための簡素な小屋である。彼らは道具類をほとんど作らず、芸術品はほぼ皆無。あるとすれば弓などの狩猟道具だ。 ピダハンは、われわれほど「食べ物」を重要視していない。 まず彼らは3食も食べない。たいていは日に一食であり、食べられるものがあるときは無くなるまで食べつくす。それは食べ物が無いわけではなく、食べるという行為の優先順位が低いから、食べ物を口にしていないのだ。 ピダハンは食品を保存する方法を知らない。それどころか、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。 将来を気に病んだりしないことがピダハンの文化的な価値なのだ。 加えて、彼らは儀式も行わない。何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物が行動や言葉といった「生の形」で伝えようとするのがピダハンなのだ。 3 家族と集団 ピダハンは穏やかで平和的な人々だ。ピダハンはどんなことにも笑い、いつも幸福な顔をしている。 ピダハンは他の社会にはないほど家族関係が親密であり、集団意識がとても強い。一方、隣人と気軽に性交渉をしてもそれを善悪の基準として見ておらず、血縁を基準とした社会的基盤は薄い。浮気も普通にする。浮気したふたりは村を離れ、そのあいだ元の配偶者は彼らを探す。村を出たふたりは戻ってきて一緒に暮らしはじめる場合もあれば、元の鞘に収まろうとする場合もある。 ピダハンは平穏を大切にしているが、仲間内の規範を破らないというわけではない。ただピダハンは、互いに助け合い、ときに他者の野蛮なふるまいにも忍耐強く愛情たっぷりに理解しようとするだけだ。 ピダハンは、子どもを大人と対等に扱い、庇護する対象とは見ていない。乳離れすれば大人と同様に小食を強いられ、自分の力で狩りをすることを求められる。 その背後には、「適者生存」のダーウィニズムがあるのだ。 4 自然と直接体験 ピギー:ピダハンが考えている地球の階層のこと。ピダハンは、この宇宙と地球がサンドイッチのように複数の階層になっていると信じている。 ピダハンには数字の概念が無い。また、色の概念もない。 それは、ピダハンは「語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定する」という価値観の中生きているからだ。 ピダハンの言語と文化は、「直接的な体験ではないことを話してはならない」という文化の制約を受けている。ピダハンたちは、自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し、時間の埒外には言及しないのだ。 これがピダハンを取り巻く「直接体験の法則」である。だから彼らには歴史や創世神話も無く、血縁関係も単純(自分が直接触れ合える範囲より外に広がらない)であり、数字という抽象的な記号の概念もないのだ。 それでいて、ピダハンはよく「精霊と会った」と言う。彼らの言う精霊とは現代人の論じるスピリチュアルな存在ではなく、実際に「いる」ものとして、接触し、話し、自らに降霊させるものである。 彼らは体験したものしか語らない。そのため、夢は彼らにとって「現実の体験」のように語られるのだ。 5 ピダハン語の言語構造 ピダハン語に音素が少ない(母音3種類、子音8種類)のは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、普通の語りなど、ディスコースのチャンネル(伝達の回路)がたくさんあり、子音も母音もさほど重要ではないからだ。 言語とは、構成部分(単語、音声、文)の総和ではない。純然たる言語だけでは――その言語を成り立たせている文化の知識なしでは――十分なコミュニケーションや理解には不足なのだ。 ピダハンは外国の思想や哲学、技術などを取り入れようとはしない。自分たちの文化に位置づけられていないもの、例えば他の宗教の神々や西洋的なバイキンといったものを話題にするということは、彼らに生き方やものの考え方の変革を迫る。ピダハンはそれを拒んできたため、話法が外部からわかりにくくなっているのだ。 わたしたちは往々にして、自分たちが価値を認める事柄や、その事柄について言葉にするやり方はあくまでも「自然発生的」なものだと思いがちだが、そうではない。むしろ、ある特定の文化、特定の社会にたまたま生まれついたことによる、いわば偶発的なモノなのだ。 ピダハン語には関係節がない。 例えば、「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」と話したいとする。通常の言語では「ダンが買ってきた針」と「針を持ってきてくれ」の2つの文を並列にしたり入れ子にしたりして、一つの文として結合させる。 しかし、ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と言う。形の上では関係節とは言えないが、短文を並べることで関係節の表現を作っているのだ。 ひとつの文や句が別の文のなかに入ってくる入れ子構造のことを「リカージョン」と呼ぶ。リカージョンは言語の豊かさのカギであり、リカージョンによって際限なく続く無数の文を作ることができる。かつてはリカージョンが人間の言語に不可欠の本質的機能だと考えられていた。 しかし、ピダハン語にはリカージョンがないのだ。つまり、リカージョンは頭脳が利用できる道具の一つであるが、必ずしも使われるとは限らないということが分かったのだ。 それはなぜなら、ピダハンの文化がIEP(直接体験)にもとづいているからだ。 「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」は2つに分解できる。「針を持ってきてくれ」と「ダンが買ってきた針」だ。そのうち、前者は断定であるが、後者に断定はない。ダンが本当にその針を購入したことを前提にできない以上、入れ子構造で文を作れない。だから、「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と断定文を続けるしかなくなる。ピダハンの文法はIEPによって制限を受けているのだ。 リカージョンがないとは、文法上生成しうる文の数には上限があるということだ。 だからといって、言語そのものが有限なわけでは無い。なぜなら、ピダハンが紡ぐ「物語」にはリカージョンが見られる――伏線や登場人物やさまざまな出来事が折り重なり、入り組み、絡み合ってできているからだ。文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。 言語や情報伝達の本質を理解するうえでは、文法だけが頼りではない。言語とはもっと広い人間の認知の所産であり、人間固有の特殊な文法などではない。 わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。 ピダハンに出会った筆者は、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問を持つようになった。ピダハンとともに生活していくうちに、自分が信仰と真実という幻想の中に生きていることに気づいたのだ。 ピダハンは宣教師のように深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚をとること、カヌーを漕ぐこと、兄弟を愛することであり、そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えるのではないだろうか。
18投稿日: 2021.06.09
powered by ブクログ言語学者の著者が、アマゾンの原住民族から言葉と哲学学んだ記録。言葉というのはその人の生きる世界を表していて、知れば知るほど面白いものだなと思う。世界の捉え方はひとつじゃなくて、どちらが正しいと決めつけることなんてできないから、色んな見え方感じ方、角度があるんだと知るのは大切だなぁ
0投稿日: 2021.05.02
powered by ブクログ【はじめに】 ピダハンはアマゾンに暮らす原住民族である。本書は、言語学者で当時キリスト教伝道師であった著者が、足掛け30年以上ピダハンとともに暮らした経験をもとに、彼らの言葉と思考・行動について愛と敬意をもって綴ったものだ。 本書では、言語学的に貴重なピダハンの言語構造の話と、アマゾンで暮らすピダハン族の「哲学」、直接体験の原理、の話の大きく二つがテーマとされている。その二つは分かちがたく結びついているのだが、自分にとって、そしておそらく多くの人にとって、心に訴えかけるのは後者のピダハン族の「哲学」の方ではないだろうか。 いずれにせよ、われわれからして完全に異文化であるピダハンとの長期にわたる交流から得られた知見による記述は、言語学や人類学という範疇を越えて非常に貴重な記録であり、広く読まれるべき貴重な考察である。 【概要】 ■ ピダハン語 「文化と言語はセットであり、だからこそ言語は守られる価値がある」 著者がピダハンの村に滞在した目的は、ピダハン語の研究とキリスト教の布教活動のためであった。そのうち、ピダハン語の習得は言語学者としての著者を大いに悩ませた。なぜならピダハン語が「度外れて独特な言語」であったからだ。 またさらに、著者はピダハン語を話す現地の部族民との間で、英語やポルトガル語を介した学習ができない、いわゆる「単一言語」環境での調査が必須であった。さらに、ピダハン語が声調言語であることから発音やヒアリングが難しいことが習得の困難さに輪をかけた。母音が3つ、子音が8つと音素が少ないので、単語が長くなりがちとなる。これだけでも相当に困難であるのだが、その上ピダハン語が現存する他のどの言語とも似ていない独特な言語であるため、難易度がさらに増したのである。具体的な例としては、比較級に相当する表現がなかったり、色を表す単語がないなど、当然あるだろうと考えていた表現がない。また、「すべての」や「それぞれの」や「あらゆる」などの数量詞が存在しないし、物を数えたり、計算をせず、数の概念もどうやらないらしく数を表す言葉もない。ピダハンの言語利用には、「こんにちは」や「さようなら」といった「交感的言語使用」が見られない。「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉もない。言明は、情報を求めるもの(質問)、新しい情報と明言するもの(宣言)、命令のどれかしかない。さらに関係代名詞などのリカージョンを表現する文法が存在していない。 このことから、著者はチョムスキーの生成文法・普遍文法や、スティーブン・ピンカーの『言語を生み出す本能』の言語本能の存在を批判するようになる。著者の結論は、言語はチョムスキーの言うほどには互いに似ていない、ということだ。言い方を変えると、自分たちが知っている言語はたまたま似ているのであって、ピダハン語のようにまったく似ていない言語の存在もまた許されるということだ。また、著者は、言語上の文法や表現上の欠如は、文化的制約から来るものだとしており、チョムスキーの生成文法・普遍文法の概念を批判している。大御所のチョムスキーをここまで批判するのは、著者がよほど自信を持っているからに違いない。それは、長年のピダハン語の実地の研究から得た自信と自負というものだろう。 ■ ピダハンの文化 ― 直接体験の原理 「人類すべてがそうであるように、ピダハンの語る意味も彼らの価値観、彼らの信念に厳しく制約されているのである」 ピダハン語を理解するためには、彼らの文化・価値観を共有することが必要となる。彼らの文化は、その言語と同じくわれわれの文化と似ていない。 「人々は経験していない出来事については語らない ―― 遠い過去のことも、未来のことも、あるいは空想の物語も」 ピダハンの文化は、「直接体験の原理」に根差している。彼らは、自らが直接体験をしたことか、話をしている相手が直接体験をしたことしか話題にすることがない。間接的な情報や空想に類することを話すことは文化的禁忌となっているとも考えられる。この原理が、言語を含めてピダハンの行動をも形作っているのである。 著者は次のようにまとめる。 「ピダハンの言語と文化は、直接的な体験でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。その制約とは、これまで深めてきた考えからすると、次のように要約できる。―― 叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる」 先に述べたようにピダハン語には数を表す言葉がないが、彼らに数の概念を教えようとしても、計算ができるようにならなかったどころか10まで数を数えることもできなかった。これをもってピダハンの知的水準が低いという結論を出すことも可能なのかもしれないが、著者はそのようには捉えない。彼らの直接体験の原理にしたがうと、直接的な実体験を超える抽象化された計算の概念を身につける理由がないのがその原因だと考えるのだ。また、ピダハン語には親族を表す言葉が非常に少ないという。それも、自分たちが直接知らない曽祖父の代や直接会うことのない遠い親族のことを語る必要がないことからくるものだと著者は考える。このように、ピダハンの言語は、彼らの文化に強く制約を受けているというのが著者の主張である。 また、ピダハンは外部の知識をなかなか採り入れない。カヌーの作り方を教えてもらいながらそれを一度は実際に作っても、次からは「作り方を知らない」と言って作らない。また、肉の保存方法(燻製や塩漬け)を知っていても、自分たちのために保存することもしない(ほかのアマゾンの先住民でそのような部族はほとんどありえないらしい)。食べ物にはあまりこだわらず、日に一度か多くても二度、ときには食べない日もある。これもまた、単純な見方をすれば、ピダハンが未開のままでいる原因であると解釈することも可能だが、著者はそれよりも未来のことよりもまず現在を大切にする彼らの文化を反映しているものだというのである。 性交に関する道徳もかなり柔軟で自由だ。多くのピダハンが、躊躇いなく多くのピダハンと性交する。特に満月の夜の歌と踊りの際にはいつもよりも奔放にさらに多くの異性と性交する。それは彼らの将来ではなく現在に重要性を置く文化にも由来しているのではないかと考えられる。また、著者はこのように性交が非常に広く行われていることが、ピダハンの民族への帰属意識の強さのもとになっているのではないかと想定している。 ピダハンでは、将来を気に病んだりしないことが文化的価値になっており、将来よりも現在を大切にする。したがって、彼らは進歩を望んでいないし、想像もしない。これが、ピダハンが変わらない理由だという。そのことは、いわゆる文明社会に住む人間からは後進性のように映る。しかし、それは他方の価値観からの一方的な見方であり、単に価値観の違いだということもまた可能である。著者によると、ピダハンは穏やかであり、彼らの敵意が内部でもよそものにも向けられるのを感じたことがない。誰に対しても、たとえ子供のしつけにおいても、暴力は許されない。浮気をされても、怒りをあらわにすることがない。 著者も含めてピダハンと交流したものは口を揃えて次のように評価する ―― 「ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ」 ■ キリスト教伝道師の物語 最初に述べたように、著者がピダハンと暮らし始めた理由のひとつは、キリスト教の伝道のためだ。著者はピダハンの人々に神の福音を伝えるためにその地に降り立ち、そのことを通して神の栄光を世界に広めるために来たのだった。ピダハン語の習得も、聖書の翻訳がその理由のひとつでもあった。 しかしながら、ピダハンは外国の思想哲学や技術を受け入れなかったのと同じように、ほとんどキリスト教を受け入れることがなかった。聖書をピダハン語に翻訳する作業がまったく上手くいかなかったのは、彼らの文化に昔起きた出来事を伝える必要がなく、したがってその言語にもそれを伝える手段がなかったからであった。それらは文化的に翻訳不可能で、文化的な原理において受け入れ不可能なものであった。 「ピダハンには、「見ることは信じること」であるばかりではなく、「信じることは見ること」でもある」 そもそも、誰も会ったことのないイエス・キリストなる人物が語った言葉を受け入れることは彼らの理解の範囲外のことでもあり、彼らの価値観からは愚かなこと以外のなにものでもなかった。直接体験の原理による制約によって、彼らは神話を受け入れず、キリスト教の信仰もまったく受け入れることはなかった。 ピダハンは、宗教的なことを信じない。絶対的なるものを信じない。それは、彼らには必要のないものであった。彼らは、「一度に一日づつ生きることの大切さを独自に発見している」。 「自分たちの目の凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ」 思えば、キリスト教の教義も聖書の言葉も非論理的なものであることには間違いなく、何でそんな昔生きていたのかもしれないおっさんの言うことをありがたがらないといけないのだという意見は、キリスト教徒の考えよりもよほど合理的だ。ましてや誰も見たこともない天国や地獄などを信じるのは頭がおかしいと考えるのは全く正当なことだと言える。 結果的に著者はキリスト教を捨て、布教活動をあきらめる。著者はキリスト教以上にピダハンの生き方に憧れと正統性を見出したのだ。一方でその結論は、布教活動を意義あるものとして一緒にピダハンの村に赴き、非文明的な生活に耐えてきた著者の家族にとっては、受け入れ難いことであったのは想像に難くない。結果として、離婚につながるのだが、著者の元妻がピダハンの思想に触れ、著者がそれを論理的に説明をしても、キリスト教を捨てることを受け入れることがなかったのだというのは、逆に不思議なことに思える。 ■ ピダハンの死生観 本書を読んで、ピダハン語の分析や、ピダハンの直接体験の原理から来るさまざまな行動や考えにも深い驚きを覚えるのだが、それらの中でも大きく衝撃を受けるのは、ピダハンのその死生観である。 冒頭のプロローグを締める次の言葉は、本書を読み終えた後、再度読み返すと改めて深い意味を持っていることがわかる。 「ピダハンはわたしに、天国への期待や地獄への恐れをもたずに生と死と向き合い、微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と、深い充足とを示してくれた。そうしたことをわたしはピダハンから教わり、生きているかぎり、彼らへの感謝の念をもちつづけるだろう」 赴任当初、家族がマラリアにかかったときにピダハンはそのことを知りながら、誰も助けようとせず、それが当然であるかのように振る舞われたことが、著者が強い衝撃を受けた経験として描かれている。それにも増して衝撃的なのは、母親を亡くして死にかけているピダハンの赤ん坊を見殺しにしたところだろう。母乳を飲むことができなくなり、衰弱した赤ん坊を、著者の家族はチューブでミルクを入れてやるなど必死で助けようとするが、手を離して父親に任せたとき、父親はアルコールを摂取させて殺してしまったのだ。彼らの判断では、もうその赤ん坊は助かる見込みがなく、著者の行為はいたずらに苦しみを長引かせているだけのように映ったのだろう。いやむしろ、苦しみがどうのというよりも、そのまま息を引き取ることが彼らの価値観として正しいことだと考えただけなのかもしれない。 「ピダハンはひとり残らず、近親者の死を目の当たりにしている。愛する者の亡骸をその目で見、その手で触れ、家の周りの森に埋葬してきたのだ。... ピダハンの生活に、死がのんびりと腰を落ち着ける余地はない」 ここで思い出したのは、同じくアマゾンの原住民をNHKが取材した『ヤノマミ』である。『ヤノマミ』では、生まれてきた嬰児を母親が殺す場面がある。NHKスペシャルの放送でも触れられた衝撃的なシーンだが、そこには苦しみを長引かせないためであるというような理屈もない。母親が嬰児を殺す理由も明かされないし、われわれの理解を拒む。彼らにとって、そしておそらくはわれわれ現代人にとっても、人は理由もなく死ぬものだし、人が死ぬことは正しく正常なことなのだ。 「ピダハンたちには、西洋人が彼らの二倍近くも長生きできると見込んでいることなど、知る由もない。見込んでいるどころか、それが権利だと考えているくらいだ」 われわれは、あまりにも命を大事にしすぎているのかもしれない。どうせ死んでしまうのに。 【所感】 著者はこう書く ――「自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば」 こうやって本に書かれ、そして翻訳されることがなければ、日本に住む自分がここに書かれたことに触れることはなかっただろう。それだけでも読書体験というのは素晴らしい。そう書くと、文字を持たないピダハンのことを下に見ることになってしまうのではないかという懸念もある。著者は、ピダハンが遅れた未開の民であるとすることを拒絶する。著者のガイドなく、ピダハン語の特徴やその外部の技術や知識を受け入れない態度について聞くと、単純に彼らは未開な部族であると結論づけていたかもしれない。しかし、それは集団としての価値観の違いであって、将来を気に病むことがなく、伝聞を拒否する文化であれば、そして彼らの死生観を受け入れることができたのであれば、文字や文明はまったく必要のないものだ。 言うまでもなく、人類がここまで地球上で繁栄をしてきたのは文明化のおかげである。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』、マット・リドレーの『繁栄』、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』などでも人類史におけるいくつかの革新を描いている。競争と成長の原理が、規模の拡大を押しすすめて繁栄を支えてきた。その現代文明的価値観は世界のほとんどに行き渡り、いまや当然のものとされている。SDGsなどで修正は加えられることはあっても原則的な価値は変わることがないだろう。しかし、この本を読んで、もしかしたらそうではない文化的価値観も成長と平均寿命を諦めれば持続可能なものとして成立しうるのではないかと思った。ピダハンの存在はその証左である。われわれが今持っている価値観は倫理的にも論理的にも絶対ではないということを知らしめてくれる。 想像するにピダハンの文化と価値観は、古来ずっと続いてきたものではなく、どこかで大きく変わったのだという可能性もあるのではないかと思った。彼らは、昔は他の部族と同じように創生神話を持ち、成長に向けて将来を考え、抽象的なことを考え、そして争いと苦悩とを抱えていたかもしれない。そういった中で、争いと苦悩とを克服するためにあるときから直接体験の原理が積極的に選び取られたものとなったということも考えられないだろうか。幸せを手に入れるためにあえて皆で利便性や成長とそして部族としての記憶を自ら捨てるのだ。そして、それがピダハン部族の信ずるところとなったということはないだろうか。他の部族がほぼ例外なく創生神話や他部族や西洋技術を容易に受容してしまうのに対してピダハンがそれを受け入れることがめったにないことは、彼らが無知で未開であるのではなく、あえてその道を集団として選んでいることを逆に示しているのではないか。 もちろん、ピダハンの文化が成立するためには、まずピダハンの部族の全員がその文化を信じてそれに沿って行動することが必要条件となる。抜け駆けや心変わりは許されない。また、外部の変化は拒否されなくてはならない。部族の外部の人間は「仲間」とは異なるものである。そうであるがゆえに、憧れや嫉妬の対象とはならないのだ。そのことを考えると、ピダハンの文化が成立するための条件は、かなり不安定なものと言えるのかもしれない。 この後の人生をピダハンのように生きたいと思うものではないし、文明化された世界に生きるものたちにはそのように思うことももはや許されない。それでも、自分の生きている社会の価値観が必ずしも絶対的なものではないということを理解することは必要なことではないにしても、努力をして理解する価値があることのように思う。そして、その上で敢えて今の価値観を選んでいるのだということを意識するべきことのように思うのだ。 決して易しい本だとは思わないが、読まれるべき本。少し前に出版された本だが、ずっとKindle化されなかったので、手にとって読むまでに時間がかかったが、読んでよかった。 ---- 『ヤノマミ』(国分拓)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4140814098 『ノモレ』(国分拓)のレビュー https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4103519614
2投稿日: 2021.04.30
powered by ブクログピダハンという少数民族のみが用いる言語の研究者の話.ピダハン語には直接体験の原理が有り,ピダハンが実際に見たものしか言語化することはなく,夢や精霊についてもその例外ではなく,彼らの世界は文字通りに見た世界でできている.このような言語に触れることによって著者は自らの信仰の欠点に気づいて,進行を捨てることに鳴る.また,言語学における一大理論であるチョムスキー理論ではこの言語を説明することができていない.科学ではしばしば理論から外れる例外的な存在をそもそも存在しないものとみなしてしまうという事があると感じた.全体的には難しい言語学の比率は少なく,ピダハンの部落に滞在したときの冒険譚や,ノンフィクションとしてサクサク読めた.
3投稿日: 2021.02.08
powered by ブクログキリスト教であった著者が、ピダハンという民族に布教しに彼らの世界へ足を踏み入れた。彼らと共に生活していく中で、何にも縛られず、自然と共に共存する今を楽しむ生き方に惚れ込み、今まで生きかたの座標を与えてくれていた宗教を捨て、彼らと共に生きることを決断した。 私達が過ごしている文明社会は、元々人類が当たり前にしてきたもの、自然との共存であったり、 人間本来の力である自然治癒力などをわすれるように仕向けてしまう。元々ある自然ではなく 人間が作った決まりや抽象的なもの、会社や法律、お金などに価値がおかれ束縛されて生きている。それは集団生活を円滑に進める上でなくてはならないものであるが、人間を傲慢にしてしまった。自然日々感謝して生きることを忘れてはならない。 本来人間は自然の一部であったが、今は自然に とって、害虫になってしまっていることを忘れてはならない。
1投稿日: 2021.01.09
powered by ブクログ民族と言語とは切っても切れない関係がある。そして、その言語はその民族の文化と密接な関係がある。わかりきったことのようだが、筆者はそれを現地でピダハンたちと生活を共にする中で、一つ一つのピダハン語を採集する帰納的な方法論で、人類の言語本能論唱えるチョムスキーの演繹的理論に異を唱える。豊富な現地での体験に裏打ちされた提言は、いかにも説得力に富む。
0投稿日: 2020.10.15
powered by ブクログアマゾンの奥地で暮らす400から500人ほどと言われる部族ピダハン。 彼らにキリスト教を布教するため、聖書をピダハン語に翻訳し読ませるためにその地に家族と移り住み、暮らした言語学者の記録。 文化の全く違う人々との暮らし、が描かれる前半は驚きの連続。 言語に焦点を当て、研究を深めていく後半は知的興奮の連続。 最高に面白い。
0投稿日: 2020.07.30
powered by ブクログアマゾンのピダハン族と共に暮らした伝道師の話。 ピダハンには、数を表す言葉がなく、色を表す言葉がない、つまり、重要じゃない。必要なものは、いつでも手に入れることができ、共用物しかない。 性的に奔放。暴力は許されない。 事実しか話さない。ゆえに創世記も伝承もない。精霊はおり、夢は事実と扱う。thatなど関係節がない。歌のようなものなど複数の伝達方法がある。大雨でも伝わりやすい。修飾語は1つまで。聖書の翻訳は不可能。 左右の言語がない、川を基点に表現する。 医者がないので、無理に救命しない。伝道師が死相の出た赤子にミルクを飲ませて助けたが夫がアルコールを飲ませて殺した。 細菌の概念がないので、同じ皿でペットと食べ物を共有する。 著者が継母が自殺したのをきっかけに、キリスト教信仰に繋がり、幸福になった話をしたところ、自殺などしないピダハンが爆笑し、直接体験のない話は無意味とすることから、伝道は不可と悟る。 更に、ピダハンは、死をも受け入れて、幸福に過ごし、悩みもなく、心配の言語もなく、不安のない洗練された文化であるのに対し、聖書は処女懐妊など非科学的と思い、キリスト教から離れ、家族に伝え離別される。 世界には言語が6500あり、その消滅は、人間がある環境下でいかに生きてきたかの実例を失う。
0投稿日: 2020.05.07
powered by ブクログアマゾンの奥地に住むピダハンと呼ばれる少数民族。彼らが使う言語には、左右の概念も色も数字もない。神もなく、見たものしか信じない。この民族と一年以上一緒に生活した宣教師のノンフィクションであるが科学的な分析もあり単なるレポートとは異なる面白さがある。多様性が(文字通り)叫ばれる昨今だが、ここまで離れると多様性を認めるどころではないということが身に沁みる。彼らは病気にかかったり蛇に噛まれたりワニに襲われたりして瀕死の状態になった者を、たとえ自分の子供だろうが助けようとしない。むしろトドメをさす。それは死に行く運命だったのだろうし、一時的に助けたところで病院があるわけでも医師がいるわけでも薬が手に入るわけでもない。そんなことで死ぬのであればどうせ長生きできないのだから、苦しみを長引かせることはないという考え方。これは衝撃的で、安易に多様性を認めようなんて言ってはいけないと感じる。著者はそんな彼らにキリスト教的価値観を伝えようとするが、自然のまま、悩みも苦しみもなく生きている彼らになんの必要性があるのか悩むようになり、衝撃の選択をする。大作だが最後まで読んでほしい。
0投稿日: 2019.11.28
powered by ブクログ以前、ボルネオ島の採集狩猟民「プナン」にまつわるフィールドワークからなるエッセイを読んだ。彼らの語彙にはありがとうもごめんなさいも無いとのことだったが、アマゾン川の支流のひとつマイシ流域に住む少数民族「ピダハン」たちの語彙にもきっと無いだろう。 自分たちの文化の尺度では測れないピダハンたちの文化と言語と思想、それを筆者は西洋的な文化的見地から理解しようとするのではなく、彼らの目線に沿って文化を学ぼうとする。その姿勢に感じ入った。ピダハンたちの生活の描写も生き生きとしていて、地球の裏側の彼らの営みに心ゆくまで思いはせることができた。
0投稿日: 2019.11.13
powered by ブクログ現代社会とはまた違う興味深い価値観や文化が描かれているのだけれど、筆者の書き方が非常にユーモラスで読みやすい。 好きな時に好きな分寝て、好きな時に食べ、好きな時に働くのいいな。 夢と現実に体験したことは同列というのもおもしろい。寝るのがより楽しくなりそう。
3投稿日: 2019.11.09
powered by ブクログ半分ほど読んだところ。めちゃめちゃ面白い。 アガーピ(村人のひとり)がカオアーイーボーギー(精霊)のように話しているのを対面で確認したのに、翌日アガーピに聞くと全然心当たりがないように振る舞うのとか、コーホイビイーイヒーアイ(村人のひとり)がある日ティアーアバハイになって(改名して)いて「コーホイはここにはいない」と言ったりするのとか、何かこう自己同一性というものが全く重視されていなくて面白い。 もともと人間はこんな感じで暮らしていて、そのために解離という機能を持っているんじゃなかろうか、と思った。 読了。 先だって読んだ本ではカティ族には東西南北の考え方がないらしいということに驚いたけれど、ピダハンには左右という考え方もないらしかった。自分を基準に相対的に右、左というのではなく、周囲の地形を基準に例えば川の「上流の方、下流の方」という考え方。圧倒される。 著者がキリスト教の伝道師だったため、そちらの点でも面白かった。マジで信仰している人はこう思っているのかー、という興味深さ。ピダハンの文化で暮らす中でその価値観が揺れ、変化する様もつぶさに描かれていて最高だった。良い本。
1投稿日: 2019.10.04
powered by ブクログ今日深く読んだ。後半はより言語学の話になっていくので難しかったが、特に前半はドキドキわくわくしながら読んだ。
0投稿日: 2019.09.30
powered by ブクログ【信じるものは○○】 《ピダハン~「言語本能」を超える文化と世界観~》 『言語学者でありキリスト教の宣教師でもある著者は、アマゾンの原住民『ピダハン』にキリスト教を布教するため、家族とともに彼らの土地へと移り住む。 数、色、宗教、歴史、指導者、そして『こんにちは、ありがとう、ごめんなさい』といった交感的言語使用がないピダハン。 彼らの言語は言語学の世界に論争を巻き起こし、彼らの価値観は著者の信仰心をグラグラと揺さぶる。 やがて著者は信じていた神を捨て・・・』 あるひとは『読書とは旅だ』と言い、またあるひとは『読書とは登山だ』と言っていましたが、まさにその両方を実感できた一冊でした。 《旅》 日本からアマゾンまで、約2万キロの距離。 アナコンダやタランチュラなどの危険生物が身近な環境。 そして何より、昆虫が苦手な私(うたた寝するピダハンに、『黒くて素早い昆虫(G)』が群がっている描写に鳥肌)。 自分にはぜったいに行けない場所ですが、本をとおしてアマゾンを旅(冒険?)している感覚を存分に味わえました。 川の流れや焚火のゆらぎ、蒸し暑さがとてもリアル。 読書場所がキャンプ場だったので、なおさら。 《登山》 本を山に例えると、3合目から5合目までは、『ピダハンの生活』や『命の危機に瀕した家族を救うため東奔西走する著者のエピソード』など、ドキュメンタリーバラエティ番組を見ているかのような感覚でサクサク読むことができましたが、5合目以降は『言語学の歴史や論争』など専門知識多めの内容になっており、睡魔に襲われ歩みが鈍りました。 けれど、頂上に達した(読了した)ときの達成感と、著者が行き着いた結論に得心がいった瞬間の高揚感が、個人的には心地がいいです。 原題の“DON’T SLEEP THER ARE SNAKES”(ヘビがいるから寝るな)の意味がわかったときは、ちょっとしたアハ体験です。 直接体験し、自分の目で見たものしかほとんど信じないピダハン。 キリスト教を理解したうえで、「イエスのことはわかった。けれど、オレたちには必要ない。自分のことは自分で守れるし、守りたいんだ」とした彼ら。 『未体験のことに怯え、目に見えないものにすがり、そして自分を見失ってしまう』人にとっては、彼らの生き方にそれを脱するヒントがあるかもしれません。
0投稿日: 2019.06.22
powered by ブクログ12.11.25 トナメール ----------------------------------------- 以前のトナメ〜ルで、Kさんから、本『ピダハン 「言語本能」を超える 文化と世界観』を紹介してもらい即アマゾンから入手したと話しました。 その本は私の枕元に無造作に今も置かれています。私の読書スタイルは “積読”です。入手したら、まえがき、目次、あとがきに目を通します。 ●熟成を待つ積読 面白そうと思ったら、読みたいな!と気持ちを敢えて抑え、読むのを 我慢します。枕元に置いてあるということは相当強い読みたい気持ち があるのでしょう。ストイックに喜びを感じている偏屈人間である のは間違いない。 本の表紙や表題が自然に目に飛び込んできます。表紙は少数民族ピタパン の村人達の写真です。本の帯の「言語をつくるのは本当に本能か?」 と共に彼らの人生や生活を思い巡らし想像力を高めます。でも読みません。 「麦がいくらあってもビールにはならない。適切な酵母と発酵する時間 が必要」と言われます。「見つめる鍋は煮えない」「大工は生木で家を 作らない」「難しい問題は寝かせ」....と言います。そんな発酵時間を 待っているのでしょうね。 どんな素晴らしい本と遭遇しても、自分の脳(問題意識)と本とが コミュケーションをとる最適タイミングがあります。先週末は研修で 東京だったのですが、交渉力ロールプレィではテーマの構造化とタイミング と言っています。営業はタイミングがさすがです。SEは構造化は できているのだがタイミングが悪い。相手が聞く耳がない時に大事な ことを言って簡単にスルーされてしまっています。 タイミングが大事だ!心の熟成を待つのだ!と言いながら結局読まない。 これが積読です。ですから同じ本を買ってしまうことも少なくないのです。 マー結局遅読だからでしょう。速読ができる人は尊敬します。少なくとも 頭の回転が速くなければ速読は無理ですから。大嫌いなカツマーが NHK教育で速読をやっているを見て尊敬しましたネ。彼女の本がステレオ タイプで全くくだらないのは今も変わっていませんが。 マーカーを引きながら文章を反芻し自分の考えと対決し擦り合わせ ながら読みますから物凄く時間がかかります。全くのスローラーニング です。洞察力を磨くのならスローラーニングが必須と研修でも言って いますから結局頑固なんでしょう。
0投稿日: 2019.05.31
powered by ブクログアマゾン奥地に少数民族である「ピダハン」の村に住み、その言葉を研究した宣教師が書いた本。ピダハンの言葉には左右も、数も、色もない。過去も未来もなく、自分が体験したことしか話さない。昼起きて夜寝るという概念もないようだ。彼らは、他の民族より自分達のほうが優れていると思っているから外部の文化を取り入れない。モノは持ってないし多くを語る言葉もないけれども、決して怒らずいつも笑っているそうだ。ピダハンをダシに現代人を批判するつもりは全くないですが、ひとつの極北を知ることで自分のポジションを絶対認識するようなことはありますよね。そんな気がしました。ちなみに、そんなところに行ってキリスト教の布教も何もなかろう、と思って読んでたら、結局著者自身、キリスト教を捨ててしまったというオチでした。面白い本でした!!
1投稿日: 2019.05.21
powered by ブクログアマゾン奥地の少数言語を離す人々の話、その言語が、多数派の言語と大幅に違っているというのが、興味深いが、言語オタクでない私には荷が重い。 途中で脱落
0投稿日: 2019.05.21
powered by ブクログアマゾンの奥地に住む原住民族をエスノグラフィ調査した記録の本です。 エスノグラフィを通じて文化や言語を習得していく過程が読めました。左右、数字、神などの概念がないかったり、あらゆる言語で表現できる「AのBのCのDのEの、、、」という表現(言語本能?)を持たないなど、独特の文化を持っており、非常におもしろかった。
0投稿日: 2019.01.29
powered by ブクログ繧ュ繝ェ繧ケ繝域蕗縺ョ莨晞%蟶ォ縺?縺」縺溯送閠?′莨晞%逶ョ逧?〒荳?邱偵↓證ョ繧峨@縺ヲ縺?k縺?■縺ォ譛?邨ら噪縺ォ縺ッ縺昴?菫。莉ー繧呈昏縺ヲ繧九↓閾ウ縺」縺溘→縺?≧隧ア繧定◇縺?※髱槫クク縺ォ闊亥袖繧呈戟縺」縺滓悽縲ゅヴ繝?繝上Φ縺ッ繧「繝槭だ繝ウ縺ォ證ョ繧峨☆蟆第焚豌第酪縺ァ縺昴?譁?喧繧?ィ?隱槭?髱槫クク縺ォ繝ヲ繝九?繧ッ縲ゅ◎縺ョ險?隱槭↓縺ッ謨ー繧?牡繧定。ィ縺呵ィ?闡峨′縺ェ縺上?∵凾蛻カ繧ら樟蝨ィ縺ィ縺昴l縺ォ縺、縺ェ縺後k蜊倡エ斐↑驕主悉縺ィ譛ェ譚・縺励°縺ェ縺??よァ区枚繧ょ腰邏斐〒縲∵枚縺ォ荳サ隱槭d逶ョ逧?ェ槭↓縺ェ繧句錐隧槭d霑ー隱槭↓縺ェ繧句虚隧槭?縺ゅk縺御ソョ鬟セ隱槭?荳?縺、縺セ縺ァ縺励°險ア縺輔l縺ェ縺??ゅ←縺ョ譁?喧縺ォ繧ゅ≠繧九→縺?o繧後※縺?k蜑オ荳也・櫁ゥア縺ェ縺ゥ繧ゅ↑縺??ゅ◎繧後?繝斐ム繝上Φ縺瑚?蛻?′逶エ謗・菴馴ィ薙@縺溘%縺ィ縺玖?蛻??遏・縺」縺ヲ縺?k莠コ縺御ス馴ィ薙@閨槭>縺溘%縺ィ縺励°菫。縺倥↑縺?°繧峨□縺昴≧縲ゅ□縺九i遏・繧峨↑縺?℃蜴サ繧?悴譚・縺ョ縺薙→繧呈か繧薙□繧翫b縺帙★縲∫ャ鷹。斐>縺」縺ア縺?↓縺ィ縺ヲ繧ょケク縺帙↓逕溘″縺ヲ縺?k縺ィ縲ゅ→縺ォ縺九¥縲∵Φ蜒上r雜翫∴繧九∪縺」縺溘¥驕輔▲縺滓枚蛹悶↑縺ョ縺ァ髱槫クク縺ォ縺イ縺阪%縺セ繧後?∽サ企&縺」縺滓枚蛹悶?豬キ螟悶↓證ョ繧峨@縺ヲ縺?※繧ゅ?√≠繧峨◆繧√※隕夜?繧帝幕縺九&繧後k諤昴>縺後@縺溘? 蠕悟濠縺ッ縺九↑繧願ィ?隱槫ュヲ繧医j縺ョ隧ア縺ォ縺ェ縺」縺ヲ縺阪※縲∽クサ縺ォ繝√Ι繝?繧ケ繧ュ繝シ險?隱槫ュヲ縺ク縺ョ蜿崎ォ悶→縺ェ繧九?梧枚蛹悶′縺昴?險?隱橸シ域枚豕包シ峨↓蠖ア髻ソ繧貞所縺シ縺吶?阪→縺?≧荳サ蠑オ縲ょス薙j蜑阪§繧?↑縺???溘→遘√?諤昴▲縺ヲ縺励∪縺??縺?縺代←縲ゅ%縺ョ譛ャ縺ァ隱ュ繧薙□縺?縺代〒繝√Ι繝?繧ケ繧ュ繝シ縺ョ逅?ォ悶≠縺セ繧顔衍繧峨↑縺?¢縺ゥ縲√>縺九↓繧り恭隱槫恟?医→縺?≧縺倶ク?逾樊蕗縺ョ繧ュ繝ェ繧ケ繝域蕗菫。閠?シ滂シ峨′閠?∴縺昴≧縺ェ縺薙→縺?縺ェ縲√→縺?≧縺ョ縺梧─諠ウ縲ゅ◎縺ョ蜻ェ邵帙°繧蛾??l蠎?>隕夜?繧呈戟縺、縺薙→縺後〒縺阪◆闡苓???遘大ュヲ閠??皮ゥカ閠?→縺励※縺ッ蟷ク縺帙↑縺ョ縺ァ縺ッ縺ェ縺?°縺ィ諤昴▲縺溘? 險?隱槫ュヲ縺ョ隧ア縺ッ蟆代@髮」縺励>縺代←縲√%縺ョ譛ャ縺ッ縺セ繧九〒蟆剰ェャ繧定ェュ繧?繧医≧縺ォ隱ュ縺ソ騾イ繧√k縺薙→縺後〒縺阪∪縺吶?りェュ縺ソ譏薙>縲
0投稿日: 2018.12.11
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
これは、ちょっと、大げさなような気がする。 ところで、表紙の写真を見ると日本人みたいにも見えるが。
0投稿日: 2018.11.20
powered by ブクログ言語に未来形、過去形が存在しない、というキャッチーさから惹かれた民族、ピダパンについて長年言語学者が研究したところが記されている本。神話とうものもなく、食べ物も貯蓄しない。実在する、今見たものを信じる。能力がないわけではない。でも、とにかく、今日1日を、今を楽しむことに生きる意味を見出しているという。わたしには想像もできぬ価値観で生きる人間がいるんだなぁと新しい発見だった。ただ、いかんせん言語学中心なため、その分野に無知なわたしには少し難解なところもおおかったので…星3。
0投稿日: 2018.10.04
powered by ブクログピダハン ダニエルエヴェレスト みすず書房 アマゾンの奥深くに住む300人ほどの民族 独特の文化と言語で貫く自身に満ちた人々 彼らの言語の調査と聖書の翻訳を兼ねて 言語学者でありプロテスタントの宣教師でもある著者が 一石二鳥を引っさげて村に住み込んだ体験談 それにしてもピダハンは心の広い人々である 「蛇がいるから寝るなよ」と ユーモアとも忠告とも言えるお休みの挨拶 事実仮眠しかしないしお互いを認めて 赤ん坊すら対等に付き合い 個々の自律を大事にして自由自在に暮らし よそ者も歓迎するし毛嫌いはしないけれど 距離をわきまえず指図されたりすることを嫌う 五感による体験と発見を信頼し 寓話や神話や創世記などには見向きもしないから 遠い過去や未来にも関心がなく つまり今現在に生き 必要以上の物欲もないから争うことも少ない 所有欲がないということは当然ながら 若干の栽培もするが殆どは狩猟採集である 死は当然のこととして受け入れているし 悲壮感も恐怖感も少ない よく働きよく遊びよく笑い冗談も大好きで 全てを愉しみとして受け入れる すべてが違うものだと認識しているから 数の概念があまり無く 左右という自分を中心とする方向概念もなく 河の上流と下流という全体感で方向を把握している 目に見えない絶対神は認めないけれど 精霊は動植物と同じように見えるし 話もできるらしく認めていると言う ダニエルはミイラ取りがミイラになって ついには無神論者となることで離婚もすることになり 学者一本で生きることに成るという最後の章が 私には最高に面白かった 狩猟民族は所有意識が低く自律心が高いとして 最後に残る疑問は 生き甲斐ややり甲斐が有るのか無いのか? 有るとすれば何に対してなのか? 無いとすれば生きる意欲をどこに求めるのか? ダニエル曰く: 「認知とは学習されるもの 私達は世界を2つの観点から見聞きして感じ取る 理論家としての視点と宇宙の住人としての視点と それも私達の経験と予測に照らし合わせているのであって あるがままの姿で見て取ることは無いと言っても良い」
0投稿日: 2018.08.23
powered by ブクログ面白い。 信仰とは不幸せな文明人のみに必要なものなのか? 著者はピダハンと関わりを持つ中で信仰の必要性に疑問を持ち、結果捨ててしまう。著書ではそちらにはフォーカスが、あたっていないがそこが興味深かった。日本人には信仰を持つものが少ないが、それとは全く異なるステージにピダハンはいるようだ。ピダハンは400人程度しかおらず、その後の研究も出来ているか分からないが、追跡調査をして欲しい。これまで秘境に住む少数民族は文明の波にさらわれ、そのほとんど、いや全てが悲しい結末に至っている。ピダハンだけが例外となっているのは何によるものか。
0投稿日: 2018.08.09
powered by ブクログ・再帰(リカージョン)がない。英語や日本語なら「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」というところ、ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ。」と言う。文章が入れ子構造にならないのだ。 ・認知→文法 人間は生まれつき文法能力を持っている。文法は遺伝的なものである。(チョムスキー) 文法→認知 文法が認知に影響を与える。言語はその言語の使用者の世界観に影響する。(サピアとウォーフ) 文化→文法 文化が文法に影響を与える。ピダハン語にその因果関係が見られる(ダニエル・エヴェレット) ・生命や死、病に対するピダハンの考え方は、わたしのような西洋人とは根本的に違うのだ。~ピダハンは赤ん坊が間違いなく死ぬとわかっていた。痛ましいほどに苦しんでいると感じていた。私が素晴らしい思い付きだと考えたミルクチューブは赤ん坊を傷つけ、苦しみを引き延ばしていると確信していた。だから赤ん坊を安楽死させた。 ・ピダハンは文字通り、頭で精霊を見ている。掛値なしに精霊と話している。ピダハン以外の者たちがなんと思おうと、ピダハンは全員、自分たちは精霊をじかに体験しているというだろう。だからピダハンの精霊は、直接体験の法則の一例なのである。
0投稿日: 2018.07.08
powered by ブクログ時間かかってしまったけど面白かった。ピダハンの考え方、特に他人を助けることに対しての自分にできること/できないことの割りきり方は心が救われる。それと、昔受けたチョムスキー大好き先生の言語学の授業を全然楽しめなかったモヤモヤがすっっきりした… 知らない人・会えない人に会う読書、という点で最高だった。
0投稿日: 2018.05.29
powered by ブクログ言語と文化が密接に繋がっていることがよくわかる。言語を理解することは、その国や民族の文化を理解することだ。 伝道師の勧誘は人の悩みに訴えるので、悩みがなく、自分の目で見たものしか信じないピダハンには全く通用しないが、そもそも未来という概念がなければ悩みも存在しない。
0投稿日: 2018.01.04
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
宣教師に棄教させる! 遠藤周作ならどう読むのだろう? 棄教した宣教師の記述するピダハンの世界。 そして、そのピダハンの世界はアルコールと生活習慣病で破壊されようとしているらしい。 神は居ないのか? 偏狭な神が支配しているのか?
0投稿日: 2017.12.22
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
言語は、コミュニケーションにおける一つの手段でしかない。コミュニケーションには、相手の文化に対する知識が必要不可欠。
0投稿日: 2017.10.28
powered by ブクログ伝道のために少数民族ピダハンの村を訪れ、そこで暮らし ながら彼らの言語を習得していった著者によるフィールド ワークのルポルタージュ。そこにはチョムスキーの生成文法 に疑問を投げかけるほど重大な発見が含まれているという 言語学的興味からこの本を手にしたのだが、どちらかと 言えば、ピダハンの暮らしやアマゾン奥地の現実を知ること ができるルポとして読む方が楽しい読書となると思う。 もちろん著者の言うように文化と言語は切り離して考える ことはできないとは思うのだが、言語学的内容と人類学的 内容を分けて二冊にした方が良かったのではないかと思う。 どちらから見てもやや中途半端な印象が拭えないのだ。 読み始めた当初、「伝道」という点がどうにも鼻につくのは 否定できないのだが、結末へのネタ振りだと思って読むのが 良いと思われます(笑)。
0投稿日: 2017.08.27
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ピダハン社会でのフィールドワーク体験(家族とともに30年!!)・・・が続くと思いきや、終盤になって、ピダハン語のリカージョン(再帰)文法の欠如を基に生成文法への懐疑論へ突入してしまい、なんだか座りが悪かった。あと、素人考えですが、せっかく2歳の息子を伴って移住(?)したなら、バイリンガルに育てられんかったもんなんだろーか??
0投稿日: 2017.08.25
powered by ブクログアマゾンの奥地で現実に知性は野性に完敗し、負け惜しみでも理想論でもなく、幸福とは物質的な豊かさではなく、自分という存在に満足できるかだと教えられる。
0投稿日: 2017.08.04
powered by ブクログ人口約400人のアマゾン奥地の少数民族ピダハンの文化、生活、言語を紹介する学術的エッセイであり、民族誌でもある本。 この本が特に注目されているのは、彼らが使用するピダハン語が他の先住民の言語とも構造が隔絶しており、また外部の言語を扱える人間がいない言語だったため。 著者は事前に学んだ言語学調査法を使い、現地でゼロからピダハン語を採集し、何年も彼らと一緒に暮らし、分析し、学んでいく。 著者が最初に気づいたピダハン語の大きな特徴が言語学でいう「交換的言語使用」、いわゆるあいさつ言葉がないこと。 ピダハンの文化では言葉で人間関係を維持したり、対話の相手を認めたり、和ませたりすることはせず、代わりに親切な行為などで形で表される。 ピダハン語には他にも多くの言語に見られる要素が欠けている。 例えば比較級がない。 色も無い。 「赤」を言い表す場合は「あれは血みたいだ」とか、緑の場合は「まだ熟していない」といった説明的な表現をすることになる。 またピダハンは数を数えたり計算をすることもない。 そもそもピダハン語には数がない。 当初著者は、他の原始的部族がやるようにピダハンも1、2、たくさんといった数え方をするものと考えるが、「2」を表すと思っていた単語を1匹の魚を示すのにも使っていることに気づき、彼らには相対的な量しかないらしいことに思い至る。 その後著者は、何人もの心理学者と協力し、さまざまな実験を行い、ピダハンには数がなく、計算の体系もないと結論付けて公表した。 さらに著者は、こうしたピダハン文化の不思議な特徴、ピダハンの価値観を理解する鍵となる「イビピーオ」という単語に出会うことになる。 イビピーオは英語その他の言語には対応する語が見つからないことばで、人や物が消えたり、現れたりする場合に使われることが判明し、著者はその概念を経験識閾と名付けた。 これは知覚の範囲にちょうど入ってくる、またはそこから出ていくという行為のこと、つまり経験の境界線上にあるということで、著者の大きな発見というのは彼らが話すことがらは、自分で実際に目撃したか、目撃した人間から聞いたことに限定することだった。 ピダハン語には単純な現在形、過去形、未来形はあっても、発話時と直接関係がない完了形や埋め込み文は存在しない。 そしてピダハンには歴史や創世神話、口承の民話がない。 神も無い。 精霊は日常的に見て信じているが、それは目に見えない存在ではなく、自然の中に実在するものの形、つまりジャガーや木を精霊と呼んでいる。 ピダハンは発達心理学で言う、形式的操作が出来ていない民族と考えた方がいいのかもしれない。 形式的操作ができないため、抽象化された数や色、左右などの概念がなく、またラカンがいう大文字の「他者」である言語も存在しないのではないだろうか? こうした観点から考えると、ピダハン語とその文化の研究はヨーロッパ文明を分析するのに非常に有効な鍵になりそうに思える。
0投稿日: 2017.05.04
powered by ブクログ言語学を専攻して一番身にしみるのは、いかに自分の価値観を押し付けてものを考えているかということ。ピダハンが優れているとか劣っているということではなく、お互いの違いの中から何を得るかが求められる。
0投稿日: 2017.01.05
powered by ブクログピダハンは素晴らしい! この本は、キリスト教の伝道師であり言語学者の30年にわたるピダハンの人たちの研究についてかかれている。 言語学の視点で書いてある部分が多く多少読みづらい点はあるけれど、素晴らしいピダハンの文化がよくわかる。 ピダハンはブラジル・アマゾンの奥地に点在する少数民族。 ピダハン語には直接体験の原則がある。 話し手は実際に体験した事しか話さないという事。 例えば、伝聞による昔話や神話などは存在しない。 本人が体験した事でないと信じないのである。 ピダハンには村の長・族長のような人物はいない。 誰かが村を取りまとめるという事は必要ない。 ピダハンの子どもは乳離れした時から大人と同じ様に自分で食べていかなくてはならない。 ピダハンは狩りや漁をしたらすぐに食べきってしまう。 毎日は食べない。 ピダハンは夜にまとまった睡眠を取らない。 ピダハンは外の世界の知識や習慣を取り入れない。 ピダハンはピダハンの暮らしを気に入っているし、それ以外の世界には興味が無い。 ピダハンは将来に備えない。今を生きている。 他にも素晴らしい点がたくさんある。 私はピダハンになりたい。
0投稿日: 2016.02.11
powered by ブクログ最早、未開の地ではなくなったアマゾンの少数民族ピザハン 著者は、キリスト教の伝道者でありアメリカの福音協会の支援を受けて、村を訪れることになった。言語学者でもある。 初めに疑問に思ったのは、何故そんな未開の地に、キリスト教の信仰に伴う倫理や文化を受け入れるようにするために赴くのか? 現代の言語学者や言語を扱う哲学者たちは、人間のコミュニケーションを理解しようとする道筋で、言語と文化を切り離すことを選んだ。しかしその道を選んだことで「自然現象」としての言語に正面から向き合うことが出来なくなった。1950年代以降、多くの言語学者と哲学者は言語をまるで数学理論のごとく扱ってきた。 言語に意味があり、人間によって話されている事実など、言語を理解するという一大事業に何ら関係が無いかのような扱いだった。 言語は、人類という種がたどりついた最も素晴らしい到達点だと言えるだろう。ルソーの言う社会契約は、少なくともルソーが考えていたような意味での人間社会形成の基盤となる最初の契約ではなかったわけだ。言語こそが、初めての契約なのだから。 この書を読み終えて、なんて精神的な合理主義なのかと思わざるを得なかった。世界中の宗教家と精神科医・科学者は必死で反論を試みるでしょう。嘘でも反論しないと、その世界で職業として成り立たなくなってしまいます。それとも初めから戯書だと宣言して読みませんか!
1投稿日: 2015.12.15
powered by ブクログ面白かった。学術的なこともそんなには多くない。 言語と文化などについて、考えさせられた。 世界で一番幸せな、絶滅危惧種の人々。
0投稿日: 2015.08.02
powered by ブクログダニエル・エヴェレットは26歳の時にブラジルの先住民ピダハンのもとへ行き、「30年以上にわたってピダハンと共に暮らし、学んだ」。目的は言語学研究にあったが、彼は伝道師として赴いた。ピダハンでは麻疹(はしか)が流行したため、1950年代から伝道師を受け入れるようになった。 http://sessendo.blogspot.jp/2015/03/l.html
0投稿日: 2015.03.21
powered by ブクログ知っている言葉、使っている言葉が、その人の生きている世界そのものである。 ある日ネットでピダハンのことを知った。 ピダハンというのはチヂミのような民族料理、ではなく部族の名前で、アマゾンの奥深くに暮らしているらしい。 ピダハンは世界で一番言葉を持たない民族として知られているようだ。 驚くことに、「右手」や「左手」を示す言葉も持たず、手は彼らにとって手でしかないのだ。 めちゃ面白い民族やん、と思っていたら、たまたまその日に行ったカレーカフェNEU!(ノイ)の店長うーたん氏がピダハンの本を貸して下さった(神) このところいくぶん読書から遠ざかっていた為、完読するのにずいぶん時間がかかった。 せっかく新年になったことだし、読書を週間づけようとさっそく熟読。想像以上に面白く充実した一冊でした。 この本の著者ダニエル・L・エヴェレット氏は言語学者でありながら、根っからのキリスト教徒。 キリスト教を布教すべくピダハンのところに乗り込んでいった訳ですが、外からの文化を一切受け入れないピダハンを前に、布教を諦めてピダハン語の学者になってしまったのだ。 ミイラ取りがなんとかである。 ピダハンは「今」以外を指し示す言葉を持たず「さっき」や「昔」、「明日」や「これから」というような時間を指し示す言葉を一切持たないとのこと。 ピダハンには「今」しかない。 だから明日を憂うことも、過去を悔むこともない。 実にヨガ的な民族だと思った。 言葉がないということは、その世界において、その概念あるいは事象そのものがないということだ。 たとえば「愛」という言葉がない世界においては愛は存在しない。 またピダハン語には「神」という単語もない。しかし「精霊」はあるから面白い。 これだけ言葉が少ないピダハンは貧しいだろうか? 答えはレスイズモアー。ピダハンはピダハン的世界において幸せそのものだという。 【数の多さ=幸福】 という公式は成り立たないのである。 ピダハンはピダハン的世界観の中で、常にリラックスして豊かに幸せに暮らしている。 文明的に劣っているとはいえ、人間的に劣っている訳ではない。 ピダハンから学べる豊かな生き方が沢山ある。 「生き方を見直す」という意味で新年にふさわしい一冊でした。
0投稿日: 2015.01.07
powered by ブクログいゃあ 面白かった 「読書」の楽しみを満喫させてもらいました 地球上には 我々が 行ったことがない 逢ったこともない 見たこともない 聞いたこともない 触れたこともない ものが それはそれは どっさり あることでしょう 私たちの文化というモノサシが 単なる 一つにすぎない ということを 改めて 思い知らされました それでも 「共感」してしまう部分があるところに 自分の中の 人類のDNAを感じてしまいます それにしても ウーギアーイ先生はたいしたものだ
1投稿日: 2014.12.31
powered by ブクログピダハンがいかに簡素な文化のもとに暮らしているかを話すと、たいていの人がなぜか心配層になる。つまるところ、産業化の進んだ文明では、ある意味でテクノロジーの進歩が成功を意味する。だがピダハンにはそうした進歩はないし、望んでもいない。(p.114) まず、他の社会を見るときに、自分たちは地震の社会の価値観や仕組み、物事の進め方を投影してしまうこと。自分自身の社会に何らかの指導者がいない状態、特に社会の規則を守らせる力をもった指導者がいない場合を想定しにくいため、古くからうまく機能している社会でそのような強制力が働かないことを想像するのは、わたしたちにとっては困難だ。(p.158) チョムスキーの理論によれば、人類が地球上のほかの生物と決定的に違っているのは、文法を使う能力であるという。境目は情報伝達の能力があるかどうかではないが、それはチョムスキーも認めているようにほかの生物も情報伝達をするからだ。(p.276) 言語とは意味なのである。われわれは意味から始め、それを文法にはめていく。文法はすべて意味によって導かれる。それでは意味とは何なのか?この命題は何世紀にもわたって思索家たちを悩ませてきた。哲学者と言語学者はsense(意義)とreference(指示的意味)のふたつの観点で論じる。(p.279) 各々の文でbreakがどのような意味になるかを知る唯一の方法は、使われ方を知ることだ。そしてある言葉を使うとは、特定の文脈、すなわち、ある言葉がどのように使われるべきかということも含め、話し手と聞き手とが共有している背景や、その特定の言葉とともに使われるべき言葉を選ぶということである。 簡単に言えば意味とはそういうことだ。ひとつの語や文が使われるその使われ方、他の語や文との関係、そして、その語や文が世界のなかでどのような事物を指し示しているかを話し手がどう捉えているかということである。ピダハンも、世界じゅうのすべての人びとと同じように、何かを語るとき、何らかの意味を伝えている。だが全員が同じ意味で使っているとはかぎらない。人類すべてがそうであるように、ピダハンの語る意味も彼らの価値観、彼らの信念に厳しく制約されているのである。(p.280-1) わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどもし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化の世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。(p. 346) もちろん、職業といってもさまざまだから、単独の言語という制限のなかでそれだけの話を可能にするためには、わたしたちの言語に幾多の学問領域、専門領域、商売などなどを表現するのに充分な語彙や体系がなくてはならないわけだ。 わたしたちが知っていると考えていることのほとんどはきわめて地域限定的な情報であり、地域に根差した視点で得られたものでしかない。(p.360)
0投稿日: 2014.12.27
powered by ブクログピダハンという全く想像できない書名が気になって手に取った。 異文化コミュニケーション関連の本を読み漁ろうとしていたのでちょうどよかった。でもこれ、多分ラスボス級の異文化度ですね。 自身を喪失せずに、相手を受け入れられる筆者がうらやましい。
0投稿日: 2014.11.18
powered by ブクログたぶん。前評判からして、もっとすごいものを想像していた。 けれど、この、未来が無い、今しかない思想というのも……ある一つの社会で在るべきものなんだろうなぁとしか思えない。 いわゆる西洋型の社会を否定するものでもないし、ピダハンがいいとも思えない(いいと思うところはたくさんあるんだけれど、社会構成上それを選択するのが自然とも思えない)。西洋型がいいともいえないけどね。 ただ、社会の多様性や、「かくあるのが自然である」ともいえないんだなぁという純粋な驚きがあった。そういう意味ではすごく面白い。 著者の背景や、その後の生活を考えると……ただ純粋にピダハン礼賛とは言えないなぁ。この著者の別な作品や、別な方が書いたピダハン文化についての本も読んでみたいと思う。
0投稿日: 2014.10.11
powered by ブクログ普遍文法にはなんとなく違和感があった。この本を読んで、胸がすくような思い。 私はピダハンの世界で暮らすことはできないだろう。でも時代の一番先でとがり続ける必要もない。
0投稿日: 2014.06.05
powered by ブクログ評判は聞いていたけど、ほんとに面白い! ピダハンとは、ブラジルのアマゾンに暮らす狩猟採集民族のひとつ。著者は、もともとは聖書をピダハン語に訳すというミッションを負ってアメリカから派遣された伝道師かつ言語学者で、70年代末から30年以上にわたって、彼らと付き合い続けてきた。文化人類学者がアマゾンの部族について書いたものはいろいろあるけれど、言語学者の目から見たピダハンのユニークさは、実に魅力的だ。 たとえば、ピダハン語で使われる音は、母音が3つ、子音も男性で8つ、女性で7つだけ。これにさまざまな音調や歌、ハミングをくみあわせてコミュニケーションをとる。「1,2,3…」という数の概念、「右」「左」の概念もない。入れ子構造の構文もないという、きわめてシンプルな言語なのだ。 しかも、シンプルなのは言語だけではない。彼らは、基本的に自分が直接体験したことしか言語化しないため、親族関係を示す語に「祖父」はあっても「曾祖父」はない。創世神話すらなく、祖先や神のための儀式も行わない。まさに言語学の、いや「人間」という存在に関するこれまでの常識をくつがえしてしまうような人々なのである。 このシンプルな言語・生活・文化は、ピダハンが「低い」レベルにとどまっていることを意味しているのだろうか?著者自身、最初は、ピダハンが複雑な儀式や文化様式をもたないことに失望し、もっと「興味深い」部族のところに派遣されればよかったのにと思ったことを告白している。だが著者によれば、彼らのシンプルな生活様式は、アマゾンの環境と完全に合致しているのだ。ピダハンたちは食糧を貯めこまず、複雑な道具も必要としないかわり、よく働き、夜も害獣がいるのでぐっすりとは眠りこまない。それで必要十分な生活ができている。つまり、この人々は、現代の高度文明に達する能力がなかったのではなく、あえてそうしようとはしなかったのだ。 たしかにピダハンの社会に創造や個性、進化は欠けているかもしれないが、「しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。」 実際、彼らはもっともよく笑い、よくおしゃべりし、人生に満足している人々だと著者はいう。彼らの存在は、私たちのあり方こそがもっとも優れており普遍的だという思いあがりを心地よく打ちのめして、異なる生のありかたに想像力をひらかせてくれるだろう。 しかし、ピダハンがこのように魅力的な人々として私たちに紹介されたのは、ひとえに、先入観や価値判断によって自分を閉ざさず、異なる人々から謙虚に学ぶ態度を備えたこの著者の曇りなき眼差しのおかげだ。ピダハンとその言葉を知るにつれ、聖書をピダハン語に翻訳するという任務の不可能性に気づかされた著者は、ついにキリスト教の信仰を捨て、家族も崩壊することになったと告白している。自分の物差しを捨て、他者の目で世界を見て、自分を変えることのできるこの著者の勇気に、深く力づけられる。
2投稿日: 2014.05.08
powered by ブクログピダハン語には母音が三つ、子音は七つ(女性)か八つ(男性)しかない。声調言語である。アフリカのドラム言語のように、通常とは別のコミュニケーションツールがある。口笛語り・ハミング語り・音楽語り・叫び語り。色名や数詞を持たない。動詞に接尾辞が十六もあり、伝聞・観察・推論を区別する。 なんという言語だろう。このような言語で生きるとき、世界はどんなものとして経験されるのか、想像がつかない。 著者によれば、言語学は人類学に属すべきものだという。「言語を回転させる機構にすぎない文法よりも、世界各地のそれぞれの文化に根差した意味と、文化による発話の制限とが重要視される」ほうが望ましい、と。 しかし、世界の言語の大半はチョムスキーの普遍文法理論にほぼあてはまるようで(これは著者も認めている)、そこからはみ出すのは、いまや辺境に孤立している少数民族の言語くらいしかないらしい。どうやら、グローバリズムはヒトが言語を獲得してからすぐに働きだし、いまや言語レベルでは終結寸前ということらしい。ピダハン語の使用者は現在四百人程度だという。
0投稿日: 2014.01.26
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
満たされていること。どんなことに満たされていると笑顔になれるのだろう? 明日はどんな顔をして、どんな気持ちを胸に、ドアを開け放って一歩を踏み出すのだろう? 読み終え、しばらく経た後、記憶に残った欠片は、ピダハンの生き方に惹かれてしまう、確かな輝きを放つ。 創世記を持たず、ただ自分達が見て聞いたもの、実像を結ぶものしか信じない。文化が言語に及ぼし変わっていくのは必然ではないのか?それならば、生き方も変わっていくはずだと思うけど、ほんとうにそうなのか? アマゾンに生きるピダハンが持つものは、微々たるものかもしれないけど、日本に生きる自分にないものが、とても大きなものがある。現実をしっかりとした心で捉えざるを得ない、大きな幸せがきっとある。
0投稿日: 2013.11.12
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
アマゾンの少数民族ピダハンの地へ宣教と言語学研究のために行った宣教師(かつ研究者)の記。 言語学としても新しい発見があり有意義なようだが、何しろピダハンの人々が興味深い。彼らは現在のみを生きていて、実際に見たものだけを信じ、自分のことは自分で守るという生き方をしている。夜ぐっすり眠るということはなく、夜中に漁に出かけたり、踊ったりする。いつも笑っている。「死」は「死」として受け入れる。子どももある程度成長すれば大人と同等に扱う。etc. そして著者は自分の信仰を捨てる。 ピダハンは神という絶対なるものも、正義も神聖も罪もない世界で生きていて、著者はそれに魅せられたのだ。 ピダハンの生き方は他の生物、獣や鳥や虫や魚などと同じ様に単純で美しい。今を生きる、それこそが”命”を謳歌する術だと思う。それこそが本当の”神”に祝福された生き方だと思う。 江戸時代に日本に訪れた宣教師たちが、日本について記しているものに、「日本の人々は幸せそうだ」という記述があるようだが、かつては日本もピダハンに通じるものがあったのかもしれない。 ピダハンについてはNHKで昨年末に放送があったようだ。それについてブログに書いている方がいて、そちらによると(http://aoiyugure.blog62.fc2.com/blog-entry-1212.html)、ピダハンの村は変わってしまったそうだ。家や施設が建てられ、電気や水道も通い、学校ではポルトガル語を教えていると。 そうすれば、彼らの美しい生き方も変わってしまうだろう。 体験記としても面白く読みやすい。図書館で借りて読んだのだが、購入しようかなと思う。
0投稿日: 2013.10.16
powered by ブクログ言語学、文化人類学いずれの領域でも驚くような報告。アマゾンの支流域マイシ川に暮らす人口400人あまりの先住民族ピダハンの人々は、狩猟採集のみを生活の糧として暮らしている。彼らに比べれば、ヤノマミでさえも文明との接点は多いと思える。ピダハンの言語には、挨拶言葉も、数の概念も、右左の概念も、色を表す言葉もない。音素は、わずかに11。高低の声調はある。例えば、「おやすみ」の挨拶の代りには「眠るなよ。ヘビがいるから」と告げる。ワニ、ピラニア、電気ウナギ、アナコンダ、ジャガー、マラリア―これが彼らの住む環境だ。
1投稿日: 2013.09.23
