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光あるうち光の中を歩め(新潮文庫)
光あるうち光の中を歩め(新潮文庫)
トルストイ、原久一郎/新潮社
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総合評価

73件)
3.4
8
16
22
8
1
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    豊かな生活の中で幸せではないユリウスとキリスト教の世界で幸せそうなパンフィリウス。宗教色が強い。2人の会話でどう人生をすすめるかのヒントを得られるかもしれない。とはいえ内容は難しかった。

    0
    投稿日: 2025.09.28
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    トルストイが言いたかったことは結局この本に要約されているのではないか。トルストイの本で一番好きです。

    0
    投稿日: 2025.07.08
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     初めてのトルストイ。話は単純で分かりやすいのだが、翻訳調で文章がぎこちないので、残念ながら、10ページも読むと、文字を目で追うだけで、意味が入ってこなくなる。それで、少しずつ読み進めていった。

    0
    投稿日: 2025.05.21
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    宗教色の強い難解な本です。それでも多くの日本人が手に取っているのは魅力的なタイトル(元は聖書の言葉ですが)とこれくらいなら読めそうと思わせる本の薄さのせいでしょうか。 作中のパンフィリウスのような生活を送るのは、個人としても集団としても、とても難しいことです。そもそもパンフィリウスの説明には理解に苦しむ箇所もあり、一方で、キリスト教に傾くユリウスをたびたび引き戻す老人の言うことの方が合理的で正しく思えるところもあります。 いつかこの老人の言うことがすべて欺瞞だと感じられるようになれたら、その時はじめてこの物語が、すなわちトルストイの思想が十全に理解できるのだと思います(そうなりたい、とか、そうすべき、かどうかは人それぞれですが)。 何度も読み返したくなる本です。

    1
    投稿日: 2024.07.18
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    著者、トルストイの作品、ブクログ登録は2冊目。 まず、著者、トルストイ、どのような方か、ウィキペディアで見てみます。 ---引用開始 レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ( 1828年9月9日〔ユリウス暦8月28日〕 - 1910年11月20日〔ユリウス暦11月7日〕)は、帝政ロシアの小説家、思想家。 ---引用終了 で、本作の内容は、次のとおり。 ---引用開始 性的な愛、私有欲、名誉心、我々を支配する障害からいかに放たれるか――。 晩年のトルストイが到達した、新しいキリスト教の世界観。 本書新潮文庫版は昭和27年刊行、101刷73万部超えのロングセラー。 ---引用終了 読み継がれています。 ちなみに、私が読んでいるのは、92刷になります。 そして、本書の書き出しは、次のとおり。 ---引用開始  ある日、金持の邸へ数人の客が集まった。そして偶然にも、人生に関するまじめな会話が交わされることになった。  一同は席にいる人、いない人の誰彼についてさまざまに話しあった。が、自分の生活に満足している人物を、一人も見出すことができなかった。  誰一人自分の幸福を誇ることができなかったばかりでなく、自分は真のキリスト教徒にふさわしい生活をしていると思っている者さえ、一人もいなかった。 ---引用終了 そして、本書の訳者は、原久一郎さん(1890~1971)。 原久一郎さんの息子さんは、原卓也さん(1930~2004)ですが、親子そろって、ロシア文学者とのことです。

    29
    投稿日: 2024.05.01
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    トルストイの晩年の思想をよく表している佳作。私有財産を否定する、アナーキズム的要素の強い原子キリスト教的価値観を主張するストーリーから、肉欲や功名心と言った肉体的な欲望に終始することで人生を破滅させていることを伝える。肉体的世界はあくまで他人の葡萄園なのである。そこで得られる葡萄は人のものであり、主のものであることを理解し、善業に務めるべきである。霊を満足させるために、勤労に勤しみ、人と物を分かち合い、質素な生活を勤しむという、原子的なキリスト教価値観が、現代のキリスト教的世界にどれだけ受け継がれて残っているのだろう。

    1
    投稿日: 2024.01.03
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    某所読書会課題図書:ユリウスとパンフィリウスが人間としての生き方を議論するなかで、様々な命題を投げかけて読者をけむに巻く論説も出てきて、何度も読み返すことが多かった.ユリウスは普通の人生を歩んだ人と言えようが.パンフィリウスはキリスト教徒の共同体で清廉な生活を実践している.やや理想論がちだとは思うが、揺れ動くユリウスに対して、ある男がタイミング良く登場する構成は楽しめた.トルストイは初めて読んだが、哲学的な文章が嫌味なく現れるのは良いなと感じた.

    2
    投稿日: 2023.03.24
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    キリスト教の人とそうではない人を物語風にした一冊。信仰を薦めるような一冊ではないが、世の中で望ましいと持っているものを全て手に入れた人生と自分の価値観に従った人の考え方の違いがわかり、自分も絶対的な価値観を構築する必要があるなと感じた

    1
    投稿日: 2023.02.10
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    人間の精神遍歴をたった150ページにまとめた名作。 ユリウスは生活に翻弄される世俗的な人間の象徴であり、現代社会を生きる我々にも通じる普遍的な問いを投げかけ続ける。 同時に彼の人生遍歴は、キリスト者の辿る道程をも象徴している。 すなわち、神に背を向けた放蕩生活から回心、復活、悔い改めを経て、信仰の道に入るという道筋だ。 正教会に破門されたトルストイが、教会の教義ではなく、イエスのコトバの本質を見事に描き出している傑作だろう。

    1
    投稿日: 2023.01.11
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    青年ユリウスは、キリスト教徒としての清貧の生活に入っていった親友バンフェリウスの生き方に疑問を持ちながらも憧れを抱く。ユリウスは冨や欲望の渦巻く俗世間で成功を収めるが、自分の人生に疑問を持つ都度バンフェリウスのところに行こうとするが、出会った医師に説得され俗世間に戻ることを繰り返しながら、年月を重ねる。 相容れない立場でありながらもユリウスとバンフェリウスが真摯に議論できるところとか、俗人であるユリウスが自分の思いを通せずに揺れるところなど、感じるものがあった。

    4
    投稿日: 2022.11.17
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    トルストイの数ある作品の中でも、「光あるうち光の中を歩め」は、手軽に読める一冊である。しかしながら、トルストイの人生観が凝縮された一冊でもある。 この本は、幼なじみであるが、その後、それぞれが別々の道を歩んでいくこととなるパンフィリウスとユリウスという二人の青年の対話形式の物語である。 信仰に生きるパンフィリウスと、俗世間に生きるユリウス。真の幸福とは何かを追求し、自身の使命に目覚め、懸命に生きるパンフィリウスの姿を目にする度に心を動かされるユリウスではあるが、彼の心は振り子のように、理想と現実の間を揺れ動く。しかし、何もかもうまくいかず現実に生き詰まり、苦しみ抜いた先に、再び、パンフィリウスの元に足を運んだ。 「人生のまっすぐな道に入りなさい」 この言葉に随い、ユリウスは改心し、パンフィリウスと同じ道を歩み始め、使命に生きる喜びに包まれながら、その生涯を終えるところで本作は完結する。 本作品におけるパンフィリウスとユリウスの一連の対話は、人生の目的を模索し、本当の幸福を探求し続けてきたトルストイ自身の胸中における対話であり、「光あるうち光の中を歩め」との言葉は、自らの実体験から出た言葉なのだろう。

    1
    投稿日: 2022.11.04
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    描写が凄まじく上手い。これが文豪という感じだが、説教臭い雰囲気もある。啓蒙に重きに置きすぎてしまったことで完成度を下げている気がする。

    1
    投稿日: 2022.01.22
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    30数年ぶりの再読です。 物語の最後は、あやふやな記憶と違ってはいたが、印象深い本であることには変わない。当時友人と感想を語ったと記憶する。 放蕩息子のユリウスは、欲望・野心を満たし成功もするが、どこか満たされない。パンフィリウスの生きるキリスト教の世界に、何度となく惹かれるが、思い切ることができない。 時は流れて現代も、ユリウスのような人はたくさんいる。満たされない思い・悩みも変わらずある。 社会の進歩は目を見張るものがあるが、人の心は・ ・・更に複雑になっているのか・・・再読後の感想です。 『ローマほど淫蕩(いんとう)と罪悪とに沈湎(ちんめん)している都会のないことは、これまた万人周知の事実だ。』とあるが、わたしの大好きな歴史小説「クォ・ヴァディス」を想い出す。 退廃した世の中、暴君ネロの恐怖政治、虐げられた人たち・・・そのような背景でキリスト教が人びとの心に浸透していく様を男女のロマンスを絡めて描いている。(ユリウスとパンフィリウスを「クォ・ヴァディス」では、軍人の男性とキリスト教徒の女性)読み応えのある歴史小説です。

    1
    投稿日: 2021.11.21
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    トルストイの宗教問答を中心とした晩年の作品。 うーん、晩年のトルストイの思想を表現してるんだろうけど、 これほど長く無宗教的な日本で生きてくるとちょっとピンとこない。 道徳の教科書的に言いたいことはわかるんだけど。。。

    2
    投稿日: 2020.12.06
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    転職後の夏辺りに購入。短いが読後感は爽やかで好き。 主人公の王様が権力や金等の欲望を楽しむが空しさを感じ、最終的にキリスト教の信者たちが営む小さな村で幸せに暮らす話。トルストイのキリスト教礼賛思想がよく見える。 ただ、キリスト教を抜きにしても教訓的な話であるので、暖かい気持ちになれる。最後、老人となった主人公がキリスト教の村でぶどう畑に居場所を見つけられず「すべき仕事をするにはもう年を取りすぎた」と泣いた時、別の老人が「別の畑にはあなたも取れるぶどうがある、年齢ではなく気持ちが大事だ」と諭すシーンが特に好き。 ご都合主義的なストーリーの運びではあるが、これくらいライトな進行の方が読後感もさっぱりしていて良い。またタイトルも素敵。「光あるうち光の中を歩め」なんて題名、キリスト教関係なく不思議な力を持った言葉だと思う。

    1
    投稿日: 2020.01.05
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    キリスト教の教えが分かりやすい寓話で書かれている。有名な文句(「もし誰か汝の右頬を打たば、さらに左頬も差し向けよ」など)が話の流れで出てくるので、理解しやすい。 ストーリーとしては、主人公がすぐに他人の意見に流されるので少しイライラする。あとキリスト教に行こうとするのを毎回止めにくるおじさんとエンカウントするタイミングがちょうどすぎて、ホラー的な怖さが。キリスト教について知りたい人、競争社会に疲れた人におすすめ。

    1
    投稿日: 2019.03.17
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    翻訳モノは苦手なんだけど読みやすかった。そんなに長くないし。原始キリスト教の教えを寓話っぽく説いた本、という理解でよろしいだろうか。 正直言って説教くさい。キリスト教の素晴らしさを説く友人よりも、度々キリスト教に惹かれるユリウスを諫める医師のほうが理性的な気もしてしまう。私有の否定からはヤマギシを連想した。最近はシェアリング・エコノミーなんて言葉もある。 世の中には酒・女・ギャンブルといった酒血肉林の限りを尽くした後に利他的(に見える)活動に没頭する振り幅の大きい人がいて、そういう人生には興味を惹かれる。ユリウスも振り幅が大きいけど、凡人は理性、道徳、常識に縛られるうえ、欲望の器が小さいからその振り幅が狭い。凡人としては、まずむしろ欲望の海に溺れることにあこがれる。できないけど。そして、ここに書かれたようなキリスト教的価値観に殉じることもできない。 金、地位、名声、支配、暴力に惹かれる一方、愛と平和みたいなものにも惹かれて、その2つの価値観の間で引き裂かれてしまうのはよくわかる。冒頭でユリウスが人殺しをしてほとんど罪に問われてないけど、正直ひどい。最終的には愛と平和っぽい方向に行くけど、単に年取って欲望が枯れてそうなることもあるんじゃないか?あるいは、俗っぽさにどっぷり浸った後じゃないとそっちには行けないのかも。俗っぽさもやり尽すと、年を経て飽きるんじゃないか。若い時は愛と平和に沿った平穏な生活は面白くないのではないか。退屈さに耐えられないのではないか。気力体力性欲が有り余ってて、それを使わないのは難しい。 人によると言ってしまえばそれまでだけど。

    3
    投稿日: 2018.03.21
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    この時代の原初キリスト教の世界観は真理を説いていると思う。人間は動物的本能の為に我欲にとらわれ翻弄する存在であると同時に理性をも持ち合わせている。人間は理性により自我をコントロールし、他者を愛することができる。つまり、理性を使わなければ人間たりえない。今の世界は暴力に満ちている。 俗世からユリウスが神の道に入り、兄弟達の為に労苦する生活の後、最後の一文に『肉体の死が訪れたのも知らなかった』とありました。 つまり、神の道とは完全なる愛であり、自身の死の自覚すら眼中にない程他人の幸せに奉仕することにのみ喜びを感じることだと言うことがわかりました。私はこの資本主義の国に住み、子ども達に義務教育を受けさせ、他人と競い、上を目指して繁栄することが目標のように生きている。そして民主主義は暴力への道であることも言い過ぎではないと思う。果たして自分でも自分の住んでいる世界を本意とは思わないが、その中で如何に偽善ではなく神の道に近づくことが出来るだろうか。欲望を神が人間に与えたのは争いではなく愛のためにある事を忘れてはいけない。自分の懐が満たされてから他人に余りものを施してはいけない。自分自身の死すら忘れてしまうほどまず他人に尽くすことができればこの三次元で楽園が出現するのだろう。この最後の一文は『イワンイリッチの死』に通じるところがある。自分の私欲に駆られていると死は拒絶すべき敵であるが、生き甲斐が自分以外に向いてしまったらその瞬間から死は無くなる。人間が進化したら永遠に生きる存在になると言われていた意味がここではっきりとわかりました。宗教に属さなくてもそれは可能だと思う。 個人が何を信じるかにかかっている。 世の中を変えるのは大統領でもなく法律でもない、ひとりひとりの意識ひとつではないだろうか。

    1
    投稿日: 2017.10.05
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    自分が一番得をしようとしない、っていうのはクリスチャンじゃなくても大事な考えかも。 初期キリスト教社会は理想的な社会主義の形をとってる(だっけ?)っていうのがよくわかった。 これだけ無私を貫ければ集団としては機能するでしょう。 足るを知る。 ってのはヨガだっけか。 失恋したら読もう。

    1
    投稿日: 2017.05.12
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    世俗の人の意見も、パンフィリウスの話も優劣ではなく どちらも同じことを言っている。 今の人生に誠実になれ、と。 歩んできた道の中で神の仕事を担え

    1
    投稿日: 2017.01.07
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    ロシア文学・トルストイ・哲学と僕にとっての苦手意識(偏見)が三拍子揃った本だが、読みやすい。トルストイ、すまんやで。 やはりドクトリン的なことに無教養なのでしっかりと内容がつかめた感はないが、現代人にもピンと来るところの多いものだった。ここでは最終的にキリストの世界に身を置く終わりとなっているが、結局のところ「信ずるものは救われる」ってところなのかなぁと。ロシア正教会ってそんな感じっぽいし(そんなじゃないかもしれないが) 最後に幸福になるというところは話の性質上キリストが前提となっているようにも思えるが、シンプルに自分が何かを信じるという行為それ自体についての話だと僕は思っていて、何か大事にするものを確かに持ち、その理念に付き従って目の前のことに従事する、みたいな、それが光あるうち光の中を歩めってこと? 日が空きすぎて正直ところどころ覚えてないけど、無宗教無教養の現代人の読み終わった感想。

    1
    投稿日: 2015.12.26
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    読み切るのに随分時間がかかってしまった。読み始めると興味深いのに、つい睡魔に負けたり、本を開くのが億劫に感じたりして中々進まなかった。 ただ閑人たちの会話だけでも考えさせられる事は多い。 どの宗教を奉じている人でも、自分は完璧だとか、完成していると心の底から思う人はいないのではないだろうか。 そういうことは、日々のちょっとした邪な気持ちが芽生えたり、感情のコントロールができなかったりした時に自分の足りなさを強く感じるかもしれない。 短編の中でもみんな(信仰の)道の途中で、それぞれの尤もな理由で信仰生活の難しさを語っている。若者は勢いで走り、妻子のある者は『責任』を口にして二の足を踏む。齢を経た者は老いが自由を奪い、十分に動けずにいる。 本当に個々の言い分はとてもよく分かる。 若くして行動力がある若人でも果たして一つの労働力として即時に機能するがいいか、多くの知識を時間をかけて身につけ、後に多くの人に有益なものをもたらすのがいいか。また妻子ある者にしたら、自分が即座に生活を一変させたら、妻と子の生活に支障がでてくる。妻子の将来に責任を取るという事が大義と言われれば首を縦に振らざるを得ない。各々がそれぞれのしがらみ(それを人生というのかもしれないが)の中で生きていて、そうなるとユリウスは悩める人の最適な人物像かもしれない。 彼は数度、キリスト教に赴こうとするが、その度に有識な世俗人に諫言されて考えを180度変える。 人生の岐路で同じ人に3回も諭されるのも珍しいが、その医師が言うこともとてもよく分かる。パフィンリスが語ることも頷ける。キリスト教寄りの者ならそちらに傾きやすいが、この小説は中立な立場から、時には疑いの目をもった側からの言葉もしっかり披露する。 普通は耳に心地よい言葉ばかりを選び取るが、ユリウスを身代にする事で、読者が第三者的な立場から考えられるような演出が施されている。 話の内容も深かったが、こういった読者を踏まえた技巧にも感動した。 とはいえ、最終的な答えは出ない。 人は何時から信仰の道にどっぷり浸かるべきなのか、もしくはそうでないのか。 普通の生活と両立できるか否か。 自分はどうすれば幸福になれるか。 いやはや、難しい問題だ。

    0
    投稿日: 2015.08.13
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    トルストイの宗教観がわかる一冊。 紀元後すぐだろう古代ローマを舞台とする、新興宗教キリスト教のお話。当時の空気感はよくわからないが、たぶんこういう雰囲気だったのだろう。

    0
    投稿日: 2015.04.23
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    トルストイの宗教観が出ているという佳作。私は無宗教者なのでキリスト教の理念と言うか観念みたいなものを理解するのが難しかったかな。宗教関連のものにしては読みやすいとは思う。この本を理解するのは私には色々と経験が足りないなー。(本文より)“神のもとには大きなものも小さなものもありはしません。 人生においてもまた、大きなものも小さなものもありはしません。 あるものはただ、まっすぐなものと曲がったものだけです。”2012/502

    0
    投稿日: 2015.04.16
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    愛、律法、幸福、基本的な概念の捉え方や、前提がかけ離れていて、「知らない以上、否定は出来ない」という無限ループに陥っているユリウスとパンフィリウスのやりとりに、理解の難しさを感じました。これが、少数派にすぎない原始キリスト教の姿の一面であったとすれば、本作で問われ続けた「瞞着」を擦り合わせながら、世界的な信仰へと変化して現代の姿もあるのだろうな、と想像を刺激されました。 前半部、「やって見せよ」「人に見せるためではない」という二人の問答があった。 幸福、あるいは飛躍して救済のための奉仕を淡々と積み重ねていると主張する姿に迷いは見られないが、パンフィリウスとユリウスの中間くらいの位置で、人知れず煩悶しながら救いを求めて共同体への奉仕を続ける人物として、「灰羽連盟」のレキを思い起こさずにはいられませんでした。 居候、使い古したものを譲り受ける、など、既存の共同体に恩恵を受けた存在としての在り方を中立的に描いた「灰羽連盟」との対比で、荒削りで、原理主義的な思想として、すんなりと希望を感じさせない描きかただな、というのが、初読の印象でした。

    1
    投稿日: 2014.09.04
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    再読。3年半前に読んだ時も衝撃的で、文学嫌いな私でも読める本があるものだなと思わせてくれた本。 あれから私もいろんな勉強をして、思想が現代風に近づいたけれど、今読んでも違った意味でよかった。 意味や、普遍的な正しさが失われたといわれる現代にあって、もしまた規範的なものが必要とされるならきっとこういうものになるんだろうなと思った。そしてたしかにそんな日は近付いてきている。 ただ、この時期ってトルストイはたしか深い鬱状態みたいなものに悩まされていた時なので、これを盲信しすぎるの危険なのかもしれない。 光あるうち光の中を歩め.... 限界まで来たらだらだらするひと休みも可、という但し書きは必要そうだ。 再読2・ 事あるごとに、自分に甘えが強く見えすぎるときに読みたくなる本。”よく”生きるとは本当に難しい。欲を捨てることは同時に全てが無意味な無気力とかしてしまう危険性がある。特に自分がどれほどよく生きようと努めても、周りにはそういう人たちばかりではない(つまりその基準においてなのであるが)ので、人間嫌いが加速する危険性を秘めている。それでも自分が納得がいかない”悪行”を無理やり自分に強いるよりはいいのかもしれないのだが。

    1
    投稿日: 2014.03.08
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    率直な感想としては私はキリスト教徒にはなれないだろうなということだった。 というかパンフィリウスや晩年20年のユリウスの生活の具体的なところが何も書かれていないのがずるいなと思った。 世俗的な生活を送っていたころのユリウスの苦悩や葛藤が詳細に追われているのに、パンフィリウスがあまりに霧に隠れていて、そりゃこれだけならパンフィリウスの生活のほうが素晴らしく見えるわと。 パンフィリウスの人生における苦悩や葛藤がキリスト教の思想によってどのように乗り越えられるのかが知りたい。 トルストイが理想を外から眺めている状態=トルストイはパンフィリウスの仲間達の一員ではないんだろうなという気がした。 なんとかしてユリウスになろうとしている医者=トルストイと感じる。

    0
    投稿日: 2014.02.23
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    イエスは言われた。 「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 (新共同訳『聖書 旧約聖書続編つき』日本聖書協会、新約聖書193ページ) この 光 の意味は 信仰心 ということなのかな。 神というわけではない。 闇の中にも 神はいるはずだから。  物語は キリスト生誕 100年後。 原始キリスト教の時代で、ユリウスとパンフィリウスの会話が基本となり、その間に 医師が話をする。 役者はそろっている。ユリウスの奥さんも、一時期、傾いたりする。 ユリウスとパンフィリウスは 三度であい、 そこで、ユリウスは パンフィリウスのところにいこうとするが 思いとどまる。一生のストーリーにしている。 老いた時に やっと パンフィリウスのところにいく。 物語の構成は シンプルで、結末も想定される。 光あるうちに光の中を歩もうとする物語であるからだ。 トルストイは キリスト教を信仰したいという想いが 最初から あったような気もあり、動機が明確だ。 その論議として、信仰を持つと言う必然性を書こうとするが どうも、成功しているとはいいがたい感じがする。 どこに無理があるのだろうか? 題材として 原始キリスト教であることが限界があるのかな。 弾圧に対して 殉死を えらぶということが、ある。 宗教と国家という関係がうまく説明できない。 共同体としか描けないところに弱さがある。 それに、共同体に関する ユリウスの指摘は 意外と正鵠をえている。 ユリウスに押し寄せる 幸福が欠落した気持ちが 人生の節目に起こる。 それが ふらふらとする 要因でもある。 これを読みながら キリスト教を信仰しながら 戦争を起こす輩がいること自体が 矛盾の極みである。 ここでは、はっきりしていないのは 利己的な社会形成と 利他的な社会形成 という視点で 腑分けするともう少し鮮明になりそうだ。

    0
    投稿日: 2013.10.18
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    キリスト教に関して、所謂「入門書」にあたるような本は数多ある。掃いて捨てる程度のものから詳細に検討されたアカデミックなものまで、それこそ星の数ほどある。このような類書の氾濫は、非キリスト教圏に生きる現代人にとって、キリスト教への理解がどれほど喫緊の課題であるかを如実に示している。最近では大澤真幸と橋爪大三郎の共著『ふしぎなキリスト教』が講談社現代新書からベストセラーになるなどして話題を呼んだ。 西谷修が『世界史の臨界』の中でフランスの法制史家であるピエール・ルジャンドルの論旨を汲みつつ指摘したのは、近代以降のグローバル化社会というのが漂白されたキリスト教社会に他ならない、という点である。植民地政策やそれを支える帝国主義的イデオロギーを通して、ヨーロッパ文明は続々とキリスト教を輸出し、千年王国の到来を期した。それは例えばウェーバー流の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であったり、「恋愛」というシステムであったり、より具体的には修道院に端を発する病院や大学であったりする。フーコーならここに『監獄の誕生』を加えるかもしれない。こうして漂白されたキリスト教は近代を構築しつつあらゆる社会制度に浸透し、現在も矍鑠と駆動している。要するに現代とは、聖書を読まず洗礼を経由しないキリスト教徒が地上に溢れる時代なのである。 殊日本に於いて、この近代化は極めて円滑に作用した。遠藤周作が『沈黙』の中で「日本は宗教の根を腐らせる沼地である」と宣教師をして語らせているが、その沼地は輸入されて来たシステムが含むキリスト教的なドグマを徹底して腐敗させ、形骸化し、馴化しつつ飲み込んでいった。故に我々日本人一般は高度にキリスト教化された世界に暮らしつつ、享受してきた近代的な恩恵の数々をキリスト教に帰することをしない。この辺りの問題に関しては丸山眞男などが度々批判的に言及している。 キリスト教をその理念の水準から知り、考える為に必要な要素を、老トルストイは小説という形式で簡潔に、そして見事にまとめ上げた。本書『光あるうち光の中を歩め』である。手元の新潮文庫版で100頁強という短さでありながら、2人の怜悧な青年同士の対話を通して原始キリスト教の様々な側面をテンポ良く提示しており、それぞれに象徴される聖-俗の対立は緊張感があり鮮やかだ。作中で主人公ユリウスをかどわかす悪魔を知的で老獪な医師として描く繊細なバランス感覚などは、いかにもトルストイらしい。 敬虔なキリスト教徒である旧友パンフィリウスの存在は、この悪魔的老人の登場によって主人公ユリウスから急激に遠ざかる。本書における聖-俗の対立はキリスト教徒-世俗の人間という構図を取らない。キリスト教徒(聖-旧友)と対置されるのは悪魔(邪-老人)なのである。トルストイはユリウスに象徴される俗性を、明確な聖邪の狭間で揺れる流動性、不安定性として浮き彫りにした。それはそのまま多くの人間が普通に暮らすこの現実世界の流動性であり、不安定性でもある。 パンフィリウスはキリスト教共同体における生活の理念、理想、目的を友に説く。ユリウスはその崇高さに心を動かされる。しかしその度に老人が登場し、極めて論理的にキリスト教が孕む欺瞞を痛撃するので、ユリウスはキリスト教ドグマと悪魔の入れ知恵に揺れる典型的な俗人としての地位を賦与され、読み手は彼の視点を拝借することでことの成り行き、論理の展開を冷静に傍観することが出来る。この辺りの構成は実によく計画されていて、トルストイの教義に対する真摯さが窺える。 冒頭、『閑人たちの会話』と題されたプロローグが用意されている。そこで人々はキリスト者としての在り方をあれこれと述べ、議論するのだが、誰も彼も一切神への愛を口にしない。どころか、キリスト教の最も基本的で重大な教義を全く考慮せずに、不毛な結果論ばかりを弄しているといった具合で、ここには彼らを「閑人」としたトルストイの冷笑が通奏低音のように響いている。 誤解を恐れずに言えば、このささやかな書評を読んでいる貴方も、僕も、ある意味では間違いなくキリスト教徒である。キリスト教への理解は時代への理解であり、それはまた時代からの、世界からの要請でもある。『光あるうち光の中を歩め』というのは、その要請に対するトルストイという巨大な才能からの、一つの解答だ。ぜひ参照されたい。

    3
    投稿日: 2013.04.06
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    Bookoff、¥200 語られている内容はよく理解できるのだけど、話としては面白みに書ける気がしました。トルストイの小説をきちんと読んだことがないことやキリスト教についての自分の理解が乏しいせいかもしれません。

    0
    投稿日: 2013.02.20
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    この人に興味がわいたのは、レーピンの描いた絵を見たから。NHKの「映像の世紀」では映像に残っているトルストイも見た。超idol。おじいちゃんでもアイドル。人々に生きる指針を文章によって与えていた人なんだと読んで納得。

    0
    投稿日: 2013.01.19
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    数人の閑人が人の幸福について語るが誰一人幸福でないといった、結局口先だけで論じ合うのが関の山というプロローグから始まる本書。トルストイが考える人の真の幸福の生き方はキリスト教に答えがあった。理想(キリスト教)と現実(俗世)的な生き方をする登場人物2人の言い分はともに正論に思える。若き読者は老いるまで老いた読者は死ぬまでの経験する総てが本書150頁の中にあるかもしれない。読みながら自身の過去を想い、先を思い、右往左往する。《彼は喜びのうちなお20年生き延び肉体の死が訪れたのも知らなかった》果たして我が身は。

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    投稿日: 2013.01.03
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    俗世間での欲を捨て去りキリスト教に入ろうとするユリウスは、そのつど引き止められ、思い直し元の生活に戻っていく。はたして彼は自分の人生に満足を得られるのか。 小説の形はしているが物語の描写より、対話として語られる、「いかに生きることが人間の真の幸福か」にほとんどが費やされている。 ユリウスのように人生の酸いも甘いも身をもって体験した後であろう、晩年のトルストイが発するメッセージとしてみるのは興味深い。戦争と平和をこの後読み返してみたらまた別の味わいがあった。 他の作品にもある説教くささも感じられるが、テーマへのアプローチが真摯で胸に迫る。突き詰めた結果が虚無ではなく「光」であったなら幸福のうちに死ねるだろう。

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    投稿日: 2012.11.03
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    トルストイは初めて。 揺れ方は面白い。人生のそれぞれのフェーズで彼が考えたこと、パンフィリウスが言ったこと、男が言ったこと、それらが含蓄に富んでいる。 しかし、あの結論で良かったのだろうか? 男の言うことは振り切ってよかったのだろうか。結局あの境地に至るのであれば、もっと早く教団に入っていても良かったのではないか。 結論の説得力のなさは、キリスト教徒として彼が生きている時間が圧倒的に短く、描写されていないからだろう。現世で暮らしいかなる事件を受けてどう変化したかというのは克明に描かれているものの、キリスト教はその外部として、伝聞で聞くだけだ。ほかならぬユリウスがどう生きるのか、どう壁にぶつかるのか、そこを知りたかった。

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    投稿日: 2012.10.24
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    トルストイを読もうとしたら他はめっちゃ長かったのでとりあえずコレにした。よくやる手口。 淡々と宗教参加にゆれる男性を書いている。

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    投稿日: 2012.10.18
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    国家権力、暴力を非難する箇所を除けば、トルストイの語る原始キリスト教と共産主義は似ている部分が大いにあるように思う。 だが、その根本が大いに違うところが肝要であろう。 主人公ユリウスが何度も迷いつつも、現世に立ち止まり、ついに老齢にてキリスト教に入って行く様子は、いまも同じだ。 若い日に神を覚えよとはいうが、神様が手元にお招きになるその時期は各人各様。 たとえ老齢であってもそれでよいのだと改めて思った次第。 しかしなぁ、トルストイは残念ながら、パンフィリウスの住まうところには行けなかったかもしれない。

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    投稿日: 2012.10.13
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    キリスト教に馴染みない自分にとっては正直わかりにくかった。ただ、キリスト教に関するもっと知りたいという知的好奇心が湧いた。とりあえず、短いし何度か読もう。

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    投稿日: 2012.09.01
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    トルストイの時代のロシア正教の教義とは異なる、トルストイ流のキリスト教の理想像が描かれている。自身の考える理想世界を広めたいと考えていた、思想家・宗教家としてのトルストイの姿がここにあるように思う。私有財産の否定など、共産主義的思想の影響をうけたキリスト教原理主義的思想だなというのが私の印象である。

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    投稿日: 2012.07.03
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    先輩にすすめられて。 原始キリスト教と現在のキリスト教(プロテスタント)の考え方に大きな隔たりを感じた。

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    投稿日: 2012.07.01
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    トルストイ曰く「少年老い易く、学成り難し」←違 トルストイといえば坊ちゃんで、自分ちの農奴の女性たちにじゃんじゃん手をつけて子ども産ませまくったことで有名ですが、キリストの教えではそういうのまずいんじゃ…。ねえ。

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    投稿日: 2012.05.25
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    最近読んだなかで一番感動した。 100年以上前に書かれてるのに自分に向けられたメッセージなんじゃないかって思わせられるのも凄い。 繰り返されるパンフィリウスとユリウスの問答が最高だね。 一字一句噛み締めるようにして読んでた。 綺麗に整理された神話的な構成には感服。 キリスト教に興味ある人には猛烈にオススメ。

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    投稿日: 2012.02.25
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    西暦1世紀のローマ、富裕な家庭に生まれた青年が主人公。 放蕩の結果、金銭的困窮や家族・友人との関係崩壊を招き、生き方を見直す青年。 その彼に、キリスト教徒となった親友が信仰の道を勧め、一方で、旅で行き会った男性が世俗的な個人としての責任を説く。 原始キリスト教時代を舞台に、私欲から解放され、他者愛と労働に生きる、 トルストイが到達した新しいキリスト教世界観が描かれている。 語り部分が多くそれぞれが長いが、特に読みづらくなった。 構成が分かりやすく、二つの思想が彼の中でせめぎあう様子が、躍動的に描かれている。 後半では帰結を予見される片鱗があるものの、いずれの論理にも重みが持たされており、確信がもてない。 ところが最後の2節は妙に予定調和的。 ラストにもう少し広がりがあったらと思った。

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    投稿日: 2012.02.11
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    2008年05月10日 00:10 内容どうとかじゃなくて、決心したことを人の助言でころころ変える点においてユリウスにめちゃくちゃムカついた。 無宗教の私は、この本を読んで「その通りだ!」って心底感銘をうける、みたいなことは生涯ないんだろう。 現に、この人たちの生き方はすばらしいなあとも下らないなあとも感じなかった。 ただ、ひとつのことをここまで信じきり、疑わず、自分の生きていく中心とできる、宗教うんぬんと関係なく、その生き方は純粋にすごいと思う。 ただし、ここ。 「男が女を自分と同じ一個の『人』として愛するのではなく、彼女との肉体的接触から受ける自己の快楽を愛する結果、自己の快楽のために結婚する。」 続く本文通り「ここに神意への違背がある」かどうかは定かじゃないけど少なくとも「女性への違背」です。

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    投稿日: 2012.01.29
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    一行たりとも極太赤鉛筆の出番ないままだった。こういう読書は近年に例がない。序でに教徒としての素質も全くなさそうだ。

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    投稿日: 2012.01.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ユリウスがパンフィリウスと謎の老人の相対する意見によって己の生き方を模索していく物語。パンフィリスの思想に傾倒する寸前で老人が現れるところは、1人の人の中にある陰と陽の部分が見え隠れする感じにも捉えられ、3人の登場人物を1人の心の中の葛藤に置き換えてもおかしくないと感じた。1800年代当時、宗教という難解でナイーブな事物に対して、パンフィリスと謎の老人の意見と言う形でトルストイが明瞭に紐解いていっているのはただただ圧巻であった。

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    投稿日: 2012.01.12
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    トルストイは自分の全集の中に、この作品は加えませんでした。 抽象的議論で埋め尽くされ、芸術作品として十分ではなかったということらしいです。 この徹底した文学、哲学に対する姿勢がトルストイの魅力なのだろうと思われます。

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    投稿日: 2011.10.22
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    キリスト文学なのである。説明が抽象的なのである。とにかく宗教とはなにかを私的解釈でひろげた一品。タイトルがごっついよなー。

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    投稿日: 2011.05.07
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    そもそも、これ小説なのか?というとかなり怪しくはある。 小説らしさなんてなにひとつとしてないからである。 描写もへったくれもなく、簡単な解説と後はひたすらに、 「会話の応酬」である。 つまり、「会話の応酬による思想書」、というのが、 本著を端的に表わした言葉かな。 かつて、ともだちは宗教のことを、「思考停止」だと言っていた。 マルクスは、宗教のことを「癌」だか「毒」だか言っていたはず。 しかし、トルストイは思考停止に陥ってはいなかった。 ユリウスの許に現れる「医者」と友「パンフィリウス」。 この二人の間で主人公は揺れ続ける。 医者はキリスト教は欺瞞であり、瞞着だと言い、 パンフィリウスはキリスト教こそが正しいのだと言う。 最終的にユリウスはキリスト教に行くわけだが、 そのときには年をとっており、早く、改心しなかったことを、 悔やむわけだが、老人から、 「神の前では我らは卑小、んなこと関係ねーよ」と言われて、 すっかり安心するわけだ。 まあ、今で言うところの「地球論」みたいなやつですね。 「地球に比べれば俺たちは卑小、俺が死んだところで地球が、 どうなるわけでもなし、まあ、気楽にいきましょーや」って感じ。 で、トルストイが思考停止に陥っていなかったという点の、 優れているところは、会話の応酬がかなり本気入ってるからである。 例えば、聖書だとか古事記だとかってやつは、 ひたすら神に都合がいいように書かれているわけだけど、 本著はそうじゃなくて、生々しいやりとりが繰り広げられている。 「君たちは、神の教えを実践できていないじゃないか」 「じゃあ、君たちこそ、自分たちのやろうとしている事業なんかを、 思うとおりに成し遂げられているのかい?」 パンフィリウスがユリウスにこう言ったように。 あるいは、医者がユリウスにこう言ったように。 「いいかい、キリスト教のやつらが教えるのはだね、 百姓が他人に向かって、どうせ思うような量の収穫にはいたってないわけだろ?じゃあ、海に種をまけよ、とそう言ってるようなものじゃないかな?」 この物語の惜しいところは、最終的に、 ユリウスがキリスト教徒の許へ行ってしまったところだろうと思う。 彼は行くべきではなかった。 なぜなら、彼みたいに迷って迷い続ける姿こそに、 ひとってやつが生きるある意味でひたむきかつ真摯な姿があるからだ。 右往左往しているユリウスはかなり間抜けにうつるかもしれないけれど、 人間なんてそんなものだ。 むしろ、パンフィリウスみたいな思考停止に陥ってしまうのは、 やはりいただけないのだ。 ユリウスは流され思考停止をしているように見えるけれど、 彼は彼なりに悩んでいるのであってつまり思考はやめていない。 さて、最後に宗教に対する個人的な見解を。 宗教はあってもいいが、そこに入信している人々は神を盲信するのじゃなく、 宗教の意義についてあれこれ考えて疑い悩み続けるべきである。 それこそが思考停止を防ぐものでありそうすれば無理に教えを、 誰かに押しつけたりもせずにいられることだろう。 逆にそれができない宗教はなくなってしまえばいいと思う、 とまで書くと暴論かもしれないが、 しかし、トルストイみたいに一生懸命考えてもらいたいと思う。 俺にしたって、宗教を端から否定していないし、 その意義も認めている(つもり)。 実際に宗教がなければ立ち直れないひともいるし、 宗教に救われたというひとも数少ないわけじゃないのだから。 つまり、悩み苦しみから逃げるようにして入信するのじゃなく、 悩み苦しみを背負ったまま入信するか、あるいは、 満たされているが敢えて入信するか、それこそが望ましいのではないか。 ひとまず、古典について言いたいのは、 「文字を大きくしてくれ」ということ。 文字が小さいと難解に見えて読む気をなくすが、 実は読んでみれば読めたりもするのだから。

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    投稿日: 2011.04.21
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    真実とは親密さ i.e. 直接性のことだと個人的には思う。トルストイがこの本の中で語っているキリスト教の言葉は、実存とは疎遠な抽象語(「人類普遍の神の摂理」「万人への愛」etc.)ばかりに思え、上のような意味での真実味を殆ど感じられなかった。言葉で語られる宗教というのは、どうにも奇妙なものに思えてしまう。一言で言うと、説教臭い。

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    投稿日: 2011.03.26
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    放蕩息子が世俗での欲望追求と高みを目指しながら、精神の安らぎの世界にも魅かれる葛藤を問答形式で描く短編小説。本の著者紹介を読むと、自身の葛藤とその精神の終着を地でいくような作品であることがよくわかる。解説によれば短編ながらかなりの推敲があったようで、二転三転する主人公の心と重なり、本人の葛藤のほどを覗える。 聖と俗のはざまで繰り返される宗教問答が会話の大半であるので、論理過多状態となって少々読みづらかった。 ラストは著者自身の最後に行き着いた心情がよくわかる結末となっている。

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    投稿日: 2011.03.21
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    トルストイの晩年の作品。 何度か全集的なものを読んだ記憶はあるが、この作品は記憶に無い。 晩年の原始キリスト教に傾倒した後の作品らしく、ローマ時代を舞台にしながら、キリスト教に帰依しそうになりながら説得されたり思いとどまったりする主人公の葛藤をベースに、教義や説得ロジックを伝えていく仕立て。 言いたい事やゴールイメージは明確であるので、読んでいて違和感はあまりないが、トルストイの面白さだと僕の思っている「言語化されていない共通認識の言語化」はあまり無い気がする。 ただ、文化や宗教背景の違いである可能性も高そうなので一概には言えないけれども。 説得されそうになりながら、別のロジックで説明をされて思いとどまる。しかし、そのロジックを破る新しい考え方の説明、の繰り返しという手法はプレゼンテーションのやり方としては王道に感じた。

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    投稿日: 2011.03.10
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    キリスト教徒パンフィリウスの共産主義的思想と医者の資本主義的思想。二人の意見を聞く度に納得し意見が変わる主人公ユリウス。最終的にどちらを選ぶのか。。

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    投稿日: 2010.09.04
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    快楽と富と肉欲に溺れながら、人間の欲望を体現するように生き、ハイリスク・ハイリターンな人生を歩むユリウス。対してキリストの教えに忠実に神の国的共同体でストイックな生活を営む、パンフェリウス。 対照的な2人の対話が、ゆるやかな歴史の流れにそって進められていきます。 社会主義社会の生まれる土壌における、共同幻想。 寒い国の人たちって孤高なくせに、何でこんなにも寂しがり屋なんだろうか。 ここに描かれているのは、さまざまな愛の形。 つまり、私たちを守る武器は「愛」であり、 私たちを滅ぼす最終兵器も「愛」であるということ。

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    投稿日: 2010.06.21
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    欲望や野心、功名心などの渦巻く俗世間にどっぷりつかっている豪商ユリウスと、古代キリスト教の世界に生きるパンフィリウス。対照的な二人の生き方を通して、晩年のトルストイの思想を端的に示す。 福音書からの引用やキリストにまつわる独特な表現がたくさんあり、ページ数自体は少ないものの、キリスト教に対する知識が皆無に等しい自分にとっては難解な箇所が多かった。

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    投稿日: 2010.06.13
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    キリスト教徒かそれに興味のある人は読んでみてもいい。 それ以外の人は人生の指南書として役立つかもしれないけれど、ほかにもためになる本はたくさんある。 やっぱりこの作者は自分には合わない。 近所にこんなおじいちゃんがいたらあんまり関わりたくない。

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    投稿日: 2010.06.05
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     モンテクリストに比べると薄くて一日で読めた。ただ、内容は濃く、俗世に迷いつづける人とキリスト(でなくてもよいかもしれないが)を信じ、愛と労働に喜びを見出す人の交流を通じ、無政府主義や俗世の批判を痛烈にしている。

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    投稿日: 2009.12.09
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    トルストイのキリスト教的思考が描かれている本で、主に2人の男性を巡るお話。 主人公が堕落に墜ちる度にキリスト教の幸せを求めるのだが、その度に人生経験豊富な医者が彼を説得し、また素晴らしい日々を生きる。 ある日、家路に着くと、息子が父が死んだことを祝うパーティーをしていて、主人公は悲しみに打ちひしがれ、積み上げてきた財産をすべて無くし、ただ一点を見つめて歩いていった。キリスト教信者の友人の元へ。

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    投稿日: 2009.12.05
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    薄いから楽勝?と思ったら…かなりの難敵…。もうちょっと人生経験積んでから再度読み直したいと思いました…。

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    投稿日: 2009.08.15
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    この話は短い上にそんなに難しくないので、(勿論読み解いていけば十分難しい部類に 属するでしょうが)海外文学敬遠派の私でもすらすら読めました。オススメ。 キリスト誕生100年後、ローマ皇帝トラヤヌスの時代のお話です。 (トラヤヌス帝の時代と言っても、私にはピンとこないのですが。) キリスト教徒として充実した幸福な人生を歩むパンフィリウス。 人生の節目節目でキリスト教徒になろうかと思い悩み、結局俗世に残って それなりに成功するユリウス。 ユリウスの心は「キリスト教徒になるかならないか」の間を行ったり来たりする 振り子のようです。宗教的な葛藤に限定しなければ、誰しもがこの振り子を体験 したことがあるのではないでしょうか。 ユリウスを俗世に引き留めるのは何故かいつも同じ医者です。 医者の言葉に魅了されることからも、俗世が如何に蠱惑的かが察せられます。 医者はユリウスの心をはかるために神(パンフィリウスの言葉を借りれば「父」)から 遣わされた使者だったのかもしれません。トルストイはそのつもりだったのでしょうか。 ところで、私にはパンフィリウスの説くキリスト教の真義より、引き留め役の医者の 言うことの方が納得出来てしまいます。 パンフィリウスたちのような生活は何処か老子の説く理想の世界に似ていました。

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    投稿日: 2009.08.04
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    ひたすら人間の欲に浸りまくる生活と異端者の地で安楽の生活を送ることとの間を行ったり来たりする話です。俗世で挫折すると必ず安住の地への誘惑があり、その度に言い訳を付けてあっちの生活とこっちの生活を行ったり来たりしようとするが…。きっと人間は他者の言葉に振り回されながら自分に何らかの根拠(言い訳ともとれる)を見つけて生きていくんだな。という読み終わりでした。

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    投稿日: 2008.10.17
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    キリスト教に対する一般人の懐疑や疑念や斜視をそのまま説きほぐすことにすべてを注いだ作品。 ユリウスが最終的に神の道に入ってから悟った一事一事はまさに真実と思った。

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    投稿日: 2008.10.16
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    人間行為の最も根本的な問題。 とても奥の深い考えるべき大切なテーマであると思う。 日本人は宗教的な影響なんて殆んど受けていないんじゃないか・・・ なんて思っていたけど、とんでもない。 根本的な考え方、基本的な価値観は宗教的な影響を受けているんだろうと思い至りました。 時代は違えど根本的な問題は常に同じなんだということが良く分かる。 利潤追求が当たり前になり大事なものが抜けてしまっている風潮が出ている現代社会。  まさに「光あるうちに光の中を歩め」ということなんだろう。

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    投稿日: 2008.08.23
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    先日に同著者の『人生論』を読んでいたので、かなりスムーズに読み通すことが出来た。トルストイの思想の中に一貫している、善と悪の明確な対比の手法と読み取りやすい文章で、『キリスト教的アナキスト』と称される著者の思想を端的に表した好書。一般の価値観と習慣に生きるユリウスを放蕩息子とたてて、親である神に帰って行く物語。キリストの譬話を思い出させる。  神の仕事はあんたの内部にありますのじゃ。あんたは神のもとへ行って、労働者ではなく、神の息子になりなさい、それであんたは限りない神とその仕事に参加する人間となるだろう。神のもとには大きいもの小さいものはありはしませぬ、また人生においても大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと曲がったものばかりじゃ。・・・ 08/6/25

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    投稿日: 2008.06.25
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    有名な本なので取り合えず買ったのだが、あまりにも宗教臭がキツくて本棚に封印された本。 そういう思想流布の要素が強い本って嫌いなのよね。 でもある日、あまりにも読むものが無かったので読んだ。 まあ・・・非常にわかり易いというかコテコテというか・・・宗教本だわな。 一応は仏教国である日本人には分かり辛いかもしれんね。 欧州の(というかキリスト教系の)宗教史観があれば意味は分かる。 でもそれだけよ。

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    投稿日: 2008.02.07
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    中学生の時に読んだが、非常に敬虔な内容が書かれていて感銘を受けたのを覚えている。今思えば私が信仰をもつに至ったきっかけでもあったのかも知れない。これは短編集なのでロシア版芥川といった感じか。勿論日本的な倫理観を越え切れなかった芥川とキリスト教により人類愛に目覚めたトルストイ(後期)のThemeは際立って違うが、両者とも私が敬愛する作家である。

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    投稿日: 2007.12.31
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    キリスト教世界観。ヘッセのシッダールタに通じるものを感じた。おそらく仏教もキリスト教も、根本的にさして変わるものでもないのだろう。ただヘッセのシッダールタの想いの大きさ故だろうか、こちらにどうしても物足りなさを感じてしまった。キリスト教的というだけで、反発してしまうせいかもしれない。

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    投稿日: 2007.11.11
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    061017 読むのに時間がかかった。主人公が世俗で問題を起こすと、キリストに向かい、また、同じことを繰り返す。最後には、キリストの元に行き、教えを全うする。何というか、主人公は勝手すぎる。。

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    投稿日: 2006.10.21
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    聖書の入門編のようなもの。説教じみたところが鼻につくが、トルストイの晩年の思想が端的に表されているあたりは面白い。

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    投稿日: 2006.08.26
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    たかが150ページそこらの本なのに読むのが苦痛だった。終始淡々とした文章構成。「キリストの教えに従って生きよ」とトルストイは本書で説くが、まったく説得力がない。キリスト教徒なら感銘を受けるのかな?

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    投稿日: 2006.07.27
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    主人公のだらしなさで、信仰に生きる道の説得力が感じられなかった。小説としての面白さにも欠ける小論文のような構成。

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    投稿日: 2006.04.15
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    キリスト教と世俗の間で揺れる主人公ユリウスの姿。人生の途中で求道者への転機をはかったトルストイ自身の葛藤の過程を表現しているのだろうか。

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    投稿日: 2005.11.13
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    一人の、キリスト教の熱心な信者と、それを否定するもう一人の人間との問答集のような感じで物語は進んでいく。 キリスト教を否定する主人公ユリウスがキリスト教に対して提示する、疑問や矛盾点の指摘はもっともなもので、ユリウスは容易にはキリスト教の精神を信じようとはしない。 たとえば、私有財産を否定しながらなぜ物を与えずに売ろうとするのか、結婚についてどこまで認めているのか、子供を巻き込んで改心する権利が大人にはあるのか、など。 その反駁に対してパンフィリウスは、一つ一つ丁寧に、惑うことなく熱心に答えてゆく。 ユリウスは悪人というわけではなく、どちらかというとごく普通の一般市民で、だからこそ、パンフィリウスと話す時、相手を信じる気持ちと信じられない気持ちの間で揺れ動く様子が、読んでいてよく伝わってくる。 物語の舞台は今よりもはるか昔のローマ時代だけれども、その語られているテーマが、現代に置き換えても違和感なく、そのままぴったりとあてはまることに驚かされる。人が抱える問題というのは、どの時代のどの国でもほとんど変わることはないのだということがわかる。 この本は、何よりもわかりやすい、キリスト教の基本的な教義を理解するためのテキストなのだと思う。 「異教徒の諸君はすべて、君のように、自分と、個人としての自分に、最も多く快楽を与えると思える女を選び出す。しかし、そうした条件下では、目移りがして、決定するのに骨が折れます。まして快楽を得る得ないは、結婚後でないとわからないのだから、なおさらです。が、キリスト教徒には、そういう自己のための選択なんてものはありません。(p.68) しかし、もう別個の生活がはじまったんですからね。これをぶち壊すわけにはいきませんよ。すでに着手したからには、最後まで押し通さなければなりません。父母や親友たちの不満、特にこの大転換の決行に行使しなければなるまいと思われる猛烈な努力を、まざまざと思い描いたユリウスはこう言った。(p.91) まさかあんた以外に、神の下僕はいないなんて考えているのじゃないだろうな?もしあんたが働き盛りの時に、神への奉仕に献身していたら、神に必要なことを、全部行っていただろうか?あんたは倍も、十倍も、百倍も、余分にやったに違いないと言うだろう。しかし、もしあんたがすべてのひとびとより何億倍も多くなしとげたにせよ、神の仕事全体からみれば、それは何でもありはしない。取るに足らぬ大海の一滴じゃ。神のもとには大きいものも小さいものもありはしませぬ、また人生においても大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと曲がったものばかりじゃ。(p.147)

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    投稿日: 2005.06.01
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    ロシアの文豪トルストイ著。 自己の欲望の赴くままに現世での成功を追い求める生き方か、世俗から離れた質素な原始キリスト教的歩みか、富豪の息子ユリウスと奴隷の息子パンフィリウスという二人の青年が生涯をかけて議論した命題。放蕩の限りを尽くすユリウスのある種人間的な魅力と、この世の価値に全く興味を示さず淡々と生きるパンフィリウスの揺るぎなき信仰との対比が印象的。ラスト老人の話をブドウ畑で聞いた後、ユリウスが一人ぽつんと神の前に佇む姿は誰しも何かしら心打たれる情景ではないかと思います。

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    投稿日: 2004.09.29