
総合評価
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powered by ブクログ医師である著者が医療現場での経験をもとに、終末期医療や老化、死に向き合う過程について考察したノンフィクション。この本では、現代医療の限界と、患者やその家族が直面する問題について深く掘り下げる。 いつかは来る自らの終末を想像しながら読む。医療の限界とよりよい人生の過ごし方におけるトレードオフ。生き延びられるなら、苦痛は耐えるべきか。それとも苦痛に耐えられなくなる前に安楽死を望むべきか。緩和ケアのあり方とは。死に向き合うことの意味や価値について深く考えさせられる。 ― これは正常である。プロセスを遅くすることはできる。食事や運動によって差が生じるのだが、止めることはできない。肺の機能的な容量が減少する。腸の動きが遅くなる。腺が分泌しなくなる。脳もまた萎縮する|三〇歳では脳は一・四キロあり、頭蓋骨にギリギリ収まるぐらいの大きさである。七〇歳になると、灰白質の喪失のためにニセンチ以上の隙間が空いてしまう。私の祖父がそうであったように、頭部への衝撃で高齢者が脳出血を起こしやすいのはこのせいである。頭蓋骨の中で脳がゴロゴロ回ってしまう。最初に萎縮を起こす部分は一般には前頭葉である。判断と計画を司るところだ。次が海馬、記憶が整理されるところだ。この結果、記憶力と多数のアイデアをまとめて比べる能力。マルチタスクのようなものは中年期にピークに達した後、徐々に衰えていく。 この人生は素晴らしい。苦痛があるならば戦ってみたいと思うのは、その苦痛を味わったことがないものの軽率な発言だろうか。それでも、徐々に劣化していく。 ― しかし、複雑なシステムでも故障が積み重なると、たった一つのさらなる故障だけでシステム全体を止めてしまうようなときがくる。衰弱状態と呼ばれるものである。発電所や車、大組織で起こる。そして、人にも起こる。いつかは、あまりにたくさんの関節にダメージがたまり、あまりにもたくさんの血管に石灰化が起こる。もうバックアップは残っていない。もうこれ以上消耗する余地がなくなるまで消耗する。このようなパターンは目が回るほど多い。たとえば、髪が白くなるのは単純に髪の毛に色をつける組織細胞が数を減らし、なくなっていくからである。頭皮の色素細胞の寿命は通常二、三年しかない。表皮下にいる幹細胞が異動し、色素細胞を置き換えるのを待つしかない。しかし、しだいに幹細胞の補充もなくなってしまう。五〇代までには、人の半分の髪はグレーになる。皮膚細胞の内部でも老廃物を外に出すシステムが徐々に壊れていき、残余物がかたまり、黄土色の色素、リポフスチンと呼ばれるものになる。これが皮膚で目につく老人難である。汗腺にリポフスチンが書積すると汗を出せなくなり、これが原因で高齢者は熱中症などにかかりやすくなる。目はまた別の理由でやられている。蛋白が結晶化した水晶体は高い耐久性を持つが、時間が経つにつれて化学的に変化し、柔軟性を失う。それが四〇代に大半の人が起こす老眼につながる。同様に色が黄変する。白内障(加齢や紫外線への過度な暴露、高コレステロール血症、糖尿病、喫煙などによって水晶体に起こる白っぽい濁り)が起きなくても、網膜に到達する光の量は、健康な六〇歳で、二〇歳の場合の三分の一になる。 誰しもが死すべき定めである。その向き合い方を考えさせられる本だ。
49投稿日: 2025.04.28
powered by ブクログこの本は2年前にある本屋さんの企画で『一万円選書』と言う、本屋さんの質問に答えて人物をわかってもらったうえで、お勧めの本を1万円分チョイスしてもらうと言うのに応募して紹介された本である。 その時に読み始めたものの、途中までで読破しないまま本棚に置いていた。 再度最初から読んでみようと思いたち、読み始めたものの最初は米国における今から40年前の高齢者施策がずっと並んでいて引き込まれることもなかった。やはり自分の読みたい本ではなかったのかなと思いつつ中盤にさしかかるとグングンと迫ってくるモノを感じ、涙しながら読む頁も増えて、一気に読み終えてしまった。 本の中にあった主治医が患者に言った「私は心配しています」のシーンで何と素晴らしい言葉だろうと感心した。 相手に押し付けるでもなく、自分を気取るでもなく、でも相手の心を安心させるんじゃないかなと読んだ瞬間感じたし、普段の生活の中でも取り入れてみたいとも思った。 この本はこの先も何度となく読み返してみたくなる本だなとも思い、この本を紹介してもらった本屋さんにも感謝している。教 老と最期をどう迎えるかはやはり人類のテーマだと思った。2年前の自分と今の自分も変化しているし、その都度で本から感じ取る事柄も変化するのかなと思ったりする。
2投稿日: 2024.04.16
powered by ブクログこれはぜひ超高齢化社会を生きる日本人全員に読んでほしい。 終末期医療にかかわる筆者が、自らみとった患者の例を共有しながら理想のターミナルケアとは何かを論じる。 例えばがんを宣告されたとしよう。しばらく闘病したのち、打てる手はすべて打って、予後が不良で余命間もないとしよう。主治医が「最後の手段はこちらの新薬です、もしかしたら効くかもしれない(効かないかもしれない)」と提案して来たとして、どこまで戦うべきなのだろうか。それは自分の年齢にもよるかもしれない。若ければ若いほど、治る可能性にかけてしまうかも。でもそれは最善の選択なのだろうか。きかなかった場合は?病院のベットで独り弱りながら最後には口もきけなくなって死んでいくのか、それとも自宅で家族とともに最後の時を過ごすのか。 大事なのは「自分にとって何ができなくなったら死んだ方がましなのか、どれだけつらくても何ができれば生きていられると思うか」を家族と共有しておくことだという。例えば食べるのが好きなわたしなら、ものを食べたり飲んだりできなくなったら死んだ方がまし。逆に大好きなチョコレートを食べられるなら苦痛の中でも生きていられると思う。 自分の最期なんてずっと先のことと思うが、その時のために今できることは「自分にとって何ができなくなったら死んだ方がましなのか、どれだけつらくても何ができれば生きていられると思うか」を探しながら生きていくことなのかもしれない。
2投稿日: 2024.01.18
powered by ブクログ終末期を迎える人達に対して、医療が出来ることは延命。それを否定するかのような内容がこの死すべき定めには書かれていて誰しもが必ず訪れる死をどのように受け入れ過ごすべきかのヒントを教えてくれる。
0投稿日: 2023.06.09
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
『予期せぬ瞬間』があまりによかったので次に読んだ本。 この本は最初の[序]が一番心に響いた。 医師は治せる問題なら何をすればよいのかを知っている。 治せないことに対して十分な答えを持ち合わせていないことがトラブル、無神経さ、非人間的な扱いなどの原因になっている。 その後は緩和医療を受けた人、受けなかった人、自宅で過ごした人、そうでなかった人、など様々なケースを描いてある。 自宅でホスピスを受けること、これは日本でも可能なのだろうか。アメリカで可能なことなのか。 そのあたりが不勉強でよくわからないが、日本とは少し違うところもある気がする。 考え方の指針としては、納得がいくところもある。 予期せぬ瞬間でも、この本でも、時によりファーストネーム、違う名前、かなり前に出てきた例の人が再登場したりするときに、いきなり名前だけ出てくるのが、分かりにくく、何度か戻ったりしなければならなかった。 夫の〇〇、父〇〇、先の〇〇がんの〇〇、など少し助けになるところが欲しかった。 他の方のレビューにもあったが、娘ありきで最期がどのようになるか~というのは気になった。 娘がいても、その娘が崖っぷちに立たされている様子などは胸が詰まるほど。 自分は『予期せぬ瞬間』のほうが腑に落ちるところが多かった。
0投稿日: 2023.05.17
powered by ブクログ【学内】 https://elib.maruzen.co.jp/elib/html/BookDetail/Id/3000033536 【学外】スマートフォン・タブレット MyLOFTアプリ > おすすめ電子ブックから利用 【学外】パソコン eリソースコネクト(MyLOFT)へログインし、上記URLにアクセス ◆ログイン https://app.myloft.xyz/user/login?institute=cmcbjubjq0a62ldhkbp7cxuvy
0投稿日: 2023.03.03
powered by ブクログ人生の老年期・終末期をどう生きるか、何が自分の幸せなのか、何を犠牲にできるかの指針となる本。 高齢者介護の現場において、生きる目的、生きがいは重要だが、測定しにくい。どうしても生存率や服薬の量など、測定しやすい指標で評価され、しばしば本当に重要なことが蔑ろにされる。 →施設に入っている祖母を見て感じる実態と合致する。 以下本書の印象的な文 人の能力が衰えていくにつれて、〈中略〉その人の生活をより良くしていくためには、純粋な医学的ルールを抑制する必要がある 通常医療のゴールは延命である。そのために今現在の生活の質を犠牲にする 命のために闘うことから、他のことのために闘うことへの転換
0投稿日: 2022.12.29
powered by ブクログもうよくなる見込みはない、という病状にある人たちに本当は何をするべきか?という問いを探るハードな本。多くの人は苦痛のない平穏な死を望みながらも、過酷な闘病生活の沼にはまって苦しみ、孤独の中で亡くなることになる。また、施設は安全と医療が行き届いてはいても孤独でプライバシーのない、尊厳を奪われた状態になりがち。いったい私たちは、科学と医療の進歩で何を追い求めてきたのか?どのようにすれば、死地に立つ人たちとその家族に現実を受け入れる勇気を与え、尊厳を取り戻せるのか?という話が、著者の家族を含め実在の人々のエピソードを通じて語られる。 その人たちの病状や生活を奪われる苦しみも克明に語られるので、読んでいてぞっとしたり重い気分にもなるけれど、自分や身近な人たちにもその時は必ずやってくることを強く意識させられた。私の祖父は病苦で自殺していて、それが彼の尊厳を守る方法だったことは受け止めているが、祖父や家族にとってもっといいやり方があっただろうともずっと思っている。結局のところ、お前は、お前の親のことはどうするのだ、と繰り返し問われている気がするのだ。 死に瀕する人は生き方を鮮明にする。そして考えるのは死ぬこと自体ではない。一生涯かけても答えが出ないかもしれないことに、ある時いきなり清算を求められるのは厳しいものだ。
2投稿日: 2022.07.18
powered by ブクログ人は誰しも死を逃れることができない。年老いて、だんだんと体の自由が効かなくなったり、病を得て病院や療養施設のベッドで日々を過ごすことになったりしながら、人は最後の時を迎える。 だが、自らの最期をどう迎えるのかということについて、明確な意志を持っている人は、いったいどのくらいいるのだろう。「病院ではなく、自宅で最後の時を迎えたい」と思っている人も多いと思うが、はたしてそんな希望を関係機関と相談しつつどう実現させていけばいいのだろう? この本は、人が最後の時を迎えるに際して、医療や介護、そして本人や家族が何をどう考えるべきかについての大切な示唆を与えてくれる。全人口の3割近くを高齢者が占めるわが国は、喫緊の課題として議論していくことが必須であろう。
0投稿日: 2022.05.13
powered by ブクログ名著だと思う。おそらく自分がICを至上主義とするような情報提供的医師として生きてきたのであればこの本が人生を変えてくれる本になっただろう。しかしこれほどまでにACPの意味や終末期の難しさが論じられている今読んでみると、この本によって医者人生が変わるということはなかった。 とはいえ、死が迫った患者と厳しい会話をすることによって本人や家族がいかに救われるのかということは内省的な気持ちも持ちつつ読むことができた。 多分bad newsの伝え方とか、予後の伝え方のようなものは、方法論で解決する問題ではない筈だ。 相手は患者であるまえに人間なのである。 だからやはりACPとは主治医がするべきなのだ。
0投稿日: 2022.03.13
powered by ブクログ本書は、ガンを経験し死を身近なものとして少しは意識したこともあり、前から気にはなっていたが手に取るのを避けてきたような気がする。 読み終えて、呼んで良かったと強く感じている。 死にあたって何が大切なのか、もう一度考え直してみる必要がありそうだ。 日本でも、もっと患者の生きる意義に寄り添った医療やケアが普及することを望んで止まない。
1投稿日: 2021.12.13
powered by ブクログ産まれた時から病院がある世代の医学を妄信している自分が目を覚ます本です。世界でもっとも影響力のある100人に選ばれたインド人の先生であり、日本の医師会の息がかかり当たり障りない本より素晴らしい。正直、最初からショックを受ける内容で医学を抉り医師として人間として生死を真正面から書いている本です。
0投稿日: 2021.08.12
powered by ブクログかけがえのない出会いだった。 自らの最期の瞬間を思い浮かべて欲しい。 病魔に侵され、悶え苦しみ、一体どこが最期の時なのか全く分からないまま、終わりゆくことを。 多くの人が死に臨んで思うことは、自分自身のやり方で自分のストーリーの終わりを飾りたい、という願いだという。 我々はどうしたら、死を自らの手中に収めることが出来るのだろう。 この本には、そのヒントが書いてある。
1投稿日: 2021.05.02
powered by ブクログ誰かを看取ることになった人は読むと良い本。 私は、友だちの癌宣告の時に読んで、父の癌宣告のときに読み返した。 母の余命宣告のときは、心の準備ができず向き合えなかったから。後悔を残さないためにも、死にゆく人と接する近しい人としての心構えの一助になります。 人により異なる精神世界や宗教の話ではないのも良い。
0投稿日: 2020.12.27
powered by ブクログ「生まれ落ちたその日から、私たち全員が老化し はじめる。」(序P9) 人は生まれたからにはいつか死なないといけない。 「死ぬべき定め」に直面したとき、死に直面した 本人や家族そして医師はどのように終末期を選択し その選択に従って実行していけばいいのか、を模索した 例が挙げられている。 前半は老いによる死、中盤は病気(主にがん)による死 後半は著者の父と著者の家族が「死すべき定め」に 対してどのような行動を取ったのかがつづられている。 現在、高齢者は敬われる存在ではなく希少価値を失った ため、家族の在り方も変わってしまった。生き方の 自由と自立に恵まれた反面、家族システムの地位は 下がった。 老いに対して人は奇跡のストーリーに飛びつくが、 それは逆にそういったファンタジーについて 行けなくなってくると申し訳ない気持ちにしてしまう。 現在アメリカは高齢者のケア、終末期に入所する施設は 移行期にあり、様々な人が様々な方法にトライしている。 昔の救貧院は「救う」の文字が入っているのに 姥捨て山のようだった。ナーシング・ホームが進化した 「アシステッド・リビング」は「言うは易く、行うは 難い。」ため、質がどんどん下がっていった。 ナーシング・ホームの三大伝染病「退屈と孤独と絶望」 を叩くには、命、例えば観葉植物、畑と花園、動物は とても有効だった。 病気による終末期はある日突然直面することになる。 本人、家族そして医師すらも模索しながらベストな ものを提供したい…とはならず、あれこれと治療を 勧め、結果、患者の体力を削り、穏やかな最期を 迎えられない結果となることが多かった。死期を 穏やかに伝え、最期はどうするのか、どうしたいのかを 患者本人に決定させているいくつかの例が挙げられている。 最後に、著者の父が「死ぬべき定め」と向き合うこと になり、著者とその家族は戸惑いながらも、それを 彼らなりの方法で完遂する。 自分や自分の家族が「死すべき定め」に直面したとき どうするべきか、なにを一番に置くのかということを 常に考えておきたい。
1投稿日: 2020.12.25
powered by ブクログ病んだり歳を取ったりして衰えていき、最後には死ぬわけだけれど、現代では自宅で死ぬことは難しい。なぜなら、衰えていく過程でやれる医療・介護行為が存在する以上、それを施さないことは不作為と見られるから。 そういうわけで、死が近くなれば介護施設に入ったり病院に入ったりすることになる。あるいは、終末期に在宅で療養していても、急な症状に対応するために入院することがあるかもしれない。そして、そういう場面での医療・介護行為が本人の「life of quarity」を保つのに本当に役立つのかどうか、そういうギリギリの場面をどう過ごしていくのが正解なのか、そういうところの話を著者の体験を通じて明らかにしていく。 何が正解なのか、それは、事前にわかっていてその通りにすれば良いというものでないことは確かだ。なぜなら、その行為がどういう結果を生むかは、やってみなければわからないからだ。例えば、抗がん剤治療をやるかどうか。自宅を出て介護施設に入るかどうか。一時的な症状に対応するために入院するかどうか。こういうことは全て、やってみなければどうなるか分からない。事前にその結果を知ることはできない。情報は確率として与えられるだけだ。もし失敗すれば大きくQOLを損なうことになる。そういう選択を迫られた時に、どうするのがベストなのか。 多分、ベストな選択というものはないんだな。だって、結果は事前に分からないんだから。分からない中で、じゃ、どうやって選択すればいいのか。それは、何を失っても良くて、何を失ってはいけないか、それを本人が明らかにすることだ、ということらしい。例えば、何かやり残したものがあって、それができなくなる可能性があるなら抗がん剤治療は受けない、とか、孫の顔を見るために少しでも長生きできる可能性に賭けて、抗がん剤治療を受けるとか、そういう話だ。そして、自分にとって何が大事かを明らかにすることというのは、すなわち、自分が死に向かって明らかに歩みを進めているのだという事実と向き合うことだ。 この本に出てくるのは、医療・介護施設においてそういう本人の選択の重要性に気づいてそれを実現しようと努力した人々と、そういう選択を突き付けられてそれに取り組み乗り越えて死んでいった人々の話だ。 自分が死にいたる道のりの最後にいるのだということを受け入れない限り、終末期において満足のいく選択をすることは難しい。でも、それはなかなかに勇気の要ることだ。だから、それができないまま、本人も周囲も不満の残る成り行きになる場合は結構あるんだろう。これはゼロイチの話でもないだろうし、賭けに負けることだってあるだろう。それでも、満足のいく死を迎えたいなら、勇気を持って自分が死ぬのだということから逃げないで、どう死にたいのか、それに対する答えを持つことが欠かせない。そういう話だと思った。 じゃあ、実際にはどうやって選択をすればいいのか。この本を読んでも、結局これという答えは見つからなかった。多分、私自身が死というものをよく分かっていないからなんだろう。自分の死を突きつけられた時、何を思うのか。それは、その時にならなければ分からないのかもしれない。 あるいは、正解の選択なんてない、というのが正解なのかもしれない。ただ、自分の人生に満足するかしないか、その違いがあるだけなのかもしれない。 死にゆく人の話が何人も出てくるんだけれど、自分の死に対する認識の精度(どういう症状・状態で死ぬのか、それはいつなのか)が死に近づくにつれて段々と上がっていくのは面白いと思った。自分の死に対するイメージが段々に具体化していくんだろうな。逆にいうと、覚悟が決まったと思っても、その覚悟の深さみたいなのは初めから一定ではなくてだんだんと深くなっていくんだろう。そして、それで十分なんだろうな。
1投稿日: 2020.12.10
powered by ブクログ医師は最善を尽くしているか、を読んでもう4-5年は経っただろうか?臨床の縁に立つようになってまだ数年だが、「死すべき定め」に向かう人々と関わる機会は何度かあり、そしてこれからもある。小さなことかもしれないが臨床での向き合い方に変化が出た。もう一度よく読み直したい本である(紙で買えばよかった)
0投稿日: 2020.08.08
powered by ブクログ死ぬということは暗いイメージしかなかった。でも、死ぬことをしっかりと考えておかないと、死ぬ間際になって後悔するんだろうなと思った。 自分が後悔するだけであればまだいいものの、周囲の人を後悔させることにも繋がることがわかった。 機械につながれて生きるのは、本当に生きてるとはいえない。そんな最後は嫌だと思った。 医学の進歩で、生きながらえさせることは可能だが、豊かに生きることができる人って、少ないと思う。それに、豊かという価値観も人それぞれであるため、豊かに生きる形も人それぞれだと思う。 最後の最後に、悔いを残さないために、今を精一杯生きていくことが大切だと感じた。時間には限りがある。今しかできないこと、自分にしかできないこと、やっていこう。
3投稿日: 2020.07.31
powered by ブクログ厳しい会話をすることがその後を変える。では、誰がその役割を担うのか。 介護者も被介護者もお互いに覚悟が必要。ACPを簡単に考えすぎていた自分に反省。 まだまだ親は元気だけれど、まずはこの本を兄妹で共有からかな。
2投稿日: 2020.07.05
powered by ブクログ誰しも向き合わなければならない問題である。そしてそれは、本人だけでなく、家族のことも含めて。 衰えは人の運命である―いつの日か死がやってくる。しかし、人の中の最後のバックアップ・システムが壊れるまでは、そこまでの道を医療によって変えることができる。一気に下る断崖にすることも、緩やかな下り坂にして、生活の中でもっとも大切なことができるようにすることも可能である。医療に携わるわれわれのほとんどがこの可能性を考えていない。特定の個別の問題を取り上げるのは得意である―…しかし、高血圧と膝関節炎、他のいろいろな病気を抱えた高齢女性を担当させられたら―…―われわれは何をしたらいいのかわからず、しばしば事態を悪化させるだけに終わる。 …ナーシング・ホームに蔓延する三大伝染病を叩くことである―退屈と孤独、絶望である。三大伝染病を退治するためには何かの命を入れる必要がある。ホームの各部屋に観葉植物を置く。芝生を剥がして、野菜畑と花園を作る。そして動物を入れる。 …退屈な場所で、生き物は自発性を呼び起こしてくれる。孤独な場所で伴侶になってくれる。絶望の場所で、他の存在を世話するチャンスを与えてくれる。 死を無意味なものにしない唯一の方法は、自分自身を家族や近隣、社会など、なにか大きなものの一部だとみなすことだ。そうしなければ、死すべき定めは恐怖でしかない。 重い病気にかかっている人には単に命を永らえること以外に大切なことがある。患者がもっとも気にかけていることを調査すると、苦しまないこと、家族や友人との絆を強めること、意識を保つこと、他人の重荷にならないこと、そして自分の人生を完結させたという感覚を得ることがトップにあがる。今の高度医療システムはこうしたニードを満たすことに完全に失敗していて、この失敗のつけは失ったドルだけでは測れない。 老いと病いにあっては、少なくとも二種類の勇気が必要である。一つ目は、死すべき定めという現実に向き合う勇気だ―何を恐れ、何に望みを持つかについての真実を探し求める勇気である。この勇気は難しく、持てないのも当然だ。真実から目を背けたい理由はいくらでもある。しかし、さらにもっと厳しいのは二つ目の勇気だ―得た真実に則って行動する勇気である。何が賢明な道なのかはしばしばあいまいであり、それが人を悩ませる。長い間、私はそれを不確実性のせいだと単純に考えていた。この先の予測が難しければ、何をすべきか決めるのが難しくなる。しかし、いろいろ経験するうちに本当のハードルは不確実性よりももっと根本的なことだと気づいた。恐れか望みか、どちらが自分にとってもっとも大事なのかを決めなければならないのだ。 …医療者の究極の目標とは、あれこれ言っても結局のところ、良い死を迎えさせることではなく、今際の際までよい生を送らせることなのだ。
0投稿日: 2020.04.25
powered by ブクログ眠るように安らかに死にたい、と、誰もが一度は思ったことでしょう。 しかし、医療の発達した現代では、死は急転直下の如く、突然やってくるものではなく、じわじわとにじり寄るようになってきています。 この本では、そんな「死にゆく人」、余命わずかな人に医学は何ができるのか、私たちがしていることは果たして正しいのか、という点に重きを置いている本です。 日に日に弱っていく父母を見て、少しでも長生きして欲しいと思うことは当然のこと。しかし、いざ自分が死に近づいているとき、同じ感情になるのでしょうか。 チューブだらけで薬の副作用に苦しめられながら死んでいくよりも、少しでも元の生活を取り戻したい、長生きしなくてもよい…そう考える人もいると思います。 死生観は一人一人異なり、またそれらは何も不自由なく過ごすことのできている現状では、ゆっくり考えることすらしないのです。 現代の環境は「死にゆく人」たちに対応できているようには思えない。外科医として、数々のそうした場面を見てきた著者は、そう語ります。 ナーシングホームと呼ばれる介護施設は、もちろん全てに施設がそうであるとは限りませんが、中には彼らを収容することが目的となり、外観の美しさや設備の充実ぶりを売り文句にしているところもあるのです。 著者が説く、医師としての務めは、厳しい現実を伝えること。そして、それに対してどのような選択を取ることができるかを正しく伝えること。そして何より、自分が何ができるかを伝えることにあると説きます。 「豊かに生きる」だけではなく、「豊かに死ぬ」にはどうするべきか。死ぬことをただ終わり、と考えることなく、事実として向き合ってみる時間を取るべきなのかもしれない。そしてそれをするべきは、今なのだ。
12投稿日: 2020.03.22
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
終末医療のあり方について、実例を踏まえながら書かれていた。人間は誰しもが死ぬわけであり、それは自分自身にも当てはまることであるため、「どう生きるべきか」というよりも「どう死ぬべきなのか」ということに関して考えるきっかけが欲しいと思いこの本を読んだ。読み進めるうちに高齢者の実情が見えてきて、胸が締め付けられるような感情に襲われると同時に、やはり死という現実から目を背けてはいけないのだろうということを感じた。長く生きることによる快楽を苦痛が勝ってしまった時点で、おそらく生きることが辛くなっていくのだろう。当たり前なのかもしれないが、人生はただ長く生きていればいいということではない。どのように生きて、どのように自分の人生を締め括るかという、一連のストーリーを意識しなければならないということを痛感した。医療関係者のみならず、多くの人に読んでもらい、生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのかということを考えるきっかけとしてほしいと思えるような本であった。
1投稿日: 2020.02.28
powered by ブクログ自分にその時が来るまで寄り添っていてほしい、本当に素晴らしい一冊。著者は現役のお医者さん。死に怯える中、正解がわからないままどんな治療をするか、しないか決めたり、人生最後の日々の過ごし方を選んだりする人々の姿が胸に重く響きます。心を揺さぶるとともに、とても勉強にもなる堂々たる名著です。
1投稿日: 2020.02.02
powered by ブクログ最近亡くなった母を思い出す。モットこうするべきだったとか後悔もあり、これからどう生きていくかを考えさせられる。自分らしく死ぬことは自分らしく生きる事と再認識した。私くらいの年代(中年)は、ぜひ読んでおきたい本の一つ。おすすめ!
1投稿日: 2019.11.27
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
こうであればよい、がアイスクリームとテレビか。私だったらお茶が飲めて、話がきける、かな。親子ともに医者だからこれが可能だけれど。
2投稿日: 2019.10.30
powered by ブクログシッダールタ・ムカジーに続いてまたぞろインド系アメリカ人である。しかもこの二人は文筆業を生業(なりわい)とする人物ではないことまで共通している。ガワンデは現役の医師だ。 https://sessendo.blogspot.com/2019/10/blog-post_25.html
0投稿日: 2019.10.25
powered by ブクログ参った すっかり、ドライなところと勘違いしていました、アメリカよ、まだいるのかこんな外科医と感服。もうやることはなくったと匙を投げ緩和ケアのマニュアルをあさっり「しかたない」と時間切れ、なんとか最期まとめたらOK。医者よそれでいいんか?と鼓舞される一冊。
1投稿日: 2019.07.23
powered by ブクログ父を見送る前に読みたかった。家族はどうしても未来の寿命だけを、本人の意志や尊厳ということを見ないふりして考えてしまう。どうしたい?何がしたい?何が不安?という質問を死がよぎる人にするのは家族にも本人にもとても酷だけれど、ちゃんと聞いて本人、医師、家族と共有してそれを乗り越えた人や家族は、「ちゃんと生きた」を全うできるのかもしれないと思う。
1投稿日: 2019.05.18
powered by ブクログアメリカのインド系二世の外科医であるアトゥール・ガワンデ氏が、自身の父親の死についても触れながら老年期医療、終末期医療について書いたもの。 実は内容にとても心動かされるものがあり、何度も書評、感想を書こうとしたのだが、結局どれも薄っぺらなものになってしまう気がして、消してしまった。 老年期には病気だけではなく、自然な老いによる経年劣化で身体に様々な問題を持つようになる。医療はその問題に立ち向かうための技術だが、常に克服できるとは限らない。死という崖に追い詰められて、徐々に撤退するしかない、撤退のスピードをいかに遅らせるかというくらいしか出来ないときも多々ある。 そのときに医療は、医療従事者はどうやって患者と向き合えばいいのか?という医師としての考えを、実際の患者の事例や、自身の父親のケースも取り上げながら語っている。 いろいろと語りたいことは多いのだが、やはりうまく伝わるとは思えない。とりあえず、一度「死すべき定め」を読んでほしい。
1投稿日: 2019.02.11
powered by ブクログ前著『医師は最善を尽くしているか』に続き、読んだ後に色々と教えてしまう本。身近な人ー親や祖父母、場合によっては妻や夫などーが人生の最後を迎えるというのは誰にでも起こり得る。しかも唐突に。そんな時、私ならどう対処できるか。たぶん、多くの人はそんなことを考えたことがないはず。でもそれは誰にでも必ず起きることで、前もって考えておかなければならない。 本書は今こそ読まなければならない本の1冊。
1投稿日: 2018.03.26
powered by ブクログ人の死を看取った人、看取ることになる人はもちろん、いつか死ぬ全ての人が、死について考えられる良い本。
1投稿日: 2018.02.18
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
序がいきなり「イワン・イリイチの死」から始まり、引き込まれた。避けられないことがわかっていても、直視できないのは誰もが同じだ。「終末医療」という言葉があるが、狭義の「医療」の領分ではないと考え始めている人が増えている。 「私は心配しています」…患者にこういう言葉をかける医師が増えることを願ってやまない。
1投稿日: 2017.11.26
powered by ブクログこれまで読んだ本の中で、もっとも深く考えさせられる本。私たちは「何が原因で死ぬのか」を考え恐れるが、「どのように死ぬのか」、つまり「どのような経過をたどって死を迎えるのか」についてはあまり考えない。そして実際に死が避けられないとわかった時に混乱し、不安のどん底に突き落とされ、決して平穏とは言えない時期を長く過ごす。さらに悪いことに、その場所は病院や施設であり、ほとんど見込みのない(ことが多い)奇跡的回復を信じて、どんな苦痛や屈辱的な状態であっても、最新の医療技術(ただし、その人や家族に最適とは限らない)を受け入れたりする。「死」という不吉で縁起の悪い最悪な話題ではあるが、自分にとっても家族にとっても避けられない一大事であり、その日のために準備が必要であり、話し合いの勇気を持つことが必要だと感じた。ただ、どうして良いかわからない。
2投稿日: 2017.11.21
powered by ブクログ現役医師ガワンデ氏が実際関わってきた人達のエピソードが書かれている。死に行く人にどう向き合うか。気持ちの整理ができる。 姉の余命をしりこの本に救われた。
1投稿日: 2017.06.04
powered by ブクログ死すべき定め 数多くの死を見続けた医療従事者が自らの医療体験ならびに家族の死から、現代の高度に医療が発達して寿命が延ばせる時代に死とは何か?幸福な死とは何かを問う本。 現代医学の介入がない時代は人々は命にかかわる病気に自分が冒されていると気がつくのと死ぬまでの間隔は数日から数週間の単位であった。 しかし現代はCTスキャンなどの早期発見や延命技術によって年単位にまで伸びている。 それだけ、その余命期間は人や家族は思い悩むことになる。 重い病気にかかってる人は単に長生きしたい以外に大切なことがあり、調査によると、苦しまないこと、家族や友人と絆を深めること、意識をたもつこと、他人の重荷にならないこと、自分の人生を完結させたという感覚をもつことになる。 とくに余命宣告をうけると人は時間をより意識する。人が自分の時間をどうつかうかは与えられた時間がどのくらいあると認識するかによって影響をうける。 人は単に存在してるだけでなく、衣食住のためだけでもなく、己自身をこえた大義を人は求めている。 死を無意味にしない方法は自分自身を家族や近隣、社会、神、歴史などなにか大きなものの一部とみなすことだ。 そうしなければ死すべき定めは恐怖でしかない。 マズロー理論だとまず安全安心の次に自己実現となる。そう考えると余命宣告の人は生きがいよりまずは余命を伸ばすことが最重要になるはずだが、患者のQOLはそれではいちじるしくさがる。限られた時間のなかで医療の依存状態にある人が生きる尊厳を保てるようにえんじょすることが大事だ。 だからこそ家族は事前にもし自分が余命宣告をうけた場合、どうするか?何を望むかをはなしあっとくべきだ。 たとえばラ・クロッセ市はエンドオブライフ(人生の終焉)にあたって組織的キャンペーンを行い以下の4つの情報を集めた。 1、心臓がとまったときに心肺蘇生を希望しますか? 2、気管内挿管や人工呼吸器のような積極的治療を望むか? 3、抗生物質の投与を希望するか? 4、自分の口で食べれなくなったらチューブや点滴で栄養補給を希望しますか? このことで、患者がICUにはいる前から大事なことについて時間をもって関係者と準備をできるようになった。 エンドオブライフをどうすごすのか?についてしっかり話し合ってないと、「私としたことがなんてことなの!お父さんが本当にやりたいことをきいてなかった」という事態になりうる。 そのうえで終末医療の医師に切なのは治すことのできない病を相手にしてる自覚と、患者が残りの人生をどういきたいのか?を「問い、つたえ」ること。コーチングのような存在になるのだろう。 少子高齢化社会、超高度化社会にこれから日本は突入するがこれはうらをかえせば、歴史上、例をみないほど人がたくさん死ぬ時代になる。 いかに育てるか?いかいに生きるか?が問われたこれまでの時代から、いかに死ぬか?がおおきなテーマになっていくだろう。 自分も人生の折り返し地点を迎えてるので、いかに死ぬか?に向き合ってみたい、とおもわれる人生を考える上でおおきな転換点となる一冊であった
0投稿日: 2017.05.19
powered by ブクログ母の闘病と看取りに迷いや後悔があって、それがこの本の序にあることと重なった。トルストイの「イワン・イリイチの死」を取り上げた授業からの提起。
0投稿日: 2017.02.15
powered by ブクログアトゥールガワンテ2冊目。終末期医療についてで、重苦しく目を背けたくなるエピソードも多いが、それでもなお多くの人に読んでほしい。前半は各種類の老人ホームについて。 患者サイドが手作りで理想の施設を作っていくというあたりはアメリカのすごさだなあ。後半は緩和ケアについて。現実を直視することの難しさ。完治するかもしれないが、成功率が低く苦痛も伴う選択肢を選び続けることから逃れられない。きちんと患者に判断材料を与え、優先順位を聞いて、それを守ること。バランス感覚の優れた著者がホスピスを選択したエピソードばかり選んでいることからも、現在の医療は戦うことに偏っているのだろう。
1投稿日: 2017.01.29
powered by ブクログ医療技術が進歩した結果、生きながらえることができるようになったが、死なせないことが目的となり、幸せな最期を遂げられなくもなった。 回復の見込みのない絶望的な状況でも今を幸せにすごすにはどうすべきか。 多くの終末のケースが出てきて読み進むのが辛い本だが、スピリチャルではなく、淡々と事実ベースで書いていてる。 人生の後半にさしかかった人や老い先の長くない家族を持つ人は心構えとして読んだ方がいい。 〈読書メモ〉 最期に向かって確認すべきこと - 置かれた状況とこれからの可能性を本人がどう理解しているか、 - 恐れていることと望んでいることは何か、 - 何を犠牲にしてもよく何を犠牲にするのが駄目なのか、 - この理解を深めるのに役に立つ最善の行動とは何か。 「今を犠牲にして未来の時間を稼ぐのではなく、今日を最善にすることを目指して生きることがもたらす結果を私たち目の当たりにした。」 ピーク・エンドの法則: 苦痛または快楽のもっとも強い瞬間と終了時の感覚とで経験を代表させる。 死にゆく者の役割: 記憶の共有と知恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残された人たちの安全を願う。
1投稿日: 2016.11.13
powered by ブクログ今までの医療は病気に対してかなりいい成績を出してきた。数多くの疾病を克服し、寿命を延ばしてきた。しかし、老化を防止することはできず、人生の最後の時間を病との戦いに当ててしまうことになっている。 医者はまだそのことに十分には立ち向かっておらず、政府や患者側および家族も理解は進んでいない。メディケアの支出の25%は5%の対象者の最後の年に使われるものらしい。 この本にはナーシングケア、アシステッドリビングや、ホスピスなどの数多くの例で患者の生きる理由を見据えそれに対してどういう治療をするか(あるいはしないか)を考えることが終末期のQOL(という言葉は使っていない)を上げるのには重要だとしている。医者側としても、1パターナリズム、2情報提供者、3患者側に寄り添った解釈をする医者というものをあげ、3によって患者のことを理解しそれをサポートすることが目指すべき道だとしている。家族もまず患者が本当に大切なのは何か?を知りそのためには何を失ってもいいかをはっきりさせておくことが、無駄に患者の時間と体力を摩耗し後で皆が後悔しないことにつながる。
0投稿日: 2016.11.03
powered by ブクログ医科学の進歩は人の生物としての限界を先に延ばし、この能力が持つ有限性を疑わなくなっている。医療者の仕事は健康と寿命を伸ばすことであるが、それよりも大事なのは人が幸福でいられることである。そして幸福でいるということは、その人がどのように生きたいかということである。これは終末期や要介護状態のになったときだけでなく、一生を通じて必要なことである。残念ながら、そのような事がわかるのは、重大な病気になったり死期が迫ったときであり、そのような患者に対するケアとして緩和ケアが始まった。緩和ケアが特別な領域である時は決して喜ばしいことではなく、すべての医療者が担当するすべての患者にこのようなアプローチが取れるようになったときにより良い医療が提供できるようになるのだろう。著者は外科医としてそのような場面に出会ったことで、そして身内の最後に出会ったことで思索を進めた。死すべき人を目の前にしたとき、色々な悩みや困難が生まれてくるが、今、その現場にいるような筆致で読ませる本であった。訳文もこなれて読みやすく、一気に読みきり、深い余韻を残した。
0投稿日: 2016.10.12
powered by ブクログ原題は"Being Mortal --Medicine and What Matters in the End"。 著者は現役の甲状腺外科医であり、ハーバード大学関連病院であるブリガム・アンド・ウィメンズ病院に勤務するかたわら、文芸誌「ニューヨーカー」の医学・科学部門の執筆も務めている。本書は同誌に連載されたエッセイが元になっている。 臨終に際して、人と医療がどう関わるか、またどう関わるべきかがテーマである。 類書は数々あろうが、本書を際だったものにしているのは、多重性がある視点であり、その柱は3つある。 1つは、患者とその家族の「その日」に向かう日々を描くルポルタージュとしての側面。1つは、医療界の内幕も知る医師ならではの臨終期医療が孕む問題についての鋭い分析。そしてもう1つは、死を間際にして、よりよく生きるとはどういうことかに関する著者自身の深い思索である。 現代医療の発展は、かつてないほど人を長生きにした。しかし、終末期医療は、必ずしも人を幸せにはしない。ところどころで落とし穴にはまりながら坂を転がっていくような経過を辿ることも珍しくない。治癒する可能性はゼロではないものの限りなくゼロに近い治療を続け、「こんなはずではなかった」最期を迎える人もいる。 なぜそうなのか、そうならないためにはどうすればよいのか。多くの実例、分析、考察を示す本書は、示唆に富む。 病院は、基本的に病気を治すところである。患者の体調に不具合が生じれば、何らかの対処法を示し、実践することになる。その際、示される治療法は、効く可能性もあるが、効かない可能性もある。病気を治そうと頑張る患者は自分が治る方に賭けようとする。医療者が余命はあと数年と思っている場合でも、患者と家族は10年、20年単位で考えている。患者の期待に反する告知をするのは、医師にとってもつらい。こうした認識の相違は容易には解消されない。 老人ホームは、歴史的に、「医学上の問題」を「長期間」抱えている人の受け皿として発展してきた。慢性疾患や加齢から生じる問題に、従来の病院は十分には対処できなかったため、受け止めきれなかった人々を「ケア」する場所として生まれてきたのである。余命わずかとなった人が残りの人生を豊かに過ごすことを目的とはしてこなかった。 こうした流れに疑問を抱き、自ら施設を立ち上げた人々の例が本書で紹介される。 なるべく自分の家と同じように過ごすことを可能にし、本人が望まない医療行為や過剰な管理を止める試みである。もちろん、世の流れに反すると言うことは、簡単なことではなく、こうした施設もすべて丸く収まっているわけではないのだが、可能性を感じさせる事例である。 これらの施設や緩和医療を中心としたホスピスを見ていくと、「攻め」の医療を施した際よりも、場合によって、余命が伸びる傾向が見られるという。実現可能かわからない未来を目指して現在つらい治療を続けるより、現在を心地よく過ごすための最善の策を採る方が、結果的に、よい効果を生じる場合もあるということだ。 終末期医療がテーマであるので、出てくる患者はほぼ最期を迎える。患者も家族もつらい時を過ごす。出口が見えない日々、胸を締め付けられるような話も多い。 著者自身の父も、終末を迎える1人である。著者も両親も医師である。そうした家族にとっても、終末期は簡単なものではない。著者の父は脊髄腫瘍を患った。放っておけば四肢麻痺になるという。化学療法や放射線療法を採ることもできるが、効果はさほど望めない。手術はこれらより効果的と考えられるが、かなりのリスクを伴う。息子である著者はよりよい選択肢を求めて奔走する。父は自分の望む生活と治療のリスクを天秤に掛け、選択をする。 選択は一度では終わらない。人生は続く。状況は変わる。ときどきの病状に合わせ、治療の効果を見ながら、患者と家族のぎりぎりの選択が何度も何度も行われることになる。 臨終期が近づいていると感じても、死を前提にした会話をすることは難しい。けれども、患者が本当にどうしたいのか、聞きにくくても聞いておくことは、後の選択に重要だと著者は言う。 出来るだけ食べたいものを食べたいのか。友人や家族との会話を楽しみたいのか。外へ出ることが大切なのか。ペットとふれあいの時間を持ちたいのか。何気ない希望でも聞いておけば、患者本人の意志を尊重した決定をする一助となる。 日米の制度上の違いはあろう。そのまま当てはまらないことも多いだろうとは思う。 しかし、著者の学識と温かい人柄が感じられる本書は、家族の看取り、自身の終末を考える上で、重要な示唆を含んでいる。 誰しもが「死すべき定め」を負っている。臨終を考えさせ、深い余韻を残す好著である。
7投稿日: 2016.10.10
powered by ブクログ重いテーマ。頭ではわかっても、いざジブン自身や身内のことになったら"正しい"判断ができるか、、、ということか。そもそも何が"正しい"のかも難しい。
1投稿日: 2016.09.30
powered by ブクログ昔から死ぬ本ばかり読んでいる。最近は特にその傾向が強い。なんだかひどく、自分が死ぬという想像がやたらに浮かぶのだ。なんでだろう。決して暇なわけでもないし、一方で死にたいというわけでもない、と思う。 本書に紹介される老年期に「伝統的」「牧歌的」という形容詞がついているものがある。前近代までは死がそうであったように、日常の延長に死があったのだけど、今は死ぬ準備のための隔離施設が推奨される。 いっぽうで、高齢者はみな長生きするので希少価値を失う。インターネットという知恵袋が拍車をかける。これはキツい。でもまあ、家族がいるならそれでもいいか、と思いたいけれど。延命やら、あるいはその逆だったりで、家族もまた大変な目にあう。ある面では、死は自分自身のものだけでなくて、遺される側のものになっているのだ。 とはいえ、死をコントロールできる人はいない。物理学と生物学と事故の産物である死。成り行きでいいだろ、なんて思えるうちは、まだ死は遠いかもしれない。でもせっかく死ぬ想像ばかりしているんだから、やっぱり学んでおいて、豊かに死ねたほうがいいかなあ。
0投稿日: 2016.09.25
powered by ブクログネットで書評を読んで興味を持つ。 http://www.bookbang.jp/review/article/517575
0投稿日: 2016.09.13
powered by ブクログ人生の最後に、人はどうやって生きがいを見い出すことができるか。どうやって尊厳を保つことができるか。 僕自身も祖父母と両親を病院で見送り、四人四様の最後を経験してきたので、人間の死に方というものにはいろいろと思うところがある。 「あなたも歳をとればわかると思うけど、人生で一番いいことは自分でおトイレに行けるときなのよ」 今の自分にはまだ実感としてはわからないが、この言葉は本当にそうなんだろうなぁと思う。 厳しい現実と、しかしながら希望も感じる著。
0投稿日: 2016.09.10
powered by ブクログ”Being Mortal” - 『死すべき定め』。「Mortal」という単語は、高校のときにお世話になった『試験にでる英単語』、いわゆる「しけ単」に、”試験によく出てくる単語”のひとつとして載せられていたのを見て知った。日本語には、これを一言で表すことができるような単語はない。こんな言葉が試験によく出るとは彼我の死生観の違いを表しているのではないかと強く印象に残った。結局「Mortal」という単語を試験で見ることはなかったけれども。本書は米国で大変なベストセラーになっているという。英語における「Mortal」という言葉の存在が死に対する感受性を上げているせいなのだろうかと思った。 それにしても、”Being Mortal”という表現は、人間という存在をある意味で見事に一言で示している。言うまでもなく、われわれの死亡率は100%だ - 今のところ。 本書は、医学の進歩により最期の刻を人工的に長く引き延ばすことができるようになったという新しい事態に直面したわれわれが、どのように大切な人の死を看取っていくか、そして自らはどのように死んでいくのか、についての本だ。しかし、そのことに対して何らかの明快な答えはこの本の中にはない。そもそも、適切な答えがあるかどうかすらわからない。そして、少なくとも今のところ、医学も社会もうまくそれを扱っているようには思われない。 「科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」ー 医師である著者も含めての実感をこのように表現する。1945年にはほとんどの人が自宅で死んだのに対して、1980年代にはその割合はたった17%になっている。そういえば、1970年代になくなった祖父は自宅で往生したが、それ以降に亡くなった他の親類はほぼすべて病院に入院し、そしてそこで亡くなっている。 「この本は、死すべき定めについての現代の経験を取り扱う」ものだという。「衰え死ぬべき生物であることが何を意味するのか、医学が死という経験のどこをどう変え、どこは変えていないのか、そして人の有限性の扱い方のどこを間違えて、現実の取り違えを起こしてしまったのかを考える」- 考えるその先に答えは用意されない。われわれも著者と同じようにそれぞれに考えるべきなのだろう。考えたその先もそれぞれどのようなものになるかはわからない。この本は、それがこれまで人類が経験してきたものとは異なる体験になっていることについて多くの人が見て見ぬふりをしていることを教えてくれる。 本書では、多くの死に直面した人の最期の刻が描かれる。その中には著者の父も含まれる。そういえば、自分の父も比較的長い闘病の末に亡くなった。当時はがんであることを本人に教えるかどうかの選択は親族に任せされていた。母は伝えないことを選んだ。それは当たり前のことのようにも思えたが、それが父にとっても母にとっても正しかったのかはわからない。しかし、今では許されることではないだろう。 「死はもちろん失敗ではない。死は正常である。死は敵かもしれないが、同時に物事の自然な秩序である」 自分なりに理解することは、老いというものが徹底して確率的な事象の統計的な表れだということだ。それは比喩ではなくエントロピーの増大のように不可避で不可逆的な現象だ。優れた複雑なシステムはその中に多くの冗長性やフェイルセーフとなる機構を備えているが、統計的にはいくら冗長が取られていてもある確率でその機能は壊れていく。そして過剰な冗長性はコストを生じるがゆえに冗長度は適切に最適化される。人間の脳神経系システムも循環器系も細胞系も同様だ。小さな障害は起こっているが、初期のころはそれは問題なくカバーされる。しかし、いつか蓄積されたダメージは、システムがカバーすることができる冗長度を超えていく。現代の多くの死因となっているがんについてもDNAシステムに蓄積された損傷が閾値を超えて正常性を破壊することで顕現する。老化とは、がんがそのようなものであるのと同じ意味で不可逆で不可避的なものである。 そう思っていると、同じように表現しているところが見つかった -「複雑なシステムでも故障が積み重なると、たった一つのさらなる故障だけでシステム全体を止めてしまうようなときがくる。衰弱状態と呼ばれるものである。発電所や車、大組織で起こる。そして、人にも起こる」 細胞システムについていうと次のとおりだ。 「リポフスチンと酸素フリーラジカル、DNAの突然変異、そのほか数えきれない細胞内のトラブルが体に蓄積するのだ。このプロセスはゆっくり確実である。」 老いと死が確率的な事象であるというのは、本書でも個人の寿命に対する遺伝子の影響が驚くほど小さいとされていることからも裏付けられている。「平均よりもどれだけ長生きできるかについて、親の寿命から説明できるのは三パーセントに過ぎない」や「遺伝子が同じ一卵性双生児でも寿命は大きく違う - 十五歳以上異なることが一般的である」という事実から老化や老衰は、遺伝子による決定論よりもむしろ確率論や統計論に従う事象であると考えるべきだろう。 老化に関して自分の身にすでに起こった目のトラブルについては次のとおりだ。 「目はまた別の理由でやられていく。蛋白質が結晶化した水晶体は高い耐久性を持つが、時間が経つにつれて化学的に変化し、柔軟性を失う。それが四十代に大半の人が起こす老眼につながる。同様に色が黄変する。白内障(加齢や紫外線への過度な暴露、高コレステロール血症、糖尿病、喫煙などによって水晶体に起こる白っぽい濁り)が起きなくても、網膜に到達する光の量は、健康な六十歳で、二十歳の場合の三分の一になる。」ー ふむ。 すでに自分も実感することができる記憶力の低下などは脳神経に積み重なった故障のせいだろうな、と考えるとあるレベルでは諦めもつくものだ。エントロピーの増大の法則がある意味では抗うことのできない絶対的な法則であるのと同じように、老化の法則をそのようなものとして受け入れるべきなのだろう。少なくとも自分が生きているタイムスケールにおいては。 そして、最期の刻に向かっていることがわかっているときに、延命治療を行うか、ホスピスに行くのか、それ以前に認知症や身体機能が衰えたとき、在宅で介護を行うのか、ナーシング・ホームに入るのか、 どのようなナーシングホームを選ぶのか。社会はどのように現代の老いと死と医学の問題を扱うべきなのか。本書ではこのことを丁寧に説明している。著者の父という身近でタフな事例にも触れている。医者としても事実を知ったとしても、身近なものとしても、その本人にしても、死を受け入れるということは難しいことだということがわかる。 読者が何歳で、その家族がどのような状態にあるのかによって、ずいぶんと受け取り方が変わりそうな本。そして現代を生きるものにとっては誰もが目を向けざるをえない内容が扱われた本である。 ある種の統計においては、積極的な治療を行わずに、緩和治療としてホスピスでのケアを受けた人の方が長生きをしているという。そして、最後にはすべての人が死んでいる。- なぜならといって、われわれは”Being Mortal”であるのだから。 ---- 本書をもとにした米国の番組がある。 http://www.pbs.org/wgbh/frontline/film/being-mortal/ いつか見たいと思っている。 --- われわれは”Being Mortal”であるのだから、自分もいつかは死ぬ。色々な本を読んで知識を求めているのは、いつか死ぬことを自らに色々な形で納得させるためにあがいているのかもしれない。脳神経科学、宇宙論、生物学、哲学、歴史。そう思うようになっている。
0投稿日: 2016.08.28
powered by ブクログ読みながらいろいろと考えた。考えさせられた。 劇的に医療技術が進歩・発展したおかげで、高齢化した。それと引き替えに、「死」というものが先延ばしになり、老化に伴うことにより、困難な病気に罹り、“人間らしい”余命を送ることも難しくなった。 副題にあるように、「死にゆく人に何ができるか」がテーマであり、筆者の祖母のエピソードや、多くの他のエピソードなどを上げながら、“人生の最期までをいかによりよく送らせるか”ということが述べられている。 人はいずれ死ぬ。 医療従事者(医師)の「死にゆく人に何ができるか」という 問いかけとともに、家族や自分がいかに最期を迎えるかという問いを考える貴重な一冊となった。
0投稿日: 2016.08.07
powered by ブクログ原題は、being mortal.。mortalの単語だけで、死すべき定めを意味する。日本語の単語の中にもし同じ言葉を当てはめるなら、なにかしっくりくる単語があるだろうか。探したが見つからなかった。 この本は人類の生死感を変えると思う。いや、西欧社会における生死感が東洋思想に相いれない部分があったのかもしれないし、単に医学の極端な発展が私たちの生死に関する考えを変えざるを得ないのかもしれない。 いずれにしても、私が探していた答えがこの本には書かれている。その問いは、病院で人工的な生をもたらすことは、人々の死ぬ権利を阻害していないだろうか?ということである。死ぬ前に読んでおいて損はない本である。
0投稿日: 2016.07.31
powered by ブクログ[関連リンク] 老いゆくすべての人へ──『死すべき定め――死にゆく人に何ができるか』 - 基本読書: http://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2016/06/25/194313
0投稿日: 2016.06.27
