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荒野のおおかみ(新潮文庫)
荒野のおおかみ(新潮文庫)
ヘルマン・ヘッセ、高橋健二/新潮社
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総合評価

44件)
3.6
11
8
10
6
1
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    いつか読もうと思っていた「荒野のおおかみ」。面白いとか、ためになるとかそういう本ではない。ハリー・ハラーが何者であるかということが書かれた物語。世間になじめないハラーは自らを「荒野のおおかみ」と自認し、一人で生きていこうとする。ハラーはおおかみではないし、おおかみもまた一匹で生きられる生き物ではない。世間との折り合いをつけるのが簡単な人も難しい人もいて、それは今も昔も変わらない。流行りにのることをよしとせず、どこかであっちの世界はどんなだろうとも思う気持ちもあり、そういう矛盾を抱えた生き物が人なんだろう。

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    投稿日: 2025.11.20
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    このレビューはネタバレを含みます。

    市民的なものを嫌う隠者が、わざわざ最も市民的で規則に囚われた生活をしているものの提供する家に住む。 狼(本能的と厭世的)とハリー(市民的で俗物的)の2面性の板挟みになり、どちらも身を投じて楽しむことの出来ないハリー。前半では「狂人しか立ち入り禁止!」という自分と通ずる張り紙を見つけて、入る方法を模索するが、ついぞ入れることは無かった。 ある日飲食店に行った帰りに、墓に立ち寄ったら(この辺うろ覚え)狂人しか立ち入り禁止!を掲げていた男が葬式の参列者として参加していた。話しかけてみるが、なんのことか分からないとしらを切られてしまう。その帰りにハリーはオオカミに内心笑われつつ、旧友である教授にであうことになる。かつては学問について議論しあった中である彼は、ハリーを狼ではなくハリーとして認識しているため、親愛と尊敬を持ってハリーに話しかけ夕食に招待してくれる。傷心中のハリーは、市民的であっても愛情の欠片に甘んじてしまい、承諾してしまった。何か予定がある市民性に辟易としながらも、約束を守るべく教授の家へ行く。結果は散々だった。世間からすると堕落したハリーは、教授の認識するハリーと今のハリーが変わらないかのように嘘を積み重ね続ける。しかしハリーの好きなゲーテの肖像画が、イメージと著しく違っているのを目に止めると弾けて本当のことを言った。帰り道、自己嫌悪にのたうち周り居酒屋をハシゴする。泥酔したハリーはそのままカフェ(キャバクラみたいなとこ)に行くと、ヘルミーネと出会う。ヘルミーネ母親のようにハリーを見透かして、規律してくれた。しまいには家に帰ったら首を吊るかカミソリで自害してしまうから帰れないと見透かされて、生きることを強制される。 ここからハリーとヘルミーネの関係は始まる ヘルミーネはハリーの鏡像のように、ハリーの考えを言語化して映し出してくれる。ハリーの荒野の狼の部分を取り除こうと、ダンスや舞踏会やジャズなど次々とハリーに俗物を馴染ませていく。そこでヘルミーネが提供してくれた、マリアという女性にハリーは惹かれてダンスや性行為を楽しむことになる。パブロという美しく寡黙で薬物を魔法のように扱う音楽家とも知り合うことになる。 大目玉の舞踏会にハリーは参加した。 そこでは皆が皆仮装しているため、ヘルミーネもマリアもついぞみつけることができなかった。帰ろうとしたハリーに「ヘルミーネは地獄にいる」という知らせが届く。弾かれたように地獄(ホールのひとつの名称)に向かうハリー、途中でマリアと出会い、キスを迫られるがヘルミーネに会いに行くために拒む。 ヘルミーネはヘルマンに男装していた。以前から女性と男性の2面性を併せ持つ彼女にヘルマンはとても似合っていた。男装をしているヘルミーネとは踊れないが、お互い見知らぬ夫人と踊り、休憩時間の度顔を合わせた。しかしヘルミーネは気づいた時にはいなくなっていた。ハリーがヘトヘトに疲れた頃、結いたての髪の毛に、綺麗な服をきているひとがいた。他の人はみなダンスでよれていたため、ハリーの目に留まる。よくよく見てみるとそれは女装に着替えたヘルミーネだった。晴れて2人は踊りキスする。 舞踏会も終わり、パブロが「狂人しか立ち入り禁止」の魔術会のようなものに招待してくれた。 そこでハリーは複数の魔術にかけられ幻想の最中に飛び込むことになる。最後にヘルミーネとパブロが裸で寝っ転がっていて、パブロがヘルミーネの体に噛み付いたあとを見た時に、「あなたに私を殺されるために、私はあなたを惚れさせる」というはるみー音の宣言通りナイフで殺してしまった。 その後に崇拝するモーツァルトと対話し、それがパブロであったり、モーツァルトであったりした。 へるみーねは死ぬ直前に驚いていたが、ヘルミーネはハリーの鏡だったため、殺して欲しいというのもハリーの気持ちを汲み取ったうちに過ぎなかったのかもしれない。 前半は隠者の生活と思想として理解出来たが、後半はずっとパブロの魔法にかけられていてよくわからなかった。その混沌さえ楽しめるけど。孤独と母性を摂取しながら思想を貪ることができる本。ヘルミーネのような1歩引いて自分を規律してくれるような存在になりたいし、愛されたいなあ。

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    投稿日: 2025.11.18
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    何回か読み返して、ほかの方の解釈も見てやっと理解が追いつける作品。 主人公のイニシャルや、ヘルミーネの名前から、この作品は作者自身の体験をモデルにしたものだと思われる。主人公が、市井で暮らす「人間」と周りの文明に馴染めない「おおかみ」としての二面性をもちながら生活する、どこか息苦しさを感じる部分に共感できた。

    0
    投稿日: 2025.05.29
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    ハリーハラーほど高尚な精神を持ち合わせてはいないけれど、とても共感して読むことができた 時代と世界、金銭と権力はちっぽけな平凡の人間のもので、ほかのほんとの人間のものは何も無いのよ。死よりほかのものは何もないのよ ほかには何もないの? あるわ、永遠が 永遠の思想 神の国、永遠の意味、時間の他に永遠があるのでなければ全然生きられない。 気づけるようで気づけていなかった。 これで生きることもできるし、死ぬこともできる。 50歳。いま25歳の自分にとって、想像のつかない歳。ただ単純に2倍しただけのものでは無いことは明らかである。 ちょうど大学の今年度の学科長から卒業についての連絡があり、急遽タイミングよく面談した。短い時間だけれど、何気ない会話だけれど、人生についての会話だった。躁鬱気質の自分の気持ちを理解して、何気なくも忘れていた言葉を思い出させてくれた。魔術劇場に入ったかのようで、泣きそうになった。これからも生きていく。

    0
    投稿日: 2025.05.27
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    ●2025年2月22日、YouTubeで「本を読むこととお金持ちになること」と検索して出たショート動画「保存必須!賢くなれる本3選」のコメ欄で、皆がおすすめしてた本。 コメ欄より:荒野の狼(ヘルマンヘッセ)っていう本、めちゃくちゃ好きだからオススメだよ。タロウよ https://youtu.be/zW1jx6LS4ko?si=EpTXRbzGwUm9u9fN ●2025年3月26日、グラビティの読書の星で紹介してる女性がいた。9/9冊

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    投稿日: 2025.02.24
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    やっと最後まで読んだ。難しい。 印象的な場面や言葉は随所にあり、共感できるところさえあったのだが、よく理解はしていない。 人はこんなにも深く思考する必要があるものなのか。遊戯で思考しているようにも感じる。そもそも生きることも小説も遊戯。

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    投稿日: 2024.07.08
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    中盤ヘルミーネとの出会いからどんどん入り込んでいく感覚。 そして仮面舞踏会からは怒涛の展開。ページをめくる指が個人比3倍速ぐらいになった。文章から湧き上がってくるような舞踏会の熱気、狂乱。 からの最終盤、魔術劇場。 終わり方は、もう何回か読んで意味を咀嚼し理解したいと思うが、間違いなく自分の中に残る作品だった。

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    投稿日: 2024.04.16
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    ハリー・ハラーという中年の主人公が、物質至上主義に馴染めない苦しみを背負い、精神世界を追い求める生活にも悩む生活を、手記に記したものが主部分となる。文章はやや難解。哲学・思想に思い入れがありつつも、それが生活から乖離することを良しとはできない人におすすめ。

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    投稿日: 2022.08.14
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    相変わらず難しい。ヘッセの小説はいつも難しい。でも、引き込まれる。どんどん読んでしまう。結局難しくて、読み終わってもボヤッとしたまま。僕にとってはそれがヘッセ。それがヘッセのいいところ。 反対派は賛成派に寄りかかってる。黒が白に寄りかかるように。夜がなければ朝もない。変り者も時間も何もかもが、そうではないものに寄りかかってる。そういうことなのかも知れない。

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    投稿日: 2022.02.25
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    『荒野のおおかみ』と称するハリー・ハラーが、現代の社会を痛切に批判する物語。このハリー・ハラーは、へルマン・ヘッセ自身を重ね合わせたものとされている。正直、今まで読んだヘッセの作品の中で、いちばん読みづらかった。前半で読むのを諦めようと思ったほどである。ヘッセの混沌とした精神世界を夢遊するような作風であるため、この世界観に入り込むためには、ゆっくりじっくりと味わって読んでいく必要があるかもしれない。

    20
    投稿日: 2021.12.26
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    宇多田ヒカルの荒野の狼が好きで読んだ すごく分かる、刺さる、掻き乱される感覚vs分かるとか思っちゃう自分に対する気持ち悪さ なんて表現したらいいか分からないけど、裏表とか腹黒いとかの概念あんまり好きじゃなくて、どんな人格も表だよ、全部自分

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    投稿日: 2021.10.12
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    ▪️印象に残った言葉やシーン 荒野のおおかみの論文に書かれていた「ハリーが一つないし二つの魂あるいは人格から成り立っていると思うのは空想に過ぎない。人間はみな、十、百、千の魂から成り立っている」。 ヘルミーネがハリーに対して言った「あんたは精神的なものが高く発達しているかわりに、いろいろな処世術が酷く遅れている。思想家ハリーは百歳だけど、踊り手ハリーは半日そこらの赤ん坊。同じくらい発育の悪い小さな兄弟たちも含めて、これから私たちが育てていく」。 ハリーの人格や魂が分裂してできた、老人、青年、女性、強いの、弱いのなどの多数の駒が、将棋盤の上で遊んだり、戦ったり、同盟を組んだり、結婚したりするシーン。内面にある多数の魂が互いに調和したり、押さえつけたりする様子を表しているのだと思う。 ▪️感想 自分を振り返ると、日々真面目なことしかしていない。この本を読んでから、身の回りにたくさんある楽しいことに目を向けて、積極的に楽しんだ方が良いと思うようになった。

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    投稿日: 2021.04.18
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    多くを学び孤高でありながら、世間の行動や考え方に否定仕切れない。葛藤と分裂、受容。2020.8.29

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    投稿日: 2020.08.29
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    久しぶりに頭に全然入ってこなかった、、、 どうもこういう感じの、何と言ったら良いのか、狂人的主人公を設定にして話を語りたがるなぁ、日本に紹介されているヨーロッパの作家は必ず1回は、という気さえする。で、こういうのはあんまり個人的には好みでないんですよね。 したがってまともな感想を書けるはずもなく、、、

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    投稿日: 2019.06.27
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    人は誰しもいろいろな側面を内に持っている。ハリーはヘルミーネと出会うことで、自己の諸側面について気づき、洞察を深めていく。その中には、自身が否定してきたものと相反する矛盾した自身の姿もある。たとえば、反戦思想を唱え人道を叫びながら、裕福な身分のまま亡命し個人の活動に耽っている自分、自殺志願者である自分についてである。 物語で、ハリーの矛盾する己の存在への葛藤は、ヘルミーネによって解消される。 しかし、現実はそうした自己の存在に気づくことは容易ではない上に、気づけたとて向き合うことは非常に勇気のいることである。多くの人は気づいていなかったり、気づいても無意識に知らぬふりをしてしまうだけで、実は誰しもが、未だよく知りえない、向き合えない自身の側面を持っているのだと思う。この物語は荒野のおおかみに限ったものではなく、誰しもが持つ自身についての物語なのだと思う。

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    投稿日: 2018.12.31
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    wired・カウンターカルチャー・9位 mmsn01- 【要約】 ・ 【ノート】 機械文明を痛烈に批判し、ヒッピーの聖典となった名作。日本の読者にはぴんとこないかも知れないがヘッセは当時最重要の作家だった。『シッダールタ』もよく読まれたという。 ◆ユーザーからのコメント ヘッセは学生時代にはまったなぁ〜/ケルアック『路上』と迷ったけどやっぱこっち。ハリー・ハラー万歳!/ 『ガラス玉演戯』を取り上げて欲しかった/『車輪の下』よりこっち派です

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    投稿日: 2018.10.28
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    よく描けていて読むのは大変かもしれない。でも、悪い意味で大変なのではなくて深く響くから大変という感じ。建設的に捉えれば多く学びや気付きがある作品だと思う。

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    投稿日: 2017.12.18
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    ユング心理学の「影」の概念についての本を読んだ直後だったので、かなり一面的に「影の克服」の物語として読んでしまったが、それが主題であることはたぶん間違ってないと思う。実際にヘッセはユング心理学に高い関心があったというし。私はこの小説で影は一つではないことを知った。あるいは1人の人の中の影にも多様な姿かたちがあることを理解した。平面的なものにとどまっていた影の概念の理解が深まり、驚きとともに嬉しい手応えがあった。物事の理解を深めるのは何も学術書だけではないのだなあ。物語を通して疑似体験できることはとても有意義なのだと実感した。物語としても、仮装舞踏会でのヘルミーネとの恋の踊りは本当に感動した。読んでよかった。 最後にどうしてもひとつだけ言っておかなくてはならないが、50にもなって自分のことを子どものように可愛がってくれる若い女の人が現れるなんて、反則じゃないでしょうか。

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    投稿日: 2017.01.13
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    読むのがすごく大変で一度諦めかけたけど機会を得て最後まで読み切った。 荒野の狼に対する考察の項は読んでいてすごく共感できた。痛いところも的確につかれていて、客観的に見ればこうなるのかと納得した。本当にヘルマンヘッセは自身のことをよく理解していたのだな。ただ本文で言われている通り、荒野の狼はあくまで彼の一面でしかなく彼の全体像を形成するには材料が足りないのでヘルマンヘッセ自身も自分を完全に理解していたわけではないんだろう。 そしてヘルミーネにしろほかの女性にしろ、母性的なものを持った女性に対する推察も鋭い。彼女らは程よく図々しく、遠慮しすぎない。心地よく感じられる距離感をわかっている。 言いたいことがいろいろあるからまとめきれない。 しかしヘルマンヘッセの車輪の下でも感じたことは、彼はアウトサイダーでありながら世間を完全に見下すでもなく、市民的な生活や娯楽といったものの価値を感じ取ろうと努めている点が他の哲学者や思想家と一線を画すところだと思う。まさにヘルミーネからダンスを習い、パブロに音楽の楽しみ方を見出した所はそれを象徴している。あくまで彼はこの作品において人生や世間を悲観するのでなく、ポジティブな捉え方で生活に挑んだ。後作ではどうなるかわからないけど、これが今の時点でのヘッセへの印象。

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    投稿日: 2016.11.07
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    ALFEEの高見沢俊彦さんの推薦図書ということで、高校時代に買ったんですが、当時の私には難しくて読み進められず、序文だけ読んでそのままだったんですが、32歳になった今、やっと、読み終える事が出来ました。 不思議な事に当時はよく分からなかったのに、今になると、感銘を受ける箇所が幾つか有るんですよね。 ハリーハラーと私に共通点が有ると気付けたからでしょうね。 高校生時代は私自身が自分という人間がどういうものか、よく分かって居なかったんだろうなと思います。 因みにALFEEの曲に『春の嵐』という曲が有る。

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    投稿日: 2016.01.20
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    読書の時間がとれず、時間をかけて読み返した作品。 世間一般の価値観とは相容れないアウトサイダーの男が現れる設定と、アウトサイダー=荒野のおおかみの定義が綴られた手記の幕、男の実際の行動の幕と続く展開はドストエフスキーの「地下室の手記」を思い出させる。 同作と本作が異なるのは、主人公の男が自意識を拗らせておらず、差し伸べられた転向のチャンスを払いのけなかった点であろうか。 思春期以降に彼と近しい境遇だったり、考え方を経験したことがある人は一読の価値あり。 まだ自分は後半の展開についていくには功徳が足りなかった模様…。

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    投稿日: 2015.01.04
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    文学的な格調高い文章とも、ジャンキーの戯言にも取れる評価の難しい作品。解説によると、2番目の奥さんとあまり上手くいってない時期に書かれた自伝的作品らしく、ヘッセの苦悩が見え隠れする。

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    投稿日: 2014.06.20
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    20世紀ドイツを代表する小説家・詩人ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の作品、1927年。時に作家五十歳、第一次大戦敗戦後のワイマール体制下で1923年にはヒトラーがミュンヘン・クーデタ未遂で投獄された情況下、作家自身の自己省察と同時代批判とを本作品で試みた。なお同年の1927年にはにハイデガー『存在と時間』が刊行されている。 □ 「荒野のおおかみ」ことハリー・ハラーは、ヘッセ自身を表わしていると云われる(そのイニシャルは作者と同じH.H.である)。彼は、ゲーテとモーツァルトを愛し、学芸に則ち書物と古典音楽とに、その観念に、沈潜する。「精神」の人である、「文化」の人である、「考える」人である、「憧れ」を抱く人である、「一次元よけいに持つ」人である、時代の「少数者」である。そうやって・またそういう自己意識で以て、自己の存在を支えてきた人である。そして、観念に沈潜する者は、往々にして「極端」な人である、不可避的に破滅に向かわずには在り得ない「極端」の人である。「世界外」の人である。「対自的」な人である。「不幸」の人である。「夜」の人である。「夢想」の人である。「倦怠」の人である。「破滅」の人である。「運命」の人である。「英雄的孤独」の人である。「全体的」たらんとする人である。端的に云えば、「死」の人である。 では彼らと対照される「市民=ブルジョア」とは何にか。即物的な功利主義に骨まで浸かった非-精神性。他者との関係性が虚栄と欺瞞の化かし合いかさもなくば享楽と狂騒と官能の交換の為でしかない俗物性。社会通念・公衆道徳、則ちおよそ日常的な平穏さなるものにべったりと同一化しでかつこの日常への屈従状態に対して疑問を抱かないでいられる空虚な自己。こうした堕生態にある「市民」は、破滅に到る極端に陥らない「中庸」を、欺瞞的にも自らの徳であると云う。彼らは徹頭徹尾「世界内」の人である。「即自的」な人である。「太平楽」の人である。「朝」の人である。「規律」の人である。「活動」の人である。「安穏」の人である。「日常」の人である。「匿名的群衆」の人である。「断片化」されている人である。端的に云えば、彼らは「実生活」の人である。 「もちろん大多数の人間は泳ごうとしません! 地面に生まれついて、水に生まれついていません。それからもちろん彼らは考えることを欲しません。生活するようにつくられていて、考えるようにつくられていません! そうです、考える人・・・は、・・・、まさしく地面を水ととりかえたものであって、いつかはおぼれるでしょう」 それゆえに彼ハリー・ハラーは、時代の圧倒的多数者であるところの「市民=ブルジョア」の世界に、自らの存在余地をもたない。「市民」の世界とは、「株式会社に吸いつくされて、支離滅裂な地球のまっただ中で、人間世界といわゆる文化が虚偽に包まれた野卑なブリキ製の年の市のけばけばしさで、どこに行っても、きざな男のように歯をむき出して私たちに笑いかける」世界である。一度でも自己の内面に沈潜しその深淵の底無しに戦慄してしまった者にとって、卑小な日常的「市民」世界は自らの存在をそこに安置しておくには絶対的に奥行きを欠いたものである。内面の深淵とは、内面の深淵の果て無き果てのその彼方であるがゆえに。であればこそ、孤独なる時代沈潜者は、「市民」世界に於いて何者かで在ることが不可能である。ハリー・ハラーが偶然に手にした白昼夢のようなパンフレット『荒野のおおかみについての論文』から、いくつか引用する。 「こういう人々はみな、その行為や作品をなんと呼ぼうとも、実際はまったく生活を持たない。彼らの生活は存在ではなく、形を持たない。彼らは、他の人たちが裁判官であり、医者であり、くつ屋であり、教師であるような仕方では、英雄でも芸術家でも思想家でもなく、彼らの生活は永遠な苦悩にみちた動乱であり、岩に砕ける波である。そういう生活の混沌の上に輝く、あのまれな体験や行為や思想や作品の中に、意味を見いだす用意がないとすれば、たちまち彼らの生活は不幸に痛ましく分裂し、おそろしく無意味になる」 「事務所、役所、執務室、それは彼にとって死のようにいとわしかった」 「・・・、「自殺者」は、個体化は罪であるという感情に襲われた人間なのである。人生の目的は自己の完成や表現ではなくて、自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰だと思っているような人間である。・・・。彼らは生の中にではなく、死の中に救済者を見るのだから。自己を投げ出し、捨て去り、消えうせて、はじめに帰る用意ができているのだから」 □ 彼ハリー・ハラーは、或るブルジョアから会食に招かれた際に不体裁を働き、ついに「市民」世界に則ち世界そのものに堪らず、自殺を決意する。さて、反時代的沈潜者は二様に分けられる。則ち、天才とそれ以外と。 天才は、自己の内なる深淵を現実へと外化し、以て「市民」世界に裂目の戦慄を走らせることができる者の謂いである。尤も、それは現実化された途端に「市民」世界が自らを保持しようとして吐き出すあらゆる欺瞞に塗れることが運命づけられている。これは悲劇であるが、天才の悲劇である。豪奢な敗北である。 それ以外の者はどうか。彼らは、自己の内なる深淵へ無際限の否定運動――それは、対自的である彼らゆえに、必然的に自己否定に到らずにはいない――とともに下降し、終ぞ何らの具体的な形を与え得ない。「市民」世界からすれば、何とも無害な無用者である。彼らには英雄的・運命的・悲劇的に没落していくことすら許されず、ただただ「市民」世界という地獄と内面世界という深淵とのあいだに宙吊りにされたまま、振り子のように両極を右往左往する。「市民」世界の片隅で、一層強張った内面に於いて尽きること無く否定を繰り出しながら底着くことなく何処までも沈潜していくか、その内面の重みに耐えられなくなるかである。 では、ハリー・ハラーを含む、天才以外の反時代的沈潜者は如何したものか。ブルジョア教授の家を飛び出して惨めに街を彷徨していたハリー・ハラーは、ジャズが荒れ狂うダンスホールでヘルミーネと出逢う(これは作者の名ヘルマンの女性形である)。娼婦ヘルミーネは、ハリー・ハラーの苦悩にいとも容易く云い放つ。 「いつもむずかしい複雑なことをやってきたくせに、簡単なことは全然習わなかったの? 時間も興味もなかったの?・・・。でも、人生を思う存分ためしてみたが、何も見つからなかったとでもいうようなふりをなさるのは、いけないわ!」 こうして彼女やその友人のマリアやパブロから、十代の若者なら誰でも知っていることを、ハリー・ハラーは学ぶことになる。ダンスを、ダンスホールで女の子に声をかけることを、恋することを、ジャズを楽しむことを、ばかになることを、満足することを、笑うことを、そんなふうに平凡であることを、則ち生きることを。 「笑うことを学ばねばなりません。さて、すべて高級なユーモアは、自分自身をもはや真剣にとらないことから始まるのです」 「真剣にとるに値することを真剣にとることを学びたまえ! ほかのことは笑いたまえ!」 こうして「精神の人」ハリー・ハラーは、【生き直す】ことになるだろう。自殺・発狂・薬物・無差別殺傷を拒むなら、これ以外に、無いのだろうか。「精神」との均衡、ジョルジュ・ルカーチの云う節制 Haltung が、実際に如何に為されていくかは、この小説では描かれていない。しかし、そんなこととは無関係に、ともかくも、【生き直さ】れねばならない。【生き直さ】なければいけない。 □ 本作執筆にあたり、ヘッセ自身も担ってきた「ドイツ的精神」なるものの歴史的現実に於ける存在意義は如何なるものであったのか、第一次大戦を惹き起こし・敗北し・そしてまた来るべき戦争へと向かいつつあるドイツの知識人として、徹底した自己批判を為そうという意志がその根底にあったと思われる。 「われわれ精神的な人間はみな現実を家とせず、現実をうとんじ、敵視した。だから、われわれドイツの現実においても、歴史においても、政治においても、世論においても、精神の役割はひどくみじめなものであった。・・・。将軍たちや重工業家たちの言うことはまったくもっともだった。つまり、われわれ「精神的な人間」からは、何も生じやしない。われわれは、いてもいなくてもいい、現実にうとい、無責任な、才気に富むおしゃべりの集まりにすぎないというのだ」

    3
    投稿日: 2014.06.14
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    理解できる部分は大いに共感出来る作品だった。人の統一性についてのアンチテーゼは、自分を振り返る時の格好の視座になり得るな、と。 ただ、理解出来ない部分は本当に分からない。特に終結部が分からない。 物語はさながら白黒映画で始まり、仄かな赤みを帯びた後、鮮明で眩い世界が広がったと思った途端、極彩色の野獣派絵画で終わった、と言うくらい終結部は異次元。楽しいけどね。テレビのチャンネルをザッピングしてたら、テレビ自体をしたり顔で持ち去られる感じが。

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    投稿日: 2014.01.10
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    ヘッセの自伝的要素を含んだ作品。非常に良かった。『車輪の下』のような系譜ではないものの作家として円熟期を迎えつつある作者の魂の叫びが聞こえるような。秋になるとヘッセが読みたくなるのは読書の秋のせいかしら。2013/289

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    投稿日: 2013.09.25
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    今さらながら、「名作と呼ばれる作品を、少しでも読もう!」と考えています。 そこで、ドイツ人のノーベル賞受賞作家、ヘルマン・ヘッセのこの作品を、読んでみることにしました。 主人公は、禁欲的に学問の世界に打ち込み、それゆえに人生に思い悩んでいる、中年男性。 ある日、暗く思い悩む彼の前に、魅力的な若い女性が現れます。 その女性と行動を共にし、現代的な娯楽に触れるにつれて・・・という展開。 人間の中にある「二面性」による苦悩、娯楽というものの意義、歴史とはどのように作られていくのか・・・などなど、多くの根源的な問題が、この物語の中に込められていると思います。 後半の、不思議な世界が次々と展開していくくだりは、僕が慣れ親しんでいる村上春樹の小説などに脈々と受け継がれている、文学的な表現なのだろうなあとも感じました。 1927年発表ということなので、日本の年号では昭和が始まったころの作品です。 当時の風俗の描写等、現在からは想像しづらい部分もあり、また、難解な表現もあるため、作者の意図のかなりの部分が、僕には消化しきれていないかもしれません。 それでも、人間の根幹課題について多くの示唆を与えてもらえたという意味で、感銘を得た一冊でした。 やはり、名作というものは読んでおくべきですね。 これからも自分に向いていそうな作品を選んで、読んでいきたいと思います。

    0
    投稿日: 2013.06.03
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    前に読んだときはどうも馴染めなくって、内容としてはヘッセ自身の内省というか実存的な思想哲学の遍歴ってかんじだし、アメリカのヒッピーにとってはバイブル的あつかいというから、もう1度読んだら印象変わるかなっと思って読んでみたはいいものの…やっぱりこれはぼくの好きなヘッセじゃないと思った。 哲学ヘッセというか内省ヘッセはあんまり好きじゃない。文章の意味がまず妙につかみにくい。それは結局のところ論文を書いているわけではないから、ハラーの日記という体でとても自己内省的な文章になっているのだとは思うけれど、こういうのはもういっそ論文口調でやってほしい。 ヘッセのときは第一次大戦か、あのときに反戦して自国からは非国民あつかいを受けて、どうもその傷がけっこう深かったみたいに思える。それで人生や人間、生きる時代に対しての悲観、絶望、無気力に陥ったハラーの姿は、そのままヘッセの姿でもあっただろう。 こう考えるとヒッピーは第二次世界大戦の影響でおなじような無気力、おなじような絶望を抱いた世代なわけで、本書をバイブルとするのは当然っちゃ当然なのか。 けどぼくはヒッピーって実はあんまり好きじゃないのかも。生の重みを抱えてないっていうか、マリファナとかLSDとかやってラリパッパーだし、実存を語るけどむしろその姿勢は疎外のほうへ向かってるでしょ、っていう逃避だし結局。 でもヘルミーネがハラーにダンスやそのほかの享楽、あまり重々しくない愛を教えるところは好きだ。ハラーにたりないものは、笑うことだって教える。まるでニーチェみたいにだ。ヘッセはやっぱりビルディング・ロマンスなのかなあ。 ヘッセの描く世間一般にみられるような、いわゆる「軽薄な恋愛」があんまりいやらしく見えないのはきっと、ヘッセ自身が愛をあまりに重々しく考えていたために(なにしろ初期作品では失恋すなわち自殺の人であるし)、かえってこの「軽薄さ」の重要さというものを後発的に気付いた(それもかなり後になって?)人であるから、という気がする。

    2
    投稿日: 2013.06.01
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    なんかわかる部分もあるけど、今の時代に読むと・・・これどうなんだろう。 訳のせいもあるかもしれないが、難解かつ読みづらい。 グダグダ電波自己告白文・・・

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    投稿日: 2012.10.30
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    やっぱりヘッセは精神的な人間の変化を描くのがうまい。いかにして欲望に素直になり、見下していたものに価値を見出し、手近な幸せを掴むようになるか。その先にまだまだ発展があるのだろうが、ひとまずはその変化が最も身近に感じられる。 さて、彼は結局、どこかに崇高なものを、悲壮なものを求めてしまう。だが、それは笑いを乗り越えたものではなく逆戻りに過ぎなかった。悲愴であることと生を謳歌することは両立しない。ヘルミーネを殺した彼は笑われざるをえない。 笑われること、ユーモアの問題。しばしば聖なる方向に向かうのはヘッセの弱さでもあると思ったが、見くびりすぎであった。また読みたい。

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    投稿日: 2012.09.21
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    やっぱりヘッセはすごい。個人のある感情についてメタに、俯瞰的に言及することは誰にも可能だ。しかしそれに対してさらにメタの視点で言及することは少し困難だ。これを自由に使いこなす人間が小説家というものだと思う。しかしこれだけでは二流である。一流はさらにそれらに関してメタレベルで表現することができる。ヘッセのすごいところは、さらにこのもうひとつ上のレベルにときどき「ひょいっ」と上がってしまうところである。ヘッセは最初から高みにのぼったりしない。いつも私の手の届きそうなところにいて、いよいよ捕えたかと思うとするっと脇を擦り抜け一段のぼる。繰り返すうちについに私は追いつけなくなってその背中をじっと見つめる。荒野のおおかみという小説はこのようなおいかけっこを人間の心の奥底にあるくらい部分で行った小説であった。

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    投稿日: 2012.02.28
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    10代に読んだときよりもより内容が理解できた。 ヘルマン・ヘッセは、大人になっても子供の心を持ち続けた稀有な作家と思う。

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    投稿日: 2012.02.16
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    デミアンを読んだことを承けて読む. 作者であるヘルマン・ヘッセの心理が,外的な出来事と綯い交ぜになって表現されたような作であった. 自省的な主人公のハリーハラーが,ヘルミーネという女性と出会い,少しずつ解放された思考になっていく.ハリーハラーは作者と同じイニシャルで,ヘルミーネは作者の女性名である. 中盤あたりまでは不思議な現実の出来事のように書かれるが,最後の部分では目まぐるしく場面が変わり,夢の中の出来事のように描かれており,安部公房の小説を連想した.

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    投稿日: 2011.11.04
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    主人公ハリー・ハラーは著者ヘルマン・ヘッセの一部であり、完全な思索の人である。行動の人からみると主人公は世迷言を言っているハムレットの様なものであり、あれこれ思索しもナチズムの暴走を止められなかった訳であるから、文人の価値を考えさせられる。途中で読むのを止めて仕舞った。再読だったが印象に残っていなかった。

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    投稿日: 2011.10.24
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    1927年(昭和2年) ヘッセが50歳の時の作品。 同じ年に紀行『ニュルンベルクの旅』を出版。 フーゴー・バルがヘッセ50歳の誕生記念に最初の伝記『ヘッセ伝』を出版。その直後バルは41歳で逝去。 ルート・ヴェンガーと離婚。 心は自分が全てと繋がっていることを知っている。 目の前のことに集中している時、没入しきっている時、過去に存在した全て、未來に存在する全てに確信を持てる。 微笑みを学べ。

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    投稿日: 2011.08.05
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    根本はデミアンと通じるものがあると思ったけど たぶんもう少し年をとってからじゃないと本当には分からないな

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    投稿日: 2011.08.01
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    1927年にドイツで発表された作品。 第一次世界大戦を省みるどころか、再び戦争に向かおうとしている社会を疑うこともなく生きる市民を批判する「アウトサイダー」の立場(おおかみ)の立場をとりながらも、まぎれもなく市民的行動の一部に加担している自分の葛藤が描かれています。そしてそんな自分は自殺によってしか報われない、と考え死を望むハリー・ハラーが主人公。彼はヘッセの自画像だそうです。 この葛藤はまさに、神経が不安定であったヘッセが色濃く表現されていて、 その如何ともし難い苦痛には時に目を覆いたくなります。 一方で、一般論や世の中の体制によって作られる考えを排除し、確固たる「自己」を追求すべきであるという考えは、ヘッセの作品で一貫してみられるスタンスで、現代にも通ずるヒントであるように思います。

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    投稿日: 2011.07.31
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    共感しすぎて初めて読んだ気がしない本。 それでいて先人は刺激的で、まだ見たことのない世界まで連れて行ってくれる。現実の日常でもなかなか得られないような交流が、本を介して作者との間に生まれるのだから、作者の力にただただ頭が下がるばかり。体の奥から勇気が湧いてくる。 もっと頑張ろう、楽しもう。一度きりの人生を。ひとつだけの世界を。

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    投稿日: 2011.03.19
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    自分が抱いている自分のイメージがどれだけ偏っていて、狭いものであるかを強く感じさせられる一冊でした。わたしもハリー同様、新しいことに踏み出すことにためらってしまうし、固定観念をかなり強く持っているところがあるので、ハリーがヘルミーネやマリア、パブロとの会話の中で抱く感情がわかりすぎて読むのが辛かったくらいです。生きているだけでとても価値があるということ、そして人生は短いからこそたくさんのことに挑戦することで輝きを増すということを改めて感じることのできた作品でした。

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    投稿日: 2010.03.08
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    タイトルが「共同体の中で友愛関係を失い追放された異人である人狼」を連想させ、ぱらぱらっとめくったページに書いてあった、 「今夜4時から魔術劇場 ――入場は狂人だけ―― 入場料として知性を払うこと。 だれでもの入場はお断り。ヘルミーネは地獄にいる。」 「ハリーの死刑執行」 などに心惹かれたので読んだ。 序盤のハリーの心理描写などがよかったが、途中退屈して読むのを中断していた。 2006年の秋頃の精神的につらい時に読んで90ページくらいで中断し、また今年の9月に入ってから読んでいたが、退屈するところは同じなようで、90ページ目くらいで数日放置し、その後、1日30〜40ページくらいのペースで読み、今日読み終えた。 ハリー・ハラー(H.H)とはヘルマン・ヘッセ(H.H)自身を指すらしい。 魔術劇場での将棋の駒は小説の登場人物を指し、それの組み合わせから展開するものは小説を指しているのだろう。 魔術劇場での一場面は、マンガの「ベルセルク」のガッツの心理描写を思い起こさせるところがあった。「ベルセルク」が影響を受けた全作品(文学、映画など)リストがあればいいなと思う。三島由紀夫の「真夏の死」という作品からの影響もあるとか。

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    投稿日: 2009.09.24
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    最後に向うほどに面白い!ってすごいことだな。 読み終えたら自分も一つ強くなったような、そんな気がしてしまう本。 自分だけじゃないよ、と。 こういう人いっぱいいそうー。

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    投稿日: 2009.02.06
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    読みづらい。 びっくりするほど読みづらい。そして分からない。 ヘルミーナとのやりとりは面白い。 ところでパブロがやばかった。萌えた!! これは究極に腹黒いというか超越した。 最初に出てきた時の描写がいいんだ。 パブロの本性をひとつもにおわしていないから。 いいな〜パブロ。 いつかまた読み返したい。

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    投稿日: 2009.01.29
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    読むのに非常に時間がかかった。話が現実と幻想を行き来しているし、第一人称で描かれているし、構造がムヅカシかった。もちろん読みごたえ十分。この作品は世界へむけて描かれたものなのかな。主人公は既読の「デミアン」「シッダールタ」「知と愛」と同じく、現実世界の背後の永遠の世界を求める、というようなヘッセ自身の投影なのだろうけど、悟るのではなく現実社会に打ち砕かれる、というところがこの作品の特徴。近代世界への強烈な揶揄というか。 最後の狂気じみた劇場での幻想の場面の、言葉の使い方が美しい!!これは翻訳の高橋さんの手柄なのかな。やっぱりドイツ語で読んでみたい。

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    投稿日: 2008.06.23
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    2007.6.12の感想 字が大きくなって読みずらかった。 まったく出版社は余計なことをする。 ヘッセのリズムが狂っちゃうじゃんか。

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    投稿日: 2007.06.12
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    厭世家の恋のはなし。 堕ちたエリート。不思議なアンナ。 諭すような眼差し。 狼、ノックアウト。 曖昧な現象の中でいくつもの啓示。 「いかにして、愛によって、人を殺すか」 この命題は今も忘れない。

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    投稿日: 2007.05.15