
総合評価
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powered by ブクログ(2014.08.19読了)(2014.01.19購入) 「探訪 名ノンフィクション」後藤正治著、で取り上げられているというので、興味を持ち、購入し読んでみました。大変な力作でした。 広島の原爆被災に関する本は、今迄何冊か読んできたのですが、この本を知らずに過ごしてきたのが、残念に思うくらい、読み応えのある本でした。 広島地方気象台の人々を主人公にして、原爆投下時の様子やその後の活動、そして、9月17日の枕崎台風のときの様子や被害状況調査、それと並行して、原爆投下時の様子に聞き取りと黒い雨の降った地域と時間の聞き取り調査、など詳細に描写しています。 ノンフィクションではあるけれど、ある程度、想像をまじえながら、生き生きと再構成しています。再構成時の苦労は、長いあとがきに書いています。 【目次】 序章 死者二千人の謎 第一章 閃光 第二章 欠測ナシ 第三章 昭和二十年九月十七日 第四章 京都大学研究班の遭難 第五章 黒い雨 終章 砂時計の記録 あとがき 主要参考資料 解説 根本順吉 枕崎台風・もう一つの悲劇 小堺吉光 ●気象管制(37頁) (太平洋戦争)開戦と同時に陸海軍大臣は中央気象台長に対し命令で気象管制を実施した。 天気予報の発表は中止され、ラジオ天気予報も取りやめられている。 日時や場所を特定した気温、気圧、風向風速、降水量、雲量雲高、視程などの観測データさえ、一般への発表は禁止され、国民の前から気象情報は姿を消したのであった。この気象管制は台風襲来などの災害時でも緩和されることはなかった。 ●三月十日(43頁) 藤原(咲平)の指揮で、官舎群全体への類焼は免れた。焦土と化した都心の中に残った官舎群は、終戦前後の気象台員の生活と仕事を支える上で、大きな役割を果たすことになったが、それも藤原に負うところが絶大であったのだ。 ●小日山運輸通信大臣(51頁) 「原子爆弾の使用は国際条約で禁止されている毒ガスの使用をも凌ぐ極悪非道なものである。かかる非人道的な兵器を使用せる敵、すでに敗れたり」 ●地震観測(82頁) 地震観測は石油を必要とした。地震計の記録紙は、重油の煙で真黒にすすを付着させなければならないからである。 ●二次被曝(169頁) 山根は、六日夜古市、高杉と共に打電のため火災地帯を徘徊して帰ってから、「どうも身体がだるい」と言いだした。七日になると下痢をした。八日になると下痢がひどくなり、熱も出て、起きていることができなくなった。ひょっとして赤痢か何かの伝染病にかかったのではないかとも思った。 ●原子爆弾(189頁) 広島に投下された新型爆弾が、恐るべき放射能を撒き散らす原子爆弾であることすら、広島の人々にはほとんど知らされていなかった。 ●枕崎台風(228頁) 都城市では、製紙会社の高さ三十五メートルの大煙突が崩壊した。午後五時四十分には、宮崎県日向市に近い細島燈台で最大瞬間風速七十五メートルを記録し、この地方の家屋はほとんど全壊して家の形を留めるものがないという惨憺たる光景となった。 ●大旅行(238頁) 海鳥や小鳥は台風の眼にとらえられると抜け出せなくなって、台風の移動とともに大旅行をするが、そのうちに雨や風に打たれて墜落死することが多い、という ●順転・逆転(257頁) 台風が西側を通過するとき、風向きは、時計の針と同じように、東から南、西、北へとほぼ一回転する。気象台の人たちは、このような風向きの変化を〝順転〟と呼んで、台風の中心通過の判断の手掛かりにしている。台風の中心が東側を通過するときは、風向きは時計の針と反対の方向に〝逆転〟する。 ●風速(260頁) 気象の教科書には、平均風速二十五メートルで煙突や屋根瓦が飛ぶ、三十メートルで雨戸がはずれ、粗末な建てつけの家は倒れる、四十メートルになると小石が飛び、列車も倒れる、五十メートルでは家屋は倒れ、木は根こそぎになる、と書いてある ●新聞社(267頁) 中国新聞社は、疎開先の温品工場が水害に会って印刷不能に陥ったため、記者たちが総出で藁半紙などに筆で台風災害のニュースを書き、市内の要所に貼って歩いたのだった。 ●イワオコシ(289頁) あの地方(薩摩半島)では、数十年に一回くらい、大きな岩をも動かすような猛烈な風が吹くそうですけれど、そのような風をイワオコシというのです ●恐怖(311頁) 米国が八月六日、九日とわずか三日しか間をおかずに二度も続けて原爆を投下するというやり方は、数日以内に再びどこかの都市に原爆を落とすのではないかという恐怖を呼び起こすのに十分であった。実際米国は早ければ十七、八日ごろ三発目の原爆を小倉に投下する準備を進めていた。 ●山津波(346頁) あの夜は風も雨もひどうて寝ることもできんかった。そのうちにゴーッと、飛行機が二、三十機も編隊で飛んでくるような音がして山が抜けよった。大きな石が次から次からゴーッと転落して行くんじゃ。畳二枚分もある大石まで転び出よった。それらの石が衝突し合ってカチカチ火を出すんじゃ。まるで鮎漁の川松明みたいにキラキラ光ってのお、あたりが明るく見えた程じゃった ●爆風の速度(357頁) 爆心地から気象台まで三・六粁。閃光と同時に発生した爆風がその距離を伝わって気象台に達するまでの所要時間が約五秒。ということになると、爆風の速度は、秒速約七百メートルとなる。音速の約二倍だ。 ●気象事業の再建拡充(378頁) 藤原の構想は、陸海軍の気象観測所を譲り受けて気象台または測候所とする。海軍艦船の払い下げを受けて気象観測船にする、軍用機の払い下げを受けて気象観測機にする、陸海軍の諸施設を譲り受けて研究所などに生かす、等々壮大なものであった。このうち軍用機の払い下げなどは廃案となったが、陸海軍観測所の譲り受けや松代大本営地下壕の地震観測所への転用などは実現し、気象観測船の計画も後年形を変えて定点観測船として実現することになった。 ●観測精神(437頁) 刻々変わりゆく気象に対し、その真相を見逃すまいという真剣味が、この精神の核心であると思ふ ☆関連図書(既読) 「もはや高地なし」ニーベル・ベイリー著、カッパブックス、1960.10.15 「ヒロシマ日記」蜂谷道彦著、法政大学出版局、1975.06.30 「ヒロシマ・ノート」大江健三郎著、岩波新書、1965.06.21 「黒い雨」井伏鱒二著、新潮文庫、1970.06.25 「夏の花・心願の国」原民喜著、新潮文庫、1973.07.30 「父と暮らせば」井上ひさし著、新潮文庫、2001.02.01 「ひとりひとりの戦争・広島」北畠宏泰編、岩波新書、1984.08.20 「新版1945年8月6日」伊東壮著、岩波ジュニア新書、1989.05.22 「原爆投下は予告されていた」古川愛哲著、講談社、2011.07.27 「はだしのゲン(1)」中沢啓治著、汐文社、1984.02.01 「夕凪の街 桜の国」こうの史代著、双葉文庫、2008.04.20 (2014年9月24日・記) (本の表紙より) 昭和20年9月、敗戦後間もない日本を未曾有の暴風雨が襲った。その名も枕崎台風。「齎した被害亦広島県の死傷行方不明3066名を初とし……」 なぜ広島で……。人類最初の原爆による惨禍からわずか一ヵ月、廃墟の街で人々はどのような災害に巻き込まれたのか。気象台は何をしていたのか。綿密な取材によって明かされる、天気図の空白に秘められたしられざる真実。
0投稿日: 2014.09.24
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
日本の歴史を紐解いても、これほど残酷で凄まじい1ページはないことでしょう。広島に原爆が落とされた直後、昭和の時代で三本の指に入る台風がその現場に襲いかかったなんて、僕は今の今まで知りませんでした。 この「忘れられた災害」をどう捉えるべきなのか、読み終えてもなんとも言葉のない、やり切れない一冊ではあります。おそらく作者の柳田もそうだったのでしょう。 しかしこの本は、単なる惨劇の記述に終わってはいません。 むしろ、そんな惨劇の土地の真っ只中にありながらも、自分たちの仕事を放棄したりしなかった気象台職員たちの熱意が主題となっています。それがあるからこそ、読者もそこに一筋の光明を見るような思いで読み進めることができます。そして作者の柳田も、やり切れない現実の記述の中に、そのような形で「人間性」というたったひとつの希望を見出していたのではないでしょうか。
0投稿日: 2012.04.10
powered by ブクログ広島で原爆投下から一月ほどあとに襲来した台風を題材にした作品。 広島の気候観測所を中心に、戦争の後半から話が進む。 一種の原爆本ではあるだろう。 というくらい原爆における悲惨な状況も数多く盛り込まれている。 そして、その後訪れた大型台風がこの地方に甚大な被害をもたらした。 暴風雨と洪水は、原爆で廃墟と化した広島の街を骨髄まで洗い流す感があった。 という記述のとおり、ただでさえ原爆という大被害で損傷を負った建物を壊し、人々、特に横たわっていた負傷者をそのまま流してしまった。 ある山津波の目撃者の話では、水が下ってくる轟音は飛行機が2・30機飛んできたような音で、大石が転落する際に発生する火花は周辺を明るくするほどすさまじいものであった、という。 しかし、そのような状況下でも観測所の観測員たちが、自らの勤めに誇りを持ち、仕事を続けていく姿勢が強く読み取れたことは、なにより感慨深いものであった。 そして、筆者の著作意図どおり、原爆だけでなく台風もセットで記憶にとどめなければならないと強く感じた。
0投稿日: 2011.03.12
powered by ブクログ原爆直後の台風一過。 広島に原爆が投下された8月6日、その1ヵ月後の9月17日、観測史上稀に見る大型台風が広島を襲った―――。 中央気象台は各地方からの測定結果を元に天気図を作成しているが、何らかの事情で地方からの入電が途絶えると、その地域の天気図は空白になってしまう。 枕崎台風でも同様の事が起こり、九州南部から空白地帯が広まっていった。それは台風の進行と重なり、今回の台風の尋常ならざる勢力を示したいた。 被爆直後の広島では通信業が途絶え、情報を市民へ提供する術が無かった。警報を示す赤い旗を掲げるも、その意味を理解しえた市民は少なかった。 そして迎えた9月17日、台風はバラックを吹き飛ばし、山津波を引き起こし、全てを洗い流した。 その衝撃が冷めやらぬうちから、気象台の職員は被爆後の台風災害という空前絶後の被災調査を始める。 地道な聞き込みの結果、恐るべき台風の猛威が明らかになっていく。 この本で最も感銘を受けたのは、気象台職員達の観測への熱意だ。 原爆投下直後から定時観測を続け、一方で被災者への聞きこみ調査も行っていく。記憶が劣化しないうちに原爆と台風の記憶を後世に残す意義を知っていた。 それは気象観測の精神に刷り込まれていた事だったろうが、このような非常事態下でもそれを徹底して行っていた事に目を見張る。 さらに、その記録を掘り起こし、自分の足で関係者への聞き取りを行い、この本を完成させた著者にも感謝する。
0投稿日: 2010.08.14
powered by ブクログ広島・原爆と来れば、壮絶な記録であるのは当たり前である。しかし、 終戦前後の気象観測に切り口を持って来たところが、さすが「柳田 ノンフィクション」なのだろう。 爆心地から離れていたとは言え、広島気象台も原爆投下の被害を 受けずには済まなかった。建物のガラスは四散し、立っていた者は 爆風で吹き飛ばされる。 観測機器も勿論被害を受け、気象観測どころではない。通信設備や 無線も使えない。それでも、広島の状況を東京の中央気象台に伝え なくてはならぬ。 気象観測に欠測は許されぬ。東京の中央気象台に送れなくても、 満足に機器の修理も出来ぬまま広島気象台は気象観測を続ける。 そして襲った枕崎台風である。広島気象台では異常な風雨を観測 していたが、通信網が復旧しない広島の悲劇は、台風が近づいて いることを伝える術がないことだった。 この枕崎台風では軍の要請を受けて、原爆被害の調査の為にいち早く 広島入りをしていた京都帝大の調査班からも遭難者が多数出ている。 そして大量に採取した原爆被害の標本も、突然の土石流で失われた。 「この被害を後世に伝えねばならぬ」。広島気象台の台員たちは、 原爆と台風の被害調査を地道に続けて行く。しかし、被害者・目撃者 からの聞き取り調査を元にした資料も、GHQの命令で発表の場を失う。 どの時代にも困難な状況にあるにも関わらず、自分に課せられた 使命をまっとうしようとする人々がいる。綿密な取材の出来た上質 なノンフィクションだ。
0投稿日: 2010.03.15
powered by ブクログ広島へ原子爆弾が投下された前後を気象台の所員の動きを通して描いています。原子爆弾の直接の被害に目が向きがちですが,その直後に広島に上陸した超大型の枕崎台風が広島に更に追い討ちをかけたことは,まったく認識外でした。広島出身なので,おなじみの地名も出てきてより臨場感を感じつつ読むことができました。
0投稿日: 2009.08.15
powered by ブクログ「枕崎台風」という台風は名前だけ聞いたことがあったが、本当に名前しか知らなかった。 この台風は終戦直後の九月に枕崎に上陸し、広島を通って日本海に抜けた大型台風だそうだ。 そう、広島なんである。一月前に原爆で壊滅状態に陥った無防備な広島を、巨大台風が襲ったのである。 本書は、広島の気象台職員を主人公に、半ば小説仕立てで枕崎台風の被害を描いている。 本書を読んで感銘を受けたのは、気象台の職員にせよ、病院関係者にせよ、学者にせよ、あの戦争のさなかで黙々と職務をこなしていたということである。 広島・原爆というと、私が最初にそれを知ったのは子供の頃読んだ漫画の『はだしのゲン』であり、丸木依里の絵本であり、戦争体験記の児童書である。で、もう少し大きくなると大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)を読んだりしたわけである。が、被害者の立場から見た惨状はある程度知っていても生き残った人が職業人としてどういう身の処し方をしたかということはほとんど知らなかった。(もちろん『ヒロシマ・ノート』にも治療にあたった医師のことが書かれてはいるのだが)子供心には、当時の大人が何だか竹槍訓練と炊き出しばっかりしていたように感じたものである。今考えるといくら戦争中でもビジネスマンもいれば技術者もいれば新聞記者も鉄道職員も郵便局員もいたわけである。原爆投下後にも、焼けなかった郵便局は開いていたのに驚いた。 主人公(視点人物)とされている気象台職員をはじめ、他の職員らは原爆投下後、「気象人」としてのプライドと義務感をもって怪我や食料不足に苦しみながらも職務を全うしようとする。実に頭が下がる。それとともに、この惨禍を膨大な調査によって明らかにした著者のねばり強い取材にも感服した。
0投稿日: 2007.04.20
