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浄土真宗-往生と不退-
浄土真宗-往生と不退-
仲野良俊/東本願寺出版部
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総合評価

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  • 「信」の境地に至るには?

    浄土真宗と浄土宗はどう違うの?という素直な問いに、真摯に応えてくれる1冊。私もそれを感じていたので、興味のある人には、おすすめ。 さて、その違いとは、浄土真宗は「信」に重点を置き、浄土宗は「行」に重点を置くということらしい。 この違いが、「即得往生」(今この世で、極楽往生することを得る)の身にならせていただくのと、「臨終来迎」(死ぬ時に、仏が迎えに来てくれる)を望むという姿勢の違いになるという。 そして、浄土真宗こそが、まさしく「浄土の真(まこと)の教え(宗)」だという。 親鸞の解き明かしてくれた浄土の教えこそが、念仏を唱えることで往生するのではなく、任せきることによって往生できる道なのだというのである。 また、現代の若い人が(といっても1983年の講演録)、寺に寄り付かないのは、現在の「信」ではなく、死んだら仏さんになるととらえているからだという。 とにかく、浄土真宗は素晴らしく、それを説き明かした親鸞は素晴らしいとまさに「信じて」いらっしゃる方の本なので、このような論調になってしまうのは仕方がない。 しかし、その「信」を得るためにどうしたらいいのか、その道筋は曖昧で複雑だ(それは、2015年でもだ)。 法然よりも親鸞の方が、理論的に優れているというのは勝手だ。 けれども、ここに講演されているような複雑な理論を飲み込まないと、「信」を得られないならば、普通の人にとって、阿弥陀仏が必ず救ってくれると安心を得るための道筋がひどくハードなものになってしまう。 そのため、念仏が易行道にも拘わらず、聖道門と変わらないハードルの高さを感じさせてしまう。 だからこそ、親鸞が関東から帰郷した時に、関東の親鸞の門徒たちは、どうしていいのか分からず、教義の確認を京都まで親鸞に確認に行かねばならなかったのではないだろうか。 そんな状態だから、現在も語れず、未来も語れない寺に、現代人は寄り付かないのだ。 こういったことを避けるために、法然は「行」を重視したのではないだろうか。 何も分からなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えよと。とりあえずは、それでいいのだと。 私はむしろ、ここに法然のおおらかさを感じる。 親鸞の伝記である「御伝鈔」が本当なら、法然は「信不退」か「行不退」か親鸞に問われた時に、「信不退」を選択することはないはずだからだ。 宗派(真宗大谷派)の出版物なので、親鸞に重点を置くのは仕方ないが、宗派が発行する本はどうも宗祖礼賛になってしまっていて、仏教というよりも親鸞教といった趣になってしまうのが残念だ。 そのため、マイナス1。

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    投稿日: 2015.12.13