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空海の風景 下巻 (改版)
空海の風景 下巻 (改版)
司馬遼太郎/中央公論新社
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総合評価

63件)
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    空海の壮大な構想、旅が味わえます! 今まさに「菜の花忌『空海の風景』を読む」シンポジウム(東大阪文化創造館)に来ております。パネリストは磯田道史さんや澤田瞳子さん。楽しみです。 本を持ってくるのを忘れてしまいました。

    0
    投稿日: 2025.02.11
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    下巻の前半が一番盛り上がったように思います。高野山や高野山入山後の話があっさりしているので、そのあたりがもう少し詳しく知りたいと思いました。漢字が難しいですね。いろいろな寺院に行ってみたくなりました。

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    投稿日: 2024.12.14
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    「空海 高野山 真言宗」 雲の上の存在の立派なお大師さま、というだけのイメージでしたが、たくましくしたたかに生きる人間味あふれる姿に親しみがわきます。 今中国語を勉強している私としては、唐に渡る前から中国語が堪能だった空海にあこがれます。 この時代世界一の都であったろう唐の長安に留学して街を見て学んだ空海はどんなにワクワク興奮したことでしょう。 西安、高野山、行きたいな。

    0
    投稿日: 2024.03.04
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    「空海の風景(下)」司馬遼太郎著、中公文庫、1994.03.10(改版) 417p¥780C1193(2024.02.18読了)(1999.11.26購入)(2002.01.30/15刷) この巻では、最澄が結構出てくるので、インターネットに掲載されている説明を如何に拝借しておきます。 ◆さいちょう【最澄】 (767〜822)平安時代初期しょきの僧そう。日本の天台宗てんだいしゅうの開祖かいそ。近江おうみ国(滋賀しが県)に生まれ,父は中国からの渡来とらい人の子孫しそん。19歳さいのときに東大寺とうだいじで正式の僧そうとなったが,当時の仏教ぶっきょうのあり方に不満ふまんをいだき,故郷こきょうに帰って比叡山寺ひえいざんじ(のちの延暦寺えんりゃくじ)をたてて12年の間,1人で修行しゅぎょうした。さらに深く仏教ぶっきょうを学ぶため,804年に遣唐使けんとうしにしたがって唐とう(中国)にわたり,天台宗しゅうの教えを受けて,翌年よくねん帰国。桓武天皇かんむてんのう*の保護ほごを受けて,新しい宗派しゅうはをおこした。◇死後,朝廷ちょうていから伝教大師でんぎょうだいしとおくり名された。 【目次】 十六~三十 あとがき 解説  大岡信 ☆関連図書(既読) 「空海の風景(上)」司馬遼太郎著、中公文庫、1994.03.10 「空海の思想について」梅原猛著、講談社学術文庫、1980.01.10 「司馬遼太郎の風景(1)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1997.10.25 「司馬遼太郎の風景(2)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.01.25 「司馬遼太郎の風景(3)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.04.25 「司馬遼太郎の風景(4)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.07.25 「司馬遼太郎の風景(5)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1998.12.25 「司馬遼太郎の風景(6)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.03.25 「司馬遼太郎の風景(7)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.05.25 「司馬遼太郎の風景(8)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.07.25 「司馬遼太郎の風景(9)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、1999.11.25 「司馬遼太郎の風景(10)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、2000.07.30 「司馬遼太郎の風景(11)」街道を行くプロジェクト、日本放送出版協会、2000.09.30 (「BOOK」データベースより) 大陸文明と日本文明の結びつきを達成した空海は、哲学宗教文学教育、医療施薬から土木灌漑建築まで、八面六臀の活躍を続ける。その死の秘密をもふくめて描く完結篇。昭和五十年度芸術院恩賜賞受賞。

    4
    投稿日: 2024.02.18
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    空海の生涯を数多くの文献と司馬遼太郎の考察により紐解いていきます。小説と考察文の中間のような書物です。そして上下巻読んで思うのは空海ほど天才という言葉が似合う人はいないのではないかということです。10代で儒教、道教、仏教を比較して仏教の優位性を説いたり(しかも戯曲という形で)、遣唐使として唐に渡れば、現地の中国人よりも漢詩が上手く中国人の尊敬を集めたり、唐に渡って半年で梵語をマスターしたり、帰国後は氾濫を防ぐための大きな溜池の土木工事をしたり(現在も香川県で使われている)と1つ成し遂げただけでも凄いのに、そういうエピソードが多岐に渡ります。そして1番凄いのは、勿論真言宗という密教の宗派を開いたこと。密教の正統な後継者として唐の高僧に伝授してもらうだけでも奇跡的なのに、さらにそこに空海の独自の思想を反映させ、新しい宗派を確立させるのは常人にはできない偉業としかいえないと本を読んで思いました。

    0
    投稿日: 2024.02.07
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    本書には「この稿はこまかい詮索を目的とせず、ただ空海という千年以上前の人間を、ほんの片鱗でもあるいは瞬間でも筆者において目撃してみたいということだけが目的」と書かれている。なんだそうだったのか。本書は「小説」ではなかったのだ。それならば最初から、「NHKスペシャル」のようなドキュメンタリー番組で表現した方がよかったのではないか。 空海の経歴には、山林修行で『虚空像求聞持法』をマスターしたとか、口から星が入ってきたとか、唐に渡った時点で唐音が完璧だったとか、恵果に逢うやいなや直ちに密教の正統継承者となったとか、普通の伝記的なアプローチでは理解しがたいエピソードが多い。それを"天才"の一言で片付けるのであれば、「小説」の存在意義はない。あるいは膨大な史料の突き合わせで解決しようとしても、それこそ説得力がないのである。 ここでたとえば空海が、前世である不空三蔵の記憶をもっていたとしたら?こう書けば、著者には「物事を冷厳に認識する人でなく」、「興に乗ってみだりなことを書く」と斬り捨てられてしまうのだろう。だがその基準はどこにあるのか?もちろん著者の中にしかない。 著者は「~という想像はゆるされるかもしれない」などと書く。誰が許すのか?その基準は著者の中にしかない。また許されなかったらどうなるというのだ?さんざん自分の妄想で頁を埋めておきながら、厳密に検証作業をすすめました的な小賢しさが気に入らない。「あとがき」までそんな調子なのである。もう言い訳はよせ!と言いたくなってしまった。残念ながら、著者に対する俺の評価は低い。 もし「小説」を志すなら、まず自分の想像にすぎない空海を自由に表現する旨を宣言した上で、潔くそれに対する責任をとってほしい(言い訳は聞きたくない)。 四国遍路に出発する前に読了できたので、唯一そこだけは満足である。

    0
    投稿日: 2024.01.04
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    空海が真言宗開祖として各プレイヤー(朝廷、貴族、他派仏教)を御しつつ宗派の礎を巧みに築くあたりは面白かった。僧という武力を用いない勢力間が鎬を削るわけで当然に清々しくはなく社内政治が如くで妙に刺さる部分があった(司馬遼太郎の題材では少数派だろう)。ただ全体を通して仏教、密教と言った話が多く、また自分には難しかった。恥ずかしながら相当な部分を読み飛ばした。

    0
    投稿日: 2023.09.18
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    中国関係の積読を先に片づけていたので、上巻から少し間が空いてしまいました。 下巻ももちろん司馬遼太郎節。小説というより、司馬遼太郎による空海講釈。 下巻の中心は、長安から帰り、日本に真言密教を伝える空海。中でも、比叡山の最澄との交流。っていうか、対決。対立。歴史の授業では、天台宗の最澄と真言宗の空海とセットで覚えさせられるけど、そう一筋縄にはいかない。 あとがき読んだら、高野山にも行きたくなった。まずは高雄山かな。

    0
    投稿日: 2023.05.30
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    上巻に続き一気に読みました。下巻では真言宗の創立と最澄との交流が中心的に書かれています。書かれている内容自体、当事者たちからするとタブー的なこともあるかもしれませんが、そこは司馬遼太郎氏の立場から、かなり自由奔放に思いのまま書かれていて好感が持てました。個人的には本書を読んで、まだ行ったことがない高野山および本書に登場する各種寺院を巡ってみたいという気持ちが強くなりました。とても面白かったです。

    0
    投稿日: 2023.04.27
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    上下読み応えがあった。密教は自分には難しいが、空海の生き方については非常に興味もさらにもった。情報量が凄まじかった…。善通寺は行ったので、次は高野山にいきたい。

    0
    投稿日: 2023.01.21
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    上巻に続いて、空海の日常に関する描写に加え、筆者の体験の描写がところどころまじり、フィクションのようなドキュメンタリーのような不思議な感覚だった。下巻は最澄や天皇への接し方など多分に人間くさく、怒りや嫌悪をあらわにするような様子は、後の世でお大師様として暑く信仰されている空海像と違って新鮮だった。密教とはなにか、が、筆者なりの解釈ではあるが顕教との比較で語られているのがわかりやすく、違いをぼんやりと理解する事ができた。

    0
    投稿日: 2022.05.05
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    空海の話だけではなく最澄との関わりとかへえ〜と思いながら読み進んだ。お二人とも歴史に名を残すだけあってクセのある方だったようで。物語の形式ではないので、ドラマティックな描写とか省かれていたため読みやすかった。

    1
    投稿日: 2021.09.11
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    全然言葉が分からない。頭がついていけない文章。 最澄と空海を比較した文章だと最澄が何も計算せず担がれたかのように唐に行き、たまたま密教に出会いそこで教えを受け持ち帰り帝は密教に興味を示し広まったが空海は密教を学びに行って日本に帰った時には最澄が密教を広めていた。 そこで空海は資料を纏める口実に直ぐには朝廷に行かずざわつかせてから出向くと計算高い。 僧は無心だと思っていたけど空海の人間臭さがすごくわかる。 でも密教の内容は全然分からないし、空海がどういう風に学んだのか分からない。 ただ文字を見てるだけで理解出来てないのでもやもやが残る。 何故空海を知りたいと思ったのか、何を知りたかったのかを考えてみたら、空海という漢字や響きに興味がわいたからだった。 知識ゼロなのと不純な動機がいけなかった。自分の想像していた描き方ではないし、展開についていけないので字だけを追っている。。 やっと読み終わる。 2021/11/09

    0
    投稿日: 2021.09.07
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    空海は没後1000年以上経つが、純密という宇宙原理の体現者であるがゆえ、死という概念そのものが通用しないような気もする。後書きで筆者が、自身の体を通り抜けた感覚があったと記しているが、それもあながち間違いでもないのだろう。 いずれにしても、人間という思想の入れ物が朽ちて1000年以上経つが、雑密の如く散らばる空海の断片的情報を具に拾い集め、純密のごとくまとめあげられた空海とその周辺の風景は、鮮やかとしか言いようがない。多分に筆者の推察も含むが、それも全て空海は包括しているのだろう。

    0
    投稿日: 2021.06.18
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    空海の生涯をザックリ理解するには格好の一冊。 万能の天才、偉大な巨人で神格化されてきた空海を距離を置いた描写により、一人の人間がそこに描かれている。 梅原猛は「空海の思想について」で、空海はその偉大さゆえに、明治以来、特にインテリに敬遠されてきたと記している。 「空海の風景」で描かれている空海が「胡散臭い」男として描かれているのは、偉人を人間に仕立てるテクニックであるとともに、司馬遼太郎も空海を敬遠するインテリの一人であったが故だったのかもしれない。

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    投稿日: 2021.02.04
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    [感想(良かった)] ◯印象に残った内容: ・空海が唐で如何にして密教を授かったか?  の経緯が分かった。 (p.017〜) ・空海が完璧な(真言宗の)体系をつくりすぎた… (p.110〜) ・空海は、国家を超越した世界を築いてその法のおうになろうという志望をひとすじに持っており… (p.220〜) ・空海と最澄の間のあれこれが分かった。 [感想(良くなかった)] ×史実と司馬遼太郎の類推が同列で書かれている。 [総論] ◯「四国八十八ヶ所」巡礼を結願した身ならば、   その教える処のエビデンスが欲しくなったから   読んだ。

    0
    投稿日: 2021.01.28
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    「曼陀羅の人」読後なので、在唐時の空海はテンポよく読めたが、日本に戻ってきてからは少しじっくり読む必要があった。 飛白書?はて…などと検索しながら読んだから。こういう時、ネットって便利。 司馬さんは初めて読んだが、最澄・空海いずれか片方に加担することなく、知りうる情報をフル活用しそれぞれの気持ちになりきり、温かく持論を述べる作風が大変好きになった。 中国のことや歴史など差し込まれる解説も丁寧で助かる。 司馬さん自身に興味を持った。そういう時はその場の雰囲気が伝わってくる対談集を読むが、なんと10巻もあるのか!

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    投稿日: 2021.01.12
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    この時代の中国のおおらかさは、清々しい。 現代の方が閉ざされてる感じすらする。 長安には、色々な国の人、宗教、文化が入り混じり、新しい発見であふれており、色々な書物も中国語に翻訳されていく。 そして密教に至っては空海に三種の神器的なものまで継承しちゃう。おおらかすぎる。 そして20年の留学を3年で帰ってきた空海が、また凄い。新しい仏教を持ち帰ったのだから、鼻高々、京に入るのかと思いきや、インドで別々の発展を遂げた2つの密教を一つの体系の中に理論化してしまう。 これは今の日本経済にも通じるように思う。真新しいものを生み出すのは苦手だが、新しものを組み合わせて、あるいは進化させて発展してきた日本経済とそっくり。 仏教でも日本人の特性が、空海にもあるのだなぁ、と感心した。 さて最澄とのやり取りになると、急に人間的な空海が垣間見える。イライラしていて、前半の神秘的で権力なんて超越した感じが薄らいで、親近感。 特に泰範の件では、空海、最澄という卓越した存在の中に、愛に翻弄される空気が、ゴシップ的な面白さがあった。 空海の死は、即身成仏を体現し、密教の言葉では伝えられない、師からのみ教えは伝えられるという考え方が千年以上続いている凄みを感じた。 カリスマなんて言葉が霞む。 密教と顕教、仏の世界は奥深い。

    6
    投稿日: 2020.06.20
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    感心することはたくさんあったけど、なんとも、盛り上がることなく読み終えてしまった。この本を読み通すのは、けっこう苦行でした。(2019年12月30日)

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    投稿日: 2020.02.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    唐から帰ってきました。 最澄との確執や、嵯峨との関係、長安への想いなど、見てきたのか?と思えるほどの圧倒的な教養量と考察力。

    0
    投稿日: 2019.09.19
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    大陸文明と日本文明の結びつきを達成した空海は、哲学宗教文学教育、医療施薬から土木灌漑建築まで、八面六臀の活躍を続ける。その死の秘密をもふくめて描く完結篇

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    投稿日: 2019.09.08
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    予想よりずっと面白かった! 他の司馬作品同様、空海より作者の方が目立ってる(?笑)のがユニークだけど、空海ほど遠い時代の人物を主人公に小説を書くならば、このやり方が1番良いのかもしれない。空想でしかわからないところは空想だと言い切っているところが司馬遼太郎らしい。 民族社会性を超越した普遍的存在であるところに、空海の天才たるゆえんがあるということ、そのような普遍的存在は日本の歴史において他にいないこと、よくわかった。(私もそんな超越的普遍的存在になりたい。) 描かれる長安の都がすてきすぎて、西安に行きたくなった。

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    投稿日: 2019.04.14
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    唐からの帰国以後の空海を同時代の天台宗の開祖である最澄と対比しながら描いている。 何しろ千数百年前の人物なので、資料も少ない。それを丁寧に調べてこうだったのではないか、という推量をしていく。大変な作業と思うが、司馬遼太郎氏だからこそ書けた作品と思う。 現代でもその息吹を残す超国家的な1個の天才。高野山へ行ってみたくなった。

    0
    投稿日: 2019.03.20
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    ★3.5だがおまけで。 何より一番の驚きは空海という人物が人間臭いという感想を抱かされたこと。正直に言って聖徳太子的な眉唾的存在かと思っていたのですが、最澄含めて必ずしもそうではなく、結構文献からその人となりが推察できることに素直に驚愕。 その上でですが、やっぱり幕末あたりのこの作家の作品と比べると少し浅いというか濃密さが足りない、そこはやはり遠い昔ということかもしれず。 でも空海の嫌らしさが垣間見えて結構楽しめました。

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    投稿日: 2019.02.09
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    作者が登場人物ばりに全面に出て 自分の見方であることを断りながら対象を描いていく 史伝調の歴史小説 いつものではあるが 幕末の8倍戦国時代の3倍も昔の話だけに間合いが慎重で面白い 最澄に対する空海の態度だとか 薬子の乱を武即天に対比するところだとかはいつもの調子でいけるが 宗教周りの部分はあえてひどく踏み込みが浅く その分全体の調子がぐだぐだでやっぱり面白い 本来上下分冊でするようなものでなく まとめあげたものを随筆中編くらいでまとめるようなものだが それをあえてだらだらしているところが味わい深い一品

    0
    投稿日: 2018.10.20
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    下巻は空海と最澄の確執?に終始した印象で、自分が興味のあった空海が為した様々な事業や功績に関する記述が殆ど無かったことが残念です。 空海の密教思想が途轍もなく素晴らしいものであろうことは何となく感じましたが、その凄さを理解するには自分はあまりに知識が足りなく、不完全燃焼で終わってしまいました。 一度高野山に行かなければと思わせるだけの魅力は感じましたけどね。

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    投稿日: 2018.05.07
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    小説というよりも、空海の足跡を追ってその行動と思想をたどるエッセイという色合いの強い作品。 もちろんフィクションや作者の空想の部分も多いのだろうが、出展先を明示したり他の作品とは一線を画している。 時期的には「街道を行く」に取りかかるころなので、その先駆けとなったのかもしれない作品。

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    投稿日: 2018.03.27
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    空海と最澄とのやり取りは緊張感を伴うものだ。読者としては空海に肩入れしており、最澄の密教に対する教えの乞い方は、偶然同じ船団で渡唐した時の差別的扱い等も伏線になり、反感を覚えざるを得ない。最澄なりの考えがあればこそ天台宗が平成の現代でも受け継がれているのだろうが。平安期、日本よりはるかに進んだ世界(長安とそこに居住する外国人のいる文化)を見て帰国した空海の、日本を見る目とそれに伴う孤独もイメージされる、人間・空海への理解が深まる良書で、真言密教にも興味が湧いた。我が住む街も真言宗の寺院が多いな~

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    投稿日: 2017.08.27
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    このレビューはネタバレを含みます。

    1977年刊行。司馬遼太郎が描く空海の人物評伝の下巻。唐からの帰国から日本での真言密教の開始・発展。そして空海の死に至るまで。◆空海が世に出てきたこともあり、下巻の方が面白い。薬子の変の模様、嵯峨天皇との関係、密教を欲する最澄との関係と確執、高野山開祖の点等々。また、真言密教の影響を受けた東大寺の有り様も同様か。◆空海評伝からは外れるが、やはり著者の博覧強記と叙述の広大さ、それを基礎づける取材と調査の濃密さにしてやられる。

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    投稿日: 2017.01.24
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    小説、ではあるのかもだけど、司馬遼太郎が空海の小説を書くための手帳であり、絵コンテであり、下書きだったり、時々本稿だったりする。適当な言葉を探せば、その過程をライブで見るような、ロードムービーとも言えるんじゃないだろうか。集中して一気読みする類ではなかったので、他の小説読む合間にちょこちょこ読んでたら、読み終わるまで半年以上かかってしまった。しかし、読み終わっても、密教なるものの定義がやっぱり未だにわからない。。あれ?そもそも仏教なのこれ?って疑問は残ったまま。高野山の風景はもちろん仏教のそれなんですけど。んー、わからんが、密教自体に興味はないので、まぁ、よしです。

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    投稿日: 2016.10.06
  • 読む終わるまで時間が掛りました。

    司馬作品の読んでいる間に、他の作品を読んだのは初めてです。あとがきを読んで納得です。一気に読むおもしろさは無いですが、読んで空海が、ちょっと身近に成りました。

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    投稿日: 2016.07.23
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    解説書のような読み難さに耐えつつ、何とか上下巻読了。 空海が凄い天才であった事はわかりました。ただ、人として好きになれたかは・・微妙ですね。(あくまでこの小説を読んでの、ある意味、キャラとしては。ということですが。) 個人的には、最澄に“不憫萌え”です。

    0
    投稿日: 2016.05.07
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    空海と最澄の関係も描かれていきます。 知らなかったことばかりです。 真言宗と空海のことが、だいぶわかってきました。 それにしても、司馬遼太郎の資料の読み込み力、調べる力は相変わらずすごいです。

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    投稿日: 2015.10.18
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     密教とは何ぞや、現世を否定する釈迦の仏教に対して「現世という実在もその諸現象も宇宙の真理のあらわれである」いうことを密教の創始者は考えた。そして宇宙の真理と交信するために魔術、呪文、マジナイのたぐいを利用した(P104~参照)現世のご利益にあずかる趣旨の神社(土俗)風なものとわたしは思える。この密教が当時の政権に大いに受け入れられる。  南北朝時代の真言立川流って何、詳しく知りたいかたはググってね(笑 そして何よりもあの有名な、空海が弥勒菩薩とともに下生するといわれた56億7千万年という数字が銀河の一回転(ニネヴェ定数)とかかわりがあるらしい、なにかと謎の多い空海であった。

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    投稿日: 2015.06.21
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    司馬遼太郎、空海の風景(上・下巻)を読む: 今日、これだけ、旅が、何処へでも簡単に、出掛けられ、しかも、ネットで、欲しい情報に、簡単にアクセス出来る時代からすれば、8世紀の時代に、航海術ですら、満足に発展していない頃に、命懸けで、当時の世界的文化的な大都市に、海外留学しにゆくが如きことは、おおいに、大変であったことは、容易に、想像されよう。 目的地へ、きちんと、到着した最澄と異なり、福建省の土地に漂着、辿り着いてしまった空海が、皮肉にも、彼の地で、語学の才と当時の文化的知的な教養である書道(五筆和尚という称号)・文章道・漢詩・文才に恵まれ、奇跡的に、これを活かすことになること、誠に、皮肉な廻り道であるものの、長い人生から、見た時には、おおいに、興味深いものがある。 その生い立ち、渡航目的、そして、何より、語学と書道の才に長けた空海の思想的な成り立ちと時代背景、そして、最澄や当時の様々な僧達との交流と政治的な背景を、1200年以上に遡って、考証しながら、構想・想像するという作業は、並大抵なエネルギーではない。 しかも、それを一日本の仏教の歴史だけに止めずに、広く、中央・東アジア・インドなどとの思想的な交流とも、絡めて、当時の密教の伝来を考察する作業は、単に、空海という一人の宗教僧の思考方式だけでなくて、広く、当時の世界文化史的な視点からも、興味深いモノがある。 改めて、そうした視点から、今日の中央アジアの歴史や中近東での出来事を再考察するときに、仏教の伝来とその東の果ての国である日本という国の思想的な在り方に、深く、考えさせられる。 15歳の時に、讃岐の国を出奔して、778年に桓武天皇時代に、平城京へ登った。 釈迦没後56億7千万年後に出現する弥勒菩薩を待つのではなく、弥勒が常住し、説法をし続けていると謂われる兜率天(とそつてん)にこちらから出掛けて救われようとする機能性を作り上げた。 18歳で、仏教・道教・儒教の盛衰を踏まえた優越論を戯曲風に論じた、三教指帰(さんごうしいき)を著し、儒教は、世俗の作法に過ぎないと断じる。 官吏になる途である大学の学生(がくしょう)を捨てて、官僧としてではなく、私度僧として、仮名乞児(かめいこつじ)として、入唐するまでの空白の7年間を旅に出て、「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅に登っている者である」と称し、山野を修行して歩く。 7歳年上の初めからエリート官僧たる最澄とは、そもそも、出発点が、異なるのか? アジア大陸には、生命とは何かという普遍性からのみ考える以上、そこには、時間とか、誰とかという固有名詞もなく、只、抽象的な思考のみで、宇宙を捉え、生命をその原理の回転の中で考え、人間の有する人種やあらゆる属性を外しに外して、ついには、その一個の普遍的な生命という抽象的一点に化せしめることにより、物事を考え始める。従って、漢民族が引き寄せられる歴史とか社会的な思考には、印度的な思考法は、かけらほども、入ることはなく、密教の伝授という観点から、広義のみでの漢語・サンスクリッド・梵字、イラン語にも、当時は、学ばなければならなかったのであろう。 二つの系統の密教というモノがあるという。純密と雑密(没体系的なかけらのような形の密教、巫女、外法の徒、山伏など)、現世を否定する釈迦の仏教と、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理の現れであるとする密教の創始者は、宇宙の真理との交信の手段として、魔術に関心を持った。魔術・呪文・まじない・陰陽五行説・陰陽道・陰陽師など、後の純密以外の所謂、雑密である。最澄のそれは、不覚にも、それを拾ってしまったことなのであろうか? 虚空蔵求聞持法、という万巻の経典をたちまちの内に暗誦出来るという秘術、真言とはやはり、人間の言語ではなくて、原理化された存在である法身たる如来達が喋る言語で、虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の法則で唱えて、記憶力をつけると謂われている。その秘宝を会得することになる。解脱という釈迦とは、逆の道を選ぶことになる。虚空蔵菩薩という自然の本質は、それへ修法者が参入してゆきたいと希い、且つ、参入する方法を行ずる時に、惜しみなく御利益を与えてくれるという。 術者が、肉体を次第に、形而上化してゆくことにより、諸仏の機能の中に身を競り入れ、ついには、その機能を引き出し、それによって、現世の御利益をうるというところで、初めて、宗教的に完結することになる。 求聞持法を行ずるには、場所を選ばねばならず、とりわけ、宇宙の意思が降りてきやすい自然の一空間であらねばならないと、それが空海にとっては、阿波と土佐の地だったのかも知れない。室戸崎洞窟での明星が、口に入るという超自然的体験も、決して、密教の概念には、無縁ではないのかも知れない。 密教の断片に於いて、科学の機能を感じてしまった空海と後世が知ったつもりでいる科学なり、自然の本質、とりわけ、原子力やら、津波や地震といった自然災害の脅威を間近に体験した我々の考え方は、どちらが、果たして、1200年も経過した今日、本当なのであろうかと司馬遼太郎は、問いかけている。(むろん。著者は、東日本大震災は、経験せずに、他界してしまっているが)のちの世の平安末期の厭世観的な出家ではなくて、むしろ、肉体と生命を肯定する密教に直進し、解脱を目的とする途とは別のものを追求してゆく。 咒(しゅ)という概念を、毒虫を食ってしまう孔雀の悪食を引き合いに出して、司馬は、説明する。それは、古代インドの土俗生活に於いては、生命を維持する不可欠なもので、苛烈な自然と会話する為に、自然の一部と考えられていた一種の言語であっても、人語ではなく、むしろ、密語の一部でもあり、人間がその密語を話すとき、自然界の意思が響きに応ずるが如く動くと謂われている。自然と人間は、対立するモノではなくて、人間の五体そのものが、既に、小宇宙であり、この小宇宙の人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する時に媒体として、咒(しゅ)が、あるのであると、孔雀の鳴き声には、それが、含まれていると、人間がこの密語を発すれば、孔雀に化すると、何か、動物の言葉を話すドリトル先生のようでいて、面白い。 インドに於ける咒(しゅ)の歴史から、古代アーリア人、バラモン教、土俗的な雑密・純密の考察を経て、いよいよ、密教的な宇宙に於ける最高の理念である大日如来なる絶対的な虚構の設定に移ってゆく。 無限なる宇宙のすべてであると同時に、存在するすべてのものに、内在し、舞い上がる塵の一つにも、内在し、あらゆる万物に内在しつつしかも、宇宙に普く充ち満ちている超越者でもあると、しかも、宇宙を過酷な悪魔のようなものとは、考えず、絶対の叡智と絶対の慈悲で捉えて、釈迦のように、敗北感を有することなく、絶え間なく万物を育成して、無限に、慈悲心を光被して止まないという思想で、こうした純粋密教こそが釈迦教の一大発展形態ではないかと考えるにいたる。この空海の陽気さというものは、何処から、来るのであるか? 釈迦以前のインド思想、から、釈迦以後を経て、華厳経の成立へ、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、禅的な武道の中での「静中動有り・動中静有り」という思考法とも、関連づけられる。万物は、相互にその中に一切の他者を含み、とりつくし、相互に無限に関係し合い、円融無限に旋回し合っていると説かれ、毘盧舎那仏の悟りの表現でもあり内容でもあると、 華厳経では応えてくれなかった答が、大日経には、あるのだろうか?即身成仏の可能性とご利益を引き出してくれる法とは何か?そして、どのようにすれば得られるのか?大日経にあっては、華厳のそれより、更に、より一層宇宙に偏在しきってゆく雄渾な機能として毘盧舎那仏は、登場し、人間に対して、宇宙の塵であることから、脱して、法による即身成仏する可能性も開かれていると説く。 奈良南都六宗にみられたような人間の本然として与えられた欲望を否定する解脱だけをもって、修行の目的とするものとは、異なる方向性、有余涅槃と無余涅槃(=死)をも止揚しうる境地へ、向かう。死よりも煩悩や生をありのままに肯定して、好む体質だったのであろうか?大日経は、文章的にも難解で、サンスクリット語で書かれていて、この不明な部分を解読するためにも、漢語だけでは、不十分で、いよいよ、入唐を決意することになる。 奈良六宗に対する「論であって、宗教ではない」という最澄の痛烈な不満、経典は研究すべきものでなくて、声を上げて読誦すべきもので、その声の中に、呪術的な効果があると、読経と止観という瞑想行の必要性、華厳経の注釈書を読んでいたときに、法華経にぶつかる。体系としては、般若経の空観(くうがん)という原理を基礎にして、数字の零(空)にこそ一切が充実している、宇宙そのもので有り、極大なるものであり、同時に、極小でもあり、全宇宙が含まれていて、そこでは一大統一が矛盾なく存在していると、説かれる。 空海は、天台は、宇宙や人間はこのような仕組みになっているという構造をあきらかにするのみであり、だから、人間は、どうすれば良いかという肝心な宗教性において、濃厚さに欠けているとのちに、やかましく、議論することになる。 六世紀半ばでの仏教の伝来を考えるときに、玄奘三蔵が、インドへ経典収集の大旅行を敢行してから、或いは、それ以前のバラモン教や拝火教でも、現地の言葉(言語)というものを、何らかの形で、輸入言語・飜訳語・造語されることになることを、今日、忘れがちである。その意味で、サンスクリッドだけでなく、イラン語、中央アジアや印度・ネパールなどの言語も、改めて、その当時の造船・航海術、通信網やら交通の発展程度、当時の技術も、よくよく、念頭に入れておかなければならないであろう。 しかしながら、当時の人々の考え方というものが、今日の我々と根本的に、1000年も2000年も経過したところで、おおいに、隔たりがあるとも、思われない。形而上学的な宇宙論も、一神教も多神教も、旅をするという心も、外国語を学ぶということも、どれ程の違いがあるのであろうか?そう考えると、四隻の遣唐船のうち、運良く、辿り着けた二隻の船に乗り合わせた二人の運命は、当時の航海・操船技術を考えると運が良かったということなのであろうか?それとも、幸運だけでは説明しきれない何ものかがあるのかも知れない。 ヒト・モノ・カネ・情報では無いが、人脈と資金、写経ですら、アルバイトや専門の僧侶雇わなければならず、大変なプロジェクトであることが分かる。サンスクリットの原語を朗読する者、唐語・漢語に飜訳する者、それを整えて文章化する者、校正し直したり、議論したりしながら、何百人という専門家や学僧が関わることになる訳である。印刷技術が発達した今日では、いかにも、当たり前に、経典自身が、印刷されていると錯覚しがちであるが、当時の写経という行為を考えれば、或いは、つい100年も前ですら、本自体が、人の手から、手へと、書き写されていったことも又、事実である。それを考えただけでも、文化の伝来、その基礎となるべき本や、経典ですら、コピーをベースに、或いは、飜訳・造語を経て、行われていることに、改めて、思いを巡らさなければならない。それ程までに、多大な時間と人的なエネルギーが必要とされていたことであろうし、それは、換言すれば、お金がかかっていたと言うことにもなりえようか? 20年と云われる留学期間をあっさりと2年ほどで、終えて、帰国することになるわけであるが、長安での漢民族ではない不空から恵果へと伝授される密教の極意との出逢い、イラン、ペルシャ、回教徒、景教(ネストリウス派の基督教徒)、マニ教、インド僧、ラマ僧、中央アジアとの異文化・異教徒、異国のウィグル族の商人達との出逢い、謂わば、大いなるシルクロード経由での文明論・宗教観との激突という風景が、今日からでも、容易に、想像されよう。一体、現地では、どんなものを食べて、どんな言葉で、どんな人物と文化交流していたのであろうか?護摩修行とバラモン教、ゾロアスター教、拝火教との関連性は、どんなところから、影響し合ったのであろうか? 何故、空海は、密教の中に釈迦が嫌悪した護摩を取り込んだのであろうか?印度系の土着宗教であるバラモン教から系譜を引いているといわれるが、単に、バラモンの修法が、高度に思想化されて、火を真理として、薪を煩悩に喩えて、焼却し尽くすという思想的な進化を遂げることになるのであろうか?炎と行者と、その行者の前に佇立する本尊という三者の三位一体性ということが、果たして、身・口・意という三密行を感応せしめるということに繋がるのであろうか?それは、又、後の内護摩・外護摩(観念のなかで、具体的なものを抽象化して清浄にする)という二つの思想に分化してゆくになる。 具体的な世界は、すべて、煩悩の刺激材であるとみて、具体的な世界がなければ即身成仏という飛躍はできず、その抽象的な世界を、一瞬で浄化(抽象化)してしまう思想と能力を身につけることこそ、密教的な作業であると、だからこそ、後年、空海は、護摩をも、思想化してしまって、護摩の火に薪という具体的なもの、即ち、煩悩が、瞬時にして、焼かれて消滅してしまうという(抽象化)を遂げるという、そういう考え方を持つに至るのか? 護摩業とか、雑密に今日でも連綿として、残っているものは、どのように思想化されてきたのであろうか?それとも、思想が何故、風化されて、単なる儀式行為としか、残らなかったのか? 密教には、二つの体系があると云う。一つは、精神原理を説く金剛経系、もう一つは、物質原理を説く大日経系で、前者は、インド僧、金剛智が伝え、後者は、善無良という、これも又、インド僧が伝えたと謂われている。金剛智は、これを不空に、更に、恵果へ、更に、空海へと伝えたわけであるから、成る程、インド僧たる般若三蔵について、空海が、長安の都で、サンスクリットを学んだとしても、何の不思議はない。更に云えば、キリスト教の宣教師である景浄とも般若三蔵が深い関わり合いを有するとなると、もはや、大日経の経典を入手するという目的だけではなくて、広い意味での当時の中央アジア・インド・ペルシャ・イラン・唐に至る文化的宗教学的な視点が、実は、密教の誕生には、深く、関わっていたのかも知れない。そう思うと、文化交流というもの、宗教の成り立ちにも、様々な、国籍の錚錚たる異国のメンバーが、広く、深く、何らかの形で、直接的にも、間接的にも、関わっていたことが改めて、再確認されよう。それは、これ程、旅が便利になった今日でも、はるかに、想像を超えるものである。単なる大乗仏教と小乗仏教という二つの流れで、アジアへ、仏教が伝播したという単純な問題ではなさそうである。 しかも、西域人であろう不空:インド僧たる恵果:日本人留学僧である空海という系譜の中で、この二つの異質な流れが、互いに、反撥しあい乍らも、生き身の精神の中に、相克しつつ、この両部を一つに、「両部不二」として、空海の中で、止揚・完結されたという事自体が、驚くべき歴史的な事実なのかもしれない。しかも、その密教は、中国では死滅し、国境を超えて、曼荼羅や経典、秘具も含めて、空海により、日本にもたらされたという事実。その意味でも、精神原理と物質原理との双方からのアプローチとしての密教を考えると、今日の素粒子理論やニュートリノ実験の課題なども、まんざら、素粒子だけの問題ではなくて、宇宙理論、物質とは何から出来ているのかという永遠の課題にも、行き着いてしまうほど、底流に、共通項があるようにも思えてならない。 そう考えると、印を結ぶとか、密語を話すとかも、そういう観点からも、考察する必要があるのかも知れない。 何かの番組で、千日回峰を達成した阿闍梨の様子を見たことがあるが、解脱したような老僧の風貌ではなくて、まるで、極地から生還し立ての冒険家のようなエネルギーに、あふれたような風貌であったことを想い起こす。さすれば、若い時の空海という者も、恐らく、当時は、そんな風貌で、山野を跳び回っていたのであろうか? 話を元に戻すことにしよう。 下巻: 千人もの門弟を有すると云われた、金剛界と胎蔵界の二つの密教の世界観を同時に、修めた恵果和尚、しかも、その人生が終わろうとするまさに最後の僅か7ヶ月前に、空海が現れたというその奇蹟にも近い、偶然性、更には、その後、密教自体が、中国でも、消滅してしまったという事実を考えると、得がたい絶妙のタイミングであろうか。 恵果和尚による法を譲り渡すときに行われる灌頂(結縁灌頂・受明灌頂・伝法灌頂という3種類:)の前での投花の儀式での二度に亘る奇蹟、中央の大日如来の上に、投げた花が落ちる。この二回ともというものも、又、偶然なのか?それとも、必然だったのであろうか?そして、恵果より、大日如来の密号で、本体が永遠不壊で、光明が遍く照らすということを意味する、「遍照金剛」という号を与えられる。 灌頂を受けつつも、僅か三ヶ月で両部の秘密(象徴)を悉く学び、二百余巻もの根本経典も原典・新訳・漢語訳を含めて、これらをすべて、独学で、修得したという離れ業。 天台宗を体系自体を全部、国費で仕入れに渡った最澄とは異なり、空海は、謂わば、私費で、経費も与られずに、密教を一個人として、留学生(るがくしょう)として、請益してしまう。しかも、長安での滞在は、僅か2年に満たないで、本来の20年分の経費をも、惜しげもなく、一挙に、曼荼羅や密具への謝礼や経典写経の経費に充ててしまったのである。そして、帰国のタイミングも、後から考えれば、これを逃していれば、帰国できなかったかも知れないという、奇蹟に近い絶妙なタイミングである。入唐時での偶然の漂着、帰国に際してのタイミングという奇跡的僥倖、幸運の強さ、更に、「異芸、未だ嘗て倫(たぐい)あらず、」と唐僧から謳われた異能は、どこから、培われたのであろうか?生来、その人間が有していた固有の才覚なのであろうか?書道の達人、帰国後の三筆と称せられた嵯峨天皇との関係、或いは、長安での文化人との交流、帰国時での詩文の交換など、入唐に至るまでの現地交渉過程での文章力、漢文作成能力、など、こんな多彩な異能は、どう考えたら良いのであろうか? 帰国後から上京までの謎の期間を、必ずしも経典資料の整理の期間とは考えず、むしろ、自分に宗教的、政治的に有利な環境が醸成されるのを意図的に、待ち望んでいた感があると、司馬は解釈する。桓武天皇の死がその後の最澄の政治宗教上の苦境を徐々に、迫ることになる。天台宗が公認されたにもかかわらず、奈良六宗に対する否定的な立場と彼らからの反感を持たれるという相克を生み出すが、空海は、逆に、むしろ、親近感と排撃することをしなかったという政治状況が皮肉にもやがて、醸成されてくる。 最澄は、宮廷に、一定程度の影響力と旧仏教勢力との対決が不可避であったのに対して、無名に近い空海は、むしろ、逆に、それを有していなかった、そのことが、むしろ幸いしたのであろうか? 最澄は、天台過程を止観業と呼び、密教過程を遮那業と呼び、二つを同格視し、伝法公験という証明書紛いまで発行させたことは、密教を飽くまで、仏教の最高地位に位置づけ、これを教学・筆授ではなく、人から人へ秘伝として伝えようと目論んだ空海とは、密教それ自体に対する考え方で、徐々に、相容れなくなる。最澄が、仏教を人間が解脱する方法を道であると考えて、経典を基礎とした教えに、重きを置き、釈迦から自分はこう聞いたということが書かれた経典を中心に、一つの体系として、これを必要とした。むしろ、奈良仏教には、この体系がないとした。 さて、ここで、鎮護国家という考え方:護国思想という罠:について、考えてみよう。 誰一人として、密教伝来の正嫡という、嘗て入唐した日本人僧が得られなかった栄誉を単なる一留学生たる空海が、与えられたという事実。これは、最澄ですら、否定できない事実であろう。空海は、自分が、遠い異国からやってきた異種・異能の者であるという、人種・国境・身分を超えた普遍的な宗教思想家であるという自負、自意識、日本の矮小性を初めから、自覚していたのかもしれない。仮にそうであるとすれば、世俗との関係性において、皇帝とか、貴族とかを認めていたとしても、その宗教上の思想性の展開については、必ずしも、自身の経験と唐での様々な国との、今で謂う外国人との人的文化交流や生活から、そういう類の階層・身分に固執することはなかったのかも知れない。むしろ、異国での異文化交流や様々な宗教に広く触れ、且つ、言語の段階から、直接触れることで、謂わば、当時のコスモポリタン的な視野に、立脚できたのかも知れない。その意味では、国家護持仏教であるにもかかわらず、必ずしも、国という小さな枠では、守れない視点があろう。後の世での高野山の既得権益化と政治支配者化を考えたときに、宗教家の於かれた政治的・社会的な情勢は、権力による庇護なのか、対立・構想へと突き進むのかが、微妙に、別れるところである。 華厳経の世界を具象化した毘廬遮那仏(大仏)が鎮まっているという東大寺の政治的な位置、 新しいものが、旧いものを駆逐するという考えの中では、何故、共に、外国から入ってきた旧来の奈良仏教も、最澄・空海の新しい仏教も、併存する形が可能なのであったのであろうか?純思想的な、或いは、宗教上の純然たる論争による結着ではなくて、むしろ、当時の経済的、政治的、社会的な理由と取り巻く環境の要因が考えられるのであろうか? 平安朝に於ける藤原氏や薬子の乱や道鏡による政争の影響から、或いは、唐での政争を経験することで、安禄山の乱より、如何にして、自身の思想・宗教を守るのか?影響されることなく、如何に守るのかに腐心したのかも知れない。鎮護は、決して、根本的な鎮護国家仏教へと、空海の場合には、繋がるモノではなかったのではないだろうか? 顕教と密教:顕教とは、外側から理解出来る真理で有り、密教とは、真理そのものの内側に入り込み、宇宙に同化するという業法と理論で、空海は、真言宗という体系を樹立することで、密教が顕教をも包含する最高の仏法であるということを、自ら、体現し、明らかにしようとした。顕教を棄教して、宇宙で唯一の真理である密教を、身体と心で、挙げて服することが、本当に、最澄には、出来るのかと疑い始める。書物による伝授法、経典の借用、写経や筆授は、密教に於いては、あり得ないという空海の立場、師承という形以外に、秘事に類する重大なことを含めて、密教は決して相続されないものである。 泰範という最澄の弟子の改宗というエピソード的な出来事についての考察、: 経を読んで、教養を知ることは真言宗では第二のことで、真言密教は、宇宙の気息の中に、自分を同化する法である以上、まず、宇宙の気息の中にいる師につかねばならす、その師の指導の下で、一定の修行期間が与えられ、心身を共に、没入することによってのみ、生身の自分を仏という宇宙に近づけられ得る。宇宙とは、自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、すべての活動という三密(動作・言語・思惟)を止まることなく、旋回しているが、行者もまた、この宇宙に通じる自己の三密という形で、印を結び、真言(宇宙の言葉)を唱え、そして、本尊を念じ、念じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことは出来ないし、筆授では、決して、成し遂げられないと考えられた。最澄は、密教の一部を取り入れようとし、決して、密教そのものの行者になるつもりは決してなかったのではないか?だから、灌頂を受けても、あとは、書物で、密教の体系を知ることが可能であると、考えていたのであろう。最終的には、伝法灌頂を授けずに、程なく、経典を貸すのみで、両者は、その途中の紆余曲折の過程は別にして、結果として、断交状態に近い形になる。 飛白書という奇抜な書体についてである:書というよりも絵に近い、文字によって、筆も変えなければならない。能書は、必ず、好筆を用うと、南帖流の王義之や北魏流の顔真卿らの書風・書聖に話は、移ってゆく:「書とは、自ずから己の心が外界の景色に感動して自ずから書をなすもの」であり、「万象に対する感動が書には、籠もっている」と、更には、「書の極意は、心を万物に散じて心情をほしいままにしつつ万物の形を書の勢いに込める」のであると、「すべからく、心を境物に集中させよ、思いを万物に込めよ」、更には、「書勢を四季の景物にかたどり、形を万物にとることが肝要である」と、何とも、悪筆の自分などは、いつも、PCのタイプの助けを借りなければ、文章を書けないのに対して、誠に、苛烈な容赦ない言葉である。 しかも、その書体自体が、思想的な論理構造にも、何らかの形で、関係しているとまで、云われると、もはや、グーの音も出ないし、おおいに、悪筆を恥じ入らざるを得ない。 空海の書には、「霊気を宿す」とまで云われると、何をや、謂わんであろうか? 自然そのものに、無限の神性を見いだすという考え自体、自然の本質と原理と機能が大日如来そのもので、そのもの自体が、本来、数で謂えば、零で、宇宙のすべてが包含され、その零へ、自己を同一化することこそが、密教に於ける即身成仏徒でも云えるのか? 入定という思想:空海は835年に、紀州高野山にて、62歳でその生涯を閉じる。奥の院の廟所の下の石室において、定にあることを続け、黙然と座っていると信じられている。後年、俗化してしまった高野聖や高野行人や後世の中世半ばの荒廃を思うとき、その思想性の高邁さと孤独性が感じとられる。入定と入滅とは、おおいに異なり、この世に、身を留めて、定に入っているだけであると。一切が零で有り、且つ、零は、一切であると云う立場の空海が、「留身入定」という考え方を、信じながら、なくなっていったとも、考えられず、後世の結局は、言い伝えなのであろうか?「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなむ、」とは!!、「薪尽き、火滅す」と弟子の実慧は、師匠の死を唐の都にも、伝えている。 風速計で、風力の速度を知ることが、顕教とすれば、密教は、むしろ、風そのものですら、宇宙の普遍的な原理の一部に過ぎず、認識や近くを飛び越えて、風そのものになる(化ける)ことであり、即身にして、そういう現象になってしまうにしても、それはちっぽけな一目的で、本来は、宇宙の普遍的な原理の胎内に入り、原理そのものに化してしまうことを究極の目的とする。当時の宗教のレベルは、1200年も経った今日でも、誠に、不可思議で有り、「人間の肉体は五蘊(ごうん)という元素が集まっているものである」そうであるが、確かに、般若心経の一句でも、「照見五蘊皆空」(ショウケンゴウンカイクウ)「度一切苦厄」(ドイッサイクヤク)となっている。よくよく、文字の一語一語をしっかりと理解して、読経をしなければならない。まるで、ナノテクか、原子物理学の世界に迷い込んでしまいそうである。それでは、ひとつ、般若心経でも、唱えてみることにするか?さてさて、いよいよ、四国巡礼、阿波足慣らしのまずは、決め打ち準備に、掛かろうとするか!?足許不如意だから、サイクリングで、ゆっくり、ゆくとするか?雨が心配であるが、考えてみれば、雨も又、自然、宇宙の一部に過ぎないのであれば、自分も又、同様なのであろう。そう考えれば、濡れることも当たり前なのであろう。恐るるに足りぬか?でも、やはり、レインコートは、必要かな?一応、リストに入れておこう。

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    投稿日: 2015.06.04
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    空海と最澄が決別するクライマックスは面白かった。全編を読んで、空海という人物が人気の理由、密教と他の仏教との違いがハッキリ感じられた。

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    投稿日: 2015.01.28
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    大学生のとき読むのを断念し、あれから何年が経ち、もう一度トライ。 よかった、スラスラ読めました。 全集でなかったからか、知識が増えたからか。 でも今までの司馬作品の中では一番難関だったのは確か。 途中の長安描写には心躍るものがあった。 結局、密教とはを一言で語るのは難しいのだろう。 司馬氏ほどをもってしても。

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    投稿日: 2014.07.21
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    周辺を描くことで空海自身を浮かび上がらせる。斬新な方法を選択した司馬さんのエネルギーに驚かされる。天才なのに聖人ではなく人間くさい空海。ひとつ間違えば山師かも、、、

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    投稿日: 2014.06.06
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    無知な私には難易度の高い小説だった。 けど、とても興味深く、勉強しながら読み進めた。 空海が人間らしくて少しだけ身近な存在に感じられた。そして、最澄のことがとても気になる。もっと勉強しよう。。 先日、高野山に行ったので、近々比叡山に行こうと思う。 とにかく司馬先生はすごい!

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    投稿日: 2014.06.02
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    上巻のほうがワクワク感があって面白かったな 最後の方は全然小説ではなくなってました。 随筆?評論?みたいな しんくうこんこう、てんさいひえん (真言宗・空海・金剛峯寺・高野山)(天台宗・最澄・比叡山・延暦寺) この語呂合せ(自作です!)しか知らなかった空海と最澄が、経典を貸し借りしたり、手紙を送りあったり、絶縁したりしていたなんて。 それだけでもう面白かった。 薬子の妖しさやら平城天皇の神経症っぷりやら嵯峨天皇の空海びいきやら橘逸勢の捻くれっぷりやらも面白い。 生命と欲望を肯定する密教が、空海の死後生殖崇拝的、形而下的になってしまったというのが興味深かった。 もし最澄を主人公にしたら空海はどれだけ悪者にされるんだろう その道の人の間では空海の最澄への仕打ちには悪名高いものがあるらしい 笑 空海が人生を懸けた密教をひと夏で全て譲ってもらえると思ってしまう最澄もどうなんだと私は思ったんだけども…

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    投稿日: 2014.01.07
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    空海の風景、下巻。 空海さん774年-835年の評伝というか平安初期の歴史書というか、小説というか。 という不思議な本です。 下巻は、遣唐使として中国に入ったところから。 当時世界最大規模の文化のカオスであった大都市、シルクロードの拠点・長安。 その長安での数年間、空海は書でも漢文でも最高峰ともてはやされ(「日本人にしては」ではなく、です)。 密教の中国最高権威の僧から全ての奥義を伝えられ。これも、日本支部として、じゃないんですね。 何千人という中国人の修行僧の中でも最高だ、と認められたんです。 2年くらいでですよ。いきなり横から入って何千人とごぼう抜きしてNO.1になったんです。すごいですねえ。 唐の皇帝に面会してその才を褒め称えられ。 長安の文化人全てに惜しまれながら日本に帰国します。 この長安の日々ってすごいですねえ。 今で言うと・・・なんて言えばいいんですかね。 例えて言えば、島根県の若者がサックスを吹いてジャズを志して、ニューヨークに渡り。 あっという間にニューオリンズやパリや世界中からNYに集まってるジャズ界でトップと認められ。 スタンダード曲の解釈から新曲創作、前衛的演奏まで幅広くトップに君臨し。 英語のみならずスペイン語とフランス語くらい使いこなし。 音楽界にとどまらず、文化全般の名士になり。 毎日のようにニューヨークのあちこちで、クラシック音楽家、詩人、映画監督、評論家、作家、写真家、ロックスター、といった人々とサロンに集い。 最先端の刺激的な芸術論を戦わせ。即興で演奏して喝采を浴びて。 アルバムを発売し、ニューズウィークで特集され。全米ネットのニュース番組でキャスターにインタビューされ。 黒人白人アジア人フランス人に北欧人、多種多様な人々や文化と日々出会い。 女優、モデル、バレエダンサー、オペラ歌手・・・美女に常常囲まれて・・・。 という数年間を送った、島根県出身の男が。 皆に惜しまれながら、島根に帰るんですね・・・。島根県にジャズを、音楽を、文化を、伝えて根付かせる為に・・・。 とまあ、そういうかんじですね。島根の人がいたらごめんなさい。素敵な土地ですよね。出雲大社も改修工事終わったそうですし。うん。 で、まあ、こういう例え話で押していくとするとですよ。 空海さんとしては、後ろ髪引かれながらも、島根に帰るわけですよ。 そしたら、まず第一に。 「なんかさ、空海って人、ニューヨークで結構がんばってたらしいよ」 「なんかさ、ウィントン・マルサリスっていう第一人者が、空海が最高だ、って褒めたらしいよ」 「それぁすごいね。ところでそのナントカ・マルサリスって誰?サザンのメンバー?」 とかって言ってるわけですよ。いやあ、つらいですよね。 その上、1年くらい前に、同じくアメリカから島根に帰った、最澄っていう人が先にいたんですね。 空海さんは、島根県のエリート階級の出身ではあったし、優秀ではあったけど、若い頃からジャズに惹かれてしまって。 その結果、音大にも行かずにふらふらと独学の日々だったんですね。だから、島根でも無名の存在で、私費留学でニューヨークに行きました。 ところが、最澄さんっていうのは、島根高校時代から、クラシック音楽、ピアノ演奏で神童と言われて、県知事賞とか取ってまして。 その最澄さんは、ボストンに住んでるクラシックピアニスト、ナントカビッチさんの研究をしたい、と志を持ちました。 で、それが県の教育委員会に認められ、県知事以下島根県の文化人県政人総出の万歳三唱で見送られて、官費で留学したんですね。 空海さんは、ジャズを求めるあまりに私費留学。 このふたりが、たまたま同じ飛行機に乗ってたんですね。 でも、最澄さんはビジネスクラス。ファーストクラス。 空海さんは、エコノミーですね。顔も合わせません。 真面目な最澄さんは、NY空港に降りますが、マンハッタン観光もせずにまっすぐボストンへ。 そこでナントカビッチに出会い、たっぷり音楽理論を聞いて、論文と音源を山のように貰って、2ヶ月くらいでさっさと帰っちゃうんですよ。 ところが、帰国便の乗り継ぎで、たまたまシアトルあたりで24時間フライト待ちになっちゃう。 それで、熱心だから、シアトル音楽大学っていうのがあるらしい。そこではジャズの研究をしてるらしい。 それはそれでついでに、勉強に行こう、と。訪れて、ちょっと講義聞いて、ジャズとは何か、みたいな論文をとにかくドバドバ貰って、それで帰国します。 肉体的経験よりも、書物から勉強して理解する、という方に軸足のある秀才だったわけです。 その上、この最澄さんは。読み書きは勉強の結果、完璧に英語ができました。 だけど、しゃべれなかったんですね。だから、県の官費で通訳がついてました。 一方、空海さんは。 この人はこの人で、島根では異常なまでの天才で。 島根中のジャズに関する文献や演奏を漁って記憶に叩き込んで、 なんと、しゃべりも含めて英語はペラペラでした。その上カタコトながらスペイン語も。 そしてNYデビューするや、サックス吹かせても天性の才気がほとばしり。 音楽理論も、実はクラシック音楽から民族音楽まで研究し尽くしている。 ウィントン・マルサリスをもってしても、ほぼ教えることがない状態。 っていうか、ライブハウスを数軒回るうち、「あの空海ってやつのサックスはクールだ」とNY中のジャズファンが色めき立つ。 その上、性格もアグレッシブで、英語もぺらぺらだから、2ヶ月もしたらもう、自分のバンドを組んでリーダーに。 1年後にはウィントンから「俺の唯一の後継者だ」とお墨付きを貰い。 ブルーノートでのライブは毎回ソールドアウト。 NYフィルの指揮者とも異種格闘技をして友情を結び、マーティン・スコセッシやコッポラに懇願されて映画のサントラも録音。 グラミー賞も新人賞とベスト・アルバム賞を受賞。ノラ・ジョーンズとも請われて共演、マドンナの新作レコーディングにも参加・・・。 何より、空海の打ち出したフリー・ジャズのスタイルが、「ジャズの来るべき明日」としてアメリカ全土とパリを震撼させる。 ジャズを志してNYに集まる若者たちは「ヘイ、マンハッタンにクーカイを聴きに行こうぜ」というのが合言葉になる。 カーネギー・ホールの殿堂入りを最年少で果たし、5番街のアーケードに、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンと並んで手形を刻まれる・・・。 というくらいの大活躍をするんですね。 で、覚悟をして、島根に帰るんです。その空海が見たものは・・・。 1年くらい先に島根に帰った最澄さん。 帰ったら、なんでだか、島根県全体で「なんだかさ、最新のカッコイイ音楽ってジャズっていうのらしいよ。聴いたことないけど」というブームになっている。 で、「最澄くん、アメリカ行ったんでしょ?ジャズって持って帰った?」ということになる。 最澄くんからすると、「あ、いや、俺はナントカビッチさんの研究に行ったんですけどね。でも、ジャズも一応シアトルで研究して持ち帰りましたよ」ということになる。 で、シアトルで4時間くらい勉強したジャズのお話をするんです。 で、まあ「こんなもんかな?」っていうジャズをピアノで演奏するわけです。 そうすると、島根県全体が喝采します。これがジャズか~!さすが最澄!って感じです。 もう、県知事からしてジャズの弟子になります!って感じで。即刻、できたばかりの島根総合芸術大学の学長、そして兼任でジャズコース主任教授、に任命されます。 と、いうところに、空海が、島根空港に降り立った訳です。 そしたら、なんだか、ニューヨークの最先端からすると、30年くらい遅れた、ダサダサの田舎ジャズが流れてます。 その上演奏は全然スイングしてないわけですよ。 そして島根県民が、「これがジャズだろ?最澄さんがもってきたんだよ!」ってノリノリなわけですよ。 もうなんか、悲憤、って感じですね。 という、空海と最澄の葛藤と対立が描かれていきます。 これは面白いですね。 最澄学長は、イイヒトなんです。空海よりかなり年上なんですけどね。 「いやあ、空海くん、君は僕なんかより、ジャズに関しては全然、格上ですよね。お恥ずかしいくらいですよ。  なんだけど、僕、島根総合芸術大学でジャズも教えなきゃならないから、悪いけど俺に、最先端のジャズっていうの教えてくれないかな?  しかも、正直言って俺、ジャズの音楽理論ってわかってないんだよね。モードってなんなの?アルバート・アイラーって人のCD持ってる?あ、貸して!聴いたことないんですよ。エリック・ドルフィーっていう人のCDもある?それも貸して!それからあと、えーと・・・」 という感じなんですね。 空海からすれば、 「だったらその教授職、今すぐ即刻、俺に譲れ!!  というか、それ以外でも、文学演劇映画絵画造形建築、  全ての面でお前、俺より下!!  アメリカ行ったくせにNY見てなくて友達も作れなくて、  そもそも英語を発音できないだぁ?  あぁ?ふざけてんのかお前?   島根芸術大学の学長すら俺に譲れっ!!!!  俺の前にひざまづけっ!!靴を舐めろ!!!」 って感じですよね。 人間臭いですねえ。でも、ちょっとイヤなヤツですよねえ。 いやあ、面白いですね。 で、空海さんは何年もかかって、自分の凄さを島根県民に、主に島根県庁と教育委員会に懇懇と教えていきます。 ・・・と、まあ、例え話が長くなりましたが、そんな感じなんです。 という人間模様と、平安初期の日本の政治界の俯瞰図を司馬遼太郎さんがサクサクと見せていきます。 その手際ったら、すごいですね。 毒婦悪女・藤原薬子の乱とか、当時の皇室のむちゃくちゃさとか、かなり興味深いです。面白いです。 正直に言うと、真言宗とか密教とか天台宗とか、教義的なことはサッパリわかんないんですよ。 でも面白いんです。 これがすごい。 終章あたりで、若き日の司馬さんが、戦前に高野山を初めて訪れた時の印象も語られます。 この辺、なんだか清浄として淡く面白い文章です。 空海、という、思想に語学に論理に文章に書道に美術全般から建築意匠まで、突出した世界レベルの天才。 そしてその天才のヒトとしての業、欲、喜怒哀楽。不当な不遇時代と、鳥が羽ばたくような栄光。 同時代に生きてしまった最澄。浅田真央と安藤美姫。モーツァルトとサリエリ。セナとプロスト。クライフとベッケンバウアー。メッシとロナウド。長島と野村。王と田淵。 これは、面白いです。 そしてやっぱり、空海のヒトとしての根っこは、栄光と青春と興奮と発見と刹那に包まれた、長安での季節だったのではないか。 それが、空海が私費を投じて作り上げた高野山の姿に現れているのではないか。 というのが司馬さんの観た空海の風景でした。 それはすごく、史実がどうこうを超えて説得力がありました。 高野山に行ってみたくなりました。 いやあ、関西に住んでるうちに読んで良かった。

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    投稿日: 2014.01.06
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    昭和50年度芸術院恩賜賞受賞。中国文明があくまで事実である史伝を尊ぶのに対し、インド文明は抽象的思考によって宇宙の原理をひきだし生命を原理の中で考える。普段歴史小説を読み慣れているものとしては、抽象的な宗教論が多く、理解するにはなかなか難しい部分もある。

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    投稿日: 2013.05.17
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    勘違いから手に取った物語だがあとがきでいう 『結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光を当ててその起伏を浮かび上がらせ、筆者自身のための風景にしてゆくにつれて、あるいは空海という実態に偶会できはしないかと期待した』 に引き込まれた. 2014年6月何を思ったか再読 期を合せたかのように寝たきりの父親の容態が変わり、時を措かずに逝った。 三七日を迎えたいま、ほとけは兜率天にでもあるのだろうか  不思議な本である

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    投稿日: 2013.03.27
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    このレビューはネタバレを含みます。

    空海と言うある種の超人について今もなお残る事跡を見てみたいと思った。 昔から高野山には空海が入定していまでも服や食事の世話をしていると言われているが、当時の資料に仏教者として荼毘にふされたとあるので、孔雀王とかに出てくる空海のミイラの話は嘘だと思う。 それから、司馬遼太郎は権力や権威と言ったものにネガティブな印象をもっていることはわかった。司馬史観というものも、その辺を割引いてみる必要がある。

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    投稿日: 2013.02.23
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    「歴史ってこんな感じで勉強するべきだよなぁ」って思います。 空海は真言宗の開祖で、弘法大師って呼ばれている・・・高校で地理を選択した私にはこれくらいの予備知識しかありませんでした。 司馬遼太郎の精緻で深い調査と考察で、当時の時代背景、中国やインドと日本の相違点などが、歴史の教科書の中では到底及ばない程鮮やかに感じることができます。まさに“空海の風景”が見えるようです。 歴史上の様々な事柄、人物に、この本のような形でアプローチしたいと思いました。歴史が古くなると当然に残存資料も少なく、このようなアプローチは困難になるでしょう。 比較的近い幕末などの歴史小説が多く、読者に受け入れやすい理由にもつながっているようにも思いました。 空海をここまで書ける司馬遼太郎の凄さも改めて感じました。

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    投稿日: 2013.02.19
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    上・下巻を通して空海の経歴を追いながら、彼の人柄、美意識や宗教観を司馬の卓抜した筆力を以って描出した作品。 私自身は顕密ともに仏教に疎く、本書に散りばめられた知識や世界観が宗教論的に正しいか否かはわからない。しかしながらそのような人でも、古代思想と人間の洞察という見地から本書を楽しむことは出来るのではないだろうか。 空海の多才は現代もなお各地で語り継がれ、日本人が憧憬を抱く「完全無欠の天才」の典型である。 確かに、彼は多才であった。唐から最先端の教学を導入して日本式に換骨奪胎し、体系化させた。五筆を自在に操り、複雑な密具の美装を指導し、満濃池の灌漑工事を行った。 ところが、本書の中の空海は、才に溢れながらも、やや人間的な部分も多い。

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    投稿日: 2013.02.03
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    空海の後半生。 思想家としての精緻さ、強靭さに加え、政治的にも敏な人であったとのこと。 この巻ではやはり、最澄との確執が中心となっている。 密教を一つの体系と捉える空海と、天台の一つの部門と捉える最澄と。 遺っている書簡を丁寧に読み込んでいく件には惹きこまれる。 上巻のレビューにも書いたが、この本は「小説」らしからぬ叙述のしかたを持つ。 そういう叙述スタイルをとった理由は、この巻の二十八にある。 空海との時間的な距離の遠さによるものだとあった。 だから標題も「風景」という茫漠としたものになったのだ、と。 予想通りではあったけれど・・・フィクションに仕立てなかったところに本書の価値がある。 でも、それは司馬遼太郎というビッグ・ネームだからできたことなんだろうとも思った。 下巻二十八には、空海の書についても踏み込んでいて、印象深かった。 唐で空海は顔真卿の書に触れていたとある。 多彩な書風を身につけ、内容や相手に合わせ自在に使い分けていたと。 一方、最澄は規範とされていた王義之流を守り続けた人だとあり、こうした点での二人の対照も面白かった。 司馬は、空海の大きさ、天才をよく理解していながらも、やはり言葉の端々に最澄への同情がにじみ出ている。 本文には、空海の激越な書簡の表現には、真言宗の僧侶たちでさえ、ばつが悪そうにしている旨のことが書かれているが・・・。 天台や真言、密教についてはまったく不勉強な状態で読んだ。 もちろん知らないことを知る楽しさはあったけれど、注意深い読者であったとは思わない。 いずれ仏教そのものに興味を持つようになってから再読したら、印象が大きく変わる本なのかもしれない。

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    投稿日: 2012.12.29
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    求道者、覚者として空海を描く。救済者としての面は描かず。ゆえになぜ民衆にあそこまで渇仰されているかが?。宗教的体系のすごさは分かる。

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    投稿日: 2012.11.06
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    空海というニンゲンのスケールが、余すところなく 書かれていて、読み終えて しばし呆然とした・・。 24歳(18歳)までの 『三教指帰』をかくまで 31歳の 空白の期間から 遣唐使になるまで 33歳の 唐での生活 唐から日本に戻って 空海のしようとしてきたこと 空海と最澄・・・空海の入定 この5つの部分が 太い タッチで描かれる。 この空海は タダモノではない・・・。 15歳で讃岐の国を出て 24歳で『三教指帰』をかいた それが、戯曲風で、その代表的な意見がはっきりする中で、 『儒教』『道教』『仏教』の3つの宗教をつかまえていたこと。 空海は 儒教の限界を見抜いていた。 それが、大きな思想を創ることになっていく原動力だった。 儒教のこの評価はかなり、日本の国の姿を現しているようで おもしろい・・・。 空海が 長安で『理趣経』にであうことで、 人間の欲望というものに対して・・・ 納得のいく 方向を見出したことは大きな意味を持つ。 ここでスケールが大きくなるのであるが・・ 恵果より 密教を 受け継ぐことで、 真言(真の言葉;宇宙の言葉)宗そのものの体系ができることになる。 しかし、恵果の潔さはなんと言うことだ。 1000人近くの門弟がいながら、 その奥義を惜しげもなく、空海に与える。 恵果は 空海にすべてを伝授して 没する。 空海というニンゲンの偶然といえない必然としての宿命。 チャンスを最大限生かした・・ 空海が優れているのは、 『語学』に対して類まれなる才能を発揮し 唐の言葉、サンスクリット語などを次々にマスターしていく このことが、直接 経典を自分のものにする 大きな力となった・・・ 長安が インドからの仏教、ゾロアスター教などの さまざまな宗教が集まっているところが、 空海を大きく刺激した・・・ 長安の文化水準の高さ、そして、空海の並々ならぬ力量。 最澄は 長安に 行かなかったことは その刺激を十分に受け取る意味さえ知らなかったのかもしれない。 アジアなどの文化の中心的な位置に長安があった。 空海は 唐から何を学び、日本で何をするのか を知り尽くして 20年の留学期間を2年できりあげる。 わずか・・・2年 という時間だけで、 空海の成し遂げた 多さに驚くばかりである。 『空海の風景』は・・時代の背景を書くことで、 その当時の人々が 浮き彫りになる・・ 『不空』という存在が・・『空海』を創っていく。 この『不空』が、大きな意味を持っている・・・。 玄宗と楊貴妃の時期の不空の活躍が・・・ 桓武 平城 嵯峨 という変わり目に 唐の歴史を学ぶことで、空海は乗り切っていく。 空海という人生は 全力疾走するように 日本の 800年前後を 貫いた・・。

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    投稿日: 2012.10.25
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    本書の柱として 同時代にいた、もう一人の仏教界の巨人・最澄との対比が書かれております。 無理やり例えるなら、 ほとんど無名の私度僧でありながら、その天才ぶりをいかんなく発揮する空海がアマデウス、 地位も名声もあり、皇室ご用達の僧、最澄がサリエリといった感じでしょうか。 しかし、サリエリ的執着心は空海の方に見られます。 とにかく、最澄の境遇を妬む、羨む。 一方、最澄は地位も名誉もあり、しかも空海より年長でありながら空海の才を高く評価し、頭を下げ弟子入りを懇願するような謙虚な人です。 そしてそれを、空海は婉曲に拒絶。 「弘法、筆を選ばず」という慣用句がありますが 空海のメンタリティーからして、俄に信じがたいです。 そもそも、当時の仏教思想として 「本質的(来世)なものが充たされたら、 その過程(現世)はどうでもいい。」という思想があり。 それに対し、過程(現世)も大切だ。 と唱えたのが様式を重んじる空海の密教です(たぶん) 実際、空海の道具に対する執着心は強く。 様々な装具を自作したとされてます。 当時、兎毛と羊毛しか筆はなかったが、わざわざ狸の毛を使った筆を最初に作ったのが空海だと言われております。 また、本書では割愛されてましたが 「東寺を増築するにあたり、わざわざ稲荷神社の木を使った」というのは有名な話です。 おそらくこれは、神道に対する「挑発」もしくわ、真言密教の他宗に対する「地位・権力の誇示」と想像してしまいます。 本書の最後「あとがき」に司馬先生の衝撃の一言が載っております。 「私は、日本の思想史上、密教的なものをもっともきらい、・・・」 (しかも、マイ・フェイバリット坊主は親鸞) ナヌ!!  絶句です。 ひょっとしてこの本は 「最も澄んだ」男を名のる最澄を通して空海の現世利益に執着する浅ましさを描きたかったのだろうか?? なんとなく空海に興味を持ち、本書を読み進め、読み終わるとすっかり最澄のファンになってしまう・・ 恐るべし、司馬遼太郎。

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    投稿日: 2012.07.26
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    歴史上の巨人「空海」を「最澄」を引き合いに、明るさ、胡散臭さを語り、人間性、また超人ぶりを説く。金剛峰寺や東寺の人の話が間に入るのも興。12.7.25

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    投稿日: 2012.07.25
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    司馬さんは性欲のある主人公が好きみたい。色気のなかった人でも、性欲を別なものに昇華させているとか。司馬さんのこじつけか、偉人はみんな性欲が強いのか。わかりません。

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    投稿日: 2012.07.20
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     上巻の空海の出生から出家まではほとんど聞いたことがないお話ではまってしまいました。阿刀大足が、空海の『三教指帰』にかかれている亀毛先生のモデルというのも....興味深いです。  また、不空-恵果-空海、インド-中国-日本という線がめてうかびあがってきたのも、意外な収穫。急にインドが近づいてきた感じです。  最後の最澄とのやりとりに関しては、よく色々なところで聴いていたお話ではありましたが。あらためて二人の人物像を想像し、時代背景を考えながら読みますと、台詞の解釈が深まってきそうです(司馬先生の台詞の解釈にはすぎませんが)。

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    投稿日: 2012.04.15
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    「空海の風景」上下巻読了 司馬遼の言い回し全開で、まどろっこかったが、最澄と対比させて空海の人柄を描こうとすればするほど、嫌なやつという印象を受けた。ただ、密教自体は顕教よりも個人的には納得。

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    投稿日: 2012.02.15
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    やっとよみおわった。。。高野山を開いた空海はとてつもなく多才だったこと、また同時代の比叡山を開いた最澄は尽く空海に劣っていたという印象を持ってしまった。奈良から平安にかけての遣唐使のなんとも頼りない船旅と、唐に着いてから空海の天才ぶりで切り開いていく珍道中はアドベンチャー的で面白かったな。機会があれば真言密教についてもう少し探ってみよう。確か孔雀王(マンガ)も真言密教だった気がするな。

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    投稿日: 2012.01.18
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    このレビューはネタバレを含みます。

    62歳で様々な事業を行った空海。30年も長く、この世にあったならと考える。それにも増して、司馬遼太郎が長く書いて欲しかった。

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    投稿日: 2011.11.06
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    高野山を作ってそこでの活躍を描くと思いきや、そういうことは少なかった。東寺も空海だった。そういえば、毎月21日は弘法さんと言ってボロ市が出るものね。やはり、1000年以上も昔の話なので、ちょっとぼんやりした内容だったなと。超人っぷりは今一つ分からなかった。

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    投稿日: 2011.10.15
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    唐で真言第八祖となった空海。そして帰国後、桓武、平城、嵯峨と代替わりする朝廷の政治状況が空海の生き方に影響を与えます。 大陸文明と日本文明の結びつきを達成し、哲学宗教文学教育、医療施薬から土木建築まで八面六臂の活躍を続けます。

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    投稿日: 2011.10.06
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    【58】 須藤元気のお遍路に感化されて読み始めた本。正直かなり読み辛かったが、途中から司馬遼太郎の世界に引き込まれた。 普通の歴史小説ではなく、空海を廻る歴史的事実をもとに、行動や心情を推測していく、という貌をとっている。 唐朝や僧侶をも唸らせた天才であり、政治的手腕に長け、ある種山師的な部分も持ち合わせていた空海と、愚直な最澄との対比を軸に話が展開する。 2011.6.7読了

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    投稿日: 2011.05.26
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    帰国して1年、空海は京へ上らなかった。これは自分の名声を広めた上で入京しようとしたためか。 その後、槇尾小寺に仮住。1年程度、独自の密教体系を作る。 南宗6宗の僧らと深く交わる。(対最澄のため) 恵果の師匠である不空と自分を重ね合わせていた。 自分は心理を得ていると自負し、国を対等に見ていた。 薬子の変を奇貨として、国家鎮護の祈祷を行う。 37歳で東大寺別当となる。 空海は南宗に多少の価値を認めた。理趣経や四度加行のことだが、空海の影響を受けていた。 密教は文章では伝えることができない内容もあったが、最澄は文書で知識を得ようとして、空海はこれを軽蔑した。 最澄からの書物貸し出し願いの文に対して、懇ろに断っている。 最澄は空海に密教の教えを請うべく、会いに行く。空海は懇ろに断る。 最澄の弟子・泰範、空海の弟子となる。 当初は最澄に密教の全てを教えると言った空海であったが、筆受ばかりする最澄に不信の念を抱く。 空海の完全性に対して、最澄は自らの教義を完成させておらず、あせりの中で泰範を戻そうと必死の文筆活動を行う。 泰範との絶縁後、最澄は他宗との交流が少なくなり、閉鎖的になる。 空海は、帰国後、書を書き、綜芸種智院を作るなど様々な能力を発揮する。 金剛峯寺は空海の存命中は小さかった。また官寺ではなく私寺であったため、資金が少なかった。 空海は東寺を官寺としてもらい、密教寺とした。そして他宗の者が密教を学ぶことを禁じた。 死の前の晩年、密教はない法華経の講義を行う。 死して荼毘に付された。入定説は1、2世紀後から成立したのだろう。 「空海の風景」の風景は、資料が少ないため、具体的な空海象を描くことができないため、歴史的な事実を書くことにより、空海象を浮かび上がらせようとした。そのため風景という名前を入れた。

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    投稿日: 2011.03.06
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    やっと下巻、読み終わりました。 慣れたからでしょうか。上巻で気になっていた、仮定に仮定を重ねていく、あたかも砂上の楼閣の様な表現も、違和感なく読めるようになりました。 ・・・が、しかし。やっぱりどこか腑に落ちない 仏教なり空海なり平安時代なりにもうちょい詳しければ、著者の思索の飛躍に対しても、もっと違う捉え方ができたんじゃないかなあ~、と思います。 何はともあれ、「仏教をもっと知りたい」と感じることはできました。

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    投稿日: 2010.11.22
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    空海が、この国の歴史のなかでめずらしく人類的存在であったとすれば、…空海がそうであるためには、かれは異国からきた異種の人でなければならなかった。(126頁)

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    投稿日: 2009.05.31
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    空海は日本の歴史上の男の中でも 一番、パンクな人だと私は思う。 政治に利用されるために中国に渡ったんじゃないもんね。空海の頭の中には宇宙があったんだ。 密教が宗教の中で好きかどうかということよりも、空海が好き! そういうミーハーな読み方をしてもバチはあたらないとおもうのだけど。。ノウマクサンマン。。。

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    投稿日: 2006.05.09