
総合評価
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powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
いやあ~これはキリスト教のことを理解していないと、なおさら理解できないですね。 真実のキリスト者として生きることがキェルケゴールの生涯の念願だったそうなので。 というわけで、さーっと流し読みしてしまいました。延々と「絶望」について描かれており、感心するフレーズや持論があっても、その理由を理解するには、私がキリスト教のことが分からないと、ホントに分かったことにはならないと思いましたので、断念しました。
0投稿日: 2025.10.12
powered by ブクログ2025/03/21 死に至る病とは絶望のことである。 キェルケゴールの言う「絶望」の定義が理解できない。 ここでいう「絶望」とは、自分が求める望みが一切叶わない状態ということで合っているのかな。すみません、よーわからんです。
0投稿日: 2025.03.21
powered by ブクログ過去課題本。文句なしの名著だが。キリスト教に興味のない人や、キリスト教に悪イメージを持っている人には、無意味な本でもある。
0投稿日: 2024.12.25
powered by ブクログ実存主義の創設者と言われる哲学者キェルケゴールの主著。 死に至る病とは、要するに絶望(死にたくても死ねない状態)のことで、これを解決するには信仰しかないとのこと。 読み始めて、早速このような難解な書を読むためにはどうすれば良いかという問題に直面したので、無理矢理にでも自分自身の問題に置き換えるという方法で読み進めた。 まずは第一編の以下の冒頭は「自己」に別の言葉を入れることで、読者各々の実存(生きるとはどういうことか)を取り出すことが可能だと思った。 「人間とは精神である。精神とは〇〇である。〇〇とは〇〇自身に関係するところの関係である」 (私は〇〇に「運命」や「笑い」を当てはめて読み進めてみた) また、絶望は以下の4パターンに区分されるとのことだが、自身はどれに当てはまるか考えながら読んだ。 ※念のためパターンを記載しますが、これだけでは意味不明。 ①無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。 ②有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。 ③可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。 ④必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。 私は③だったが、③は現実を生きておらず夢想ばかりしている人向けである。 夢想している人間が現実に戻ってくる時に現実に必然性を持ち合わせていなければ、生きることができず、また夢想へと向かうのである。 最後に最も重要だと思うことは、本著を書いた当のキェルケゴールが絶望していたということである。 彼の父親は子供達は若くして死ぬと信じており、キェルケゴールに「可愛そうな子よ、お前はやがて絶望のなかに陥る」と言い放ち、幼く柔らかい心に呪いをかけた。 (実際に7人兄弟の5人は早死にし、1人は精神病で入院した、キェルケゴールは街中で倒れ死ぬ) またキェルケゴールは突然に愛していたレギーネとの婚約を破棄し、レギーネは思い留まるように彼に泣きついたが、結果絶縁した。 そして怠慢なデンマーク教会に改革を求め、教会闘争中に道ばたで倒れて42歳で死んだ。 元来の自意識、父親の呪い、愛する人との絶縁、腐敗した教会。彼はこの絶望から救われたのだろうか。幸せだったのであろうか。 少なくとも彼は自殺していない。精神病で寝床に伏してもいない。(それは決して悪いことではないが) 彼は背後に存在する絶望を決して人生に連れて行こうとせずに、むしろ周り右して、信仰とその知性を持ってして絶望に突進しに行った。 その凄まじい程の衝突は意図せず、キリスト教から実存主義を生んだ。(キリストが意図せず、ユダヤ教からキリスト教を生んだように) ここで、ミラン・クンデラの小説「存在の耐えらない軽さ」の言葉を引用したい。 「悲しみは形態であり、幸福は内容であった」 「絶望は形態であり、幸福は内容であった」という現象もあり得るのではないか。そして、その幸福とは「生き抜いた幸せ」ではないだろうか。(キェルケゴールはそれを信仰と呼ぶだろう) 読者の私自身、物心ついた頃から現在に至るまで希死念慮と友達だが、そういう意味ではキェルケゴールは絶望の大先輩である。 しかし、私は知性も信仰もない。 どうすれば良いのだろうか。 ただ、確かに分かっていることは自分より遥かに絶望した人間が、この世界には間違いなく存在したということである。 それが分かっただけでも、だいぶ良い。 ★追記 本書には次のような文章が出てくる。 「罪は無知である。これが周知のようにソクラテス的な定義である。」 無知は罪?ソクラテス、こんなこと言っていたっけ?と調べてみると、案の定キェルケゴールのお手製だった。やってるな、キェルケゴール(笑)
4投稿日: 2024.09.22
powered by ブクログなぜそこまでキリスト教を信じ切れるのかが私にはわからないだけに、思索の根幹に疑問を持ってしまう。結局は神を否定したら意味を失うのではないか、と。 後半は神とキリスト者をどれだけ賞賛したいのかという感じだったけど、思慕だったのかな?
0投稿日: 2023.12.24
powered by ブクログ宗教観を前提にしているところは宗教だなあと思うだけなのだけれど、自身らをまさに擁護するために対比せられる世間や異教徒への眼差しがなんというか思いのほか俗っぽくて、それのほかにもたとえば自己喪失のくだりなんかも書かれていることがあまりにも当たり前で、まあそのあたりはエッセイでも読むような気で読み進めたけれども、第二編にはいっていよいよ宗教色が強くなるとさすがにどうでもよくなってきてしまった。
0投稿日: 2023.03.02
powered by ブクログさて、読み終わったが、かなり分からなかった。キリスト教的価値観についてはこれまでかなり勉強してきた筈だったがそれでもこの本には分からない表現が多かったし、哲学書としてはニーチェのツァラトゥストラのように詩的表現をされている訳でもないにも関わらずそれ以上に難解だった。 かろうじて私が受け取れた表現で面白かったところをいくつか。 ◎想像力とは無限化するところの反省である→→自己とは反省である→→想像力とは反省であり、即ち自己の再現であり、したがって自己の可能性である。 …想像力(ファンタジー)を巡らせることとはつまり自分について反省することであり、逆説的に自分とは反省によって形成されているという考え。直感的にこれはかなり真理に近づいた考え方に思える。 ◎彼は自己自身であろうと欲しないことを仕事として時間をすごしているのであるが、それでいてその自己自身を愛しているほどに十分に自己なのである。 …これはとてもアイロニックな考え方で好きだ。人は理想の自分を求める故に今の自分ではないものになりたい、変わりたいと欲して生きているが同時にそれは自己愛であり、十分に利己的な考え方なのだ。 ◎何故なら異教徒は自分の自己を神の前にもっていないからである→→異教徒は最厳密な意味では罪を犯したことがないというのもまた真なのである、なぜというに彼は神の前で罪を犯したのではないのであり、そしてあらゆる罪は神の前で起こるものだからである。 …宗教学的にはこの部分が一番興味深かった。ダンテのキリスト教観でいうと異教徒は全員罪人であり決して天国にはいけない。しかし実存主義的キェルケゴールの立場から見た宗教観では、罪という概念そのものが神の前で起こるものであり、(キリスト教的)神の存在しない異教徒にとっては罪という概念そのものがないのである。これはとてもキリスト教主体の考え方で実際には宗教ごとにそれぞれの「罪」が存在するだろう。しかし、罪という概念そのものが何らかの社会的な相対によって生じるもので、本質的に突き詰めてしまうとこの世に存在し得ないのだという考えはザ・実存主義って感じでおもろい。 今回の読書で読み解けなかった部分もいずれ再読して理解を深めてみたい。
1投稿日: 2023.02.16
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
むかし読んだ。たぶん。いや、たしかに目は通した。根拠のない甘ったれた希死念慮から逃げきるために藁をもつかむ思いだった。死が答えではない、という事だけは本能的に分かっていたので、いろんな宗教に答えを求めていた時期。仏教に人の致死率は100%だよね、とサクッと言われて「そうだけどさ、ひゃー」という気分で。イスラム教にはあなたの生存率は神のみぞ知るよね、と言われて「そうだけどさ、ひゃー」となって。そしてキリスト教関連(キリスト教では自殺を宗教として禁じてる)の本書、、、ケムに巻かれた(笑)。とりあえずめっちゃ頭の良い過去の哲学者たちがこんなに真剣に考え尽くして資料残しているんだから、バカな自分が何考えてもだから何なのさー、っていう諦めはついた。人には絶対に勧めない本だけど、必要なひとが必要なときに出会ってしまう未来永劫に必要な本だろうと勝手に思う。 ちなみに星2つなのは、自分の苦しみを考えるヒマがあったら生きることを考えよ、苦しんでる誰かを支えることを考えよ、と世界中のヒーローたちが悪と戦っている姿をいつも見せてくれているから、だ。しかし世界中の誰も信じられないとき、(それは自分自身を信じられないのと同義だが)この本に出会えたならば、それはなにか大きな力が投げた最後の蜘蛛の糸だと信じ怯まず掴んでいいと思う。
4投稿日: 2022.11.22
powered by ブクログ「まんがで読破」シリーズで読んだものの、同タイトルが見当たらなかったので原著にて記録。この手の哲学は共感も否定も感情が湧きづらいが、全体的にはふむふむ理解できる、という感じ。 備忘メモ: 感性的な生き方=刹那的、外側にあるものに流されるがまま、自分自身に無責任な生き方 倫理的な生き方=自分の本質について内省する生き方 死=選択できる意識の自由が死ぬこと 3つの絶望 1.自己の本質を知らない絶望 2.本来的な自己になろうとしない絶望 3.非本来的な自己になろうとする絶望
1投稿日: 2022.08.04
powered by ブクログ感想 絶望が死へと繋がるのは現代も当時も同様。しかし本書で扱われる絶望は、現代のものとは少し様相が異なるのではという疑問を拭うことができない。
1投稿日: 2022.07.19
powered by ブクログ【心に定規があったとしたら】 私には、むずかしすぎた……。 かろうじて目で文章は追えるものの、書いてあることがさっぱりわからないまま読了(涙目)。 『死に至る病』という書名と、冒頭に掲げられた「死に至る病とは絶望のことである。」という文章から、人生に苦しむ人への処方箋のような内容を期待して読みはじめたけれど、甘かった。 おそらくこの本の核心と思われるキリスト教信仰や人間の心理の分析はほぼほぼわからずでしたが、具体例としてあげられる絶望する人間のありようが、「こういう人、いる!」の連続で、キルケゴールの人間観察力の鋭さが印象に残りました。 それから、ふとした瞬間に、心に残る言葉に出会えるのが、古典の良いところ。 「自己が何に対して自己であるかというその相手方が、いつも自己を量る尺度である。そして質的にそれの尺度であるところのものは、倫理的にはそれの目標である。」 例えばこうありたい、という目標があったとしても、心の中の評価軸、定規の単位が目標と異なっていたらちぐはぐだし、意図していない方向にひっぱられてしまうこともあるだろうなあ、と。 現実におもねるでもない、はねつけるでもない、そんな尺度をいつか私ももつことができるだろうか、と思いつつ、読み終えた一冊でした。
17投稿日: 2022.04.04
powered by ブクログ翻訳されたものとはいえど、哲学者の書いた哲学書そのものである為、読み進めるにはそれなりの時間を要すると思った方がいい。哲学研究者などの専門家でもない限りは、キルケゴール哲学の解説書または入門書を読んでおけば十分なように思う。
5投稿日: 2022.03.27
powered by ブクログ有名な古典ということで手に取っては見たものの、全然頭に入って来ず、手も足も出ず、序盤以降は斜め読み、拾い読みでギブアップ。 P27 絶望していないということは、絶望的でありうるという可能性を否定したことでなければならない。 P28 絶望は可能性として人間そのもののうちにひそんでいるのである。 P30 絶望者は彼の絶望している各瞬間に絶望を自分に招き寄せているのである。 P290 解説 死に至る病というとややもするといわゆる死病すなわちそれで死んでしまう病気のように解されがちであるけれども、(中略)それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病の謂いなのである。 デンマーク語の原題『Sygdommen Til Doden』は、死ぬ迄続く病気、というニュアンスのもよう。
6投稿日: 2022.02.20
powered by ブクログ難しかった…。かろうじて活字を追えたという感じ。数年後に読み返して多少理解できればいいな…。哲学書的なものと思っていたけど実際は宗教色が強くて、キリスト教的予備知識がないと理解できないし、キリスト教徒的感覚がないと共感できないんじゃないかと思った。所々に出てくる恋愛での例え話がおもしろかった。
2投稿日: 2022.02.11
powered by ブクログキルケゴールを解説書などではなく、直接読むのは初めてだが、その信仰に身震いした。この歳まで読まずに来たことを悔やむ。つくづく読書は若いうちからはまるべきだ。これまで人生の何分の一かを損した気持ちになった。ただ私のラッキーは聖書に馴染み生きてきたことだ。多くの日本人にとって難解な書と思うが、聖書のバックグラウンドがあることで一文字一文字が沁みるように入ってくる。文体そのものは一見古いが、キルケゴールの言葉運びそのものは、要点が分かりやすく、それをさらに砕いていくのでとても読みやすい。 人間の最初の姿は絶望である。神の前に犯した罪の故にエデンを追い出されて必ず死ぬものとされた人の姿は絶望そのものである。人は可愛い赤ん坊すらも死を抱えて生まれてくる。これだけなら絶望せずにいられようか。キルケゴールの言う死に至る病とはこの絶望のうちに生きる人間そのものであるが、しかし同時に(歴史的時間差はあれど)永遠の命の希望と赦し、救いをもたらすために人となった神が元からおり、その神と離れた状態を指して、さらに踏み込んで病として様々な表現で絶望を説明する。これが第一部である。日本にはキリスト教の神はないからそんな絶望は関係ないと感じる読者も多いだろう。そのような「絶望」の姿も第一部にはしっかりと書かれているからよく読まれたし。 第二部は絶望が神と人を分断するところの罪に置き換えられて述べられていく。罪とは一般に思われている徳の反対としての罪ではない。時々発露し人に迷惑をかけるような罪のことでもない。信仰の反対を罪という。永遠の命にに至る、神が私をあなたを赦したがっているという事実に抗うこと、罪とは行為ではなく状態のことである。 実存主義とはこの書が起点になったと説明されるが、人が死から命に移されていることのリアリティのように思う。 なぜキリスト教は嘘くさく人に伝わるのだろうと思うことがある。キルケゴールの言葉は爽快だ。それはキリスト教界がキリスト教を擁護するからだ。神による実存から自身と真実を切り離し外側に回って擁護するのだ。それは第二のユダである。ユダは接吻から裏切るのだと。
4投稿日: 2021.12.20
powered by ブクログ絶望とは ・自分の外側に自己を向けること ・自分自身の責任から逃げること ・自分への被害者意識 自分を信じ、自分の責任は自分で取る。 分かっているけど、できていなかったな。
2投稿日: 2021.09.19
powered by ブクログ・絶望とは自己を見失うこと ・誰にでも絶望はある ・絶望を超えるには、信仰すること。 ・信仰→ 自分を信じて、自分の責任で選択していくこと。 ・自己は人との関係の関係にある。 ・人の生きかたは、感性的に生きるか、倫理的に生きるか ・感性的に生きることは外部からの影響を受けて流されるので自分を見失う ・倫理的に生きる事で、自分で内省しながら自分の判断で生きていく ・著者は現存主義。
2投稿日: 2021.02.27
powered by ブクログキェルケゴール 「死に至る病」 絶望について論じた本。死に至る病=絶望=地獄 として、キリスト教による救済につなぐ構成 絶望から解放されるにはキリスト教による救済しかないという結論だと偏狭さや他人任せを感じるが、フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」のように「神が人間であり、人間が神である」として読むと、信仰の意味が自己対話的になり、主体的に絶望から脱け出す方法が見えてくる 著者の結論 *絶望=自己の病→自己の喪失=神との関係の喪失 *絶望は 精神の領域=自己自身との関係 において起きる *絶望を通じて、神の前に現存する自己を意識することで 絶望から解放される 人間は 追いつめられて、いかなる可能性も存在しなくなって初めて、一切が可能である 神の存在を認識できる
1投稿日: 2021.01.19
powered by ブクログ文章は哲学調で読みにくいが、趣旨は明快。実際、本書が示す段階に沿って一段二段と歩を進め、生きてきた人は少なくないのでは。哲学と馬鹿にさせないだけの見事な現実洞察があると思いました。
1投稿日: 2020.09.19
powered by ブクログ難解でした。 まぁ絶望が原因であると…。 簡単な解説がありがたかったです。 https://diamond.jp/articles/-/205853
3投稿日: 2020.07.19
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
自分の内面と徹底的に向き合うみたいなところの真剣さがすごかった。の対象がキリスト教の神であるところはかなり正統派(保守派?)な感じがするけれど。 自己意識との葛藤、どう自己意識を高めても私たちは、一人のただの人間で、不完全性から逃れられることはない、けどだからと言って、それを止めてしまうんじゃなくて、絶望を極めつつも、自分の意識と向き合い続けようとすることこそが、まさに弁証法的な生き方―彼の場合は、罪を贖う唯一の生き方―なんだ、ということを言っているのかと理解する。それには、信じること、とにかく絶望に負けない希望みたいなものの存在が必要ということにもなる。 ちょっと違うと思うけれど、理想と現実のギャップ、みたいな似たような葛藤はみんな今もあると思うし、それをじゃあどうやって受け入れて、自分自身と付き合っていくか、みたいなところがあると思った。 でも個人的には、内面に陥りすぎると、社会との接点というか、現実の物質的な部分が見えなくなりそうなので、バランス大事と思った。いろんな思想や信仰を持つ人とどう社会を作っていくか、という部分もめちゃ大事やと思うし。 分かったような感想書いてますが、まあそう簡単には理解できない部分がありました。
4投稿日: 2020.05.10
powered by ブクログ市民革命・産業革命が進む中、人々は自覚のあるなしに関わらず、人間中心の近代的なものの見方を身につけつつあった。キルケゴールは、そうした近代のものの見方にとらわれることなく、信仰へ飛躍しなければ、自らが本当に生きるということにはならないと説き、それに対してニーチェは、信仰にも近代的なものの見方にもとらわれるな、と説いているように思われる。本書は全編、信仰への飛躍を妨げるメンタリティを彼独特の仕方で分類整理し、その有り様を執拗に描き出そうとする。とても読みにくい。そして最後には、言葉で説明できるようなものは、信仰ではないというようなことも言う。やっかいではあるが、様々なメンタリティの描写には見るべきものがある。
7投稿日: 2019.12.06
powered by ブクログあまり明るい気分になれる内容ではないですが、気分が塞ぎ込んでいるときに読むと、状況を客観視できるのでモヤモヤしたものが整理され、少し楽になれるかもしれない。昼間ではなく、夜にじっくりと読める本だと思います。
3投稿日: 2019.04.03
powered by ブクログ死に至る病とは何か、1ページ目をめくった瞬間に答えが出た、と思ったのにそこからが遠かった。 最初が論文口調でいて自分の意見を世の中全てに当てはまるように話しているだけなのか、「自己自身とは自身の自己に関する関係である」云々のようにトートロジーっぽくて抽象的で何を言っているのかわからない。結論から言うと、最初の数ページは飛ばして読むでも大丈夫だった。そして絶望の類型のあたりから意味がわかってくる。 絶望の先にある唯一の救済はキリスト教の信仰にある、という点で相容れないものはあるけれど。貴賎や行動でなく、自分に対する自分自身の認識、意識によって絶望のランク分けがされるという(解説によると実存主義の始まりだという)考え方、現在の自分に対する現実逃避や思考停止こそがもっとも絶望的で、罪なのだという考え方には我が身を思わず振り返りました。キルケゴールの理想は、青年期にあるのかしら。感受性豊かで想像力を持ち、常に意識を高くもっていたいものです。
3投稿日: 2018.12.02
powered by ブクログ正直な話、もう一人翻訳者を挟みたいくらい何言ってるのかよくわからない所が多かった。 絶望していると思っているが筆者のいう絶望に全く当てはまらないどころか絶望状態に酔ってるだけの人に対する皮肉っぷりはぶっ飛ばしててすがすがしくもある。 要は敬虔なクリスチャンが、真に神を信じていないようなファッションクリスチャン❨牧師も含む❩に対して思ってる諸々鬱憤なんかを書いているという気もしないでもない。というのが個人的な感想。
5投稿日: 2018.05.18
powered by ブクログキルケゴールが何故評価されたのか分からない。哲学とは突き詰めれば、既に気付きを得た人にとっては、その真理を回りくどく、その哲学者の生きた時代と宗教的価値観で説明を試みる部分があるから、難解なクセに、歴史的意義以外の収穫が全く無いなんて事も有りうる。まして150年も前の概念である。クセのある哲学者と対面して話を聞くという行為は、現代人同士でも難しいし、ましてタイムスリップしてその時代の外国の哲学者の発言など、簡単なわけはない。だからこそ、大学の文学部やらで研究に用いるには良いが、読書としてはオススメしない。読書が嫌いになる危険性もあるだろう。キルケゴールの哲学を体系的に理解したいなら、インターネットなどで解説がある。衒学的な目的か学問的意図がないならば、インターネットで充分である。 私はこの事を再確認するために、苦い薬でも飲み込むように、頭に文章を一思いに通過させたのである。
3投稿日: 2018.04.17
powered by ブクログ読み終えましたが、内容は全く理解できていません(涙)本書に関するWikipediaや解説サイトの方がはるかにわかりやすく、お財布にも優しいかと。
1投稿日: 2018.03.04
powered by ブクログ引用のされ方によるかもしれないけど、その姿勢や感覚は好印象。読み通すのは大変だけど読み通してよかったと思える。前提に対する共感がある程度必要かなと思う。そうでない人には響かないかもしれない。しかし、やはり名のある哲学者だけあり感じたことは有意義だった。
1投稿日: 2017.12.18
powered by ブクログ現代人にも通じるものがあるし、自分自身に通じるものがあって面白かった。(第一章までは辛うじて理解できた) 筆者は人より頭が良かった分きっと生きづらかっただろうなと思う。
2投稿日: 2017.09.07
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。(p.20) 絶望はまた別の意味で一層明確に死に至る病である。この病では人は断じて死ぬことはない(人が普通に死ぬと呼んでいる意味では)、ー換言すればこの病は肉体的な死をもっては終わらないのである。反対に、絶望の苦悩は死ぬことはできないというまさにその点に存するのである。絶望は死病にとりつかれている者に似ている、ーこの者はそこに横たわりつつ死にひんしているのではあるが、死ぬことができないのである。(p.28) さて絶望して彼自身であろうと欲するところのかかる苦悩者のうちに、意識がより多く存在すればする程、それだけまた絶望の度も強くなってそれはついに悪魔的なる者にまで至る。悪魔的なる者の根源は普通次のようなものである。絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。(pp.118-119) (解説)死に至る病というのは、それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病の謂いなのである。絶望とはちょうどそのようなものである。死んでないしは自殺して墓場に安住できるというようなのであれば、キェルケゴールに言わせれば、それは未だ絶望の極致とはいいえない。死ぬに死ねないこと、たえず死に面し死に至りながら死ぬこともできないということ、いな永遠に死を死ななければならないということ、これが絶望者のないしは最も不幸なるものの真実の姿なのである。最も不幸なるものの墓は空であろう、と彼はいっている。(p.234)
2投稿日: 2017.04.13
powered by ブクログ冒頭の「自己」の定義からしてよく飲み込めないまま、無理やり読了。内向的クリスチャンを自認する者としては、いつかこれをきちんと理解できるようになりたい。
2投稿日: 2016.12.30
powered by ブクログ絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。 絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するということを知ってしまう、当たり前に驚いてしまう、これが病的だと彼は言う。生きることに自覚的になるとき、それまでと同じように生きることなどできない。死ぬことさえできないと知ってしまうのだ。これを病気と言わずに何と言えばいいのか。 学問的で教化的、彼ははじめにそう言った。 絶望から罪へと至るプロセスとその状態の分析、そして罪から信仰へと向かっていく。絶望や罪を知るということ、そこからすべてが始まる。絶望や罪を知ればおのずと信仰が生まれる。 では絶望を知るとはどういうことか。絶望とは自分がどういうわけか存在してしまうというこの事実。理由などない。どういうわけか、あれではなく、これであるということ。そのことを考えていくと、どうしてあちら側でなくてこちら側なのか、と自分であろうとしたくない衝動が生まれたり、そんなこと考えても仕方ないと思考停止させようとしたりする。そんな風になってしまうのも絶望だ。 自分が存在してしまうということへの絶望は、自分ではない存在、彼曰く「神」の前であるからこそ、起こるのだ。ここで絶望から罪が措定される。自分が自分であるということは、どうにもならないのだと気づける。そうなると、では自分ではないこの存在とはいったいなんだ。絶望の止揚が起こる瞬間。 自分ではない存在を前にして、自分が存在していることに絶望すること、これがあるからこそ、自分ではない存在というものに気付ける。そして、それが分からないと知るからこそ、信じることができる。これは思弁ではなく、どういうわけかそうせずにはいられないという義務的なものだ。わからないけど、自分がいてしまう以上、信じないわけにはいかないのだ。 絶望し、罪の在り方を知れば、すなわち信仰するはずであるのに、どういうわけかできない。それは、神という存在自体が躓きを含むものであるからだ、と彼は考える。自分が自分であり、それが神によって裏付けられているがゆえに、ひとは、神なんて胡散臭いとか、今がよけりゃそれでいいとか、神は神だから自分とは関係ないなどと躓くのである。そして、この状態にとどまっていることこそが、罪なのだ。新しく罪を重ねることが罪なのではなく、罪が罪であるということ自分が存在しているということを知ろうとしない、この無知こそが罪なのだ。 ヘーゲルの弁証法を彼は別に打ち壊そうとしていない。むしろ彼は積極的に弁証法でもって考えている。ヘーゲルの哲学で彼が不満だったのは、信じるということをどうしてすべてのひとが成し遂げられないのかという点を知りたかったからなのだと思う。起こるべくことだけが起きている。ならば、どうして信じることができないひとがいてしまうのか。それゆえに、信じることをほんとうに成し遂げるひとは病的だというのだ。ヘーゲルの哲学は宗教ではない。どうも考えたらそうなっているとしか言えない、そういうものなのだ。信じないひともいる。それもまた起こるべくして起きているのだ。 キルケゴールが学問的で教化的というこの著作は、ある意味で彼の絶望であるとも言える。
1投稿日: 2016.04.09私にとって
本作は当時最高の知の巨人ヘーゲルの思想に対するキェルケゴールの思想を著したものです。実存主義の始まりを築いたとされるキェルケゴールの思想は、キリスト教徒としての自覚に基づいているため、本作のみでなく、ヘーゲルやその後の実存主義哲学、キリスト教思想といった分野に興味を広げると面白いと思います。 抽象的な内容で小難しいですが、主体性すなわち私にとってが重要とする内容に勇気づけられました。
2投稿日: 2015.11.12
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
逆説や反語、弁証法やメタ認知にあふれた文章はたとえそれが読者の自由な解釈に委託されたものであるとしても気楽でシンプルな自由はない。自由はいつも難解である。 したがってこれをフロイトやブロイラーに先駆けた精神病理学、臨床心理学の書として位置づけてみよう。スキゾ、パラノ、神経症、BPDまで。今に至ってとりわけ扱いが困難で理解しがたい症例が本書によって説明可能なのである。人間性心理学の各派への影響力の大きさもよくわかる。 「個人」は(あえて実存とは言わず)どう探求されるべきか。その重要な示唆の書として永遠に参照され続けるだろう。
1投稿日: 2014.09.27
powered by ブクログ「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である。」有名な冒頭文だがこれだけ読んだ時点でさっぱり分からないが、読み進めていくと何となく分かるような分からないような・・・。 実存主義者の先駆けとなったデンマークのキェルケゴールの「キリスト教」における「罪」や「絶望」そして、「自己」の「関係」ということを深く考察している。 死に至る病と言うのは、それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病を指す。それがちょうど「絶望」と呼ばれるものである。死ぬに死ねず、絶えず死に面し死に至りながら永遠に死を死ななければいけないということなのである。 キリスト者にとって、死という最後の希望さえも遂げられない希望が失われているのである。 絶望している当のものは、地上的なるものではなく、自己自身である。永遠なるものと自己自身を失ったという絶望である。 また、「絶望とは罪である」ということが云われ、様々な様態の罪の考察が行われる。罪とは、人間が神の前に絶望的に自己自身を欲しないとこないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。キェルケゴールはここで「神の前における自己」ということを言う。 罪のソクラテス的定義は、無知であるということ。その定義の難点は、それが無知そのもの、無知の根源等々を更に立ち入って行かに理解すべきかを向規定にしている部分にある。罪とは、神の啓示によってどこに罪の存するかが人間に明らかになされた後に、人間が神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないことないしは絶望して自己自身であろうと欲することである。 悔い改めざる瞬間における新しい罪もある。躓きやキリスト教の廃棄という罪についても。 キリスト教界の根本的な不幸はキリスト教である。 彼は、「個体的な人間、罪人」のみがキリストにおいてある神の前に生きていると述べる。各人を個体にして、そこからキリスト教は始まるという逆説を彼はとくのである。
1投稿日: 2013.08.05
powered by ブクログ自己とは何であるか、人間の精神世界の細かくも絶望的な考察。 全編を通してキリスト教色が濃いが、特に第二編においては顕著である。
1投稿日: 2013.08.02
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
■読書メモ ・自己=肉と霊の間の関係のこと ・パラドクス。自己から離れること=絶望、自己が自己でいようとする作用。 ・ゆえに、絶望から抜け出ることも食いつくす事もできぬ。絶望は過去のものではなく、常に現存する。 キリスト教において ・絶望≠肉体の死 ・絶望=精神の死 絶望のヒエラルキー ・死が希望であり、現実の死が不可能の状態>現実の死が可能である状態>生が希望となる状態
2投稿日: 2013.04.02
powered by ブクログ―自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。 人が全く絶望していない状態を叙述したキルケゴールさんの定式である。 キルケゴールさんはほとんど全ての人間は絶望していると言う。絶望していない人はほとんど存在しない。存在しているとしたら上記の定式に当てはまっているというわけである。 この本では絶望の様々な形態が抽象的かつ具体的に細かく描写されている。それぞれの絶望が目に浮かぶ。 何も考えることなく日々の辛い日常に埋没している人、単に享楽に浸り込んでいる人、世の中を恨み引きこもっている人、自分は成功者と人々にもっともらしい説教(最近はネットの発展でFacebookやTwitterで持論を展開していることも含まれるかな?)をしている人、企業家、政治家、仕事に疲れたサラリーマン、夫に愛想を尽かした妻、そしてなんとこの私自身もこの本のなかに見事に描写されている。 キルケゴールさんはこの本を教化のための著作といい、教化とはもちろん表面上はキリスト教を信仰しなさいという意味なんだけど、そして、この本の結論としては、これまた表面上は絶対に何等の絶望も存しない状態になるためには信仰するしかない…というものではあるのだけれど、わたしには実のところキリスト様は関係ないのじゃないかと思う。 脳が脳を見ることができないように、世界を見る自分という存在がその見る対称たる世界に含まれているという矛盾から生まれる叙述の不可能性ゆえに、脳の中でのグルグル回しの無限性ゆえに、不可能を可能にする、無限を体現する神を仮定せざるを得なかっただけなんじゃないかと… しかし、もう、ヒッグス粒子も見つかり、相対性理論は普通に携帯電話に用いられ、宇宙は膨張し、空間は時間から生まれることも記述される今となってはキリスト様を持ち出すまでもなく、とどまることのないとは言え、種々の事情によって個人的に限定された己の可能性を掴みとり、その可能性を具体的に現実化していく努力をすればいいのじゃないかと… 「あなたはあなたでしかないでしょ。この世にはあなたはあなたただ一人。あなたしかいないでしょ?そんなあなたには可能性があるでしょう?どんな人にも可能性はあるのよ。だって、すべては変わっていくんですもの。あなただって変われるの。今のまんまでいいわけ?そうじゃないんでしょう?だったらできることをやったらいいじゃん。できないことでもやってるうちにできるようになるかもしれないでしょ。いや、できるようになるものなのよ。やり方が間違ってなければね。それがあなたの可能性なんじゃない?頭ばっかで考えてたら、現実から浮き上がって彷徨っちゃうよ。地に足つけて。あなたを生きられるのはあなただけなの。だから、気を取り直して。できることをコツコツと。あなたには変われる可能性があるの。それも自らの望みで。人間ってそういうものなのよ。人間ってそうやってそみんな世界を変えてきてるの。だからね、もう一度言うけど、できることをコツコツとね。」 というようなことを言いたかったのじゃないかと思われた。 キルケゴールさんの ―自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。 とは、 ―できることをコツコツと… と同じ意味だと、わたしは解釈した。 その結果、わたしは「あぁ~やっぱり、これでいいのかな…」と自分勝手な解釈だとは思いながらも安心するのでした。そのように安心できるのも、キルケゴールさんがものすごい迫力で面倒くささを厭わずに時代を超えて人類の心の奥に通底するなにものかを伝えようとしてくれたからなんだと… 爪の垢でも煎じて飲みたい気分であります。とは言え、まぁ~できることをコツコツと…ですね。 Mahalo
1投稿日: 2012.07.28
powered by ブクログ浪人生のときに買って読みかけて止めたもの 読み切ったら何かが終わってしまう気がして どうしようかな キリスト者ではない私に彼と同じ救われ方は用意されていないわけだから
2投稿日: 2012.07.14
powered by ブクログ(1971.10.10読了)(1966.10.22購入) *解説目録より* 「死に至る病」とは絶望のことである。本書はキェルケゴールが絶望の暗黒面を心理学的に掘り下げつつ、人間というものの本質を激しく追及せるものであるが、繊細深刻をきわめる絶望者の心理描写の中には、多分に著者自身の自己分析と自己告白とが含まれている。ここに著者の哲学的思索の根本的特色がある。 【目次】 序 緒論 第一編 死に至る病とは絶望のことである。 一 絶望が死に至る病であるということ。 二 この病(絶望)の普遍性。 三 この病(絶望)の諸形態。 第二編 絶望は罪である。 A、絶望は罪である。 B、罪の継続。 訳註 解説
1投稿日: 2012.07.10
powered by ブクログ死に至る病とは絶望であるとキルケゴールは言う。 しかも、絶望しない人間はいないとも言う。 世間一般に言われる、願いが叶ったとか、よい人生だったとかの幸福を彼はことごとく否定する。 その追い詰められた状態から、何が幸福かを見いだせるのか。 その答えは、読み取ることができなかった。 ただ、自分の欲望を満たしたり、世間の言う幸福に追従したのでは、真の幸福に巡りあえないばかりか、絶望から抜け出すことすらできないということを理解した。 資本主義、契約社会の中では、一つの失敗が自らの人生を破滅に追い込む。 だから、いつも転落の恐怖に晒されながら、おそるおそる生きている自分がいる。 その姿は、幸福ではないという確信を持つに至った。
2投稿日: 2012.06.18
powered by ブクログはっきり言ってものすごく難解。 これ研究してる人は骨が折れるだろうな・・・。 新約聖書の”ラザロの死”について冒頭で触れ、人間の3種類の絶望とその変容、神の前における在り方を説く。 どことなく心理学っぽい側面もあったり。
2投稿日: 2012.06.08
powered by ブクログ10年ぶりの再読。 冒頭わけわかんないけど、気にせず読み進めるとほんとおもしろい。 死に至る病=絶望(=罪)に対して、人が取りうるのは延々と続く撤退戦。この不可避的な撤退戦それ自体が絶望でもあり、この先に信仰が存在する。 続編的な「キリスト教の修練」では、「死に至る病」をさらに推し進めて、キリスト者としての苛烈なまでの信仰を説いていてこれも刺激的。
1投稿日: 2012.04.06
powered by ブクログ死に至る病=絶望として、 キリスト教の観点から徹底して絶望を見つめる。 絶望が罪であるということ、 その罪がキリスト教にある原罪と関係があることなど、 深い考察が行き渡っている。 僕らが口にする絶望という言葉が、 どれだけ多面性を帯びているか、 それを知るだけで、暗闇に目が慣れていくように、 絶望を冷静に見渡せるようになれるとも思う。
4投稿日: 2012.01.06
powered by ブクログいかに生きるか。絶対的な可能性という永遠者を見つめ、それに対する内なる永遠者(つまり自己)の声を聞き、その声に従って生きよ。それこそが神に近づく信仰者の道であり、真の生き方である。 絶望について書いたものでありながら、そこを端緒に人間とは何か?自己とは何か?生きる意味とは?といった疑問に答える道筋を丹念に示している。 信仰者キェルケゴールの著した全人類必読の啓蒙書。
1投稿日: 2011.08.22
powered by ブクログ大学1年の6月頃に読んでた気がする。 色々と付き合いや家庭の事が原因で4年間ほど湧いてた鬱な感じを、CLASHの「London Calling」のジャケットのギターのようにぶち壊してくれた。 バカみたいだったよ、長い間抱いてた思いが数時間で壊されちゃったんだもん。 今思い返すと、この本がきっかけで実存主義哲学に興味が湧いたんだったな。 題名にたじろぐ人も居るかもしれないけれど、人の血が通ったとっても温かい本でした。
1投稿日: 2011.07.16
powered by ブクログとにかく難解だった。 有限性と無限性、可能性と必然性をもとに絶望を定義しありするアプローチは面白いと感じたし、論理的に説明されていて読み込めば分からないことはなかった。 ただ、言葉遊びみたいに持論を述べたりするのでとにかく厄介。 最初に読んだときは絶望を禁じ得なかった。 あくまでキリスト教が基盤になっているから、その辺の知識とか歴史的背景をもって知っていれば理解しやすかったかも。
1投稿日: 2011.07.01
powered by ブクログ難しかった。正直わからないことだらけ。でも、なんとなく好きだと思ったのは、彼の例外者の意識に共感してたからなんだろうな、と思った。キリスト者じゃないからそのまま当てはめるわけにもいかないのだけれど、絶望してたって大丈夫なんだと思う。信仰とは複雑なものですね。
1投稿日: 2011.05.30
powered by ブクログ絶望とは、死に至る病である。ここでいう「絶望」とは、神の存在を確信していない自己を認めている状態のことである。キリスト教圏内ではない読者には違和感があるだろうから、自己疎外状態と置き換えて読むといいかもしれない。
1投稿日: 2011.03.22
powered by ブクログ二十歳の時に出会い、最近ようやく読破しました。 何年かかっとんねんっていう。 想像以上に難解でした。 ただ完読できたときは嬉しいというか・・正直つかれました。 自分のなかで難しく考えてしまうのか、と思ったんですけど高校生の頃に読んだものとまた訳が少し変わっていました。 まぁ違う人なんで当然なんですけど。 結構有名な翻訳家らしいのですがあまり好きじゃなかったです。 内容的には皆さん触れてるとおり「絶望」だと思います。 宗教色が強いように感じます。 人は絶望する、しかもそれを認識すればするほど救えないとか。 そして絶望は罪、神を信仰とかもうね。って感じです。 哲学や宗教に興味がない人に説明するとしたら↑と精一杯(少し事実と湾曲してますが)です。 私はキェルケゴールの作品では不安の概念の方が好きです。
1投稿日: 2011.01.07
powered by ブクログ高校時代に購入、「1ページで1行分かればたいしたもんだ」と社会科教師に言われて、悔しがった思い出の本。絶望したから読むんだよ、さすがに2行くらいは分かるよ!…と思いつつ、読了できず。やっぱり先生の言うように、キリスト教がわからなければ読めないのかしら、とそのままにしてしまっていたのを、現代仮名遣いで再購入。しかし、割と平和な日常のためか、現在積読中。
1投稿日: 2010.12.21
powered by ブクログ訳が固いので読みづらい。 ところどころに「弁証法」と訳されているけれども、キェルケゴール訳者で有名な桝田氏の解説をお借りすれば、キェルケゴールはヘーゲルへの対抗意識があるせいで、dialecticという語を意図的に多用し、この語の持つ意味に揺さぶりを掛けている場合がある。なので、正確に「弁証法」と訳さない方が、日本語として意味を通しやすい場合があるようです。 この本は彼の神学だと思っていますが、それよりも個人的には心理描写や例えの方に目が向いてしまいます。
1投稿日: 2010.12.19
powered by ブクログ斎藤信治先生が一番よく取り上げておられた本だと思う。病気になった友人にこの本をお見舞いにあげたのは、上梓されたばかりの頃だったからだろうが、「死に至る病」は決して死ぬことはないのだから縁起がいいのだ、と強弁したという話は何度聞いても笑えたものである。 しかし、この本の本質をよく表しているし深いのではないか。その後「死に至る病」を斎藤流に解釈した話は聞かない。みんな浅いなあ。
1投稿日: 2010.12.11
powered by ブクログ人はいつも頭の中で自分のあるべき姿というものを作り出し、それになろうとする。しかし、「いまここにあるがままの自分」は決してその像とひとつになることはできない。 あるべき自分像は、内心の要求でもあれば、社会や周囲の人々の要請から作り出してしまうものでもある。これに重なろうとすることは、長期的に自分の人生をどこにも連れて行ってはくれない。その場しのぎで向きの変わる、目的を持たない風である。 決して達成できないこと、達成できたとしても自分をどこへも連れていってくれないこと。そんなことに向かって努力を積み重ねている生が絶望(=死に至る病)である。キルケゴールは、この絶望は自覚の有無によらずそこにあるもので、自覚した人は一面では不幸だが、そこから立ち上がるなら、自覚さえしない人よりも幸福である、と言う。信仰の始まりは、自分こそ何よりもどうしようもない者であると知ることであり、その好機によって、阿弥陀仏による救済ははじまっている、という嘆異抄の不思議な一節に重なる。 文化も時代も越え、古くから蓄積されてきた人の心、人生についての普遍的な知恵の存在を感じずにはいられない。根っこの部分ではとてもよく似ている。 思考は、あるべき自己像を作り出す。考えられる限り自由に、都合の悪いことからは目を伏せて。 まず、本当の自分を見つめること。そして世界を見つめること。この2つは一つのことである。世界から自分が知れ、自分から世界が作られる。その中間に立てられた自己像は、この今ここにいる自分と世界(キリスト者である著者は神と呼ぶ)、最小と最大の「自分」の中に溶かしてしまう。 その中で、自分というのは自己像のようになんでもありの自由なものではなく、ある不可能と可能を、必然と可能性を等しく与えられ、ある形を持った働きとしてこの世にあるはずである。この「必然」こそが重要で、これが自分に与えられた「場所」なのだという。この、世界と自分との関係によって定められ与えられた場所を無視して、抽象的に自分像というものを描くことが絶望なのだ。本当の自分というものに近づいたなら、それは自ら欲したり意思するのと同じくらい、何か大きな世界によって定められ、導かれていると感じるものであるらしい。そしてそれは、ひとつの限定、規定であるにもかかわらず、忌々しい拘束であるよりもむしろ、安心して身を委ねられる大きな流れとして感じられるようで、これがどうやらかつて「神」「信仰」の意味していた深いものである。 鈴木大拙いわく、東洋的にいう「自由」とは「自ら」に「由る」こと、自らが備え持った形に従った働きが十全に出ることで、制約からの解放や、なんでもありのことではないそうだ。この東洋的自由にとても近い呼吸がここにある。
2投稿日: 2010.09.18
powered by ブクログなんだって、翻訳されたもの(とくに哲学とかそういう関係の)はこんなにも難解な書きかたがなされるのか…。意訳し過ぎも大変だとは思うけれども、柔らかく噛み砕いて、っていうのはおおよそ無関係なものなのだろうか…。
1投稿日: 2010.02.07
powered by ブクログ第1編は難しくてさっぱりわからない。それに比べて第2編はわかりやすい。罪の反対は不信仰、罪の極みは躓き、など。
1投稿日: 2009.10.26
powered by ブクログ難解で、陰鬱で、読後も解ったんだか解らなかったんだか、自分でも今ひとつ整理できないのだが、それでも何年かに一度手にしたくなる本。(特にキリスト者以外の)絶望の回避、絶望からの脱出方法について、自分で考えるのが面白いのかも知れない。
1投稿日: 2009.10.15
powered by ブクログ文学部として、そっれぽい本を一冊読破してやろうと買った本。 字小さくて読みにくいし、キルケゴールが言っていることを理解するのはすごく難しい。 哲学好きな人。 ぜひご覧あれ。
1投稿日: 2009.07.06
powered by ブクログ「死に至る病とは絶望のことである」――有名な言葉ですが、この場合の絶望とは、一般に想像するそれとは異なる、もっと人間の存在に関わることである、そう論ずるのが本書です。入手から4年にして、キェルケゴールの代表作をやっと読破できました。 前編では冒頭の言葉が副題として掲げられ、絶望の種々の形態が論じられます。が、延々と描写される絶望者の生々しいまでの内面を読んでいると、だんだんと「読まされている」ようなたまらない感覚になってきます。なにしろ著者は、絶望は人間という実存をけっして捉えて離さず、いったんそこに入り込んだ者は容易には絶望から抜け出すことはできない、しかも当人が自身の絶望を意識していればいるほど、その度合いは重く脱することもより困難になる、ということが、延々100ページにわたって綴られているのです。しかもそこまで書いているのに、肝心の絶望の対象や本質には、ごくごく抽象的なことだけでしか触れられていないのです。何より恐ろしいのは、絶望者の生き方が現代社会に生きる人々に驚くほどに合致してしまうことでしょうか。「なりたい自分」「自分探し」果ては「自己実現」。10年前くらいから頻繁に聞くようになったそういったものすべてに、絶望に通じる危うさが潜んでいるのではないのか。そう思えるのです。キェルケゴールは一体どうして、これほどまでに絶望した人間の内面を洞察することができたのでしょうか。 そして後編には「絶望は罪である」という副題がついています。罪といってもcrimeではなくsinのほうですが、絶望することは神に対する罪である、と今度は説いていきます。しかし、罪であると宣告しそれを糾弾する文章には、同時に著者の優しいまなざしが含まれています。「絶望者よ、神の慰めを受けなさい。神はあなた方の絶望を慰めさせてくれと、身をやつしてまで嘆願なさっておいでなのだから」と。そこには、一人の人間の「実存」は、神の前にあって初めて明らかになるという思想がしっかりと流れています。 キェルケゴールのいう「絶望」とはすなわち神の信仰の喪失である、ということでしょうか。「信仰の喪失」という語句は本書では一度も使われませんが、読んでいてそんな言葉が浮かびました。PTSDのより重篤な疾病概念としてべセル・ヴァンダーコルク氏らの提唱した「DESNOS」には、この神の信仰の喪失が診断基準の具体例として挙げられているそうですが、これがどれほどの意味を持つのか。改めて理解してショックを受けました。 (2005年入手・2009年2月読了)
1投稿日: 2009.02.12
powered by ブクログこの作品は絶望について始終言及しているといっても過言ではない。 そういうこともあって、初めて手に取る人はこの本に非常に陰鬱なイメージをもたれるかもしれないし、実際読んでみて陰鬱な気分になったりするかもしれない(経験者談)。 そうだとしても、私はどうしてもこの作品を絶望的な作品だと認めることができない。 絶望を通り越した希望がそこにあるからである。
1投稿日: 2009.02.09
powered by ブクログ今最も大切な本は?と聞かれれば、これを挙げるかもしれない。 この本は、熱烈なキリスト者であるキェルケゴールが、真のキリスト者とはどういうものかを語っている。それを無宗教者の僕は、キリスト教ではない人間に普遍的な価値の問題として突きつけられた。 「死に至る病」とは絶望のことだ。絶望とは、「真の自分自身」から逸れてしまっていることを言う。だから、夢に敗れて希望を失った状態だけでなく、安逸に浸って高い人間性を見失ってしまった状態もまた絶望である、と説く。ここでキェルケゴールが言う「絶望」とは、普通われわれが使う意味を含みながらも、かなり違う概念として使われている。 キェルケゴールは、「完全に自分自身であることができる人間はいない」と言う。誰もが本当の自分になれず、不純物を自分自身の中に抱えている。つまり程度の差はあれ、誰もが絶望とは無縁ではない。その絶望を詳述することで、いかに絶望を逃れ、本当の自分(実存)をとらえることができるかを、かつてない高みから説く。のちにニーチェ、ハイデガー、サルトルらに続く実存主義の祖と見なされている。 20世紀の知の巨人であり経営学の祖P・F・ドラッカーは、キェルケゴールを、我々が住むバラバラの世界をもう一度統一した世界にするためには、キェルケゴールまで遡らなければいけないと言う。僕がこの本を手に取ったのも、ドラッカーの小論文「もう1人のキェルケゴール」を読んだのがきっかけだった。
1投稿日: 2009.02.01
powered by ブクログ作品の内容はともかく、人間の生み出したものであるにもかかわらず人間を躓かせ、罪を与え救済を与える神は無神論者のニコにとっては本当に衝撃的だった。 異教徒を徹底的に排他するキリスト教の恐ろしさはほかでもなくこの作品で学びました。
1投稿日: 2009.01.30
powered by ブクログ「死に至る病」とは絶望のことである。絶望することができるということは無限の優越である。けれども現実に絶望するということは唯に最大の不幸であり悲惨であるだけでなく更に最大の堕落ですらある。
1投稿日: 2009.01.24
powered by ブクログ最初はのめりこむように読んだが、途中からだれた。ようは自分が良いと思えば良くて、悪いと思えば悪いと言うことを、色んな方面から述べているのだが、結局同じ結論、同じ様な内容な分けで、途中から、もういい加減にしろって思った。内容的には3分の2がそんな感じで、終盤になると哲学・思想のジャンルではおなじみのキリスト教についての話題になるのだが、日々の生活にキリスト教が馴染んでいない日本という国に生まれた俺には、相変わらず、どうも理解できない部分が多い。まぁ、なんつうか、期待はずれ。歴史的な著書だろうが何だろうが、文章としては同じ語や内容のの繰り返しでお粗末だし、題名負けしてると思った。
1投稿日: 2008.10.23
powered by ブクログキリスト教信仰に基づき「絶望」を突き詰める。さすがに速読しただけではきちんと理解できませんでした。改めてじっくり読みたい。
1投稿日: 2008.02.13
powered by ブクログ世界を認識する“私”という存在。西洋哲学の中でそれに眼を向ける実存主義。まず、題名に衝撃を受けました。 キルケゴールはキリスト教における神を通して、己の存在を受け入れる、ということになりますが、キリスト教に限らず、その“神”を別のものに置き換えて、己のあり方、それを考えるきっかけになる本でした。 己の存在を受け入れ、社会との関わりを、その責任を全うする事―― それを放棄してしまうことが“死に至る”事でした。
1投稿日: 2008.01.16
powered by ブクログ実存主義というマジメな哲学はまったく古くなく、いまだに力強く人生のパートナーたりうる。 大林宣彦の新しい方の「転校生」や園子温の「自殺サークル」の核には、これがある。つまり「自分が自分と関係する」ということを考える。 絶望とは、神の前に自分自身から離れること、そして、神の前に自分自身であろうとすることとである、という。 え、じゃあ、どうすれば絶望から逃れられるのか、といえば、神を受け入れ、キリスト教を受け入れる、ということになる。 これに反発する人は多いだろうが、これは、べつに特定の教団への入信をすすめているのではない。「神」を「人生の意味」に読みかえて理解されたい。
1投稿日: 2007.07.26
powered by ブクログ読めば読むほどキルケゴールの考え方に囚われていく。なんて魅力的なんだろうと思う反面、恐ろしい。自分は自分で在りたいのか、それとも絶望して尚自己であり続けたいのか。著者の考えのほんの一部も理解できていないと思うけれど、言葉は自然に頭に入ってきた。
1投稿日: 2007.05.10
powered by ブクログ「死に至る病とは絶望である」キルケゴールの語る絶望は真理であるように思う。しかし、神を信じぬ者には絶望をすることすら許されていないかのような彼の筆致には、反感を覚えつつ憬れも抱く。
1投稿日: 2007.04.25
powered by ブクログまずキルケゴールがキリスト教的な視点から「絶望は死に至る病である」と言っていることを知らなくて驚愕したり… 勉強させてもらってます。 しかし読めば読むほどキリスト教という特殊な宗教と哲学を結び付けている点は疑問に思わなかったのかな?とも思いました。昔のことなので仕方がないのかもしれないけれど、絶望者の心理状態には丁寧に思索をしている印象があるので。
1投稿日: 2007.03.20
powered by ブクログ初めて読んだ哲学書。何だかんだ言って、キルケゴールの思想には多大なる影響を受けていると思う。キリスト教を有る程度理解している方が、解りやすいとは思う。
1投稿日: 2005.10.12
powered by ブクログないものばかりが気にかかり、私に与えられているものに感謝することができないから私は幸せを感じられないんだ。 吾、唯足ることを知る。 そんな心境にいつかなれるんだろうか?
1投稿日: 2005.10.03
powered by ブクログ絶望とは普段我々が絶望を口にする時のような、意識のみの問題ではなく、状態を指すものである。 そしてその状態に対する意識が絶望に質的な差異を与えるのだ。 そして、絶望とは可能性の窮した状態であり、死とは神の恩恵(すなわち無限の可能性)との完全なる断絶に他ならない。
1投稿日: 2004.09.29
