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総合評価

29件)
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    ●2025年8月30日、グラビティでキーワード「澁澤龍彦」で検索かけたら、この本について投稿してる女性がいた。→もう1人別の女性も澁澤龍彦と遠藤周作について投稿してた。 女性①「澁澤龍彦を読んだ後になんとなく古本市で無料で貰った遠藤周作の『留学』を開き、そこにマルキ・ド・サドの記述を見つけてファッ!?ってなったことはある 脳汁いっぱい出た」 女性②「澁澤龍彦と遠藤周作を並べる。そしてそれをサドとマルガリタマリアで挟む。ドストエフスキーと原点仏典が続く。人間の本棚。」

    0
    投稿日: 2025.08.30
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    短編集と知らずに読んでしまい、一章と二章の繋がりを何とか探そうとしてしまった。。 三章で独立した短編とわかり読み続けたけど、三章長い!!! とはいえ、遠藤さんらしい男の暗くイジイジした表現が素晴らしいです(笑 さいごの『爾もまた』の一言。。 綺麗な締めです

    0
    投稿日: 2025.07.05
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    このレビューはネタバレを含みます。

    フランスやイタリアに留学する話をまとめた3本仕立ての小説。1本目はフランス人の押しつけの善意と日本に対する無理解とにうんざりしながらもそれを正す勇気も語学力もないという「ルーアンの夏」、2本目「留学生」は17世紀に実在した荒木トマスという司祭について書いたもので、留学ののちキリシタン弾圧化の日本に帰って棄教した顛末を想像で書いているがこの「転んだ司祭」というモチーフは「沈黙」に繋がることがはっきりわかる。3本目「爾も、また」では仏文学者の田中が渡仏するもフランスにも現地の日本人社会にもなじめず孤独に結核にかかって挫折する様子が書かれる。 どれもとにかく暗く息苦しい。遠藤周作の実際の留学経験をもとに日本人がヨーロッパを理解することはできないという信念が存分に書かれていることは分かるのだが、坦々としてずっと暗いので読んでいて疲れて嫌になってしまった。留学経験があればまた違った読み方ができるのかもしれない。

    0
    投稿日: 2025.06.30
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    海外で出会う外国人との考え方や感じ方の違いに、戸惑ったり誤解したりされること。伝わらなくてまあいっかって説明するのを途中で諦めたりすること。共感する人が多いと思う。 異国でつるむ日本人のコミュニティも、けっこう複雑な心理がからんでいて、そこもうまく表現されている。わかるー。 日本に来ている外国人旅行客を見て、戸惑いを感じたり孤独に感じたりしていないか、ちゃんと旅行を楽しんでるのかなといつも考えてしまう。 それは、この作品に出てくる登場人物と同じように過去に自分が留学で孤独を感じた経験があるからだ。病気まではしなかったけど。 見ていると日本にいる外人はすごく楽しんでそうに見えて安心する。 時代が違うから今ならスマホで調べたらわかるし、昔に比べてそこまで戸惑うことが少ないかもしれない。 遠藤さんの作品において特徴的な日本人的キリスト教も散りばめられていて、癒された。

    6
    投稿日: 2025.05.20
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    【出版日】: 1965年 cf. ・坪内逍遥 (1859年6月~1935年2月) … ・森鴎外 (1862年2月~1922年7月) … ・二葉亭四迷 (1864年4月~1909年5月) … ・夏目漱石 (1867年2月~1916年12月) … ・尾崎紅葉 (1868年1月~1903年10月) … ・遠藤周作 (1923年3月~1996年9月) …フランス 1950年7月~1953年1月

    0
    投稿日: 2024.12.26
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    フランスに留学した人物を主人公とした作品三編で構成されています。 第一章は、キリスト教文学について学ぶためにフランスにやってきた工藤という青年が主人公の短編です。彼は、日本でのキリスト教布教の希望を疑うことがなく、日本についての想像力を欠いた善意を示すフランスの敬虔な信者たちに、理解されることのない徒労を感じます。 第二章は、17世紀にヨーロッパにわたり、日本での布教活動を託された荒木トマスという人物をめぐる短編です。著者は、信仰を捨て去ったことでキリスト教の立場においては顧みられることのなかったこの人物にスポット・ライトをあてて、日本に帰国した彼がいったいどのような悩みに直面したのかということについて想像力を働かせています。 第三章は、サドの研究のためにパリにやってきた、大学講師の田中が主人公の長編小説です。彼は、サドの研究者であるルビイから、「なぜ東洋人のあんたが、サドを勉強するのかわからん」という問いを投げかけられ、研究者にとって外国文学がいったいどのような意味をもつのだろうかという悩みにとりつかれます。さらに、後輩の研究者である菅沼が彼を追ってフランスにやってきたことで、みずからの出世の道が閉ざされたことを知り、パリの日本人仲間たちとのかかわりを避けつづけたことで、彼の運命はますます暗い方向へと向かっていくことになります。 キリスト教を中心とするヨーロッパ文化を学ぶ日本人が、彼我の文化のちがいに直面して思い悩むようすが一貫してえがかれており、このテーマについての著者の持続的な関心のありかがうかがえるように思います。

    1
    投稿日: 2023.07.15
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    当時の留学の苦悩と孤独感が苦しく、重い。 この救いの無さ、読後虚脱感の最高峰は『侍』だと思うが、他の名作の影に隠れた良い作品だと思う。

    3
    投稿日: 2023.01.08
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    留学の苦しみ。理想と現実との葛藤。 向坂の以下の発言が胸に刺さる。 「ぼくら留学生はすぐに長い世紀に亙るヨーロッパの大河の中に立たされてしまうんだ。ぼくは多くの日本人留学生のように、河の一部分だけをコソ泥のように盗んでそれを自分の才能で模倣する建築家になりたくなかっただけなんです。河そのものの本質と日本人の自分とを対決させなければ、この国に来た意味がなくなってしまうと思ったんだ。田中さん。あんたはどうします。河を無視して帰国しますか。」

    0
    投稿日: 2021.06.21
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    「選ぶということがすべてを決定するのではない。人生におけるすべての人間関係と同じように、我々は自分が選んだ者によって苦しまされたり、相手との対立で自分を少しずつ発見していくものだ。」

    1
    投稿日: 2021.03.03
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    重く長い。 工藤も田中も遠藤周作自身なのだなと思った。 彼らの中には必ず劣等感があり、その部分こそが私たちを同じ人間なのだと狂わせる。 誰も同じなわけないのに。 我々はいつどこの場所に生きても、思い悩み、一点の消えない朱色を追い求めるんだ、と思った。

    0
    投稿日: 2020.07.25
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    三章仕立てですが、前半部を工藤と荒木トマスの類似、後半部を田中とサド侯爵の対比として読みました。 作中人物たちの葛藤が解消不可能であるだけに、バッドエンドであろうとわかっていながら、それでも救われてほしいという願いを込め、頁をめくりつづけました。「虚無に祈るような」と形容すれば良いのでしょうか、読者にこうした姿勢をとらせるのは、遠藤周作の作品に特徴的であるように思えます。 さらにいえば、この姿勢に、作中人物、あるいは作者自身が異教ーつまりはキリスト教、あえてここでは「異教」と記しますがーの洗礼を受けながら、自らの信仰と対峙しており、自分自身が祈る先には、偽りを隠せない信仰の前には、何者も存在しないのだということを半ば悟りながら、それでも何かはわからない、地に足のつかないものに救いを求め、いつまでたっても誰からも「よそ者」となってしまう姿が、オーバーラップしているようにも思えます。 「留学」と聞けば、一般的に華やかなイメージが想起されます。実際、作中人物も「留学」を目の当たりににするまで、それにあらゆる希望を見出していました。しかし、現実はどうでしょうか。作者は実体験を下地に、その偽らざる姿を描き、また問います。留学とは、かくも人を疲労の底へ、ゆっくりと、しかし確実に引きずり落とすのだと。それは一体いかなる理由からでしょうか。 工藤、荒木トマス、田中は、一見するところ、いずれも西洋に留学をしたという共通点以外は無縁といえます。生きる時代も、留学をした年齢も、留学目的も異なる。けれども、彼らは同じ結論に至っています。それはつまり、西洋と彼らの間にはいかなる紐帯もないということ。そこに影を落とすのは、永遠の暗闇であり、救いの光が照らすことはないのです。 彼らが根無し草であるのは、その土地やその文化に対してというだけでなく、彼ら自身の信条に対しても同様であり、意図してか意図せずしてか、ある種宿命的に、異教信仰や外国文学研究が今や彼らの自己同一性を担保する重大要素であるがために、この疎外感は尚一層深刻なのであり、そのために彼らの身は削られていくのです。(「宿命」は、作者の作品を解釈するキーワードとなりそうです。) この作品は絶対的なバッドエンドのようにも思えますが、田中は大体このようなこともいいます。日本人がサドを研究する必然性はなくとも、サド所縁の地に赴けば、その地を舐めまわしたい衝動に駆られる。これだけは確かであり、またサドの屋敷に残る赤色の塗料をみて、こうも思うのです。 「しかし、俺に、この消すことのできぬ朱色はあるだろうか。決して亡びることのない朱の一点がほしい」。 彼は絶望しながら、やはりこうして希望するのです。 サドの城を前にして、男がひとり。降りしきる真っ白な雪の一点を溶かす、真っ赤な血。トロカデロをまわる向坂の横顔とともに、非常に印象に残った情景です。 (向坂は、「我々は別の血液型の人から血はもらえない」といっています。田中が日本に残した息子を恋しく思っても、妻のことを忘れてしまうように、「血」もまた、作者の中心課題であるようです。) 理解というのは、理解可能なことを理解するという意味ではないはずです。それはもう理解されたものであり、理解の対象とはなりません。まったく異質なもの、理解不可能なものを理解してこそ、理解となるならば、読者もまた、作者とともに祈るでしょう。彼らがどんなに無様であっても、その血が「朱の一点」であったら、と。

    10
    投稿日: 2018.05.08
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    今年めちゃくちゃ本を読んでいないけど、久しぶりに本を読了した。 そして超久しぶりにレビューを書いてみる。 遠藤周作の本は今まであまり知らなかったけど、ブックオフで適当に買って読んでみたらすごくおもしろかった。特にこの本の内容が日本人が外国に留学する話なんだけど、第三章の『爾も、また』の主人公の田中が外国文学者で、しかも研究内容が私が好きなマルキドサドだったから余計に興味を惹かれた。買ったときは、そんなことまったく知らなかったのに、『爾も、また』を読んでいたらすごくサドの話が出てきたから僥倖って思った(笑)そもそもこの本第一章~第三章まであるんだけど、話の内容がつながっていると思ったらまったく別の話で、日本人が海外へ留学するっていう部分しか共通はしていなかった。解説にも書いてあったけど、第三章の『爾も、また』が全体の4/5を占めている。第三章の主人公が、サドが住んでいたラ・コストの城を訪れた時に、近くにいるのに雪が深すぎて近寄れないという描写があってカフカの『城』みたいだなと思ったらやっぱり解説にもそう書いてあった。 もはや第一章と第二章はあまり覚えていないけど、この第三章の主人公の気持ちは体験したことはないけど、なぜか共感した。謎。この本読んでたら本当日本の文化人だとヨーロッパ文化の圧にやられてしまいそうだと思った。特に田中のように文化的なことをよく知っている人であればあるほど。 『我々は別の血液型の人からは血はもらえません。』っていうフレーズを読んで、日本人には日本人の血が、ヨーロッパ人にはヨーロッパ人の血が流れていて、すべてを理解することはできないということを改めて思った。

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    投稿日: 2017.09.13
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    経験しているからなのかな、人の葛藤を描くのが上手いなあと思いました。昇進に悩む社会人とか勉学に励む学生とか、共感できる方は多いのではないかと思った。

    2
    投稿日: 2017.01.05
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    自分も留学している身だが、共感することが非常に多い。留学考えている人はネットにある留学体験談じゃなくてこの本を読んだ方が良い。

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    投稿日: 2014.05.04
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    三部作。最後の話やたら長い。本作も他の作品と同じく西洋文化キリスト教と日本の文化との対峙、本質的な相違について描かれている。 主人公はもちろん遠藤周作ご本人がモデルなんだけど、しかし苦しい。なんでこんなに苦しまなあかんのか。時代ゆえなんか、芸術とか文学を志す者ゆえなんか、とにかく苦しい。文学者として、日本人して、クリスチャンとして、男として、人間としてと、いろんな、○○としての自分がのしかかってきて、押しつぶされている。重い。今時「私らしく」とかいう一言で済まされそうなもんなのに。重い重い。でもそんなものに縛られて必死に逃れようとしてまた何かに引っかかりけつまずき、劣等感を抱いたりプライドを傷つけられたり卑屈になったり、苦しんで苦しんで葛藤して、まさに「身を切り肉を切り」言葉を生み出して何かを伝えてきたのが日本の文士(この言い方は出てこないんやけど)なのかなと思える。私はサドよりそっちをベロベロ舐めたいわ。 サドのことは全然知らんが、主人公が記したサドに関する考察はおもしろかった。しかし、サドの本が読みたいとはあんまり思わん。

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    投稿日: 2014.02.05
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    著者自身の留学経験を下に書かれたであろう、留学経験者で有れば誰でも思わず頷く様な、現地での葛藤や苦労を描いた作品です。 現代社会とは少し違った感覚、古臭い側面も多々有りますが、時代は変わってもこういった気苦労やコミュニケ―ションにおけるもどかしさや歯がゆさは、いつの時代でも変らないみたいですね。 遠藤周作もこういう感情になっていたんだと思うと少し感慨深いものが有る今日この頃です。

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    投稿日: 2014.01.06
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    仏蘭西に実際に留学して西洋文明の理解しようとつとめる日本人との間に存在している溝、それを解消しようとする苦悩が著者の小説の主人公を通じて、ひしひしと伝わってくる。異国情緒。そして絶望。でも、その感情の発露はある意味で正しく自然の成り行きなのかもしれないと感じた。

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    投稿日: 2013.09.13
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    三部作中、小説として完成度が高いのは前二編のように思う。遠藤作品で繰り返し語られるカトリックと日本人とのテーマ。だが自分に一番響いたのは三編目「爾も、また」インテリとしての自負、だが実の所平凡で俗的な自分を自覚し欧州文化に押しつぶされていく主人公。サドを研究テーマとしながら自分とサドの接点などまるでないと悩む。真理を追究もできず表面的にうまく立ち振る舞うことも出来ない。 その姿は、表現すべき中身を持たず、表現の場を得るために上手くコミュニケーションすることも出来ず、それなのに表現することを辞められない自分に酷似。つらい。 時々こういう自分を突きつけられるような体験をするから読書はやめられない。 二回目に城を訪れた時の、喀血と雪のコントラストが実に映像的で鮮やか。

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    投稿日: 2013.07.22
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    情けなさ、悔しさ、屈辱、挫折、失敗…。時代が変わっても、異国で生活する時に直面する困難は同じ。共感する分、暗い気持ちになる。

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    投稿日: 2013.03.19
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    最初の短編しか時間の都合で読めなかったのですが ふまじめでまじめ。 胃が痛くなった。 遊びに行くんじゃない。 でも勉強ってなんだろう 博士になりたいとか 論文を書きたいとか そんなご立派な勉強じゃないんだよ

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    投稿日: 2012.09.02
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    留学というタイトルにまとめられた三編。二つ目と三つ目が印象的であった。自身の留学体験をもとにして、日本と西洋の文化的、と言ったら表面的すぎるだろうか、心理の深層に流れるモノの根本的な差異を謳っている。これだけ読むとそれは混ざり得ないもののように描かれるが、基本的に遠藤の宗教的著作にはこの問題が底流にあり、それは時代をおうと共により「救い」として消化されていると思う。全体で一つの作品といっても言い過ぎではないのではないか。 12/6/23

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    投稿日: 2012.06.23
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    第三章『爾もまた』について ものすごいリアルで、designerの太刀川さんがおっしゃっていた「具体的且つ主体的なストーリーの共有」という話を思い出した。 主人公の田中は非常に悲観的且つ内省的で、自己肯定の難しさを非常に感じた。そこにポイントを置くという事は私もそうだからなんだろうけどw 遠藤周作も留学で苦労したって言ってたし、いちいち田中と遠藤周作を比較してしまう。 主人公の設定をものすごいコンプレックスを持ち、妻以外と関係を持ったことのない、気の小さい不器用な「田中」が「サド」を研究テーマにしたところ、本人もそれを思案しているようにしたところが非常に面白かった。 また、サドについてはあくまで研究対象であり、一切「本人」として登場しないのにサドに感情移入してしまった。遠藤周作の凄さを感じる。 田中のような悲観的な人間が物事を楽観視することって可能なのだろうかと思った。

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    投稿日: 2012.03.20
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    あんなに楽しかったパリ旅行なのに、これを読んでから思い返すとなぜか陰鬱な空と街並みしか思い出せない。共に文化を大事にする国なのに石と藁じゃわかりあえないのね。

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    投稿日: 2012.03.14
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    人が異文化に接したとき、その異質さに打ちのめされることはままある。 あのテヘランの、どんよりした空気の中、ひとりバスに座り帰宅を急いでいたころをぼんやり頭に置きながら、読み進めた作品であった。時代も、場所も、作中の人物とは異なるけれども。 留学経験者には、なるほど頷ける場面が多い作品だとおもう。

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    投稿日: 2011.10.15
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    読んでとにかく「挫折感」が書かれているという印象。 若いころは自分も焦っていたなあと。今は焦らなくなったわけではないが、若い時独特の焦り方みたいなものはあると思う。

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    投稿日: 2011.06.05
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    フランスに留学した留学生が文化や風土の違いに挫折していく姿を描く。遠藤氏自身がフランス留学を経験しているからか、現実味を持って重苦しく迫ってくるものがある。随所随所に配置されたサド侯爵のエピソードが興味深く、良いスパイスになっていたと思う。

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    投稿日: 2010.02.05
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    出てくる人みんな何らかの陰を背負ってるんだけど、妙に共感できます。気分が沈むけど、遠藤さんの描くフランスの情景が魅力的でついつい読んでしまいます。

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    投稿日: 2009.12.20
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    留学経験あり、フランスを巡ったこともあり、キリスト教徒になったこともあり、サド文学を読んだこともある私にとって、この本は、読むべくして読まれた! 「語学力が向上した」「日本文化の魅力を再認識した」「国境を超えた友達が出来た」 そんな楽観的な言葉が聞かれるような留学ではない、これは。遠藤周作のフランス留学の、深い苦しみに、悩みに、私は泣きそうだった。私たちは似たもの同士のような気がして。他の人がいとも簡単に出来ることが、出来ない。根本的な所に行き詰って、考え込んでしまう。私たち、相当人生に不器用ね。 西洋の大きなお世話。Leave me alone!  新しいモノ好き、欧米好きの日本人が、欧米人の大好きな「神」の概念を受け入れないのは何故? 「君のために・・・」この期待に耐えられる?プレッシャーだよ。 皆の期待が重くのしかかる。僕は皆の希望を担っている。皆の星。でも、そんなの鬱陶しい。そんな大役、僕には無理だ。お門違いだぜ。 空気を読む能力に長けているために、ノーと言えない日本人。はっきり意見を言えない日本人。 モラルと和を尊ぶ集団主義の日本人には、神の概念が必要ない。個人主義の欧米人にはお目付け役の「神」が必要不可欠。世界はそういう風にして出来ている・・・? 日本人って難しい。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 「外国文学と自分との違和感をたえず意識している人間」 「自分と全く異質で、自分と全く対立する一人の外国作家を眼の前におき、自分とこの相手とのどうにもならぬ精神的な距離と劣者としての自分のみじめさをたっぷり味わい、しかも尚その距離と格闘し続ける者」 「私生活でも精神の上でもあまりに隔たった人間」 外国文学者の苦しみ。老ハムハムもLewisと?でも、まるで彼と僕。サドとルネ。どうしようもない事実を突きつけられた時、人は自分を見失う。だめだ・・・レベルが違いすぎる!一生かかっても追いつけない!悔しい・・・!僕は愕然とした。

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    投稿日: 2008.02.25
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    遠藤周作自身の留学体験(1950年〜)をもとにして書かれて いる。「ルーアンの夏」の工藤や、「爾も、また」の田中は遠藤周作の分身。

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    投稿日: 2007.09.19