
総合評価
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powered by ブクログ最初の章は「しげちゃんの昇天」。しげちゃんは小学以来の同級生、中学では本読み友達になった。その時のことが綴られている。大学卒業後しげちゃんは信仰の道(修道院)へ、敦子は大学院に進み、その後留学。そして35年が経ち、ふたりは再会することになるのだが。 最後の章は「赤い表紙の小さな本」。ある日見つけたのは、半世紀もまえのBirthday Book、家族や友人の誕生日が記された赤い本。3月のページにあったのは、少女時代にだれよりも影響を受けた親友「しいべ」のサインと敦子へのひとこと。そのしいべの思い出が綴られている。しいべの本名は重子。すなわち、しげちゃんのこと。 この2つの章に、サンドイッチよろしく、14の章がはさまれている。どんな本を、どんな時にどんなところで、だれと読んできたか。どんなことを考えながら、読んでいたか。麻布本村町の自宅から見える情景も詳しく描写されている。それはその時の敦子の心象風景でもある。読書について父親からどのような影響を受けたかも書いている。 須賀敦子は1998年3月20日の早朝に亡くなった。本書はその1カ月後の4月25日に刊行された。
4投稿日: 2025.10.10
powered by ブクログ育った土地、生きてきた時代も違えば読み耽った本もあまり一致しないのに、この本を読んでいる間ずっと懐かしい気持ちで満たされていた。人生についてなにもわかっていなかったはずの子供心には、何かに夢中になっていた記憶とか、すごいものみつけた!という静かな興奮とか不思議とかが殊更にきらめいて焼きつくからなのかもしれない。小さな狭い世界に芽生えたささやかな幸せの感触が思い出されて懐かしくなったのかも。遠い朝。遠くなってしまった。
0投稿日: 2025.09.29
powered by ブクログ少し昔を生きていた方の文章なので、集中しないと頭に入ってこない感じはあった。(私の問題) でも、言葉選びと文のリズムが好きってことだけは実感できた。
0投稿日: 2025.09.17
powered by ブクログずっと読みたい本フォルダに入ってた本、やっと読めたー! 著者の本との思い出、人生と本当の関わりが連ねられていました。著者にとってそれらの本は人生に、とくに深く根付いているんだろう。私も興味を惹かれていくつかの本をメモしました。 読み始めは正直、時代の違い(著者は戦争を知っている世代)などもあってあんまり感情移入できなかったけど、気づいたら2周目を読んでいた。 著者の記憶力のよさ聡明さに脱帽し、子供時代2回引っ越したけど何歳ごろにどの家いたかも定かでないボケーッとした自分との対比が我ながらおかしく思いながら読んでいた。
3投稿日: 2025.09.01
powered by ブクログ翻訳家の著者が、第二次大戦前後の女学校時代や大学院時代に読み、影響を受けたほんと、その本にまつわるエピソードを思い出しつつ、エッセイ形式で綴る。 あいも変わらずあらすじなどを読まずに読み始めるワタクシであるが、1本目は女学校時代の同級生が入院し、その頃に読んでいた本を思い出しつつ女学校時代を思い出すというような話で、普通に純文学のようなストーリーだったため、小説だと思っていた。 しかし、最後の段落で、生きていたと思ったら死んでしまい(本当にどちらが時系列的に先なのかわからない文章)、あれれ?と思ったら、2本目はしっかりとエッセイになっていた。 前半は、いろいろな過去のエピソードに、同級生や両親、妹といった人達が出てくるのだが、ほとんど会話らしきものがなくつらつらと地の文で説明されるため、見た目の割になかなか読み進まない。 ただ、1本目同様に、エッセイらしからぬ詩的な表現が含まれたりするものだから、おや?とおもう分が多々あるのがこの本の魅力だろう。 中盤の家の隣り住んでにいたホトトギス派の実力者俳人の原さんの話など、完全に小説として読んで面白いものだし、映画が1本撮れそうである。原さんの章だけで☆4くらいあげたい。 一方で、サンテグジュペリあたりからの中盤以降の話は、前半と打って変わって文章自体は読みやすくなる。ただ、論文的というか、評論的というか、やたらと固有名詞を叩きつけるような本の解説になってしまって、ほとんど頭に入らずに終わってしまった。父親が薦めてきた森鴎外の本を「旧字で漢字ばかりであって、主人公なども存在しないため目が滑る」と評しているが、実際にそういう文章になってしまっている。 世代的に少し上だし、紹介される本も鴎外を始めとした古典名作か、大学で翻訳した外国文学のようなものが多く、現代では参考にならない部分が多いが、見開きに1つくらいある、なんとも詩的な言葉選びは、一度体験する価値はあるだろう。
0投稿日: 2025.07.17
powered by ブクログ人生の初期に出会った本をめぐるエッセイ集。 子どもの頃、あるいは学生時代に出会い、印象を残した本。 それらは読んだ時の場所、状況、その本を読む上でかかわりを持った人々などとつながり、その人の中に独自の形で残り続ける。 時には忘れ去られていることもあるが、ふとしたきっかけで甦ってくる。 あるいは、年齢を重ねて読み直してみて、かつて気づくことができなかった意味を見出すこともある。 本書を読むということは、須賀敦子というひとを通してそうした経験を追体験することである。 取り上げられている本はといえばー 『小公子』や『愛の妖精』『星の王子様』、『ケティー物語』といった、海外の少年・少女向けの物語。 須賀さんにとっては父の思い出と分かちがたく在る鴎外の『即興詩人』に『平家物語』。 幼いころ無性に悲しい思いになった「刈萱童子和讃」。 中原淳一の挿画で当時の少女たちを魅了した「少女の友」とそこに掲載されていた川端康成の少女小説。 今はあまり読まれていないと思われる本、自分にとっても読んだことがない本もあるが、それでも興味深く文章を読むことができる。 本とかかわりを持つことができるのは、なんと幸せなことだろうか。 中でも、アン・モロウ・リンドバーグを取り上げた「葦の中の声」、小学生の頃、関西から移住した東京麻布の家の隣に住んでいた俳人原石鼎について書いた「ひらひらと七月の蝶」の文章の美しいこと。 リンドバーグの『海からの贈物』は、一度読んでみなくては。 鴎外の史伝に西洋的な技法を見出だすことができるのではないか(「父の鴎外」)という見方は、長年西欧文学の紹介をしてきたこの人ならではの視点だろう。
0投稿日: 2025.04.13
powered by ブクログ戦争中、空襲に逃げ惑い、防空壕まで本を持っていって本の世界にのめり込んだ十代前半の須賀敦子が戦後平和を希求しながら左派カトリック運動に走った須賀敦子の読書体験が素晴らしい文章で書かれのめりこんでしまった。
0投稿日: 2025.01.15
powered by ブクログ某SNSで引用されていた一文に惹かれて購入。 恥ずかしながら、筆者を存じ上げなかったが、本と共に印象に残った出来事を振り返る文章がとても切なく愛おしく感じた。
2投稿日: 2024.05.24
powered by ブクログ須賀さんの本、初めて読みました。 わかりやすく、すっきりとしていながら、やわらかく情景が浮かび上がってくる文章に心が震えました。 見たことのない情景が、目にも心にも浮かぶように感じました。 時を超える感覚が新鮮で、もっと他の本も読んでみたくなりました。
1投稿日: 2023.09.22
powered by ブクログ文章のもつすべての次元を、ほとんど肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り入れてしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶんおなじではないのだ。 幼い時の読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。 いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。
0投稿日: 2023.03.23
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
何よりもまず人間。 詩と自然にひたりたかった私が、なによりもまず人間,というフランスやイタリアのことばに,さらにこれらの国々の文学にのめり込んで、はては散文を書くことにのめりこんでいったのが、ふしぎな気がする。p206 と、かいておられる。須賀敦子さんの、子ども時代学生時代を振り返る本書を貫くのは、読んだ本,作者やその登場人物、行動から本能的に,そして本質的にかぎとり、受け止めてきた、何よりもまず人間ということ。 サンテグジュペリの,人間の土地。飛行機とともに、われわれは直線を知ったという文章がある、と、須賀敦子さんは引いている。牛や羊に依存していた人たちによって作られた、くねくねと曲がった道をたどっていた時代の社会通念と、都市と都市を直線でつなげることを知った空からの視点を人間が手に入れた時代のそれとは大きく変わるはずだと言う事をこの短い文章は指し示しているが、これは宇宙飛行士の視点に通じるものに他ならないだろう。空から地球を見るようになって、と、サンテグジュペリは、書いている。私たちは、(… )宇宙的尺度で人間を判断することになったのだ。人間の歴史を(もう一度)さかのぼって読むことになったのだ。 という須賀敦子さんの文章,は、飛行機により新しい時代新しい尺度新しい人間性を大いに期待しながらも、飛行機により戦争やさまざまな,今ならCO2エミッションなどの厄災ももたらしてきた、インターネットがウェブやコンピュータの登場も当初はなんら同様の直線化による無限の可能性無限の新尺度を期待させながらも、新しき良き時代だけではなく、飛行機でもないさらにドローンなるもので人間も土地も破壊できるようになっている,そんなことを思いながらも、なによりもまず人間なのだという須賀敦子の一貫したよりどころに、救済される。 冒頭と最後の、しげちゃんのこと。くらい戦争の時代を、精一杯カラフルに生きようとし、くらさや嘘,欺瞞、偉そうな感じ,排除やきなくささに敏感になりながら自由自分らしさを求めて生きたおふたり、そこにつながるリンドバーグと一緒に飛行機で冒険したアンモロウリンドバーグの、世界を空から見る目線と,庭に咲く草花や木の芽をありのままに捉える目線。 須賀敦子さんならではの筆致,圧巻と感じるのはやはりイタリアのシエナの坂道の章,シエナの聖女カテリーナとの邂逅。
0投稿日: 2023.03.12
powered by ブクログ学校の職員室に筑摩書房のおじさんが教科書の宣伝にやってこられることがありました。 「先生、これ、どうぞ。」 そういって、机上にそっと置いていただいた「国語通信」で初めて出会ったのが須賀敦子でした。 「国語通信」・「ちくま」に連載されたエッセイ集ですが、どこから読んでも、須賀敦子さんの青春が輝いています。 ブログにぐちゃぐちゃ書きましたが、職員室に座りながら筑摩書房のおじさんと出会ったのは30年以上も昔のことで、須賀敦子さんが亡くなって20年以上たちました。読み続けられることを願う本の一つです。 ブログはその1・その2とあれこれ書いています。こちらからどうぞ。 その1 https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202202010000/ その2 https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202202070000/
19投稿日: 2022.03.25
powered by ブクログそりゃー戦前生まれの方の読書歴だろうな……っていう この世代の方あるあるなんだろうな、この蔵書…と思ってしまう
0投稿日: 2021.01.04
powered by ブクログすごい。本を読み、それを自分の血肉していく、 「食べる」ように取り込んでいく喜び、その凄み。 「星と地球の間で」の章がよかった。 テグジュペリの「戦う操縦士」を読み 自分は今も大聖堂を建てているか?どっかりと安楽椅子に座ってはいないか?と、今立っている場所を確かめる。という。 そう読み取る。思い至れるところ。 そして実際に自問自答し続けていけるところを心から尊敬する。 「君は人生に意義をもとめているが、人生の意義とは自分自身になることだ」 「大切なのは、どこかを目指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」 さようなら、の語源は「そうならねばならぬのなら」なのだそう。 美しい言葉だと思った。 小川洋子さんのエッセイで知った「しげちゃんの昇天」から。 「ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないのよねえ、 それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。」 人が人を思うこと、自分以外は忘れてしまったかもしれないこと、思いを残すこと。 そしてそれをまた覚えていてくれる人がいるということ。 しげちゃんの思い出や言葉が、須賀さんに、小川さんに、そして少しでも私に残っていることのすべて。 タイトルもいいなあ。誰もが心に、遠い朝に読んだ本を抱えてる。 人生に影響を受けている。
4投稿日: 2020.12.26
powered by ブクログ【読了メモ】20代の頃、コルシア書店の仲間たちがすっと入ってこなくて須賀敦子さんには苦手意識があったのだが、30代も終わりの今になって、すぅすぅと、経口補水液みたいに染むように読みました。たぶん、今年中に、一冊は須賀さんを買うと思います(2020.08.30)
0投稿日: 2020.08.30
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
須賀敦子さんのエッセイ。 過去の自分や読書について語られています。 小さいころからの友人、 夙川から麻布に引っ越したときの出来事、 隣人の俳人(原石鼎)のこと、 「少女の友」の中原淳一の挿絵、 などなど。 取り上げられている本が特に有名な本とは 限らないところが興味深く、 「即興詩人」「戦う操縦士」 「幼きものに」を読みたいです。
0投稿日: 2019.07.11
powered by ブクログ大学の国語の入試問題で、「アルキビアデスの笛」が出題されたことがきっかけ。 試験中にも関わらず、楽しんで読んだ覚えがある。 合格したら絶対ゆっくり読もうと思ってました。 時間が空いてしまいましたが、図書館の中にあってよかった。
1投稿日: 2018.11.04
powered by ブクログ翻訳家、エッセイストの須賀敦子による最後のエッセイ集。本が好きで、ちょっと変わった子供だった少女時代からの本との出会いが綴られている。終戦時に女学校へ通っていたという時代背景、住んでいた関西や東京麻布の風景なども活き活きと描かれている。本への愛情と世の中の穢れを知らない少女時代の純粋な気持ちが伝わってくる。
0投稿日: 2018.09.15
powered by ブクログ世界戦争になって、痛いほど詩が欲しくなる日々と、詩などなくても生きられそうに思う日々が交互にあった。 (P.143)
0投稿日: 2018.04.10
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
再読。「星の王子様」「海からの贈り物」との繋がっている静かな文体。サンテグジュペリからの引用「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」
0投稿日: 2017.08.25
powered by ブクログ本が大好きだった著者が子供時代に出会った本たちをエピソードと共に紹介。 静かで美しくゆったりした時間という印象。 子供の頃大好きだった本、大草原の小さな家シリーズを思い出した。 人生に影響を及ぼした本が私にはどれだけあるだろうか、、そんなふうな本の読み方をしたいと思える本でした。
1投稿日: 2015.11.07
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
2015.7.10 幼い頃における本にまつわる体験を静かに語るエッセイ集。 題名が秀逸。エッセイの雰囲気を体現している。 本に囲まれた環境が羨ましい。 本がいつでも側にある、そういう生き方を肯定している。ひたすら本とともに生きる著者の姿に励まされた。 本と共に生きるということの一つの理想を見出した感もある。 行間から本への思いが溢れでている。本とこんな関係を結べたら、これ以上の幸せはない。
0投稿日: 2015.07.10
powered by ブクログ「幼い時の読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかもしれない」
3投稿日: 2014.12.24
powered by ブクログ著者が遠い昔に読んだ本の記憶。 多くの大人が、幼少期に読書という体験をしているはず。 勿論、私もその一人だが著者の様に鮮明に何かを想起させるような物語はそんなに多くは持っていない。 その意味で著者はとても恵まれていると思う。 けれどもそれは、著者の感受性の豊かさにあるようにも思う。 本書を通して、若かりし頃の著者やその情景が読者にも感受性を分け与え、一緒に過ごしていたような身近な気持ちにさせる。 読書の楽しみを読者に強いることなく、自身の経験を通して教えてくれる。 表紙もとても素敵だ。
0投稿日: 2014.06.05
powered by ブクログ読んだもの見たもの感じたことの仔細な記憶がみずみずしいままに書かれていて、読んでいるこちらの切なさを誘う。 小さいころに読んだ童話からサン=テグジュペリ、あるいは森鷗外にいたるまで、なんでこんなにも素直に書けるんだろう。 自分はこのように語るものがあるだろうか…… サン=テグジュペリの話の中で 「行動をともなわない文学は、というような口はばったい批判、理論ともいえないような理論を友人たちと論じてすごした時間を、いまはとりかえしたい気持だし、自分は、行動だけに振れたり、文学にとじこもろうとしたり、究極の均衡(そんなものがあるとすれば、だが)に到るのはいつも困難だった。自分にとっては人間とその運命にこだわりつづけることが、文学にも行動にも安全な中心をもたらすひとつの手段であるらしいと理解するまで、ずいぶん道が長かった。」 この文章に出会えただけで。
0投稿日: 2014.05.03
powered by ブクログ書物をたよりに、フランス、イタリアへ。そして故郷である日本へ。 “吸い込まれるように”本を読み、“本にのめり”こんだ少女は、訪れた街や出逢った人を手掛かりに、書物の続きを紡ぎ出す。 須賀さんの、幼いころからの身の廻りに起きたこと、そしてそれらと処を隔てずに在る書物をめぐる記憶。 ワーズワース “ダフォディル” 谷や丘のずっとうえに浮かんでいる雲 みたいに、ひとりさまよっていたとき、 いきなり見えた群れさわぐもの、 幾千の軍勢、金いろのダフォディル。 みずうみのすぐそばに、樹々の陰に、 そよ風にひらひらして、踊っていて。
0投稿日: 2013.04.15
powered by ブクログ読んだ本を思い返すことは、その時の自分の思い出を手繰ることなんだと教えてくれる。 美しい言葉で語られる情景は素晴らしく、読んでいると須賀敦子さんの思い出に入っていくようです。
1投稿日: 2012.12.01
powered by ブクログサンテグジュペリの「人間の土地」が出てきたりして、ものの見方とか、絆とか、そういうものも考えさせられました。須賀さんて、いい本を読んでるんだなあ・・・というより、いい本を見つける力があるんだろうなぁ。私はいい本だと気づかないまま、その本をブックオフにやってるんだと思うとちょっと反省。
1投稿日: 2012.10.18
powered by ブクログ妙先生にお借りした本。 子供の頃感じたこと、本にまつわること、そういったことを大切に、素直な気持ちで書けるなんてすてき。子供の頃何が大切だったか、どう感じたのか、そういったことを大切にしている人が好き。例えば、中勘助とか。忙しない日々に、つかの間の透き通った時間をもらえた気分。アン・リンドバーグも並行して読んでいる。そんな年頃なのかな。
3投稿日: 2012.09.30
powered by ブクログサンテグジュペリの「星の王子さま」の記述、アン・リンドバーグに関する記述、お父さんやお婆さんに関する思い出と本との接点。柔らかく、優しい文章で、読んでいると何故だかすぐに眠気に襲われてしまって、それはつまらないからではないもので、なーんだ、これ、不思議だなぁ、不思議だなぁ、と思いながら、読み進んでいた。(10/10/23)
0投稿日: 2012.08.17
powered by ブクログ本好きのための本。読書の習慣があれば同じ体験をした記憶がきっとよみがえる。 若い頃の本との出会い。本に関わる友人との巡り会い。それにまつわる記憶。 それらをすべて抱えて生きていくことの覚悟。読書する幸せを実感できます。 著者の須賀敦子は漱石、鴎外、谷崎、川端など日本の近代文学をイタリア語に翻訳されています。 日本での文筆業としては遅咲きで、晩年のわずかな期間に残した随筆は、 うっとりするほど美しい文体、優しくも圧倒的な文章です。
1投稿日: 2012.08.08
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
1年ぐらい前にも読んだけれど、再読。須賀さんの文章は読んでいるとわたしの時間の流れをさりげなく変えてくれるから好きだな。
3投稿日: 2012.03.11
powered by ブクログ感受性の鋭い子ども時代に多くの本との出合いを経験し、それを成長過程の風景と共に記憶している著者を羨ましく思った。 最初は、本との幸福な出会いを綴ったエッセイだと思ったけど、どんな本も出合って不幸になるものはないかもね。 アン・リンドバーグの「海からの贈物」は読んでみたい。
2投稿日: 2012.01.05
powered by ブクログ著者の生きてきた背景や感じ方・考え方・捉え方に共感するところが多く、吸い込まれるように読み終えて、著者が小さい頃から読んだ本についての感想に感化されて何冊か読んでみたいと思った。
0投稿日: 2011.10.22
powered by ブクログ人物評価は難しい。自分の価値観や体験に照らして相手を判断するわけだが、実際は好き嫌いにとらわれているだけのような気もする。感情の後ろを理屈が追いかけているような節がある。脳内では大脳辺縁系にスイッチが入った後で前頭葉が作動しているに違いない。根拠や理由というものは後出しジャンケンなのだ。 http://sessendo.blogspot.com/2011/07/blog-post_7922.html
0投稿日: 2011.07.26
powered by ブクログアン・モロー・リンドバーグの『海からの贈り物』は、名著として名高い。試しに、ある程度本を読んでいそうな女性何人かに訊ねると、「読みました」とか「勿論読みましたよ」と返ってきた。中には「私の一番の愛読書です」と答えたひともいた。単なる随筆の域を超えて女性の生き方の指針たり得る一冊であるらしい(「らしい」というのは、私自身は男で『海からの贈り物』もよく読んではいないからだ)。 そのアンも、多くの場合姓名ではなくてリンドバーグ夫人と呼ばれてしまう。実際、新潮文庫版の著者名でさえ「夫人」となっている。まるで、歴史的な冒険旅行家であるチャールズ・リンドバーグの配偶者であるということが、この女性の最大の存在意義であると言わんばかりの呼称である。 それはともかく、大西洋単独飛行で有名な夫君のチャールズと妻のアンの二人が、カムチャッカから千島列島を経て日本まで、小型機で飛来した時の記録が『北方の旅へ』で、アンの処女作だ。本邦では昭和十一年初出の山本有三編の『世界名作選』(日本少国民文庫)に抄訳が紹介されている。 須賀敦子は、その一文との出逢いと、後に忘れることなく深く刻み込まれたその時の感慨を『遠い朝の本たち』の中に記している。後世に生きる私の眼には、稀代の女流名文家二人の運命的な邂逅に見えてしまうのだけれど、昭和十七、八年ごろと思われる当時の二人は、著名な冒険飛行家の妻に過ぎぬ女性であり、空襲に怯える日本の小さな、勿論無名の少女であった。 リンドバーグ夫妻が千島列島に不時着し、救援を待つ場面の記述がある。その記述を読んだ半世紀後に須賀敦子が回想する。日本のどこなのか、人が住んでいる島なのかどうかもわからぬ島の葦原に浮かぶ暗い機内で、じっと耐える二人の様子が、奇跡的といえる臨場感で迫って来る。そうして、幼い須賀さんは、「いつか自分もこんな風に書きたい」とも思う。そして「アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった」と半世紀後の須賀さんは回想する。それは著作者としての須賀敦子の生成過程であり、同時にひとつの人間形成過の断面図である。しかも極めて見事な断面である。須賀敦子の透徹しきった目と記憶とに鳥肌が立つほどだ。 鳥肌ものの記述はもうひとつ。 アンが日本語の「さようなら」について語ったくだりと、それを読んだ須賀さんの感慨とである。 「さようなら」は「左様ならば仕方ない」という運命を静かに受け入れる、日本人の美しいあきらめの心の表現だとアンは説く。それを読んだ須賀敦子は、外国語の側から日本語を見る視線の透徹性を感得する。やがて川端康成を伊訳し、ナタリア・ギンズブルグを和訳することとなる翻訳家須賀敦子の礎となった原体験だったのだろうと私は解釈する。さらには、日本語からイタリア語、イタリア文化から日本文化へと二つの言語、二つの異文化世界を行ったり来たりするうちに(ちなみに彼女は英語、仏語にも堪能)、自らの中で違和感というものが雲散消滅してゆく、その過程が、須賀敦子の魅力の計り知れない深さと広さとの根源であるようにも私には思える。 60近くになって彗星のごとく登場した彼女は、巡り合わせの如何によってはミラノの主婦として生涯を終えていたかもしれない人だった。登場以来亡くなるまでの数年間に10冊ばかりの作品を遺した。 私は今その十冊ばかりの珠玉の著作群に嵌り込んでいる。順繰りに繰り返しそれらを読み続けている。いつかは、須賀敦子の人と作品の魅力についてキチンと書いてみたいと思っている。だが、今はまだ、伝えきれるような言葉を知らない。それほど広く、深い。 須賀さんは、アンの『海からの贈り物』からもひとつの表現を引いている。それは、人間にとって孤独とは、あるいは一人になることは何なのか、それを問いかけている。私は、須賀さんの人生と作品の奥底にある掴みがたいなにものかを掴むヒントが、そこにある気がする。 アンの一文は以下の通り。 「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時にだけしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならねばならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、なくてはならない中心になるのである」 最後には、一人確固として立っていた須賀さんの内奥に潜む、確かななにものかが見えた気がしてならない。
0投稿日: 2011.02.26
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
小川洋子の『カラーひよことコーヒー豆』の中に出てきた、 まだ読んでいない本だったので迷わず手を伸ばしました。 どことなく寂しく、でもとても幸福な読後感に浸ることが できました。 言葉の選び方がとても無駄がない。そしてすっきり整って 気持ちがいいのです。 幼いころの本との出会いや思い出は私のそれとは全然違って 思い切り豊かなのだけど、出合ったわくわく感はよく分かります。 彼女の文章を読むとたとえ夏の描写があっても初冬を感じる のは、全体に漂うどこか寂しい雰囲気のせいでしょうか。 読み終わるのがもったいないと思ってしまいました。
0投稿日: 2010.12.24
powered by ブクログ須賀さんの本を読むのは初めてではないけどすごく久しぶり。 本に対する思いや本をめぐる出来事について書かれたエッセー集。 この方の感受性に触れることで誰もが優しい気持ちになれるんじゃないかと思います。 全部楽しく読めたんですが、その中に「人間のしるし」という本に関するエピソードがありました。 (私その本知ってる?多分読んだことある?)と思ったものの、借りたのか買ったのか詳しくどんな話だったとかは思い出せません。(後から探してみましたが家にも見当たりませんでした。) もやもやしつつ読み進んでいたら須賀さんがその本の中の一文を引用してました。 それを読んだ瞬間、鳥肌! 私もその部分抜粋してノートに書きだした記憶がある! 思いもかけず須賀敦子さんとの共通点を見つけてすごくうれしくなりました。
0投稿日: 2010.10.26
powered by ブクログ須賀敦子は憧れの人。この本は大変な読書家で「いつも本に読まれて」いた彼女の、本との出合いとエピソードがたくさん書かれている。彼女の作品は私にとって、読むたびに刺激を与えてくれる特別な存在。背筋を伸ばして潔く生きていた彼女が選び抜いた言葉は本当に美しい。だからページをめくるのも勿体無くて時間をかけて読む・・。とても大切な本のひとつ。
0投稿日: 2010.07.27
powered by ブクログ遠い朝・・・まだ人生の深さなど知らなかった少女時代・・・そして、大人になるまでに読んだ本の思い出をその時代の風景やエピソードを織り交ぜて語っている。単なる本の紹介でなく、その本と自分との関わりを美しい文章で綴られている。 中でも、サンテグジュベリ(星の王子様)やアン・モロウ・リンドバーグ(海からの贈り物)への深い思いに共鳴してしまった。 ちゃちゃ
0投稿日: 2010.04.23
powered by ブクログ1929年生まれで、翻訳家、エッセイストとして活躍された須賀敦子さん。 幼い時の思い出と共に、その時々で夢中になった本たちについて書かれています。 本好きにはたまらない内容でしたが、文章も素晴らしく、須賀さんの目を通して見た昭和の風景が浮かんでくるようでした。 サン・テグジュペリに夢中になったり。 アン・リンドバーグの文章に感化されたり。 自分も読んでいた本が出てきたりすると嬉しくて、勝手に親近感を感じたりしていました。 特にアン・リンドバーグの『海からの贈り物』というエッセイは大好きで、たくさんのことを教えてもらった本だったので、須賀さんの感想にすごく共感してしまいました。 アン・リンドバーグは大西洋単独横断飛行を成し遂げた、チャールズ・リンドバーグと結婚した、自身も飛行機を操縦する女性飛行士で、夫婦で日本にも訪れています。 興味を持った本もたくさんありました。 例えば森鷗外の『澀江抽斎』や翻訳した『即興詩人』なんて、読んだことがなかったので、とても読んでみたくなりました。 とてもたくさん本を持っている友達が、なかなかその本を見せてくれないので、思わず「ケチ」と思ってしまうところとか、子どもの頃から本に魅せられていた須賀さんの気持ちがすごくわかる☆ いい読書ができました。
0投稿日: 2010.01.31
powered by ブクログある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、長い時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えていたことがどっと心に戻ってくることがある。 それが著者は外国の言葉、動詞だそうな。こういう話を読むのも面白い。幼少時代に読んだ本ってけっこう大事なんだなと改めて思ったり。 そしてコピー機のない時代の大学生活というものに思いを馳せてしまった。
0投稿日: 2010.01.17
powered by ブクログ(2004.05.26読了)(2001.03.12購入) 幼き日々に出合った本の思い出を綴ったもののはずなのだが、須賀さんの他の本と同様、思い出の本はどこへやら、自分の話し、友人の話になって、嗚呼そういえば本の話だったわねと、本の話に戻る。読んでるほうもそうそうそうだった、と話の発端を思いだす。 ●しげちゃんの昇天 小学校の同級生で、大学も一緒の大学だったしげちゃんとの交流の話。 神戸の六甲山の近辺で育ち、父親の仕事の関係で、東京へ移ったが、戦争が激しくなったので神戸に戻り、専門学校、大学とまた東京で過ごした後、大学を卒業するに当たって、須賀さんは「学生の一人一人を、厳格に、しかし丁寧に育てるというような校風が、そのころはうっとうしくて、私は一日も早く、学校の枠から逃れたいと焦っていた。それでいて、卒業して関西の家に帰るのも死ぬほどいやだった。家族との日常に戻るのが、黒い雲の中に入れといわれたように、重く、息苦しく思えた。」「私たちの世代の女子学生の多くがそうだったように、本を読むことが、職業になるとも考えず、結婚以外に女として誇りを持って生きる道はすべて閉ざされていたような、頼りない、暗い、閉ざされた日々だった。」と心境を述べている。須賀さんは、1929年の生まれだけれど、先日見た「堀文子展」のパンフレットに、1918年生まれの堀さんが画家を目指した理由として「女性が学問を志したり自立する自由がない時代、何人にも支配されない真の自由を求めて」と書いてあった。女性にとって自由に生きるというのは、難しいことなのかもしれない。男は簡単というわけでもないけど、比較の問題として、難しさの度合いが違うのかもしれない。 1986年に病気療養中のしげちゃんに、「調布であった時、大学のころの話をして、本当にあのころは何一つ分かってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。本当よねえ、人生って、ただ事じゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きていた。」という話をした。 僕も50数年生きて来たけど、人生ってただ事じゃない! ●父ゆずり 「幼いころは、父が本を買ってくれて、それを読み、成長してからは、父の読んだ本を次々と読まされて、私は、知らず知らずのうちに読むことを覚えた。最近になって、私が翻訳や文章を発表するようになり、父を知っていた人たちは、口をそろえて、お父さんが生きておられたら、どんなに喜ばれたろう、という。しかし、父に教えられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える。」 僕も神さんも本が好きなので、子供たちには、絵本から始まって、童話、マンガ、少年少女向け、といろいろ買い与えてきた、幸い本好きに育って、いまは、宮部みゆき、江國香織、川上弘美などを家族で回し読みしている。子供にはもっと古典を読んで欲しいのだが、学校で宿題にでもならないと読まない。自分で必要と感じて読む気にならない限りどうしようもない。読みたいけど、あるかなと聞いてくる本については、ほいほい喜んで貸したり、手元に無い時は、探してきて与えたりしている。自分で買うのに任せればいいのだろうけど、ついつい面倒見てしまう。子離れしないと。 須賀さんの本では、父からもらった本として、「即興詩人」が出てくるが、まだ読んだことが無い。気になる本ではある。 ●葦の中の声 「アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり埋める見送りの人たちが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、新しい感動に包まれる。「さようなら、とこの国の人々が別れに際して口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。」 さようならは、「それではこれで」みたいなものと思っていたのだが、あきらめの表現だったのだろうか? アン・リンドバーグは、「海からの贈り物」の著者で、飛行家のチャールズ・リンドバーグの妻だという。 ●ベッドの中のベストセラー 「私の中には、旅に出たいと、遠くの土地にあこがれ続けている漂白好きの私と、ずっと家にいて本を読んでいれば満足という自分とがせめぎ会って同居しているらしい」 本が好きで、本を読むだけで満足というわけに行かずフランスやイタリアに留学した須賀さんの自己分析。僕は、須賀さんみたいに探究心旺盛ではないが、本の虫であると共に、ヨーロッパ(ギリシャ、イタリア、スペイン、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、オーストリア、ロシア)、中南米(メキシコ、ペルー)、中近東(シリア、ヨルダン)、2度目のイタリア、エジプトと旅行してきた。(パック旅行だけど) ●赤い表紙の小さな本 「詩というものに惹かれるようになったのは、小学校の5,6年のころだったろうか。それはちょうど、「私」という言葉が、ものを書いたり、言葉を話したり、歩いたり、笑ったりしているこの自分全体を指すのだということに気付いて、それをまるで重大事みたいに、凄い、凄い発見しちゃった、と騒ぎまわっていたのを、級友たちに、当たり前じゃない、と軽くいなされて落ち込んでいた、ちょうど同じころではなかったか。」 詩は、言葉に対する感性の問題という面があるので、「私」という言葉の意味を発見して、大騒ぎする須賀さんは、感性豊かで、詩を味わうに相応しい人ということになると思う。 上田敏の訳したダヌンツィオの詩「燕の歌」は、 彌生ついたち、はつ燕 という風に始まるという。ところが、原文では、 聖ベネデットの祭りの日の、ことしはじめてのツバメよ となっているという。聖ベネデットの祭りの日というのは3月21日なので、これを彌生に置き換えたのだろうという。21日ではごろが悪いからついたちにしてしまうというのもなんとも凄い。
0投稿日: 2009.11.17
powered by ブクログこの本の中で知った、「さようなら」という日本語の意味。 「そうならねばならぬのなら」・・・本当に、なんて美しい諦めの表現だろう。須賀敦子さんは、アンの文章を読んで「もう一度日本語に出あった」のだろう。私は、須賀敦子さんが紹介してくれなければ一生このことばの意味を知ることはなく、感動もなく使っていただろう。 須賀敦子さんの文章には、必ずはっとさせられる。
0投稿日: 2009.11.03
powered by ブクログぐっぐっと何か力をいれながら書かれているようで、 ひとつひとつ選び抜かれた言葉が重い。 はじめとおわりが、著者の友人じげちゃんの昇天。 やさしい言葉と、正直なことばでかかれているから、 なんだかとても心にしみて、 ついうるうると来てしまう。 著者の読書歴を垣間見ると、自分は読書好きではあるけれど、読書家ではないと思い知らされる。 父親との本でつながれた関係には自分を重ねたし、 本を通じて「あの時の自分」を手繰り寄せられるのは うらやましくて、自分も将来そういう風にできような そういう読書をしているかと問うてみることにつながった。 私の好きな米原万里も、須賀敦子も、 自分の昔を振り返って「少女時代」という言葉を使うが、私は自分の幼いころをどうしても「少女」という言葉で捕らえられなくて、すごく新鮮だった。 私もいつか、自分の昔を「少女」として受け止めるのだろうか。 「そのために自分が生まれてきたと思える生き方を、 他を顧みないで、徹底的に探究する」というくだりに 線を引いた。
1投稿日: 2009.07.20
powered by ブクログ筆者はイタリア研究で有名な方。多読家ですね。幼少時期からの読書の思い出を綴っている。 ムンバイからのフライトで読む。
0投稿日: 2009.05.29
powered by ブクログああ、私が大事にして読んだ「ケティ物語」。想い出させてくれた。私にとっても「遠い朝の本たち」がたくさんで、忘れられない。これが、彼女の「遺著」である。帯に本文からの引用がある。 あの本を友人たちと読んだ頃、 人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじくらいゆたかな光に満ちていることを、 私たちは想像もしていなかった。誰にでも「遠い朝の本たち」があって、そして須賀敦子という人の書くものは、これからはもう増えないのだ、と、少し震えるような心で読んだ。
0投稿日: 2008.08.27
powered by ブクログ須賀敦子さんの文章って、声に出して読みたくなります。母も「海からの贈りもの」を持っていたので、今度読んでみよう!
0投稿日: 2007.05.22
