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恐山―死者のいる場所―(新潮新書)
恐山―死者のいる場所―(新潮新書)
南直哉/新潮社
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総合評価

35件)
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    法話調で、でも全然お坊さんぽくなくてめちゃくちゃ読みやすかった。知性は最終的には哲学・宗教に向かうのかもしれない。つまり人生が一番の難題だから。 死そのものが何であるか…社会における死の扱い、弔い、死者の死を受け容れること…大切な友達のことを想いながら読みました。

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    投稿日: 2025.03.13
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    南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。 恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。 本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。 しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。 この事態にどのような解釈を考えれば良いか。 そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。 仏教に興味が無くても、人生について考えたい人におすすめの一冊。 強く心揺さぶられた内容は多すぎて割愛。

    3
    投稿日: 2024.11.04
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    宗教というより、死とどう向き合うか、に重点が置かれている。 南さんの考えをもう少し聞いてみたいというのと、曹洞宗の教えとは?というのに関心を持った。 死とは生者のもの。

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    投稿日: 2024.10.07
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    読み進むうち、涙がこぼれて仕方がなかった。自分にはまだまだ時間が必要なのだろう。 近いうちに、恐山に行こうと思う。

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    投稿日: 2023.08.03
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    イタコとは全く関係ありませんといいながら、イタコの不思議な力の実例?について紙面を割いているのはよくわかりませんでした。また時間をおいて読み返してみようと思います

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    投稿日: 2022.03.15
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    どんな他者であれ本来的に了解不能なもの。誰だって他者のことはわからない。他者は懐かしくて怖い。ましてや死者はもっと懐かしくて怖い。 死者に会いに行ける場所である場所と同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作る事が出来る場所。 供養とは死者の問題ではなく、残った者の問題。 どのようにするかは残った者に任せるのが良い。 弔いという行為がないと別れは別れにならず、死者として存在できない、つまり残った者と新しい関係を結ぶことができない。

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    投稿日: 2021.08.31
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    ・もし友達でも何でも、赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人がもし五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。そんな人はなかなかいません。あるとしたら、とても苦しい時間と経験を分け合った人だけでしょう。状態が上向きで追い風の友だちなんて、条件が変わればあっさりと裏切ります。苦しくて切ないときに隣にいてくれた人というのは、大事にすべきです。(p62) ・友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかしそれが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに残存し、消えっこないのです。(中略)その関係性や課せられた意味はなくならない。息子がこの世に生きているかどうか、物理的に存在しているかどうかは関係ありません。(p132)

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    投稿日: 2021.01.05
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    イタコさんは恐山に属しているものだと思っていたので 違うことが分かってびっくり。 これからのお葬式の在り方について。 葬儀という儀式は、仏教の経典とは結びつかない。 形式的な儀式でお金を稼ぐのではなく “あのお坊さんに送ってもらいたい”と思われる お坊さんにならなくては。 のくだりに、納得。 南さんご自身は、どんな悩みを解決したくて 宗教の道に進まれたのか気になる。

    0
    投稿日: 2020.09.11
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    至極真っ当なことが書いてある本。逆に言えば、今の仏教界ってまともではないとも言える。正面から死を考える筆者は素晴らしいが、いささか今の自分には重い。 軽やかに生きたいがそれができるのは幸せだからか。

    2
    投稿日: 2017.11.24
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    南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。 著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。 その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。 その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。 「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」 「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」 「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」 「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」 そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。 (2016年7月了)

    1
    投稿日: 2016.07.02
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    恐山の住職代理である僧侶が恐山の本質を説いた本。「死」について考えるうえで、様々な洞察を与えてくれる。 恐山は、「もう一度会いたい 声が聞きたい」「また会いに来るからね」という生者の死者への想いによって支えられてきた「パワーレス・スポット」だという。死者は実在する。それは、幽霊や死後の世界があるというのではなく、死は生者の側にあり、生者の抱える欠落なのである。

    0
    投稿日: 2015.11.15
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    1200年続く霊場、恐山。いつか行きたいところ。開山期間は5/1-10/31。結界門、宇曾利湖、四つの外湯、イタコ、無記、7/20-24大祭、地蔵会、地獄谷、賽の河原、極楽浜、魂呼び、あなたがそこにいてくれるだけでうれしい、パワーレススポット、永平寺のダースベイダー、獅子吼林サンガ、恐山には死者が実在する、一番の供養は死者を想い出すこと。

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    投稿日: 2014.07.21
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    恐山=パワースポット 恐山=霊が集まる という固定観念がこれ読んで無くなった。儀式や慣習など形を遥か超越した「死者」への想いによって支えられ、存在する恐山を知ることが出来た。 本の後半部分は作者の死生観がメインに進むが、住職の方からダイレクトに発せられる「死」への考えは、今後の自分に何か見えない影響を及ぼすと思う。 素晴らしい一冊でした。

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    投稿日: 2014.01.31
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    著者の南直哉さんは『老師と少年』で知った。早稲田の文学部を卒業後、いったんは就職するものの脱サラ。その後、出家・得度したあとに永平寺で20年間の修行。現在は恐山の菩提寺院代という、かなり変わったキャリアだ。ブログも書いているが、ときどき覗いてみると面白い。 http://indai.blog.ocn.ne.jp/ 恐山は1200年続く霊場だ。いま現在、曹洞宗の寺があるのは単なる成り行きに過ぎない。寺ができる前から、恐山は霊場としてそこにあった。恐山での圧倒的なリアリティーに触れた南さんの問いは、「死者とはいかなる存在なのか?」である。 南さんが恐山でつかんだ感覚としては、死は死者の側にあるのではなく、死者を想う生者の側に張り付いているという。なぜなら、死こそが生者の抱える欠落を表すものであり、欠落が死者を想う強烈な原動力になっているからだと。ただ、生者は死者という「不在の関係性」を持ちきれない。その代わり、死者にその「不在の意味」を担保してもらうほかない。死者に関係性や意味を預かってもらうしかない。そのための場所が巨大な器としての恐山だと。 あとがきには、出版間近だったときに起こった3.11についても触れている。近代システムは病気の克服や延命に注力し、死と死者を嫌悪した。生産と消費と交換の効率を追い求めるシステムは、結果として生者の意味が軽くなった。そして、その関係性の中にある死者の意味も軽くなった。だが、3.11はその意味を問いただしている。

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    投稿日: 2014.01.03
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    実際に訪れて感じた、物寂しさと異様な迫力はどこからくるのか気になって読んだ。 院代の南直哉って人の考え方はとても新鮮で、もはや仏教徒ではなく哲学者なのね。宗教って聞くと胡散臭いイメージばかりがあったが、そのイメージが一変するくらい、論理的だった。

    0
    投稿日: 2013.10.18
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    死は生者の側にあるーーー 納得でした。 まだ、身近な人の死に直面していないから、死、死者、魂、供養などについての私のイメージはぼんやりしているのだろう。亡くなった方から何かが発信され、誰もが同じように感じるのではなく、自分の中で形作られていくものなのだろう。安心した。様々な宗教があることも許容できる。 ただ、そばにいた人が急にいなくなる恐怖は味わいたくない。考えるのも怖い。 イタコと寺が無関係というのも驚きの事実でした

    0
    投稿日: 2013.09.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    納得でした。 人を失った時、自分の心に余裕がないと悲しめない。 その人の中では死者にならないから。 葬儀という形で死者として認識することもある。 認識する為の、死者との距離を理解する為の葬儀という儀式。 悲しんで日常が壊れることを恐れた時、私は失ったことを見聞きすることを自分に禁じ、意識する余裕のない日々を敢えて作り出した。 その時、元々余裕のない時期でもあったし。 そのまま、私は今に至っているけど、どうなんだろう? 失った人を私は死者だと認識出来ているのだろうか? 涙せず過ごしている私の中では、死者になっていないのだろうか。 それとも、私にとっては、結局それほどの人ではなかったのだろうか。

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    投稿日: 2013.07.17
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    恐山の菩提寺の住職代理である著書は「恐山はパワースポットではなくパワーレスな場所」と言う。 一方の死によって関係が止まってしまった場合、悲しみや後悔が生きている者に残ってしまう。遺されたものがもう一度死者と向き合い前に進むために死者との関係をいったんそこでおろすため、なんでも受け入れる場所という意味なのであろう。 この本を読んで1週間後に父を亡くした。生涯忘れられない1冊となった。

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    投稿日: 2013.02.14
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    死は観念的なものであり、決して理解できるものではない。けれども死者はリアルな存在である。ふとした時、死んだ人間の言葉や立ち振舞いがとても懐かしく思い出されることがある。それは自分は他者との関係性の中に存在するものであると同時に、死者との関係性、著者の言葉を借りれば「不在の関係性」の中にも存在することを意味するものだろう。死んで姿形はなくとも、全てが消え去るわけではないんだと。一度、恐山に行ってみたいな。

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    投稿日: 2013.01.07
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     恐山は仏教施設でもなければパワースポットでもない。弔いの場である。では、「弔い」とは何か。人間にとって「弔い」とは。そんなことが書かれている。  難しい言葉を使わず、簡単には言い表せないことを伝えようとしていて、それがかなりの程度成功しているように思える。宗教の話というより哲学の話に近い。竹田青嗣の文体とイメージが重なる。本全体の構成も巧み。  恐山の紹介本ではない。しかし本題にからめて、恐山の様子がうまく紹介されている。(自分が行ったことがあるからかもしれないが)。このあたりは、法話のうまい坊さんのイメージだ。  短くて読みやすく、恐山についての好奇心も満たしてくれつつ、「弔い」の意味について深く考えるきっかけを与えくれる良書だ。

    0
    投稿日: 2012.11.28
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    タイトルが恐山という事もあり、おどろおどろしい内容なのかと思っていたら、イタコのエピソード、現代の死生観、仏教のあり方、そして恐山がパワーレス・スポットである理由など、普段考えることを忌避する死について語られていた。 文体はとても読みやすいのに、一度読んだだけでは全てを吸収することが出来なかった。 個人的に名著だと思う。

    0
    投稿日: 2012.11.01
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    ほとんどの悩みは競争と取引から生まれる。 この二つを何とかしてしまえば悩みなんてなくなるんですね。

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    投稿日: 2012.10.31
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    恐山のお寺とイタコは関係がないってのが衝撃やった。 まぁ、死んだ人の魂は、この世にもあるってオレは思うけど、 それより確かなのは今生きている人の中に死者がいること。 そのことを実体験を通じて教えてくれている本。 http://www.amazon.co.jp/恐山-死者のいる場所-新潮新書-南-直哉/dp/4106104644/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1350909990&sr=8-1

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    投稿日: 2012.10.22
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    恐山のお土産売り場で買いました。帰りの電車用に。恐山ガイド的なものではなく、死について恐山という装置を使ってわかりやすく説明してある本でした。このお坊さんは頭がいいなと思いました。

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    投稿日: 2012.10.18
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    この本を読んで救われた。 「恐山」のイメージも変わった。 心の拠り所というか、持ちきるのに耐え難いものを、預ける場所というモノが、どこか?というだけのことなんだと思った。 お墓だろうが、仏壇だろうが、恐山だろうが、それはその人が決めればいい。

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    投稿日: 2012.09.20
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    このレビューはネタバレを含みます。

    日本一の霊場といわれる恐山とは何なのか。禅僧の著者は恐山を「死者への想いを預かる場所」だと語る。つまり、生者が死者との距離を見いだす「場所」なのである。イタコによる口寄せなどキワモノ・イメージの先行する「死者のいる場所」像を一新する

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    投稿日: 2012.09.15
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ラジオで紹介されていて面白そうだったので手に取った本。恐山に訪れる人々と日々接しているうちに、仏教の教えだけでは理解できないことを痛感。死者を弔うこととは何かという問いに対する答えは平凡ながら、体験を通した文脈で説明されると納得がいくものだった

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    投稿日: 2012.08.11
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     深いテーマにもかかわらず、本書のメッセージは非常に明瞭。死とは生者が死者との間に築いていた関係が欠落することであり、それゆえに死者よりも生者の側に近いということ。そして恐山は何も無い場所であるがゆえに、生者の抱えているやり場の無さを引き受けることができるということ。  同僚から「信仰が無い」と言われるという著者は、生者のリアリティの側から死を考えている。それが今の仏教界においてどういう立場なのかは分からないが、一般的に先入観を持たれやすい恐山という場所にマッチしているのかもしれない。  以下余談。永平寺の修行を描いた『大禅問答・法戦』というドキュメンタリがあるが、会社員を辞めて入門したての著者も出演している。

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    投稿日: 2012.07.15
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    「死者との適切な距離をどう保つのか」特に変化の激しいこれからの社会においてどう築いていくのかが我々に問われている。人それぞれだからそこには正解はない。でも距離を取るために何かが必要なのは確か。その一つが恐山なんだとも思う。普段死についてなんてあまり考えた事がないから頭がグルグルしたなー。

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    投稿日: 2012.07.14
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    伊勢神宮が式年遷都でパワーを新しく取り入れ続けるのなら、恐山はその逆だ。何もない空虚が人の思いを1200年間も吸収し続ける場だ。人は死ぬとどうなるのか。それは死者にしかわからないだろう。恐山の禅僧、かく語りき。

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    投稿日: 2012.07.01
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    日本一の霊場、口寄せするイタコ、死者との邂逅。そんな場所としての イメージしかない恐山。 その恐山の菩提寺の住職代理が綴った書ということで軽い気持ちで 手の取ったのだが、いやはや考えさせられる。 死というものは死者の側にあるのではなく、生者の側に存在するって かなり哲学的なのだけれど、亡くなった人には死はもう訪れないんだ ものなぁ。 恐山に足を運び、死者を悼む人たちとの会話は「弔う」とはどういう ことなのかを示唆してくれるし、死者とどう向き合うかのヒントをくれる。 テレビの心霊番組などの影響もあるのだろうが、おどろおどろしい イメージがあった恐山も本書を読むと死者を追悼し、思いを馳せる 場所であることが分かる。 幽霊もUFOも見たことがないが、これまで1回だけ不思議なことがあった。 亡父の葬儀が済んだ夜のことである。 お骨となって家に帰って来た父の前で、父の仕事仲間たちは早過ぎた 死を惜しんで遅くまで遺骨の前で酒を酌み交わしていた。 父の遺骨を安置した部屋から少し離れた部屋で床に就こうとして いたのだが、何故か左肩だけが重苦しくて眠ることが出来なかった。 日付が変わる頃、父の友人たちが帰って行った後に遺骨を安置した 部屋に移ると、方の重さがすーっとなくなった。あれは父が「傍に いろ」と言っていたのだろうか。 尚、著者である僧侶はせっかく恐山に来たのだから幽霊を見たいと 夜間に宿坊の周りを歩き回って、宿泊者に幽霊だと思われるなんて ことをしている。僧侶としては少々アウトサイダーなお人だ。

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    投稿日: 2012.06.11
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    氏の「死者のリアリティと生者のリアリティは同じである(146頁)」という思想が、いかにも住職さんらしい。 死が、生の延長線上にあって、独立していない。 また、こんな言葉遣いも。 「人間が不死を得ない限り、死と死者というのは、絶えず生まれてくるものです(150頁)」 死者は、生まれ続ける。

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    投稿日: 2012.06.05
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    死というものを考えるシリーズで読んだ。 死者とタイトルに入っているが、別に心霊現象とかは出て来なくて、恐山という場所がそこを訪れる人々にとってどういう場所なのか、恐山の住職としての立場から考察した本。 死者とは何なのかなんて、真面目に考えたことは無かったが、本書が言う通り、確かに死者は存在する。 生前にその人が自分にもたらした影響は、いつまでも記憶に残る。 それは、もはや自分の人格の一部を形成しているということだ。 それが存在でなくて何であろうか。 よく死者は心の中にいつまでも生き続けるというが、本当にそうだと思った。 しかし、現実の存在として、その人がある日突然居なくなることもまた、確かだ。 心の中の存在と、現実の不在。 生前の故人との関係性が濃ければ濃いほど、別れが突然であればあるほど、両者のギャップがもたらすバランス感覚の喪失は大きい。 まず恐山に彼が居ると仮定することで、喪失感を補い、長い時間をかけてバランスを取り戻して行く。 恐山とはそういう役割を担った場所なのだ。

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    投稿日: 2012.06.04
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    このレビューはネタバレを含みます。

    何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。 このボロッとという表現がよかった。 ああ、そーだよなーって。 なんかしっくりきた。 んでもって、その無意味で無力な存在を ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、 それが必要なんだ、ということ。 たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」 そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。 もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、 そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。 まあ、そう思えれば、だが。 でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。 理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで 認めてくれるとゆーこと。 魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。 うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。 だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか? 人間性が浅いってこと? 私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。 あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。 まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。 死は確かにいつも側にある気がする。 でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、 怖いのと同時に憧れもある。 ちょーめんどくさがり屋な私としては、 生きてることだってめんどくさいとゆーか。 好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、 思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。 偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。 それはきっと楽したいだけなんだけど。 ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。 そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、 そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。 そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。 お釈迦様は正しい。 考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。 それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。 そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。 存在する死者、は私にはまだいない。 その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。 ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。 だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。 存在の欠落。 ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。

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    投稿日: 2012.05.31
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    非常に興味深い内容だったので、途中まで立ち読みして購入。 ところどころハッとさせられる箇所もある。 生者にとっての死者の存在のあり方。死者への想いを受け止める場所の一つとして恐山があることがよく分かる。 一つの本としては、まとまりがなく、ばらけた感じがする。筆者である南直哉という人のクセの強さもなんだか感じられる。鼻につくというほどでもないけれど、そこがアクみたいに残った。

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    投稿日: 2012.05.14