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呪いの時代
呪いの時代
内田樹/新潮社
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総合評価

104件)
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    安倍批判を除けばごもっとも。 ただ、どうしてこのくらいの人には赤いのが流れているのか……。 サイゼリヤなど大変な飲食店で一年くらいアルバイトで働けばだいぶ思想も変わるのではないか。 高度な机上の空論に見えるところもちらほら。

    0
    投稿日: 2025.09.10
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    ー 私たちが共同体として生きてゆくために必須の資源を「社会的共通資本」と呼ぶ。大気、海洋、森林、河川といった「自然資源」、交通・通信・上下水道・電力といった「社会的インフラストラクチャー」、司法、医療、教育といった「制度資本」がそれに当たる。これらはどのようなものであれ、政治イデオロギーやマーケットに委ねてはならない。専門家が専門的知見に基づいて、管理運営しなければならない。「森林をこうした方が金が儲かる」とか「医療はこうする方が政治的に正しい」というようなことを言わせてはならない。政治的正しさや市場的価値は所詮「脳内」の現象である。平和で安全な場所でなら、いくらでも論じるがいいし、人々がそれでつかみ合いの喧嘩をしても私は与り知らない。だが、大気や森林や、水や食べものや、裁きや癒しや学びは「生身の人間が集団として生き延びる」ために必須のものである。それは、フェアで合理的な管理システムのもとに、価値中立的な立場を貫く専門家によって運営されていなければならない。どのような政治的な正しさとも費用対効果とも無関係に、純粋に専門的な見地から、国土の安全と国民の幸福だけを配慮する人々によって管理運営されねばならない。 ー 12年前の作品なんだけど、今読んでも違和感はない。 何となく積読本にあったので読んだだけだけど。

    0
    投稿日: 2023.10.28
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    女性へ告白する際に「今付き合ってる人いる?」と聞くのが卑怯だという話があったが、個人的には「それくらい許してやれよ」と思った。相手に彼氏がいるかどうかは素朴に気になるのが当たり前だし、質問する男性は別にそこまで深く考えてないのでは?「女性が強くなった」現代では告白したことをネタにされ周囲に言いふらされて自分の身が危うくなるリスクもある。 お見合い婚を肯定するくらいなら、交際の始まりがその程度の優柔不断であることくらい目を瞑ればいいのにと思う。「男女平等」が正しいとされているのに、世の中の殆どの女性はそのような優柔不断なアプローチ「すら」自分からはしようとしないのだから。 またこれは筆者ではなく本書に登場する女子大生についてだが、草食男子が「弱者を装うことで利益を得る」ことに関しても、女性という生き物がその総本山のようなものなのに、いざ男が同じことをすると批判するというのも自己矛盾だなと思った。

    0
    投稿日: 2023.08.20
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    ちょこっと、今個人的に、ドロップアウトしていて、本を読み漁ってて、出会得てよかった本。 語彙が豊富なので、よくわかる。 私的には今抱えてるしこりが 聴き手の判断力や知性を信頼して、敬意を抱いて語れなくなる呪いにかかってるからということに気付けた。 自分のこと、"たかだかこんな奴だけど、嫌じゃない"と自分をよしよしして、人に許せる自分を取り戻さなあかん。呪いがかかってないか、日常的にチェックもいるな。

    0
    投稿日: 2019.08.09
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    久々のウチダ本は相変わらずの切れ味。 ワタシは内田センセイが以前から唱えている「贈与論」には強く共感している。考えてみると、先輩から「お前が先輩や上司の立場になったらおごってやれ。金はそうやって回る。」と言われていつもおごってもらったり、アントニオ猪木が「笑顔は施しだ」と言っていたり、先日読んだ『モリー先生との火曜日』でモリーが「ほんとうの満足は『自分が人にあげられるものを提供すること』によって得られる。」と言っていたのも、実は根っこは贈与論なんだと思う。贈与万歳。これからも贈与できるものは贈与しよう。

    2
    投稿日: 2018.11.18
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    日本のことを捉え直すに役に立つ好著。エッセイ的に色々な角度から日本という国を見つめ直すことができる。オバマの章にあった、アメリカを覇権国家たらしめている、根底の話が面白かった。アメリカにあって、ヨーロッパにないもの。こういうことも踏まえていかないと、日本という自分の国を理解するにあたっても、誤った理解をしてしまうと思った。英語が要らない日本という国の章も必読と思う。

    0
    投稿日: 2018.11.12
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    他者への攻撃で自尊感情を満たす行為「呪い」は、対象が抽象的になるほど威力を増して、自らを巻き込んで破壊するというお話など。私自身、レッテル貼らないで目の前の個々人やら出来事やらと向きあえてるかな、と反省。悟りきった結婚観とかペルソナの話も面白かった。

    0
    投稿日: 2018.11.10
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    ¥ mmsn01- 【要約】 ・ 【ノート】 ・ハッとさせられる知見や洞察、しかし、相変わらずところどころでなんか鼻につく内田節。自分にとってはちょうどいいテキストなのかも知れない。 ・「呪い」についてのセンセーの洞察にやられちゃって買い求めた本書だが、呪い自体についての言及はそれほど多くはない。ただし、色々な形質での呪いについて言及してはいるけど。その意味では、第1章と第2章がタイトルに即応した本書のコアだと思った。 ・最終章でポパー「開かれた社会とその敵」を題材にしていたとはすごいすごい。あまりよみこまずに、自分で読んでから照合させてもらおう。

    0
    投稿日: 2018.10.28
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    鬱々としていた頃に読んでいた本。自分でも世界を呪いながら、不特定多数からの敵意のようなものが世に満ちていることに辟易としていた。著者の勧めるように身体感覚を取り戻すことを心がけるようにし、そうこうするうちに本自体を読まなくなってしまったという、私に転機をもたらした一冊のうちの一冊。 今の私はかつてほどビッグワードは使わないし、何かお得なことが/面白いことが/特別なことが 起きないかなぁ〜というモノ欲しい気持ちが薄れ、感謝と他者への祝福とが自然にできるようになった。 呪いの時代なのはきっと変わっていないのだろうけど。

    0
    投稿日: 2017.07.02
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    このレビューはネタバレを含みます。

    レヴィ・ストロースものかとタイトルから連想したのだが、ほぼ関係ない。人生教訓系ビジネス書に近い。とはいえ筆が達者なので、興味をそらさない。震災以降ヒステリックになり、知識人に見られた類型的独断表現がややみられる。いわく「やらないよりいいリスク回避のために疎開しなさい」

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    投稿日: 2016.02.28
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    階層社会では階層下位に行くほど「この世の仕組みを私は熟知している」と過剰な自己評価をする確率が高まる。現代は呪いの事態であり、ネットなどで「死ね」と中傷を受けて自殺する人は後を絶たない。反証可能性の重要性。ダメだという切り捨て方が出現したのは80年代から。マスコミも同じ風潮の論じ方をする。日本は英語を使わなくても社会的上昇が可能なまれな国。就職情報、結婚あっせん業者は同じ構造。贈与論。霊的な備えが大切。リスクとデインジャー。

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    投稿日: 2016.01.15
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    「呪い」の言葉に満ちたこの世界を、もっと幸福な世界に変えていくためのポイントは、「祝福を与えること」と「贈与を活性化すること」の二つだという。 「私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け容れることへ、傷つけることから癒すことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトして行くべき時期が来たと私は思っている。」(p285、あとがきより) という内田先生の主張は、シンプルで力強く、しかも温かい。それはとても難しいことだけど、単なる理想論や観念論ではなく、そうすることが一人一人を、そして世界をもっと幸福なものに変えていくためのベターな道筋だと、この本を読んで深く共感した。

    0
    投稿日: 2015.09.07
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    思考の厚さ、を感じた。 得難いヒントが多くあったが、閉じれば忘れてしまうだろう自分。本も映画も、いいものは繰り返し味わうべし。

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    投稿日: 2015.08.21
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    共同体を弱くするような言動は慎み、贈与(金銭だけの話しではない)に励むのがよろしいのではないかと思いました。

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    投稿日: 2015.02.01
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    中盤までは、様々な社会的問題を取り上げ著者なりの切り口で解説しており非常に面白い。 後半、思想本になってしまい残念。

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    投稿日: 2015.01.03
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    ネットで人をdisることについて。ガダラの豚読んで呪いのあり方に興味を持ったので。いつもながらわかりやすくて共感できる内容だけどタイトル通りの内容は1章と2章だけなので1章と2章だけ切り出して300円ぐらいで売ってほしい。

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    投稿日: 2014.12.01
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    なかなか読んでいて難しい論述である。 それでも、難しすぎるわけでもなく、興味深く読みました。身の周りで起きていることをもっと注意深く、感じ、分析し、考えていくことが大事だよなと改めて思いました。 ・ネット社会での誹謗、中傷、言葉の暴力がいわば呪いと化して人を蝕んでいる社会構造 ・お金を回すことで経済が潤う。回すためには贈与の精神を強化する ・お祭りや宗教儀式は、単なる習慣でなく、それゆえに「恐れ」を身近に感じ、忘れないためのシステムとしての役割を果たしている どっかの雑誌の連載エッセイがベースになっており、テーマは散漫な印象、言い換えればバラエティに富んだ話題で楽しいとも言えますが。

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    投稿日: 2014.09.13
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    内田樹さんの名前は最近ネットでよく見かけるのだが、著書を読むのは初めだ。しかも、初めての電子書籍。 内田さんは学術論文も書かれているようだが、このようなごく分かりやすい一般向けの書物を、徹底的にわかりやすく書いている。そのへんのタコ兄ちゃんにでもわかるような文章なので、普段学術書を読んでいる私にしてはちょっと「あまりにも簡単すぎる」という感じを否めない。 しかも、全体の構成もちょっと甘いようだ。「呪いの時代」というタイトルどおりの内容なのは最初の方だけで、あとはまったく違う方向に話が展開していく。書かれた言葉=エクリチュールというよりパロール。博識なおじさんが若者に、多少酔っ払いながらうんちくをたれているような話しっぷりである。 最初の方の、ネットにはびこる憎しみの応酬について指摘している部分が最も共感できた。 「ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われています。もっとも少ない言葉で、もっとも効果的に相手を傷つけることのできる人間がネット論壇では英雄視される。」 このへんは2ちゃんねるの類の掲示板や、Twitterでのやりとりをそのまま表していると思う。 そして『ほんとうの私』という幻想のイメージが「肥大した自尊感情」として現代人の心に巣くっている、という第1章の指摘は優れている。 しかしその後、話は散漫に広がっていく。福島原発事故に関する話もなかなか面白かった(賛同できる部分が多かった)けれども、全体としては、少し賛同できるが他の多くの部分は首肯できない、という感想だった。 たとえば「これからは間違いなく贈与経済の時代になる」という確信は何に根拠があるのか。人類学の知のひとつの結晶として「贈与経済」という主題があることは私も理解しているが、「これから、近い将来」そんな経済体制の時代になるなどということは全く考えられない。中沢新一氏でさえ、理想として贈与経済を語ったものの、それが現代社会に復活するとまでは、明確には断言できなかったと思う。 私としては、資本主義経済を経て贈与経済に移行するなどということは絶対に起こりえないし、夢想しても意味はないという気がしている。 ともあれ、意見は部分的にしか一致しないとはいえ、わかりやすく書かれ、かつ、読者にいろいろと考えさせる本だし、総合評価としては良質な本だと思った。

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    投稿日: 2014.07.12
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    ちゃんと理解できていなかったからかもしれないけど、難しい本だった。 全体を通して、今問題視されている様々な現象に関して、政治的な観点から原因を探って議論している印象、特に一貫したテーマはないように思った。 特に気になったのは、 ・人間の記号化による9.11同時多発テロなどの犯罪 ・「天職」という概念による転職ビジネス ・原発を「荒ぶる神」として鎮める という話だった。 ネガティブな話題が多かったけど、過ぎたことに対してポジティブに向き合う姿勢がいいと思った。 意識したわけではないけど、この人の著書は二冊目だった(一冊目は生物の福岡教授との対談)ので、この人の本は俺に合うのかも。

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    投稿日: 2014.05.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    アカデミズムの浸透か、政治家の欺瞞か、批評屋が跋扈し、体制をあっさり覆すことに賛成の手があがる時代。 滋味深い提言が並ぶ。

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    投稿日: 2014.05.18
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    自分が漠然と感じていることを、簡潔かつ分かりやすい言葉で表現している。この人の思考に触れららることに感謝^o^

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    投稿日: 2014.03.16
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    やはり本書は、内田樹さんの本でいちばん好き。 テーマも比較的バランスよく、読みやすくまとまっているように思います。 呪い、婚活、贈与、知性の使い方など、共感できる話が多い。 内田さんの本がなんでおもしろいかって、ほかの方たちが突き詰めないようなところまで「自分の頭で」考えているからなのでは、と思いました。 本書は、何度も何度も読み返して、内田さんの感覚をつかんでいきたいところです。

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    投稿日: 2013.12.14
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    なんかすごい怒ってんなーってぼんやりしつつ読んだけど、結婚ってシステムとか大人になるって感覚とかの一考察は現実的で冷静な面白さがあった。

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    投稿日: 2013.11.17
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     一番印象に残ったのは、9章の『神の言葉に聴き従うもの』です。ユダヤ教に関して、私がずっと疑問だったことの回答がありました。  厳しい戒律を2千年以上守って暮らしてきたのに、神の助けなく600万もの人が虐殺される。民族存亡の危機に、いま救世主が現れずにいつ現れるの?大戦後にイスラエルが建国されたことをプラス加点したとしても、周辺国からは攻められっぱなしで、落ち着く暇もありません。そんな神さん、私だったら、とっくに見限ってるわ、とずっと思っていました。  それをレヴィナスという哲学者は、「ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対sて犯した罪は人間によってしか購うことはできない。それは神の仕事ではなく、人間の果たすべき仕事である。」と言って説得したそうです。さすがフランス人、大学のセンター試験に哲学の科目があるだけのことはある、と頭の良さに感心しました。

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    投稿日: 2013.07.01
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    呪いっていうとなんだかオカルトな話のようだけど、呪う心が自分の肉体を離れて葵の上を殺す生霊となった源氏物語の六条の御息所。それと同じことがデジタル・情報化時代の今も、呪詛は記号化されて「ある」。という比喩がわかり易かったです。

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    投稿日: 2013.01.25
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    いま、ここ、の自分をカッコにくくること。等身大の、たいしたことのない自分を愛すること。生きる上で学ぶことが多い本。

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    投稿日: 2013.01.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    1.内田樹『呪いの時代』新潮社、読了。相互の違いを踏まえた上で合意形成を目指す気などさらさらない…これが現在の言語空間の支配的体質ではないだろうか。相手を屈服させる為だけに捻出される無数の言葉はまるで「呪詛」。本書は雑誌エッセイを纏めた一冊だが、呪いを切り口に現在を浮彫りにする。 2.内田樹『呪いの時代』新潮社。勿論、呪詛の背景には、現状を変えたいという苛立ちがあることは否めない。しかし、「『現実を変えよう』と叫んでいるときに、自分がものを壊しているのか、作り出しているのかを吟味する習慣を持たない人はほとんどの場合『壊す』ことしかしない」。破壊は創造より楽だから。 3.内田樹『呪いの時代』新潮社。呪詛する者は、破壊するだけでなく、そのことで自身の承認欲求を満たそうとしている。嫉妬や羨望、そして憎悪が一人歩きする現代。著者は生活とぱっとしない「正味の自分」に注目するよう示唆。等身大の人間とその生活から言語が切り離された瞬間、呪詛は立ち上がる。 4.内田樹『呪いの時代』新潮社。呪詛合戦は疲弊を相互に招き、やすっぽい「征服感」しかもたらさない。そして「苛立ち」をぬぐうことは不可能であろう。だとすれば「呪い」ではなく「贈与」へエネルギーを注ぐほかあるまい。本書は、自身の言説を振り返る契機になる一冊ではないだろうか。 5.内田樹『呪いの時代』新潮社。出版社による内容紹介→ http://www.shinchosha.co.jp/book/330011/ 内田樹「呪いの時代に」:現代ビジネス→ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694 了。

    0
    投稿日: 2013.01.07
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    数ある(著者の)著作の中でも、わりに好きな主題(「呪詛」と「贈与」)であったため、面白く読めた。ものすごく大雑把になるが、他者や外部に対する敬意がそこに底流しているからこそ、なかなか気持ちよく読めるのだと思う。最近普通に生活をしていて、どのように他者に対して敬意を払えるかということが、自分の中で自覚的になっている。敬意を払うというのは、何も相手の言うことを何でも尊重するとか、争いごとを避けるためのマナーとして(だけ)の行為の話ではない。お互いの”知的パフォーマンスを活性化"させたいがために、敬意を払いたいのだと思う。それは最終的に「正解」を求めたいからとか言うよりも、単純にお互いのパフォーマンスを上げることが気持ち良いから。但し(ビジネスにおける)「正解」を求める姿勢も決して過小評価してはならないため、そこの折り合いをどう付けるかがサラリーマンとして、あるいは集団生活を営む上で大事なことなのだと思う。これからも悩んでいきたい。

    0
    投稿日: 2012.12.30
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     いやぁ、面白かった。内田樹の面目躍如の文章だった。贈与論に対してまとまった考えが述べられていて、今までの知識が整理されてよかった。知的のんびり状態を満喫できた。

    0
    投稿日: 2012.12.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「呪詛」と「贈与」を主題にした『新潮45』での不定期連載の内容と、 東日本大震災で露呈したグローバル資本主義と日本的システムの問題点に対する考察をまとめた一冊。 以下、印象に残ったところ。 ◇子供たちに「身の程を知らせる」という学校教育の重要機能 一方で本の後半では、有事に対応出来る"フツーじゃない"人材を育てる重要性を 説いている。 あれ?矛盾してね?と思った瞬間、ハッとした。「身の程を知る」事と、「フツーの人間になる」事を混同していた・・ 。 「身の程を知る」とは「出来る事と出来ない事を認識する事」であって、別に 「出来る事を抑制してフツーになる事」ではない。 だから「無限の可能性を説く事」と「身の程を知らせる事」は矛盾しない。 教育は子供たちに、 「君たちは何でも(any)出来る。けど何でも(every)出来る訳ではない」 と説く必要があるんだな。 ◇「国誉め」 詳細に書けば書くほど実物の美しさを描ききれず、記述すればするほど固定化や定義化は遠のき、"リアル"の無限性と、自分の記号化能力の限界を感じる、と言う話。 ◇大人になるとは、「人間が複雑になる」こと 真の共生とは「感情移入」ではなく、自分の構成ユニットを増やすことで「この他者は部分的に私と同じだ=私自身だ」と認める事、と言う話。 ◇「街づくり」に霊性を取り入れる 勿論、神威によって街が蘇生するのではなく、「神の威徳というのは、そのようなものが存在し、活発に機能していると信じる人間が作り出す」んだけれども、と言う話。 他。 ・「過記号化」が持つ危険性 ・レヴィナスが守った神への信仰 ・原子力は「荒ぶる神」 ・存在しないものを存在するかのように擬制することの効力 様々なトピックについて書かれているのですが、通底しているのは、下記2点かと。 -「ほんとうの私」を受け容れ、自責を引き受けなければ、物事はうまく行かない -存在しないものを存在するかのように信じる事に効力がある いやー、面白かったです。

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    投稿日: 2012.12.15
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    いつもの語り口いつも言っていることでそういえば以前に読んだ内容と思いつつも結局通読してしまうのは結局著書の考え方に同意していてかつ誰かにその内容を伝えようとしてもまだ消化しきれてないことが原因なんだろうと思う。この人の周辺についても埋めていかないとと思う。

    0
    投稿日: 2012.11.07
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    批判や自説を説くことに終始し、破壊をめざす「呪いの時代」をどう生きるか。その問いに対して、筆者は、呪いを解除するには、あまりぱっとしない「正味の自分」を、真の自分として受け入れ、けなげに生きる自分を祝福することと説く。自分を愛するということを考えさせられた。

    0
    投稿日: 2012.11.04
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    ネット上での言論が面白かったので手に取ってみる。 ネット上で所謂アンチ行動を取る心理、というのテーマとして扱っているようだったので。 そういう意味で、「呪い」や「祝福」についての内容は大変面白かった。胸のつかえがとれたようだ。 連載を集めた単行本であるため、話はもっと色々な方向へ広がる。 政治や原子力、それら作者が「本質」を語ることができない(畑ちがいであるため)内容について同列に触れることは、なんか本文で言うところの「呪い」に近いものがあるんじゃないかと考えるのは私だけでしょうか…

    0
    投稿日: 2012.10.30
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    最近は内田樹をよく読んでいる、と言ったら、急に古文の先生なのだけれど哲学も教えている先生から貰った本。 先生の書き込みがあって面白い。

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    投稿日: 2012.10.26
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    本の中で象徴的な「ギルティフリー商品※」をこう説明してくれている。 「誰もが「私は存在することそれ自体によって、何か罪を犯しているのではないか」という有責感を、 程度の差こそあれ抱いている。その心の隅にある「疚しさ」を標的にして「この商品を買うとその疚しさが緩和されますよ」とささやきかける」 ことによって商品を売り付ける新手の商法だということ 行き詰った今の市場経済で、消費行動の動機づけにはもってこいだ。。 そりゃ近所のスーパーに行けば、こぞってみんなエコバッグ使ってるわ。 「商品購入を通じて自分が趣味がいいとか、 知的であるとか、成熟しているとか、 政治的に正しいとか、さらには「地球に優しい」とか、 そういうことを他人のみならず、 自分に対しても証明しようと思ったら、 買わなければならない商品のリストはエンドレスになる他ない。 (だから購入欲を原理的に無限にできる巧妙で悪質なマーケットが作れる)」 「地球環境なんたら」だの「地球の気持ちを考えた云々」とかうたったものが なぜあんなに気味悪いとを感じていたか理由がわかった。 ※「ギルティフリー」guilty freeというのは「有責感のない」ということである。 自分が購入した商品はその製造過程・流通過程・廃棄過程のどこにおいても 「悪いこと」(熱帯雨林の破壊とか、有害物質の垂れ流しとか、第三世界住民の収奪とか、 産業廃棄物による環境破壊とか)に加担していないので、 それを購入した自分の手が白いことにほっとするような商品がギルティフリーであるらしい(たぶん)。(内田樹の研究室」より)

    0
    投稿日: 2012.10.25
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    ★4.5 「呪詛」から「贈与」へ。 今の時代を生きる上で、本当に大切にしたいものを再確認できた気がする。過去から学ぶ視点もすごく勉強になる。

    0
    投稿日: 2012.09.30
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    呪い=批判的な言葉づかい 今、世の中にあふれている呪いの言葉 弱者は救済を求め 被害者は償いを求め 正義の人は公正な社会を求め 呪いの言葉を使う 呪いは破壊 簡単で、瞬間的で印象に残る 時に記号的に媒介されて 抽象的な「的」となる 身の丈に合わない自尊感情をもち 癒されない全能感に苦しんでいる人間は 創造的な仕事を嫌い 何かを破壊する生き方を選択する 破壊は“何かがそこにあったが 今はもうない”という 破壊という仕事の達成 繰り返しまた次のものを消す 政治家の失言 ネット上の罵詈雑言 就活・婚活の壁 世の中には 呪いの言葉があふれている これが呪いの時代 創造は具体的で 逃げも隠れもできず個人的 自分が暴露される だから呪いの呪縛にかかる 他人を呪うことは自らを呪うこと 創造は破壊する努力の数百倍以上の努力が必要 自分の正味の実力に自身がない人間ほど 攻撃的になり、その批評は残忍なものになる でも、人間は弱く愚か では、どうするか 「自分を受け入れ 自分を抱きしめ 自分を愛する」 ほんとうの私なんてどこにもないと認め そして他人に祝福の言葉を送ろう 妄想的に構築された 「ほんとうの私」に主体の座を明け渡すことなく 生身の具体的な生活に深くとらえられた あまりぱっとしない 「正味の自分」を主体とし維持し続けていく ほんとうの自分なんていない 自分探しの旅は 欠如感・不充足感を満たしてくれるような他者や 自分を支えてくれる容れ物 土台、壁、屋根を探しているだけ 評価されない場所へ逃げ込むのではなく 現実を受け入れなければ そして、子ども達には 「君たちには無限の可能性がある」 でもそれを開花させるには 自分がどれほど無知で 非力であるかを知らなくてはいけない その上で 努力すれば「それなり」の成果があると 信じることを応援しよう そして、 オトナになるということは 「だんだん人間が複雑になる」ということ 自分自身の中にあるさまざまな 人格特性を許容できる人間は 他者も許容できる 自分を許すことができる人間だけ 他人を許せる 他者と共生するというのは 他者に耐えることではなく 「私と同じもの」を見出し その部分は私自身であると認めること そのために オトナは 切り出すユニットの数を増やしておく 自分の論理を細かく割っていく 自分の感情 自分の身体 割れば割るほど共有できる要素が増える 批判は提言に 壊さずに創り出す 排除せずに受け入れる 傷つけず癒す そんなことが書かれていた

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    投稿日: 2012.09.29
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    自分たちが生きている現代に、内田樹さんがいてくれて本当によかったと思いました。現代社会の便利さに甘えて生きている大人たちのなかにも、こんなに話の分かってくださる「大人」はいるんだと、これこそ勇気が湧いてきました。今時っ子がよく口にする「勇気をもらった」としての意味合いとはまったく違う、自分の中に芯を置くことのきっかけとなった本です。

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    投稿日: 2012.09.28
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    ここ一年半の欲しかった答えが書いてあった。内田先生は本当に「健全な思考」の持ち主だと思う。正しいとかどうとかじゃなくて、でも本当に正しいと思う。人間を人間らしくたらしめるものは、見えないものを信じることや、成果が出ないものに対する努力や我慢だと思う。そして自分を愛すること、本当の意味で利己的になること。 身の程を知っていること。だと思った。

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    投稿日: 2012.09.12
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    どうもわたしには難しいというかピンとこない。読んだ後も、なんなのかよくわからない。。 以前は面白く読んだ本もちらほら有ったのだけどな。だんだん肌にあわなくなってきた。

    0
    投稿日: 2012.08.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    内田先生の本です。 印象的な部分を引用します。  だったら、そういうピットフォールに落ち込まないように、自説の正しさにつねに留保をつけておく節度が必要だと僕は思います。「私はとりあえず手持ちのデータに基づいて『正しいことが事後的にあきらかになる蓋然性が高い見通し』を述べている。しかし、私はすべてのデータを網羅したわけではなく、これから起きる出来事の全てを予見できるはずもないので、私の見通しは誤る可能性がある」という宣言を議論の出発点に置くべきなのです。そのときにはじめて「私が吟味しなかったデータを吟味した人」、「私が予測しなかった出来事を予測した人」との生産的な対話が成立する(P83~)。  贈り物というのは、それ自体に価値があることが自明であるようなものではないのです。贈り物は受取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない。挨拶を送った側が返礼がないと傷つくこともそれで説明できます。挨拶を返さない人は、「あなたが発した空気の振動には何の価値もない」という判定を下した。僕たちはそのことに傷つくのです(P179)。  「木で鼻を括ったような説明」が私たちを不快にさせるのは、そこで述べられていることが間違っているからではない(必ずしも間違ってはいない)。そうではなくて、そこに聴き手の知性や判断力に対する信頼と敬意の痕跡を見て取ることができないからである。「お前が私の意見に同意しようとしまいと、私の意見の心理性は揺るがない」と耳元で怒鳴りつけられ続けていると、私たちは深い徒労感にとらわれる。それはその言い分が実践的には「おまえは存在する必要がない」という宣言と同義だからである。「お前ななんかいいんだ」と言われ続けていると、その呪詛は私たちの生命力を酸のように侵してゆく(P274~)。

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    投稿日: 2012.08.27
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    内田先生鬼神を語るの巻。新たな発見というよりは、本当に突き詰めれば住み良い世界に必要なものは何なのか?確認したような感じ。これまでの著作でたまに出てきた身体論や武道経験からの分析にはなかなか馴染むことはできませんでしたが、この本では結構スッとのみ込めた。

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    投稿日: 2012.08.02
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    Twitterを始めとするソーシャルメディアの広がりで拡大した個人の意見の公への流出。 匿名で発せられる誹謗中傷は、平安時代の丑の刻参りよりも、もっと直接的に大きな力を持っている。人を殺せるくらい。それこそ『呪い』ではないのか、といった内容から始まります。 もはや定着したカテゴリー『草食系男子』はなぜ生まれたか、婚活・就活ビジネスの落とし穴など、日頃ぼんやり「変だなあ」と思っていたことを整理、解説してくれてすっきりしました。 ただ、後半、原発問題の辺りからすんなりと入ってこなくなって最後は力業で読みきってしまったので内容が噛み砕けてません。。 もう少し心の余裕ができたら読み返してみようかな。

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    投稿日: 2012.07.25
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    「新潮45」に不定期連載されたもの。ブログ本と違って、やや語り口が固い。政治状況について述べられたものは、なるほどとは思うけどあんまり面白くないような気がする。

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    投稿日: 2012.07.24
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     内田樹氏の著作は「街場のメディア論」以来久しぶりです。今回手に取った本は、ちょっとインパクトのあるタイトルです。  ただし、本書を通し一貫して「呪い」について論じているわけではありません。「呪いの時代」と名づけた現代を、「贈与論」に代表されるような内田氏的視点で考察を進めた小文集といった趣です。いつもながら、内田流の興味深い指摘が楽しい著作でした。

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    投稿日: 2012.07.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「漫画の絵の部分は表意文字で、吹き出しが表音文字である」(養老孟司) 漢字は外来の記号体系であり、 「かな」は、それを土着の言語のための音声記号に流用したものである。 外来の言語を図像情報として、土着の言語を音声情報として、脳内の2か所で並列処理している。そんな思考をしている言語集団は日本人のみである。

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    投稿日: 2012.06.23
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    武田鉄矢 - 今朝の三枚おろし 呪いの時代 http://www.youtube.com/watch?v=LIMGqEJ_TTA

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    投稿日: 2012.06.19
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    防衛のための創造の無い言動の増加や、相手の出方を見る日本の風土病など、読むと納得な部分が多かった。なんとなく震災後に書かれたものだと思ってたけどそうじゃなかった。

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    投稿日: 2012.06.16
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    とてもタイムリーな内容で、私のために書いてくれた?という気分。今までも何度も本に助けられてきたけれど、今回ほどのタイミングで救われたのは初めてかも。

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    投稿日: 2012.06.10
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    世の中には、呪いがあふれている。 それは、批判、攻撃、破壊であるが、 突き詰めて言えば、 「私にとっての問題は、誰かにとっての問題で」 「壊す理由があるから、壊すのは"良い"ことで」 「壊したあとには、誰かが勝手に直してくれる」 という当事者意識が欠如した楽観にあふれている。 その行為自体が全面的に悪いわけではなく(呪いへの呪いになる?) 割合の問題。 ただ単に楽しいから、攻撃、破壊すると言う衝動もあるんだろうけど、 それも、この程度では「壊れない」という、 勝手な予想でしかないよなぁ。 どんなものにも全面同意というのは若干危険である。 しかし、この手の本に対しては、「 わたしたちが気付かずに持っている思想」に対しての否定は、 そのまま「本を読んでないだろう」という論理に直結して、 八方ふさがりになりえる、という圧力があるので注意が必要な気もする。 なんにせよ、面白いからOK.

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    投稿日: 2012.05.28
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    言霊。 言葉には魂が宿り、それはどこまでも伝わっていく。 私はそう考えています。 だから、気の知れた古い友人は別にして、思ったことをそのまま口にだすということはしないようにしています。 もしも「呪い」の言葉を発してしまったとしたら、きっとそれは届くでしょうから。 本書は内田さんの妄想本といえば一番適しているでしょうか。 私にはどうしても馴染めない点ばかりであったけれど、大事なことは自分の頭で考えること。 内田さんの考えもあるし、私の考えもある。 正しい答えなんてこの世にはないのですから。 そう本書は教えてくれています。 ちなみに最終章は必読です。

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    投稿日: 2012.05.15
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    (以下引用) 僕はもともと「ディベート」というものが嫌いですけど、それはそこでは「ディベートの勝者」の主張のレベルを超えるような知見が決して生み出されないからです。複数の人間が集まって、何時間か喧々諤々の議論をして、その結論が「ディベートの勝者一人以外はいなくてもよかった」というものであったら、あまりに悲しい。(P.82) 英語が使えないと知的職業に就けない、公務員にもなれないというシステムにすれば、たちまち日本中がバイリンガルばかりになるでしょう。でも、そうなっていない。ということは、英語教育に関しては、一方で英語教育の充実を謳いながら、他方では「英語ができなくても困らない」状況を一生懸命作り出しているということです。右手で作ったものを左手で作っている。それが日本の英語教育の実相ではないか。(P.91) 「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者と生涯にわたって熱烈に愛し合い続ける(愛に翳りが生じたら、即離婚)」というようなタイトな条件を課すより、「誰と結婚しても、そこそこ幸福になれる」能力の涵養に教育リソースを投じるべきだと僕は思います。「誰としたって、まぁ似たようなもんだよ」というゆるい結婚観を広く社会的に採用し、その上で、「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸福になれる力」を身につけさせることに教育資源を集中する。それが成熟した社会における結婚のありようではないか、と。(P.116) 弱く幼い人間が連帯の技術を知らぬままに、誰の支援もなしに、「自分らしさ」なんか追求したら、社会的に下降する以外に道はありません。「自分らしさイデオロギー」はたしかに表層的にはきれいな言葉で飾られていますけれど、実践的には、アドバンテージのない環境で生まれた子どもたちから社会的上昇のチャンスを奪い、社会的下位に釘付けするするものです。自立論者たちはこの「自分らしさイデオロギー」がもたらした歴史的結末について、もう少し慎重な自己点検をするべきだと僕は思います。(P.162) 神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるならば、神は必ずや神の支援抜きでこの地上に正義と自愛の世界を作り出すことのできる人間を想像されたはずである。(P.205) 「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。ははは、ただの金儲けなんだ、原子力って。全員がそういう語り口を採用した。(中略)みんな「あれはただの金儲けの道具なんだよ」と自分に言い聞かせることによって、原子力に対する自分自身に対する恐怖をごまかした。(P.218) 大気、海洋、森林、河川といった「自然資源」、交通、医療、教育といった「社会的インフラストラクチャー」、司法、医療、教育といった「制度資本」がそれにあたる。これらはどのようなものであれ、政治イデオロギーやマーケットに委ねてはならない。専門家が専門的知見に基づいて、管理運営しなければならない。(中略)大気や森林や、水や食べ物や、裁きや癒しや学びは「生身の人間が集団として生き延びる」ために必須のものである。それはフェアで合理的な管理システムのもとに、価値中立的な立場を貫く専門家によって運営されていなければならない。どのような政治的正しさとも費用対効果とも無関係に、純粋に専門的な見地から、国土の安全と国民の幸福だけを配慮する人々によって管理運営されなければならない。(P.239) 「胆力がある」というのは別に際立った知的・人格的資質ではない。「胆力のある人間」は「胆力のある人間を育成する教育プログラム」によって組織的に育成することができる。例えば武道や宗教は本来そのためにある。けれども、日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。そのために指一本動かさなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。もちろんそういう人間たちがいなければ社会は成りたたない。けれども、少数ではあれ、システムの要所に「上位者の命令がなくても、マニュアルに書いていないことが起きても、それでも共同体全体の利益のために最適な選択ができる人間」がいなければならないということがあまりに軽視されてはいなかったか。(P.243) みんなが同じ方向を向いて進む先に断崖があれば、全員ぱたぱたと墜落死する。そのとき、さしたる理由もなく、「オレはそっちに行きたくないね」と別行動をとる個体が一定数いれば、集団は全滅を回避できる。生物学的多様性とはそういうことである。システムの適所に「付和雷同しないもの」をつねに一定数確保しておくこと。それは「システムクラッシュの回避」という点において必須の配慮なのである。(P.249) TPPやFTAが前提にしているのは、「金だけで動く消費者」「もっとも安い価格でもっとも高い質の商品を選択する消費者」というモデルである。だが成熟した消費者はそうではない。彼らは金以外の要素で、例えば、食糧自給率を高めることは国民国家の安全保障上の要件であるという判断に基づいて、あるいは今回の震災後のように、被災地の産業を支援するために「市場で一番安い物を買う」という以外の消費行動を採択する。このような成熟した消費者たちはローカルな、あるいはパーソナルな判断基準に従って経済行動を行う存在であり、その行動をグローバル経済のスペシャリストたちは予測することができない。(P.258)

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    投稿日: 2012.05.08
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    ゆっくりゆっくり読みました。 とても大切なことがきちんと書いてあって 読んでいて本当に心が満たされる感じでした。 時代のスピードや人の考え方がどんどん変わって なんだかぼんやりとした違和感を抱えて いたんだけれどそれを丁寧にほぐしてもらった感じ。

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    投稿日: 2012.05.05
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    とびとびで読んでしまったから記憶が…。 ホロコーストによってユダヤ教が倒れかけたというのは、考えてみればそうだよなと思う。ヤハウェを信じているからこんな目にあったんじゃ報われない、棄教しようという動きを止めることになったレヴィ=ストロースの引用文が涙が出そうだったな。そしてそれから立ち上がらせたのもまたユダヤ教。果てしなく、人間をエンドレスに奮い立たせる力なのかしら。内田さん・中沢さんから「ユダヤ」というものの一端を知り始めているのだが、もっと詳しく色々と知りたいな。 霊的なもの、の必要性。 そういうちゃんと祭らないと悪いことが起きてしまう、ここで祈れば大丈夫だ、という人間に緊張感を与える装置が例えば神社仏閣なんかだったそうで、そういうのがない都会というのは、人間が欲望のまま野放図になっているんだなぁと。 「暇と退屈の倫理学」という本ともかなり共通する箇所もある。 このあたりの本をもうちょっと追っかけてみようと思う。

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    投稿日: 2012.05.02
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    また、目からうろこてきなとこがいっぱいにあったのだけれど、 そうか。と印象に残ったのは、 ネットという匿名性の環境で、顔を合わせたこともない人間に、平気で「氏ね」だとか人を傷つける言葉を浴びせかける。  それが複数集まって、それを受けた人が、深い傷を負ったり、自殺に追い込まれていくような状況が実際存在する。  それは、当の本人にそんなつもりなくても、言葉が命を持って人を呪い殺しているようなものなのだと、言うような件。(いや、内田さんはもっと人に深く届く言葉でこのことを語っていらっしゃいます。なんでですかね。私が似たようなことを言葉にすると、説得力が淡くなっていく。)  わたしは、本を読んだ感想を、自分の思ったことを忘れないように、別に誰かに読まれたいとかそういう気はなく、でもただ、「知らない複数の誰か」に語りかけるように、ここにつづっている。  たまに、「何でこんな語りつくされているような内容を、とってつけたような言葉で本にしてしまったの?」と、憤りを隠せない本の感想を載せてしまっているのだけれど、  もっと、言葉を選んだほうがいいのかも、とちょっと反省。  でも、上記のようなひどい本は確かにある!これからはそれを、「質のよい本ではない」と見分けられなかった自分を責めよう、と思った。

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    投稿日: 2012.04.23
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    贈与経済こそが最も人間的、すなわち「おはよう」と誰が一番に言うかを競い合うべきと唱える論は面白く、後半は一気に読める。福島の事故は人災と切り捨て、呪いは破壊こそすれ創造を生み出さない安易な風潮に警鐘を鳴らす。知的刺激に満ちた一冊

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    投稿日: 2012.04.22
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    内田樹さん流の人間観察論だ。 正論ではあるけれども、世間の人が全て内田さんのように 良く考える人ばかりじゃないので、 強烈な個性のリーダーというのも必要な時代もあるのではないだろうか? 原子力の話では、ハード部分よりも、ソフト部分の安全性を上げることを考えないと、いつまでたっても想定外と言ってそうな気がする。

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    投稿日: 2012.04.07
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    内田樹さんの論考は「素直に考えれば確かにそうだ」と呼べるものばかりで、いつも感服します。「交換経済」から「贈与経済」への転換を―との主張は、国民的議論に発展してもいいのではないかと思います。

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    投稿日: 2012.04.07
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    p12  学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、「自分の持つ知識についての知識を持っている人間」のことだと僕は思います。ですから、自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知らないことは「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。  しかし、かつては学会だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖しているように僕には思われます。ディスプレイに向かって、グーグルでキーワードを検索しながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな情報を入手することをそれ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になる訳でもありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな情報を収集しても、それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。 (注、「学的には」にあった傍点は略)  僕がかつて専門にしていたユダヤ人問題の領域では、「ユダヤ問題専門家」と自称する人々がたくさんおられました。彼らはしばしばたいへんな事情通で、「ユダヤ人問題」のデータや統計や「アンダーグラウンド情報」を次々と並べ立てることができました。けれども、それらの情報はしばしば「ユダヤ人の秘密結社が世界を裏から支配している」というチープでシンプルな物語のユレームワークの中に押し込められていました、僕はそういう「自称専門家」から「お前は『こんなこと』も知らんのか。『こんなこと』を知らない人間にはユダヤ人問題について発言する□はない」というご批判をしばしば頂きました。  たしかに彼らはユダヤ人について実に多くのことを知っていました。けれども、彼らは自分がどういう基準で情報を収集しているのか(逆に言えば、どういう基準で情報を「棄てているか」)については意識的に考えたことがないようでした「ユダヤ人の世界支配」は、彼らにとっては、論証の余地なく自明のことだからです。僕は彼らとの論争には申し訳ないけれど一秒も時間を割きませんでした。それは純粋な消耗だからです。  ネット論壇で頻用される「こんなことも知らない人間には、この論件について語る資格はない」という切り捨て方はこの手の「学者の腐ったようなやつ」のやり方をそのまま踏襲しています。そのタイプの書き手が今ネット上に数十万単位で出現してきているのを見て、僕はまことに気鬱になるのです。  ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われています。もっと少ない言葉で、もっとも効果的に他社を傷つけることのできる人間がネット論壇では英雄視される。それが「もっとも少ない貨幣でもっとも高額の商品を買うこと」が消費者としてのパフォーマンスの高さとして賞美される消費社会のメカニズムをそのまま模写していることにたぶん彼らは気づいていない。そのことが僕の気鬱をさらに重たいものにするのです。 p15 ネット世論の語り口の問題点は、「私」の自尊感情の充実が最優先的にめざされているせいで、「公」的な次元で対話することへの努力が配慮されないことです。 p42 「拒否することによって、おのれの純粋さを際立たせる」という戦略は、ネット論壇に飛び交う言説のきわだった特徴です。彼らが他社を批判するときのロジックは、つきつめていうと「おまえは、無謬でないから、ダメだ」ということなのです。彼らはほとんどあらゆる人間の言動を否定し、嘲弄しますが、それはつきつめていうと、驚くべきことに「この人間は全知全能ではない」という理由なのです。 p48  身体という限定を持つことによって、人間は自分の活動できる範囲を限定しています。自分自身が引き受けられる仕事について「ここまで」というしきりを設けている。「抑制」というのは、自分にできることとできないことの見きわめができるということです。できないことについては「できない」と言える人のことを僕たちは「おのれの分際をわきまえた人」とみなします。  けれども、現代日本では「分際をわきまえる」ということが聖女区した市民の条件だという了解はほとんど共有されていません。むしろ、どれだけ「分際をわきまえずに」、他人を押しのけて前面に出て、できもしないことを言い募るか、それが競われている。 p51 僕たちの社会では、第一次データは「記号」です。数値です。数値的に示されてないものは存在しない。数値以前のデータは無視してよい。現に、あらゆる場面で僕たちの推論や仮説は「データを出せ」「数値的根拠を示せ」と言って突き返されます。 p79  日本におけるマルクス主義運動の末期のことを僕は思い出します。1970年代の中頃に、日本のマルクス主義たちは「マルクス主義の名において」自分以外のマルクス主義者たちがなすことの責任を取ることを拒絶しました。「あれは『ほんとうのマルクス主義ではない』」という言い分が通ると思ったからです。でも、イデオローグたちが、同じなを掲げた政治党派の犯した失敗について責任を取ることを拒否するとき、その名を掲げた政治思想は死滅する。政治思想とはそういうものです。  マルクス主義者が政治思想としてのマルクス主義をいき伸びさせたいとほんとうに思っていたなら、マルクス主義の名においてそれまでになされた、これからなされるすべての蛮行や愚行について、「それもまた私の責任として引き受けざるを得ないでしょう」と言うべきだった。責任の取り方はいろいろでしょう。別に「じゃあ、ここで今すぐお前が腹を切れ」というような無法なことは誰も言いはしない。あなたの責任じゃないということはわかってるんですから。それでも「マルクス主義運動の名においてなされた非行は、同じマルクス主義者を名乗る私の責任でもある」と言うべきだった。そう言えば、その政治思想は生き伸びることができた。でも、誰もそうしなかった。誰もマルクス主義運動を弔うときに、「喪主」になることを受け容れなかった。だから、日本におけるマルクス主義運動は死んだ。僕はそう思っています。 p106  就活を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。就職情報産業の営業マンがやってきて、大学2年生を講堂に集めて「空気を入れる」ときに彼らはこう言います。「諸君ひとりひとりには、この広い世界のどこかに、ただひとつだけ適性に合致した『天職』がある。これら1年余りのうちに、諸君は自分の適性に合致したこの職業に出会わなくてはならない。そのため捧げうるだけの時間とエネルギーを就活に投じなければならない」 p109  でも、だからといって、一度「適職イデオロギー」を内面化してしまった若者たちは「この職場に骨を埋めよう」と覚悟をして一箇所にいるわけではない。たまたまご縁が私をここに導いたのだとしたら、ここが私のいるべき職場なのだろうというふうには考えない。「いつか出て行きたいが、今は出て行けないので我慢してここにいる」という腰掛け的な就労態度をありありと表すことになる。そういう「はやく出ていきたい」的態度の人が職場で、上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われるということはあまり起こりません。結果的に彼に対する勤務考課は低く、職場でのコミュニケーションは不調のままで、「はやく出て行って、『ほんとうに私の適性に合った仕事』がしたい」という切ない思いはさらにつのる……という仕掛けになっています。 p125  生物が「弱い」というのはどう考えても生存戦略上は不利なはずですが、ある種の社会ではそうではないらしい。「弱さ」をつよくアピールできた個体の方が、「強い」個体よりも、しばしば多くの利益を得る。そういう実例が蓄積しないと、「弱さを選ぶ」というような講堂に生物は踏み切りません。ということは、僕たちは今、「弱い」個体であることが生存戦略上不利とはみなされず、むしろ「弱さ」を適切にアピールすることのできた個体の方が有利な社会に暮らしているということになります。かなり衝撃的ですけど、言われてみれば「そうかな」と思います。 「私は弱者です、被害者です、受難者です」と言い立て、まずそのポジションを確保してから話を始めるというのは、間違いなく、この20年ほどの日本社会に定着したひとつの行動様式です。とりわけ、「権利請求」の戦略としては「まず被害者の名乗り」をすることがほとんど常識化している。 「クレーマー」というのがまさにそうですね。クレーマーたちは行政、医療、教育などさまざまな分野で権利請求の猛威をふるい、結果的にそれぞれのシステムは甚大な被害を受けました。学校や医療機関の中にはクレーマーのせいでほんとうに壊滅してしまったところもあります。 (注、「ある種の社会」に傍点) p163  でも、弱者が発生した瞬間に自動的に排除するようなものを「コミュニティー」と呼ぶのはおかしくありませんか? 病気になった、破産したという話を聞きつけたら、「じゃあ、とっとと荷物をまとめて出て行け」というような人たちの集まりを「コミュニティー」と呼べますか? 僕は呼べない。本来、共同体というものは、その成員の誰かが破産したり、失業したり、病気になったり、狂ったりしたときに、それでもその人を受け容れ、保護し、支援し、フルメンバーとしての条件を回復できる日を気長に待つというセーフティーのことではないのですか? 成員条件を欠くものでも成員として含むことができるコミュニティーでなければ、その語の厳密な意味でのコミュニティーとは言えない。僕はそう思います。 (注、「成員条件を欠くものでも成員として含むことができるコミュニティー」に傍点) p188 「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。一般的には、貴族(ノブレス)は、普通の人よりも重い負担を引き受けなければならないという意味で使われます。でも、僕の解釈はすこし違います。万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブレス」であるというのが僕の解釈です。すべての人間はさまざまな種類の「他人にはできないことが自分にはできる、他人にはわからないことが自分にはわかる」という固有の能力があります。僕は「ノブレス」という言葉を階層社会における貴族という言葉ではなく、そのような特異性、多様性、個別性を指す言葉だと解釈したいと思います。 p195  レオポルト・インフェルトもガロアを「供養」したいと思った。その天才的な仕事が忘れ去られることを惜しんだ。死者に向かって「あなたのおかげで数学史は何歩か前に進んだ。そのことを僕たちはあなたに深く感謝している」と告げたいと思った。そして、同意を伝記の読者たちにも求めた。そういうマインドセットをもって書かれたものは「リーダぶるな書きもの」になる。僕はそう思います。「供養する」とき、僕たちは死者に向かって語りかけ、それと同時に生きている人々に向けて死者の事績を顕彰しようと願います。供養の言葉において、僕たちは2種類の受信者に向けて同時に語りかけている。 p197  言葉が届くとはどういうことか。それは「わかりやすく書く」ということではありません。論理的に書くということでも、修辞をこらすということでも、韻律が美しいということでもありません。そんなことはリーダビリティにとっては二次的なものにすぎません。いちばんたいせつなのは「私には言いたいことがある」という強い思いだと僕は思います。そして、その思いが最大化するのは、(潮政の親分が娘の墓前で語りかけたときのように)「言葉が届くはずのないほどに遠い人」になお言葉を届かせるべく、身をよじるようにして語るというふるまいにおいてではないでしょうか。インフェルトのガロア伝が、きわめて難解な数学上の知見についての書物であるにもかかわらず、リーダブルだったのは、インフェルトが身をよじるようにして、(僕のような)数学がわからない読者にさえも、言葉を届かせようとしたからではないかと僕は思うのです。 p200  中学生高校生が太宰治を熱愛し、耽読する理由は実はそれだと思うのです。子どもたちは社会的には非力な立場です。教化され訓育される側にいる。努力すればよい評点をもらうことはできますけれど、家族からも教師からも「その知性に対する敬意」を受け取る機械はまずありません。そのような環境に慣れている少年少女が、太宰治の文章を呼んだときに「がつん」と来るのは「この人は私を『知的に対等なもの』だとみなして書いている」という確信が持てるからです。「この人はほかならぬこの私に向かって言いたいことがあって、技巧の限りを尽くして、それを伝えようとしている」ということが確信されるからです。そんな大人とはじめて会った。だから、子どもたちは太宰治に夢中になるのです。 (注、「そんな大人とはじめて会った」に傍点) p201 読み手の立場になって考えればわかることですけれど、僕たちが決して聞き落とさないのは 「これは私宛てのパーソナルなメッセージだ」と確信するものだからです。 p216 「原子力は金になるぜ」という下卑たワーティングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからである。 p257 こういう約束ごとは景情とも市場価格とも関係がない。人と人の間の信義の問題である。そういうごく個人的あるいは地域限定的な要素によって市場における消費者の行動は変化する、そういうものだと思う。そして、定型的な消費者行動パターンから逸脱する個体が多ければ多いほど、その国の市場は「成熟している」とみなすべきだと私は思っている。 p266  敗戦のあと、教科書の「黒塗り」を経験した世代は、「これまで『信じろ』と言われてきたことを信じるのを止める」という経験をした。それも「これを信じろ」と教えてきた当の教師たちが、「私たちが『信じろ』と言って教えてきたことは、嘘でした」とカミングアウトするというかたちで経験したのである。 p267 「私たちが教えてきたことは嘘でした」という教師たちの告白からわずかなりとも実践的な指針を引き出すことが可能だとすれば、それは「『もう何も信じない』を信じる」というかたちをとるしかない。 p271 「言論の自由」というのは、「誰でも自分の思っていることを声高に主張する権利があり、そこには異論を遮ったり、恫喝によって黙らせたりすることも含まれる」という意味ではない(そう理解している人がたいへん多いが)。言論の自由とは、複数の理説が自由にゆきかう公共的な言論空間がいずれそれぞれの所論の理非について判定を下してくれるであろうという場の判定力に対する信認のことである。 (注、「場の判定力に対する信認」に傍点) p275 どうして、個別的な命題の真偽よりも、「命題たち」を受け容れて、それをすり合わせる「コミュニケーションの場」の存否の方が優先的に配慮されるかといえば、理由は拍子抜けするほど簡単なことである、その方が人類全体の知的パフォーマンスの総量が増大するからである。 p282  この成功した若い作家に対して投げ掛けられた批評家たちからの罵倒のすさまじさを私はいまも記憶している、それらの言葉を発した本人たちは「教化的善意」なり「批評的理想主義」なりに基づいて自分の攻撃性を正当化していたのだろうと思う。でも、彼らは作家がその批判によってさらに高い作品を書くだろうと思ってそうしていたわけではなく、「ものが書けなくなる」ような傷を負うことを願ってそうしていたのである。 p284  完膚なきまでに批判し抜くことが、個人に対しても制度に対しても、もっとも効果的な「改善」実践であるという左翼的な批判性の定型から私たちはもう抜け出すべきだと私も思う。「私がこのシステムの責任者です」と名乗り、それに対するすべての批判を粛々と受け容れ、批判されればされるほどパフォーマンスが向上するような「責任者」が存在するなら、そのような定型的批判も有効かも知れない。だが、実際には、そのような責任者はどこにもいないのである。  私たちはもう「壊す」時代から抜け出して、「作る」時代に踏み入るべきだろうと思う。 p285  私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け容れることへ、傷つけることから癒やすことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトしてゆくべき時期が来たと私は思っている。

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    投稿日: 2012.04.03
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    贈り物とはそれ自体に価値があることが自明であるようなものではない。 贈り物は受け取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない。 例)挨拶を返さない人は、「あたしが発した空気の振動は何の価値もない」という判断下した。。。。 才能の絶対量は評価に値しない その才能を賦与されたことにどれほど深い返礼義務を感じているか、それが人間的な意味での才能の評価基準です。 嬰児でも空気の波動が「ほかならぬ自分にまっすぐ触れている」ということだけは感知できる。

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    投稿日: 2012.04.01
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    「源氏物語」で六条御息所は葵上を呪い殺した。しかし、現代ほど「呪い」が蔓延している時代はない、と著者は言う。ネット上で人びとは、言葉でいかに深く他人を傷つけられるかを競っているかのようだ。 「本当の自分はこんなものではない」。もっと愛され、敬意を払われていいはずだという自己呪縛にとらわれた人間は決して幸せにはならない。 頼りなく、かっこわるく、ぱっとしない自分のありのままの姿を受け入れる、そこから始まるものがたくさんある。 読み進めると話がどんどん進んでいき、最終的には「呪い」からは外れていくのだが、やはり最初の章がインパクトが強かった。

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    投稿日: 2012.03.27
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    全能感を求めて作品を作らず批評する、実力がないほど攻撃的に呪いの言葉を吐く、と。ドッキリ。 呪いは記号化の過剰、祝福はその反対。交換に対しての贈与もしかり。ついつい呪いがちですが、出来るだけ呪わないよう、精進します。祝福と贈与の時代が来てるよ。

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    投稿日: 2012.03.23
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    ブログで見かけた話も多々あり、以前から著者が主張している内容を再度わかりやすくまとめた、という内容の本。 言われるまで気付かなかったというのも鈍感な話だが、呪詛が飛び交い前時代的にも思える「呪い」という存在が世界を締め付けているのは事実のように思える。人を叩いたり貶めたりすることによって自分の存在が確保されるような社会は間違いなくどこか病んでる。 著者が予言する贈与経済はいつやってくるのか。

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    投稿日: 2012.03.21
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    話題は多岐に渡ります。「草食系男子」が「弱くかわいい」男を演じたことで、本来男性の自己造型に際して忌避されてきた「弱さ」、「かわいさ」が人格要素に登録されたことは評価に値する…男のありように幅が出た…いくつもの人格を持って、一人の人間であることの意味が良くわかる説明でした。

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    投稿日: 2012.03.18
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    2012.3.10 図書館 就活、婚活のところ、イデオロギー植え付けられて、ビジネスに利用されてるだけなんですね。健康、ジョギングなんかもそうなんだろうな。 贈与ですね、やはり時代の転換期に来てると思う。東日本大震災と原発事故がその流れにさらに拍車をかけるでしょう。

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    投稿日: 2012.03.07
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     「呪いの時代」思わず目を引くタイトルに興味深く読み始めました。難解なところもありますが、昨今の社会感情からこれからの日本の向かう先について、やや左と感じるものの、とても共感するところが多い洞察です。  満たされない自尊感情が他者へ不寛容となる。他者を許容することができないと共生への道が閉ざされ孤立するので、相互扶助が得られなく弱者となった場合それが固定化され、企業の食い物にされる。  自分の弱さ、愚かさ、邪悪さも含めて広く自分を受け入れ、同じように他者も許容し、お互いに敬意をもってメッセージや贈り物の授受することにより「共存共栄」を計ることがこれからの日本の進むべきとし、「交換経済」から「贈与経済」へ移行が必至と論じます。  本書もタラハント氏の「ツイッターノミクス」で言及されているギフト経済によるウッフィーの考え方に近い、やはりソーシャルメディア(本書では言及していませんが)で自分を良いも悪い(ここはちゃんと考えてオープンにすべきですが^^;)も含めてオープンにてコミュニケーションすることがこの方向へ繋がりますね。  後もう一つとても印象に残った文章を引用します。『相手がこう来たらこう返す、こうされあたらこう逃げるという受け身の姿勢でいること、常に状況に対して「後手」に回るという日本の政治文化は受験生に似ています。』いやー、政治だけじゃないですね、自戒を込めて。

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    投稿日: 2012.02.26
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    このレビューはネタバレを含みます。

    原発の話。政治の話が主な内容だった。最近の政治やテレビの議論では汚い言葉で相手を再起不能に陥らせて自分の主張を通すことが優先され、昔にあった意見を出し合って理論を形成していくものがなくなってしまったというのに賛成。理論形成のある議論が最近日本でないのが悲しい。ドキュメンタリーにせよ外国のものと比べて感情的だしちょっと陳腐化している。もっと客観的なものが欲しいな・・・。

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    投稿日: 2012.02.23
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    Ⅰ 日本のことを考える 1、呪いの時代 2、『祝福』の言葉について 3、『後手』に回る日本 4、英語が要らない奇跡の国 5、『婚活』と他者との共生 6、『草食系男子』とは何だったのか 7、『日本辺境論』を越えて 8、これからを生き延びる知恵 9、神の言葉に聴き従うもの Ⅱ 未曾有の震災の後に 10、荒ぶる神を鎮める 11、戦争世代と科学について いつもながら日頃鬱々と考えたり思ったりしていたことを、ああこういうことだったんだと分かりやすく整理してくれる内田樹さん。引用された池部良さんやレヴィナスは私も大好きな作家(?)です。こういう点からも内田氏の作品に信用が置けるのです。

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    投稿日: 2012.02.23
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    面白かったけど、あまり役には立たなかった。 気持ちは分かったけど、共感以外のものはあまり残らなかった・・・ でもこれはエッセイなので、それで良いか、と思いました。 内田樹の本は他に読んだことがないですが、5章と6章があるから買いました。 5章「婚活」の話はほとんど同感。 「赤い糸イデオロギー」という言葉が出ていたけれど、この間読んだ岡田斗司夫の『フロン』であった(元は森永卓郎の)「オンリーユー・フォーエバー幻想」と同じですね。 そういえば岡田斗司夫が内田樹を応援していた気がする、このせいでしょうか・・・ なんやかんや思うところは、まとまることがあればブログででも考察してみたいと思います。 6章の「草食系男子」についても。 ただここで例に挙がっていた「草食系男子」の特徴というか、典型例みたいなものについては、なんだかしっくりきませんでした。 少なくとも周囲にいる草食系男子は、美肌にはあまり・・・かわいいしぐさも、思い当たる人がいない。 ちょっとイメージ違うので、その後のことも、少し違和感ありました。 読みやすかったですが、出来れば新書とかで読みたかった。 もしかしたら最近の橋下氏による「お前結局何もしてないくせに!」というアレを先に見たりしていたからかも知れませんが、 確かに言ってることには納得するし、面白いんだけれど、なんとなく読み物としてのただの娯楽に過ぎない感があって、残念でした。 エッセイだからか。それでいいのかも。 ちょっと違うものを期待していたのかも。

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    投稿日: 2012.02.15
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    「就活」、「婚活」、「草食男子」から原発まで。 日頃、腑に落ちないでいたことの理由が見えてきたかんじ。

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    投稿日: 2012.02.13
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    独特の視点で社会を語る内田氏らしい本。今回は精神的な社会システム論が中心。呪いに対する祝福、贈与経済への転換など、今の社会に対するひとつの解決策が示されている。

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    投稿日: 2012.02.13
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    昨今よく目にする「婚活」「草食系男子」「グローバリズム」などのワードに関して、それがどういう状況から発生したことばなのか、その背景の描写も含めて著者なりの考えが語られている。 一読して著者はたいへん頭の良い人なんだな、ということが分かる。一部、承服できない意見もあるものの、得るものは少なからずあった。 「日本辺境論」も読んでみようと思う。 図書館にて。

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    投稿日: 2012.02.10
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    正直、うーん、、、という感想。 これまで読んだ彼の著作の中では最低の出来。 まず、タイトルである「呪いの時代」に即した章が、 事実上、第1章しかない点にがっかり。 まあ、総じて言えば、全章、大なり小なり、「呪い」に何らかの関係性は ないことはないが、 もしそうだとすると、いささかのこじつけ感は拭えない。 あと、3.11の際、彼が提唱し物議を醸した「疎開論」。 その時の騒動と各方面からの反論趣旨、そこに対する本作執筆当時の 著者の見解がまとめられているが、それもうーん。。。 内田樹は、いま僕らを取り巻く様々な現象の本質を的確に捉え、 時代、空間、主題を飛び越え、他の現象との類似性・近似性を鮮やかに見出し、 そこから着想を得て、現在の現象を解決する理路を得意とする。 が、「疎開論」は、どう考えても衒い過ぎだと思うし、 「疎開」提案そのものに、これを機に東京一極集中の是正を、が伏流する。 論理的に正しいとは思うが、疎開は戦争を想起させるし、 東京一極集中の是正は、震災で右往左往する市井の人々の行動原理にはなり得ないと思う。

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    投稿日: 2012.02.10
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    このレビューはネタバレを含みます。

    李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず  すももの樹の下では冠のひもがほどけてもなおしてはいけない(すもも泥棒だと思われるから) 瓜の田んぼでは沓が脱げてもとりにいかない。(瓜泥棒と思われるから) 公人のたしなみ 推定有罪 池部良 ハルマヘラメモリー 結婚が必要とするのは、「他者と共生する力」 「私は弱者です、被害者です」と言いたて、まずそのポジションを確保してから話を始めるのは、間違いなく、この20年間ほどの日本の社会に定着した一つの行動様式です。とりわけ「権利請求」の戦略としては「まず被害者の名乗り」をすることが常識化している。クレーマー 帰農思考 経済活動は交換経済から贈与経済にシフトしていく 贈与経済は、まず自分にきたものは退蔵しないですぐパスする 人間を襲うのは人間だけ。いやしくも人間が住む場所には「人間の愚鈍さや邪悪さ」ができるだけ物質化しないようなしくみが必要 震災以前に付属していたのは、危機意識 日本のエリートたちは、正解がわからない段階で、自己責任、自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊。彼らは正解を書くことについて集中的に訓練を受けてきた。それゆえ誤答を恐れる。だから正解がわからない時は「上位者」が正解を指示してくれるまでじっとフリーズして待つが骨身にしみついている 「金があればなんでも買える」と信じている人がTPPを推進している「買うだけの金がない」「金があっても買えない」という状況を想定していない リスクというのは、コントロールしたり、ヘッジしたり、マネージしたりできる危険のことである。デンジャーというのはそういう手だてが使えない危険のことである 自説の正しさを確信している人間は説明を好まない 自説の正しさをひとりでも増やそうとする人間は、情理を尽くして語る。知る限りの傍証を引き、使える限りの修辞を動員し、思いつく限りの喩え話を繰り広げ、なんとかしてわかってもらおうとする。そのひとが言論の行きかう場の判定力を信頼しているからである。そこにいる聴きて知性を信頼しているからである。聞き手の判断力に敬意を抱いているからである

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    投稿日: 2012.02.03
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    これからの時代は「交換経済」から「贈与経済」へ移っていくのではないかと。昨今、話題になっているスペンドシフト的な要素もあり面白い。その他に、震災のことや、「今の自分」と「あるべき自分」の差異から生じる「呪い」について、論じている。昨今の社会的な事件、朝まで生テレビなどにみる政治家達のしゃべくりについての著者の見解は確かにそうだと思う。

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    投稿日: 2012.02.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    最近、読んで面白かった一冊は、内田樹さんの「呪いの時代」。 本のタイトルにもなっていますが、内田氏は、この時代を「呪いの時代」と指摘しています。 ネットの掲示板に「死ね!」と書くような行為や、メディアによる特定の人物に対するバッシングは、言葉によって人を傷つけ、時には、死にまで追い込んでしまうものです。 破壊的な言葉によって、人を殺してしまう。 これは「呪い」と同じ。というわけです。 では、この「呪いの時代」をどう生きていけばいいのか? 内田氏は、この問いの答えを「祝福する」ことだとし、次のように書かれています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。 「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、「このようなもの」にすぎないに関わらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思い、一掬(いっきく)の涙をそそぐこと。 それが「祝福する」ということの本義だと思います。 呪いを解除する方法は祝福しかありません。 自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。 多くの人が誤解していることですが、僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりにも愛している」からではありません。逆です。 自分を愛するということがどういうことか忘れてしまったせいです。 僕たちはまず「自分を愛する」というのがどういうことか思いだすところからもう一度始めるしかないと僕は思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なるほど。と思いました。 少し角度が異なるのですが、数年前、ある中小企業の経営者から、こんな話しを伺いました。 経営者は、従業員に「もっと、こうしてほしい」とか、「どうして、こうしてもらえないんだろう」とか、考えてしまいがち。 でも、そういう思いを募らせて従業員に話しをしても、言葉は届かず、従業員との溝が深くなる気がしていたそうです。 そして、その方は、「感謝する」ことを忘れていた。と気がついたそうです。 私自身も、その頃、「感謝する」ということを忘れていたなぁ…。と思い当たることがあり、この経営者のお話がとても身にしみました。 自分以外の人の存在や行為に「感謝する」こと。 これって、やはり、とても大切なことだと思います。 相手に対してどうこうというより、 「感謝をする」時は、「自分のことを、よく捉えられている」時だという気がするからです。 「たいしたことない自分」を認めると、自然に、今、自分に与えられている現状や、周りの人に対して「ありがたいな」って思えてきます。 気持ちが楽になったり、変なプライドを手放すことができたりします。 これまでと状況に変化がなくても、新しいスタートラインが見えたり、頑張ろうというエネルギーが沸いてきたりもします。 「感謝する」「祝福する」は、誰かのためにするものではなくて、結局は、自分のためにしているのかもしれないですね。 話を戻しますが、内田樹氏の「呪いの時代」の中では、 第5章『「婚活」と他者との共生』と 第6章「草食系男子とは何だったのか」も、なかなか面白かったです(*^_^*)。

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    投稿日: 2012.02.02
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    言霊という言葉があるように、言葉は力を持つ。昨今、人を傷つける言葉、一方的に他者を傷つける言葉が氾濫している。言われた人は傷つき回復可能になるかもしれない。これは、呪いである。本書は呪詛と、それに対する贈与について論考する。何が大切か。一読の価値あり。

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    投稿日: 2012.02.01
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    ○内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社] http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694 内田氏の書いた上のコラムで本書を知り、興味を持って購入しました。 このコラムが、他者に呪いの言葉を吐き続けることのみが生存理由となっているような雑誌に初出掲載されたのは何かの冗談かとも思いますが、その内容は私たちがしっかりと受け取らなければならないものです。 つまり、他人を否定することば、進歩を止める言動、対象を記号化しひとくくりにする思想、そういったものを駆使して相手より優位に立った気になる、あるいは物事をわかった気になる、といったことが、どのような効果を生むのでしょうか。自らは手を動かさず何も作らず、他人が何かを作り上げようとするのを邪魔するだけの言動は、社会を破壊することはあっても創造することはできません。そういった言動を、本書では「呪い」と呼んでいます。 そして筆者が現代を「呪いの時代」と呼んでいるのは、呪いがカジュアル化し、言い換えれば制御を失って、誰もが誰にでも呪いの言葉を浴びせかけられるようになったことをいっています。その結果が華々しい未来を作るとは、誰にも、当然ながら呪いの言葉を発している当人も考えていないと思うのですが、人はなぜ呪うのでしょうか。 刹那的な破壊欲と恍惚感だけで、世界を壊し続けるのは、どう考えたって割に合わない。壊れた世界が瞬時に復元されるとでも思っているのか、それとも新たな秩序を構築する超越者の存在を希求しているのか。何ともやるせない話です。 自分はITの世界に入り、システム開発者としてのキャリアを積んできました。プログラムやシステムは目に見えるものではありませんが、顧客の要望を実現できるものを作るという意味では「ものづくり」の仕事に携わってきたという自負があります。 その中で感じるのは、自分の要望でさえ形にするのは非常に難しく、ましてや他者の要望を、それなりの対価を受け取って形にする行為が、どれほど困難であり責任を伴うものであるかということです。よく、壊すのは簡単だが作るのは難しいといいますが、実際にやってみればその困難さが身にしみます。自分も、仕事でなければ、つまり対価をもらって責任を負ってやっているのでなければ、何も作れていないというのが現実です。 そうやって苦労して作られたものでも、一瞬で壊れてしまいます。そこには自分の力の足りなさと、世の中のはかなさを感じざるを得ないのですが、それでもなお作り続けなければならないと考えています。 さいごに、現代科学の技術を駆使して作られ、一瞬で壊れた原子力発電所のことについて興味深い考察がありましたので紹介しておきます。 作者は、原子力発電を、人間が制御できる範囲を超えた力であるとして、神々と同じように祀られるべきではなかったかと論じています。地下深くに原子炉を据えて、その周辺の地上を神聖な地域とし、神社やほこらを建てて鎮めることが、私たちが原子力を扱える唯一の方法だったとしています。そうではなく、人間の力で制御しようとしたことで、地震や津波の被害から施設を守ることができず、大きな被害につながったのだということです。 どこまで納得するかはともかく、個人的には一笑に付するわけにも行かないと感じています。確かに原子力発電は、小さな施設の中で莫大なエネルギーを取り出せる、未来の夢のエネルギーでした。ですがひとたび事故を起こすと、人間が制御できない状況に陥ってしまうわけで、私たちはそこまでのリスクを知った上で原発と向き合わねばならなかった、ということを改めて感じます。 放射能を無害化することや、人体への副作用のない核反応など、安全な原子力発電の道は開かないものでしょうか。

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    投稿日: 2012.01.31
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     「呪い」と「贈り物」が主要主題。著者の強調する「贈与」は実に大切な概念だ。人の人たる所以はここにあるとも言える。内田樹の本はいつも傍線だらけになるが、この本も忘れずにおきたい、いつも心の真ん中に据えておきたい言葉がたくさん出てくる。 ①「どんなふうに使えばみんなが喜ぶだろう」という想像をいつもしている人間だけが効果的な贈与を果たすことが出来る。 ②贈り物は受け取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない。 ③「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるが、万人はそれぞれ固有の仕方でノブレス(貴族)である。 ④人間が人間に対して犯した罪人間によってしか贖うことはできない。それは神の仕事ではなく、人間の仕事である。 ⑤科学は反証可能性にある(カール・ホパー) ⑥身体とは、私のもっとも近くにある「自然」である。  こうした言葉に刺激されて、私の中にひとつの言葉が生まれる。 3回の衝突事故を生き延びた私は、生き残った意味を問いはじめる。 「自分は、贈り物を他者に手渡さなければ生きている甲斐がない」

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    投稿日: 2012.01.30
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    呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」ではなく「恐るべきもの」を常に脳裏にとどめ、緊張を維持すること、という言説が興味深かったです。東日本大震災における原発に対してのリスク管理の甘さは、その呪鎮の儀が足りないことに起因しているという旨が示されています。(例えば「原発神社」を設けて定期的に儀礼を執り行うなどすればよい等。) 信仰や呪鎮が現代社会にどんな意義を持つか、僕は正直なところ全く理解できていませんでした。そのため、「危機管理のための緊張の維持」という意味を持つというのは新たな知見です。

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    投稿日: 2012.01.28
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    相変わらず面白かった。ブログで書いたものを寄せ集めて作ったパターンの本ではなく、硬めの雑誌に連載したものをまとめた本のようなので、論調も硬めで、論理構成も一層しっかりしている内容が多かった気がする。 最近に書かれたものなので、今という時代にフォーカスした、タイムリーな話題が多く、それがまた面白いところだった。 これまでの本で言っていたことと重なる内容もいろいろとあるのだけれど、そういう場合でも、また、同じ事を角度を変えて説明しているので、より理解が深まった気がする。 【面白かった話し】 ・思っていることを完璧に表現することが可能な日本語という言葉が母語であることは例外的に幸せなこと。 ・万人が必ず「この結婚は失敗だったかも」と思うような構造になっているということ。 「呪い」は破壊することを目指します。何かを創り出すための「呪い」というものはありません。どうして破壊することが優先的に選択されるかというと、創り出すより破壊する方が簡単だからです。はるかに簡単だからです。ですから、「変化」の絶対値だけを取れば、破壊の方が創造よりもはるかに大規模で印象的な出力をもたらします。 10年がかりで築き上げた信頼関係でも壊すのはわずか10秒で十分です。100年かけて築かれた都市が一夜で灰燼に帰すのと同じです。あるものを破壊するのに要するエネルギーは、それを創り出すために要したエネルギーの数百分の一、場合によっては数百万分の一で済みます。 ですから、身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、それよりは何かを破壊する生き方を選択します。(p.17) この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。その答えの一部はすでに書きました。それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け容れ、承認し、「このようなもの」にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。(p.36) 俚諺に「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」という言葉があります。「すももの木の下では冠のひもがほどけても直してはならない(すもも泥棒だと思われるから)。瓜の田で沓が脱げても取りに行かない(瓜泥棒あだと思われるから)」という「公人のたしなみ」についての教訓です。それが教えるのは公人というのは「推定有罪」の心構えでいなければならないということです。何もやましいことをしていなくても、他人からみて「泥棒」に見えるような所業をしたら、それは「泥棒をした」のと同じ意味をもつ、ということです。そんなの理不尽だと言っても始まりません。それが一般人から権利を受託され、税金の使い道を決められ、個人情報を占有できる公人であることの「有利」さとトレードオフされり「不利な条件」だからです。(p.76) 日本の知識人は特権的な言語状況にいる。現にこれを書いている僕だってそうです。僕は学術論文もエッセイも全部日本語で書いています。それで言いたいことはだいたい言える。日本語には僕の言いたいことを受け止める語彙や構文が存在しないというような言語の限界を僕は感じたことがありません。もちろん、僕の言語表現にはさまざまな不足や欠点がありますが、それは日本語そのものではなく、運用者である僕個人の責任であって、僕の個人的努力によって、それらの瑕疵は修正可能です。そして、そのように母語運用の自由に支えられて書かれた僕の文章は、すぐれた翻訳者を得れば、だいたいのニュアンスを保持したまま、英語やフランス語に置き換えることができるはずです。 母語だけで学術論文が書けるというのは、これは19世紀末の列強による植民地化の恐怖が切迫するまで近代化を先送りしてきたアジアの一小国としては、まことに例外的な言語状況であると言わなければなりません。(p.88) 人間のほんとうの知的能力は母語の運用において際立ちます。でも、母語についてはどういう訳か人々は「みんな同じようにできる」と思い込んでいる。だから、母語運用能力の巧拙や適否について話題にするということはしません。(p.98) あらゆる結婚は(と申し上げてよろしいでしょう)「これは失敗だったな」という感覚を当事者たちにもたらします。必ず。だから、ご心配には及びません。僕たちは配偶者の選択において、必ず間違いを犯します。そして、後になって「なんで、こんな人と結婚しちゃったんだろう・・」と虚空を仰ぐことになる。「婚活」ビジネスは、この「失敗の不安」を煽り立てて、それがあたかも致死的なものであるかのように思い込ませることで、「より多くの出会い」への需要を生み出している。僕はそれが「よろしくない」と申し上げているのです。「仲人」たちの仕事はまさにその反対です。仲人の結婚後のアフターケアは主にこの失敗の不安を「標準的なこと」として笑い飛ばすことにあります。誰でも、どれほど愛し合って結婚した夫婦でも、必ずどこかの時点で、「結婚に失敗した」という不安にとらわれる。そのときに、その不安をまっすぐぶつけることのできる相手がどこかにいた方がいい。(p.118) 「天賦の才能」という言葉がありますね。それは自分に備わっているさまざまな能力や資質を「天からの贈り物」だと感じることです。贈り物だから、むろん返礼義務があります。 例えば、世の中には10万人に一人といった割合でしか存在しない優れた頭脳を持っている人がいます。それはすばらしいことです。でも、才能の絶対量は評価に値しません。その才能を賦与されたことにどれほど深い返礼義務を感じているのか、それが人間的な意味での才能の評価基準です。天賦の才能を豊かに持ちながら、それを自己利益のためにだけ排他的に使用する人間を僕は人間としては評価することができません。ぜんぜん。(p.184)

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    投稿日: 2012.01.27
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    日本全体を覆う『呪い』とソリューションとしての『祝福』、そして将来はお金が中心ではない『贈与経済』が中心になっていくという本書はすんなりと腑に落ちる論だった。まずはかっこ悪いかもしれない『素のままの自分』を受け入れること、素のままの自分を祝福することで呪いを解くことで、他者にも寛容になれるということだった。 また、原発事故を『神の火として宗教的に崇めることを怠り、金づるとして貶めてきたため』という理解には一理あると思った。こういった宗教的な位置づけをすることによって、『人間は不完全で過ちを起こすものである』として人間が緊張感を持って対処できるという論には深く頷く。スピリチュアルなものが見直されてきたりとすでにその兆しはあるが、それを公の場で議論できる社会に変わっていくべきなんだろうなと感じた。

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    投稿日: 2012.01.26
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     「呪い」の本質について  呪いは記号的なものである。呪いが機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物であるからと著者はいう。憎悪や嫉妬、恨みといったものは物理的、具体的な身体に根ざしていれば、その発露は極めて限定的なものになる。しかし、『源氏物語』の『葵上』に六条御息所の生霊が葵上に取り憑いて死に至らしめる話があるように、自身の固有名、固有の身体を遊離したときに、つまり記号だけの抽象物になったとき呪いは強力なものになってしまう。  9・11同時多発テロ以降、多くのアメリカ人はイラクへの戦争行為を支持した。イラク人のことを知らないにもかかわらず、あるいは知らないが故に、彼らイラク人が具体的な生活を営み、異なる政治思想、異なる信仰、異なる価値観を有した、実際的な人々であるという事実は片隅に追いやられ、イラク人は「テロリスト」という記号化によって回収されてしまった。記号的であるというのは、物理的な制約が解除されているということである。抽象的な記号としての敵に、制限のない記号としての暴力という報復が実行された。安易な記号化は危険な呪いを生み出す。ではその呪いにどう対抗すべきか、あるいはその発生を事前に防げばいいのか。そのヒントは示されているはずである。

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    投稿日: 2012.01.23
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    タイトルは凄いけど、中身はいたって至極まとも。特に結婚の話は妙に納得してしまった。結婚相手なんて所詮他人なんだから、合わない部分があって当たり前なんだし、そこをどう自分の中で折り合いつけて生きて行くかって事だよね。最近結婚を意識させられる出来事があったから、凄く自分の心に沁みました。

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    投稿日: 2012.01.23
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    思想家、内田樹氏の最新著書。 「経済の死角」をぱら読みしたところ面白かったので、こちらも。 ※内田樹を知らない人の前でこれを読むと、  オカルトな本を読んでると思われますのでご注意を!←経験則 さて、肝心の中身はというと。 快刀乱麻を断つ感じで、もはや清々しいほど。 〝呪い〟といっても、呪術とかそんなんじゃあありません。 ネットを中心とした、他人に対する批評的な言葉などなど。 「知性の冴え」が「攻撃性」と同じ意味になっていき、 「辛口」「毒舌」といった形容詞も許容される世に警鐘を鳴らしています。 個人的には特に第一章がまるでわたしに向けられているようで ひやり、と反省しました。 分不相応な自尊心を持ち合わせたゆえに 他人に呪いをふりかざしてしまっているんですね。 無意識だとしても、とても怖いことだなぁ、と。 これまでの連載の編集編なので全編通したメッセージは薄いですが 現代コミュニケーションを考えるうえで勉強になる一冊。 著者の言葉選び(遊びといってもいい)も巧みでいて、 読者に知性を求め、また敬意も感じられる文章ですね。

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    投稿日: 2012.01.22
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    あとがきによれば『新潮45』に寄稿したエッセイを中心に編んだ本で、全体の主題は「呪詛」と「贈与」。他にも英語がいらない日本、婚活、草食系男子などの話題や、原発事故についても述べられている。 以下思ったこと。 *「呪い」が記号的、抽象的、汎用的であるというのは十分納得できたが、「祝福」の章はもう少し詳しく書いてほしかった。”生は汲み尽くすことができない。だから記述すること、写生すること、列挙することを終わりなく続けるしかない”というのは何となくわかるけど。 *結婚が必要とするのは「他者と共生する力」であるというのは勇気づけられる知見である。共生するというのは耐えることではなく、「他者」の構成成分のうちに「私と同じもの」を見出し、「この他者は部分的に私自身である」と認めること。 *日本人の失読症(ディスクレシア)には「漢字が読めない」と「かなが読めない」の2種類がある。つまり脳内で漢字とかなを処理する部分が違う、というのは面白い。 現代では人々の自尊感情が肥大し、どこかにいる「ほんとうの自分」を探し求めているが、そんなものはどこにもない。身の程を知る、分をわきまえるということも大切なのだろうなと思った。

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    投稿日: 2012.01.22
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    武道家であり、思想家・内田樹さんの新著。まず「呪いの時代」というタイトルに驚きますが、本書でいう呪いとは、ネットを中心に飛び交う誹謗中傷、他人を徹底的にたたきつぶすためだけに発信された言葉。それは僕らが普段オカルト的なものとして感じている「呪い」と同じだ、というものです。 「呪い」をキーワードに現代社会の切羽詰まった閉塞感に切り込む本書は一歩間違うと、これこそが非常に攻撃的なものになりがちですが、著者の言葉を借りると「情理を尽くし」丁寧に語られています。「相手の知性に敬意を払ってメッセージを伝える」姿勢から生まれる読みやすさ(リーダビリティ)は扱っている問題や言葉の難しさを越えて、理解に届くものです。すいすい読み進められるし、どんどん頭の働きが促されるようです。 「呪い」がテーマになっているとおり、他にも霊的な表現やトピックが様々語られます。時代錯誤だと拒否感が生まれる方も多いかもしれませんが、正しいor間違いの二極で物事を捉えるのではなく、1度受け入れあって反芻してみるのが良いと思います。人を受け入れることで視点が広がるのは素晴らしいこと。進むのはゆっくりでもいいから、時間をかけて価値観を共有して形にしていく社会づくりに貢献したい。

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    投稿日: 2012.01.17
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    街場のアメリカ論に引き続いて内田先生の著作を読んだ.第1章での日本を「呪い」を通じて論じることにはじまり,呪詛と贈与について内田節全開である.これまでの言質と変わりなく,読んだことや聞いたことがあるものも多かったが,きっと繰り返すことで多くの人に伝えたいのだろう.贈与経済の話は面白いが,現代日本人には難しいと思う.

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    投稿日: 2012.01.16
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    「政治家も知識人もいかに鮮やかに一撃で相手に回復不能の傷を与えることができるか競い合っている。たしかにそのような脊髄反射的に”寸鉄人を刺す”言葉がでる人は”頭が良さそうに見える”。けれども、そこからどんな”よきもの”が生まれるのか。」 「私たちはもう”壊す”時代から抜き出して”作る”時代に踏み出入るべきだろうと思う。」

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    投稿日: 2012.01.15
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    この方の文体がなんとなく合わなくなかなか読み進められない。 なぜだろう、他の方のレビューを読んで研究したい。

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    投稿日: 2012.01.14
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    従来の本からの方針?通りにブログからの転載が多かったため、聞いたような話が多い内容 ただ、その主張も読み込んでるうちに「ん?」という部分も出てきたため手放しには礼賛できなくなってきた内田先生 でも大枠では合意できるし、面白いことには変わりない

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    投稿日: 2012.01.09
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    改めて内田樹さんの強靭な知性に惚れ直す。というかため息しきり。修辞的技巧もさることながら何よりもまず地頭の良さが卓抜している。

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    投稿日: 2012.01.04
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    ここ数年で一番傑作の本。福島第一を火の神様へのメタファー(隠喩)に置き換えた部分。尊敬すべき火をないがしろにした点。それが事故へとつながっている。またネット社会の発想が「破壊」であること。「創造」する人は破壊者に耐えられないこと。この本を読んでスッキリした。贈り物、これを理解出来ない人間は人間ではないとの思考。納得する。この本のおかげで頭の整理ができた。前進できる気がする。

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    投稿日: 2012.01.04
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    各章ごとに、考え方の核心に作用するような一冊。それぞれが独立した読み物として考察に富むとともに、各章の連なりがひとつのパラダイムシフトを強く強く訴えかけてもいる。 また、ひとつの「考え方」が、いかに万物に影響を与えるか。または、いかに万物がひとつの思考によって繋がっているか。それを確認できる一冊でもある。 余談だが、尊敬する福岡伸一先生の思考に言及して本書を終えている部分も、福岡ファンとしては嬉しいとともに、しっくりくる。

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    投稿日: 2012.01.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    じっくり読んだ。 「世の中は確かに不公平で不条理なこともあるけれど、  だから努力をしても報われないのだ、と言ってはならない。  その言葉は呪いとなって自分自身を縛ってしまう」 「最も強く相手に届く言葉は、その受け手に対する強い敬意を  込めた言葉である。人間は自分に対する敬意(評価)に  最も強く反応するからだ」 「資本主義の次にくるものは『贈与経済』であるべきだ」 ...などなど これからの世紀を生き抜くための新しい哲学を感じる。 何度でも読みたい本となった。

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    投稿日: 2011.12.30
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    何事にも批判的な書と思いきや、認めるものはきっちり書いてあるし、次第に共感しつつ読めるようになった。日本、現代の状況をばっさりと斬る論調は悪くない。おかしな情報にあまりにも惑わされていることに気付かさせてくれる。

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    投稿日: 2011.12.29
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    内田センセイとの会話は やはり 楽しいですね どの 著作にも 共通していることですが 「本」という形なのに 読んでいる その リズムが まるで 会話をしているような 気にさせられてしまうのは ほんとうに なんでしょうね まぁ それは ともかく 会話後 いや 読書後の 快い疲労感がまたよいのです

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    投稿日: 2011.12.27
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    仕事以外の理由でインターネットを使用する頻度が高いわけではないのだけれども、それでも時々、とんでもない批判の応酬合戦みたいになっているサイトに出会うことがある。相手の全てを否定しつくす勢いで論が展開するのを読むのは、自分には関係のないことであったとしても、後味の悪いものだと思う。 内田樹は、それは議論ではなく「呪い」である、と説明している。 なるほど、と思う。何らかの結論を出すために「議論」をしているわけではなく、ただひたすら相手を否定しつくす呪詛の言葉を吐いているだけである、と考えれば、そういうものか、と思う。 なぜそうするのか。それが楽だから。知的な議論はエネルギーが必要だけれども、呪詛の言葉(というか、否定の仕方は一見理論的な形をとる。定型的な批判の仕方もある)を吐くには定型的な批判の仕方だけを覚えておけば、知的なリソースを使う必要がないから、かつ、効果的に相手を否定することが出来るから。 ということなのだろうけれども、そういう場所には近づきたくないね、と思う。

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    投稿日: 2011.12.20
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    11/11/24。 内田先生のいつもの話なのにふむふむと納得しながら読み終えました。 内田先生が指摘していることは、実はほとんどの人が了とするはずなのに、ほとんどの人があえてこのようには考えない。何故なんだろう。

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    投稿日: 2011.12.14
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    ネットを中心に世間に溢れる、嫉妬や妬み、誹謗中傷。 他者を貶めることで自分を守るつもりなのだが、それら自らにかけた「呪い」となって返ってくる。 レストランで供された料理にアラさがしをして、「肉の焼き加減がいまひとつで残念」、「フレンチなら●●のほうがはるかに美味しかった」みたいな言葉しか発することが出来ない人と食事をして楽しいと思うだろうか。 僕ならば「今日は一緒に食事が出来て楽しかった」、お店の人たちに「美味しかった、ありがとう」という言葉を使う人と一緒にいたいし、勿論僕もそうありたい。 ”他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる”と『呪いの時代』の呪縛を解く秘法をこの本で伝授するのである。

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    投稿日: 2011.12.11