Reader Store
罪と罰 下
罪と罰 下
ドストエフスキー、江川卓/岩波書店
作品詳細ページへ戻る

総合評価

58件)
4.4
31
15
9
0
0
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    辛く陰うつなストーリーがずっと続いているのに、最後のシーン、寒く荒れ果てた土地で、心の自由?を感じているラストが、印象的だった。

    0
    投稿日: 2025.11.20
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    逆境にあった時、「周りが、世の中が悪い」と他責思考になりがちだけど、その最たるものがこのラスコーリニコフが起こした事件だと思う。本当は人間としては自分なんて周りとそう変わらないのにね。 人を殺め、そこに罪の意識を持つことができないのは、できないのではなく、したくなかったのかなとも思う。苦しかったり辛かったりした方が、周りを悪にして自分を正当化しやすいような。落ち着いて考えてみたら、ラスコーリニコフにも良いところ、幸せな部分もあったよな。母親も妹もいて、なんだかんだ周りの人を思い遣ったりして。刑期減らされた理由に周りの人の証言があったし。その幸せに目を向けることができなかった、目を背けながらぐるぐる自分の中だけで考えてしまったことが犯行の原因の一つだとも思う。彼が作中ずっと感じていた恐怖は、罪がバレることだけでなく、他でもない自分の選択によって自分も周りも不幸にしたことがはっきりするからなのかな。もう少し考えたいところ。 大義のためなら、世の中のためなら人々を殺すことだって厭わないのか。この問題提起はかなり響いた。そんなことない!って思うけど、今起きてる戦争など照らし合わせるとそうとも言えないし。一生向き合う良い問いに出会ったと思う。 初ドストエフスキー。登場人物の思考回路、表情、心情の変化などを細部まで捉えて、長くなることなどお構いなしに繰り広げられる文章はかなり読み応えがあった。マルメラードフとかが自分の生い立ちとか思想を語りまくってる時には「こんな台詞物語にどこまで関係あるの?」って思いながら読んでいたけど、振り返ればリアルさが増したかもしれない。日常と同じように、作品にもノイズがあっただけというか。 ドスエフ節は嫌でも理解できた。時代や文体のせいかもしれないけど、「全ての」登場人物がずっと頭を抱えて苦悩に苛まれながら喋ってる。鬱屈としてて、悲観的。内省的に思考を大袈裟に繰り返し続ける。それもこの作品の良さなんだけども、登場人物とりあえずみんな水飲んで深呼吸して見晴らしのいい場所で休憩したらいいと思う。笑  読む中で自分の中での感情の想像範囲を認知できたことも良かった。私は特に一般社会への憎悪、怒りの部分に弱い。恵まれて育ったなと実感した。彼の言い方で言えば、平凡なのか。ラスコーリニコフの思想、把握はしたけど全く理解はできなかったな。同じように慈悲の部分も弱いかも。ソーニャのような人には絶対なれない。そもそもあんな「陰」で覆われてる人に出会って添い遂げようと思わん。と思ったけど、自分に課せられた困難が多い、もしくは大きい方が、何かにすがれる、生きていることを実感できるタイプなのかもしれない。彼女なりの生きがいなのかも、、、。 まだまだ言い表し難い余韻が後を引きそう(ドスエフぽい言い回しになってないか?)だけども、総じて、ドスエフの人や社会を捉える眼、その表現手法には、惹きつけられた!怖いもの見たさに読み始めた初ドストエフスキー、次もまた手を伸ばしてしまいそうです。次はカラマーゾフの兄弟かしら、長いな〜、、、!まずは罪と罰を読了した、そして正解不正解はわからないけれど何かしら感じられたことを褒めたい! ドスエフぽい言い回し、頻出単語備忘録 ・取り憑かれたように (すぐ取り憑かれる笑) ・〜(人)は〜(人)の中に〜(気持ちの変化)を認めた ・2人は無言で見つめあった(数分無言で見つめ合う時多くない?!) ・(何か言いかけて迷い)、いや、そんなのはどうでもいんだ、どうだってよかったんだ!!(激昂) ・〜に違いない。いや、果たしてそうなのか?(沼) ・はげしく身震い ・蒼白い顔 ・〜という様子をたしかめると、〜した ・ずいぶん長い間あたためてきた考え ・すべてさっぱり洗いざらい話してみせますよ

    1
    投稿日: 2025.07.15
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    訳者あとがきにあるように、一読してある種の熱気や漠とした不安を感じたら、二度でも三度でも読み返せばよい。それに耐えうる読み応えを持つ作品である。 難解な作品であることは間違いない。一つには、帝政末期ロシアの社会事情に我々の馴染みがないこと、もう一つは主人公ラスコーリニコフがインテリの半狂人ともいうべき心性の持ち主であること、三つ目は凝りに凝った文体が千ページ超のボリュームで展開すること。 だが凄まじい熱気と激情だけは一読しただけでも感じとることはできるだろう。なんだかよくわからないけど『罪と罰』を読破したってだけでも、ちょっと誇らしく感じることができるのではないだろうか。

    1
    投稿日: 2025.05.06
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ラスコリーニコフのひとりで葛藤している心情は読み応えがある。上、中、下、完読しました!次はカラマーゾフの兄弟かな。

    0
    投稿日: 2025.05.01
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    上と中編と比べ、難しいと感じた。 哲学も入ってる。 ラスコーリニコフが追い詰められていく様は、ハラハラした。 ソーニャとは、一生幸せであってほしいと読後に感じた。

    0
    投稿日: 2025.03.08
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    永遠と思われる様な時をラスコーリニコフ の影、思考を追い続け全三巻を通して 最後の最後にラスコーリニコフが 愛を知り、愛に救われ生きる事への 渇望や希望をソーニャ=此処では信仰 を取り戻して行くソーニャはその象徴である。 宗教の事はよく分から無いが、人と人の 交わりの中で救われ愛し、愛される事 は人間の尊厳にも繋がっている様に思う。

    1
    投稿日: 2024.11.19
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    殺人を犯した青年がある女性との出会いを通して 罪を自白するまでの物語。巨匠の作品だけあって 心理描写が細かく惹きつけられるように一気読み しました。

    4
    投稿日: 2024.10.24
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    最後の方は一気に読んでしまった。外国文学の、あるいは古い作品のあの独特の劇のような語り口は正直得意では無いのだが、主人公の行く末を早く見届けたくて手が止まらなかった。 罪への意識、というものはかくなるものなのか。

    0
    投稿日: 2024.02.17
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    ドストエフスキーを読まずして読書家は語れないという思いから、約3000円近くかけて購入したが、購入してからおよそ1年が過ぎてしまった。今回一念発起して読んだが、もっと早く読みたかったという思いが強い。ロシア文学というものを人生で初めて味わい、そのユニークさに触れたことで、人の罪、犯罪とは何なのかを深く考えさせられる内容に自分の精神的成長を感じる。ドストエフスキーの集大成はカラマーゾフの兄弟らしいので、いつか挑戦したい。

    0
    投稿日: 2024.01.27
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    高校生の時に読むことに挫折してはや何十年。 読み終えたことに満足してしまい、なんて書いていいのやら。 過去に、いや今もこの本についていろいろ書いている人たちがいるので、高尚な感想はその方たちにお任せします。 読み終えた時に真っ先に思ったのは、宗教をベースにした恋愛小説?って思った。

    0
    投稿日: 2023.04.29
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    とうとう読了、やりました! 1月中旬に「罪と罰を読まない」から、じゃ読んでみようと一念発起して2月から読書スタート。途中他の本を読みつつ。 でも、最後まで読めたのには面白さがあったから。これにつきるかな。 江川卓先生の訳が読みやすいです。 主人公ラスコーリコフは20代前半。容姿端麗、大学でも優秀な設定。だが極貧のため学生生活が継続出来なくなる頃から彼の生活が負のスパイラルに。彼の書いた論文の内容が正にラスコーのその後の起こした事件とその後の彼の思想そのものなんです。その内容は、英雄と言われる人物は世を導くために殺人も厭わないし(戦争とか)、それで罰せられることはない。それを正当化しており、つまり、この世のためにならぬ虫螻のような人を殺して何が悪いのだという思想なんですよ。これが最後まで、流刑後にもその思想は変わらないという。 論文の内容が過激なので、最初はいやちょっと待って!と思いましたが、そこについては読者のみなさんはよく考えて欲しい。自分の正義を貫くためには、犠牲を伴うのは当たり前なのだろうか、、、とウクライナ侵攻が1年も続く今思います。 救いは、最後にラスコーは突如ソーニャへの真の愛に目覚める所かな。 下巻は上よりも、中よりも、ファイナルに向かって加速度的に面白さが増します。個人的にはスヴィドリガイロフの章が圧巻だったかなと思いますねぇ。

    8
    投稿日: 2023.04.09
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    就活をしながらダラダラと読み終わった。 あまり、タイミングが良くなかったかもしれない。 罪を犯したが未だ罰せられずにいる主人公は、罪が露見する恐怖や、後ろめたさから生じる孤独感に苛まれる。 彼が許されざる犯罪を行った理由は、自分や家族が置かれた環境を変えること、そして彼の理論を実証することにあった。 極貧の中で精神を病み、流行思想にかぶれた彼はついに強盗殺人を実行し、偶然にも成功させてしまう。 彼は罪を贖うことで恐怖や孤独から解放されたいと感じ、自分が犯人であることを仄めかすような行動を取り始める。 しかし、彼は自分の理論の正しさを示すため、そして「人間」であろうとするために何度もその欲求に抗う。 かつて優秀な学生だった彼は、ナポレオンのように非凡な「人間」は、全人類の利益のために「しらみ」たちを殺しても、良心の呵責を感じない権利を持つと考えていたのだった。 だが、彼の目論見は外れた。 罪を犯してから少し経った頃、彼は自首をする。 牢獄の中で彼は、良心の壁を踏み越えることができなかったことや、自殺よりも自首を選んだことに苦しめられる。 生きながらえたところで、未だ理論を諦め切れない彼にとって、殺人は罪ではなく一種の試みであり、優秀で傲慢な彼は今後の「しらみ」の人生に意味を見出すことはまだできなかった。 しかし、、、 ロシア文学は長くて退屈なイメージがあったが、なかなか面白かった。 今後もドストエフスキーは読み進めていきたいと思う。 贖罪は思考の産物ではなく愛から生まれてくる。 人生に意味をもたらすものは無上の愛である。 人生に意味を見出すことで人は罪を悔いることができるのだ。

    0
    投稿日: 2023.03.18
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    殺人を犯した人間の心理描写は卓越している。が、いくら精神的に病んでいるとはいえ、知性ある者だけにたかが金貸しばばあの金で人生を好転させようとする筋立ては、現実味に欠ける。

    1
    投稿日: 2023.01.30
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ものすごい量だったけど、読み終わったぜー。今年の冬から読み始めて、ゴールデンウイークでなんとかケリつけた。苦行だったけど、読み終わった後にはものすごい爽快感が。是非とも読むべき。色んな日本の小説やアニメを思い出しながら読んだ。宮崎駿は特にヤバい。魔女の宅急便も猫の恩返しも、もう純粋な目では見られない。

    0
    投稿日: 2022.05.08
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    貧困と混沌とした社会で苦悩し、葛藤する人々の物語。人の心を守り正しい方向(平和、自由、人権尊重といった現代の我々が持つ普遍的な価値観)に導いてくれるのが愛情であり、信仰なのだと思った。 ラスコーリニコフは、大きな罪を犯しながらそれを悔悟したが、周りの人たちの愛情によって救いを得ることができた。 彼ほどの極端な思想がなくても、我々誰しもが、心の中に善と悪の2つの心を持ち、過ちを犯し、罪の念に苦しみ、苛まれている。また、極端に親の愛情を受けなかった子供が犯罪者になる割合が高いという。 人の心を救い、正しい方向に向かわせるのは愛であり、未来への希望なんだろうと思った。 ラスコーリニコフ、ラズミーヒン、ストヴィリガイロフ、ルージン、ソーニャ、登場人物たちは皆、我々の中にもある狂気と善意を象徴的に強烈に際立たせた人々に他ならない。 その描き方、表現は世界最高峰文学と言われるに相応しい作品だった。  

    2
    投稿日: 2022.03.20
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    脇役と思っていた人格が突如主人公と入れ替わり、主人公の一つの面を物語る。その手際良さに圧倒された。ラスコーリニコフが熱に浮かされてみた夢が、パンデミックやSNSの普及、更には昨今の戦争を予言するかのようで、真の名作というのはどの時代にあっても色褪せないのだとつくづく思う。

    1
    投稿日: 2022.03.06
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    スヴィドリガイロフがラスコーリニコフの言葉を混ぜながらカチェリーナの子ども達の援助を申し出るくだり、いいね

    0
    投稿日: 2022.02.22
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    読み終わって、朗読CDで内容がかなり省略されていたことに気づきました。ただ、裁判でもあれほど多くの人に弁護してもらっていたのを見ると、ラスコーリニコフは決して救いようのないほど不幸というわけではないと思います。いつか再読したい作品です。

    0
    投稿日: 2022.01.07
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    主人公がもし、満たされていて幸せなら金貸しを殺したりしなかっただろうし、どんな人でも環境が悪化して強いストレスに晒され続けたら凶行に及ぶ危険性があるんじゃないかと思った。 ドストエフスキーは読む時に多大な集中力を必要とするから結構疲れる。貧しき人びとが一番好きー。

    0
    投稿日: 2021.08.29
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    オーディオブックで3巻あわせて約37時間、2倍速以上で聞いているとはいえかなりの長丁場。しかしながら、かなり楽しめた。主人公の刻一刻と変わっていく心情の吐露が非常に人間的で、その描写の豊かさが本作が語り継がれる魅力なのだろうと思いました。

    0
    投稿日: 2020.07.25
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ラスコーリニコフの自分勝手な考えは、罰を受けてシベリヤ流刑となった終編まで続いた。著者・ドストエフスキーの意図はどこにあったのか? 聖母マリアのようにラスコを愛で包み込むソーニャの存在が、読者にとっても救いとなった。日本で言うところの純文学となるのかな? この物語のクライマックスは、ラスコが自首する時ではなく、最後の最後でラスコの改心とソーニャへの愛に気付いた場面だったのだ。そう思うと、ラスコのクズでグズっぷりに得心がいく。

    2
    投稿日: 2019.11.25
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    葛藤する主人公に引きずられて読後3日くらい病んだ。 大きなの目標達成のためには罪も罪にならないはずだと理論立てたが、自分を責めることになる主人公。 兄弟を守るため当時では罪にあたる売春行為をしつつも罪の色に染まらない女の子。 この二人の対比に罪と罰について考えさせられる。 この後レミゼラブル読むとさらに対比的で面白い。

    0
    投稿日: 2019.11.09
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    名作古典を…恥ずかしながら…今さら読む。 『罪と罰』読了。 こんなに恐ろしく面白い小説をこの歳まで読んでいなかったとはあまりにお恥ずかしい。怒涛の展開とすごい熱量にただ圧倒されました。何を今頃、という感じですが…

    0
    投稿日: 2019.06.15
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    本書の魅力は、登場人物がそれぞれ強烈な特徴を持っていることです。 特にラスコーリニコフは、自らの考えを正しいと信じ、最後まで変わることがありません。自首し投獄される中でも道徳的な罪というものを認めることができずに葛藤します。自分を非凡な人間だと信じる自尊心が強く、高慢で不信心な若者が、人を殺めたときにどう感じるのか、生生しい苦悩の描写に引き込まれました。 ラスコーリニコフがソーニャを罪人だと責める理由が最初分かりませんでした。ソーニャが自分の人生を生きないから、つまり偉大な人生を貪欲に求める彼の思想と正反対だからだと読み終わった後に思いました。 エピローグの結末は個人的に好きです。 時を経ても変わらない面白さを感じることができるまさに名著です。

    0
    投稿日: 2018.03.18
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    19世紀ロシアの小説家ドストエフスキー(1821-1881)後期の長編小説、1866年。 一般的には、実存思想の先駆とも云われ、思想小説と見做される。しかし、主人公ラスコーリニコフが殺人に到るまでの心理描写や、予審判事ポルフィーリイとの論争場面、さらに終盤のスヴィドリガイロフとドゥーニャとの緊迫したやりとりなどには、推理小説さながらの迫力と戦慄が感じられる。さらに、都会の貧苦に喘ぐ人々を描いた社会小説とみることも可能であろうし、エピローグに於けるラスコーリニコフとソーニャの姿は深遠な愛の物語ともなる。ドストエフスキーの作品には、小説という文学形式の多様な相貌が詰まっているように感じる。ときに難解と云われながらなお読む者を惹きつける所以の一つではないか。 ドストエフスキーの作品に対する個人的な印象として、冗長なまでのお喋りと偏執的なまでのリアリズム的描写と、この二つの過剰さがある。そこから、ドストエフスキーに独特の息苦しさを感じてしまうことがある。本作品でもそれは変わらない。文章を長く引き延ばして少しでも高い原稿料を得るためにそうしたのだという話も聞いたことがあるが、そうした彼の文体と小説の思想内容との間に何か関連が在るのか無いのか、興味がある。 ○「青年」像の現代性 ときに「現代の預言書」とも称されるほどにドストエフスキーの小説が帯びているとされる現代性は、この長編小説の冒頭に既に現れているように思う。或る暑い日暮れのペテルブルク、登場したラスコーリニコフは、不安・不穏・不機嫌・自意識を重苦しく抱える現代の青年の姿であった。観念的で独善的で極端に走りやすく、自尊心が強く他者を見下し、疑心暗鬼と神経症に苛まれ、内省的で没社会的で都会の孤独の裡にありながら、内面に於いて過剰な自意識が世界との闘争を演じている、そんな青年は、我々自身であるところのあの病的な自己意識の姿は、ドストエフスキー以前の文学作品には登場していないように思う。大袈裟に云えば、世界文学史上の画期ではないか。第一部冒頭のラスコーリニコフの姿は、現代における一つの典型的な青年の登場であると感じられた。 こうした都会の孤独な青年の内面が、人間存在に於ける機制としての「実存」という在り方を、ひとつの時代精神として、云わば作りだしていく invent していくことになったのではないか。 「大学時代のラスコーリニコフには、ほとんど友人というものがなかった。みなを避けていて、だれを訪ねるでもなく、だれの訪問を受けるのもきらっていた。もっとも、みなのほうでもすぐと彼には背を背けた。学内の集会にも、学生仲間の雑談や気晴らしにも、彼はなぜかいっさい加わろうとはしなかった。勉強は骨身を惜しまずするほうで、そのことでみなの尊敬を受けていたが、だれも彼を好こうとはしなかった。彼はひどく貧乏なうえに、妙に人を見下したような、つきあいにくいところがあり、何か自分だけの秘密でも持っているふうだった。一部の友人たちの目には、彼がみなを子どもあつかいにして、知能も、知識も、思想も、自分が一段上だといわんばかりにお高くとまり、ほかのものの思想や関心を何か低級なものと見ているように映った」 「……陰気で、気むずかしくて、傲慢で、気位の高い男……疑り深くなって、ヒポコンデリー[自分は病気に罹っていると思い込む不安障害の一種]気味……自分の感情を人に話すのが嫌い……ただ冷淡で、人間らしさが感じられないほど無感動になる……まるで相反したふたつの性格が交互に現れて来るみたい……いつも暇がない、邪魔をするな、と言うのが口癖のくせに、その実は、ごろごろしてばかりいて何もしない。皮肉は言わないけれど、それも機知が欠けているからじゃなくて、そんなくだらんことにつぶす時間の持ちあわせはないといったふう……人の言うことは半分までしか聞かない……その時点でみなが関心を持つことには背を向けてしまう……」 ○罪/罰 「罪」とは何か。原語は преступление 、「越える」を意味する接頭辞 пре (英語の ex-, over-, super- )と「歩む・踏む」を意味する動詞 ступить(英語の step )との合成語であるという。則ち、神の掟や共同体の法を「踏み越える」ということ、それが「罪」であると。物語の冒頭、貧しく酒に溺れた小官吏マルメラードフが云う。「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが?……だって、人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんからな」。この行き場のない出口無しという情況、これこそはラスコーリニコフをはじめ多くの内省的な青年が投げ出されているところの境位である。過剰な自意識がついに世界大にまで拡大してしまった青年にとって、現実世界は余りに卑小であり、そこに自己の存在を根拠づけることはできない、自己の存在余地は無い。なぜなら、自己とは本来的には全き可能態・不定態であるにもかかわらず、現実世界がそのような自己に対して無数の卑小な限定を課してくる、というのがここでの情況であるから。そのようないま=ここからの"突破"としての、"踏み越え"としての「罪」。それがラスコーリニコフにとっての老婆殺害の形而上的意義だった。現実の社会関係の裡で自己に負わせられるあらゆる概念的規定=属性の限定を脱ぎ棄てて、可能性の縮減という暴力を超え出ようとする、無限定への志向、則ち実存の超越的機制が、ラスコーリニコフをして「罪」に向かわしめた。 「だいたい、人間は何をいちばん恐れている……? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか……」 「いまの彼にとっては、過去の一切が、はるか下方、見えるか見えないかの深い底に行ってしまったように思われる。以前の考えも、以前の問題も、以前のテーマも、この眺望全体も、彼自身も、いや、すべてが、すべてがそうなのだ……あたかも彼自身がどこか高みへ舞いあがり、いっさいが彼の視野から消えてしまったようでもある……」 ところで、この超越への志向の裡には「支配への欲望」が含まれている。ラスコーリニコフは自分が単なる客体=「凡人」=「しらみ」=「操作される側」=「法・倫理に服従する側」=「保守的」=「世界を維持する側」であることに我慢がならなかった、彼は絶対的な主体=「非凡人」=「人間」=「操作する側」=「法・倫理を踏み越える権利をもつ側」=「破壊的」=「世界を変革する側」たることを欲していた(「たんなる存在だけでは、彼にはいつも不足だった。彼はつねにそれ以上のものを望んだ」)。彼は自分が全てを超越し得る存在であるということ、則ち実存のその絶対的な自由性(「つまり、いっさいが許されるんだ」)を、証立てたかった(「ぼくは……ぼくは思いきってやりたかった、だから殺した……ぼくはね、ソーニャ、ただ思いきってやりたかったのさ、それが原因のすべてだ!」)。次の言葉には、ラスコーリニコフに於ける実存への志向と支配への欲望とが実は表裏一体である、ということがよく表れている。「ぼくがあのとき、一刻も早く知りたいと思ったのは、自分はみなと同じようにしらみなのか、それとも人間なのか、ということだった。ぼくはふみ越えることができるのか、それともできないのか!」。この言葉は彼の「凡人・非凡人」論と同根である。 「罪」へと踏み出すことによってラスコーリニコフの情況はどのように変わったか。彼は絶対的な自由・絶対的な主体性を求めることで、それと表裏の関係にあるところの絶対的な孤独へと到った。それは神の喪失であり共同体からの追放である。あらゆる人間的な意味づけや存在根拠を失った、ニヒリズムという地獄である。「罰」と云うならば、これが「罰」であろう。「この瞬間、彼は、いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切りはなしでもしたように感じた」。世界からの、人類からの、意味からの、隔絶である。絶対的な自己喪失である。目的合理的連関の円滑なつながりの裡に埋没していれば享受できた安っぽい幸福としての安楽もあったであろうに、人間を即物的に限定するそうした連関を拒絶し無化しようと志向する実存は、「偉大な苦悩と悲しみ」を味わわなければならない。 そしてこのニヒリズムそのものが、やはり行き場も出口も無い=外部の無い境位なのである。なぜなら、実存は無際限の自己否定=自己超越の運動の裡にあるが、こうした実存の超越的機制によって到達し得るのが一切の概念的規定の無化という境位である以上、ニヒリズムを超越した先もまたニヒリズム以外では在り得ないから。ニヒリズムからの超越を志向する実存の運動それ自体が、予めニヒリズムの裡に内在しているのだから。「Aからの超越という機制それ自体が実はAへの内在に他ならない」という実存に於ける超越=内在の機制としての自己関係性、これこそが出口無しという情況の正体ではないか。 ○共感共苦としての愛 絶望しか在り得ないこの情況にあってなお希望が在り得るとすれば、それはそこに於ける苦悩そのものではないか。物語の終幕でドストエフスキーは、ラスコーリニコフとソーニャの二人が、お互いの愛によって救済されることを示唆している。それは、"踏み越え"てしまった「罪」人である二人が、唯一手にした「罰」としての孤独と苦悩を共感共苦することで可能となったのではないか。 「ふたりはどちらも青白く、やせていた。だが、この病みつかれた青白い顔には、新しい未来の、新しい生活への全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた」 「彼はただ感じただけだった。思弁の代わりに生活が登場したのだ」 実存の無限運動の行き着くところは、ニヒリズムか/他者への自己喪失か/土壌回帰(イデオロギーへの頽落)か、これらのいづれかであろうか。 ○「凡人・非凡人」論批判 ラスコーリニコフは、自身が犯した「罪」を正当化するために、以下のような論理を用いた。則ち、人間は「凡人」と「非凡人」の二つの部類に分けられる。前者は生殖で個体数を殖やす以外に能の無い低級な人間で、後者は「新しい言葉」を発する天賦の才によって全人類のために世界を変革する人間である。そして後者は新しい世界秩序を実現するという目的のためならば旧体制を破壊しその法を踏み越える権利を有する。なぜなら、失われる「凡人」の生命の価値は、「非凡人」によって実現される新秩序の価値に比べれば無に等しいから。そして、老婆は「凡人」であり自分は「非凡人」である以上、自分は彼女を殺害する権利を有する……。ここには、実存という哲学上の観念とファシズムという政治的イデオロギーとの危うい親和性が、典型的な形で表れているように思う。両者はどのくらい近く、またそれぞれを分かつ点はどこなのか。 まず、この「凡人・非凡人」論に於いて、「凡人」/「非凡人」は如何なる指標によって区別されるか。「凡人」は自己自身に対して無自覚な云わば即自的な存在として世界に埋没しており、あらゆる局面で object level に在る。一方、「非凡人」は自己を意識する対自的な存在として世界から超越しようとしており、自己に対しても他者に対しても meta level に立とうとする。「非凡人」には、あらゆる他者からの限定的規定を超越しようとする「力への意志」がある。つまり、実存への覚醒を果たしたか否かが、両者を区別する指標となっている。ラスコーリニコフはここで、実存の超越という機制への覚醒を、共同体に於ける「選民」たる"条件"としているのである。しかしそれは、実存を実体化しているという点で不可能である。なぜなら、実存を object level に措定して肯定的規定によって語ることは不可能であるから、実存とは不定態への志向性であるから。「実存に覚醒した英雄」などというものは成り立ち得ない。 ところが、こうした俗人俗世からの"突破"の志向が政治権力に回収・包摂されてしまうとき、それは20世紀のファシズムと重なってくるのではないか。ファシズムとは、特定の政治共同体を所与として、予めその外部への超越を暗黙の裡に取り下げてしまっている、そのような不徹底性により政治化してしまった、実存主義の頽落形態の一つではないか(それはまさに、恣意性を隠蔽し普遍性を僭称する虚偽意識=イデオロギーそのものである)。自己自身に徹底性を要求する実存主義が不徹底であるということは語義矛盾ではあるが、ファシズムとはこのような歪さを含んだものではないか。 「罪」としての"突破"は、あらゆる政治権力・あらゆる共同体・あらゆるイデオロギーに対して、一切の手加減をすることができない。実存の不徹底な超越なぞ自己矛盾でしかないのだから。そしてこの徹底性ゆえに、それは、実存の超越への志向を可能としている機制それ自体へと向けられる自己否定=自己超越の無限運動でなければならない。土壌をその都度毎に喪失し続けるしかないこの自己関係的機制の相に到ることで、この永久運動の志向ならざる志向性のその無限遠点に於いて、実存主義はファシズムへの頽落を不可能にも免れ得るのではないか。 ドストエフスキーは文学に於いて初めて本格的に実存主義を展開したが、彼の思想の射程には実存主義的なテロリズムとしてのファシズムまでもが含まれていたのではないか。

    4
    投稿日: 2018.02.25
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    読了。人間臭いラスト。こうくるとは思っていなかったので意外でした。下巻で一気に、周りの人達に色がついた感じがした。

    0
    投稿日: 2018.02.09
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    後半のスピード感はすごい。登場人物の性格の複雑さといい、展開の予測できなさといい、意外と普通に読んでも楽しめるレベルではないか。初めてドストエフスキーで完読できた。

    0
    投稿日: 2017.08.28
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    西欧近代社会における人間性の喪失と回復の物語。 ラスコリニコフは「罪」人ではあるが、「悪」人としては描かれていない。彼が殺人に至った動機は、欲や怨恨のようなわかりやすいものでもなく、実は論文の形で発表した思想でもない。不幸な偶然も重なり「魔が差した」という表現が合う気がする。 市民革命の結果として広がった「自由」と「平等」の思想。人間は何でもできる自由を持ち、権利は平等に与えられている... 現実には何事かを成し遂げられるのは一握りの英雄で、凡夫はかつかつ生きていくのが精いっぱい、持てる者と持たざる者の差はそのままに、借金の取り立てだけが平等に降りかかって来る。 英雄と凡夫を分ける「あちら側」と「こちら側」の境界は平等に開放されており、意思の力があれば個人は「あちら側」に行くことができる... 結果として自分が凡夫であることを思い知らされたラスコリニコフは、知らず知らずのうちにドゥーニャのため、そしてソーニャのために「罰」を受け入れ、人間としての生を取り戻す。 ラストシーンは簡潔な描写だが、美しさに心が震えた。 大仰な愛情表現は一行も出てこないが、「愛の物語」だと思う。

    0
    投稿日: 2017.08.03
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    いよいよ完結の『罪と罰』 自らの罪と向き合い翻弄するラスコーニコフの絶望的だが、希望のある終末へと向かっていく。はっきり言ってしっかりと読み込めているとは思えない。ただなんというか、意識の大きなうねりに身をゆだねていくうちに、様々な感情のぶつかり、葛藤を感じ、その波にのまれていった読書体験。最後ラスコーニコフのソーニャへの態度に何か救いを感じた。人間としてまっとうに生きるというのが正しい言い方ではないのかもしれないが、それでもやはり神のもとに生きる一人の人間としての生を取り戻すところは、一人の人間の再生の物語とも感じた。 さていよいよそろそろカラ兄かな。

    0
    投稿日: 2016.11.04
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ようやく上、中、下巻を読了。 殺人を犯したラスコーリニコフが自首し、シベリア監獄へ…。 下巻になってからは徐々にスピードが上がり、一気に読み終えた。登場人物の名前が頭に入ってきた事もあるが、特に、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフとのやり取りがあり、終盤におけるスヴィドリガイロフの拳銃自殺等が陰鬱ながらドラマティックに描写されている。 ドストエフスキーが芥川龍之介等、多くの作家に多大な影響を与えた事自体は何となく理解出来たような気がする。ただ、上巻からもう一回読み返すとより解るのだろうけど今の時点ではその元気はない。

    2
    投稿日: 2016.05.03
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    『思弁の変わりに生活が登場したのだ。』 自分の世界から世界の中の自分に移行できるかどうかが鍵だなあと思った。人を否定しているのに人に助けや愛を求めてしまう自分を罵って逃避するのではなく、そうでしか生きられない自分の存在を真摯に見つめてまず認めること。生身の体の伴わない思弁からでなく、自分自身から始めること。

    0
    投稿日: 2014.05.16
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    主人公にかなり感情移入していたので救いがある終わり方でよかった。最後の短い部分ではあるが刑務所の中での主人公の変化は読んでいて安心?できる。

    0
    投稿日: 2013.08.25
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    下巻では一つ一つの会話を噛みしめ、読む時間を多く費やしてしまった。が時間を費やしても読んでおきたかった一冊と言えるはず。1860年代のロシア人も、2010年代の日本人も、大事なところはさして変わらないのではないのか?という思いを持ちながら読み進めていった。

    0
    投稿日: 2013.07.27
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    新潮版を読んだ数年後に 岩波版を読了。 岩波のほうが、注釈や人物紹介があって 読みやすかった。 この作品は、絶対に必須。 特に初めて読む人には、岩波版をオススメします。

    0
    投稿日: 2013.01.27
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    そして長い物語の最後にあるエピローグは格別に美しい。罪と罰はひとえに救済の物語なんだと思う。社会的圧力に苦しむ人、他人の欲望に苦しむ人、そして罪悪感や自らの自意識に苦しむ人。そうした人たちに対してドストエフスキーは暖かい眼差しを込めて、人間であることを最大限肯定しようとする。「彼はただ感じただけだった。思弁の代わりに生活が登場したのだった。」ここには許された者のみが持ちうる開放感が込められている。そう、殺人も、淫蕩も、詐欺も自殺も、アル中も狂人も見栄も強欲も金貸しも、ここでは全てが救われているのだから。

    0
    投稿日: 2013.01.14
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    最終的にロージャとソーニャに救いが訪れて良かった、という恋愛小説的な読み方だとエピローグまでが長かったトホホ

    0
    投稿日: 2012.09.30
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    長かった、人物名を覚えるのに終始手間取りました。また読み返したいとも思うけど時間的な余裕が無いので読み返すことは無いと思います。

    0
    投稿日: 2012.09.17
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    読むのは2回目ですが、長いけど面白くて最後まで飽きずに読めます。 陰鬱な展開に最後のエピローグでパーッと光が差すようで感動します。 その後のラスコーリニコフとソーニャに思いを馳せてしまいます。

    0
    投稿日: 2012.08.16
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ラスコーリニコフは自分自身が「何者であるのか」と言うことを、殺人と言う行為を施行することで自問自答し続け、遂に自らが何者でもない存在であることを自覚する。 いくら行為の前に高潔な思想が込められていようとも、「殺人を犯した」と言う一つの大きな事実の前では理解者がいない限りは無価値であると言うことを苦悩している様は、殺人後の思想と行動の落差、自首後の彼の言動を見ていてもとても示唆深い。 自首直前のラスコーリニコフが広場に戻った際のソーニャの心情など、まだまだ理解が追い付かなかった面が多々あった。と言うか全然理解が及ばなかった。まだこれを読むには早かったのかもしれない。またいつか繰り返して読み直したい。

    0
    投稿日: 2012.05.27
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    最終巻は中巻以上にクライマックスの連続である。ソーニャに罪を告白するラスコーリニコフ。どこまでも彼について行くと決意するソーニャ。ポルフィーリイとの最後の対決。思想と道徳と信仰と愛憎、さまざまな思いの間で激しく揺れ動きながら、ついにラスコーリニコフは自ら警察に赴き自白する。ここで本編は終了となる。 エピローグでは、シベリアで服役する彼の様子が描かれる。相変わらず自分の殻に閉じこもって思索に耽る彼は、囚人仲間からも嫌われて孤立している。自分を追ってシベリアに来てくれたソーニャにまで八つ当たりする始末である。しかし、次第に彼の中でソーニャの存在が大きくなっていき、いつしか彼女の面会を心待ちにしている自分に気づく。そしてある日、自分にも理解できない衝動に駆られて、彼は突然ソーニャの前にひざまずいて泣き崩れる。今度こそ愛によって自分の前にひざまずいた彼に、ソーニャもまた深い愛を覚え、互いにかけがえのない存在であることを確信する。そうして二人が残り7年の懲役をともに乗り切ろうと決心したところで、この大作は幕を閉じる。 陰鬱なタイトルからは予想できない美しいエンディングである。主人公の魂の復活を予感させる荘厳さは、いっそ神話的といっていいくらいだ。無神論者の私でさえ感動するくらいだから、キリスト教圏の人はこの「聖女の勝利」を前に、きっと私には想像できないほど熱狂的な法悦を感じるのだろう。 しかし実は、この結末は未解決の重大な問題を含んでいる。ラスコーリニコフは確かに愛に目覚めはしたが、殺人については結局すこしも反省することなく終わってしまっているのだ。彼が自分を責めるのは、初心を貫けず自首してしまったという点だけで、例の凡人・非凡人論については「どこが悪かったんだ?」と本気で自問を繰り返し、最終的には「おれの良心は安らかだ」という結論に達している。それに対する論理的な反駁は、作中ではついに提示されないままだ。 それだけではない。これは本編のエピソードだが、ラスコーリニコフに自首を勧める時のポルフィーリイの言葉がこれまた奇妙である。「ああいう一歩を踏みだした以上、心をまげないことです。それこそ正義ですよ」。これでは反省を促すどころか、逆に「きみはその路線で行け」と発破をかけているようなものだ。殺人犯に対して、司直がそんなことを言って良いのだろうか。 まるで作者は、一方ではソーニャの言葉を借りて「神の摂理に従え」と説きながら、一方ではポルフィーリイの言葉を借りて「その意気やよし」と是認しているようにみえる。この矛盾をどう解釈すればいいのだろう。結局ドストエフスキーは何を言いたかったのか。必然的に疑問はその一点に集約される。 その疑問に答えるためには学ばなければならないことが多すぎて、私の手には負えそうにない。ただ、訳者による解説本『謎とき「罪と罰」』に、ヒントになりそうな話が少しだけ述べられているので、興味があったら参照してみると良いと思う。 ひとつだけ言えるのは、「生活」がキーワードらしいということだ。ともすれば思索に熱中するあまり蝋の翼で天空に飛び立っていきかねないラスコーリニコフを、ソーニャの愛と肉体によって地上に繋ぎとめておくことができれば、つまり「思弁」と「生活」の融合を果たすことができれば、ラスコーリニコフの思想も現実感覚に根ざした生産的なものに変わるかもしれない。身体に根ざした生活を回復すること、それが彼に与えられた課題であり、それが成就された時、彼は復活するだけでなく進化をも遂げることになるのかもしれない。 長くなってしまったが、難しい話を抜きにしても物語として楽しめるのが、この作品の長所である。「面白かったー」で済ませるもよし、哲学書を紐解いて深読みするもよし。この作品には、どんなスタンスも許容してくれる懐の深さがあるように思う。「難しそう」という理由で敬遠している人がいたら、とりあえず手にとって読んでみることをお薦めする。

    19
    投稿日: 2012.02.13
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ポルフィーリーペトローヴィチとの鬼気迫る論戦と すべてをソーニャに明かし懺悔のため道に膝間づき、キスをするロージャ。 人物の心理描写が本当にみごと。 これを読まずに死ななくてよかった。 ぼくのソーニャはどこですか。

    0
    投稿日: 2011.11.04
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    凄い。すごすぎてよく分からないくらい。 感情の元の部分を直接殴られてるような文章だった。 全巻の中で一番好きな場面はカチェリーナの夫の葬式から亡くなるまでのシーン。 本当に人間書くのがうまい。

    0
    投稿日: 2011.10.07
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    最後までハラハラしっぱなしの怒涛の展開。ドゥーニャがスヴィドリガイロフに銃口を向けるシーンのスリル感は凄い。

    0
    投稿日: 2011.01.27
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    このレビューはネタバレを含みます。

    病的な主人公ラスコーリニコフが自らの秘めた思想を遂行するために殺人を犯したところから人間の存在意義を問いただした作品だと思う。よりどころのない孤独、疎外感、理想と現実の差から生じる絶望感は罪を犯していなくても人間が感じるものである。ドストエフスキーは主人公にありどころを失った人間を投影し、社会情勢、聖書からの引用を駆使して行き場をなくした個人の心理を描写している。個人的な見どころは殺人シーンにおける主人公の心理描写は緊張感を高められたところ。そしてエピローグにおける主人公の救済はよりどころのない我々現代人が本当にのぞんでいるものではないだろうか。

    0
    投稿日: 2010.12.12
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    借本。 やっと読み終えた! 色々と凄くて、下巻は借りては返しを繰り返してました。 そして、また上巻から再読したくなりました。 凄すぎる。

    0
    投稿日: 2010.10.24
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    生とは?死とは? 善とは?悪とは? 善の為の殺しは善なのか?悪なのか? 小野不由美【屍鬼】もお薦め.

    0
    投稿日: 2010.09.30
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    旅行中に読破! 最後まで予想を裏切られました。そしてレビューを書くには当時の時代背景とか、ドストエフスキーについてなんかもチェックしとかないとそう下手なことは言えないなーと思うぐらい色々渦巻く想いが生まれました。 ただ、それでも敢えて言いたいのは愛が彼を救ってくれて良かったと本当に思ったということ。 物語の終わりまで、自己を捨て切れないとんでもなくプライドが高いくせに臆病な主人公にちょっと嫌悪感を覚えていました。でも、エピローグで中途半端な刑に納得できない主人公の内心描写に、彼の真の心の平和がいつ訪れるのだろうかと心配になった。自殺を実行せず、生にしがみついた彼には幸せになって欲しいと、いつの間にか思っている私がそこにいた。そして、やっと彼に希望をもたらしたものが現れ、それが愛であったとき、ほっとしてしまいました。 いつ、どんな環境・時代であろうと愛だけは人を見捨てず、愛だけは万人に与え・与えられることのできる唯一無二なものなんだと、ロシアの文豪に改めて教えられました。

    0
    投稿日: 2010.07.21
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ロジオン・ロマーヌイチ?ラスコーリニコフ?なぜこんなにもロシア人の名前は長たらしく読み辛いのかw  冗長で芝居がかったやりとりに悩まされながらも読み切ってしまった。気味が悪いほどの生々しい人間臭さと臨場感がある。 人という存在の深層に迫った作品。感動的な終わり方。

    0
    投稿日: 2010.06.17
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ここまでくるのに凄く時間がかかりました。メモをしもって読まないと読めないという自分の読解力の無さに気づかされます。 ラスコーリニコフの友人ラズミーヒンがいい奴で好きです。 ラスコーリニコフが殺人を犯し、狂乱する場面は怖かった。

    0
    投稿日: 2010.04.05
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    他の人のレビューや感想によるとどうも「鬱展開に心が折れた」とかっていうのを見る。僕としては、哲学的要素が多くておもしろかったんだが。哲学的要素とともにキリスト教への理解も多少なり持てた。「苦しみを甘んじて抱え込む」のも敬虔な信者だからこそできることなんだろう。とってもおもしろかったです。そして終りが美しいです。

    0
    投稿日: 2009.09.29
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    アブドーチャとの結婚を破棄されラスコーリニコフを激しく憎むルージンは、ある時ソーニャを自室に呼び、卑劣な策略によって彼女を陥れようとする。 その窮地を救ったのは、ラスコーリニコフであった。その直後、彼はついに、ソーニャに自身の「罪」を告白する──。 自らの「罪」を告白することによって監獄に送られたラスコーリニコフは、そこでようやく自身のソーニャへの愛を確かなものと確信する。 8年という懲役を経て彼らが失くすものと得るもの。その先に、人間の犯罪心理のからくりを解くカギがあるのではないだろうか。

    0
    投稿日: 2009.04.18
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    妹の元婚約者ルージンの卑劣な工作により窮地に立たされたソーニャを救い、弁護したラスコーリニコフはとうとう彼女に事件の全てを打ち明ける。ソーニャの純粋さと訴えを聞き入れることができない主人公はそれでも彼女を頼り、全てを終わらせるために最後の行動に出る。 自分は悪くないと信じてやまない主人公とそれでも疑いの目から逃げられなくなった主人公の葛藤は恐ろしくて病んでてそれでも引き込まれていく不思議な物語。 病んでる人にはおススメしませんw余計に病むと思われるwwでも読む価値はアリ。

    0
    投稿日: 2008.05.19
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    もう下巻は一気読み!すごい小説だった。 ソーニャの義母カチェリーナの死、事件の真相を打ち明けた時、隣室で聴いていたスヴィドリガイロフ。その嗜好のロリータ性、ポルフィーリイとの応酬、そしてソーニャの存在。何もかもが圧倒される内容で、本を置くことが出来なかった。 8年後、新たな再生の物語が始まることが予感され、救われた気持ちになった。 テーマがすごく新しい。解説にも「現代性」「世界性」がこの作家の特性だとあった。そう、思う。100年以上前の小説が現在でも普遍的な輝きを放っている。 残念なことが2つある。 かつての私のようにこの名作を前にして下巻まで到達できずに終わる人がどれほどいるだろうかということがひとつ。 もうひとつは当時のロシアの時代背景を知っていればもっと読み取れることが多いだろうということ。 作成日時 2007年04月22日 11:40

    0
    投稿日: 2008.05.13
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    あいかわらずラスコーリニコフはポルフィーリィを怖れ、自分の「道徳心」について思わぬ苦悩を味わいつづけ、ついに…。個人的にはスヴィドリガイロフという人間存在が気になるし、いろいろ考えさせる。さらにキリスト教を理解できれば、この作品をもっともっと楽しめるのだろうけれど…。でもこれは論文じゃなく文学だ。緻密な心理描写、近代ロシアの雰囲気などが充分味わえた。海外文学の邦訳だと、へんてこりんな日本語になってて興ざめするものも多いけれど、この訳書は自然な日本語として意味が理解しやすい。

    0
    投稿日: 2008.04.17
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    ラスコリニコフが発狂しかけだったが、ソーニャの存在でだんだん変わっていく。すごいメッセージ性のある作品で、さすがリアリズムを代表する作品。

    0
    投稿日: 2008.01.07
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    すごい。何この終わり方。愕然という言葉が似合います。ごっつい長編なんですけど、手塚治先生が単行本一冊にあっさりまとめていらっしゃいます。なのに原作に忠実。

    0
    投稿日: 2007.03.01
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    最後の章が台詞が無くてナレーター{?}だけなんだけど、なんか涙がどんどん出てきて、号泣しましたo最後に少し希望が見えて、読み終わって本当に感動しました!古い文学ってあたしは最初とっつきにくかったけど、読んでもっと他の色んな人のも読んでみたいって思いましたo読んでない人は絶対読むべき!と思います☆彡

    0
    投稿日: 2004.12.21
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    「百の善は一の悪に勝る」と考えた大学生ラスコーリニコフは、金貸しのおばあさんとその娘を殺してしまう。その後の彼の苦悩を描く。苦しみ、人を疑い、おかしくなってしまう彼の様子はよく書かれている。名作といわれる理由がよくわかります。 それにしても読みにくいんですよね。名前がコロコロ変わるんですよ。主人公が誰だかもわかんなくなってしまうくらい。 この本もかっこつけて有名な本を読んでいた時代。でも名作って後々ふっと思い出しますよ。読んで無駄にはならないと思う。

    0
    投稿日: 2004.10.15