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ツァラトゥストラは こう言った 上
ツァラトゥストラは こう言った 上
ニーチェ、氷上英廣/岩波書店
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総合評価

81件)
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    ツァラトゥストラは保険が効く本だ。 「読んでもよくわからなかった」というのは、ある意味でこの本に対する褒め言葉ともなっている風潮があるのではないか。 そんな悪しき風潮のために、「読んでもよくわからないだろうな」を前提にして読む者もいる。そして読み終わった後、彼らは「よくわからなかった」とニヤケ笑うのだ! ああ吐き気! 彼らは中途半端な教養主義という一つの意志を持って生きているのだ! 彼らは、この本によって彼らのような人間、自分自身が批判されていることにも気づけてはいないのだ! 彼らが真に欲していたのは、「ツァラトゥストラを読んだことがある」という経験だけだったのだ! しかしそれに何の意味があるか? これは単純に年をとることが決して人を大人にはしないことと同じである。 わるい空気だ!わるい空気だ! エリート主義的思想に侵された大学生も、薄っぺらい教養主義に意志を見出す人間も、一掃されるべきだ! この本は箴言という形をあえて取った。 しかしその小説風な物語のせいで、中途半端に日本語が頭に入って来てしまうのだ! 言語の内実を知らずとも、表面をなぞることは彼らにはできてしまったのだ! このせいで彼らのほのかな矜持が保たれてしまったと言えるだろう! そして「ツァラトゥストラ」を読んだことがない相手に、「ツァラトゥストラを読んだけど、マジでわからなかったわ」と汚い薄ら笑いを浮かべるのだ! もう沢山だ!もう沢山だ!

    0
    投稿日: 2025.08.30
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    いつかは読もうと思っていた本。ゴールデンウィークに腰を据えて読みはじめる。神は死んだ、超人になれと説く。うむ、分からん。読み進めたら分かるのだろうか。今は立ち止まらず下巻に進む。

    0
    投稿日: 2025.06.01
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    筆者独特の文体のなかに思想が結実されていた。超人思想の登場とともに、超人に対しての「おしまいの人間」や「小さな人間」へのニーチェの大いなる軽蔑が現れており、痛快であった。この文体に関して、彼が自らのことを「詩人」と言っていたことは興味深い。

    1
    投稿日: 2025.05.04
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    ニーチェ 「 ツァラトゥストラ はこう言った 」上巻は キリスト教世界の価値観を批判し、超人という新しい価値観を創造。 時間概念も少し入ってきて永遠回帰につながる感じ。面白い。岩波文庫なのに 注釈が なくても読める。比喩の意味に迷う時もあるが、何となく 意味は理解できる 女性や戦争については 現代感覚とズレはある 蛇=永遠回帰の知恵の象徴 鷲=知恵を身につけた超人の象徴 太陽=超人〜人間は他人の幸福を妬むが 太陽は妬みを克服 「人間は克服されなければならない或物である」 ツァラトゥストラ「人間は 動物から超人へ わたる一本の網」 *この網は 超人へいたる希望の橋 *そこそこの幸福、理性、道徳に自分を軽蔑すること *末人=軽蔑すべき おしまいの人間〜教養に満足している人間 *ツァラトゥストラ=永遠回帰を教える人 人間の精神の変化〜駱駝→獅子→幼な子 *駱駝=高みを目指す修行者〜駱駝は楽→駱駝は自己を無にして他者の命令に従う *獅子=他人に従う自分を嫌がり、命令する竜(キリスト教の神)に飛びかかる→獅子の否定力は 自由を切り拓く *幼な子=創造には 幼な子のような 無垢の肯定力が必要→獅子が幼な子に変身して初めて 人は自分の意志を意志する 人は戦いの備えがあって初めて 平和が可能になる 永遠回帰=運命を味方にする *人間を過去の復讐心から解放するため *自分の不幸を他人のせいにしないため *いつか誰かが救ってくれる他人任せにならないため 永遠回帰のステップ 1.私はこれまでの人生を何度も繰り返し生きる(永遠回帰)と考える→この現実からの逃げ道は どこにもないことになる 2.永遠回帰を 喜んで欲する→永遠回帰を消化し 超人になる 永遠回帰=無神論的宗教 *世界は同一の状態を永遠に反復している *世界は始まりも終わりもなく、目的も意味もない。ただ存在しているだけ

    0
    投稿日: 2025.04.18
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    特に性別について語る部分では現代人の感覚からするとクソみたいな言説がある。原文自体、徹頭徹尾論理的に書かれている文章ではなくノリでガーッと書かれているように見えた。名著なので読まねばと思っていたが少し幻滅。例え話にすることで逆に分からなくなってる。過剰な難解さを後世の人々がもてはやした結果の遺物のようにも見えた。解説を読むと、聖書の表現を多分にパロっていながら、神は死んだと主張するエッジの効いた内容になっている模様。ニーチェはその思想を筋の通ったものとして正確に伝えることを意図しているわけではなく、解釈の余地を残す芸術寄りの作品を残したかったように思えた。

    0
    投稿日: 2024.11.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    【熱血・超人説教】 第1部と第2部が収められています。 ツァラトゥストラ、という主人公が、なんだか人間を超えようと修業したのちに山を下りてきて、人間たちに説教をする、というような流れです。 ちょっと分かるようなところもあり、分からないところもありました。 難しさ、わざな部分もあるようです。ルター訳の新約聖書の文体、語りと掛け合わせて書かれていると、あとがきで解説がありました。 そのニーチェの工夫は、解説がないと大部分の日本人には伝わらないところだと思うので、解説大事だなーと思いました。 神に代わる、超人の存在を説く、のですが、いろいろな現生の人間の批判をしているというか、とにかくめちゃくちゃに言っています。 静かに山で修行していたのにすごい勢いだなーと思いながら、それもニーチェの描く超人は、破壊と争いを肯定しているので、それぐらいエネルギーがないとダメなのかもしれない、、、ですね。第2部では歌も歌っています。意志への力、が一つ超人の必須スキルですが、まさに、思いに溢れているようすが伺えます…。 __そうだ、傷を負わせることのできないもの、葬ることのできないものが、わたしのなかにある。岩をも砕くものがある。それはわたしの意志だ。それは黙々と変わることなく、幾歳月を歩みつづける。(192) 人間の本能としての権力欲?みたいな印象も一部受けたのですが、今のところかなり男性優位、というか完全に男性中心の考え方があります。 __意志ーこれが自由にし、よろこびをもたらすものの名だ。(242) でも、意志はとんでもないもの含んでいると警鐘を鳴らします。 __『そうあった』ーこれこそ意志が歯ぎしりして、このうえなくさびしい悲哀を噛みしめるところである。すでになされたことに対しては無力である。…意志は、さかののって意志することができない。意志は時間を打ち破ることができない。... 時間、および時間の『そうあった』に対する意志の反感、これが復讐の招待である。(242-243) これがルサンチマン的なものの話なのでしょうか。 キリスト教など、罪を償うための罰に変えて神にすがるというような、他人任せの救済として宗教を批判しているみたいですね。 __『そうあった』は、すべて断片であり、謎であり、残忍な偶然である、-創造する意志がそれに向かって、『しかし、わたしが、そうあることを意志した!』と言うまでは。(245) __誰ひとり意志にむかって、時間との和解を、またあらゆる和解よりもさらに高いものを、教えたことはなかった。(245-246) 見た目の迫力的には達磨を思い出しましたが、その後の無口度(?)とは正反対の道を行ったのだなーと思いながら。でもニーチェは仏教も参照して触れられていますが、宗教のすべてを否定しているようなので、ツァラトゥストラの新しい悟りの境地、後半を読み進めたいと思います。

    2
    投稿日: 2024.10.06
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    理解できない部分が多かった。 彼の力強さに少し疲れてしまう。 もっと知識をつけて読めるようになりたい

    0
    投稿日: 2024.09.28
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    メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1771516254056337529?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw

    0
    投稿日: 2024.03.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    超訳ニーチェシリーズを読んでからのツァラトゥストラ。 少しは理解できるかな?と思って読んでみたけど、私の理解力では追いつけなかった(笑) 他の方々の感想を見ていて、本文を理解し、楽しんでおられる方が羨ましく、 私もそこのレベルまでいつかいきたいなと思った(笑) 言葉の意味を理解するのにも時間がかかり、 何度も読み返して咀嚼していかないといけない本だなと思った。 噛めば噛むほど味わえる、スルメみたいな本だなと思った。 私も超訳とかではなく、そのままのこの文章を自分の中に落とし込んでいって、 自分なりの解釈を考えることを楽しめるように、 ツァラトゥストラと対話できるようになりたいな。 「今のレベルでは私はこう思った」という感想も大事にしたい。 また再びこの本を挑戦するときまでに、たくさんの本を読み、 成長した自分がまた読んでどう思うのか?ということも楽しみだなと思った。

    4
    投稿日: 2024.03.08
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    自ら善悪を判断(創造)し、苦しいことは幸福として受け取り、それを自ら超克せよ。→これが上巻を超要約した感じはこんなんかなーー。 ・今我々が立っている大地に目を向けろ(「神は死んだ」) ・自分自身を喜ばせることをしろ、そうすれば人を悲しませたりすることはなくなる ・人間は平等でもなく、平等になるべきでもない→超人への愛があるから。最高の戦いをして、自己自信を超えて高みを目指さないといけない。意志がとても重要(真理への意志、力への意志)。 ・善悪は自分自身で自分自身を繰り返し彫刻しなければならず、また善悪において創造者とならなければならない者は、まずは破壊者となってもろもろの価値を壊さなければならない。→最高の善意には、最高の悪意が必要になる。こうした最高の善意こそ創造的な善意

    2
    投稿日: 2023.04.03
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    ニーチェの文体を初めて読んだ。詩的な文章になかなか翻弄されたが、中程まで読んだ頃には段々とそのリズムが心地よくなっていった。 言っていることは正直よく分からないが、私の乏しいキリスト教の知識と当時の時代背景を考えながら、ニーチェの語る哲学に想いを馳せてみた。 ユダヤ教の価値観が飽和して、惰性的に割礼の有無だけで信仰を判断するようになってしまった世の中でキリスト教が生まれた。ニーチェのツァラトゥストラは、その後のキリスト教の価値観が飽和した社会においてまた先祖返り的にゾロアスターの名を用いて、キリスト教の負の部分を払拭したいと考えたのではないか。などと考えながら読んだが、ニーチェ研究の書などもっと詳しく読んでみたいと思う。 さて、頑張って下巻も読破しよう………

    4
    投稿日: 2022.12.07
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    高校の倫理を一通り受けて、興味が出たニーチェの代表作ということで読み始めた。解釈が難しい文章で、一ヶ月かけて、ちまちま読んだが、全然頭に残っていない。所々高校の授業で出てきた思想が出てきて読みやすくなったものの、全体を通して何を言いたいのかさっぱり。。 こういう書評は低レベルであることは心得ているが、これからこの本を読もうと思っている同志に向けて警鐘の意味を込めて書いた。 ニーチェの入門書を読んでからまた読み直そうと思う。 

    4
    投稿日: 2022.03.18
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    実に素晴らしい。元気の出る本だ。希望の持てる本だ。以前は文学作品としか思っていなかったが、文学作品とは毛色が違う、真の哲学書だ。

    0
    投稿日: 2022.01.27
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    ニーチェの化身であるツァラトゥストラが自身の思想を語る口調で説く本だった。聖書の文体をあえて真似しているが、内容はキリスト教からの脱却が含まれていて皮肉的だった。最後の解説にもあった通り、テーマは永遠回帰と超人だ。超人とは価値創造を行うものであり、究極は善と悪を自分の中で定めることができる人物である。勇気を持って自分の心と対話し意志してこそであり、他人の軸で決められた宗教や社会通念的なものであったり、自然の中をただ見つめて決めるものではない。精神は身体の道具でしかないため、永遠であることはできない。

    0
    投稿日: 2022.01.23
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    そのうち読みたいと思ってた本にやっと手を出した! 全てをしっかり理解しながら読んだわけではないんやけども、意外と文字は全部読んで読破。 丸呑みできた感じかな? 基本的に私も人間最後は自分ひとりという考えやから、共感できる箇所もあった。

    0
    投稿日: 2021.04.05
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    正直、上巻は読んでいて何を読まされているのか終始煙に巻かれたような印象。その煙の中からツァラトゥストラの思想を読み取るのはなかなか困難だった。アフォリズム集といえばそうだし、哲学書と言えばそうだし、これが一体何なのか問われれば答えられない。ただ、下巻を読むとこれは多少クリアになった。 また、本書を読んでいる時とゴッホの絵を見てる時の感覚は近いように思う。 ニーチェが第一部〜第3部を10日程度で書き切ったことと、ゴッホが晩年に驚異的なペースで絵を描いたことに共通した狂気的なものを感じるからかな?

    0
    投稿日: 2020.11.21
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    上巻を読むのに2ヶ月かかってしまった。(前からわかっていたことだが、)このような本を理解するには、時間をかけて読んでは個々の印象が薄れてしまうから、寧ろ短時間に集中して読み、それを繰り返さなければならないと思った。…そういう訳であまり内容は理解できていないのだが、それでも少しでも理解してみたいと思わせてくれる本ではあった。何度でも読み返したい。詳しい感想は、(書けそうなら)下巻を読破してから。

    5
    投稿日: 2019.11.07
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    本が書かれた時代の宗教や政治、哲学の時代背景をベースとして知っておくことで、古典読書は断然面白くなる。 それらを知らずに読み始めても、難解な言い回しの連続に戸惑うだけ

    0
    投稿日: 2018.12.15
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    ニーチェの鋭さの中に少しの狂気も感じる。 人生生きることは、悩むことに過ぎないとある者は言うが、それなら人生をたんに悩むだけになるように用いたらどうだ! 死の説教者が、他人の人生をおのれの贈物の鎖でもってますます束縛するとは何事か! そうした連中は、人生からの脱出を説教するとともに、自らも立ち去ってくれることを私は望む!と。 女は謎、だが謎を解く鍵は一つ、それは妊娠。 女にとって男は一つの手段である。目的は常に子供。「わたしは超人を生みたい」ということでありなさい!と。 男性は危険と遊戯を求める。だから、女性をもっとも危険な玩具として求める。 男性は戦いのために教育され、女性は戦士である男性の休養のために教育されなければならない。それ以外一切は、愚劣。 男性の幸福は「われは欲する」 女性の幸福は「かれが欲する」 女性は服従することによって、みずからの表面に対する深みを見出さなければならない。 と。

    3
    投稿日: 2018.11.22
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    本書では、著者ニーチェの哲学や根本思想が散りばめている。著者の作品を読むのは初めてであり、注釈も全くなかったため難解であった。神は死んだという象徴的な言葉を残した著者であるが、本書ではその思想について物語形式で詳しく書かれている。しかし、正直なところ本書のほとんどを理解できなかった。比喩的な表現が多いため、イマジネーション能力が必要とされる。巻末にある解説を読んで初めて、本書の面白さを感じたといっても過言ではない。しかし、本書を通して哲学は興味深いと再確認したので、これから簡単な入門書を読んで哲学を学んでいきたいと思う。

    2
    投稿日: 2018.11.16
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    このレビューはネタバレを含みます。

     誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。  かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。いまでは選民にまでなりさがった。血を持って箴言を書く者は、読まれることを求めない。暗誦されることを望む。(p.63)  国家とは、あらゆる冷ややかな怪物たちのなかで、最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。「このわたし、国家は、すなわち民族である」、こんな嘘がかれの口から出てくる。  それは嘘だ!かつてもろもろの民族を創造し、ソオの頭上にひとつの進行、ひとつの愛を掲げたのは、創造者たちであった。(p.79)  善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺—それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。(p.81)  大きな恩恵は、感謝を生みださない。むしろ相手の心に復讐の年を萌させる。また小さな恩恵が気になって忘れられないとき、それは呵責の虫となって噛む。 「受けるときは、すげなく受けよ!受けとったということで、相手を優遇せよ!」これが送り返すものを持たない人々へのわたしの忠告だ。(p.147)  すべての大いなる愛は、すべての同情を超えているが、それは大いなる愛がその愛の対象をもー創造しようとするからだ。 「わたしはわたし自身をわたしの愛にささげる。そしてわたしとともに、わたしの隣人をも、わたしの愛にささげる」—すべての創造者はこう言う。(p.150)  自分の正義をしきりに力説する者すべてに、信頼を置くな!まことに、かれらの魂に欠けているのは、円熟の蜜ばかりではない。  たとえ、かれらがみずから「善くて義しい者」と称していても、あなたがたは忘れてはならない。かれらがバリサイ人となるために欠けているのは、ただー権力だけであることを。(p.169)  自己に従順であることができない者は、他から命令されるということである。これが生あるものの在り方なのだ。命令するのは服従するよりむずかしい、ということだ。それはたんに、命令する者は服従するすべての重荷を負い、ともすればその重荷につぶされる、というだけのことではない。(p.196)  生はわたしに、みずからつぎのような秘密を語ってくれた。「ごらんなさい」、生は言った、「つねに自分で自分を克服しなければならないもの、わたしはそれなのだ。」(p.197)  恒常不変の善と悪、そんなものは存在しない!善と悪は、自分自身で自分自身をくりかえし超克しなければならない。(p.199)

    0
    投稿日: 2018.06.13
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    大地、身体、踊る神の重視。歌うような調子で「物語」は進んでいく。 女性に関することはダメだね。 読みやすい訳文だが、内容の理解は難しい。星の王子さまのような謎解きが挑まれているようなスタイルだからだ。

    0
    投稿日: 2017.09.26
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    響く言葉が山ほど。 「自分の能力以上のものを希む者は、悪質の虚勢をはることがある」 「嘘もつけない者は、何が真理であるかを知らない」 そして読了後にぴったりの言葉 「良い歌は、その余韻をたのしまなければならぬ。良い歌が終わったあとは、しばらく静かに沈黙していなければならぬ」

    0
    投稿日: 2016.06.08
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    興味深いのは、第1部の最初で山を下りて「神は死んだ」や「超人」という教えを広めたツァラトゥストラが、上巻の最後(第2部の最後)で再び弟子と分かれて山に戻ることである。 10日間で書かれたという第1部に、ニーチェは満足がいかなかったのだろう。 そして第3部で、再び教えを説く際に新たに現れるのが「永遠回帰」という概念である。 何度も繰り返される「私はあなたを愛するからだ、おお、永遠よ」が、本来の最終部であったはずの第3部のラストを飾っている。 第4部はもともとは自費出版で40部程度が配られただけとあって、明らかに趣が違う。

    1
    投稿日: 2016.06.01
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    2度目のトライ。自分には難しすぎて、またもや挫折。最初から何が何だか分からなくて…今度は違う訳でトライするつもり。

    1
    投稿日: 2015.11.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ツァラトゥストラを主人公にした、当時のキリスト教社会を否定したニーチェの思想を盛り込んだ物語。 初めはなんやこれな感じだったが、聖書をパロッタものということがわかってからは、これがどうして中々面白く読めた。 本来の思想はもっと違うのかもしれないが、個人的な感想としてはより現代的であると思うし、結構自己中心的でもあってとても人間くさく感じる。 哲学書として非常に難しくはあるが、今風っぽく人間らしい主人公に共感しながら読み進められる分、入り口としてはうってつけなのではないかと思う。 またある程度時間が経ったら読み返してみようと思う。

    0
    投稿日: 2015.11.11
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    人間とは一本の吊橋であり、片方は超人、もう一方は畜群である。どちらになるかは自分次第である。歯車にならず、モーターとなれ、価値を受容するだけでなく、自らが価値を生み出せ。他人指向型の大衆社会に一喝を入れる力強い言葉が多くある。

    1
    投稿日: 2015.10.02
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    思っていたよりもだいぶ読みやすく、なんとなく言いたいことはわかった。ただ、宗教的な背景などを元にした文がかなり多い為、そちらの方面に明るければさらに理解が深まるかと思われた。

    0
    投稿日: 2015.08.26
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    ニーチェは大衆を「畜群」として毛嫌いした。 そして今日の大衆は「大衆」を馬鹿にする時代。 ニーチェの哲学は奴隷道徳と貴族道徳を発想したことであった。前者は受動的に生きることを好み、後者は自ら責任を負い、能動的に生き自ら価値を創出出来る人間である。

    0
    投稿日: 2015.06.26
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    「つぁらお」と呼んで夫婦で親しんでいる。ほんと半狂人。でもすごい。えらい。つぁらお、狂うまで色々考えてくれてありがとう。わたしも超人になりたい。超えたい。でも超人になると社会生活できないよね。隠遁するか。下巻も読むのかぁ〜キツいな〜

    0
    投稿日: 2014.12.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

     この本のスタイルとして注が一切ない。解説で訳者が注を付けなかった理由が説明されていて納得はできる。ただやはり内容が極めて難解なだけに独自の解釈をするにしても、既存の解釈を知っておきたいと思った。本書をどう評価すればいいのか今の時点では分からない。ただこの本に秘められているエネルギーは感じられた。この本に触発されている作品も多いのでそれらも見てみたい。折に触れて読み返したい本。

    0
    投稿日: 2014.08.01
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    学生時以来、久々の再読。聖書風散文体で書かれた、ツァラトゥストラが語る至高のぼっち賛歌。次から次へと畳み掛けられるアジテーションの通底は『善悪の彼岸』的な価値判断の問題であり、道徳や常識といった基準に安穏している者、強者への妬み=ルサンチマンを正当化する者たちを糾弾し己の価値を己で決定する独立者たちへ超人への道を説く。自分は読んでいてニーチェの思想からはニヒリズムを感じないのだが、それは強者が弱者を装い、弱者と認められない弱者がルサンチマンを抱く現代社会に対しての方が遥かに虚無感を抱いているからなのだろう

    0
    投稿日: 2014.06.24
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    以前、『道徳の系譜』やらニーチェ解説本やらを読んでいたときは、個人的に「魂の救済」をテーマに読書をしていたので、やたらキリスト教を否定するニーチェの良さがよくわかっていなかった。ニーチェの思想で弱者を救えるかよ、と。 本書を読んでわかったことは、ニーチェの思想は決して「強者の論理」というわけではない、ということ。 むしろニーチェは弱い人間が強くなるための思考法を提示しているのであって、「超人」思想を説く主人公のツァラトゥストラでさえ、理想的な強い人間(=超人)には完全にはなりきれていないと思わせる箇所があった。 「俺のように強い人間になれ」というよりも「俺と一緒に強い人間になろう」と言われているような気がした。 ニーチェの超人思想を社会論的に発展させたのがオルテガの大衆批判だと思っている。 ニーチェの超人思想には「他者とのかかわり」という視点が無視ないし軽視されている点がいかにも玉に瑕という観もなくはない。 が、やはり「超人になろうとする意志」は個人の心の中に留めておくのが無難な気がする。 「私はいまや超人であるぞ」と認定できるのは自分自身のほかにない。 加えて、大衆批判は「自己言及のパラドクス」の危険を常に孕んでいる。 「そしてわたし自身も仮想してあなたがたのなかに坐っていよう。――そしておたがいに姿を見せないでおこう。これがすなわち、わたしの最期の処世の術である」(p252) 冒頭に「だれにも読めるが、だれにも読めない書物」とあるとおり、文章自体は平易だが書かれている内容は難解極まりない。 半分も理解できたかわからないが、読むたびに違った発見がありそうな気がする。 時間をおいて再読するのが楽しみな本、ということで! 下巻に続く

    6
    投稿日: 2014.04.03
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    誰にでも読めるが、誰にも読めない本。 ほんとうにそう思う。 本書は、キリスト教批判を行っているという位置づけで読むと読みやすいと感じる。もちろんその批判の対象には、キリスト教を盲目的に信仰する一般人も含まれていると思う。 「なにをくだらないものを信じているんだ。信じるべきは自分自身だろう。自分の足で生きなさいよ」読んでいる途中、ニーチェにこう語られている気がしてきた。

    0
    投稿日: 2013.09.11
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    最近になって読んだ本の中に、 「若いときに読んでいたらよかった」という ものは、いくつもありますが、 これもその一つです。 神を否定した実存主義、キルケゴールは神に向かう実存主義。 19世紀の実存主義は、20世紀のそれに比べ、 社会性がない。 などの知識はあり、書名もインパクトがあり、 若い頃から知っていましたが、 初めて読んでみると、 たいへん感銘を受けました。 まず、全体を流れる、ニヒリズム。 ニヒリズムとは、辞書によると、 「既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度」 だそうですが、 19世紀にニヒリズムを全うするニーチェの強さを実感するとともに、 現代に生きる人間にとってこそ、 こういった思想を読み、 いちど、通過点にすることは、 意味あることに思えました。 本当に、自分が善と思っていることがらなど、 ツァラトゥストラにかかれば、 何の意味がありましょう? それと、「超人」、「力への意志」が主なテーマですが、 ニヒリズムだけに終始せず、 この2つを掲げているおかげで、 僕は、生へのやる気がみなぎって来るのを感じました。 それに、訳が分かりやすい。 解説にもあるように、 注釈をつけない訳し方が、 僕は好きです。 絶対にオススメな非常に優れた著作ですが、 僕なりのニーチェへの批判を。 それは、徹底的なニヒリズムを超えて、 社会的道徳の必要性。 難しいけれど、 そういったものが表れるのではないかと。 ああ、それにしても、この本は、若い頃に読むべきでした。 今回ほど理解できたかどうかは別として。 それとも、生まれ変わっても、やっぱり、 この歳になって読む運命なんでしょうか? 僕の脳年齢は、19世紀かもしれません。(笑) (下)が楽しみです。

    1
    投稿日: 2013.02.02
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    とりあえずプラトン、アリストテレスくらいからルソー、カントくらいまでを概説でも良いので読むと、非常に面白く読めるのではないでしょうか

    0
    投稿日: 2013.01.27
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    岩波文庫の「ツァラトウストラ」(Also sprach Zarathustra) 他の訳書における学術的な訳に対して非常に簡単な言葉での訳が心がけられており、とくに「注」もない、というのが、この版での大きな特徴であろう。

    0
    投稿日: 2012.11.20
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    痛烈な社会、人物批判が箴言として書かれている。 なんだか生きにくい世の中だ!と感じる者にとっては胸がすく思い。 ただ、天に唾すれば…おのずと自分自身にも降りかかるもので、私は「悲壮な者」でしかなかった。 「精神の苦行僧」醜い獲物しか得られず、ボロボロになった者。 わたしは、笑いを学んでおらず、美を学んでいなかった。 いつか腹の底から笑いたい。

    0
    投稿日: 2012.11.20
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     ニーチェの作品の中で唯一読んだものだ。哲学書というより詩のような神話のようだ。それがこの作品を難解にもさせるし、強いインパクトを与えもする。ツァラトストラは明らかに聖書を意識している。  「神は死んだ」の台詞は有名だが、これは言われるまでもなく当たり前なことで、誰もが知ってることではないかと思う。日常での理不尽さ、戦争及び災害、飢餓、暴力を振るう側と振るわれる側、支配する者と支配される者、このような世界のどこに神がいると言えるだろう。  遠藤周作の「沈黙」で、島原で迫害を受けるキリシタンの農民の一人が宣教師にこう言っている。「あなたの教える神がいるというなら、どうしてこの悲劇の中に現れないのか」と  遠藤周作はこれを「沈黙」としているが、「死んでいる」としても同じだろう。何もせず沈黙を続けているだけならば、それは存在意義を失っているから。このことは神だけでなく人間も同じで、沈黙せず存在意義を持ち続けなければならないのだろう。そして、ニーチェはこれを「超人」としたのではないのだろうか?  しかし、私はこれに異議をとなえたい。もし自分が超人でありさえすればいいなら、世界の理不尽な主客の関係の中での支配者が、「超人の中の超人」になるだけだからだ。それは今の現実と何も変わらないだろう。  神が死んだことを理解しながら、世界の理不尽さの中では、神ではなく人間が「沈黙しなければならない」のだ。実存主義者のように言えば、世界に生を受け、その存在意義は別として存在そのものは受け入れなければならない現実がこの世界の全てなのだろう。その意味では、三島の「金閣寺」の描写は的を得ている。この小説は、絶対的な美であり憧れの存在だった金閣寺に主人公が放火して終わる。最後の描写こうだ。『一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。』  よく「沈黙は金なり」というが、「沈黙は金より重い」と言いたい。絶対的な美も信じる神もなく、人はそれに沈黙し受け入れ、生きるしかないからだ。

    0
    投稿日: 2012.08.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    彼は私みたいな奴に対して攻撃しているんだな。と思いながら読んでいた。私が善い事だと思うのは、やはり宗教や儒教、親や学校や社会が「善い」と判断されていることから殆ど外れない。 そしてツァラトゥストラに全て否定されてしまう。 自分を扱き下ろすわけではないが私は「市場の蠅」であり「賤民」だ。「おしまいの人間」でいいし、あらかじめ定められた正義の上に座っていれば、差し障りないと思っている。しかし、それだけでは安泰には暮らせない。「善い行い」「善い行動」と言うのはバラバラに例えば国レベル、一般社会レベル、会社方針レベル、友達レベル、家族レベルなど数えきれない「善」がありそれに翻弄される。オロオロし右往左往する。そして私はそういって「弱者」になるのである。私は「守られるべきだ」と言い、「平等であるべきだ」と復讐の炎が絶える事はない。 ツァラトゥストラは「救済」のところで過去への復讐を断ち切る方法を示した。悪いが私にはそれが飲み込めない。 「私がそれを欲した」と強引に飲み込むのは過去ではなく、現在でありたい「私がそれを欲する」と。

    0
    投稿日: 2012.07.18
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    徳なんて糞くらえだ。善悪は過去の価値基準だ。 もし徳というものがあるとするならば、それはその人個人のものであって誰とも共有すべきではない。 ツァラトゥストラの神はペシミズムとは無縁だ!彼は喜びにあふれ踊ることのできる神だけを信じる。「さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!」 隣人愛とは「要するにあなたの自分自身に対するうまくいかない愛」の言い訳にすぎない。彼は隣人愛よりはむしろ、自分からより遠く隔たったものへの愛を勧める。 「子どもと結婚」の章はもっとも衝撃的だった。 「あなたは子供を望むことが許されている人間であろうか?」 人気の弱さから結婚を、子供を求めてはならない。 人間は自己を克服し超人とならねばならない。そうして、自己を克服する者同士が、さらに自分たちを超える創造者を作ること、その意志こそ「結婚」と呼ぶべきものだ。 これほどストイックな思想が他にあるだろうか?

    1
    投稿日: 2012.05.17
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    おすすめ度:45点 読むことそのものが苦痛であった。単なるつぶやき、独り言にした聞こえない。 聖書を知らないから、理解できなかったのかもしれない。 訳注釈が皆無な点は良かった。訳注釈があったら、さらに読む苦痛が増したに違いない。

    0
    投稿日: 2012.04.28
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    「読書力」の35ページにある本… 法政大学第一中・高等学校で岩井歩教諭が実践した、定期テストに読書問題を取り入れた実践。 22冊目…高3の定期テストに 斎藤孝さん、大絶賛の本 でも…私には、何を言わんとしているのか、さっぱりわかりません。

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    投稿日: 2012.03.28
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    まさに劇場型哲学。それはやはり彼の出発が『悲劇』だからなのだろう。賛否関わらず、読むとテンションが上がるのは間違いない。

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    投稿日: 2012.02.07
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    「強い思想」はまさにここにある。 既存の価値観である神の存在を否定、そこから生じる善悪の揺らぎ・・・。 意義を失った人間社会をニーチェは「ただあるがままに受け入れて生きよ」と説く。 永劫回帰の思想はまさに狂気。一体どうやったらあんな考えに取り憑かれるんだろうね。 箴言も良いものが多いな~ 「深遠の淵を覗き込むものは充分に注意しなければならない。何故なら見つめるにつれ深遠もこちらを覗き込んでくるのだから」 ともかく絶対的な神の価値観が支配していた19世紀に「神?wそんなもんとっくに死んだんだよバーカwww」と言えたニーチェは怪物

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    投稿日: 2011.12.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    本書は、その有名なフレーズ「神は死んだ」、またニヒリストと呼ばれるその厭世的な描写から人生への否定的なイメージを持たれているように感じていましたが、ツァラトゥストラが語るのは、生の肯定、なのかもしれません。これが超人思想につながるのではないでしょうか。 ニーチェは、人間は自らの意志を持ち創造するものであれ、と言っているように聞えてきます。右倣えと自分の意志を持たない大衆になってはいけない、それがいずれ超人を産むのだと。

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    投稿日: 2011.11.05
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    ニーチェ(1844-1900)。ツァラトゥストラという主人公を中心に、自分の哲学を説いていくスタイル。(上)は神の否定とニヒリズム、ルサンチマンが主。ただ、手放しに否定したりニヒリズムに尽きているわけでは全くない。 ・大地に忠実であれ。・燃え尽きること。・最初から多くの徳を持とうとしないこと。・神でなく目標を定めるのは人間。・共に創造してくれるものを求めること。・感覚も精神も道具であり、その背後には「おのれ」がいる←それが自己の支配者。・自分の徳について語ることを恥じることはない。・苦しんだことは徳となる。・血は精神。・孤独は1×1だが長い間だと、2になってくる。・評価によってはじめて価値が生じる。・多数者の利益の中に、自分の利益を求めようとするものは、「わたし」を没落させる。・敵に恥ずかしい思いをさせるより、むしろ怒ったほうがいい。子供を望む前に、あなた自身が身体も魂もしっかり築かれていなければならない。・無意義な世の中だからこそ、価値を新たに定め、戦う創造者となれ(自分の生、存在に奉仕する)。復讐心からの解放は最高の希望。人間は平等ではなく、多くの戦いと不平等が起こるために未来へ押し寄せていく。・自己に従順でないものは人から命令される。ただ命令するのは服従するより難しい。官憲には服従しておくこと。・恒常普遍な善と悪は存在しない。・自分で自分を繰り返し超克しなければならない。・意志だけで獲得できないものが美である。自分自身を信じないものは必ず嘘をつく。復讐とは時間の中で「そうあった」に対する意志の反感。 読み途中、稲妻を受けたような感覚になる。

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    投稿日: 2011.10.13
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    途中で友人に返してしまった代物。 読み終えたような気もするけど内容が記憶に残ってないから、読みづらいか話が面白くないかのどちらかだと思う。 説教臭かったのかも。

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    投稿日: 2011.07.07
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    11.05.22テレビにて。神の死、善悪と良い悪い、神の死、末人と超人。大変興味深くしっくりとくる思想。

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    投稿日: 2011.05.22
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    「神は死んだ」――神の死を伝えるために、彼は下界へと降りていく。そして、彼は大衆から蔑まれののしられる。彼が、彼らの抱く善に反しているという一点において彼は排斥される。やがて、彼は大衆へと神の死や、超人へと至る道程を語ることをやめて、旅の道連れを捜し求める。 「誰にでも読めるが誰にも読めない書物」 恐らくはニーチェの思想によって、深い構成を経ずにしてつづられたある種の純文学であるのではないか?それによって、この著書はまるで得体の知れぬものと成り果てている。 「愛の中には常に幾分の狂気が在る。しかし、狂気の中には常にまた幾分かの理性が在る」――キリスト教の教えからはまるで考えられない理屈であるくせに、この言葉は真理をついている、いや、真理をついていると思わせるだけのなにかを背後に持ちえている。 彼は、善、徳、悪、様々な言葉へと観念的に追求している。しかし、その際に彼の言葉はあまりにも平易なのだ。哲学書だと思わせぬくらいの平易な言葉で、しかし、誰よりも難解な内容を描いているという逆説。彼の怒りの矛先が向けられるのは、彼が度々絶望するのは、キリスト教徒が抱く「絶対的な価値観」なのではないか、彼はその価値観に疑義を呈しては、嘆き悲しみ、内省を重ねている。 彼が説くのは、恐らくは一つのことだ。その一つのことをうまく言葉にするのは困難であるが、しかし、彼は様々なその一つによって様々な事柄を批判していく、それにおっておぼろげに見えてくる彼の考え方の根幹とは――「神の死」なのだろうか。絶対的な存在、真理が死ぬ時点で、耐えず批判が生じ、我々のものの尺度は一つでは測りきれなくなる。彼は隣人すらも批判する。「隣人はあなたにたかる毒蠅なのだ、だから、孤独になりなさい」と彼は説く。 「孤独は長い間、1かける1だが、それが長い間には、2になってくる」――ニーチェ。わたしとわたしとの対話。そして、さらに第三者の存在。コルクの浮子。 「人は神にはなれないが、超人にはなれる」「神は死んだ。人に、同情したがために死んだ」「原罪を持っていると思うことこそが原罪なのだ」「救い主はもし私くらい歳を経ていたらならば、間違いなくその考え方を変えたであろう」――この言葉はもはや凄まじすぎる。彼の超克精神は凄まじい。また、彼は、更に、一部の終盤にて弟子たちと決別している。それは、弟子たちは彼の考えの受け売りを持っているだけであり、彼を信仰している存在に過ぎないからだ。彼らは自ら彼の考えを持たねばならず、また、友を失うという悲劇を彼自身も経験しなければならなかった。しかし、それは再会を誓う別離なのである。 「力への意思とは、ありとあるものを思考可能としようとすることであり、力の意思こそが真理への意思の正体なのだ」――ここでは批判される、力への意思だがこれはやがて肯定的に捉えられていくらしい。 「善と悪とは絶えず、自らを超克していくことである」「常に自分で自分を超克していかねばならない」――絶えず繰り返されるのはこの内容。 二番目に好きなひとと結婚するべし、というのは、実は女性だけではなく男性にも当たる言葉なのかもしれない。これは単に二番目っていう意味よりは、むしろ、一緒にいて身を滅ぼしたくなるくらい好きなひとと一緒にいて破滅するよりは、遠くからそのひとを思いなさいってことなのかもしれない。逆に一緒にいて破滅する気配がないならば、それはたぶん、二番目に好きなひとなのだ。一番目と出会っていないというだけであって。それは真理に近しいのかもしれない。「愛と破滅は表裏一体」とはニーチェもよく言ったものだ。 ツァラトゥストラの上巻の内容としては、自己を超克していくための徹底したニヒリズムが語られている。繰り返される自己否定、更に自己否定。規制的な価値に縛られ盲人と化している人々との間に軽蔑され彼は孤独になりながらもやがて彼の仲間を得る。仲間を得、更に離別して彼は孤独へと至り、仲間たちもそれぞれの思索を得ようとする。彼らはまた再会し、そして、また離れる。第一部における離別は、彼のためであり仲間たちのためであったが、第二部における離別は人間のためだ。彼は序説においておよその人間に見切りをつけてしまったわけだが、それではいけないと二部の終わりにて彼の中の内なる彼によって啓示を受け、泣く泣く再度孤独へと落ちていく。平易な言葉で難解に綴られる哲学書と文学の両方の性質を持ちうる突然変異的な本著が訴えているのはしかし、酷く一貫している。絶対的な価値観の否定し、自己を超克する。だが、自己はまた自己という殻に埋もれる。つまり、超克は絶えず行われなければならない。そして、絶対がない以上、終着は見えない。彼は終着を神ではなくて超人だと定義づけている。しかし、絶対はないのだ。真理を彼は否定している。第三部以降の展開がいくらか気になるところではある。彼はとうとう超人になるのか、破滅して死ぬのか、一般大衆=彼が軽蔑していた存在すらをも味方につけてしまうのか、はたまた、弟子にとってかわられてしまうのか。終わりなどない。彼は宗教者ではないのだ。彼はあくまで一つの路を説くだけだ。しかし、それは絶対ではない以上、弟子たちはそれぞれの路を開かねばならず、彼らはあくまで、自己の考えを持った結果として身を寄せているというだけに過ぎない。永遠の思索。しかし、その永遠の思索こそが力への意思であり、権力を求める意思であり、我々を縛り付ける正体である。とはいえ、気力的に下巻を読むのは日をしばし空けよう。 追記。解説を読み、自分の解釈が少し不安になってきたが、しかし、誰かが下した解釈が絶対だなんてことはありえず、自分は自分の解釈を持てばいいのだと思う。誰かが下した解釈を持つということはつまり、追従しているだけに過ぎなくて、それはニーチェの言う超人の路を断念したことになりはしないか?なので、個人的にはニーチェをニヒリストでありロマンチストであり、ナルシストであると肯定的な意味合いで定義する。個人的にニーチェは好きだ。思考はくるくると回り続けるだけかもしれないが、回れば回るほどに必ずなにかが集積されていく。それが悪く働くこともあるかもしれないが、自己との対話による強烈な自己否定と自己肯定の精神があれば、必ず自分なりの終着にたどりつけそうな気がするのである。

    2
    投稿日: 2011.04.26
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    神が死んだ世界で、真理を求めるものの、超人あり方ってのが、綴られていた。 常に疑い、思考し、依存しない。ストイック?な主人公の話だと思いました。 女性に対する考えたが古いってか、ニーチェが大袈裟に醜いほうにしてしまっている感はありました。 あとがきよんで、注釈がないことに気づき、たしかに読みやすかったです。 あと下巻は永遠回帰についてかかれているそうです。

    0
    投稿日: 2011.03.24
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    時代を感じるような、古くさくてお話にならないことが書かれているかと思えば、十分現代に通じる言葉もある。本の整理を終えたら、改めてじっくり読みたい。

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    投稿日: 2010.12.09
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    んー、比喩が多過ぎてよく意味がわからんかった。なんだか新約聖書の四福音書を読んでるような気分だ。 まぁとりあえず「おれがルールだ!」ってそうゆうことですかね、超人ってゆうのは。

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    投稿日: 2010.11.16
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    イギリスに住んでいるときに日本語が恋しくなったら読もうと思って携行していた本。 どうにか読んだけど、真に理解したとは言えない。 あと3回くらい読まないとだめそう。

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    投稿日: 2010.09.25
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    思想の本はやはり難しい。 おそらく読み手が変わると解釈もかなり違ってくる本の典型例だと思う! 特に『神は死んだ』がかなり名言だと思う。

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    投稿日: 2010.05.13
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    10年ほど前の大学時代に、千代田線の車内で読みふけったことを思い出しつつ読んだ。ほとんど全く理解できなかったが、とかく教養と箔をつけようと、むさぼるようにどんどん読み進めて行ったことを覚えている。 そして今、再び上巻を読み終えた。 …当時と比べると、少々理解や共感が持てるところが増えているように感じた。例えばタイトルが妙に印象に残っていた『毒ぐもタランテラ』の章などは、かなり露骨な共産主義の批判であり、「人間は不平等なものだ」と力強く説くツァラトゥストラことニーチェの考えに、納得を強制させられてしまった。 タイトルに在るとおり、「誰にも読めない書物」なので、全ての理解はハナから諦めていたわけだが、それでも序論の『超人とおしまいの人間たち』の章などには、哲学書としてだけでなく、文学作品としての高い価値をも認めることが(個人的に)できた。巧みな比喩や表現力の豊かさには、たとえ言っていることがほとんどわからないとしても、次々と読み進めて行こうとさせられてしまうパワーがあった。 一章一章が短い教説になっているので、軽く読もうと考える場合は、通勤時等の電車で読むのが向いているかも知れない。わからない表現にしばしの思考の時間を取られることもあるが、それでも遅くても20分に一章ぐらいは読めるだろう。ただし、通勤時に読むと仕事がバカバカしく思えてきたりもするが(笑)。 深い理解と知識を求めてこの本を読む場合は、そのような読み方ではなく、重要と思われる個所に傍線を引くとか、ノートを取るとか言う勉強じみた読み方が必須と思われる。上のように電車内で読んでいる場合は、読後感以外に得られるものはむしろ少ないかもしれない。(尤も、読後感以外に得られるものの“ない”今の流行小説などよりはずっといいだろうが) 理解できなかった個所が少なくないので星は4つ。しかし10年間の歳月を経て、理解できる個所が増えたことが嬉しい。歳を取るごとに得られるものが増えていくようなタイプの書物なのだろう。 巻末解説がかなり充実しているので、そこから取り掛かったりそこと並行して読んでいったりするのもいいかもしれない。 下巻も読んでみたいと思う。

    0
    投稿日: 2010.04.25
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    目次  第一部   ツァラトゥストラの序説―超人と「おしまいの人間」たち―   ツァラトゥストラの教説    三段の変化    徳の講壇    世界の背後を説く者    身体の軽蔑者    喜びの情熱と苦しみの情熱    蒼白の犯罪者    読むことと書くこと    山上の木    死の説教者    戦争と戦士    新しい偶像    市場の蠅    純潔    友    千の目標と1つの目標    隣人への愛    創造者の道    老いた女と若い女    蝮の咬み傷    子どもと結婚    自由な死    贈り与える徳  第二部    鏡を持った幼な子    至福の島々で    同情者たち    聖職者たち    有徳者たち    賤民    毒ぐもタランテラ    名声高い賢者たち    夜の歌    舞踏の歌    墓の歌    自己超克    悲壮な者たち    教養の国    汚れなき認識    学者    詩人    大いなる事件    預言者    救済    処世の術    最も静かな時

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    投稿日: 2010.03.30
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    もっと早くに読んでおくんだった。どんなスピリチュアル本よりも、いいですね~。でも、いまだからこそわかるっていうのもあるかな。

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    投稿日: 2010.02.12
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    世間での評価も高い歴史に名を残している名作であるという認識もあったが、8年くらい積読にしていた。 で、読んでみたが、なかなかおもしろい。 「強者と弱者」「尊敬と軽蔑」「人間の上下」といった人間の「力」に関わる問題についてよく考える人には惹きつけられる記述が多いように思う。 「弱者を救済する福祉」「平等」「大衆」といったものを軽く見ている記述もあるが、読んでいて嫌な気分にはならなかった。 下巻では超人思想はあまり出てこなくて、永遠回帰に関する記述がよく出てくる。 「ツァラトゥストラ」は新潮文庫のより、この岩波文庫の方が読みやすくてお薦めです。

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    投稿日: 2010.01.29
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    哲学書というより物語性の強い本だから読みやすい。ニーチェの思想と同様に文体も非常に力強くヒロイックに溢れている。 もちろん哲学者のニーチェも優れているが小説家としての才能もピカイチなんだな。

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    投稿日: 2010.01.04
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    人間の「限界」を体現してくれている本。 そのため「これ以上面白い本は存在しない」と思うことになる。

    0
    投稿日: 2009.12.18
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     上下巻。神は死んだ! で始まる、有名な書。超人、永遠回帰の思想が語られる。ニーチェの思想は現実に対する強烈な肯定があるのであって、中途半端な拒否ではない。

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    投稿日: 2009.12.03
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    20代の頃にとても影響を受けた本。 その後ニーチェの「道徳の系譜」「権力への意志」「悦ばしき知識」「人間的な、あまりに人間的な」などなど読んでいったが、なにが書いてあるのか、読むのに一苦労しながら、時には意味が分からないながらも、一生懸命言葉と意味を自分なりに解釈して考え続けてた時期が、少なからず自分の思考の土台になっているように思う。 そこで得た「人間は架け橋である」という言葉から、超人であるよりも人間として人間らしく生きたいと思うようになった。 「世界は解釈する像である」というような意味が、現代アートの世界の解釈による多様性と創造性へと結びつく。

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    投稿日: 2009.07.11
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    言わずと知れたニーチェの著書 日本人が読むためには、欧米の背景にキリスト教が深く根付いていることを 理解してこそ、理解できる本だと痛感した。 読めば読むほど、引き込まれたのも事実である。 以下2点著書より抜粋 ・自己超克 →善悪において創造者とならなければならない。 まず、破壊者となり、もろもろの価値を壊すのだ。 最高の善意には最高の悪意が必要である。 こうした最高の善意こそ創造的な善意である ・贈り与える徳 →最高の徳は贈り与える徳である ありふれておらず、実用的でなく、光を放ってその輝きは柔和である 栄光を得ようとするものは、よい機会に名誉に別れをつげ、ふさわしいときに逝く

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    投稿日: 2009.07.03
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    高校時代の先生からの手紙。 「ニーチェ風にいうと『獅子の時代』を生きている君」 意味をずっと考えている。

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    投稿日: 2009.04.25
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    意外と読みやすい。小説っぽいというかなんというか。 かっこいい生き方です。 壁にぶち当たっている人に勧めてみると良いかもしれません。

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    投稿日: 2009.03.14
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    ツァラツゥストラの「栄華の巷を低く見た」態度が壮快。 思わず噴出してしまうような台詞もありました。

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    投稿日: 2008.10.14
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    人間は深淵に架けられた一本の綱である。 渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険。

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    投稿日: 2008.09.13
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    予想外にめちゃめちゃおもしろかった。。。 もっと小難しくてわけわからんことを得々と書いてるもんだとばかり思ってたけど。。。 哲学書に対する偏見が氷解した瞬間でした。 これは面白い!!

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    投稿日: 2008.08.10
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    とっても恥ずかしい「青春の一冊」の中の一冊。こういうのを読んでるのがカッコイイと思って、背伸びして読んでたんですよ、正直なところ。でも、実際面白いことは面白い。「在る」という事を考え始めたきっかけになった本です。

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    投稿日: 2008.08.04
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    ニーチェってよんだことないなぁと思って読んでみました。 ニーチェとワーグナー、二人の思想は危険視されていたようですが 現代に生きる日本人としての私がよんでもそんなに危険な香りはしません。 キリスト教が蔓延する国々では相当危険視されたに違いないなという印象です。 ニーチェは晩年発狂したと、 そして4章部分は妹が編集したらしいですが 確かに4章は少し毛色が違うかんじがします。 原文はよめないのでわかりませんが 日本語訳が綺麗で、 表現があまりに綺麗な箇所もあっていいなぁと思いました。 海が金色・・・のあたり。 2008、July

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    投稿日: 2008.07.29
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    ニヒリストとは、 純粋なる魂の持ち主が矛盾に溢れた世界と向かい合うべく、自らをスタイル化した結果なのだろう。 ナイフのように尖ってはいるが、とってもナイーブな人達が多い。そういうニーチェに共感するのは僕だけではないだろう。

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    投稿日: 2007.12.24
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    一つのテーマをひたすら箴言調に小説っぽく書いた作品。こういうジャンルの本にあってはかなり読みやすい…けど意味不明になる点もしばしば。ニーチェにはいろいろと崩壊させられた気がする。

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    投稿日: 2007.12.13
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    上下巻。 日の光を厭い、ひたすら深夜の覚醒する瞬間に酔った学生時代。 世界への意識の現前を認識する瞬間のために!

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    投稿日: 2007.11.07
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    やっぱり好きですニーチェさん。 火傷しそう。でも好きなんだよなぁ。。 この真っ直ぐさ。不器用で強い愛情。 生温い癒しよりずっと、戦場のベットのように、しばしの休息と活力を与えてくれる。

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    投稿日: 2007.08.02
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    〜晩年のニーチェ(1844‐1900)がその根本思想を体系的に展開した第一歩というべき著作。有名な「神は死んだ」という言葉で表わされたニヒリズムの確認からはじめて、さらにニーチェは神による価値づけ・目的づけを剥ぎとられた在るがままの人間存在はその意味を何によって見出すべきかと問い、それに答えようとする〜 正直言って分かりませんよ。そもそもどんな頭のいい人だろうと、どこかの大学教授だろうと、分かったつもりになっているだけです。人の頭の中を知ろうとしている様なものですからね。哲学書や思想は、読むと言うよりも感じる物の様に思います。しかしそれも個人的な考えにすぎません。自分なりの解釈で捉えて、考えればいいと思います。で、そう言った類の物も、結構読みましたが、個人的にニーチェの考え方とは共感出来る部分が多くあるように思ったのです。「神は死んだ」と語り、これも個人的な解釈ですが、ようは自らの力で生きていこうと。この本のお陰で、他の哲学書や聖書などに興味を持ちました。聖書を読んだことのある方なら、また違った捕らえ方も出来ると思います。無神論者の俺には分かりませんが、海外ならばそれはそれは異端児だったでしょうね。

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    投稿日: 2007.06.08
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    「神はいない」じゃなくて「神は死んだ」っていったのはなんでなんだろうって数時間考えてやめた。ほんと、「万人のための、そして誰のためでもない本」ですな。スーパークラシックなはずなのにめちゃくちゃポストモダン。「読むんじゃねぇ。。。感じろ!!!」っていう本

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    投稿日: 2007.03.15
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    哲学の本なんだけど、これは1つのお話としても読めます。最初の方で綱渡りの死体を背負っていくシーンが一番印象深い。

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    投稿日: 2006.12.10
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    現代人の理性、感覚についてのニーチェの警句。ニーチェの議論は全てこの本がベースになっている。ニーチェに興味があれば「善悪の彼岸」のあと、この文献にあたるのがよいでしょう。

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    投稿日: 2005.12.31
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    中学の時に読んだけどほっとんどわかりまてんでした。だけど言葉が好きなんだよなあ〜。あの頃は哲学ワールドにどっぷりはまってた。

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    投稿日: 2005.12.28
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    きっかけは「2001年宇宙の旅」。自らの精神状態を客観的に見つめる本として貪り読む。「精神の三段の変化」下巻の「魔術師」の章などが印象的だった。聖書の言葉をパロってツァラトウストラに言わせているところがある。著者は晩年、精神錯乱に陥った。

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    投稿日: 2004.10.22