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葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦―
葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦―
秋田光彦/新潮社
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総合評価

12件)
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     大阪で小劇場演劇を観ている人なら誰でも知っている、お寺の劇場・シアトリカル應典院。私が大阪在住時代に最もよく行った「お寺」ですが、明らかに普通のお寺とは異なる施設となっています。本書ではその住職である秋田氏が、應典院が今のようになった歴史と目的を語っています。  應典院は決して単なるイベント施設として作ったわけではなく、「現代における仏教の役割は何か」「これからの寺院はいかにあるべきか」といった、僧侶としての自分への問いに対するひとつの答えとして取り組まれており、あくまでも「寺」なのだという点。これには感銘を受けます。  なぜそのような問いが必要になったか。社会の変化によって昔ながらの檀家制度が成り立たなくなりつつあるからです。いわゆる「無縁社会」のひとつの側面でもあります。そのため本書には、無縁社会を扱った『人はひとりで死ぬ』を読んだ時に感じた疑問への答えとも言える記述が随所にありました。  そもそも、原始仏教は葬式仏教ではなかったし、檀家制度もなく、基本的にひとりで生きる者を導く教えだったはずです。葬式をしないことはそんなに重要ではない。大事なのは、では何をするかという点。もちろん應典院のスタイルが唯一の正解ではないでしょうが、同じ問いはすべての寺院に対して投げかけられているとも言えるはずで、もっと多くの寺院がそれぞれの考えで新しい取り組みに挑戦してほしいものです。

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    投稿日: 2017.06.18
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    関西小劇場を観る上で一回は訪れるであろうシアトリカル應典院のコンセプトが分かる一冊。空飛ぶ!観劇部!のスペドラの回での紹介をきっかけとして購入。 紹介にもあったように演劇の話は最小限で、場づくりをどうするか、仏教が社会にどうか関わるかが中心に論じられている。 ただ場所貸し、小屋貸しをするのではなく、どうお寺として関わっていくかの試行錯誤が垣間見える。 本業で関わっている図書館でもlibrary as place という考え方が重要になりつつある。途中からは図書館の側での取り組みと何が違うのかを考えながら読み進めた。特に生きる上での悩みや死生観の共有という取り組みは僧侶の存在があるからこそ上手くいくのか、そこはこの事例が應典院だっただけで、他でも上手くいく素地があるのかはこれまで得られなかった視点であり、今後も引き続き考えていければと思う。

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    投稿日: 2017.04.03
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    宗教と遊び、宗教とアートという結びつき自体はそこまで新しいものでもないかもしれないが、そのことを能動的に現代の文脈で意識してやろうとするということは革新的だし、臭いものに蓋をするよりこういう方向性にカジ切ったほうが面白い

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    投稿日: 2014.12.25
  • いいんだけれど

    葬式をせずに、様々な取り組みによって、生きた仏教を感じてもらう。 えらそうにそういうことを言う坊主は多いと感じます。 私は、宗教が衰退する理由は、宗教者が善人を装って、もっともらしいことを言うからだと思っています。 仏教が衰退している=檀家が少なくなっている=自分たちが暮らしていけないということですが、そうい うことを本音で語るような宗教者に出会ってみたいものです。

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    投稿日: 2014.09.15
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    題名に期待した内容は第5章以下にあった.勿論、應典院での活動は素晴らしいが、第5-6章の内容は重要な点を多く含んでいる.葬儀社に駆り出された坊主のお経には何の意味もないことは、参列者のほとんどがわかっている.でも葬儀社に任すとそうなってしまう.自分らしいエンディングを企画するために宗教家の出番があるのだ.本書は「葬儀社は死の一点を扱うだけだが、仏教は生涯全体にわたって関与するものでなくてはならない」という重要な論点を示してくれている.

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    投稿日: 2013.03.16
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    このレビューはネタバレを含みます。

    秋田光彦『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』新潮新書、読了。應典院の檀家はゼロで運営はNPO。葬式や法事は一切行わない。トークイベントや集会、演劇の連日。筆者が目指すのはひとが集まる「開かれた寺」。これこそ「縁起」と語る。積極的に社会と人間に関わろうとする僧侶たちの挑戦。 應典院 - ひとが、集まる。いのち、弾ける。呼吸する、お寺。 http://www.outenin.com/

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    投稿日: 2012.08.18
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    「葬式仏教から脱却」「本来の仏教、寺の在り方とは?」など。 お寺を「場」として提供する様子などが描かれている。 仏教自体の話ではなく著者の新しい仏教の在り方に向けた活動など。

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    投稿日: 2012.04.24
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    関係性としての仏教、そしてその場としての寺。 著者も言うように、仏教書ではなく應典院の代表として経験してきたことを綴っただけ。良くも悪くも仏教の必然性を感じられず、『お寺には、宗教はない。自分には、ただの風景にしか見えなかった』という一言が突き刺さる。 だが、應典院のやってきたこと自体は評価できるし、理解もしたい。 日常とは違う、ある種異質な場としての寺で、いかに人々の関係を導くのか、そのために僧侶は、仏教はどうあるべきなのか。

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    投稿日: 2011.08.02
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    檀家制度によって支えられてきた葬式仏教は、高度成長期が終わったこの時代には適さないようである。仏教伝来から千数百年の歴史の中でもやはり特異なことであったのではなかろうか?お寺の意義には、ドラッカーが指摘したように、また寺子屋がまさにそうであったように慈善的なNPO的な大乗仏教の思想を体現することもあり、現代ではそのような動きが望まれていることがよくわかった。 もちろん、そのような活動を支える経済的な基盤というものは重要である。

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    投稿日: 2011.05.15
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    著者自らの実践の記録。と同時に、その背後にある仏教観、お寺観がよく分かる。同種の「スーパー僧侶」の書いた著書に「寺よ、変われ」があるが、あちらは行動力がスゴすぎて、あまり参考にならないような気がした。こちらは、具体的内容はともかく、方向としては、多くの寺が真似できるものだと思うし、一般の人の共感も得やすいと思う。全部とは言わないにしても、全体の一割の寺がこうした「革新」に向かってくれれば、日本の仏教はよみがえるのではないだろうか。

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    投稿日: 2011.04.22
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    「葬式仏教」というレールの上でしか、社会的な役割を果たせなくなっている現代のお寺のあり方に対し、その延長線上で留まっていては、近い将来大多数のお寺が、たち行かなくなると警鐘を鳴らす。 それでは、お寺が目指すべき方向性は何か? 筆者は、自己の経験を紹介しつつ、「寺は社会的関係性を呼び込むプラットフォームの様な役割を果たすべき」と論ずる。 すなわち、「死」という契機から社会と関わるのではなく、人の生涯全般に渡って関与するもので無くてはならないとするのである。そこには、医療や看取り、介護、あるいは住まい、相続などの全般的な生活課題が含まれる。 仏教とは本来、生きにくく、苦に満ちた現世に於いて、どの様に折り合いを付けていく術を説いたものであったはず。現代日本の仏教は、本来の仏教の役割に立ち返り、今を生きる人々の苦悩に寄り添い、それにどの様に応えていくのかが今まさに問われているのである。

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    投稿日: 2011.03.21
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    読了。大蓮寺(本寺)と應典院(再建された塔頭寺院)の関係を踏まえると、應典院はいわゆる「葬式仏教」に敵対する試みではないことが分かる。むしろ葬式仏教がベースにあった上での実験場というか。葬式と仏教のかかわりも揺らいでいるが、葬式をする寺が、その上で何をするかによって社会的なインパクトもだいぶ変わってくるということではなかろうか。「出島」「真田丸」的な應典院の奮闘が、本丸(大蓮寺)の在り方も変化させつつある、というのは面白いし、幸福な影響関係だなと思った。

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    投稿日: 2011.02.18