【感想】デザイン、学びのしくみ ニューヨークの美大講師が考える創造力の伸ばし方

遠藤大輔 / ビー・エヌ・エヌ
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    遠藤さんプレゼンターのウェビナーを見て購入。反芻する意味でも書籍を購入して大正解。デザインの学びの域を超えて、学校教育のさまざまな教科の学びを変革していく上で大きな影響を与える著作である。

    投稿日:2024.02.10

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    デザイン、学びのしくみ ニューヨークの美大講師が考える創造力の伸ばし方

    理想を思い描く能力も含め、優れたデザイナーを目指すための道筋がきっとあるはず
    だと考えてきました。人の成長は有機的なもので、その速さには個人差がありますが、学びは決して無作為なものではないはずです。

    デザインを学ぶ一番良い方法は、 とにかく手を動かしてデザインしてみることです。少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、 見様見真似で形を作っているうちに、 デザインできるようになる、 というのが本当です。それは、 水泳の練習に似ています。泳げるようになるには、 とにかく水に入ってみるしかありません。

    形が作れるようになると、 次第に内容について考えられるようになります。そして、そのうち文脈についても理解が及ぶようになるでしょう。逆に、 最初からデザインの理論を学ぼうとすると、手が止まってしまうことがあります。理論も大切ですが、 それを学ぶのはデザインできるようになってからで十分です。

    どんな学びでもそうですが、学ぶ内容だけでなく、学ぶ順番が大切です。デザインの能力も理論的に設計されたカリキュラムに沿って「意図的な練習」を積み上げることで上達していきます。逆に、デザインを続けていれば、自動的にデザインがうまくなる、 というわけではありません。同じ作業をただ繰り返しているだけでは、成長は期待できません。

    デザインの学びは、言語の学びに似ています。デザインを学ぶには、視覚言語や造形言語を流暢に話す人から学ぶのが一番です。ゆえに、デザインの技術は、 これまでずっと工房における師弟関係をベ— スとした学習モデルを通して、継承されてきました。工房型の「学びのしくみ」は、現代でも十分に機能しています。

    学びは主体的なものであるべきです。人は能動的に学ぶとき、最も成長します。つまり教師の仕事は、学生の主体性を引き出し、支えることに尽きます。

    D・A・ドンディスは、自著『形は語る』の中で、視覚リテラシーを、内容、形、表現者、受け手の四つの基本要素に分解しています。コミュニケーションデザイン学科のカリキュラムは、その四つの要素とその関係性を段階的に学べるように設計されています。

    MITメディアラボのレズニック教授は、 創造的な学びを促す四つの要素として、 プロジェクト、 パツション(情熱)、ピア(仲問)、プレイ(遊び)を挙げています。デザインの授業にはたいていその四つの要素がすでに含まれていますが、その役割を正しく理解し、 意図的に学びの場に組み込むことで、デザインの学びを加速できます。

    制作に身が入らない学生をときどき見かけますが、それはやる気がないからではなく、「固定思考」(「どうせ勉強しても仕方がない」といった考え方)や、「創造に伴う恐れ」が原因である場合が多いようです。教師は、学生のやる気のしくみを理解することで、 学生の主体性をより適切に支えられるでしょう。

    きっと今から10年後の自分も、今の自分を振り返って、「まだまだだな」と感じるに違いありません。それでも、完璧を目指していてはいつまで経っても本は完成しません。構想は、 形にしなければ誰の役にも立ちません。この本は現在進行形の学びのスナップショットだと捉えていただければ幸いです。

    第1童 デザイン教育のカリキュラム

    職人の訓練には、ものの作り方や道具の使い方、制作に向き合う姿勢を学ぶことが含まれますが、そうした身体的な技能の多くは、工房で師匠の作業を間近に見ることや、実際に作業することで習得されます。すでに12世紀ごろには、ギルドと呼ばれる職業組合が職能訓練の場として機能していたようです。

    デザインと真剣に向き合ってきた人から創造的な姿勢を教わる以上に深い学びはありません。今後も、師弟関係をベースとした実践的なデザイン教育は、美術系の教育機関やデザインの現場で踏襲されていくことでしょう。

    デザイン教育は、デザインそのものの役割や可能性を拡張するものであって初めて、未来を担うデザイナーを育てるものとなります。言い換えれば、デザイン教育は、ビジネス・ドリブンではなく、デザイン・ドリブンであるべきでしょう

    デザインや芸術の教育に影響を与えた源流の一つが、17世紀フランスに設立されたエコール・デ・ボザ— ル(パリ国立高等美術学校)にあると言われています。このボザールでの教育は、王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当するエリート人材の育成を目指したもので、 伝統に重きが置かれ、 理想化された様式美を踏襲するものだったようです。ボザールで始まった教育スタイルは、 後の高等教育機関におけるデザイン教育にも大きな影響を及ぼしているように思います。

    工房型の職能訓練にもさまざまなレベルがありますし、理論の研究と一 口に言っても基礎から応用まで多様かもしれませんが、いずれにしてもそれらは二項対立するものではなく、その両立が創造的な学びを支えるのだと思います。バランスの取り方はいろいろですが、そのバランスのあり方に、デザイン教育に対する哲学や価値観が表れるように思います。


    『やり抜く力』の著者 アンジェラ・ダックワース教授は次のように述べています。
    人間の持つどんなに複雑でクリエイティブな能力も、それを構成するスキルは細分化することができる。そして、一つひとつのスキルは、練習をしつこく積み重ねることによって習得することができる。

    つまり、デザインを学ぶには、それを細分化し、学ぶべき順番に並べた学習計画が不可欠ということです。習得のスピードには個人差があるかもしれませんが、 その計画に沿って意図的な練習を積み重ねることで、 誰でもデザインを習得できます。実際、 どんなに素質があっても、漠然とデザインしているだけでは技術は積み上がっていきません。また、いつまでも簡単な作業を繰り返していても、成長は望めないでしょう。

    D・A・ドンディスは、自著『形は語る』の中で、コミュニケーションデザインの基礎である視覚リテラシー(視覚的な読み否きの能力)を、内容と形、そして表現者と受け手の四つに要素分解しています。言い換えれば、 コミュニケーションデザインを学ぶとは、この四つの要素とその関係性を学ぶということです。

    学習目標をより俯瞰的に理解する上で、英国のデザインリサーチャーであるナイジェル・クロスの研究は参考になります
    傑出したデザイナーたちは「並行する考え」に沿って働く能力があるようです。つまり デザインのプロセスが進む中で、 さまざまなレベルでデザインの特徴と側面についてオ—プンさ、 ある場合、 曖昧ささえも維持し、 それらのレベルを同時に扱う能力です

    端的に言えば、 傑出したデザイナーは、 デザインをさまざまなレベルで捉えることができるということです。流動的な要素について同時に考え、すべての要素を一貫して統合する概念や形を生み出せるのが、傑出したデザイナーです。

    内田樹さんは、ある講義の中で、大学の教授団(ファカルティ)という言葉が集合名詞であると述べています。つまり、教師は個人として機能しているのではなく、集団として機能すべきで、多様な教師たちとの連携作業を通じて教育という事業は果たされていると指摘しています。彼はははっきりと次のように述べています。
    僕から見て「この先生はちよつと問題じやないか・・・」と思えるような教師であっても、その先生がきっかけで知的成熟が始まるということだってあるのです。それを考えると、結局、子どもたちの前には、できるだけ多様な教師を並べておくということが、子どもたちの成熟を支援するという教育本来の事業にとっては最も簡単で、最も有効だということがわかります

    美大のカリキュラムは造形を学ぶことからスタートします。視覚・造形表現の基本構成要素から学び始めるのは、視覚言語の文法に基づいた正しい順番ですが、学生たちは特に視覚言語の文法を意識する必要はありません。むしろ、視覚表現の世界にどっぷり浸り、観察と造形を通してその言語を身体的に習得するほうが近道です。

    興味深いことに、ベティ・エドワーズは、「子どもが9歳か10歳になると、絵を描く技能という点では突然、成長が止まるように見える」と指摘しています。それは10歳ごろまでに自然言語による思考が支配的になり、視覚的な空間認離よりも名前やシンボルが優勢になることが原因のようです。学校では視覚言語を意識的に学ぶ機会はあまりないので、そのまま視覚的な言語能力の成長は止まってしまいます。それで、大人になってからデザインを学ぼうとすると、 第二言語を学ぶような苦労があるわけです。

    アウトプットのクオリティは、 インプットのクオリティに比例します。ほぼ例外なく、素晴らしい作品を生み出している学生たちは、 素晴らしい作品をたくさん見ています。積極的に美術館やギャラリーに出かけて、 最先端の表現に触れています。
    インプットのレベルは、観察力に比例します。目の前のものをありのままに見るためには、それなりの訓練が必要です。

    ニューヨークの美大でデザインを学び始めたころ、 教師たちがデザインを明快に言語化し、評価や感想の根拠をとても分かりやすく説明する姿に、 新鮮な驚きを感じたことを覚えています。
    それは「こうすればうまくいく」といったテクニックの話ではなく、「これがうまくいったのは 、こういう理由だから」という、 内省(リフレクション)を促すデザインの原理原則の話だったように思います。

    美大ではデザインの理論を学べるという印象は、実際に理論を扱う授業があるというよりも、一歩踏み込んだ作品の講評の中で、デザインのしくみが解き明かされるからなのかもしれません。いずれにしても、 制作を中心とした学びの中で、理論が学びを構造化し、成長の足がかりとなつていくというのが、 とても効果的であると思います。

    『やり抜くカ』の著者、アンジェラ・ダックワース教授は、「才能とは努力によってスキルが上達する速さのこと」であると述べています。とてもシンプルな定義ですが、才能の本質を捉えています。

    「自分の能力は、努力でさらに伸ばすことができる」ということを体験を通して学んだ学生たちは、さらに学びに対して意欲的になっていきます。ダニエル・ピンクが、 自著『モチベーション3.0』の中で述べるように、「熟達(マスタリ—) 」は学びをドライブする非常に強い動機付けとなります。熟達すればするほど、 さらに熟達したいという動機が強くなっていきます。実際、 圧倒的なパフォーマンスを上げる人たちは、さらなる高みを目指し、努力を重ねます。

    第2章 創造的な学びの場

    MITメディアラボのミッチェル・レズニック教授は、『ライフロング・キンダーガ—テン創造的思考を育む4 つの原則』の中で、創造的な学びに欠かせない条件として、プロジェクト、パッション(情熱)、ピア(仲問)、プレイ(遊び)、の四つを挙げ、それぞれの頭文字をとって「四つのP」と呼んでいます。レズニック教授は、世界中で2500万人以上の若者たちが参加するプロジェクトや、オンラインコミュニティでの活動を通して、この「四つのP」の効果性を実証しています。

    誤解を恐れずに言えば、 自分のテーマに自信を持てるかどうかは、制作次第です。問題はそのテーマ自体が面白いかどうかではなく、それをどれほど面白くできたかでしょう。実際、一見つまらなそうに見えるテーマを選ぶほうが、ハードルが低く、しかも飛躍も起こりやすいと考えれば、少しは気が楽になるのではないでしょうか。

    もちろん、 自分と向き合うには、 暇な時間も大切です。とはいえ、成長段階の学生の情熱を引き出し、意味のある制作を促すには、「作らざるを得ない」状況を意図的に作ることも有効なアプローチだと思います。ちなみに、学生の成長と制作量は基本的に比例します。

    レズニック教授が述べるように、課題の設計には, 学生が自分のパッション(情熱)を持ち込める「壁の広さ(問口の広さ)」と、 あまり悩まずに制作に取り掛かれるような「敷居の低さ」、そしてその可能性をどこまでも追求できる「天井の高さ」があるのが理想でしょう。

    社会学者のダニエル・チャンブリスは、 競泳の選手たちを対象に行った研究の結論として「偉大な競泳選手になるには、 偉大なチームに入るしかない」と述べています。つまり、 最高の学びには、 互いに高めあえる最高の仲間が必要なのです

    遊びと学びは一見相反するように思えるかもしれませんが、 最高の学びは遊びのように楽しいものです。「仕事とは、 しなくてはいけないからすることで、遊びとは、しなくてもしいのにすることである」とマーク・トウェインは述べていますが、 同じことが学びにも当てはまるでしょう。

    自分なりの仮説を立てて自由に実験し、 多様な評価軸で制作を捉え、 そのプロセスを楽しむとき、 課題は遊びに変わります。それを一言で言えば「遊び心」と袅現できるかもしれません。バウハウスのラズロ・モホリ=ナジは、「デザインとは職能ではなく, 姿勢だ」と述べていますが、 どうやら彼も、 デザインを仕事とは思っていなかったようです。

    「フロー体験」を提唱した、 ミハイ・チクセントミハイは、「面白いと思うことの多くは、 初めから面白いのではなく、注意を注ぐ労を払ったから面白いと思えるのである」と述べています。確かに、 自分がやっていることを楽しいと思えるかどうかは、 ある程度やってみないと分からないものです。

    パインとギルモアは『経験経済』の中で、経済が発展するにしたがって、 顧客にとっての価値がコモディティから体験へとシフトすることについて論じています。近年、 原料や物理的な製品よりも記憶に残る体験が高い価値を生み出しています

    トニー・ワグナーは、自著『未来のイノベーターはどう育つのか』の中で、「21世紀には、自分が何を知っているかよりも、自分が知っていることで何をやれるかのほうがずつと重要になる」と繰り返し述べています。

    パインとギルモアはさらに、 経験経済を演劇に見立て「仕事は演劇である」と述べています。同様に、 教育も演劇に見立てることができるでしょう。教師と生徒は演者として、それぞれ自分の役割を演じることを通して、記憶に残る学習体験に参加します。

    第3章 教師と学生

    沢木耕太郎は自著『旅する力』の中で、大学のスペイン語の教師だった松田毅一先生について次のように述べています。
    私が松田先生の授業に惹かれたのは、授業の合間の雑談が面白かったということもあるが、それ以上に、人間としての松田先生が興味深かったのだろうと思う。私たちは、少なくとも私は、大学の講義に、書物に記されてあるような知識の断片を求めて
    いるわけではなかった。私たちは、いや私は、大学の教師からなんらかの「熱」を浴びたかったのだと思う。そして、松田先生には、研究者としての、教育者としての「熱」が間違いなくあった。松田先生の「熱」は、 数年後に私の「旅する情熱」を生み出すことになる大いなる母胎であったのかもしれないのだ。

    学びの舞台に立つ教師には、授業という即興劇を、記憶に残る学びへと昇華させるための演技力が求められます。特に大切なのは、対話を発展させる問いを投げかける技術です。
    学びは、問いを重ねることで深まっていきます。繰り返しになりますが、不確実な未来と向き合うために学生が学ばなければいけないのは、「答え」ではなく「答えを生み出すプロセス」です

    知識や経験があると、 どうしても答えを教えてあげたくなるものですが、教師はその衝動を抑え、むしろ学びを深める問いを投げかけるべきでしょう。学生は、 教師から答えを与えられると、それ以上自分で考えようとしなくなってしまいます。ジャン・ピアジェは、「子供に何かを教えてしまうと、 その子供が自分自身でそれを発見するチャンスを、永遠に奪ってしまう」と述べています。自

    学生は、分かりやすい答えや、すぐに使える技術を求めるものです。変化のスピードが指数関数的に加速している現代社会において、その傾向はますます強くなっているように感じます。しかし、すぐに分かることは、すぐに忘れます。すぐに使えるものは、すぐに使えなくなります。知恵や姿勢を学ぶには、分からないことに腰をすえてじっくり向き合う必要があるでしょう。

    最近の日本の学生はほめられることにプレッシャーを感じると指摘しています。
    同調圧力の強い日本の文化において、ほめられることで、みんなの中で浮いてしまったり、自分のイメージが変わってしまったりすることにストレスを感じるであろうことは理解できます。対照的に、ニューヨークのように多様な文化的背景を持つ学生が集まるところでは、学生を横並びに比較すること自体がそもそも難しいため、 ほめることが機能しやすいのかもしれません。

    ほめ言葉がいつも教師の主観的な好みに基づいているなら、 そのうち学生たちは教師の顔色をうかがうようになるでしょう。もちろん経験ある教師の主観的な好みには、暗黙知が詰まっており、 そこから多くを学ぶことができます。しかし、教師の好みに迎合するだけでは、本当の意味で自分の作品を作ることはできません。学ぶべきなのは、 教師の好みではなく、考え方でしょう。

    金間大介教授は同じく自著『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』の中で、次のように率直に述べています。
    若者が変化を好まず、挑戦を避け、守り一辺倒の内向き思考となっているのは、若者が育ってきた日本社会がそうだからだ。挑戦や変化が成長につながらず、チャレンジしても得られるものがないと若者が思っているのは、大人がそう見せっけてきたからだ。自分が出来もしないし、やりもしないことを、若者に押し付けるなんて搾取以外の何物でもない

    夢や理想を形にするデザインの話は、ともすると独善的になることがあります。正論を語るのは簡単で、 しかもとても気分の良いものです。しかし、 教師の言動に行動が伴っていないなら、 学生はすぐに欺瞞を見抜きます。

    創造の基本は、 人が無自覚に受け入れてしまっている常識や先入観を再検討することです。自覚的に行うことで、これまでになかった新しい価値が生み出され、文化はさらに豊かになってきました。
    しかし、 同時に、 古き良き価値観が、 合理的な説明がないというだけで否定され、 長い年月をかけて築かれてきた伝統が崩れてしまうこともあります。
    つまり、 本当の価値を生み出すには、 健全な価値観を持っていなければなりません。人にはもともと倫理観が備わっているように思いますが、特に創造的な活動に携わる人たちは、 徳や愛情といった人間性を培う必要があるでしょう。学生たちは、 制作を通して、「自分は何を価値と考えるのか」という問いと真剣に向き合う必要があります。
    スパイダーマンも言っているように、「大いなる力には、大きな責任が伴う」のです。

    喉の乾かない馬がいないように、好奇心がない人はいません。つまり、 学生のやる気のなさには、何らかの原因があるはずです。ここでは、次の五つの要因について考えてみましょう。
    ・学習性無力感(固定思考)
    ・分からない授業
    ・創造を阻む四つの恐れ
    ・忙しすぎる日々
    ・交換条件つきの報酬

    トム・ケリーとディヴィッド, ケリーは、『創造性を取り戻す四つの方法』の中で、創造性を阻む以下の四つの恐れについて説明しています。
    ・やっかいな未知なるものへの恐れ
    ・評価されることへの恐れ
    ・第一歩を踏み出すことへの恐れ
    ・制御できなくなることへの恐れ

    小さな成功を積み重ねていく「案内付きの習得」こそ、固定思考を乗り越え、成長思考を變导するための最善の方法でしょう。段階的な訓練によってできることを増やすのも成長ですが、 段階的な訓練によってできない理由、つまり創造性を阻む恐れを取り除いていくことも、 また成長です。

    交換条件つきの報酬は人の自律性を奪うことがあります。それは「やりたいからやる」という自発的な動機を「やらされている」という意識に変え、人の意欲を減退させます。特に個人の思いや意思が大切な創造的な活動においては、致命的になることがあるでしょう。ダニエル・ピンクは、「絵画にしろ彫刻にしろ、外的な報酬ではなく活動そのものに喜びを追い求めた芸術家のほうが、社会的に認められる芸術を生み出してきた」と述べています。

    僕の卒業制作を担当してくれたキャレン・ゴールドバーグ先生は、 最初の授業で緊張している学生全員に向かって「卒業制作は大変です。正直、 彼氏や彼女と付き合っている暇はありません。それで、もし付き合っている彼氏や彼女がいるなら、 今すぐ別れなさい」と真顔で言い放ちました。そして確かに、 その卒業制作は誰かとデートしている余裕などまったくないほど大変でした。

    矢沢永吉は、 大観衆の前に立つ恐ろしさを、 むしろ「楽しめ」と自分に言いきかせて、大きな舞台に立つそうです。それが、 最高のパフォーマンスを生み出し、 大観衆を感動させます。そもそもステ—ジで歌っている永ちゃんがつまらなそうにしていたら、 お客さんだって楽しめません。

    第4章 リサーチ・アナリシス・フロセス

    米国におけるデザイン教育の第一人者であるエレン・ラプトンは、自著『問題解決ができる、デザインの発想法』の中で、次のように述べています。
    ほとんどすべての人は、創造力を伸ばす方法を習得できます。才能は神秘的かもしれませんが、創造的なプロセスは、 予測可能な道順に沿う傾向があります。そのプロセスをステップに分け、そこに意識的に思考や制作の方法論を当てはめることで、デザイナーは発想を広げ、ユーザーやクライアント、そして自分自身を満足させる生き生きとした解決策を創造することができるのです。

    物理の難題を解くことが魔法ではないのと同じように、 創造的な課題解決も決して魔法ではありません。物理に法則があるのと同じように、創造のプロセスにも型があります。その型を理解することは、素晴らしいデザインを生み出すための基盤となります。

    IDEOのティム・ブラウンは、 この発散と収束を補足する言葉として、「分析(アナリシス)と統合(シンセシス)」という言葉を使っています。発散と収束という表現は、 本質的な概念をよく言い表していますが、 分析と統合という表現はもう少し具体的で、 デザインやビジネスの文脈でも一般的に使われています。

    分析というのは、 簡単に言うと「分ける」という意味です。「析」という漢字にも、「ばらばらに切り離す」という意味があるそうですが、 分析というのは基本的に要素分解を指しています。
    分析を通して分かったものを、統合することで新しい意味や価値が生み出されます。バラバラにした要素を、 組み直したり、 組み替えたり、ある場合には新しい要素を組み入れたりすることで、新しいモノやコトが生み出されます。つまり統合は、分析で広がった可能性を絞り込んでいく、収束のフェーズと言えるでしょう。

    「発散と収束(分析と統合)」のパターンを発展させたプロセスとして、英国のデザイン評議会が提唱する「ダブル・ダイヤモンド・プロセス」があります。これは2005年に開発されたモデルで、 発見、定義、開発、提供の四つのフェーズで構成されています。

    「発見」は、解決すべき課題を発見するフェーズです。これは基本的に、調査と分析のフェーズで、可能性が広がる発散的な段階です。
    次の「定義」のフェーズは、発見のフェーズで広がった可能性を絞りこんでいく収束的な段階です。このフェーズでは、分析結果を統合し、課題を定義します。
    「開発」のフェーズでは、プロトタイプをたくさん作り、さまざまな可能性を検討します。これは、可能性が広がる発散のフェーズですが、形をたくさん作ることで理解が深まりますから、 分析のフェーズとも捉えることができるでしょう。
    そして「提供」のフェーズでは、 プロトタイプを検証し、 最終的な形へと収束させていきます。これは統合のフェーズになります。つまり、ダブル・ダイヤモンド・プロセスでは、 名前の通り、 創造の最も基本的なパターンである発散と収束、もしくは分析と統合が2回(ダブル)繰り返されます。

    ルイ・パスツールの名言に「観測の分野では、 偶然は準備の整つた思いにのみ微笑む」という言葉がありますが、学生たちは、創造的なプロセスの型を学ぶ中で、どのように偶然の発見やひらめきを創作に取り入れること力できるかを学んで いきます

    「少し分からなくなったときに、もっと分かっている」というのか造形を通したアンラーニングということです。

    世の中には、実際に自分でやってみなければ分からないことが、たくさんあるものです。学生たちは自分の五感すべてを通して、言葉では説明できないコツやニュアンスを理解し、スキルを習得していきます。これは「ラーニング バイ ドゥーイング(行動学習)」と呼ばれるアプローチで、一次調査と捉えることができるでしょう。自分の実体験を通して対象を深く理解するというリサーチは、より意味のあるデザインを生み出していく上で、非常に大切です。

    以下は、同僚のガイア・スガグネッティ准教授とシンイー・リ—助教授がフィ—ドバックの種類についての研究をまとめたものに、 僕の意見を含めたものです。
    1.意見を表明する、 批判的すぎるフィードバック
    2.デザインの選択に関する、 指示的なフィ—ドバック
    3.デザインの意味についての、 解釈的なフィードバツク
    4.制作のプロセスや意図を理解するための、探索的なフィードバツク
    5.デザインのアプローチに対する、 提案的なフィードバツク
    6.実例を示すために与えられる、連想的なフィードバツク
    7.デザインの価値観に対する、倫理的なフィ—ドバック
    8.発散や収束のための、生成的なフィードバツク
    9.デザインを特定の文脈に位置づける、比較するフィードバツク
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    投稿日:2023.08.25

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