【感想】日米貿易を切り拓いた男 森村豊の知られざる生涯

森村悦子 / 東洋経済新報社
(1件のレビュー)

総合評価:

平均 0.0
0
0
0
0
0

ブクログレビュー

"powered by"

  • chagale

    chagale

    「日米貿易を切り拓いた男」という本を読み終えた。図書館の書架で、気張った書名だこと、と手に取った。副題に「森村豊の知られざる生涯」。堅苦しい経済ものでもなさそう。どうやら「森村財閥」形成のなかで、功労のあった人についての話のようだ。著者が森村悦子、とあって副題に揚げられた「森村豊」のひ孫であることが分かり、繙いてみた。
    「森村財閥」といい、現在の「森村グループ」のルーツにあたる森村組(現・森村商事)は、明治時代に日米貿易を牽引し、その発展については、これまで兄、五代目市左衛門を中心に語られてきた。 <しかし、弟の森村豊の功績なくして実現できなかったことはあまり知られていないだろう。豊の曾孫にあたる森村悦子が、兄の陰に隠れて目立たなかった豊に焦点を当て、森村組の勃興を描く> と書籍の惹句。
    品川駅から第一京浜を越えて西側の柘榴坂を登った正面にある「森村学園」は、市左衛門が「独立自営」をモットーに、自宅の一角に開いた学校だという。私自身の小学校時代の通学路にあり、なじみがあった。
    著者の森村悦子は、聖心女子大学を卒業後、文部省司書資格を得て、渡仏。パリ・アメリカン大学図書館、パリ大学都市日本館図書室、国立科学技術研究所図書館、国立東洋言語文化研究所図書館等で勤務。最大3万冊を収蔵するパリ日本文化会館の日本学研究図書館立ち上げの総責任者を務め、97年の完成後、10年間にわたり首席司書を務めた、という経歴。それだけに、曾祖父・豊の在米中の仕込み帳の分析から、関係者の日記など、一次資料を細かに検証した研究書としても読め、兄と弟の信頼が家業の発展を作っていった過程がよく分かる。
    しかし、読んで一番面白かったのは、アメリカでの活躍ぶりもさることながら、豊がアメリカへと出かけるに至った話だった。話は明治のご一新の前に遡る。もともと遠州森から江戸へ出て馬具を扱う商人だった。その四代目市左衛門が、豪放磊落な性格で具足櫃などを納入していた土佐藩の江戸留守居役の昵懇になった辺りから、その後の発展の地歩が養われる。その実績を受け継いだ六代目が豊の異母兄。ちょうど横浜開港の時機だった。六代目を襲名する市太郎中心に話は進む。家業の馬具・袋もののほかに横浜へ出て、「唐物類」という舶来雑貨の知識を得る。そこで古服、古靴から書籍、シャボンなどなどの日用品を買い入れては、江戸で売り歩くようになる。好奇心と研究心で自分で写真機を作り、現像液を調合して、写真撮影を試みているという。また維新前後の混乱期の土佐藩の若手藩士らとの友好を深め、金に窮していた自由民権思想の担い手たちに金を貸すほどになっている。そうこうしているうちに、横浜の唐物を土佐藩だけでなく、中津藩などにも売りさばくようになり、ゆくゆくは外国貿易をやってみたい、と思うようになる。そんな折り、市太郎の背中を強く押したのが福沢諭吉との出逢いと心酔だったという。外国貿易をするには、語学と教養が必要だ、として自身にその時間的余裕もない、と弟の豊にそれを託し、福沢の慶応義塾へ入学させる。その際の福沢と市太郎のやりとりが面白い。
    <市太郎は「弟を塾に入れますが、どうぞ商人になるよう、御仕込みを願います」と申し出た。福沢は非常に喜び、「貴下は珍しい考えを持っておられる。今時の若い者は、皆、政治家になると言って勉強しているのに、貴下は弟君を商人に仕立てて外国貿易の戦士にするといわれるのは、どうも面白い考えだ。私はかねてから、将来国を富ますには貿易にかぎると信じている。その貿易商人にするとは、まことに立派なお考えだ。よろしい、骨を折ってみましょう」と言って引き受けてくれた>。豊、15歳。
    その間、市太郎は多くの商売と経験をする。幕府のアメリカへの使節団の持っていく土産物の調達から、着ていく陣羽織、さらに一番大事な路銀の調達。<徳川家の金庫から千両箱を30個出してもらい、……横浜のアメ一(亜米一番館)という外国人商会で合わせて3万両をメキシコ銀と交換する。相場がいくらか知らなかったので、向こうから渡されただけを受け取って持ち帰った>。当時の両替相場の基準が、日本と西洋では比価が5割以上も違っていて、外国商人は開港以来、どっと押し寄せて膨大な小判が海外に割安に流出していたころを知る。また幕府の洋式陸軍の訓練場のために西洋鞍の製造や、戊辰戦争では新政府軍の銃弾薬や軍需品の調達にも手を貸している。時代が流れ洋装の縫製で大礼服なども仕立てる「モリムラ・テーラー」を開き、「日本における洋服縫製店の嚆矢」といわれているのだそうだ。
    話は豊に戻る。「慶応義塾入社帳」の森村豊の頁に「……年齢18歳、入社日、未歳8月3日、保証人小幡甚三郎」と残り、明治4年の入塾者373人で、ほとんどが士族、そのうち町人は7人しか,いなかったという。月謝は当時4円、現在の8万円くらいで、市太郎はこの金額を毎月捻出するのに苦労したが、豊の勉強ぶりを見て、大いに喜んだ、とも。
    豊の渡米の機会を作ったのは、佐藤百太郎という青年だった。14歳で渡米、ニューヨークのポリテクニック・ユニヴァーシティで学び、マンハッタンに自分の会社を設立し、準備のために一時帰国していた。彼が豊を自分の会社で実習させようとする。市太郎も豊を渡米させることにし、この際、兄弟で資本金3000円の森村組を設立する。
    渡米した豊は、イーストマン・ビジネスカレッジに3カ月通った。理論だけでなく模擬実践を学んだ。例えば<生徒は小切手を持ち、利子の計算や、株や証券の売買などを行う。これにパスすれば、最後のセクションの上級ビジネスコースに進むことができ、学生は自分が行いたい取り引きに自由にその資金を投入できる。この学校で使用される模擬紙幣は本物に近く、模擬郵便局では模擬切手を売っており、船荷証券などに使う模擬の収入印紙も販売していた>といった案配。ここを卒業すると、すぐに在米の日本人若者と雑貨商を開業する。豊は、市太郎が送ってきた雑貨類をクリスマスのプレゼント用に販売するのが手始め。アメリカ人がどのような品物を欲しがるか、を的確に察知するために社交にも励み、豊が市太郎に送って欲しい品物を注文するようになって、商売を広げていく。その中でも次第に骨董品や古物から陶器へと移っていく。
    著者の綿密な検証で、いかに豊が身を粉にして働いたか、貿易のインフラの整わないなかで、その整備にも尽力しながら、実績と信頼をかち得ていったかが跡付けられている。端折っていえば、アメリカでの売り物に陶器、しかも日本の在来の焼き物から透明度のある西洋食器としての陶器の製造・卸しへと発展させ、世界最大級のセラミックス企業集団の中核としてのノリタケの誕生・発展へとつながっていく。日本側にいた市太郎の奔走もあったのことだった。さらに販路を広げるに当たっては、大口の顧客にインポート・オーダーという約売注文の方法をとったり、カタログ販売を自前の販売員の周回で、顧客のニーズ情報の収集など、先進的な方法を編み出したりした。そして念願の森村銀行も設立した。
    豊は病を得て1899年(明治32年)帰国、胃がんの手術を受けたが7月30日に亡くなった。享年45。日本では、その死はほとんど報道されなかったが、アメリカでは8月2日にはニューヨーク・タイムズが朝刊で「日本の陶器販売のパイオニア森村豊氏が東京で亡くなった」として、彼の生涯から事業展開までを長行の記事として掲載。またトリビューン紙も経済欄に豊の写真と死亡記事を載せたという。
    確かに「森村豊の知られざる生涯」を跡付けた書であった。
    続きを読む

    投稿日:2022.06.09

クーポンコード登録

登録

Reader Storeをご利用のお客様へ

ご利用ありがとうございます!

エラー(エラーコード: )

本棚に以下の作品が追加されました

追加された作品は本棚から読むことが出来ます

本棚を開くには、画面右上にある「本棚」ボタンをクリック

スマートフォンの場合

パソコンの場合

このレビューを不適切なレビューとして報告します。よろしいですか?

ご協力ありがとうございました
参考にさせていただきます。

レビューを削除してもよろしいですか?
削除すると元に戻すことはできません。