【感想】舞踏会

佐川恭一 / ボイジャー
(3件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • kanetaya

    kanetaya

    現代に現れた太宰治。

    拗らせた自意識。
    出口のない煩悶。
    人に言えぬ苦しみ。

    今どき流行らない、かと言って、いつかの時代ならポピュラーであったということもない、ひた隠しに隠したい思いを、思うさまぶちまける。

    素晴らしい。

    「この舞踏会から逃げ出すことはできない。出口はない。ダンスの優れた者だけが評価され、評価された者が次の世代を評価する。評価されなかった者に存在価値はない。価値はなくともダンスはやめられない。誰も認めることのないダンスを倒れるまで踊らなければならない。あなたは倒れる。向いてもいないダンスを嘲笑われ、馬鹿にされ、いいことなど一つもなかった舞踏会場の端で、血と汗にまみれて倒れこみながら、あなたはこう言うのだ。「それでも、あいつよりはましだった」そうして誰も見ていない片隅の小競り合いで、やっとささやかな勝利を一つ上げて死んでいく。これはもっとも醜い形式の死だ。」
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    投稿日:2023.02.16

  • ストレンジャー

    ストレンジャー

    どれだけ、ネガティブな感情を吐き出しても辟易しないのが不思議です。
    これは根っこの部分での作者への信用の成せる技でしょう。可愛い女性からの承認はこの世界を生き抜く為の最強の鎧であるのですね笑 

    投稿日:2022.11.06

  • だまし売りNo

    だまし売りNo

    佐川恭一『舞踏会』(書肆侃侃房、2021年)は短編小説集。「愛の様式」は独白で成り立つ作品。マシンガンのように独白が続く。独白から構成される小説と言えば思索に沈んで物語が進まないパターンを連想するが、そうではない。視点人物は話し下手とされるが、独白ではお喋りである。話好きの女性というイメージを抱く。声に出すことは鈍いが、頭の中の言語活動はフルスピードなのだろうか。
    他の人との会話内容も語られるが、これも同じ調子でマシンガンのように繰り出される。コミュ症にしても話好きにしても他人の話には興味がないタイプというものがいるが、視点人物は異なる。他人をよく観察している。面白い台詞に「ぼくは絶対にマンション買わないです、何言われても絶対マンションだけは拒否します」がある(22頁)。家計版の持たざる経営の実践となるだろう。
    「冷たい丘」は自我の強い少年の私小説と思っていたが、ホラーになった。私小説は私小説であるが、意外な展開になった。
    表題作「舞踏会」の舞踏会は比喩である。競争社会で競争し続けなければならないということを踊り続けなければならない舞踏会にたとえた。ダンスパーティーの話ではない。表紙の絵は19世紀風の舞踏会であり、ミスリーディングさせる。一見すると華やかであるが、裏では足の引っ張り合いがある醜いものの比喩になるだろう。しかし、今や忘年会スルーやアルハラという言葉が生まれて宴会が最初から面倒臭いものになっている。もはや「一見すると華やか」というプラスイメージも持ちえないかもしれない。
    昭和世代のステレオタイプな社会評論では、この種の競争社会を資本主義批判に結び付けたがる傾向がある。新自由主義・市場原理主義・米国流資本主義などを批判する。しかし、むしろ明治以来の立身出世主義の結果である。他人を蹴落として点数稼ぎする。これは資本主義の問題ではない。その意味で「舞踏会」が視点人物を公務員に設定したことは秀逸である。
    視点人物は職場のブラックな実態を色々と語るが、その仕事に消費者に価値を提供するという発想が見られない。米国流の資本主義にはCustomer Successの発想がある。視点人物も含めて公務員の民間感覚欠如が深刻である。
    踊り続けなければならない競争社会の弊害として薬物乱用(薬物依存、薬物使用障害)がある。依存性薬物を使って乗り切ろうとする。芸能人の薬物事件に対してドーピングと同じという批判があるが、まさに依存性薬物利用はドーピングになる。「薬で強くなった自分は自分ではない」(152頁)は、薬物乱用禁止に通じるメッセージである。
    印象的な表現に以下がある。「薬を化粧箱の奥にでも突っ込んで、大量に服用しながら日々を必死に「普通」に過ごしている。ぼくにはそれがわかる。狂人の瞳の奥に滲む恐怖と諦めの色が、そして薬物中毒者に特有の曖昧な視線が、修正の施された写真ごしにもはっきりとわかる」(164頁)
    私の子どもの頃には「覚せい剤やめますか。それとも人間やめますか」というコマーシャルが流れていた。それ故に薬物乱用には問答無用で常軌を逸したものという感覚がある。ところが、中には「普通」を演じるために薬物に依存する気持ち悪い人々もいる。そのような人々の気持ち悪さと、それが本当の意味で普通でないことが分かる文章である。
    「友情(浜大津アーカスにて)」は不良論が正論である。「本当に善い人間というのは、ワルかった時期を持たない人間です。そうに決まってるじゃないですか。不良なんていうのは、自分の欲望に負けて人を傷つけ、それで平気でいられる人間がなるものです」(232頁)
    物語を書く上では、悪かった人間が良くなるという展開は飛びつきやすいものである。しかし、それは物語の起伏を作る安直な手法であり、人間の真実味を描けない。昨今は漫画でも安易な「昨日の敵は今日の友」展開は流行らなくなった。「友情(浜大津アーカスにて)」で作家に不良批判をさせることは味がある。
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    投稿日:2021.06.12

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