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寺山修司 / 興陽館 (1件のレビュー)
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moe
このレビューはネタバレを含みます
群れるな 寺山修司 人は弱いから群れるのではない 群れるから弱くなるのだ 幸福とは幸福を探すこと 捨てる 私は何でも「捨てる」のが好きである。 少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車 に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。 旅するのは、いわば風景を「捨てる」ことだと思うことがある。 「書を捨てよ、町へ出よう』 どんな片隅からでも吠えろ どんな片隅で生まれても、スポイルされそうになったら噛みつく勇気を持つことが必要だと思うがどんなものだろうか ? そういえば「理屈では、その通りだが」とキミたちは思うだろう。「しかし、現状ではそう簡単 にはいかない」ところがある。キミたちは、支配や階級、そして能力や財産のなかにおいて「雑種」であることを恥じて、いつのまにかコンプレック スという病気に羅る。すぎたる コンプレックスというのはいわば「自殺の思想」である。生きながら自殺 してしまっている青年のむごたらしさな見るのはなんという味気ないことだろう。(中略) 犬のごとく吠えろ。キミもまた雑種ならば。 「ぼくは話しかける」 自分自身を独創的に作れ わたしは少年時代から家出にあこがれていました。そして、いまでも空気にひぐらしの声が開きかわすのを聞くたびに、「遠きみやこ」をあこがれて血を湧問かしていた「自分の時代」に帰ってゆく おも いがします。 地方の若者たちはす べて家出すべきです。 そして、 自分自身を独創的時に「作りあげてゆく」 ことに賭けてみなければいけない。帰ろうと おもえばいつだって帰ることはできるのですから......。 「家出のすすめ』 ジャズと自由は手をつないで行く Jazz and Freedom go hand in hand. (ジャズと自由は手を見つないで行く) わたしは、この言葉 が好きです。 「人間は血のつまった袋である」 ぼくは、たびたび「人間は血の場つまった袋である」という言葉を引用してきた。この言葉は、行きずりの旅行者のようにぼくな訪れて、いつのまにかばと親しくなってしまったのだ。だが、今日、サン · ミシェルのクスクスというアラブ料理を食わせてくれる問酒場で、 隣あわせた老人 が、この言葉の由来を教えてくれた。老人によると、この言葉は小説家 のカフカが、恋人のミレナへあてだ野前の中に書いたものだそうだ。 「もともとは、中世の詞歌集にあった詩句でね」と老人は言った。人間は旅と骨のつまった袋であり、神はその袋から、血を流して空気を入れとなっているんだよ」 「空気を入れる、というのはとういうことですか ?」 と、ぼくはきいた。 「面白いねえ。空気を入れて、袋をふくらますも即物的 でいい感じだよ」と老人は言葉った。もう、大部、酔いがまわっているらしく、目が鋭く光り、顔中に迷路のよう 題 に敏がきざみこまれている。 「実際 は、この空気 、つまり、見えない気体と書いうのは、魂とか心とかいった概念だったんじゃないか、と思うんだ がね」 童語は二度よみがえる すぐれた「童謡」というものは、長い人生に二度あらわれる。 一度目は子供時代の歌として、二度目は大人気になってからの歌としてである。 「女の子が土手の上記で「お手手つないで」を唄っているのを見ても、さしたる感奥は湧かな無い。 それは、ただの子供の情景である。 「だが、人生にくたびれたキャバレーの中年ダンサーたちが、ホームで電車を待ちながら、同じ唄をうた時っているのを見ると、心にれみるものがある。彼女らが唄っているのは、唄ではなくて、「彼女らの子供時代」そのものだ。 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うら点れて異土の乞食とな ると ても問 帰るところにあるまじや間 生きる と書いた詩の「ふるさと」というところに「子供時代」という四字をあてはめ話 てみるとよくわかる。子供時代は、遠きにありて唄うもの であっても、帰るところなとではない。ひとは、子供時代を唄うことによって、みずからの現在地をたしかめる。時 「童謡」は、大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。 『日本童謡詩集』 ふりむくな、ふりむくな、 うしろには夢がない ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない ハイセイコーがいなくなっても すべてのレースが終わるわけじゃない場 個人生という名の競馬場には 次のレースをまちかまえている百万頭の一 名もないハイセイコーの群れが 朝焼けの中で 思い切ることにしよう ハイセイ コーはただ数枚の馬券 にすぎな かっ 場 ハイセイコーはただ一レースの思強い出にすぎな かった ハイセイコーはただ三年間の連続 ドラーマーにすぎなかった ハイセイコーはむなしかったある日々の代償にすぎなかったのだと 持たずに持つこと わたしはいったい何を持っているだろうか!と考えることがありす。 とえばわたしはチャーリー· ミンがスやマル·フルドロンのモダン·ジャズの レコード。あまりスポーティではない何枚かのシャッやセーター。 都心の安アパー1トや古いボクシング雑誌、まわらなくなった期芽挽き機械を一 持っています。なかなか標準語化しない青森靴りも持別っているし、病屋も、ア ダムスやスタインベルグの漫画本も持別っています。 だが「持っている」といっても、いつも手に持続っているわけではない、 おもうときに、おもうように自由にできるから、「わたしのもの」だという ふうに考えている、という程度のことなのです。だが、おなじような意味でなら、わたしは広い空全体も持っているし、東京の街ももっているということもできる。 つまり 「おもうときに使用しても、文句をいわれない」という意味でなら、 わたもの所有の範囲はぐんと広まるのであって、 とくに「「わたしのもの」と主張しなくとも、わたしはさきにあげた以外の数え切れな い多くのものを 「持って」おり、言葉をかえていえば、かなりの財産家 である、というこ ともできるのです。 「家出のすすめ」 明日死ぬとしたら、今日何をするか ? 死をかかえこまない生に、どんな真剣 さがあるだろう。明日死ぬとしたら、今日何をするか?その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない。
投稿日:2019.11.29
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