【感想】信長の経済戦略 国盗りも天下統一もカネ次第

大村大次郎 / 秀和システム
(3件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • nagasakafujio

    nagasakafujio

    信長 さすがですね。

    現実を 疑い 改革を 実行する。

    武田信玄 上杉謙信 毛利元就 などと 比べて
     
    なぜ 信長が 出来たのか。

    とても 興味深く 読めました。

    キリンがくる も 楽しみたいです。続きを読む

    投稿日:2020.02.28

  • やすだ ひでさと

    やすだ ひでさと

    このレビューはネタバレを含みます

     初めから終わりまで一気に読める面白さだった。
     信長の主要な政策である、楽市楽座、升の統一、関所廃止、石高制採用などを、今までの初歩的な理由だけでなく経済学的視点から見て他の理由もあることが理解できた。
     また、全ての説の根拠において、推測だけではなくその後の時代の公文書などを参考にしていて、説得力、信頼性もあるなと感じた。
     信長はただ単に武力で推し進めた人だという認識があったが、商家生まれということで経済的視点を持って政策を実施していたり、意外と農民のことを考える頭脳派の側面も兼ね備えていることが理解できた。
     面白かったので、他の大村大次郎さんの書籍も読んでみたいと思った。また、日本史から現代経済、外交に応用できる部分は多いと再認識したので、日本史を趣味程度に再開していきたいなと思える本でした。


    以下、本ポイントまとめ

    兵農分離といえば秀吉だが、信長も行っている
    兵農分離はただ単に農民からの抵抗を防ぐためだけでなく、農民には農民として食料を確保してもらうように集中させるためだけでなく、「お金を払って兵になってもらう」ための準備
    →兵を「農地から離してもよい」ようにする政策

    信長は、津島だけでなく、副将軍を断って手に入れた堺、大津、草津などの主要港を手に入れ、所領は少ないものの、兵農分離で手に入れた兵を養えるだけの経済力を十分に持っていた

    毛利元就は、石見銀山を所有するなど信長と匹敵する経済力を持っていたが、その経済力を生かす立地もなく、その上、頼みの綱の石見銀山を幕府に献上する形を取るなど、室町幕府内での栄達を望んだために信長に負けた

    また、武田信玄は、織田によって畿内からの陸路の物資を止められていたので鉄砲など強力武器を入手しにくかった上に、幕府の栄達を望み、天下を取るよりは領地を拡大することに神経を注いでいた

    また、謙信は、柏崎と直江津という港を持っていて、金山を所有するなど信長顔負けの経済力、そして信玄と対抗できるほどの武力を兼ね備えていたが、関東管領の役職を遠国に関わらず欲したところから見て、旧来幕府内での栄達を望み、天下を取る気はなかった

    キリシタン大名になってまで大名がキリスト教を領地に普及することを認めたのは、南蛮貿易をするためには「キリスト教を布教できるようにすること」が条件であったから

    兵農分離が進んでいれば、兵が農地にしがみ付く必要性がなくなるので、城を京都に近づけていくにつれて兵も一緒に移動させることが可能になり、常備軍を常に近くに置くことも可能になり、簡単に攻め落とされることがなくなった

    戦国時代といえば「下克上」が語られることが多いが、有名大名のほとんどは出身がそれなりの家柄で、「下克上」と言えるのは豊臣秀吉と斎藤道三くらいである

    桶狭間の前にも一回、信長は義元に勝利している。
    ちなみに、桶狭間で信長が義元を打ち破れたのは、秀吉の「中国大返し」よりも長い距離を急いで織田軍がかけてきたため、絶対安全地帯にいた義元がそれに気づく暇もなかったから

    信長が天下品を欲しがったこともあるだろうが、1番の理由は、自分が天下品を買い求めることで、自身の所有する金銀で会計を行い、それらを市場に流通させるため

    比叡山は当時の8代財閥のうちでも最大の財閥で、しかも自社だから「バチが当たる」という理由で取り立てる悪徳業者だった。
    また、自社は独占販売などを行い、それが信長の奨励する楽市楽座原則に反してもいるため、焼討ちを行った

    今から攻める困難な場所に主要な家臣を国替えさせた

    秀吉が家康に負けた根本の理由は、秀吉が家康に東海から関東に国替えを命じた際、自身の所領220万石より多い250万石を与えてしまい、結果として自身所有の軍よりも多い軍を与える結果となってしまったこと。

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    投稿日:2019.10.23

  • yasz

    yasz

    歴史が好きで昔から小説も解説本も読んできましたが、いつも疑問に思っていたのは「なぜ信長以外の大名は鉄砲をもっと活用しなかったのだろう」というものでした。この本を読んでやっと私なりに解答が見いだせた気持ちになりました。

    要するに、信長以外は「経済力=お金」が無かったので、兵農分離をさせて給料を払う常備軍を持つことも、鉄砲を大量に購入することもできなかったのですね。勿論、信長は物流・港の重要性理解していて、弾薬の材料を輸入できる港を押さえていたのも凄いのですが。

    さらに、現在の感覚で当時のことを見るべきでないポイントとして、寺社があります。なぜ、信長が比叡山焼き討ちをしなければなかったのか、当時の状況を理解していないといけないと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・応仁の乱が起こった経済的な要因は、室町幕府の財政基盤の脆弱さだといえる。歴代政権において、ずば抜けて経済基盤が弱かった(p4)

    ・桶狭間で信長が勝利した最大の要因は、信長軍の驚異的な機動力である、秀吉の中国大返し以上の超強行軍である(p22)

    ・信長公記が書かれていた時代には、親衛隊や直属部隊のことを表現する名詞が無かったので、信長に仕えていた者を全部ひっくるめて「小姓衆」と記したと考えられる(p26)

    ・兵農分離が進んでいないと、兵は農地から離れることができず、居城を頻繁に替えることはできない。最初に居城を映したのは、桶狭間の戦いの5年前くらいなので、その時には兵農分離は進んでいたことになる(p29)

    ・津島は、尾張と伊勢を結ぶ地点にあり、西日本と東日本の中間、木曽川の支流・大川と天王川の合流点、尾張や美濃の玄関口でもあった、また津島社の門前町でもあった、ここの関税収入は、4万貫(30万石の大名収入)以上であっただろう(p31)

    ・領土よりも重要な港(堺:軍需拠点でもあった、大津:京都から琵琶湖への玄関口、草津:京都から北陸へ行くときの通過点)を押さえた。(p35)

    ・戦国時代後期の物価では、1貫文=米2石、日明貿易との1回の収入:2万貫は、コメ価格で4万石、年貢率を4割とすると10万石の大名の収入となる(p37)

    ・ポルトガルは和光鎮圧に貢献し、1513年に明と通商条約を結ぶと、1557年にはその報償として、明からマカオを割譲された。そしてマカオを拠点として東南アジア貿易を行った(p50)

    ・信長は城にはじめて多くの機能(大名の住居、行政府、前線基地、要塞、城下町の中心)を持たせた、彼は明確に天下の制圧を目指していたので、前線基地としての城を替えた(p61、63)

    ・信長以前、日本の都市は、官庁と商業地は必ずしも一体ではない、都市は、城や政庁を中心にして発展したもの(京都、大宰府、山口など)と、交通の便のいい要衡地に自然発生したもの(堺、博多など)がある。大名の居城は交通の要衡地から少し離れたところに置くのがふつうであった(p76)

    ・素性の分からない草奔(そうもう)の士が有力な戦国大名にまで上り詰めたのは、秀吉と斎藤道三くらい、ほとんどが室町幕府のシステムの中で身分の高い者であった(p99)

    ・今川と北条が手を組んで、相模・駿河・伊豆から、武田領への塩荷の輸送を禁止したことがある、海のない甲斐地方は陸上輸送しかなかった、この時、謙信が武田方に塩を送ったのが「敵に塩を送る」の故事である。これは創作で、謙信が武田領への塩の輸送を黙認していたことはあったらしい(p114)

    ・北条早雲は、浪人ではなく、室町時代の政所まで務めた伊勢氏の支流であることが判明、早雲の父・伊勢盛定は室町幕府の「申次衆」という重要な役についていた、伊豆の堀越公方である、足利茶々丸を追放して戦国大名にのしあがった(p131)

    ・金や銀は、今でいえばダイヤモンドや真珠のようなもので、価値は高いが、それ自体は通貨として使えなかった。これを使えるようにしたのが信長。そして、物を図る単位「桝」を統一した(p136)

    ・1570年頃からは、銭の不足から米を貨幣の代わりに使うケースが増えてきた、信長は、1569(永禄12)年に、京都・大阪・奈良の近畿地区で、通貨に関する重要発令(交換比率含む、金10両=銅銭15貫、銀10両=銅銭2貫=米1石=米150キロ)を行った、これにより金銀の貨幣としての使用は、日本全国の物流を大いに促進した(p139,146,150)

    ・通貨が流通するための2大条件は、1)その通貨が十分に供給される、2)価値の裏付けがある、信玄は金貨を鋳造したが、そのれを流通に乗せる経路を持っていなかった(p154)

    ・分散した年貢徴収システムを一括することが、戦国大名にとっての大命題であったが多くの大名はできなかった。信玄は、寺社や国人などの徴税権をそのままにしておいたので、自身の取り分が少なくなり、農民に過酷な税を課すことになった(p160)

    ・信長は銅銭不足のために金銀を中心とした貨幣制度を整えたが、それが各地の農民にまで普及するには時間がかかったので、年貢を銅銭で決める「貫高制」から、コメで納める「石高制」に転換した(p165)

    ・日吉大社とは、古事記にも記述がある通り、由緒ある比叡山の神社である。延暦寺が比叡山に建立されたとき、日吉大社を守護神としたため、延暦寺と一体となって興隆を極めた(p180)

    ・室町時代、比叡山延暦寺は近江守護の六角氏をしのぐのどの勢力を持った、室町幕府は14世紀末くらいから、有力な僧に「使節」という職名を与えて、官職として取り立てた。使節は、実質的に守護大名であった(p186)

    ・信長が比叡山延暦寺の焼き討ちをする140年前に、足利義教は、琵琶湖・西近江路を封鎖して、坂本の町を焼き払った(p187)

    ・信長が家臣に与えていた所領とは、「与えていた」のではなく「貸していた」に過ぎない、そのため信長の命令一つで所領内のものを動かせた、管理を任せたに過ぎない(p208,211)

    ・信長の行っていた大名の国替えを見ると、平安時代までの朝廷の「国司」と同様の制度である、現代風にいうならば文民統制である(p214,220)

    2019年10月14日作成
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    投稿日:2019.10.14

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