【感想】哲学と宗教全史

出口治明 / ダイヤモンド社
(146件のレビュー)

総合評価:

平均 4.3
64
55
18
2
0

ブクログレビュー

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  • ami

    ami

    思った以上にあっさりとした内容だった。もう少し知りたい、という手前で参考文献の紹介になる。ある意味上手い構成なのかな。もっと勉強したいな、と思わせてくれた。

    投稿日:2024.03.24

  • sakufuu

    sakufuu

    時代を追って世界の宗教、哲学を分かりやすく解説する。平易な言葉と、多くのたとえを使った文章は相当に解りやすい。また語り口も上手く、専門用語を大胆且つ適切に変換する能力は素晴らしい。著者が保険業のビジネスマンであることが、このあたりの能力を授けたのかもしれない。
    ただ、イスラム教が大変ご贔屓のようで、説明がやや片寄っている。「女性差別は無い。むしろ世界史的には最も早く女性の地位を向上させた。日本にとって羨ましい社会」「ジハードとは寛容と慈悲のこと」「ISはイスラム教の教義と何も関係無い」など。マッカ(メッカのこと)、アッラーフ(アラーのこと)、ジブリール(大天使ガブリエルのこと)、イスラーム教、などイスラムの言葉の発音にも妙にこだわる。確かに重要ではあるが、ギリシャやキリスト教や仏教や中国の事柄については、それを適用しないのはダブルスタンダードっぽい。

    レヴィ=ストロースは、都会で優雅に暮しながら哲学をするサルトルの思想に、強く反論した。人間が自由で主体的に行動する、というのは先進国の人間の発想だし、それは幻想だ。先進国だけが人間社会ではない、と。彼は世界中の様々な民族の社会を研究していた。
    彼の思想は、「人間は自由な存在ではないし、主体的にもたいした行動はできない。その時代、その場所による社会構造に強く影響されて、存在や生き方が決まる」「社会の構造が人間の意識をつくる。完全に自由な人間などいない」それが世界の本質だと。これを構造主義と言う。1968年のパリの大学生なら、流行のサルトルにかぶれ「僕の人生はアンガージュマンだっ!」とリベラル運動をして生きようとするが、ブラジルの奥地では「どうやって猪を捕まえようか?」と考えることを生きることととらえる人びとがいる。そして「世界は人間無しに始まったし、人間無しに終わるだろう」と結論した。
    このことにより「哲学は終了した」とも言われている438

    サルトルは神なき世界に至って「人間は自由の刑に処されている」と発想した。その自由を個人個人が責任を持って成長させ、主体的に行動することにより、自分自身と、社会そのものを変えることができる。つまり自由に責任を持った個々人の力で、社会は発展していく、という弁証法の新たな解釈をした。これをアンガージュマンと言う。アンガージュマンはパリ五月革命や日本の全共闘運動から大いに支持された437

    ヘーゲルは、フランス革命後の社会で「弁証法」(対立思想が解決して、レベルが上がった次元になり、更なる別の対立が生まれる。これが繰り返され理想社会が生まれるという理論)を発案。好評だったが、その次の世代は「実際の社会はそうとは言えない。実存こそ大切」とこれを批判。
    一人はキルケゴール。実存は最終的に神への信仰によって救われる、と説いた。
    一人はマルクス。実存は社会が生み出す物質が、より多く、多数の人にわたることで救われる(唯物論)。彼は弁証法を批判したのではなく、むしろ改良発展させた(ブルプロ闘争)。
    一人はニーチェ。実存は厳しいもの。それにもはや神は死んだ。それを乗り越えて人間は超人になる388

    1776年アメリカ独立、1789年フランス革命の時、エドマンド・バークは「過去の経験と歴史も生かすべき」、反論してトマス・ペインは「権利は人民にこそある」と主張して、ここで保守と革新という構図が初めて出現した349

    『むすんでひらいて』はルソーが作った340

    ホッブスのリヴァイアサン(怪物)は、人間社会はリヴァイアサンのような絶対的な力で押し止めないと平和な秩序が生まれないとの考えだが、この理論の大事なポイントは、その存在を「神」ではなく「怪物」を持ち出して説いたこと。厄介な「神の話」を遠ざけた334

    近代哲学の祖デカルト。疑うことを本質にした懐疑論からの脱却を目指す。懐疑を目的じゃなく手段とする。物事を徹底的に懐疑してそこから残ったものが「真実」ではないか、という考え。懐疑の対象には当然「神」も含む。ここから人は完全に神から自由になった。325

    明治国家は儒教の体系をベースに天皇制を作った。わが国の神道は、あまりにも没理論的で、天皇制の創出に役にたたなかった280

    ムハンマドの言葉に「知識を求めよ。たとえ中国であろうとも。」というのがある(伝説)255

    マリアの処女懐胎。ヘブライ語であった聖書をギリシャ語に翻訳したときに発生した。ヘブライ語では「乙女」、これを誤訳してギリシャ語「処女」にしてしまった211

    4世紀ローマ帝国でキリスト教が国教になると、古代ギリシャの諸々の信仰は禁止された(ルネサンスまで)。
    オリンピックも禁止された208

    キリスト教教義の元の一つだったミトラス教。太陽神ミトラの誕生日(冬至。12/25)に牛肉とパンとワインを食べる199

    ヘレニズムの時代、ギリシャの王ミリンダは仏教徒になった189

    墨子(墨は刺青)は浪費の徹底否定と非攻(非戦。先制攻撃の否定)を訴え、教団を作った。しかし「質素はつまらない」「非攻は危うい」という民意により消滅した119
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    投稿日:2024.03.18

  • 司馬太郎

    司馬太郎

    名前だけは聞いたことのある人について、生い立ちや思想の経緯までを写真付きでわかりやすく解説されています。

    本の厚みの割に読みやすく、夢中になってしまいました。

    本書をきっかけに哲学や宗教に関してより一層興味が湧きました。おすすめの書籍等が豊富に紹介されているので、参考にしたいと思います。続きを読む

    投稿日:2024.02.04

  • 司書KODOMOブックリスト(注:「司書になるため勉強中」のアカウントです)

    司書KODOMOブックリスト(注:「司書になるため勉強中」のアカウントです)

    人類はどのようなことを考え、どのように世界を認識してきたのか。465ページにもわたる大作で分厚いが、読みにくくはない。

    投稿日:2024.01.14

  • t4learning

    t4learning

    一気に読み終えた。5時間ぐらいあれば読める。
    出口さんは語り口が優しくて、わかりやすくページを繰るスピードが本当、はやくできる。そんな出口さんの本を読んでも、カントとかヘーゲルとかハイデガーとかのとこら辺は、やっぱり何かよくわかったようなわからないようなだな。キルケゴール、マルクス、ニーチェを三兄弟とくくって解説してある部分はなんか腑に落ちた。
    いやあ、哲学と宗教はこのくらい噛み砕いてくれると、無教養な私にもおおよその理解ができて面白い。
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    投稿日:2023.12.22

  • teshigawara

    teshigawara

    このレビューはネタバレを含みます

     孟子は誰をもって性善としたかといえば、上人を中心とする人たちです。自分と同じインテリ、すなわち識字階級です。もともと賢いのだから自分で努力して学べば、それで十分だという意見です。
     対して荀子は下人を対象として考えました。字の読めない人間に自助努力をせよと諭しても、やりようがないのだから半ば拘束して勉強させる仕組みをつくれ、と主張しました。したがって性善説と性悪説は、社会を構成する別々の階層の教育について言及しているのであって、2つの説の間には矛盾はない。むしろ2説を並立させたことが、儒家の思慮深いところであるという見解です。
     この考えは、儒家の思想を中心に考えれば整合性はあるのかもしれません。けれども教育という主題から考えれば、知識や良識を身につけるべき手段を、個人の主体的な努力に任せるのか、それとも社会システムや制度、仕組みとして確立すべきか、という大きな問題でもあります。さらにいえば、性悪説を唱える荀子は、社会の安定の基礎を法制度に置くという法家の思想に近いともいえます。放火を代表する思想家の韓非はもともとは荀子の弟子でした。

     ベーコンは観察や実験の重要性について言及しましたが、実験や観察には常に誤解や先入観、あるいは偏見がつきものであることを理解していました。
     人間には、そのような偏見や先入観に囚われがちな性質があることを、ベーコンは警告しています。その性質はラテン語でイドラidolaといいます。偶像とか幻影と翻訳されていますが、アイドルidolと語源は同じです。現代のアイドルはファンたちによって、彼らの理想像として偶像化された存在です。ベーコンが言及するイドラの性格も、アイドルとつながる部分があります。イドラもアイドルも、対象を正しく見ずに偶像化しているからです。
     彼はその著書『ノヴム・オルガヌムーー新機関』(桂寿一訳、岩波文庫)の中で、人間が持つ4つのイドラについて言及しています。いかに厳密に観察や実験を積み重ねても、人間は4つのイドラに気をつけないと、世界の真実を見逃してしまうと警告したのです。
    ・種族のイドラ 人間が本来、自然の性向としてもっている偏見。対象を自分の都合のいい方向に変えたがる性向です。嫌なことは過小評価する。楽しいことは過大評価する。見たいものしか見ない。そのような性向を指します。しばしば思い当たるのですが、現代の学問では、これは脳の持つ特性の一つだと考えられています。
    ・洞窟のイドラ 個人の経験に左右されて、ものの見方がゆがむケースです。狭い洞窟から外界をのぞき見るようにしか、ものが見られないことです。幼少時の悲惨な体験が尾を引いて、ものごとを悲観的にしか考えられない場合や、社会的経験が少なくて自分を中心とした価値判断しかできない「井の中の蛙」もこの同類です。
    ・市場のイドラ 伝聞によるイドラともいいます。市場の人混みで耳にした噂話から、事件の真相を誤って理解してしまうようなケースです。週刊誌の記事に踊らされるのも、これと似ています。
    ・劇場のイドラ 別名は権威のイドラです。劇場の舞台で有名なタレントが話したことや、立派な寺院で権威ある宗教家が説教したことを、何の疑いもなく信じてしまうようなケースを指します。これもよくありがちな偏見です。

     イングランドの経験論を確立させた哲学者たちは、ベーコンが死んでロックが生まれ、ロックが死ぬとヒュームが生まれるというように、ほぼきれいにつながって登場してきます。
     そしてデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)は経験論を大成させた存在として今日でも高い評価を受けています。
     人間は目・鼻・耳に代表される感覚器官によって外界の事物を見分けたり、感じたりすることで学習します。この働きを知覚(preception)といいます。ヒュームは知覚を2つに分けて考えました。印象(impression)と観念(idea)です。最初は印象しかありません。あの人はきれいやな、とか、これはおもしろいなとか。その印象をたくさん重ねていく中で、一つの観念が生まれてくる。しかし印象から観念は生まれるけど、観念から印象は生まれません。その関係は不可逆的です。すなわち観念とは、具体的に人間が感知した印象から生まれるもので、観念のみが独立して存在するのではない、とヒュームは考えたのです。
     さらにヒュームは因果関係(因果性)を疑いました。
     人は因果関係をついつい必然的なこと、と考えがちです。あいつがワルだからああなったのだとか、バチが当たったのだとか。しかし、よくよく熟慮してみると、原因と結果を安易につないでしまうのは、人間が経験に基づいて未来を推測する心理的な習慣にすぎないのであって、本当に因果関係は存在するのかという問題提起をヒュームは行ったのです。Aという印象の後にBという印象に出会うことが重なると、人は勝手にその関係を必然と思ってしまう。けれどもそれは、心の中でしか成立しない連想の必然性である。本人のみが信じる虚偽の観念なのだと、ヒュームは考えました。
     因果関係は本当にあるのか、ないのか。因果関係に決着をつけた理論は、未だ登場していません。

     僕がペットボトルという実在を見ています。正確に述べれば、僕の大脳が眼から伝わった「ペットボトルだよ」という信号を受け取って、ペットボトルだと認識したのです。
     しかし大脳は僕の頭の中にあり、その真っ暗な中で電子信号を打ち出しながら、眼からの信号を受け取り、ペットボトルを確信したので、大脳が直接にペットボトルを認識しているわけではありません。したがって、厳密にいえば、僕はペットボトルが実在していることを証明できないのです。現在の脳科学の世界では、以上のように考えられています。
     エトムント・フッサール(1859-1938)は、大脳に関する最先端の学問が明らかにしたことを、自分の論理展開によってすでに予見していました。
    「世界は現象であって実在はない。なぜなら世界は人間の頭の中にしか実在しないからである。そのような世界の実在を、人間はどのように確信できるのか」
     そして、フッサールは、いかにして実在を確信するかについて議論を進めていきます。ここでは具体的にペットボトルを例にとって話を進めたいと思います。
     フッサールは「なぜペットボトルがあると確信できるのか。その確信の根拠は何か」を追求していく論理を「現象学的還元」という、難解な言葉で表現しました。
    「現象学的還元」を達成するために、フッサールは「エポケー」という概念を用います。
     エポケーは古代のギリシャ哲学にもあった用語です。懐疑主義者のピュロンは、ものごとを見誤る理由を、「……である」と断定してしまうことにあると考えました。
     それを防ぐために、何ごとによらず軽率に判断することを留保すべきだとしました。
     そして、この判断の留保をエポケーと呼んだのです。
     フッサールは、このエポケーを彼の哲学的考察の基本に置きます。彼は人間の日常生活において、その存在が自明なことと思われている事実について、その実在性に対する信頼をひとまず留保するという意味にエポケーを置き換えました。
     わかりやすく述べれば、何も考えずによく見ようと主張したのです。

     人間が住んでいる地上の空間(すなわち世界)にはさまざまな要素があって、それに人間が名前をつけることで世界がつくられてきたのではない。もともと世界は存在していて、あちこちに住む人間は自分たちの眼前に広がる世界を、記号で区切ることで自分たちの世界を認識してきたのである。ソシュールはそのように考え、その記号が言語であると指摘しました。
     レヴィ=ストロースは、社会と人間の主体的行動との関係についてソシュールの言語論を深く研究し、自分の学問に役立てました。
     自由な人間が主体的に行動して社会を変革するという、サルトルのアンガージュマンの思想に対して、レヴィ=ストロースは、人間は社会に行動を規制されていると論証しました。ソシュールは言葉が世界を分けると述べましたが、レヴィ=ストロースはさらに一歩進んで社会の構造が人間の意識を形づくると考えたのです。
     戦後の日本という社会が現在の日本人をつくり、江戸時代という社会が江戸時代の日本人をつくったのです。同じ日本人でもまったく異質ですよ、というのが、平たくいえばレヴィ=ストロースの考え方です。
     今でも「日本人の本質は、独創にあるのではなく改良にあるのですよ」とか、「日本人の本質は、完全を求めてまじめに仕事に取り組むことです」などと語る人がたくさんいます。
     レヴィ=ストロースは、それとは真逆に日本人の本質を否定したのです。それぞれの時代の構造が、それそれの時代の日本人を創っただけであって、どの時代にも通底する日本人の本質のようなものは一切ないのですよ、と。
     自由な人間も人間の主体的な行動も実は存在しない。人間は社会の構造の中で、そこに染まって生きるのであると、彼は考えました。常に進歩があるわけではない。先進国ばかりではなく、未開の社会もあるし、人間は社会に合わせて生きていくことしかできないという考え方です。このような思想は、「構造主義」と呼ばれています。ちなみに、構造主義の本質は方法論にあって、研究対象の構造、すなわち構成要素を取り出し、その要素間の関係を整理統合することで研究対象を総合的に理解しようというものです。

    「本質主義」という考え方があります。全ての事物には変化しない核心部分である本質が存在する、という考え方です。超自然的な原理の存在を認める立場です。プラトンのイデア論も本質主義的な考え方です。そしてこの考え方は、構造主義が強く否定している思想です。
     ところが、構造主義と本質主義の間に、本当の学問的な意味での決着はまだついていません。決着がつけにくいのです。
     本質主義的な立場から、オーストリアの教育家であり神秘思想家でもあったルドルフ・シュタイナー(1816-1925)は、人間の霊的な能力の存在を認めたうえで、独自の教育理論を確立しました。そしてその理論により、初等・中等および職業教育を行う総合学校を設立しました。その学校は今日でも、世界に900校以上も存在しています。
     また、人間が本来持っている才能を子どもたちから引き出そうとして、シュタイナーほど特殊な方法ではなくても、数多くの教育者がさまざまに努力している現実が存在しまし。
     人間の秘められた才能であるとか、世界が本来持っている本質的な価値であるとか、それらの存在を密かに認め、それを具体化しようとする努力は、今も世界のさまざまな分野で行われているのです。
     すでに自然科学も脳科学も、そして構造主義の論理も、人間の意識は自分たちの存在する社会のコピーであって、自由な人間の意思など存在しないと断言している時代です。それでも多くの人々は密かにつぶやいているのだと思います。
    「そんなことは信じたくないよ」
     刑法は、今でも過失と故意の2つに犯罪を分けて、刑罰の基準を定めています。
     しかし、人間の主体的な自由意志の存在は、ありえないと考えられている時代です。それでも刑法は「過って」とか「意図的に」とか、犯罪行為を自由意志の存在を前提に峻別するという虚構のうえに、その体系を構築しています。それは自由意志の存在を認めない場合に、犯罪をいかに裁けばいいのか、その知恵がまだつくれないからだと思います。人間が自由意志を持っていると考えたほうがわかりやすいからでもあります。
     結局、現在の人間社会は構造主義や自然科学、そして脳科学が到達した人間存在についての真実よりも、昔から主流であった本質主義的な概念、平たく言えば日常的な概念を上手に利用して虚構に立脚したうえで社会の秩序を保っています。それは人間の生きる知恵なのだと思います。
     哲学も宗教も、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発したといえなくもありません。生きていくための知恵とは、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえます。
     不幸と呼ぶべきか、宿命と呼ぶべきか、人間は常に病気や老化や死と向き合って生きています。これらの避けられぬものと、いかに向き合って生きていくか。このことが数千年の歴史を通じて、いつも人間の眼前にありました。

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    投稿日:2023.11.25

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