【感想】渋沢家三代

佐野眞一 / 文春新書
(18件のレビュー)

総合評価:

平均 3.8
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ブクログレビュー

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  • あけちゃん

    あけちゃん

    攘夷から幕臣に転じ、明治維新以降の偉業を成し遂げた渋沢栄一についてはそれなりに知るところではあったが、その子である篤二と孫の敬三についてそれぞれ激動の人生であった事については初めて知っただけにその驚きは大きかった。
    あまりにも壮大な一族の繁栄から没落までの流れはただただ感嘆するばかりで、一言では語れない。
    渋沢家三代が日本経済に残してくれたものは大きいし偉大だ、と言う事が実感として強く残る。
    最後に著者が語っている事を心に残った言葉としてここにそのまま残しておきたい。
    『事業にしろ遊芸にしろ学問にしろ、自分の信ずるせかいにこれほど真摯に没入していさぎよく没落していった一族が、ほかにいただろうか。渋沢家三代のおおいぶりな健全さとなにもかも心得たふところの深さは、日本人の精神からことごとく消えてしまった。』
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    投稿日:2022.03.21

  • calla-lily

    calla-lily

    渋沢栄一だけでなく、息子の篤二、孫の敬三までの三代を記したドキュメンタリーで読み応えあり。
    渋沢栄一とは激動の時代を生き抜いた偉大な人だったと改めて感じるとともに、偉大な父や祖父を持つ息子や孫の苦悩や、家を繁栄し続けることの難しさもひしひしと感じ入った。
    親や家のことなどあっても、とにかく一人ひとりが精いっぱい生き抜くことが、納得のいく人生につながるのか。
    佐野さんが執筆された敬三さんに関する著書も読んでみたい。
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    投稿日:2021.09.26

  • bukurose

    bukurose

    22年も前の出版である。著者は1997年の第一勧銀の総会屋への利益供与事件で右翼のスピーカーが「第一勧銀幹部は辞職して泉下の渋沢栄一翁にお詫びしろ」とどなったこと、また民族学者宮本常一の評伝「旅する巨人」を著した時、常一に援助したのが栄一の孫の渋沢敬三だった、というのを知り、渋沢家の歴史を書いてみたい、と思ったそうだ。そういう出発点なので、渋沢家に対する敬愛と興味が文章から感じられる。

    洋泉社ムックで栄一のかんたんな足取りを知り、特に幕末維新の若者時代がすごく劇的で面白いと興味を持った。ここではムックでは省かれたことも語られ、巻末に家系図と詳しい年表もついていて、それを読むとおもしろい発見もありさらに栄一に興味が湧いてきた。・・渋沢の女性関係にも触れられ、ちょっとこの点では昔の人とはいえ栄一、受け入れがたい。

    メモ
    埼玉県血洗島村には江戸末期「渋沢」を名乗る家が17軒あり、本家筋の「東ノ家」、分家筋で渋沢の生まれた「中ノ家」などがあった。栄一の父は「東ノ家」の三男で男子の跡取りのいなかった「中ノ家」に養子に入った。
    栄一の妻千代は父の姉の子で「東ノ家」系統のいとこ同士である。「東ノ家」の子孫には文学者の澁澤龍彦、指揮者の尾高忠明がいる。(系図でみると両者とも栄一のいとこのひ孫)(さらによく見ると栄一は庶子大内ふみを従兄の尾高新五郎の次男・次郎に嫁がせた。次郎は尾高忠明の祖父なので忠明氏は栄一の曾孫になる! ・・大河を見たらテーマ音楽指揮と字幕にでた。)

    栄一の少年青年時代は父方のいとこ同士とのつながりがいい刺激になり成長していった感じだ。父の姉の嫁いだ尾高家の長男新五郎(惇忠)が栄一より10歳年上で私塾を開いており、そこに7歳の時から通い水戸学に傾倒した。その新五郎の妹千代と安政5年(1858)に18歳で結婚

    文久元年(1861)21歳の時に父に懇願して江戸に遊学。儒者海保章之助の塾と千葉周作の道場に通う。

    文久3年(1863)23歳 血洗島村に帰る。8月長女歌子誕生。
     新五郎、父の兄の子の従兄・喜作らと尊王攘夷をかかげ高崎城乗っ取りを計画する。
     資金調達のため喜作と江戸に行く。喜作が江戸で知り合った一ツ橋家家臣が二人を一ツ橋家の用人・平岡円四郎に引き合わせる。
     10月、高崎城乗っ取りの最終謀議をするが、新五郎の弟で別の嫌疑で京都に逃げていた長七郎が京都から帰り京都の実情を話し乗っ取りなどしても犬死だと諌め、計画を中止する。
     11月、謀議をマークされ栄一と喜作は平岡円四郎を頼り京都に行く。一ツ橋家には幕府から栄一たちの身柄問い合わせがきていたが、平岡は二人に仕官をすすめ栄一達は一ツ橋家に仕えることになる。尊王攘夷から公武合体論者で開国派の一ツ橋家への転身となる。

    慶応2年12月5日(1866)26歳 慶喜が将軍となる。妻千代の弟平九郎を見立養子にする。

    慶応3年1月11日(1867)27歳 慶喜の弟昭武(14歳)のバリ万国博覧会への派遣に随行する。

    慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦い・喜作は幕府軍として戦い負傷し江戸で養生する 2月12日喜作が中心となり彰義隊結成 →隊の内紛で脱退し喜作を頭取に振武軍が組織され尾高兄弟も加わる。飯能で討幕軍と戦い敗れ、平九郎は自刃する。新五郎は故郷に戻る。  →喜作は榎本武明と函館に行き獄に。

    4月江戸城開城 5月15日彰義隊上野の戦いで壊滅  

    1868年9月8日 明治となる 10月9日 栄一、マルセイユを出港 11月3日横浜に着く。 12月、栄一は謹慎中の慶喜を静岡に訪ねる。

    明治2年(1869)静岡藩から御勘定組頭に任命されるが断り、2月「商法会所」を始めそのまま静岡に留まり、1カ月後妻子を静岡に呼ぶ。7月15日発行の「明治新聞」に静岡藩での栄一の記事が載る。
     明治政府に呼ばれ大蔵省に勤める。

    佐野氏は、栄一の仕事ぶりを、「栄一はのちの超人的な女性関係にもみられるように、生来まめでタフな男だった。自分のやるべき仕事は徹夜してでもやり遂げる」と書いている。明治期には多くの困難があったがその数倍の創造の喜びがあった、としている。

    子の篤二、孫の敬三まで読み終えた。篤二は10才で母をコレラで亡くす。もし、母が死ななかったらもっとちがう人生になったのでは、という気もした。栄一は篤二の養育を篤二の姉歌子に頼む。栄一は仕事に忙しくほとんど家にいなかったようなのだ。

    渋沢栄一と三井(三井広報委員会)
    https://www.mitsuipr.com/history/columns/027/
    https://www.mitsuipr.com/history/columns/028/




    1998.11.20第1刷 2020.10.1第10刷 購入
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    投稿日:2021.02.04

  • 臥煙

    臥煙

    次回大河ドラマの主役渋沢栄一、その息子で廃嫡される篤二、民族学で名を残す敬三。渋沢家の三代を通じて見つめる日本近代史。

    渋沢栄一だけでなく、その子、孫。さらに一族本家まで俯瞰した新書としては守備範囲の広い意欲作だろう。

    何代かに渡って一族を眺めると、勤勉と遊蕩の血が交互に出てくるのが面白い。渋沢一族としてみるとむしろ著名な栄一が異例でありどちらかというと学術、芸術家肌が多い。渋沢敬三しかり本家筋の澁澤龍彦など。

    渋沢栄一の志士から一点一橋慶喜に仕えパリへ。官僚から実業界という波乱の人生。そのサクセスストーリーの陰で犠牲となったとも言える篤二、そして日銀総裁などを務めつつも柳田国男との出会いを機に趣味の民俗学を極めた敬三。

    豊富な資料から冷酷なまでの鋭い視点は筆者の独壇場。敬三を主題とした「旅する巨人」のアナザーストーリーとして楽しめます。
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    投稿日:2020.11.14

  • はや

    はや

    渋沢栄一、敬三はよく見るが、篤二についてこれだけ書かれている読み物はなかなかないのでは。面白くて飽きずに読んでしまった。3代を追うことで幕末から戦後までの社会を外観できてしまうのもよかった。
    星1つないのは単に歴史の本を読み慣れた自分の好みで、セリフがあるとその出典や史料を確かめたくなってしまうということだけなので。もちろんこういう本なら無くてもいいと思ってますが、あくまで個人的に。続きを読む

    投稿日:2019.05.31

  • kohamatk

    kohamatk

    資本主義の父と民俗学のパトロンの生涯をまとめて読めるのはお手軽と思ったが、あとがきにも書かれている通り、敬三の民俗学へのパトロネージュについてはほとんど触れられておらず、『旅する巨人』を読めとのこと。そりゃそうだ、とは思ったが、渋沢家の生い立ちから没落への歴史を学ぶことができたのはよかった。

    栄一は1940年に血洗島の中ノ家に生まれた。現深谷市のこの地は中山道と利根川にも近い交通の要衝で、家はそのメリットを生かした藍玉生産で富をなした。藍の栽培に必要な干鰯は、九十九里から利根川で運ばれた。栄一も14歳になると、単身で藍葉の仕入れに出ている。21歳で江戸に遊学に出て、学問や剣術の修行をする一方で、高崎城乗っ取りのクーデター計画を進めたが、激論の末、中止となる。その後京都に出て、温情を受けた一ツ橋家に仕官することになり、慶応2年に慶喜が将軍職に就くと、陸軍奉行支配調役となった。その1か月後、パリで開かれる万国博に派遣されることになった水戸の徳川昭武の庶務と会計役として随行し、遊学して資本主義を学ぶことになる。帰国後、静岡で謹慎中の慶喜を訪ね、そこで商法会所を開いて、明治政府が全国の諸藩に強制的に貸し付けていた新紙幣を基に、合本法を用いて殖産興業を図った。その1か月後には、新政府の大蔵省租税正に任命されて東京に赴くが、内閣と対立して明治6年に退任すると、在任中に自ら作成した国立銀行条例に基づいた第一国立銀行を創設した。

    栄一は、古希を迎えた明治42年にほとんどの関係事業から身を引き、喜寿を迎えた大正5年には第一銀行の頭取をやめて、すべての企業との関係を断った。その後は社会事業に情熱を注ぐ一方、民間経済外交にも献身し、日露戦争後に変調をきたした日米関係を修復させようとしたが、満州事変が勃発した2か月後の昭和6年に91歳で生涯を閉じた。

    敬三は明治29年に生まれた。中学時代から生物学に心を寄せ、大正10年に銀行員となったが、柳田国男らの影響を受けて民俗学に興味を持ち、屋敷車庫の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムをつくっている。栄一の死に付き添った過労によって糖尿病を患い、療養のために過ごした伊豆の三津浜で、古老の家に伝わる400年の歴史と生活が記された古文書を見せられた。それを筆写して、3000ページに及ぶ「豆州内浦漁民資料」をまとめ、この頃から多くの民俗学者へのパトロネージュを始め、自らも土日曜を利用して52年間に480回もの旅を続けた。昭和12年には、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具を保谷に誕生した民族学博物館に移し、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。

    敬三は昭和17年に日本銀行副総裁に任命され、昭和19年には日銀総裁に就任し、終戦後は幣原内閣の下で大蔵大臣に任ぜらた。自ら導入した財産税を納めるために三田の豪邸を物納し、GHQの財閥解体も後に「相当せず」との通告を受けたものの、それを放置して同族会社を解散した。渋沢家に代々仕えた杉本行雄は、敬三が「ニコニコしながら没落していけばいい」と口ぐせのように言っていたと伝えている。物納された渋沢邸は、40年余り6省庁の共同会議所として使用された後、道路拡張工事によって取り壊される際、杉本が払い下げてもらって三沢に移築している。
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    投稿日:2016.04.30

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