【感想】どこまでも生きぬいて

水谷修 / PHP研究所
(2件のレビュー)

総合評価:

平均 0.0
0
0
0
0
0

ブクログレビュー

"powered by"

  • yonogrit

    yonogrit

    1100

    そうかそうか

    水谷修
    1956年、神奈川県横浜市に生まれる。上智大学文学部哲学科を卒業。83年に横浜市立高校教諭となるが、2004年9月に辞職。在職中から継続して現在も、子どもたちの非行防止や薬物汚染の拡大防止のために「夜回り」と呼ばれる深夜パトロールを行い、メールや電話による相談を受け、講演活動で全国を駆け回っている


     人生は、一度しかありません。しかも、長くても百年、限られたものです。私はみなさんに、その限られた日々を大切に、自分のものとして、そして、いずれこの世界を去る時に、 悔いなく、 笑顔 で満足して旅立つ生き方をしてほしいと願っています。

     みなさんにお願いです。だらだらと日々を過ごすのは、やめましょう。その時その時を大切に、明日のために目的を持って生きてみましょう。  これからの人生を豊かに生きるために、そして、いずれ来る死を 迎えた時に、たくさんの美しい思い出とともに笑顔で旅立つことができるように。

     人生とは、その人の生から死までの限られた時間です。その時間をどう生きるか、それだけが、私たち人間に許された自由なのです。みなさんに問われているのは、その限られた時間、人生をどう生きるかです。  生まれてきたことを呪い生きていくのか。老いることを哀しみ生きていくのか。病になったことを苦しみ生きていくのか。死ぬことを 怖 れ生きていくのか。  私は、そんな生き方をみなさんにしてほしくありません。今みなさんは生きている、まず、そのことを感じてください。そしてその生きている時間を自分のため、人のために生きてほしいと願っています。

     みなさんに伝えたい。明日は必ず来ます。生きている限り、明日は来るのです。そうだ、空を見てください。今が厚い雲に 覆われていても、その向こうには 澄み切った青い空があります。どんなにひどい雨が今、降っていたとしても、いずれ晴れます。  つらい今、哀しい今の向こうには、たくさんの喜びや幸せが待っています。生きてさえいれば。  つらい時、哀しい時は、少し立ち止まってもいい。休みましょう。でも、必ず立ち上がり、また歩き始めましょう。周りに 優しさを配り、美しいものを探しながら。そうすれば、わかります。いいもんだよ、生きるって。

     私が今関わっている三十二歳 の男性は、十五歳、中学三年生の時、こころない同級生たちからのいじめで不登校になりました。その後は、高校に進学することもなく、自分の部屋に引きこもり、ただコミックとゲーム、ネットの世界に救いを求め、その作り物の世界で十七年間生きてきました。毎晩のように、自分をいじめた人たちを 呪い 恨みながら。  先日 彼 は、何気なく外の道路を見たそうです。その時、道路を一組の親子が幸せそうに歩いていました。その父親は、小学校、中学校の彼の同級生でした。その瞬間に彼は、自分が引きこもり、 無駄 に過ごした時の重さに気付きました。そして、私に助けを求めてきました。  私は、彼に言いました。あなたが失った時は、もう取り戻すことはできない。でも、今日から 違う明日を作ることはできる。まずは、今の自分を 哀しむことや、失った時を 嘆くことをやめて、今を明日のために使いましょう、と。  彼は、今、定時制高校に進学するための勉強をしています。  みなさん、過ぎ去った過去を変えることはできません。時を戻すことはできないのです。そんな変えることのできない過去にとらわれ、苦しみ、明日のための大切な今を、無駄に過ごすことになんの意味があるのでしょうか。  私たち人間には、忘れることができるという 素晴らしい能力があります。それを使うのです。

     でも、思い出してください。吠えたり嚙んだりする犬より、 優しい犬のほうが多いはずです。いじめる人や虐待する人より、みなさんに寄り添い相談に乗ってくれる人のほうが、 圧倒的 に多いはずです。  みなさん、先入観にとらわれて、こころを閉ざさないでください。どんなことがあろうと、出会いや触れ合いを続けてください。

     みなさんは、本当の自分の顔を見たことがありますか。ほとんどの人は、見たことがあると答えるでしょう。でも、私は知っています。みなさんが、本当の自分の顔を見たことがないことを。  私たちは、鏡やガラス、 水面 などに映った自分の顔しか見ていません。私たちは、自分の目で自分の顔を見ることはできないのです。  これは、自分自身についても同じです。他人の反応やことばを通してしか、自分を知ることはできません。みなさんの中には、自分で勝手に、自分は 嫌 なやつだ、暗い人間だと決めつけてしまい、落ち込んでいる人もいると思います。でも、本当にそうなのでしょうか。それを、親や友だちやだれかに聞いてみましたか。

     私は、青春時代から、なにかに悩み始めたら、すぐに運動着に 着替え、十キロ、二十キロと走りました。そして、あたまの中のこだわりを 心地よい 疲労 の中で捨てました。みなさんもやってみませんか。いいものですよ。

     みなさんの中には、友だちや親のこころないことばや行動に傷つき、人を信じることができず、苦しんでいる人がいると思います。でも、青空の星と同じように、みなさんの周りには、いつもたくさんの思いやりや優しさがあるのです。ただ、昼の太陽の光で星が見えないのと同じように、みなさんが哀しみや 憎しみに染められてしまうと、その思いやりや優しさが見えなくなってしまうのです。

     私は、この六十年の人生、数え切れないほど人から裏切られてきました。大切な生徒や関わった子どもたちからも。でも、人を信じることをやめませんでした。今、そのことを良かったと思っています。なぜなら、裏切られた数の何百倍も、 報われたからです。

     みなさんに聞きたい。大人は、この世界に何人いますか。学校に先生は何人いますか。友だちは何人作ることができますか。お願いです。大人から、たとえ親から裏切られようと、先生から裏切られようと、友だちから裏切られようと、人を信じることを決してやめないでください。悪い大人や先生、友だちより、良い人間のほうがはるかに多いのです。

     日本人は、喜怒哀楽をきちんと表現することが、とても苦手な民族です。それは、日本では、長い間、人の前で感情を出すことが 恥 だと考えられていたことが原因でしょう。  でも、感情を外に出さないということは、こころに 溜め込んでしまうということです。こころは、風船のようなものです。あまりに溜め込めば 破裂 してしまいます。  私は、哀しみをあまりに溜め込みすぎたために、こころを 病んでしまったり、自らいのちを絶ってしまったりした人をたくさん知っています。また、怒りを溜め込みすぎて、それを 爆発 させてしまい、人を殺してしまったり傷つけてしまったりした人もたくさん知っています。感情は、その時々にきちんと外に出さないと大変なことになってしまいます。

     みなさん、お願いです。うれしい時は、きちんと喜びを外に出そう。そうすれば周りがみんな笑顔になります。 怒った時は、きちんと怒ろう。きっとだれかが、 抑えてくれます。哀しい時は、泣こう。だれかが、 慰めてくれます。楽しい時は、みんなにそれを話そう、伝えよう。そうすれば、みんなが、楽しくなります。

    美しいものを探そう

     みなさんは、今日、なにか美しいものに触れましたか。美しい花、色づく葉、美しい山々、青い空、鳥の声。多分、ほとんどの人は、そんなゆとりすら忘れていると思います。それでは、今すぐ、外に出て、美しいものを探してみてください。どうですか、こころが落ち着くはずです。こころの底から、優しさが溢れてくるはずです。

     美しいものは、人のこころを優しく癒してくれます。哀しみに押しつぶされそうな時、人生に苦しんでいる時、美しいものに触れることは、その傷を癒し、明日への勇気をくれます。生きている喜びとともに。

    しかし、多くの人は、哀しみや苦しみに押しつぶされると、暗い夜の 闇 の中で悩み、自分のこころの傷をさらに深くしていきます。そんな時こそ、太陽の下、外に出て、美しいものと触れ合うべきなのに。

     私は、青春時代以来ずっと山登りをしてきました。二十代の頃は、 岩壁 専門、いかに 短距離 で登ることができるか、仲間と 競い合っていました。三十代からは、普通に登山道を登り、仲間と速さを競っていました。四十代後半からは、縦走に。そして、今に至ります。  みなさん、山には、頂上に至るまでに無限の道があります。そして、それぞれに素晴らしさがある。岩壁 登攀 は、私にたくさんの達成感を味わわせてくれました。登山道を重い荷物を背負って登ることは、私に、耐えることの大切さを教えてくれました。山をのんびり縦走することは、私に、たくさんの美しい高山植物や景色と触れ合うことの素晴らしさを知らせてくれました。  人生も、同じです。みなさんの前には、無限の道があります。そして、どの道を歩むかは、みなさん自身が、その時々に決めることです。 駆け上がることもできますし、のんびり行くこともできます。もし、道を間違えたら、戻ることもできます。  ただし、山は、歩かなければ、登らなければ、頂上にたどり着くことはできません。人生も、同じです。まずは、前に進まないと。

     みなさんの中には、金持ちになれば、有名になれば、権力を持てば幸せになれると考える人がいるかもしれません。私は、今、たくさんのお金持ちや社長や政治家、あるいは有名な作家やタレントを知っています。確かに、幸せな人たちもたくさんいますが、それ以上に、いろいろな苦しみや 寂しさを 抱えている人たちを知っています。  また、貧しさの中でも、家族みんなで助け合い、温かい幸せな家庭で生きている人たちもたくさん知っています。  私は、知っています。幸せは、みなさんのこころの中にあるのだと。自分が幸せだと思えば幸せだし、不幸だと思えば、不幸だということを。

    幸せとは、みなさんが、今の 状況 に満足しているか、していないかの中にあります。人のこころの中には、欲望という 魔物 が住んでいます。なにかを手に入れ、幸せになっても、もっと 欲しくなる。これが、みなさんを不幸にします。その欲望を 抑えれば、幸せはやってきます。

     でも、みなさんに聞きたい。人と自分を比べてどうなりますか。意味のあることですか。百人の人がいれば、百の生き方があり、百の幸せがあります。一人ひとりの人間には、その人なりの生き方と幸せがあるのです。

    健全なからだに健全なこころが宿る

     みなさん、お腹が痛くなるのはなぜか知っていますか。それは、からだの中に傷ができたり、あるいは、悪い 細菌 がからだに入ってしまったことを、必死に知らせようとしているからです。  みなさん、なんで熱が出るか知っていますか。それは、からだの中に 風邪 やインフルエンザのウイルスが入ったことを知らせ、体温をあげて、それを 死滅 させようとしているからです。

    「水谷 先生、からだの病はいいな。痛い痛いと 叫べば、病院に連れて行ってもらえる。ひどく血が流れれば、救急車を呼んでもらえる。でも、こころの病は……。『 哀しい』『つらい』『泣きたい』『今日は、学校に行きたくない』『死にたい』と、どんなに伝えても、多くの場合、『 甘い』『弱い』『しっかりしなさい』『 怠けない』『がんばれ』と追い込まれてしまう。こころの病だって、人の生死に関わる重大な病なのに」

    「リストカットしたい」「OD( overdose、薬の 過剰 摂取) をしたい」「死にたい」、これは、もうすでにこころが壊れてしまっていることを、伝えています。すぐに専門家に 治療 してもらわなければ、最悪の事態を招いてしまいます。

     みなさん、私たち人間は、動物です。今から八百万年前に 猿 から分化しました。また、私たち人間は、夜行性の動物ではありません。昼行性の動物です。夜行性の動物、たとえば 狐 は、月明かりの下で 踊り回ります。狐にとって、夜は、 寝 ている小動物を食べる食事の時間。楽しい時間だからです。しかし、人間にとって、夜は、眠る時間です。すなわち、最も無防備になる時間、言い換えれば、いったん死ぬ時間です。だから、私たち人間は、夜が 怖い。 暗闇 を 恐れます。夜になると、いらいらし、不安になり、考えることが、どんどん暗いものになってしまいます。

    「水谷先生、一カ月前に先生に、『死にたい、助けて』というメールを送ったものです。先生からの短い返信、『太陽の下をたくさん歩いて、たくさんの美しいものを見てごらん』。これを読んで、先生は、なんていい加減な人かと思った。でも、次の日、すごく晴れてたから、久しぶりに家から出てみた。近くの公園に。そして、ベンチに 座ってぼおっとしてた。 足下 を見たら、小さな白い花が。もう秋も終わりなのに必死に 咲いてた。花が、私に『生きようね』って言ってた。先生、あの日から、天気のいい日は、ずっと散歩してる。すごいね、先生、お日さまと、美しい花や鳥の声。私を元気にしてくれた。夜は怖いね。私に『死ね、死ね』って言ってくる。先生、ありがとう。もう 大丈夫 です」  みなさん、今日から外に出ましょう。そして、たくさんの美しいものを探してみましょう。夜は、 布団 の中でからだを休め、明日が来るのを待ちましょう。

    ことばは、不完全な道具です

     また、ことばは、決して私たちのこころが感じた 想いをきちんと表現することはできません。みなさん、なにか美しいものに感動した時に、それをことばで表せば表すほど、その感動が 汚れてしまったという経験はありませんか。大好きな人に「愛してる」と言えば言うほど、なにかその想いが安っぽいものになってしまったという経験はありませんか。

     私の経験から、大切なことを一つ教えましょう。みなさんの周りにたくさんのことばを言う人はいませんか。なぜ、その人がたくさんのことばを使うか、わかりますか。それは、自分に自信がないからです。なんとか、自分のこころや想いではなく、ことばで人をつなぎ止めようとしているのです。  そうだ、みなさん、週に一度でいい、ことばを捨てる日を作ってみませんか。ことばを捨てて、こころで感じる日を。

    みなさん、ことばは、どんなことばでも口にすることができますし、こころにないことでも、ことばにして言うことができます。でも、表情や目は、必ず、その人のその時のこころを映しています。  メールやラインを使っている人たちに聞きたいです。相手に面と向かって話すことのできないことばを、いとも簡単に打ち込んでいませんか。こころにないことでも、書き込むことをしていませんか。  今日からだれかと話をする時は、必ず、直接会って、相手の顔をきちんと見て話しましょう。一つひとつのことばを選んで、相手の気持ちを考えながら。

    みなさん、週に一度でいい、家族の中で、まただれかとの間で、ことばを使わない日を作ってみませんか。当然文字も使わない日を。想いを、ことばではなく文字でもなく、仕草や表情で伝える日を。そうすれば、必ず本当の思いやりや優しさが見えてきます。

     私が、ドラッグと出合ったのは、今から二十五年前の四月です。シンナーを乱用する高校一年生の少年、マサフミと知り合いました。   彼 は、小学校五年生の時に、貧しさの中でひどいいじめにあいました。助けてくれたのが、同じアパートに住む暴走族のお兄さん。それがきっかけで、マサフミは小学校六年生から暴走族に入り、シンナーを覚え、乱用を 繰り返しました。そして、私に 捕まりました。  彼は、私に言いました。「先生、本当は、 俺 もシンナーやめたいんだ。母ちゃんにも泣かれるし、仲間からも、このままだと死ぬぞと言われてる。そうだ、俺、先生といっしょに暮らしたら、シンナーやめれる」

     みなさんは、ドラッグを売ろうとするのは、暴力団や外国人の売人だと思っているかもしれません。確かに、あらゆるドラッグの 卸 元 は暴力団です。しかし、多くの場合、みなさんにドラッグを 勧めてくるのは、自らがドラッグの魔の手に捕まり、自分の乱用するドラッグを買うお金を手に入れるために、売人になった若者たち、つまりみなさんの友人です。

     みなさんの中には、そんな恐ろしいドラッグを、なぜ多くの人が使用するのかと疑問を持つ人もいると思います。それは、ドラッグが二つの顔を持っているからです。  一つ目の顔は、「ほほえみかける天使の顔」。ドラッグはどのようなものでも、考えられないような快感を使用者にもたらします。一度使用してしまえば、こころもからだもその快感を再度求めてしまいます。使用すれば、警察に捕まり、刑務所に入ることがわかっていても。  乱用すれば、あたまもこころもからだも 壊れてしまい、いずれ死んでしまうことがわかっていてもやめることができなくなってしまいます。  そして、ドラッグは、もう一つの顔も持っています。それは、「不気味に笑う 死神 の顔」です。乱用者は必ず、三つの死を 迎えることになります。一つ目の死は、あたまの死。常にドラッグのことしか考えられなくなります。二つ目の死は、こころの死。ドラッグのためならば、愛する人を暴力団に売ったり、ドラッグを買うためには、 強盗 や殺人までしてもお金を手に入れようとします。そして、三つ目の死、からだの死を迎えます。ここに、まさにドラッグの恐ろしさがあるのです。

     ドラッグが恐ろしいのは、それだけではありません。ドラッグは、みなさんの脳や神経系を壊します。これが、ドラッグの最も恐ろしいところなのです。  手をナイフで切っても、 風邪 をひいても、病気で内臓を手術しても、からだは完全に治ります。多少の傷は残るかもしれませんが、私たちのからだは、ある程度再生可能ですから。でも、私たちの脳や神経系は、再生不能なものです。一度壊れてしまえば、多少の回復はあっても、二度と完全には元通りにならないのです。ここに、ドラッグの恐ろしさがあります。

     みなさんに覚えておいてほしいことがあります。それは、すべての薬は毒だということです。あらゆる薬は、「毒をもって、毒を制する」という意味で作られた毒です。からだにいい薬など、存在しません。すべての薬は、必ず、その使用による副作用を 伴う毒なのです。

     それから、ドラッグが最も 嫌うのは、規則正しい生活をしている人です。朝は早起きし、そして三食をきちんと食べ、昼間は、太陽の下でたくさんの 汗 を流し、夜は、早く 眠る。規則正しい生活は、ドラッグに対する一番の予防です。それに対して、昼夜逆転の生活を送り、夜になれば、夜の町を遊び回り、さまよう。そんな生活をしていれば、必ず、ドラッグが、みなさんを 狙ってきます。

    だからこそ、生きて生きて生きぬいて、そのいのちの糸を次のいのちに託さなくてはならないのです。このことを忘れないでください。

     ですから、親や一人の大人から裏切られると、「親なんて」「大人なんて」と、こころを閉ざしてしまう。一人の先生に裏切られると、「先生なんて」「学校なんて」と、学校に背を向ける。一人の友人に裏切られると、「友だちなんて」「私は 孤独」と死を語る。  みなさん、大人はいったいこの世界に何人いますか。先生は、学校に何人いますか。友だちは、何人作ることができますか。  みなさん、親や大人に裏切られたら、一人で苦しまず、泣くのです。 叫ぶのです。助けを求めるのです。助けは、必ず来ます。先生に裏切られたら、周りのたくさんの先生たちに、暴れていい、叫んでいい、助けを求めるのです。助けは、必ず来ます。一人の友人に裏切られたら、周りに 優しさを配り、新たにたくさんの友人を作るのです。

     みなさん、私は、若い 頃 から登山が大好きでした。ヨーロッパ、日本の多くの山に登りました。重い荷物をかつぎ、谷を 越え、 沢 を 渡り、岩にしがみつき、一つひとつ山の頂を 征服 していきました。山頂に立った時の達成感、幸せを求め続けたからです。

     私は、人生は、登山のようなものだと考えています。山頂に立つ幸せを手にするためには、つらい山道を多くの荷物を背負って、登り続けなければなりません。あまりのつらさに立ち止まることもある。もうやめて降りようと思うこともある。こんなにつらいなら、死んだほうがましだと思うこともある。でも、 耐えて登り続けていけば、必ず山頂に立つことができます。そして、一度山頂に立てば、その幸せを味わえば、次の山頂をめざしてまた歩み始めたくなる。次の幸せを求めて。  人生も同じです。 平坦 な人生なんてないし、あったとしてもつまらないものです。時に谷あり、時に山あり。苦しみながらも、時に立ち止まっても、歩き続ければ、必ず幸せが待っています。そこでやめてしまうことなく、また歩み続ける。人生とは、そのようなものです。今がつらいからこそ、明日の幸せがあるのです。

     でも、私は、 彼らがいのちを 捧げたのは、多くの場合、お国のためではないと思っています。愛する親のため、愛する人のため、愛する子どものために、いのちを捧げたと考えています。国を守ることができれば、愛する人たちも守ることができると。
    続きを読む

    投稿日:2023.12.26

  • 司書KODOMOブックリスト(注:「司書になるため勉強中」のアカウントです)

    司書KODOMOブックリスト(注:「司書になるため勉強中」のアカウントです)

    このレビューはネタバレを含みます

    「夜回り先生」水谷修氏が、死にたいと絶望感を抱く子どもたちへ、命の尊さ、生きることの素晴らしさを説いた、渾身の一冊。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2023.04.05

クーポンコード登録

登録

Reader Storeをご利用のお客様へ

ご利用ありがとうございます!

エラー(エラーコード: )

本棚に以下の作品が追加されました

追加された作品は本棚から読むことが出来ます

本棚を開くには、画面右上にある「本棚」ボタンをクリック

スマートフォンの場合

パソコンの場合

このレビューを不適切なレビューとして報告します。よろしいですか?

ご協力ありがとうございました
参考にさせていただきます。

レビューを削除してもよろしいですか?
削除すると元に戻すことはできません。