【感想】野生哲学──アメリカ・インディアンに学ぶ

管啓次郎, 小池桂一 / 講談社現代新書
(9件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • 正木 伸城

    正木 伸城

    メモ→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1349934893887754240?s=21

    投稿日:2021.01.15

  • mchisato

    mchisato

    アメリカインディアン、アラスカなどの先住民の暮らしを「土地と暮らす」と表現し、現代の私たちの暮らしは「土地と切り離されている」と表現する。この本は2013年マザーのイベントの露店で購入。キャンプは、「土地と暮らす」暮らしといえると思う。土地と切り離された暮らしがいかにそれたけで摩耗するものか、根本的な動物としての必要なものが欠落している暮らしだと感じる。だからこそ、定期的に、山へ川へ、平原へ行き、「土地」を感じる必要があるのかもしれない。それは確実に私たちに力をくれるものだから。
    ※筆者の表現について…冗長なくどい表現力が多く、美しい自然が文体から浮かび上がるというよりは、くどい表現が鼻につき残念。巻末の漫画とのコラボは面白い。
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    投稿日:2013.09.08

  • ますく555

    ますく555

    アメリカの広大な土地に住む、いくつものインディアンの部族たちに伝わる神話や伝承、そしてそれらに基づく生活、生き方の哲学、世界観。土地に密着し、土地に溶け込むからこそ生まれる、土地と人間が食い違いを起こさないような考え方に満ちているように思えました。
    本当に、インディアンの人たちは、自然をリスペクトしているし、自然を損なってまで利益を得ようとするような、欲の皮の突っ張った考え方をしない人たちだと思います(そういう人たちが多いと思う)。
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    投稿日:2013.05.24

  • hideoz311

    hideoz311

    書き出しの、未開民族もほぼ携帯電話を持っていて、グローバル化、「人類全てがお互いの存在を知っており、関与しようと思えば関われる状態」にあることは凄いことだと思った。影響を及ぼし合い、ある意味均質化してゆくことは避けられない。
    その中で、土地に根ざした民族文化を守ることが喫緊の課題であるという主張は説得力を持つ。
    特に、歴史的に見ても数十年の文明社会の維持のために、数千年積み上げられてきた土地の記憶を捨て去ることは、相変わらず土地や風土は存在するだけに、違和感を感じるし、文明が自然に適応するためでなく、頭でっかちにバランスを欠いて進んできた危うさを感じざるを得ない。
    インディアンの世界観が、現在形で、母なる大地、相似形としての動物、植物、父としての太陽として語られ、純粋に、というより生物学的意味合いにおいて納得しながら読み進めた。これは現代人の限界かもしれない。
    インディアンにとっての生活の場である土地の圧倒的リアリティの中での世界観はよそからは理解し難いかもしれないが、グローバル化によってこの世界観がどう変化するのか、我々はどう参照するのか、によって土地の記憶が博物館に陳列されるか、現在進行形の生きた思想になるかが変わってくると思った。
    祈りや儀式は状況をリセットして現実や世界観と一体化するための手続きかもしれないと思った。ヒトは慣れるとすぐ忘れてしまうから。
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    投稿日:2012.07.06

  • ち

    これは新たな視点で世界を見るきっかけになった。ものすごい世界観だった。

    私の身近では、マクロビオティックやオーガニック、スローライフに視点をおく傾向がある。だけど、そもそも、どうしてそうすることが必要であり、その根源にあるものが一体何かは混沌としていた。
    それが、まさかアメリカ・インディアンの人々に関連しているなんて!

    私が住んでいる世界は、「都市」であり「土地」という観念はない。しかし、その「土地」は、アイデンティティとみずからの存在の「意味」をも含有するものであるのだ。

    ものすごく印象的だったのは、人間における自己定義のメカニズムについて。それは、差異化と同一化の二つ。差異化ばかりを意識してた。でも、同一化することで、紋様ができる。
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    投稿日:2012.01.20

  • 乱読ぴょん

    乱読ぴょん

    『シートン動物記』で知られるシートンの話が序章に書かれている。まだ原初の野生を保っていたカナダ東部の森林地帯と西部の大草原で育ったシートンは、1902年にウッドクラフト・インディアン協会という少年組織をつくる。

    シートンは、自分をとりまく圧倒的な「大地」の存在に気づき、そこにむかしから住んできた人々の生き方をみごとだと思い、自分もあんなふうになろうと決意する。シートンは、自分自身をひとりのインディアンに作りかえようとしたのだという。

    ▼こうした、まるで無根拠な、「非本質的」な転身によってのみ、われわれの生き方のほんとうに深い変革はもたらされるのではないか。個人としても、社会としても。「模倣」の重要性を真剣に考えないかぎり、ぼくらは「文化」という現象の本質にも、「思想」という力の核心にも、けっして到達することができない。(p.24)

    この本の著者のひとり、管啓次郎は、シートンのように「このエッセー自体が、ぼくにとっての、「インディアンになる試み」そのもの」だという。大地の神聖さ、「土地」とは何か、動物、植物、太陽とは何かが書かれていく。

    「土地を知ることだけが、生存をささえる。」
    土地の人々は、それぞれの住む区域で、数百年ときには数千年にわたって経験的に確立されてきた「土地との関係」を、その秘密とともに、実践的な知識として継承してきた。けれど、ヨーロッパ型の国家は「土地との関係」をまだ一度として真剣に考えるにいたっていない。

    ▼ぼくらは…すべての物質が商品化された都市の末端に自分を接続することで、かろうじて生きている。…都市/貨幣/商品の巨大な複合に組みこまれ、その中で自分の資産に見合ったニッチ(生態的地位)を見出し、そこで駆け足で生涯をすり抜けてゆくのが、現在のわれわれ(ほぼ)全員の運命だ。(pp.42-43)

    生きるとはどういうことか。何のためか。
    遊牧民族カイオワの世界では、語ることと祈ることはひとつ。かれらは祈るために生きる。日々の行動を律する規則、それ自体が祈り。

    植物を育てることが祈り。
    動物を狩ることが祈り。
    太陽や月を見上げることが祈り。
    水を汲むことが祈り。
    風を感じることが祈り。

    人間は土地の一部をなし、土地の一部であるヒトが関係性の全体を尊重し、その気持ちを表すのが祈り。

    「人間であること」を、管啓次郎はこう書いている─「関係性が織りなす存在としての人間、誕生にはじまり死で終わるつかのまのあいだヒトであるにすぎない自分という存在、だが個の生涯や身体を超えて時空のいろいろな方向に延長されてゆく可能性のある私」(pp.85-86)。そして、人間化されていない大地の美しさにふれるとき、人はあらためて「人間であること」を考えるのではないかと。

    管啓次郎の名を知ったのは、『1995年1月・神戸』に引用されていた文章がもと。その引用されていた文章が入っているというので『トロピカル・ゴシップ』を読み、ふと気づいたら、今年の上半期、日経夕刊の「プロムナード」欄でこの人が週に一度コラムを書いていた。この本は、図書館の新着コーナーに面陳されてて手にとった。

    この本のなかで、平原インディアンのあいだでは、互いに言葉が通じない部族同士がコミュニケーションを図るための、手話体系ができあがっていた、という話が出てきた。この手話では、「ポーニー族」と本物の「狼」が、おなじ動作によって表される。(その動作の説明を読むと、日本手話の「大阪」にちょっと似てる気がする) 「言葉が通じない同士」の使う「手話体系」。この見方は、手話をやはり言語として見てないんかなと思った。
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    投稿日:2011.09.03

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