【感想】ヒトラーとナチ・ドイツ

石田勇治 / 講談社現代新書
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    石田 勇治
    1957年、京都市生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学哲学部博士課程修了、Ph.D. 取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授。専門は、ドイツ近現代史、ジェノサイド研究。著書に『過去の克服――ヒトラー後のドイツ』『20世紀ドイツ史』(ともに白水社)、『図説 ドイツの歴史』(編著、河出書房新社)、『ジェノサイドと現代世界』(共編、勉誠出版)などがある。


    ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)
    by 石田勇治
    そんななかでナチ党の党首、ヒトラーは異色の存在だった。  たしかにヒトラーは中間層下位、つまり庶民の出で、大衆民主主義の時代にふさわしい人物だったともいえるが、学問を修めたわけでも、職業や資格を身につけていたわけでも、特定の業界や利益団体を代表する立場にあったわけでもなかった。それどころか、ヒンデンブルクと選挙で大統領のポストを争う一九三二年まで、ドイツの国籍さえもっていなかった。

     父のアロイス・ヒトラー(一八三七~一九〇三) は小学校しか出ていなかったが、片田舎から帝都ウィーンに出て職人修業を終えた後、一八歳で帝国大蔵省守衛となり、やがて税関職員となった。仕事柄、パッサウ、ブラウナウ、リンツなどと住所を転々としたが、官吏としては堅実な、地元の人から一目おかれる人間だった。だが家庭では厳しく、ときに家族に暴力を振るうこともあった。

    アドルフは異母兄弟と幼少期をひとつ屋根の下で過ごした。父は息子に自分と同じ官吏の道を進むよう望んだが、アドルフはこれを嫌った。父は大学進学を前提とするギムナジウムではなく、実科学校へ息子を進学させた。そこには実社会で役に立たない古典語学習に時間を割くよりも、職業に直結する活きた知識・技能を身につけさせたいという父の思いがあった。  こうして入学したリンツの実科学校だが、アドルフには向いていなかったようだ。成績は芳しくなく、別の実科学校へ転校を余儀なくされた。その直後、父の死に見舞われ、アドルフは結局、その学校を中途退学することになる。

    一九〇七年、アドルフはウィーンに出て国立芸術アカデミー美術学校の入学試験を受験した。結果は不合格。意気消沈したアドルフに追い打ちをかけるように母が乳がんで亡くなった。心の支えを失ったためか、翌年の再受験にも失敗。その後、大都会ウィーンで孤独な浮き草のような生活を送ることになる。

    ウィーン時代の生活は貧しかったわけではない。孤児年金があり、親の遺産からの収入もあった。絵葉書など水彩画・図案作成のアルバイトも生活の足しになったし、大好きなリヒァルト・ヴァーグナー(一八一三~一八八三) の歌劇や音楽会を楽しむ余裕もあった。

    それにもかかわらず、ホームレスの一時収容所のような場に身を潜めたのは、徴兵検査・兵役を逃れるためだ。  アドルフは、生まれ育ったハプスブルク帝国に忠誠心を抱いていなかった。  それには帝国官吏の父への反発という面もあったが、それ以上にこの帝国が雑多な民族と言語で構成される多民族国家であることが気に入らなかったのだ。たしかにドイツ人には支配民族として特権的地位が与えられていた。だがポーランド人やチェコ人など、それぞれに国民的な自覚を強め、ドイツ人と同等の権利を求めるようになった非ドイツ系諸民族の動きは、それに適切に対処できない帝国指導部の無力さもあって、帝国内のドイツ人を不安に陥れていた。  ドイツ人としてのアイデンティティを強くもつアドルフにとって、そんなハプスブルク帝国で兵役に就くことなどあり得ないことだった。一九一三年、アドルフは国境を越えてドイツ帝国南部のバイエルンの中心都市、ミュンヒェンへ移住する。そのときの動機も、徴兵を免れるためだった。

    だが実際の戦場のヒトラーは寡黙で、自ら進んで戦友をつくるタイプではなかった。仲間から変人だと思われていた。危険な前線ではなく、比較的安全な後方勤務に就いていた。たしかに職務には忠実で、何度か勲章を授かったことからうかがえるように、上官の覚えは悪くはなかった。しかし統率力が乏しいことを理由に、下士官への昇進は認められなかった。

    カール・マイヤー(一八八三~一九四五) 大尉はその責任者だった。大戦中は参謀本部付き将校として活躍し、敗戦後は軍の再建に携わりながら、第四集団司令部の宣伝・諜報部長を務めていた。ヒトラーの隠れた弁論の才能を発掘し、彼を「第一級の国民的演説家」に育て上げたのが、この人物だ。

    ヴァイマル共和国発足以来、最大の危機に見舞われたヴィルヘルム・クーノ首相は、いっさいの引き渡しを禁じ、占領軍への協力を拒否するよう命じた。このような戦術は、「消極的抵抗」と呼ばれた。経済は麻痺したが、共和国政府は紙幣の増刷で危機を乗り切ろうとしたため、空前のインフレが起きた。マルクは一ドル=四兆二〇〇〇億マルクまで下落した。中小企業や小売り商店の倒産が相次ぎ、貯蓄や年金を当てにしていた国民の生活は破壊された。  外国軍の占領にドイツの世論は激昂した。占領から四ヵ月後の五月、共和国政府の意向に逆らって武装闘争を試みた若者アルベルト・シュラゲーター(一八九四~一九二三) がフランス軍の軍法会議にかけられ処刑されると、高まる怒りは共和国政府に向かった。シュラゲーターが、ナチ党の偽装組織のメンバー(ナチ党は当時、プロイセン州で禁止されていた) であったことから、ヒトラーはこの人物を民族の大義に 斃 れた英雄として崇敬し、シュラゲーターを見殺しにした共和国政府を断罪した。

    カリスマは元来「神の賜物」を表す古代ギリシア語だ。今では何らかの特別な資質や能力をもち、それによって人びとの心を惹きつける人物を指すことが多い。弁舌にたけたヒトラーにそのような魅力があったことは間違いないだろう。だがここでカリスマとしてのヒトラーという場合、そこにはヒトラーとヒトラーに付き随う人びととの間に見られた特別な関係が含意されている。その特別な関係とは、どのようなものだろうか。

    ヒトラーがナチ党の党首となったのは、彼が優れた演説家であり、宣伝家であったからだ。集会活動に力点をおくナチ党にとって、ヒトラーのたぐいまれな観客=聴衆動員力は、ナチ党を他の急進右派勢力から際立たせると同時に、ヒトラーをカリスマと感じる人びとに根拠と確信を与えた。ナチ党はヒトラーの人格と分かちがたく結びつき、ヒトラーを前面に押し出して運動を展開した。ナチ党は自らを「ヒトラー運動」と称したが、それはナチ党がカリスマ=ヒトラーと命運をともにする存在だったことを示している。

    ユダヤ人はつねに他民族の体内に住む寄生虫に過ぎない。(中略) まるで悪性バチルス(病原菌) が培養基を得てみるみるうちに広がっていくようなものだ。ユダヤ人の存在から生じる影響は、寄生動物のそれと似ており、ひとたびユダヤ人が現れれば、宿主は早晩死滅することになる。(上巻、第一一章「民族と人種」)

    ドイツ社会は一九世紀以来、四つの「ミリュー」に分かれていた。ミリューとは、似通った社会的背景を前提に、価値観、行動様式、政治的選好などを共有する人びとの集まり、ないしその生活空間を表す。部分社会とも訳される。

    ヒトラーが露骨な反ユダヤ主義者であり、レイシストであり、民主主義を蔑視する扇動家であったことはすでに広く知られていた。そんな人物が首相になれば、ドイツの信用は台無しになるだろうと思う者も少なくなかった。しかも、ナチ党は国会で第一党の地位にあったが、ヒトラーを首相に推す国会議員は四割もおらず、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命しなければならない必然性はどこにもなかったのだ。

     この頃、ヒンデンブルクは、先の大統領選で争ったヒトラーを強く意識するようになっていた。出馬の直前にドイツ国籍をとったような男だが、いまや強大な愛国主義的右翼運動を率いる人物を無視し続けることの不利益も感じていた。

    これほどあからさまに憲法を否定し、ヴェルサイユ条約を無視する意図を表明した首相は、これまで存在しなかった。将官たちは驚いたが、軍の利益を擁護する政治家の登場に大いに期待を寄せた。異論や反論はまったく出なかった。

     副首相のパーペン、連立与党国家人民党の党首フーゲンベルクも、自分たちが思い描く強力な「新国家」の実現に向けて、必要な政策を容易に実行できる授権法の制定に期待を寄せていた。これが保守派の権力基盤を掘り崩すヒトラーの道具になろうとは、彼らはナイーヴにも気づいていなかったのだ。  保守派の閣僚たちが授権法の制定に傾いたことは、ヒトラーにとって千載一遇のチャンスだった。授権法によって議会政治の幕引きができるうえに、国会に責任を負うことも、大統領に依存することもない強力な安定政権が手に入るのだ。

    「議事堂炎上令は 一時 のもので、過激な共産主義者が一掃されればすぐ廃止されるだろう」「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会民主主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離をおいてきた人びとの態度を変えていった。

    さらに、高名な大学教授や作家・文化人など知的エリートというべき人びとがヒトラーを礼賛する声明文や論説記事を次々と発表したことも、民意のあり方に影響を及ぼした。なかでも哲学者のマルティン・ハイデガーは三三年四月、フライブルク大学学長に就任するとただちにナチ党に入党し、大学は「国民革命」の担い手となるべきだと訴えた。法学者のカール・シュミットも、同時期にナチ党員となり、世間の注目を集めた。シュミットは、大統領内閣を法学者として支え、ヴァイマル憲法体制の形骸化をもたらした。

    革命終結宣言がだされた翌週の七月一四日、「政党新設禁止法」「国民投票法」の他、「遺伝病子孫予防法(強制断種法)」「国民の敵・国家の敵の財産没収法」などナチ・ドイツの針路を示す法律がいくつも制定された。はからずもこの日は、自由・平等・友愛の精神を謳ったフランス革命の記念日だ。ドイツがもはや西欧的理念を共有せず、むしろそれを否定する国であることがはっきりと印象づけられた。  公的な場で右手を斜め前に挙げて「ハイル・ヒトラー」(ヒトラー万歳) と叫ぶ挨拶や、公文書の末尾にも同様のフレーズを書き添える規則も、この時期に定められた。ナチ党以外の政党がなくなり、政治的信条の源泉がヒトラーへの忠誠以外になくなったというのが、その根拠だ。反対派と見られたくなければ、形だけでもそうするよりほかなかった。

    ヒトラーが新設した三つの省、啓蒙宣伝省・航空省・文部省のなかで、ゲッベルスが率いる啓蒙宣伝省(正式には「国民啓蒙と宣伝のための省」) は、ヒトラー政府をそれ以前の政府から際立たせる特別な機関となった。というのも政府宣伝のあり方がこれで大きく変わったからだ。

    啓蒙宣伝省設置の目的は、ヒトラーを新時代にふさわしい国民的指導者に祭り上げ、そのもとで進む国家と社会のナチ化が成果をあげるよう、大衆の精神面に働きかけることだ。ゲッベルスはこれを「精神的総動員」と呼び、ラジオ・新聞・出版・映画から文学・音楽・美術・舞台芸術にいたるまで、すべてのメディア・文化活動を監視統制しながら、活発なプロパガンダを展開した。

    入党制限が導入された一九三三年五月一日、党員はすでに二四九万三八九〇人を数えていた。これは当時の一八歳以上の人口の五・一パーセントに相当する。党員の九五パーセントが男性なので、一八歳以上の男性に限れば一〇人に一人がナチ党員という勘定だ。ヒトラーは全人口の一割を党員にしたいと考えていたから、これはまずまずのできだった。  入党制限の結果、党員証を得られるのは当面、ヒトラー・ユーゲントなど党の分肢組織で鍛えられた者に限られた。だが党員数は党費収入という党の主要財源に直結したため、制限は次第に緩和され、第二次世界大戦開戦前の三九年五月、ついに撤廃される。これ以降、党員数は再び鰻登りに増え、敗戦時の四五年には約八五〇万人に達した。

    ホロコーストは、ナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺を表す言葉である。  もともとは火事や惨事を意味する普通名詞として英語圏で使われていたが、一九七八年に、女優メリル・ストリープが主演をつとめた九時間半のテレビ・ドラマ「ホロコースト」が全米で反響を呼び、西ドイツでも好評を博したことから、この言葉が右記の意味で人口に 膾炙 し、今では世界中で使われるようになった。ただこの言葉には旧約聖書の「神への供物」の含意があることから、イスラエルでは好まれず、ヘブライ語で破局・破滅を意味する「ショアー」が用いられている。

    まず、最も多くのユダヤ人犠牲者が出た国はどこだろうか。  答えはポーランドだ。ポーランドはホロコーストの主な舞台となり、二九〇万人から三〇〇万人のユダヤ人が殺された。次いでソ連。両国だけで約四〇〇万人もの命が奪われた。いずれもドイツが第二次世界大戦中に勢力下においた地域のユダヤ人であり、ホロコーストが、東方に「生空間」を求めたドイツの侵略戦争と並行して行われたことがわかるだろう。

    次に、ナチ・ドイツが手を染めた残虐な蛮行はユダヤ人に対するものだけではなかった、という点もおさえておこう。  ユダヤ人の他に、心身障害者や不治の病にある患者、ロマ(「ジプシー」、ドイツでは「ツィゴイナー」と呼ばれた)、同性愛者、エホバの証人など、民族共同体の理念・規範に適合しないとみなされた人びとに対しても、徹底した迫害が行われていたのだ。

     ホロコーストを引き起こした根底には、三つの考え方があった。極端なレイシズム(人種主義)、優生思想、反ユダヤ主義である。それらは互いに重なり、関連していた。いったいどういうものだったのだろうか。

    レイシズムとは、人間を生物学的特徴や遺伝学的特性によっていくつもの種(raceドイツ語ではRasse) に区分し、それら種の間に生来的な優劣の差があるとする考え方で、そうした偏見に基づく観念、言説、行動、政策などを意味する。  ある個人や集団が、自己とは異なる文化的・宗教的背景、身体的特徴をもつ者に敵愾心や恐怖感(ゼノフォビア) を抱いたり、異質な民族集団を自己中心的な尺度で見下したりする態度(エスノセントリズム) は、時代と地域を超える普遍的な現象である。

    ヒトラーが反ユダヤ主義者になった決定的な契機は、ロシア革命(一九一七) の顚末を知り、それをユダヤ人の陰謀だととらえて納得したことだ。  実際、レーニンが率いるボリシェヴィズム(ソ連共産党) がロマノフ王朝の一族を惨殺し、私有財産を撤廃し、資本家や地主を片っ端から殺害したとの恐ろしい知らせが伝わると、その影響はドイツにも及ぶのではないかと多くの人びとが恐怖と不安に 苛まれた。

    ヒトラーはこれに反応して、ロシアの革命指導部はユダヤ人が牛耳っており、彼らが世界のユダヤ人と手を組んでドイツを混乱に陥れ、世界を支配しようとしているのだと主張した。当時、反ユダヤ主義者の間で広く流布していた偽書『シオン長老の秘密議定書』の影響をヒトラーも強く受けていた。だがヒトラーの新しさは、反ボリシェヴィズム(これを反マルクス主義、反共産主義と言い換えることもできる) を反ユダヤ主義と結びつけ、「ユダヤ=ボリシェヴィズム」という打倒すべき新たな敵の像をつくりあげたことだ。

    この状況にいち早く反応したのは、在米ユダヤ人団体だった。米国のユダヤ人指導者は、露骨な反ユダヤ主義者がドイツの首相となったことに危機感を覚え、ニューヨークで抗議集会を開くが、効果のないことがわかると、ドイツ商品不買運動を組織してヒトラーの不法ぶりを全米に訴えた。外国の評判を気にするヒトラーは、ドイツは平穏であり不法な迫害は行われていない、と無任所大臣ゲーリングに言わしめた。しかし一方で、対抗措置としてドイツ国内のユダヤ商店ボイコットキャンペーンの実施を決めた。

    全国でいっせいに行われた官製ボイコット(三三年四月一日) では、世界のメディアを意識したのであろう、歩哨が店頭に掲げた張り紙にはドイツ語だけでなく英語でもスローガンが書かれていた。「ドイツ人よ、身を守れ。ユダヤ人の店で買い物をするな」と。しかし、張り紙を無視して平然と買い物をする客も多く、ボイコットは不徹底なまま終わった。ユダヤ人排斥を支持する国民的な合意は、この時期のドイツにはまだ形成されていなかった。

     先に述べたように、当時のドイツでは、それまでナチ党と何の関係もなかった者までが党員手帳を手に入れようと躍起になり、入党手続きに殺到した。たしかに社会は一気にナチ色に染まったようにみえたが、入党の動機は一様ではなかった。  例えば、それまでユダヤ人の従業員を積極的に受け入れてきた会社の社長が、ナチ党員の不当な攻撃から会社と社員を守るため、あえてナチ党員となり、ヒトラーに忠誠を誓うというようなケースもあった。この場合、ユダヤ人の従業員を雇用し続けられるか否かは、党の出方と社長の個人的な力量で決まった。

    ヒトラーは当初、ドイツからユダヤ人を追放し、「ユダヤ人なき国」の実現を目標としていた。それにしてもなぜユダヤ人はドイツを去らねばならないのか。ユダヤ人があらゆる「悪の元凶」だというヒトラーは、何を一番恐れていたのだろうか。  ヒトラーは『我が闘争』で、マルクス主義にかぶれたユダヤ人一万数千人を早々に毒ガスで処分していれば、数百万のドイツ軍兵士の死は無駄にならなかっただろう、という主旨のいかにも下劣な文章を記している。ヒトラーは第一次世界大戦のドイツの敗因を、国内ユダヤ人の「裏切り」と、ユダヤ人の本性を見抜けなかった旧ドイツ帝国の「無能さ」に求めていたのだ。  首相として戦争への意思を固めたヒトラーにとって、同じ誤りを繰り返すことは許されない。ユダヤ人は混交によってアーリア人種を堕落させる有害な異人種であるばかりでなく、すみやかな戦争準備を妨げ、戦争になれば敵国に通じ、人心を乱し、革命騒乱を引き起こす危険な集団に他ならない。つまり「ユダヤ人なきドイツ」の実現は、ヒトラーが戦争をするために必要不可欠なことだった。

    ドイツを去るユダヤ人からできるだけ多くの財産を取り上げることも、ヒトラーには自明のことだった。なぜならユダヤ人は中世以来、アーリア人の財産を盗んで富をなしてきており、出国時にその財を本来の所有者に戻すべきだ。ヒトラーはそう考えていたからだ。ユダヤ人資産の没収を「アーリア化」と呼んだのはそのためだ。

    一方で、ユダヤ人のなかには、差別と迫害を逆手にとってユダヤ人としてのアイデンティティを強化し、世俗化の波にさらされたユダヤ教会を再生しようとする動きもあった。とくにシオニストは、ユダヤ人の国外移住を進めるヒトラー政府と利害が一致した。

    極端な反ユダヤ主義者が首相になったことで身の危険を感じたドイツのユダヤ人のなかには、ただちに国外亡命を決意した有名人も少なくなかった。理論物理学者のアルベルト・アインシュタイン(一八七九~一九五五) もそのひとりだ。アインシュタインは、ヒトラー政権が成立する半年前、一九三二年七月の国会選挙に向けて、自由を脅かすナチ党の台頭を阻むため社会民主党と共産党が統一戦線を組むよう求める緊急アピールを、当代一流の作家ハインリヒ・マン(一八七一~一九五〇)、彫刻家のケーテ・コルヴィッツ(一八六七~一九四五) らとともに公表していたのだ。

    三三年五月一〇日、ゲッベルス宣伝相は、ドイツの学術・文化・芸術の世界から「非ドイツ的要素を一掃する」と称して、アインシュタインを含む、おびただしい数のユダヤ人の著作物、共産主義や社会主義に関する本を焼き尽くすという暴挙に出た。  その日、全国二一の大学でいっせいに焚書が行われた。夜の帳がおりたベルリン・フンボルト大学のキャンパスの一角で、燃え上がる書物の山を見つめながら、ゲッベルスはマイクの前で言い放った。「これでユダヤのインテリどもはおしまいだ」と。

     事件の二日後、一一月九日にその外交官が亡くなると、ゲッベルス宣伝相はミュンヒェンのナチ党集会で、この事件の責任はユダヤ人にあるとして、国民のユダヤ人への怒りを激しく煽った。ちょうどその日は、ナチ党にとって重要なミュンヒェン一揆一五周年の記念日だった。ゲッベルスの扇動演説の後、ナチ党大管区長はそれぞれの地元に指令を発し、ユダヤ人への「報復措置」の実行を命じた。その直後、全国各地のシナゴーグ、ユダヤ人の商店・企業・事務所・学校などがいっせいに襲撃され、放火され、破壊された。ユダヤ人は住まいから外に引きずり出され、辱めを受けた。  あちこちでユダヤ人に襲いかかるナチの若者たちと、それを制止することなく遠巻きに見て見ぬふりをする傍観者。燃えさかる教会堂を前に呆然自失のユダヤ人。消防活動は禁じられ、中世から連綿と続いたドイツ・ユダヤの貴重な財産がすべて 灰燼 に帰した。  ゲッベルスはこの暴力事件をドイツ各地で起きた自然発生的な「民の怒り」と強調したが、実際は二日前からナチ党組織を通して周到に準備されていたものだった。  事件は翌日には下火になったが、場所によっては数日続いたところもあった。  ドイツにユダヤ人の居場所がないことは、これで明らかになった。

    路上に散らばったガラスの破片のきらめきからこの事件は、「帝国水晶の夜」(ライヒスクリスタルナハト) とも呼ばれた。数百名のユダヤ人(当局の発表では九一名が殺害された) が殺されるか、自ら死を選んだ。約三万人のユダヤ人男性がミュンヒェン近郊のダッハウやベルリン郊外のザクセンハウゼンなど国内の強制収容所に連行され、財産の放棄と即時出国に同意するよう強制された。

    この間、政府の反ユダヤ政策は急進化した。だが、ほとんどの人が、これに抗議の声ひとつあげなかった。いま聞くと、それも異様なことに感じられるが、人口で一パーセントにも満たない少数派であるユダヤ人の運命は、当時の大多数のドイツ人にとってさほど大きな問題ではなかったのである。

    親衛隊は、ヒトラーが望むように、アーリア人の純然たる民族共同体の実現をめざした。そしてその内部に潜む「共同体異分子」を発見し、捕え、隔離した。その標的となったのが、たとえば流浪の民とみなされた「ツィゴイナー」(ロマ)、定職につかず規律に従わないとみなされた「労働忌避者」、民族共同体の健全な発展に寄与できないとされた同性愛者、矯正不能のレッテルを貼られた「常習犯罪者」、キリスト教の一派で、絶対平和主義の信念から兵役を拒む「エホバの証人」(「聖書研究家」とも呼ばれた) などだ。  ヒムラーはドイツ警察長官として、こうした人びとを一掃するキャンペーンをたびたび実施した。街頭を徘徊する物乞い、ホームレス、非行少年など「反社会的分子」と呼ばれた人びとも「予防拘禁」され、国内の強制収容所に連行された。そこでは矯正と称して懲罰的な労働を強いられたが、断種手術を受けさせられることが多かった。

    だが驚くべきことに、このキャンペーンに関する世間の評判は、街角から怪しげな連中がいなくなって安心した、治安がよくなってよかった、と概して好評だった。

    我が闘争』の次の記述からも明らかである(訳は筆者による)。  民族主義国家は、人種を一般生活の中心に据えなければならない。それは、人種の純粋保持に努めなければならない。それは、子どもこそ最も貴重な民族の財だと宣言しなければならない。それは、ただ健康な者だけが子どもをつくるよう配慮しなければならない。もし自身に病気や欠陥がある場合、子どもをつくるのはただの恥辱であり、これを諦めることこそが栄誉である。反対に、健康な子どもを国民に差し出さないことは非難されるべきである。国家はそこで、千年続く未来の守護者として振る舞わなければならない。その未来を前にすれば、個人の願望も利己心も取るに足らないものでしかなく、犠牲にされなければならない。国家はこの認識を役立てるため、最新の医学的手段を用いなければならない。(中略) 身体的にも精神的にも不健康で、価値なき者は、その苦悩を自分の子どもの身体に伝えてはならないのだ。(下巻、第二章「国家」)

    この残虐で非人道的な政策は、人間の価値を恣意的に計り、「優秀な者」「役に立つ者」だけの社会を追求したナチ・ドイツが引き起こした国家的メガ犯罪である。

    ここで注意すべきことは、ガーレン司教の説教をきっかけとした表向きの中止(八月二四日) の後、安楽死殺害政策に携わった医師、看護師、衛生士が、ユダヤ人虐殺が始まると、ドイツ支配下のポーランドへ配置換えになったことだ。  ヒトラーは、ガーレンの抗議に応えるふりをして、殺人の専門家集団をホロコーストの専門要員として活用したのだ。安楽死殺害政策で培われた殺人技術は、スタッフの「心構え」も含めてホロコーストの現場へと引き継がれていった。  こうして、ヒトラーが望み、ドイツの人種衛生学者(優生学者) が求めた「健全な人種共同体」のヴィジョンは、ヒトラー政権のもとで強制断種政策をもたらし、やがて戦争が始まると安楽死殺害政策となってその本性を現した。そのあげく、未曾有の集団殺害=ナチ・ジェノサイドへの扉を開いたのである。

    勝ち誇ったヒトラーは、三九年一〇月六日、国会で勝利演説を行った。そこでヒトラーは英仏両国に和平を呼びかけ、東ヨーロッパの平和と安定のための新たな民族秩序の構築を宣言した。  ポーランド国家の解体により生じた目標と任務のうち、(中略) 最も重要なものは民族学的新秩序、つまり民族の移住である。これによって最終的に現在よりも適切な民族境界線が引かれねばならない。(中略) 東欧・東南欧の一部には自力でもちこたえられないドイツ民族の破片が溢れ、諸国家間の持続的な阻害要因となっている。いまや民族原理と人種思想の時代に、価値ある民族の帰属者を安易に同化できると考えるのは幻想である。それゆえヨーロッパ紛争の火種を一部でも取り除くために移住政策を推進することは、ヨーロッパの将来につながる生秩序への任務である。ドイツとソ連はこの点で協力する。

     マイダネク絶滅収容所がつくられたのは、独ソ開戦からまだ日の浅い一九四一年七月、ルブリンを訪れたヒムラーがグロボチュニクに対し、マイダネクに五万人規模の捕虜収容所と、増え続けるポーランドやチェコの政治犯を収容する強制収容所の機能をあわせもつ大型収容所の建設を命じたことによる。  同年夏には早速、ソ連軍捕虜が収容されたが、虐待された後、大半が落命した。秋になって初めてユダヤ人がルブリンのゲットーから送られてきた。その後、ポーランド、スロヴァキアから政治犯が送られてきて、マイダネクは巨大な複合収容施設となっていく。  マイダネクが絶滅収容所の機能を担うようになるのは、四二年一〇月からだ。ラインハルト作戦と連動してユダヤ人に対する殺害政策が始まった。殺害には固定式のガス室、一酸化炭素ガスと青酸ガス(チクロンB) が使用された。マイダネクで殺害されたユダヤ人は約一二万五〇〇〇人。そしてその三倍近い人間が戦争捕虜、政治犯として絶命した。

     ユダヤ人の追放に関して、ドイツ社会にはそれを阻止しないほどの合意があった。しかし、追放から殺害への転換を支持する合意は存在しなかった。だからこそヒトラーは、ホロコーストの始まりを国民にあかさなかったのだ。  一方で、ホロコーストの情報を得ていた連合軍が、アウシュヴィッツ・ビルケナウの絶滅収容所やそこへ続く線路を爆撃していたら、どうなっていただろう。ホロコーストは一時的にスローダウンしただろうが、きっと別の方法で続けられたに違いない。

    第二次世界大戦は、ヒトラーにとって、独ソ戦を始めた頃から「ユダヤ人との戦争」という性格を帯びるようになった。もともと東欧にアーリア人種が発展するための「生空間」を求めたヒトラーは、この戦争を「国家間の戦争」としてよりも、「人種間の戦争」として捉えていた。それは、国家より民族、民族より人種を重視するナチズムの思想が戦時下でたどり着いた必然的な帰結だった。  ヒトラーは、ユダヤ人を宗教の違いではなく人種として捉えていた反ユダヤ主義者だ。  そしてドイツを苦しめているのは、ユダヤ人だと信じて疑わなかった。ドイツの行く手を阻むものもユダヤ人だ。ユダヤ人は国内だけでなく、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスなど全世界にいる。ヒトラー政権の発足時に、在米ユダヤ人団体がヒトラーを厳しく非難したときに、ヒトラーはそのことを確信した。

    ユダヤ人は国家をもたないかわりに、よその国家に寄生し、国境を越えてつながっている。そのネットワークを駆使して、ユダヤ人は世界支配を企んでいる。ドイツがいまや反ユダヤ主義を国是として、ユダヤ人の陰謀に立ち向かっている以上、世界のユダヤ人はいずれ連携して諸国家を動かし、ドイツを絶滅しようと戦争を仕掛けてくるだろう。こうした恐ろしい妄想をヒトラーは抱いていた。先に述べた「予言者演説」は、こうした思い込みの産物だ。

    ヒトラーは自殺する約二ヵ月前の二月一三日、側近中の側近で、ナチ党官房長のマルティン・ボアマン(一九〇〇~一九四五) に自分の言葉を遺言として書き取らせた。そこには次のように記されている。 「ユダヤという腫瘍は私が切り取った──他の腫瘍のように。未来は我らに永遠の感謝を忘れないであろう」

    ドイツ現代史に関心をもって勉強を始めたのが一九七〇年代末でしたから、かれこれ三分の一世紀以上これに携わってきたことになります。よくもこんなに長いこと、と自分でも思うことがあります。でも、ドイツ現代史はどんなに研究しても興味が尽きることはありません。  その理由は、それが非常に変化に富んだ歴史だからだと思います。実際、ドイツは二〇世紀をとおして何度も体制変動を経験しました。その背景には二度の世界大戦の敗北と冷戦がありました。

     本書でも述べたとおり、一九一八年に帝政が共和制へ移行し、やがてヒトラーの独裁体制が成立します。そのドイツが第二次世界大戦に敗れたため、連合軍の占領下におかれ、そこから東西ふたつのドイツが誕生しました。その後、西は議会制民主主義、東は社会主義独裁という別々の道を歩みます。そして、東の独裁体制が崩壊し、西の主導でふたつのドイツがひとつになったのが、一九九〇年のドイツ統一でした。

    とくにヒトラーのようなレイシストが巨大な大衆運動のリーダーとなって首相にまで上りつめた経緯や、ヴァイマル共和国の議会制民主主義が葬り去られ、独裁体制が樹立された過程、さらにナチ時代のユダヤ人の追放政策が未曾有の国家的メガ犯罪=ユダヤ人大虐殺(ホロコースト) へ帰着した展開は、ドイツ現代史・歴史学の枠をはるかに越えて、二一世紀を生きる私たちが一度は見つめるべき歴史的事象であるように思います。
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    投稿日:2024.06.04

  • ひびぬ

    ひびぬ

    このレビューはネタバレを含みます

    「わからない」ことがわかった。

    『暗幕のゲルニカ』を読んで、なんでこんな悲惨な状況になってしまったんだ?ナチス、ヒトラーって何だ?と、その歴史や背景に興味を持ったことがきっかけでこの本を読んでみた。

    どのようにしてヒトラーが独裁政権を取ったのか、どのようにしてユダヤ人迫害が行われたのか、順を追って細かく書かれていた。
    実際に起こったことが羅列されていると、なんだか自然の流れでそうなってしまったのかなと思ってしまう。
    反ナチス側の人たちの動きなどは書ききれなかったと著者が“おわりに”に書いていたように、反対側の人たちの動きも知りたくなった。
    映画でよく観るのは反対側の人たちだからそういう意味ではなんとなく知識として蓄積されているのかもしれないけど…
    ヒトラー政権の支持率を見ると圧倒的で、極端な政策を打つ政権が支持されてしまうほど当時のドイツは不安定で、なんでもいいから圧倒的に引っ張っていってくれる力にすがるしかなかったのかなぁ、と想像した。
    支配の諸形態である「合法的支配」と「伝説的支配」が不足したり、危機のなかでカリスマは生じやすい、らしい。

    ヒトラーの独裁であっても、それが組織の力や意志となると、国民への影響力は大きいものなんだろうな。
    たくさんのありえない法律が成立していって、この法律に則っているから“合法”という理由づけをして国民に示され、プロバガンダの影響もあった。第二次世界大戦後の国民アンケートではヒトラー政権前半を「あのときは良かった」と評価する人が少なくなかったとのこと。

    第一次世界大戦と第二次世界大戦、どちらも敗戦国となったドイツ(この事実、あんまり気にしたこと無かった!)だから起こったことなのかもしれない。
    でも、他国事じゃないんだよね。数十年しか生きていないわたしでさえ、時代の移り変わりの速さに驚いているこの頃。なんかうっすらと漠然とした不安が漂うこの頃。
    歴史から学べることは学びたい。

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    投稿日:2024.02.01

  • shiroyagie

    shiroyagie

    ”ヒトラーやナチスのことについて、ネットなどで、あることないことあれこれ書かれているが、それらを適切に評価するためには、この本を読むのがよい”という触れ込みを見たのをきっかけに、読んでみました。非常に読みやすく、流れがつかみやすい書き方でした。ためになりました。今後、このテーマについて気になったら、まずこの本をひもといてみようかと思います。【2023年9月27日読了】続きを読む

    投稿日:2023.11.12

  • tonari0701

    tonari0701

    ヒトラーとユダヤ人迫害について詳しく知りたくて読んだが、めちゃくちゃ分かりやすい。
    ヒトラーのやったことは確かに恐ろしいのだが、ユダヤ人への迫害、強制連行について、多くのドイツ人がどうでも良いと思っていたということがより恐ろしかった。ヒトラーのような独裁者、悪政を止めることができるのは市民であり、市民の責任も重いだろう。日本もどんどんと民主主義が後退していくのを日々感じるが、市民が声を上げていかなければいけないのだと自戒の思いを強くした。続きを読む

    投稿日:2023.07.08

  • arno

    arno

    たいへん読みやすいながら、情報量も適度でナチ政権成立過程がとても分かり易い。
    この手の本の中ではイチオシにしたい。

    投稿日:2023.03.13

  • ひ

    このレビューはネタバレを含みます

    すごく面白かった。知らなかったことがたくさんで勉強不足を痛感した
    ヒトラーはそれこそ最初からカリスマ的な存在だったと思っていたので、失敗して、そこから這い上がった人生はドラマ性があった
    ドイツ人にほとんど賛成されて首相になったのではなく政治の企みが含まれて最悪な結果を生んでしまったのはなんだかなあ

    自分と関係ない、むしろ普段疎んでいる人たちがいなくなることで自分たちに利益が生じるから起きている出来事には目を瞑る、これは現代にも通じるところがあると感じたし遠くの出来事ではなくてありうることでもあると思った。

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    投稿日:2022.11.15

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