【感想】善と悪の経済学―ギルガメシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠

トーマス・セドラチェク, 村井章子 / 東洋経済新報社
(21件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • ∴ Tribe Cälled J ä y-∵

    ∴ Tribe Cälled J ä y-∵

    宗教や歴史を軸にした経済学本だが、映画からの引用もある。バーナード・マンデヴィルを知れたのは良かった。
    ラディスラフ・ベイダーネクはググっても出てこなかった。
    まぁいつの時代でも裕福の飢餓なんでしょ。物は溢れているけど心は満たされない的な。続きを読む

    投稿日:2023.07.17

  • kinotoushi

    kinotoushi

    読み終わるまでかなりの時間を要した。図書館で2回借りてようやく読み終わったよ。何しろ例えで使われている書籍の大半を読んだことがないから逐一頭の中で整理しつつ読んでたら思ってたより時間がかかった。そういう意味では古今の西洋に伝わる幾つかの物語を知るのに良い本と言える。

    ギルガメッシュ叙事詩に始まり、旧約聖書、古代ギリシャ、キリスト教を経て、哲学者、詩人、物理学者など様々な偉人たちが語ってきたことを考察しながら、現代に繋がる人間の欲望と善悪と自然について縦横無尽に話が展開されていく。正直一度読んだだけでは半分も理解できないので、いっそのこと電子書籍で購入して改めて読もうかなと思っている。

    足るを知ること。幸福を追いかけ続けていたら永遠に幸福にはなれない。これからどうやって自分の欲と折り合いをつけるかを考える良い一冊になった。
    続きを読む

    投稿日:2021.08.02

  • ナオキスト

    ナオキスト

    経済を歴史や倫理、哲学等の観点から深堀りした読み応えのある良書。
    現代の数式やお堅い専門用語を並べがちな主流の経済学へ一石を投じる内容になっている。

    文章の大半は偉人や古典文学からの引用で構成されており、現代の通説は過去の原則で成立している事を理解させてくれる。

    知性は情動の奴隷であり、「見えざる手」は人間の情動で成立している。
    人の強欲さが現代の継続したGDP上昇の源泉となっている。

    様々な観点から経済学を捉えてみたい。
    そのためには一見関係なさそうに思える歴史や心理学にも目を向けてみよう。
    そんな気持ちになれた、良い読書体験だった。
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    投稿日:2021.04.19

  • mktr

    mktr

    経済の歴史をギルガメシュ叙事詩や聖書から紐解き、現在の成長一辺倒な主流派経済学に警鐘を鳴らす。経済学は元は哲学や倫理の一領域だったが、科学を指向するあまりいつしかその源流を忘れてしまった。多くの引用を交えつつ一から説明してくれるので、経済の専門家でなくとも理解するのに支障はない。読了までに一ヶ月以上かかってしまったが、実に有意義な読書体験だった。続きを読む

    投稿日:2021.04.04

  • らつき

    らつき

    古典と経済に関する素晴らしい考察とは思うが、なにぶん西洋古典の世界なので馴染みがなく、とっつきづらい…時間があるときに再挑戦したい

    投稿日:2020.08.19

  • Daijyu Henri Takeishi

    Daijyu Henri Takeishi

    このレビューはネタバレを含みます

    ヘブライ人の善をなす理由をそれ自体におこうとする思想、これは神という彼岸に現象の理、因果性、意図を求めようとすることによる悩み、矛盾を解決しようという試みが始まり。彼らの悩みは、問の置き方の掛け違いに過ぎぬのではないか?
    ギルガメシュは現象の理不尽さを見て、それが善か悪かといった倫理問題に発展することはない。神は気まぐれであり、洪水の理由は悪行ではない。現象に善悪上の因果性を求めるという奇妙さ。そこに悪行があったのではと勘ぐる陰湿さ、弱者の理論。
    この一見した倫理上の矛盾への悩みが倫理を超越した理論へつながる。例えばルカによる福音書を見よ。敗北者の恨み、妬みが結晶化している。彼らがアブラハムは言う。現世で富んでいたから死後に苦しみ、現世で乏しいせいで死後に祝福されると。もはや倫理を超越する。
    つまりはこうだ。ギルガメシュやエジプト人はにとって支配者は半神、あるいは神そのものである。つまり倫理と力に矛盾や分裂がない状態が支配的安定状態だ。しかし、ユダヤ人はその一致がない民族で、理不尽な現世を妥当させるかを悩み、新たな発明をした民族だった。その一つが法への愛。

    クセノポンの言葉は示唆に富む。アダム・スミスとの対比は、佐伯啓思より面白い。

    p188."心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。"。心の貧しい人に、それで良いのだと教えたところ、大いに広まった宗教がある。なぜ、天国は心の豊かな人たちの国ではないのか?堕ちた人たちの国なのか?

    # キリスト教徒の救いとは借金帳消を意味していた

    彼らの弱さは貧しさでもあった。キリスト教ほど経済、お金、財のことがたくさん書いてある書物も珍しい。そもそも罪とは原意では負債である。赦しとは債務の帳消しであり、破産は奴隷になることを意味していた。現実の問題として、彼ら初期のキリスト教徒にとって借金が最大の問題だった。
    対して、ギルガメシュにも、指輪物語にも、お金のことは出てこず、手に入れたければ、冒険や旅をして、足(意欲、胆力…)と力で手に入れている。キリスト教は、足も力もなく、何も手に入れることができない人に向けた慰めなのだ。

    # キリスト教の現世観
    p199.
    両方の頬をつきだすのは、パレート最適。報復合戦に陥るのは囚人のジレンマ。
    このパレート最適を実現するために、悪と善の判断を停止すること、さらに効用を現世に求めることの否定を説いた。悪は単なる現象であり、その理不尽さを嘆かずにとにかく、隣人を愛せと解く。善悪の理由の探索の停止と忘却。つまり、善行が報われるのは天国でのみで、現世ではない。
    p203. この副作用は、現世は良くなるべきものではなく、脇役に過ぎなくなった。天国での救いの、前段階であり、現世と距離を起き、現世に否定的な姿勢へとつながる。この世では救われないのだから。ヘブライ人の現世での効用の考えを捨てた。

    # 祝福としての労働、呪いとしてのも労働
    労働が苦しいものになったのはキリスト教の価値観で、りんごを食べて楽園を追放されてからだ。

    #デカルト
    世界の根源に数学的な規則を見た、またはそれ以外を棄却したのはピタゴラス。ホモ エコノミクスのルーツはエピクロス。そしてこれらを焼き直して数学的、機械論を世界の規則においたのはデカルト。結果、
    1. 客観、再現性、再観察性を重視し、伝統、神話を世界記述から排除。
    2. 精神と物質の二元論の復活。しかも、精神とは知を主体とした概念に更新。これによって、知的な世界が、物質的現象と対等かそれ以上になり、知的活動のモデルが経験的事実との直接的関係なしに構築可能になった。
    3. 数学的に説明可能な機械論を世界説明の方法と価値の中心においた。数学的機械論。ヘブライ人の倫理、キリスト教の慈愛に相当。

    人間存在論が機械論で説明可能な世界に萎縮し、数学的機械論の説明可能な世界に限定される。人間は土の像。これが心理学、さらに人間行動原理に及ぶと、ホモ・エコノミクスとなる。

    #経験主義の否定とデカルトの合理主義

    世界を説明するに相応しい手段は、単なる経験による理論ではなく理性的考察のよって得られる、数学的原理とその機構で説明されると観る。

    #合理主義の非合理性
    感覚と理性が矛盾する場合は、理性が正しく世界を理解する、とする。このため、デカルト的アプローチの学問は世界の現象と矛盾する。"信じるのが容易か、状況に適しているか、説得力があるか、世界の仕組みに関する人間の内在的な信念、すなわち借用または継承してきたパラダイム、、、偏見と一致するか、ということが決め手となる。"

    つまり、トーマス・クーンのパラダイム論を思い出してほしい。通常科学という発想自体、科学が、社会的受容具合に依存し、科学と社会受容の相互関係でら何が通常かが決まることを示唆している。

    この曖昧性は、数学依存による。数学的に表現できないことを棄却した世界では、現象に対しての解釈や意味論が意識されなくなる。体系への意味論が熟慮されないまま体型が自己成長じ、自己規定的になればなるほど、革命に危険にさらされる。また、超越的になり、体験される現象との関係が希薄になる。このような自体に対し、フッサール曰く、彼は客観主義ではなく、結果、超越論的な主観主義だ、と表現した。

    # ホモ・エコノミクスのトートロジー
    コリンズ経済学辞典によると、効用とは"財やサービスの消費から得られる満足または快楽のこと"。しかしこれでは、何かしたいことをする、と言っているだけで、効用を直接定義していない。満足とは、財やサービスの消費によって得られる効用、と言っても差し支えない。これは循環定義、いわゆるトートロジー。トートロジーはその定義域が無限であっても、何も定義していないので、成立する。何も定義していないのだから。反証可能性が理論の価値。

    # 見えざる手のトートロジー

    p368, c11-.
    見えざる手とは何か。市場や社会集団を、集団としての行動の結果を生む、何らかの法則か作用因郡。つまり何らかの経済的作用のうちの何か、くらいの定義だ。この何か、に効用を生む作用であるという信頼を持つに至って、それを数学的合理性に押し込んだのが経済学の議論。
    私悪も公益を生む、という考え。そのうち、全てこの見えざる手にゆだねていいという考え方が自由放任主義。その逆が計画経済。

    # 数学

    p415.
    "数学的思考は、私達が現に住んでいる物理的な世界のある部分が、人間の作り出した抽象的な数式にある程度従って振る舞い始める、少なくてもそういう印象を与える、という奇跡的な性質を備えている。"

    だた数学も不変ではない。ラッセルのバラドックスのように、定義を変えてつじつまをあわせることもある。

    キルケゴール曰く"論理的な系は可能である。実存的な系は不可能である。"
    ゲーデル曰く、"自然数論を含む形式的内径が、無矛盾であれば、その体系内に真とも偽とも言えない命題が存在する。"つまり無矛盾性と完全性は両立しない。
    数学はトートロジーだ。ウィトゲンシュタイン曰く、論理学の命題はトートロジーである。...論理は超越論的である。...数学とは一つの論理学的方法にほかならない。...実際我々は、生活において数学の命題などまったく必要しない。
    本来、トートロジーな数学に妥当性を与えるのが意味論だ。超越論になりえない。

    例えば、ある計量経済学の論文で、分析の結果、通貨供給量以上に豪雨がインフレに影響を与えたと求められた。ある観察範囲で共起したからと言って因果性があるわけではない。数学に頼り、それが主になると、おかしな理論が氾濫するようになる。なぜなら数学のモデル自体は、その内部ではトートロジーだからだ。

    数学を多用した決定論的な考えはまだ経済学において主流なままだ。量子力学が起こった物理学とは対象的に。

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    投稿日:2019.10.28

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