【感想】ソロモンの歌 一本の木

吉田秀和 / 講談社文芸文庫
(4件のレビュー)

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  • yoshidamasakazu

    yoshidamasakazu

    吉田秀和 「 ソロモンの歌 一本の木 」

    音楽以外の批評。中原中也、吉田一穂 に対する文章は 交流による人物批評から 詩論に展開。小林秀雄、永井荷風、パウルクレー に関する文章は 作品から アプローチして それぞれの作品特性から批評している。

    対象の特性を拾うのが うまい。対象が 「何を捨てて、何を選んだか」を明確にして、特性から 対象の 根本や本質を抽出しようとしている。随筆感がなくて 起承転結がはっきりした文章なので 読みやすい

    吉田一穂 詩「海の聖母」や 著者の音楽批評や モーツァルト批評を読んでみたい

    中原中也
    *生きるとは 赤ん坊であるか、無限を相手どって腕を振るか どちらかしかない
    *中原の詩は 自分で自分を悼んでいる挽歌〜中原の子供の死が 中原の詩の核心→中原の生の意味
    *中原について 小林秀雄のような天才だけが思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できる

    小林秀雄=批評論
    *批評=対象を自分のうちにひきずりこみ〜自分の思考の糧とする→批評は個人性の表現
    *「モーツァルト」は 著者にとって啓示〜自分のできること全てを投げ入れる方法、全てを書きつくさないで たくさんのものを与える方法→模倣に近いところまで近寄って消化した
    *いろいろなものを男性的意志的に切り捨てて生き、考えてきた

    吉田一穂=詩論、芸術論
    *詩とは、自分の内外にある虚無に向かって 火を放つもの。詩は もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である
    *上手と現代は 矛盾しあい、同居しえない〜音楽で 現在 大切な仕事をしているのは、その上手な人たちではない

    ソロモンの歌
    「かって起こったこと、それはこれから起こることと同じ」
    *芸術家は 理論を習うより前に〜根本的な体験をしている
    *そのあとに ある芸術作品に触発され〜手本とし 理論を学びながら、最初の試みにとりかかる

    パウルクレー=絵画論
    *文学的モティーフ〜イラストレートしたのではない〜絵画的に形成し、詩的思想と合致した
    *絵は だんだん生まれてくるもの〜時間の働きを含む〜画面のはじめは 対象を持っていない
    *始まりは無対象、非抽象→有機的に成長する
    *絵が まずどこから始まったかを決めるのは 中心的課題
    *芸術は 見えるものを再現するのでなく、見えるようにする行為

    永井荷風=文明批評
    *荷風は 感覚、感情のところで 西欧を愛した→日本の近代化に絶望→日本を江戸に求めた
    *芸術と環境、社会と伝統の調和を見た〜芸術は社会から隔絶したものではない、社会は芸術なしには完全でない
    *荷風が西洋体験でつかんだのは、個人主義であり、個人主義を原理とする社会と芸術の相互関係
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    投稿日:2019.06.09

  • kemtarou

    kemtarou

    音楽評論家の吉田秀和氏のエッセイ集。標題の2作を含む全12作からなる。音楽、美術、文学への深い造詣が全編を通じて感じられる。鋭い感受性から発露される思考手法には、氏の原体験に裏打ちされたものを感じる。訪欧した経験から、日本に対して抱く感慨や物足りなさには共感を覚える。続きを読む

    投稿日:2018.02.09

  • tiquoi

    tiquoi

    新聞書評で薦められており、読んだ。冒頭の中原中也のくだりは面白かったが、どうも今の気分にはフィットせず。

    投稿日:2017.12.22

  • abraxas

    abraxas

    明晰にして温雅。吉田秀和の文章を読んで受ける印象である。日本における音楽批評というジャンルを確立した吉田であるが、文学、美術にもその造詣は深い。その吉田の批評の核となる「自分」を創り上げてきた幼児期の記憶から、中原中也、吉田一穂という二人の先輩詩人との出会い等、すでに発表された単行本の中から音楽はもとより文学や美術を語った、これはという文章を選んで編まれた随想集である。

    「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である」というのは、小林秀雄の有名な文句であるが、その小林に近い位置にいて強い影響を受けながら、吉田秀和の批評は小林のそれとは対極に位置するように思える。小林の手にかかると、モオツァルトもゴッホもランボオも、すべて小林秀雄色に染まって見えてくる。それに比べ、吉田が読み解くセザンヌやマティス、クレーはそれぞれ異なった相貌を持った芸術として見る者に迫ってくる。ただ、そこに響いている声音は紛れもない吉田秀和のものなのだが。

    それは二人の詩人、中原中也と吉田一穂の思い出を語った文章からもはっきりと分かる。どちらも詩人の中の詩人である。円のように完璧な詩を書きながら、純粋であるために夭折してしまう中原。一方、日本語による詩を突きつめることで、真っ白い原稿用紙を前に一字も書く事のできない一穂。若き吉田は真っ白な紙になって天才詩人の色を吸いとってしまう。遠い日の記憶を探り、そこに染みついた色を、親しげにしかし、近くにいた者だけが知る事のできる真正な詩人の姿を語るのは批評家である吉田だ。

    あまり近くにいると、とかく身贔屓や甘え、あるいは逆に近親憎悪的な感情が生まれたりすることが多いものだが、吉田に限ってそれはない。この気持ちのよい透明性のようなものは、どこから来るのかと考えて、それが、彼が学んだ西洋の芸術・文化からであることに気がついた。ギリシア以来の西洋の知をわれわれ日本人は明治以来必死になって模倣し採り入れようとしてきた。しかし、それがどれほど成功したかは疑問である。

    近頃の日本人の野卑な口吻からは、われわれが西洋から何も学んでこなかったことが嫌でも分かる。相撲の寄せ太鼓の記憶に始まる自分の生い立ちから西洋音楽受容についての考察に移る表題作「ソロモンの歌」。西洋をよく理解したことがかえって日本及び日本人に対する絶望を呼んでしまった荷風に託して、日本人というものを考えた「荷風を読んで」。この二篇を読めば、吉田秀和という批評家の中にある開かれた明るさのようなものがなぜ可能であったかが分かるだろう。

    「私は、荷風が西洋体験でつかんだものは、個人主義であり、その個人主義を原理とする社会と芸術の相互関係だといった。近代の芸術は(中略)すべての面で、個人の自由ということと切り離せない」(「荷風を読んで」)。確立した個人の自由があればこそ、個性や独創というものが尊ばれる。知っての通り日本人は模倣によって国を創り上げてきた。そうせねばならぬ理由があってのことでそのことについて今是非は問うまい。要は模倣の是非ではなく仕方にある。

    「日本人の最大の特徴は、外国の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない」(「荷風を読んで」)。昭和45年に上梓された『ソロモンの歌』所収の文章が、いっこうに古びていないどころか、ますますその重みを増して感じられるように思うのは、ひとり吾人だけではあるまい。
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    投稿日:2013.03.08

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