【感想】街場の読書論

内田樹 / 太田出版
(81件のレビュー)

総合評価:

平均 4.0
18
35
10
1
1

ブクログレビュー

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  • masaniro2

    masaniro2

    なぜこのように読みやすいと感じるのか。
    (実際はどうか、は置いておいて。)

    おそらく、充分に推敲が為されている、からではないかと考えた。
    コンテンツが特別素晴らしい、ということではないのだろう。

    投稿日:2024.01.11

  • 頼む

    頼む

    感想が長くなりすぎないように、最も印象的だった記事をひとつだけ取り上げる。その名も「日本語壊滅」。2007年5月のブログを元にしている。

    携帯メールのコミュニケーションでは、早く返信することを重視するため、丁寧な言い回しや配慮表現が絵文字や記号に取って代わられ、語彙力の低下や「短文化」が加速しているという。
    ある研究によると、「メール送受信の回数が多い学生ほど日本語テストの点数が低いという結果が出た」そうだ。

    このブログから15年。今や、メールは長すぎるツールであり、LINEやTwitterが主流、いや、もはや写真や動画がメインで言葉は「添える」だけのものになっている。いずれ、「複文以上の論理階層をもつ文章を書くことができない」人間だらけになるのではないか。
    というか、もう、そうなっている。新入社員の書く文書は、すでに論理構成が滅茶苦茶で、いつ単文を使い、いつ複文を使うべきかすらわかっていないように感じる。
    文章だけの問題なら良い。だけど、文章で論理を構成できないということは、脳内の論理構成力をも示している。だから、話していてもちんぷんかんぷんである。どうでも良いことばかり繰り返し言うが、大事なことは最後まで言ってくれないのだ。

    どうしたら良いのだろう。
    あんまり説教くさい人だと思われると、もうそこから僕の言葉は届かなくなるしなあ。
    メッセージの宛先はあなたです、と、なんとかして届けなきゃ。
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    投稿日:2023.07.22

  • tokyobay

    tokyobay

    「書物」「書くこと」についてのブログ記事をメインとしたエッセイ集で読書論とはちょっと違う内容。多少思想・哲学的なテイストはあるが全体的には軽めな印象。あとがきで述べているように著者が関心を持っている主題は「言葉が伝わるというは、どういうことか」にあり、その答えは「『自分宛てだ』と思ってもらうこと」となっている。つまり「問題はコンテンツではなく宛名」であると。この問いは興味深い点があり、仮に著者の意見に同意するとしても、ではどうすれば『自分宛てだ』と思ってもらえるのか。その答えはは本書には明確には書かれておらず『町場の文体論』を読めとの事。なんだか次作の宣伝に誘導されているような感じで後味は悪いが、そうやって多くの読者が読まされるんだろうな。続きを読む

    投稿日:2022.05.04

  • やまたく

    やまたく

    街場の読書論

    知の巨人・内田老師のレビューから始まり、後半は教育論・著作権論に繋がる。

    私の本棚は面白かった。内田少年が大人になるまでにどんな読みものを読んできたのか、小説を通じて、未知の人の身体を通じて世界を経験することに深い愉悦を感じる。自分が生身の身体で世界を享受するものとは違う仕方で私より深く、貪欲に世界を享受してる身体に同調する時、小説を読む愉悦がある。本を読んでいるうちに腹が減るとかビールが飲みたくなるタイプの文章は、文章としての出来が良いと言える。無論、読んでいるうちにその本が読みたくなるレビューというものもそうなのだろう。チャンドラーの『長いお別れ』を読んで高校生の時にギムレットを知った内田老師は高校生にして「夕方5時のロサンゼルスの開いたばかりの涼しいバーカウンターで、一日最初のギムレットを呑む」時の愉悦を先駆的に体験し、そして大人になって初めてギムレットを呑んだ時に、その美味のうちの75%はフィリップ・マーロウからの贈り物として体験したのである。
     私も村上春樹の『1973年のピンボール』や『風の歌を聴け』を読んだ時の先駆的に体験した芦屋の浜辺の夜風やジェイズバーまでの陰鬱な雰囲気を、後になって体験したときに、その愉悦の大半は村上春樹からの贈り物であると思った。受動的な活動―例えば映画とか読書とか―で先駆的に体験した感動をストックしていくと、いざ自分がその場に行って体験した時に、レバレッジをかけたように愉悦が倍増するというのは、インドアとアウトドアの活動の架橋になると思う。

     池谷さんの講演から、脳は「出力」を基準にしてそのパフォーマンスが変化するという教訓を得たという話は大きく頷けた。池谷さんは脳科学者で、実際に実験によってこの知見を得たのであるが、何百冊の本を読んで何も発信しない人よりも、たった数冊を使い込んで積極的に発信する人の方が、脳のパフォーマンスとしては良いのである。インプットとアウトプットの関係である。アウトプットを基準にして脳のパフォーマンスは向上する。私がこうしてブクログに感想をしたためているのは、アウトプットを残すことで、インプット過多にならないようにするためでもある。また、その後の章で、論文を書くときには「序文」を二度書くということを話している。これは、最初に序文を書いた時と、最後に書き直した時のその変化が、その論文を書いたことによる自分自身の変化を定点的に教示してくれるマイルストーンであるからである。むしろ、最初に書いた序文と、最後に書いた序文が違わない時、その研究には意味がなかったとさえいえる。これは阿部謹也先生が上原専禄先生に言われた「学ぶとは自分が変わること」ということに通じている。自分が変化し、同じ事象について別の視座から捉えられることができること、それが即ち学ぶことなのである。レビューを書いて、その数年後にもう一度その本を読んだ時に、その数年分の変化を自分が楽しめるというところもブクログの面白さである。
    なお、内田老師は圧倒的にブログを更新することによって、アウトプットを行う。そのアウトプットの膨大さが、逆説的に内田老師の知の果てしなさを担保しているのだろう。

    字数を減らして簡便に、快刀乱麻を断つの如く説明することと、わかりやすさは異なる。
    つまり、わかりやすく説明しようとすればするほど、それなりに論理や比喩を使い、時には「ここは難しいですよ」というようなメタメッセージを送りつつ螺旋状に文章を深堀する必要がある。内田老師の話は、複雑な話を説明する時、その複雑さを保存しつつ、我々に近い複雑さに還元して説明する。人類学をサッカーに例えたり、それが解り易さというのであろう。
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    投稿日:2020.04.25

  • asa0804

    asa0804

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    投稿日:2018.12.11

  • nime1381

    nime1381

    この本を読んでいるとあたかも内田樹さんが目の前に座ってらっしゃって自分に語りかけているような、実際に講義を受けているかのような錯覚をしてしまう。著者との距離が近いように感じる。耳元で彼の声が聞こえてくるような、文字列には収まりきらない何かが伝わってくるような本だった。この本をよむにあたって、ある程度の(前のめりになって話を聞くような)知的好奇心やある程度の日本語の運用能力が要されていることは確かだが、それでもこの本は外に開かれた(この表現が適切なのかどうかわからないが)、どんな読者も見下すことのない親切な本だと感じた。今までにも気になった本を手にっとて実際に読んでみるものの、読み始めて直ぐ自分は筆者の想定した読者には含まれていないんだなぁ、という感がする。それがこの本には無かった(筆者自身も文中で言及している)。
    ここで幾つか自分がハッとさせられた、もしくは今まで消化できなかった疑問を消化する助けになったものを『街場の読書論』から抜粋する。もし以下の文章を読まれて本書の内容が気になった方は、ブログで該当記事(筆者は文章をブログに投稿されていて、全てタダで読める!!)ので、そちらで探されるか、また本書をお求めになる事をおすすめします。
    「私がものを書いているとき、書いているのは半分かた「別人」なのである。この「別人ウチダ」が憑依しているときに書いたものは、ふだんの私には再現できない。」(『街場の読書論』「おでかけの日々」p124より引用)
    言語を以って説明できなくても、体験的にこれを知っているかたは多いのではないでしょうか。自分だけではできなかった筈のことがなぜかできてしまった。それを内田さんは「別人ウチダ」と表現されたのかもしれない。以前通っていた中学の国語の教師はそれを「コビトさん」と呼んでいた。その先生は本書の筆者に私淑されていて、課題プリントとして筆者の文章を読むことも多かった(すごく楽しかったです)。まぁとにかく大事なのは「それ」をどう呼ぶかでなく、「それ」(僕は国語の先生に倣い「コビトさん」と読んでいる)に対して敬意を払うことである(と思う)。つまり、自分が成したことの全てを自分の手柄だと考えるのはどうなの?ってことかと。「コビトさん」(以下「コビトさん」)にも休みは必要だし。不調に陥ることもあるだろう。知性が全て自分のコントロール下にあると考え、「コビトさん」への配慮を忘れていると、次第に今までできていた「できなかったことができる」ができなくなり、自分の力量でのみできることに限定されてしまうんじゃないかな(随分とややこしい言い方になってしまいました)。そういう自分の知性に対するリスペクトってのが結局自分の為にも、そして「コビトさん」の為にもいいんじゃないのかな。自分の知性なんてままならないものなんだ、そう認識しておくほうが良いかもしれませんね。
    「幾つか抜粋」なんて言っておきながら、結局一つしか引用しませんでした。やっぱり自分が読んだ内容を自分なりに解釈して言語化する、このプロセスって頭使うものなんですね。疲れちゃいましたよ(楽しかったけど)。でもやっぱりこの「楽しい」って感覚がないとこういう風にものを自分なりに深く螺旋状に(直線的に掘れるほど易しくないので)掘り下げていくことはできないんですかね。自分は楽しいからそうしているんですけど(そうしなくては、と感じることもある)。本書『街場の読書論』は色々と得るものが多く、決して読者を「見下す」ような本ではありません(すっごく親切)。読みおえた後、「また読むことになりそうだな」という確かな予感がした(長い付き合いになりそうですね)。ここまで私の拙い文章に付き合ってくれた方に「読んでみようかな」、と思っていただけたら嬉しいです。では。
             
                              
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    投稿日:2018.06.09

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