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梅田孝太, アルトゥール・ショーペンハウアー / 講談社現代新書100 (12件のレビュー)
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笹木
ショーペンハウアーの思想を筆者の意見を出来るだけ交えず簡単に説明された本 ショーペンハウアー入門に最適である
投稿日:2023.12.03
桜色の世界(sakurairoworld)
ショーペンハウアーの哲学。 筆者は特任教授を務める梅田孝太博士。 専門は哲学・倫理学、クリティカルシンキング。 ショーペンハウアーの哲学は2冊目だが、1冊目は正直あたまに入ってこなかったし上澄を舐め…ただけのようなもので自分には響かないものだった。 ショーペンハウアーと言えば幸せについてのようだが、幸せの裏側や側面には孤独があり、今回読もうと思うきっかけは孤独についてであった。 そんなきっかけで、たまたま手にした梅田孝太氏の著書だが思いのほか良かった。いや、私にはとても良かった。 いきなり哲学ではなく、ショーペンハウアーの生い立ちと人となり、人との関わりと哲学、ここから入っており哲学は少なめである。 少なめとは言え、深掘りしたいテーマや興味を持つものはショーペンハウアーの著書を読んでみたいとなるはずだから、その方向性はそれでよろしかろう。 おわりに、とある最後は、著者のあとがきだが、それがまた良かった。 少なめなな文量も良いが、それで良いんだよと背中をボンとされたようで肯定感に満たされる。 この後、ショーペンハウアーの「孤独と人生」を読むが、とても良い足がかりになったと言える。続きを読む
投稿日:2023.06.08
馬場豊
ショーペンハウアーと言えばペシミズムのイメージで、彼の肖像画からも見えるように人生に絶望してる老人のイメージだった。 実際はそこまででもなく、新しい生き方や哲学を模索し、彼自身も老後を楽しく過ごしてい…たらしい。過去に闇落ちしたアニメや漫画の主人公の老後みたいな感じでかっこいい。 ただ、「生きる意思」を必死に抑制した所で何も本質的な解決にはならないような気もした。欲望に従ってそこそこ成功するのが1番幸せそうな気もする。実際お坊さんとか金の亡者で肉食いまくってるし、、、 「生きる意思」が人間の逃れられない本能なら、それに逆らうことは苦痛を伴うんじゃないの? 作者が「おわりに」で、わたしは幸せであるということと、人生は本質的には苦しみである事は両立する事言ってて何となく納得はしたけど。続きを読む
投稿日:2023.04.07
あき(ここのか)
「意志の否定」の考え方は難しいが、 生の本質は苦しみである→欲望には限りがないから、より幸せになろうとするより、苦しみを少なくすることこそ幸せになる上で必要だ、というのは分かりやすい。 自分の考え方に…近いところもあり、ショーペンハウアーの書籍そのものにも触れてみたいと思った。続きを読む
投稿日:2023.02.14
garboflash
100ページ余りというちょうど良い長さで人生についても著書についても思想についても触れられていて、わかりやすい本でした。 「人生の本質は苦しみ」「心豊かに生きるために欲望をあきらめることで苦悩を少なく…しようという思考法」というのは非常に共感できるものでした。続きを読む
投稿日:2023.01.08
テクノグリーン
梅田孝太著『ショーペンハウアー:欲望にまみれた世界を生き抜く:今を生きる思想(講談社現代新書.現代新書100)』(講談社) 2022.9発行 2022.12.31読了 ショーペンハウアー哲学は、西…洋の伝統に根ざしながらも、その中心思想に西洋哲学史上初めて古代インド哲学や仏教思想を取り入れた哲学として有名である。 本書では、ショーペンハウアーが示した生きる苦しみとの向き合い方を、二通りの思考として示すものである。その一つが、主著『意志と表象としての世界』で提示された、徹底的な欲望の否定である。生きる苦しみの源泉である欲望の否定による悟りの境地—「意志の否定」を終着点とする、〈求道の哲学〉である。もう一つが、心穏やかに生きるためになるべく欲望を「あきらめる」ことで苦悩を少なくしようとする〈処世の哲学〉である。 〈求道の哲学〉 ショーペンハウアーによれば、わたしたちは世界そのものがどういうものかを知らず、わたしたちにとっての「表象」の世界の内にいるにすぎない。すなわち、わたしたちが目の当たりにしている世界は、見ている主観と見られている客観との分裂を抱えている「にせもの」にすぎない世界である。わたしたちが認識しているモノは、あくまでわたしたちによって認識されたかぎりでのモノでしかなく、無条件なそれ自体ではない。わたしたちの見ているものは、主観に対しての客観、「わたしの」モニターに映し出されたモノでしかない。これをショーペンハウアーは「表象」と呼ぶ。ここでいう見ている主観、すなわち「わたし」だけは客観としての性質を持っていない。「わたし」とは「意志」であり、それと連動して活動する身体のことである。意志としての「わたし」は、活動する身体として自らを表象化することで、「表象の世界」に住んでいるのである。 身体をじっと見据えてみると、意志とは決して知性に導かれた「自由意志」などではなく、「生きようとする意志」に他ならないことがわかる。身体表象として客体化した諸要求の本質がどのようなものであるかを考えたとき、「わたし」がしたいと思う全ての行動の根にあるものが、実は、目的地をもたない「生きようとする意志」なのである。欲求に目的は存在せず、わたしたちは生涯ずっと、生きよう生きようと駆り立てられ続け、決して安住の地にたどり着くことはない。自由とは、「生きようとする意志」からの解脱という境地においてはじめて実現されるのである。 「意志の否定」の境地にいたるには、「芸術」「共苦」「宗教的禁欲」の三つの方法があるが、このうち完全なる「意志の否定」に至れるのは「宗教的禁欲」だけである。「意志の否定」とは、他者もまた自らと同じく苦しんでいる「意志」なのだという認識に至った境地のことである。聖者はその境地を保つために自らに禁欲や苦行を加えるのである。 〈処世の哲学〉 一方で、ショーペンハウアーは、「意志の否定」の重要性は分かるが、それでも俗世間で生きていかなければならない者たちへの実践書というべき幸福論を提示している。ショーペンハウアーの幸福論は、「より幸せになろうとする」よりも「できるだけ苦しみを少なくする」ことに主眼を置いている。ショーペンハウアーは、人間を幸福にする「三つの財宝」として「内面的性質」「財産の多寡」「他者からの評価」をあげ、「内面的性質」に優先的価値を置く。何をどれだけ手に入れたか、人からどう思われたか、こうした外面的な事柄よりも、自らの内にもともと宿っている「富」に目を向けることが重要なのである。ショーペンハウアーが示す幸福への道のりは、何かを手に入れて欲望を満たすことではない。むしろ「意志の否定」の立場から、苦しみの源泉となっている臆見を客観的な議論によって解体し、欲望を鎮静化させる道のりである。「意志の否定」という真理に照らして、過ぎたものを求めることを「あきらめ」、より重要な幸福の種が何なのかを「あきらかに」することで、心を穏やかに生き抜く処世術なのである。 URL:https://id.ndl.go.jp/bib/032357710続きを読む
投稿日:2023.01.05
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